鎮魂(reqiem)番外編



番外編:卑怯なり!…ソ連軍侵攻。
  悲劇の満州・樺太(南サハリン)・千島列島…!


忘れまじ…旧ソ連(ロシア人)の非道・蛮行!
  語り継ぐ民族の歴史…受難の大東亜戦争と戦後。




不当にもロシア人に不法に占拠され奪われ今もロシアに実効支配
されている南樺太と千島列島です。この広大な地域と海域は当然
間違いなく我国の領土であり領海です。
昭和20年敗戦の年、卑怯なソ連が戦争に負けた日本に突然に宣戦を
布告し突然侵略戦争を仕掛けます。しかもそれは日ソ不可侵条約とい
う中立条約を破ってまで敗戦した日本から領土を掠め取ろうとする最も
人間として恥ずべき火事場泥棒と謂うべき行為でした。既に米英など
連合国に敗戦をしたのが8月15日です。旧ソ連(ロシア)の恥知らずの
最低な人間のクズ達が樺太や千島列島に侵略を開始し占領に至るの
は8月28日から9月5日でした。以来、この地図上にある千島列島の全
てと樺太は今も尚…ロシアの不法占領が続いております。現在、日本
政府は北海道の横に連なる択捉・歯舞・国後・色丹島の四島のみの返
還を戦後一貫して要求し続けています。本来は南樺太と千島列島の全
ての返還を要求するべきですが…そこまで譲歩してもロ助のクソ共は
強欲で盗み取った領土を返還しません。我々、日本人は決して奪われ
た領土を忘れる事無く…韓国が奪った竹島と共に必ず我国の固有の
領土は奪還しましょう。その日まで努々、これらの領土でクソどもに殺さ
れた民族同胞の事を…竹島の海域で朝鮮人に無残に殺された島根の
漁民が居た事を忘れてはなりません。朝鮮人の手先の日教組のバカ教
師が教えなくても日本人ならば自ら学んで知り…それをまた再び我子に
伝えて…いつの日か必ず無念のまま死んでいった日本人の想いにこた
えましょう!





昭和20年8月9日午前零時
 日ソ中立条約を破棄してソ連軍侵攻



ソ連は、昭和20年4月に日ソ中立条約(不可侵条約)の破棄を通告
してきた。中立条約の破棄は通告より一年間は有効であるが…その
4ヵ月後にソ連は4つの方面から一斉に満州に侵攻した。日本政府
は、ソ連が宣戦布告を前日までソ連を仲介に米英との和睦に一縷の
希望を抱いていた。しかし米英の要請にこたえて参戦を準備するソ連
は、昭和20年2月のヤルタ会談で参戦の見返りとして日露戦争で日
本へ割譲した南樺太の返還。千島列島をソ連領に…満州に於ける権
益復活などを約束させた。…こうして日本の敗戦6日前に火事場泥棒
的に侵攻したソ連軍の兵力は3つの軍団に分かれていた。第一極東
軍(指揮官・メレンコフ元帥)、第二極東軍(ブルガ-エ大将)、ザバイカ
ル方面軍(マリノフスキー元帥)でこれらの軍勢をワシレンスキー元帥
が総指揮を執った。兵力総勢は80個師団、40個戦車機械化旅団、
32個飛行師団という巨大なものであった。自走砲を含む戦車は、
5250輌、航空機5771機、兵力数75万人であった。…これだけの戦力
で攻められていたら…例え南方に抽出されて形骸化された関東軍が
フル装備の正規の関東軍であっても殆ど勝ち目は無かったものと想像
する。
侵攻するソ連軍戦車…!

侵攻ソ連軍の概要
部隊     規模・種別  目的地
第一極東軍  狙撃師団31個
 騎兵師団1個
 戦車機械化師団14個
*野砲・迫撃砲 10616門
 戦車・自走砲 1974輌
 東部満州
 佳木斯
 牡丹江
  吉林
 ハルピン
第二極東軍  狙撃師団11個
 戦車旅団8個
*野砲・迫撃砲 4781門
 戦車・自走砲 917輌
 北満州
 孫呉
 チチハル
  曖琿
ザバイカル方面軍  狙撃師団28個
 騎兵師団5個
 戦車師団2個
 自動車化師団2個
*野砲・迫撃砲 8990門
 自走砲・戦車 917輌
 西部満州
 満州里
 ハイラル
 チチハル
 内蒙古
 長家口
赤峰、奉天
  新京

対する日本側は関特演の70万人態勢で日米千戦に突入し南方作戦
が正面主体であるにも拘らず精鋭70万人の軍勢は満州に張り付けら
れていたが…いよいよ敗色が濃くなってくると関東軍の南方への抽出
が始まった。こうして次々と櫛が抜けるように精鋭を引き抜かれ弱体
化した関東軍は在満日本人を根こそぎ動員して数だけは24個師団、
兵力78万人を揃えたが航空機は練習機を含めて僅かに230機程度で
戦車部隊は無きに等しかった。ただ兵士だけが多い弱小軍に過ぎな
い事を良く知る関東軍は、防衛線を大連〜新京、新京〜図門の線を
結ぶ南満州とした。悲劇は、その事を北満州や西部満州に居住する
日本人民間人が教えられていない事であった!またその地域の都市
住民も開拓団も関東軍が後方へ防衛線を引いているなど思いもよらな
かった為…避難が遅れて最悪の事態を招いてしまった。関東軍はソ満
国境より大部隊を撤収させていたが堅固な要塞には尚、小部隊を配
置して守りを固めていた。東部満州では虎頭、三岔口がそれにあたり
、虎頭の要塞は正面8km、縦深6kmの陣地で要所をコンクリートで
固めた地下施設を擁して1200名の守備隊が配置され当時、民間人が
軍人軍属の家族や満鉄社員、開拓団家族など含めて190名程が存在
した。この要塞陣地に押し寄せたソ連軍は約4万名…守備隊は果敢に
抵抗して最後の陣地が玉砕したのは8月26日であった。生き残りは約
100名程であった。三岔口には郭亮、勾玉、勝鬨3つの陣地があったが
ソ連軍侵攻と共に同時に郭亮、勾玉の両陣地が攻撃され初日で決着
が着いた。居合わせた民間人約80名は自決、守備隊660名は22日ま
で抵抗を続けた。逃げ出せた者は40名程であった。ソ連軍はこれらの
陣地に8個師団、6個戦車旅団を投入した。勝鬨陣地では2日に渡り
500機の爆撃機が爆弾を投下し30cm榴弾砲40門が砲撃を続けたが
約1000名の守備隊は地下陣地に潜り時折、挺身斬り込み隊を繰り出
して抵抗を続け8月26日の停戦まで抗戦した。関東軍参謀がソ連軍士
官とともに停戦命令を伝えたからで…これだけの砲爆撃を加えられて
も戦死者は僅かに150名であった。後方に取り残された日本軍の奮戦
は実に壮絶なものがあり…東部満州の牡丹江は都市爆撃を受けてい
たがこの周辺を固めていた第124、126、135師団の3個師団は、正面
からの正攻法では勝ち目が無いので各師団は挺身攻撃を繰り返した。
幹部候補生主体の1680名からなる部隊は、掖河東方20kmの地点で
ソ連軍戦車部隊を迎撃して殆どが爆弾を抱いて体当たりして戦車諸共
爆破して約40輌の戦車を撃破した。生き残りし兵は僅かに100名程で
あった。また牡丹江の第2防御線を担当した第126、135師団も押し寄
せるソ連軍に肉弾戦で応じてその壮烈無比な闘いぶりは、ソ連軍の主
攻撃目標を牡丹江より吉林に変更させた程であった。この為、牡丹江
の日本人を含む約6万人の市民はソ連軍地上部隊の攻撃を免れたの
である。北満州に於いての戦闘も果敢なものがあり曖琿のソ連軍の河
川上陸地点では、独立混成第135旅団が孤軍奮闘で上陸を阻止すべく
敢闘した。旅団は南方抽出を免れた関東軍精鋭部隊の数少ない残り
で8月9日の侵攻以来2回に渡り挺身攻撃を行いソ連軍を撃退した。そ
でも所詮は多勢に無勢で結局はソ連軍は上陸嫩江へ進撃を開始され
た。それを阻止せんと迎え撃ったのが独立歩兵第796大隊主力と独立
混成第135旅団砲兵部隊は、8月21日まで肉弾戦を展開した。また根こ
そぎ動員で急遽編成された弱体と言われた第123師団も孫呉付近の上
陸地点で第269連隊第1大隊約600名が10kg爆弾を抱いてソ連軍戦車
に体当たりしてT34に多大な被害を与えた。第123師団の別の挺身大
隊約1300名は取り囲まれてソ連の戦車旅団と2日に渡り戦い最後は、
全員が手榴弾を持って突撃した。これらの奮戦で孫呉そのもは地上部
隊の攻撃から免れたのである。一方、西部国境における戦闘は、この
地区の最も堅牢な陣地がハイラルにあり縦10km、横15kmの地域に
5つの陣地が構築され守備は独立混成第80旅団の約5000名の兵士が
守りを固めていた。本来は3万の兵力で守る筈の陣地であるが関東軍
の防御線後退に伴い兵力も減らされていた。この陣地をソ連軍は5個
師団と戦車1個旅団で襲った。陣地は小部隊による遊撃戦を展開して
ゲリラ戦を展開したが停戦まで約1000名の兵を失った。日本軍の主力
の迫撃砲と対戦車砲(速射砲)では、ソ連軍のT34戦車には打撃を与
える事は出来ませんでした。よって爆弾を抱いての肉弾特攻以外に頼
らざるおう得ませんでした。また外蒙古のアルシャン付近から西口を襲
ったソ連軍は狙撃9個師団と戦車1個師団、戦車2個旅団であったが迎
え撃つ日本側は第107歩兵師団の歩兵団(第90歩兵連隊主体)の一部
隊で兵力僅かに約1000名のみであった。第107師団の残存部隊は通信
部隊がやられたため奉天にある第44軍々司令部と連絡が取れず敗戦
の知らせが来ずに山中を彷徨しながら戦闘を継続して落伍者も大勢出
しながら遭遇したソ連軍部隊を潰走させるなどの勇戦を続けた。関東軍
司令部は敗戦後にソ連軍の命令で師団を航空機で捜索してようやく発
見して停戦命令を伝えた。…このように各地では混乱の中勇戦が繰り
拡げられ…ソ連軍の侵攻から一週間でポツダム宣言が受諾された。
大本営から正式な停戦命令は8月16日午後6時頃届き関東軍総司令官
山田乙三陸軍大将、総参謀長 秦彦三郎陸軍中将以下の幕僚首脳が
集結し合議を持ち停戦命令に従うか徹底抗戦をするか話し合われたが
徹底抗戦の意見が大多数を占めたが…最後に総司令官と総参謀長が
天皇の命に従うべきで『あくまで抗戦を主張する者は、よろしく我等の首
を刎ねてしかる後に行け』と説破した。

肉迫してソ連戦車に体当たりする
日本兵達…!
日本軍の迫撃砲を弾き返すソ連軍
の戦車部隊…。






千島列島 
  占守島攻防戦(昭和8月18日〜8月23日)
    戦死者24400名(樺太、千島列島全域を含む)



千島列島は、日本固有の領土である。ここにソ連軍が侵攻したのは
敗戦を迎えて日本軍が武装解除を行った20年8月18日であった。無
抵抗な日本軍も続々と上陸し銃砲撃を加えるソ連軍に対して遂に自
衛の為に再び銃を取らずにいられなかった。この千島列島は日本軍
は北千島、中千島、南千島の3地区に分けてそれぞれに守備隊を置
いた。戦争末期、北千島(占守島と幌筵島)は第91歩兵師団を中心
に約2万3千名が守備についており、このうち占守島には第73旅団と
戦車第11連隊、第1砲兵隊を基幹とした海軍部隊を含む約13000名
が配置されていた。…勇猛な闘いぶりで終始、ソ連軍を圧倒したの
は有名な話で…札幌の第五方面軍からの停戦命令で日本軍の総攻
撃は停止されて停戦協定がソ連軍との間で結ばれたがソ連軍上陸軍
司令官のA・グニェチェコ少将は『日本軍が総攻撃しなかった事に感
謝する。』とメッセージを伝えたほどで日本軍の戦死者350名に対して
ソ連軍側は既に3000名以上が戦死していた。こうしてソ連軍は全滅の
恐れから逃げ延びたが…強い日本軍が降伏し島を占領させられると
いう皮肉な結果となった。ソ連共産党機関紙『イザべスチャ』は、この
戦闘に触れ”占守島の戦いは満州・朝鮮における戦闘より遥かに損害
が甚大で8月19日はソ連人民の悲しみである。”と記載した。…その後
もソ連軍の南下は続き卑怯な連中は、8月28日には、択捉島、9月1日
には、色丹島、5日には水晶島が占領されそこでやっと停戦した。占守
島の戦闘が無ければ恐らく南下は北海道に及んだと言われているが
今に思えば全軍を挙げて千島列島戦で完膚なきまでソ連軍を撃退す
べきであったと考えてやまない。これら千島を防衛した日本軍と成人男
子の民間人は、シベリアへその後強制連行され(マガダン)最も過酷な
鉱山採掘労働に従事させられその殆どが無念の死を迎え再び祖国の
地を踏む事が無かった。

マガダンで強制連行・強制労働の末に
殺された旧日本兵達の現地での遺骸
…平成4年に初めて返還された。


よく勘違いされ沖縄戦を唯一の国内最期の地上戦と記したものが多く見受
けますが、それは誤りです。現実には占守島をはじめとする千島列島、樺太
の戦いが敗戦後に連合国の一つソ連の卑怯な侵攻で戦われております。
樺太も千島列島も我国の領土であり大勢の島民が住む日本国土の一部で
した。これ等の戦いが本当の意味で国内最期の地上戦となった事を忘れて
はなりません。そして沖縄と違い樺太も千島列島も未だに返還される事無く
ロシアに不法占領されたままです。

占守島は千島列島のほぼ最北端を占める島で、北東は千島海峡を挟んで
カムチャツカ半島ロパトカ岬に面している。南にはパラムシル海峡を挟んで
幌筵島がある。面積は230平方キロメートルで、海抜200メートルくらいの
緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。オホーツク海と太平洋
に囲まれ、夏季でも摂氏15度くらいで濃霧が覆い、冬季はマイナス15度の
極寒の上に猛吹雪に襲われることが多い島であります。
戦車第十一連隊は昭和15年3月に満洲で創設され昭和19年2月に第五
方面軍に転属となり北千島へ転進。主力は占守島に、一部が幌筵島、
松輪島、得撫島へ分駐しました。昭和20年8月15日の敗戦で連隊は同月
18日の午後に戦車を海岸に運び海中へ投棄する予定でしたが、その日
の午前零時にカムチャッカ半島のロパトカ岬灯台より占守島の国端岬と
竹田浜一帯に猛烈なソ連軍の砲撃が開始され、午前2時、ソ連軍は竹田
浜へ上陸を開始しました。占守島には歩兵第七十三旅団を基幹とする日
本軍は完全と反撃を開始し、敵正面と対峙したのは独立歩兵第二八二
大隊(大隊長 村上 則重 少佐)は『攻撃開始!』を下命、反撃の火蓋を
切りました。また午前2時30分、士魂台にあった戦車十一連隊長の池田
末男 大佐は、第九一師団長の堤中将より『上陸した敵を直ちに撃滅せ
よ』の命を受けて直ちに非常呼集を掛け『速やかに戦闘準備を完了し、
天神山に集結するべし』の命を出し、『天与の好機を逸する事無く、準備
の出来たものから我に続け』と決死の勢いで陣頭に出て出撃しました。
一方、午前3時30分にはソ連軍主力第一悌団(第138狙撃連隊基幹)が
上陸を開始、日本軍の激しい砲撃に遭い13隻の上陸用舟艇が撃破され
更に指揮艦艇を含む二隻が更に炎上し激しい被害を出しました。この時
海軍の九七艦攻を含む陸軍の隼など日本側の数少ない航空勢力が出撃
対空砲火でやられた一機の九七艦攻は見事にソ連艦艇に体当たりして
自爆を遂げるなど壮絶な戦いが繰り広げられました。午前4時には四嶺山
に上陸したソ連軍が迫り四嶺山を巡り日本軍との激しい攻防戦が繰り広
げられました。

午前五時、池田連隊長は天神山に到着。中隊長、小隊長がこれに続き
午前5時30分、池田連隊長は各隊に対して攻撃命令を出すと自ら指揮
班長の丹生少佐と共に先頭車またがり、日の丸の旗を片手に前進を開始
しました。午前6時20分、連隊は四嶺山南麓の台地に進出し、約一個中
隊の進出するソ連軍を見つけ攻撃を開始。各隊に『士魂部隊の最期を飾
るにふさわしく勇戦奮闘せよ』と訓示し堤師団長と杉野旅団長に対して『
戦車第十一連隊は四嶺山の麓にあり。士気益々旺盛。0650、連隊は
これより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る』の訣別の通信を送り、
午前6時50分、横一線に展開した連隊は四嶺山の山頂を目指し前進を
開始、四嶺山に進出したソ連軍に対して戦車30両を持って進出したソ連
軍を蹂躙し圧倒。午前7時30分、突撃した連隊長は四嶺山の山頂に到
着、各隊の掌握をしました。一方、ソ連軍の最前線は勢いに呑まれて前
進を停止したままとなる。ここで一気に勢いにのって池田連隊長は敵を
圧倒したまま海岸線まで押し戻し殲滅する覚悟を決め、午前7時50分
、集結した戦車を加えて約40両の戦車を持って前進攻撃を再開すべく『
攻撃前進』を下令しました。連隊長は再び戦車の上に乗り日章旗を打ち
振り、連隊の攻撃隊形は左から第四中隊、第三中隊、第一中隊、連隊
本部、第六中隊、第二中隊と横一線に展開し約40両の戦車が敵に突入
しました。
対するソ連軍は対戦車砲や対戦車自動銃を全軍からかき集め対戦車
砲4門と対戦車自動銃約100挺を持って日本軍の戦車を迎撃し始めま
した。この士魂部隊の戦車隊とソ連軍の対戦車火器との銃砲激戦が
始まったのが午前8時30分。視界20mと言う濃霧の発生する中で約2
時間にわたる大乱戦が繰り拡げられました。四嶺山南東の日本軍の
高射砲の砲撃を受け、駆け付けてきた独歩第283大隊も残存戦車を
先頭に参戦するとソ連軍は百名以上の遺棄死体を残して竹田浜方面
に撤退しました。この時点で戦車第11連隊は27両の戦車を失い池田
連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を数えました。この時の
士魂部隊の死闘ぶりはソ連軍を圧倒し、敵の対戦車砲で擱坐した戦車
から生き残った戦車兵が手傷を負いながらも壮絶な肉弾戦を行い、戦
車第十一連隊は池田連隊長以下、丹生指揮班長、副官の緒方大尉、
船水大尉、宮家大尉、藤井大尉、小宮中尉の各中隊長4名が戦死し
連隊の主だった将校がことごとく戦死する凄まじい戦闘を演じました。
擱坐炎上したる戦車は21両に達しましたが、残存戦車を第四中隊長の
伊藤大尉が指揮し戦闘を継続しました。その後日本側の独歩第283大
隊は国端崎に向け前進し、ソ連軍が既に占領していた防備の要所を奪
還しました。ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、激しい
戦闘となりました。独歩第283大隊は大隊長が重傷を負い、副官以下
50名余が戦死しながらも、要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南
側への集結を援護することに成功した。この戦闘の間、ロパトカ岬から
ソ連軍130mm砲4門が射撃を行ったのに対し、四嶺山の日本軍15cm
加農砲1門が果敢にも応戦して敵全門の制圧を報じています。

18日の午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車部隊と歩兵第73旅団
主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼及び後方
に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢を作りました。
まさしく一気に殲滅が可能な体制です。昼ごろに第5方面軍司令官か
ら、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに
従い、18日の16時をもって積極戦闘を停止することとした。しかし、
実際には戦闘は続き夜までには、幌筵島の第74旅団も主力の占守島
転進を終えました。ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして海上輸送
の攻撃を行いまが、それを阻止するには至りませんでした。
この士魂部隊を核と成した戦いでソ連軍は大きな痛手を被りました。実際の
被害は、日本軍の死傷者が600名程度、ソ連軍の死傷者は3000名以上と
推定されています。この戦いが帝國陸軍戦車隊の最期の戦闘になりました。
この士魂部隊と日本軍の戦いがソ連軍の最終目的であった北海道占領の
企図を放棄させた功績は第一級のものであり…北海道人である私にとっ
ても感謝の念と尊敬の念を持って占守島を守って戦った陸海将兵の全て
に頭を垂れずにいられません。

    〜占守島で戦った陸海日本守備軍の戦力〜

陸軍部隊

 第5方面軍第91師団隷下
   歩兵第73旅団(6個大隊)
        (旅団長:杉野 巌 少将)

  ・独立歩兵第282大隊:村上 則重 少佐
  ・独立歩兵第283大隊:竹下 三代二 少佐
  ・独立歩兵第284大隊:野口 谷五郎 少佐
  ・独立歩兵第285大隊:広江 重朗 大佐
  ・独立歩兵第286大隊:桜井 中佐
  ・独立歩兵第287大隊:得平 操 中佐
  ・歩兵第73旅団通信隊

 戦車第11連隊(中戦車39両、軽戦車25両)
  (連隊長:池田 末男 大佐)

 船舶工兵第57連隊残留隊 (特大発動艇20隻)

 海軍(伊藤 春樹 中佐、約1,500人)

  占守通信隊(司令:伊藤 春樹 中佐)
  第51警備隊
  第52警備隊

 航空部隊

  陸軍飛行第54戦隊残留隊
           (一式戦闘機”隼”4機)

  海軍北東航空隊北千島派遣隊
          (九七式艦上攻撃機4機)


          ↑
上のバーナーをクリックすると
陸自第11旅団のHPに飛びます。
戦後、北海道に駐屯する陸上自衛隊 第11旅団隷下 第11戦車大隊は、
この占守島の戦いで奮戦し北海道を護りきった栄光の帝國陸軍の戦車
第11連隊(別称:士魂部隊)のその活躍を顕彰し、その士魂精神の伝統
を継承する意味で、”士魂戦車大隊”と自ら称しています。そして部隊マ
ークとして装備の74式戦車・90式戦車の砲塔側面に”士魂”の二文字を
描き北の大地には…戦後66年を経た今も「士魂」の名を受け継ぎ北辺の
防人の誇りと伝統を伝えています。
          ↑
上のバーナーをクリックすると
戦車第11大隊のサイトに飛びます。










〜以下に占守島に関するYoutubeの動画を掲載します〜
 (動画再生に際してはTOPのMIDIプラグで音楽を停め
  てから動画を再生してお楽しみ下さい。)


サムライ魂 〜占守島の士魂部隊〜 1/6



サムライ魂 〜占守島の士魂部隊〜 2/6




サムライ魂 〜占守島の士魂部隊〜 3/6




サムライ魂 〜占守島の士魂部隊〜 4/6




サムライ魂 〜占守島の士魂部隊〜 5/6




サムライ魂 〜占守島の士魂部隊〜 6/6




1/2【証言シリーズ】元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長 神谷幾郎




2/2【証言シリーズ】元陸軍戦車第十一連隊 陸軍伍長 神谷幾郎












憤怒のシベリア抑留
   強制労働の果てに
     凍てつく異郷の大地で
        祖国を想い…無念の死



ソ連の侵攻でその後捕虜となりシベリアへ強制連行され過酷な強制労働
に抑留生活を余儀なくされた日本人は、実に60万人以上に上る。そして
その一割に当たる6万人が遠い極寒のシベリアで命を落としている。多く
は墓も無く無念の最後を遂げました。この6万名の英霊の8割に当たる
約4万8千名が抑留後の翌年の春までに死亡している。マイナス40度を
超す極寒の地での馴れない強制労働と粗食、多くが凍死でありました。
私はロシア人のしでかした…この余りにも非道な行いを生涯許す事は出
来ません。未だに我国固有の領土である千島列島は返還されずにいま
す。あえてロシアと平和条約や親善友好等を行う必要性を全く感じません
。向こうに誠意が無い以上、経済援助も何もかも我国が行う必要も道理
もありません!この非道を我々、日本人は忘れずに子々孫々まで語り継
ぎ忘却してはなりません!!…無念うちに異境の地で尊い命を落とされ
た約6万名の同胞の皆様に心中よりお悔み申し上げ合掌せずにはいら
れません。






嗚呼、慟哭の樺太。
   千島列島、北方領土の悲劇!
  (日本本土で最後の地上戦が
         行われた悲劇の戦場)


〜忘れずに語り継ごう。
      そして呼び戻そう北方領土〜



ここに一枚のDVD映画があります。原作は樺太出身で北海タイムスの
新聞記者をしていた金子俊男氏の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』
を映画化したものです。それがこの”樺太1945年夏 氷雪の門”です。
玉音放送後の樺太を舞台として、ソ連軍の進攻が迫る中、最後まで電話交換手
業務を続けた真岡郵便電信局の電話交換手であった9人の乙女の悲劇を中心に
、ソ連による北方領土侵略の史実を描いた映画です。氷雪の門とは北海道稚内
市の稚内公園内にある樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑です。同公園内
にある九人の乙女の像は、9人の電話交換手の慰霊碑です。この映画は、多くの
団体から推薦されるものの当時のソ連のモスクワ放送が「ソ連国民とソ連軍を中傷
し、ソ連に対して非友好的」という論評を流した為、びびって東宝系での劇場公開
が中止され、独立系での僅かな公開のみとなり、殆どが日の目を見なかった映画
です。昨年の2008年8月に日本テレがドラマ番組として原作の精神を踏みにじる
いつもの反日マスゴミにありがちな『霧の火 樺太・真岡郵便局に散った九人の乙
女たち』なる似非ドラマを作りましたが、下らない駄作に紛らわされる事無く、多くの
方にこちらの原作の映画を見ていただきたいものと想います。北海道出身の私に
とっても多くの親族が樺太から散々な目に遭いながら引揚げ者でおりますので樺太
と北方領土問題は、決して他人事に思えません。今ではメディアも何もかもが北方
領土返還の呼びかけや語ることも少なくなり悲しい限りです。非道かつ残忍で卑怯
なロシア人どもの日本人に対して行った行為を我々は忘れてはなりません。後世に
民族の歴史としてしっかりと語り継がねばなりません!!

(映画のあらすじ)

敗戦間際の1945年夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を
一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた。ソ連軍
侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。

8月15日には玉音放送によって敗戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制
疎開命令が出された。しかし、交換手の20人は命令に従わず、交換手として
「決死隊」に参加。その後もソ連の進攻は止まらず、8月20日には真岡町沿岸
にソ連の艦隊が現われ、艦砲射撃を開始。圧倒的なソ連軍の攻撃の前に
日本側の抵抗もむなしく、町に侵攻される。

ここに至っても交換手たちはこの非常時における電話通信の重要性のため
職場にとどまって仕事を続けていたがソ連軍が間近に迫ると青酸カリにより
自決を選びました。九人の乙女の像にも刻まれた「みなさん、これが最後で
す。さようなら、さようなら」が最後の言葉を残して…。


左の地図は広大なる樺太の我国の領土の地図
です。日露戦争に勝利した日本は、敗戦国であ
るロシアから樺太(南サハリン)を戦後賠償として
割譲され以来正式な日本領土として多くの日本
人が平和に生活し暮らしておりました。日本がポツ
ダム宣言を受諾し米英連合軍に降伏した5日後に
突然、悪辣かつ卑怯なロシア人のもっとも得意と
する火事場泥棒が始まり、あっという間に樺太及
び北方領土は占領され日本人の男子は軍人・
民間人に限らず若い者はシベリア送りになり強制
労働の末、非業の死を遂げさせられたものも少な
くありません。





                
上のバーナーをクリックすると全国樺太連盟の公
式サイトにジャンプします。社団法人 全国樺太
連盟は、樺太からの引揚者とその子孫の相互扶
助と日本の樺太統治時代を後世に伝承する活動
を行なっています。


真岡郵便電信局事件

真岡郵便電信局事件とは、1945年8月20日、樺太真岡郡真岡町に、ソ連軍
が艦砲射撃を行って侵攻した際、真岡郵便局電話交換手(当時の郵便局で
は電信電話も管轄していた)の女性12名のうち9名が自殺(自決)し3名が
生還した事件。なお、電話交換手以外の局員や、この日、勤務に就いていな
かった電話交換手に、自殺者はいない。電信課職員男性6名、女性2名、計8
名も生還している。


事件の経緯
1945年8月16日、真岡郵便局の朝礼で残留交換手に関する説明がなされた。
主事補の鈴木かずえは緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出て
いる現状を話し、仮にソビエト軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われる
までは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けても
らえる人は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた。
鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現した。これに対し鈴木
は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう
指示。後日希望を聞くと告げた。最終的には、20名の電話交換手が残留した。

後年、川嶋康男が著書で残留要員選定を命じられたとする斎藤春子の証言を
取り上げている。それによると斎藤は昭和20年のある日(具体的な日付は不明。
また月も「一瞬の夏」では8月、「永訣の朝」では7月と記述が異なる)、上田局長
に最低でも24,5人の残留要員を選考するように命じられたという。だが、その後
残留交換手を募る目立った動きはなく、斎藤は立ち消えになったのかと思った
という。なお、斎藤は同時に残留組が24,5人となった後にも引き揚げの申し出を
受けて自分が二人を残留組から外したとも証言している。また、そこからさらに
斎藤自身が残留組から外れることとなる。斎藤は妹・美枝子とともに残留組に
志願していたのだが、母親は上田局長に、娘二人を預けたままでは引き揚げら
れない、一人は連れて還りますと電話をかけた。18日に上田局長に呼び出され
た斎藤は電話の旨を知らされ、「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人
引揚げるようにしてください」と告げられたという。斎藤姉妹は互いに自分が残る
と押し問答を繰り返したのち、姉である斎藤が諦め、引き揚げることとなった。 

希望者がいない場合は責任番号(交換手の経験年数によって付けられる番号)
順に残ってもらうと主事補から聞かされたとする証言(葛西節子)もある。しかし、
最終的に決定した残留交換手20人は比較的経験年数の少ない10代の交換手
が多くを占めていた(20人中10代が全部で何人だったかは不明だが、8月20日
当時の高石班11人中6人が10代であり、上野班にも少なくとも1人10代の女子
交換手(藤本照子・当時17歳)がいた。また、前述の斎藤春子は昭和8年入局の
古参交換手であるが、前述の通り残留交換手が24,5人からさらに絞られた後
に引き揚げ組に加わっている。

8月19日朝、非常体制が敷かれる。電話・電信業務は、昼夜を通して行われる
ため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務体制となった。電話
交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長と
する高石班に分けられた。

8月19日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になった。この夜、当直の電話
交換手は高石班長以下11名の女性であり、この他に、電信課には、電信主事・
平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していた。

8月20日、早朝。ソ連軍艦接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長 上田
豊蔵に緊急連絡したのを始め、局幹部に緊急連絡を行った。緊急連絡を受けた
電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は
12名となった。非常事態に際し局員たちは郵便局へと向かったが、ソ連軍の
攻撃は激しく、民間人に対しても見境のない攻撃が加えられた。電信受付の
折笠雅子は郵便局へ向かう途中射殺され、避難した防空壕に手榴弾を投げ
込まれて爆死した局員などもいた。[4]上野班の交換手だった藤本照子も「決死
隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連
兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした」と語っている。
上田局長も郵便局へと向かったが、栄町二、三丁目の十字街で避難民が背後
から撃たれて山膚を転げ落ちるのを目の当たりにした。十字街には局長の他
5,6人が釘付けされていたが、そのうち真岡署木村巡査部長が弾丸の中を駆け
出し、局長の目の前で撃たれて倒れた。局長と由田与三吉は、巡査部長を家の
陰に引きずり込もうとして路上に飛び出し、局長は左手に貫通銃創、由田は
右足に盲管銃創を負った。局長は由田らと図り、若い男に棒の先に白布を縛り
付けさせ、ソ連兵の目に触れるように振らせた。これにより、局長らは助かった
ものの、直ちに海岸の倉庫に連行された。

緊急連絡からおよそ1時間後、ソ連軍艦が真岡港に現われ、2艘の舟艇が
上陸を試みる。(ロシア側資料によれば、上陸開始時刻は午前7時33分である
。)この時、日本軍憲兵隊から上陸艇に対して発砲。これをきっかけに、ソ連
艦隊から艦砲射撃が始まった。なお、艦砲射撃に至った経緯ははっきりして
いないが、ソ連側が先に空砲を撃ったという点では、概ね一致している。実弾を
どちらが先に撃ったかについてはわからないとする証言、見解が多い。

この当時、真岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館があった。
電話交換業務は別館2階で行われていた。ソ連軍艦からの艦砲射撃が始まる
と、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性
のみが孤立することになった。

高石班長が青酸カリで服毒自殺、続いて代務を務める可香谷が自殺。この後
、1人また1人と合計7名が青酸カリ或いはモルヒネで自殺した。この間、電話
交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡している。 

この後、伊藤は、既に7人が自殺し、自分も自殺することを泊居郵便局に連絡。
更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤のほか境、
川島、松橋、岡田の4名が生存していた。伊藤は、続いて、内線電話で電信課
へ自殺を連絡し、自ら服毒自殺。この時点で、松橋も自殺をしていたので、
自殺者9名、生存者3名となった。急の知らせを受けた電信課男性職員は、
2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し本館へ移動させた。

一方、本館では、戦闘が始まり郵便局舎も被弾するようになると、被弾を恐れた
女性達は、奥の押入れに隠れていた。境、川島救出後暫くしてソ連兵が現わ
れると、被弾の恐れも無くなった。最初は男性局員のみが応対し、女性はその
まま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を
含む4名の女性局員も姿を現した。金品の略奪はあったが、被弾することも
陵辱されるようなことは無かった。その後、局員は港の倉庫へ移動した。電話
交換手のもう一人の生き残りである岡田は、その後、港の倉庫に移った。

事件から10日以上経ってから遺体は仮埋葬され、12月に火葬・本葬が行われた。

事件後の真岡郵便局
事件から1ヶ月程経つと真岡の町も平静を取り戻し、進駐軍命令で郵便局も
業務を再開した。局の各部署には元の局員が就業すると共に、ソ連の局員も
配置された。業務は先ずロシア語を学ぶことから始められた。間もなくして、
ロシア語による電話の取次ぎを日本人局員により行えるようになった。給与は
日本時代よりも多かったが、ソ連人局員は更に高給だった。ソ連人が業務に
慣れるにつれ、日本人局員はソ連人の部下として配属されるようになった。

                          

              (引用) フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




北海道稚内市の稚内公園内にあるかつて日本領土だった樺太で亡くなった
日本人のための慰霊碑である氷雪の門です。

昭和38年に樺太島民慰霊碑として本郷新の彫刻により、地元の樺太関係者
の手で建立されました。 両側に高さ8mの門があり、中央には2.4mの女性の
像があります。 女性の像の顔は、戦争で受けた苦しみを。手のひらを見せて
いるのは、樺太も家族も失ったことを。その足は、その悲しみや苦しさから早く
立ち上がる事を表していると謂われます。 大東亜戦争の敗戦後にソ連軍の
侵略による樺太で虐殺された日本人だけでなく、ソ連の野蛮な行為以外で
樺太で亡くなった全ての日本人の慰霊碑でもあります。


北海道稚内市の稚内公園内にある、1945年8月20日に樺太真岡郡真岡町
で起きた真岡郵便電信局事件で自決した9人の電話交換手の慰霊碑である
”九人の乙女の像”です。日本の本土の扱いであった樺太の戦いは日本本
土に於ける最期の地上戦の地でありました。「ソ連軍が近づいております。
足音が近づいております。 稚内の皆さん、さようなら!これが最後です。
内地の皆さ ん、さようなら!さようなら・・・ 」この最後の通信を発して、少女
を含む九人の若き乙女達は自決をしました。北から国境線を不法に越えて
南進したソ連軍と最後の戦いを貫徹し北海道を死守した僅かな兵力の日本軍
の勇戦も忘れ去られているが決して忘れてはならない史実です。これ等の碑
は沖縄や廣島、長崎のひめゆりの塔や原爆の碑と同様に決して忘れてはなら
ない哀しい日本民族の戦争の傷跡です

昭和43年9月5日に昭和天皇と香淳皇后は稚内市を訪問し”氷雪の門”と
”九人の乙女の像”の前で深く頭を垂れた。後日宮内庁よりその時の感銘を
和歌に託したことが公表されました。

 樺太に命をすてしをたやめの
         心を思えばむねせまりくる         昭和天皇

 からふとに露と消えたる乙女らの
         御霊安かれとただいのるぬる       香淳皇后

両陛下のお詠みになられた和歌の中にある深い鎮魂の想いを吾等、臣民は
忘れずに後世に伝える義務があります。これが平和の時代に生き平和を謳
歌できる日本人の責務だと感じてなりません。



昭和7年7月18日の日付けのある張り出しようのニュース
写真です。当時、樺太(南サハリン)が当たり前の日本領
土であり、日本人が普通に生活し暮らす島であった事が
良く判ります。それが或る日、突然に静寂が破られ武器を
持った残虐なロシア人により一般市民が嬲り殺しに遭い
婦女子を強姦・輪姦し殺害しました。今も昔も地に飢えた
ロシア人のする事は同じです。特に厭らしいのはハイエナ
のように日本が対米戦で叩かれ疲れ果てギューの音も出
ない位にに弱り目祟り目になったのを見透かしての侵略
です。卑怯以外の何ものでもありません。しかしロシアは、
図々しく『条約は破る為にあるもの!』と嘯きます。この国
は古来よりそうして回りを騙くらかして広大な領土を手にい
れました。本当に嫌な許し難い国です!未だに樺太は勿論
のこと我国固有の領土である北方領土すら返還しません。
殺された者の怨み、身体の一部を奪われた者の怨み、土地
を追われ全財産を失い人生を狂わされた者の恨みを同胞で
ある同じ日本人が忘れ去りロシア人を許しては死んでいった
者達が浮かばれません。
下が樺太庁のマーク(エンブレム)です。
下は豊原市にあった樺太庁舎です。
(住所:樺太豊原市東4条南5丁目)
樺太庁は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。
この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入され
た北緯50度以南の地域(所謂、南樺太)及びその付属島嶼を指す。

1907年3月15日公布の、明治40年勅令第33号(樺太庁官制)に基づき、
同年4月1日発足。これにより従来の行政機関である樺太民政署は発展的
解消を遂げたと言える。庁舎は当初大泊に置かれていたが、1908年8月
13日に豊原へと移転した。

1920年公布の、大正9年勅令第124号(樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関
スル件)ではいわゆる外地に組み入れられたが、その後の1942年には
内務省管轄下に入り、国内法が適用されるようになった。これによって
樺太はいわゆる内地へと編入された。

1945年8月のソ連対日宣戦布告によって、樺太庁管内にはソビエト
連邦軍が侵攻し、同月末までに樺太全土が占領された。行政官庁として
の樺太庁は、外務省への移管を経て、1949年6月1日、国家行政組織法
の施行によって廃止されています。

昭和五年の樺太庁が出した共箱付の国勢調査徽章です。

昭和16年12月の時点で樺太の日本人の人口は約40万6千5百名でありました。

樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割
され、それぞれ異なる沿革を経たため、本項では、北緯50度以北を「北樺太」
(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

樺太は第一次産業が基盤であり、漁業・林業・農業が主であった。また、後に
は製紙業・炭鉱も盛んとなった。人口が希少であった事から常に労働人口を欲
しており、税法の優遇等により国内他地域からの移住を推進していました。

現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配している
が、ソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は
国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、第二次世界大戦に
おける日本本土最後の地上戦が行われた地でもある!


               〜歴代樺太庁長官〜
 
民政長官 :熊谷 喜一郎  (1905年7月28日 - 1907年3月31日)
初   代 :楠瀬 幸彦    (1907年4月1日 - 1908年4月24日)
第 二 代 :床次 竹二郎  (1908年4月24日 - 1908年6月12日)
第 三 代 :平岡 定太郎  (1908年6月12日 - 1914年6月5日)
第 四 代 :岡田 文次   (1914年6月5日 - 1916年10月9日)
第 五 代 :昌谷 彰     (1916年10月13日 - 1919年4月17日)
第 六 代 :永井 金次郎  (1919年4月17日 - 1924年6月11日)
第 七 代 :昌谷 彰     (1924年6月11日 - 1926年8月5日 再任)
第 八 代 :豊田 勝蔵   (1926年8月5日 - 1927年7月27日)
第 九 代 :喜多 孝治   (1927年7月27日 - 1929年7月9日)
第 十 代 :縣 忍      (1929年7月9日 - 1931年12月17日)
第十一代:岸本 正雄   (1931年12月17日 - 1932年7月5日)
第十二代:今村 武志   (1932年7月5日 - 1938年5月7日)
第十三代:棟居 俊一   (1938年5月7日 - 1940年4月9日)
第十四代:小川 正儀   (1940年4月9日 - 1943年7月1日)
第十五代:大津 敏男   (1943年7月1日 - 1947年11月17日)

                  〜樺太の最期〜

1945年 8月 9日 - ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して
             対日参戦、8月28日全島制圧される。

1945年12月30日 - ソビエト連邦軍政下で行政執行にあたっていたが、
             解散を命じられ大津敏男長官を代表とする上級官吏
             が収監される。

1946年 1月   - 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令
            (SCAPIN-677)により日本の施政権が停止される。

1946年 1月30日 - 内務省官制改正等の件(昭和21年勅令第55号)に
             より、樺太庁は内務省から外務省へ移管される。

1949年 6月 1日 - 国家行政組織法の施行により廃止される。



                 〜航 路〜

島であるため北海道との物資・人間の輸送には、船が用いられた。
定期航路として以下、

 ・小樽 - 敷香

 ・稚内 - 大泊(稚泊航路)

 ・稚内 - 本斗(稚斗航路)

などがあった。

敗戦前まで日本領だった樺太と北海道を結ぶ航路が
幾つか存在しました。始まりは大正12年に始まった
稚泊航路(稚内ー大泊)で鉄道省が運用しました。そ
の後、稚斗連絡(稚内ー本斗)が大正13年に開始さ
れ、小樽ー大泊の航路も次々と誕生しました。樺太の
島内のローカル航路である樺太沿岸線も就航し活況
を呈しました。稚斗連絡船(稚内ー本斗)は、樺太庁
鉄道と鉄道省が連帯して運航し夏季(4月から11月ま
で)は毎日1往復。冬季(12月から3月まで)は隔日で
1往復するほど需要がありました。画像のステッカーの
樺太丸は、昭和7年に大阪商船から北日本汽船会社
が売却された壱岐丸を改名して昭和12年から稚内−
本斗間の樺太航路に就航させたものです。昭和14年
12月には、稚内沖で遭難したソ連船の救助にあたる
などの大活躍もしました。 その後、敗戦直前から約2
年間、壊滅した青函航路の応援に国鉄に傭船されて
就航しました。昭和22年9月に傭船の任を解かれ、4
年後の昭和26年に政府の低性能船買上法により、
室蘭で解体されて…その47年の生涯に幕閉じました
。現在、東京神田にある交通博物館に”壱岐丸の号
鐘”が鉄道記念物として保存されています。
                
  

 ≪樺太丸(旧 壱岐丸)≫
  • 総トン数 1681t
  • 定員 旅客 317人
  • 乗組定員 77人
  • 喫水 3.8m
  • 長さ 82.5m 幅11m 深さ6.7m
  • 貨物搭載量 300t
  • 主缶 舶用スコッチ型2基
  • 主機と軸数 三連成往復動汽機2基、2軸
  • 出力 2422馬力
  • 最高速力 14.96ノット
上の画像は、壱岐丸時代の樺太丸と思われます。
下は、小樽市博物館所蔵の写真で北日本汽船の
樺太丸の戦前の写真で満船飾を施したものです。

おまけ画像です!
樺太の絵葉書です。


日本郵船の北海道〜樺太航路の絵葉書
日露講和条約締結により南樺太が日本の領土と
なりましたが、鉄道はまだ稚内まで建設されてい
ませんでした。この為、日本郵船株式会社によっ
て当初は、函館発小樽経由大泊着の航路が開設
されました。そして明治38年8月21日に英国製の
”田子浦丸”が就航しました。その後、稚泊航路
開設までには、いくつかの航路が開設されていま
す。


                    〜鉄 道〜

島内の産業が活発化してくると、木材・石炭の速やかなる移動が急務となり、
以下の鉄道線が敷かれた。

・樺太庁鉄道(1943年鉄道省に併合、その後運輸通信省の所管となる)

・樺太東線:大泊港駅 - 古屯駅(414.4km)
   支線   落合駅 - 栄浜駅(10.3km)
   貨物線 栄浜駅 - 栄浜海岸駅(1.8km)

・豊真線:小沼駅 - 手井駅(76.2km)

・川上線:小沼駅 - 川上炭山駅(21.9km)

・樺太西線:本斗駅 - 久春内駅(170.1km)
   貨物線 本斗駅 - 浜本斗駅(1.3km)
   貨物線 真岡駅 - 浜真岡駅(1.8km)

・南樺鉄道線:新場駅 - 留多加駅(18.6km)

・南樺太炭鉱鉄道株式会社線(帝国燃料興業会社内幌線)
                    本斗駅 - 内幌炭山駅(16.4km)

・帝国燃料興業会社内淵線:大谷駅 - 内淵駅(23.2km)
線):本斗駅 - 内幌炭山駅(16.4km)
帝国燃料興業会社内淵線:大谷駅 - 内淵駅(23.2km)



違う想い…反戦なればこその九条反対!


ここに一冊の本があります。樺太出身の方で
樺太で教員をされていた方です。いよいよ敗
戦の間際に地元で初年兵として招集され第
八十八師団第百二十五連隊第二大隊第七中
隊に所属し樺太守備隊に入りました。すぐにソ
連軍の南下侵攻が始まり部隊の玉砕などの
中、生き残り停戦・武装解除後は抑留生活を
経て昭和23年に開放され函館に上陸。以降は
釧路で教員を再びされていたようです。この方
の短い軍歴の樺太は、昭和20年8月1日に
半田守備隊に派遣、8月9日のソ連侵攻で日本
軍守備隊の防戦が開始され19日の停戦で捕虜
になっております。2週間に満たない10日余りの
攻防戦に参加されております。

しかし戦後この方は以下の共産党系サイトの中
で紹介されているように憲法9条擁護の活動を
されています。
↓(クリックでリンクが開きます)

・道東勤労者医療協会

共産党の病院グループ
のHPです。

・ピックアップ005

この中に筆者を紹介し
9条擁護を訴えています。


戦争とは惨く非常で残酷なものです。特に負け戦
をする側は尚の事です。南方の戦場や支那・満州
で戦い悲痛な敗戦体験をし命からがら生還を果た
し日本に帰国復員した方々のお話を聞く機会を何
度もありましたが、悲惨な敗戦をしたから戦争は、
嫌だと思う気持ちは誰もが同じです。好き好んで
命を捨てるバカもおらんでしょう。しかし言いがかり
をつけ攻め込んでくる、勝手にケンカを売ってくる
連中、人の国に知らぬ間に侵入し平和に暮らす国
民を拉致する北朝鮮のような国や日本の敗戦が
決定的になり抵抗も出来ないと見た瞬間、中立条
約を破り侵略する犯罪国家のようなロシア(旧ソ連
)のような国には、幾ら平和平和と叫んで非武装中
立論を叫んで見ても蹂躙され嬲り殺しにされるのは
これまでの歴史が全てを示しています。反戦だから
こそ守る力を強固にして悪意ある野蛮なロシアや
朝鮮、支那の領土的な野望などの意図を封じ込め
る事が抑止力として働きます。戦勝国アメリカが押
し付けた憲法、特に9条は書き換えるべきです。

共産党だの旧社会党だの社民党だの、日教組や
全教組を含む左翼がこの国を堕落させ嘘八百の支
那や北朝鮮、ソ連のプロパガンダを吹聴し拉致被害
者とその家族達を苦しめる結果をもたらしたような
連中は、この国の朝日新聞を代表とするマスゴミと
同罪であります。在日でない同じ日本人であれば罪
はより重いものと考えます。

特に樺太及び千島列島に住み引揚者を親族に持つ
北海道出身の私にとって旧島民の中で反戦と謂っ
ても違う思いがある事を改めて記しておきたいと思
います。護憲派などと謂って反戦を気取る連中のせ
いで国が失われ民族が滅ぶような真似は御免被り
たいと言うのが本音です。






日露戦争最後の戦いとなった樺太作戦で新編された
 独立第十三師団(約二個旅団)を率いて上陸作戦を
  遂行、樺太全土を占領した南樺太領有の立役者・英雄
   第十三師団長 原口 兼済 陸軍中将 の大礼服一式等々





          ◆原口 兼済 陸軍中将◆
 
                (略 歴)

  大分県・豊後出身
  陸軍兵学寮卒
  貴族院議員、男爵

弘化4年2月17日、森藩士(大分県)・林寛吾の四男として生まれ
同藩士・原口等の養子となる。明治2年、陸軍兵学寮青年学舎
に入り、明治4年、陸軍少尉に任官し5番大隊付となります。歩兵
第1連隊大隊副官、陸軍士官学校付などを経て、明治9年3月か
ら9月まで西南戦争に出征しました。(本姓は、才木 兼済)

歩兵第3連隊大隊長、陸士生徒司令官、陸軍戸山学校次長、
ドイツ差遣、戸山学校長、近衛歩兵第1連隊長などを歴任し、
日清戦争末に第4師団参謀長として出征したが終戦になります。
再度、戸山学校長となり、明治29年9月陸軍少将に進級。歩兵
第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、歩兵第17旅団長、
留守第1師団長、韓国駐剳軍司令官、大本営付、教育総監部
参謀長などを経て、明治38年1月、陸軍中将。日露戦争では
独立第13師団長として樺太作戦を遂行し、樺太全土を占領しま
す。明治39年7月に休職し、翌年11月、予備役に編入。

明治40年9月、男爵を叙爵。明治43年8月から大正7年7月まで
貴族院議員を務めました。大正8年6月18日、逝去(享年72歳)。

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樺太に上陸する原口中将隷下の独立第13師団

日露戦争最後の戦いとなった樺太作戦で新編された独立第十三師団
(約二個旅団)を率いて上陸作戦を遂行、樺太全土を占領しました(ア
メリカ合衆国大統領に依頼しその講和勧告後、日本は講和談判を有
利に進めるためにロシア領の樺太に侵攻し占領しました)。この樺太作
戦とその後の南樺太を日本が正式に領有する事に決した背景を見て
みましょう。

樺太占領は、陸軍参謀次長 長岡 外史 の次長就任以前からの持論
でありました。しかし、明治37年9月8日には、長岡が立案した樺太攻
略案は不裁可となった。明治38年3月22日に大本営で樺太遠征準備
の会議が開かれたときも、海軍などの反対で実現には至らなかった。

日露戦争を最後まで戦い抜く国力がない日本は、ロシアとの講和を模
索しました。明治38年5月27日の日本海海戦勝利後の5月31日、外務
大臣小村寿太郎は駐米高平公使に訓令を発し、米大統領セオドア・ル
ーズベルトに、日露講和につき友誼的斡旋を希望する旨申し入れるよ
うに命じました。6月1日、高平は大統領にこの訓令を伝えました。6月6
日、米国は日露双方に対して、 「日露両国のみならず文明世界全体
の利益のため、講和会議の開始を切望する」との内容のルーズベルト
公文書を渡しました。 6月7日、ロシア皇帝からルーズベルトの停戦勧
告を受け入れるとの返事がありました。ロシア皇帝の意向は、日本軍
により樺太が占領される以前に講和を希望していました 。

日本の首脳部では樺太占領は消極的だったため、長岡外史参謀次長
は満州軍総参謀長の児玉源太郎陸軍大将に協力を依頼、6月14日、
児玉より、講和談判を有利に進めるために、樺太占領を勧めるとの内
容の電報がありました。6月15日に至って、樺太作戦の件が政府・統
帥部の協議で決定し、6月17日に明治天皇の裁可が下り、新設の独
立第13師団に出動命令が下されました。

2個旅団編成の樺太遠征軍は、日本海々戦後、新編制された連合艦
隊の第3・第4艦隊からなる北遣艦隊に護送され、7月7日、樺太南部の
亜庭湾に侵攻しました。当時、南樺太のロシア軍の兵員は、1,200名程
度と少なかったため、遊撃戦への転換を図り、5つのパルチザン部隊が
編成されました。日本軍は、優勢な戦力を背景に、8日にはコルサコフ
を占領。10日にはウラジミロフカ(現:ユジノサハリンスク)を占領しまし
た。16日には、コルサコフ方面司令官アルチシェフスキー大佐も降伏し
ました。しかしロシア人パルチザン部隊は、その後も1ヶ月以上にわたっ
て抵抗を続けました。

7月24日更に日本軍は、北樺太アレクサンドロフ附近に上陸しました。
北樺太のロシア軍は、島長官リャプノフ中将以下5,000名を越える兵士
がいましたが、ロシア軍は…わずかに抵抗を示しつつも、島の深奥部へ
退却したため、日本軍はその日の夕方にはアレクサンドロフの占領に
成功しました。その後、島長官リャプノフ中将は降伏勧告を受けて、7月
31日に日本軍に降伏しました。

樺太占領後の8月10日から開始された日露講和会議(ポーツマス条約)
の結果、樺太を東西に横切る北緯50度線以北は、ロシアに返還されま
したが、以南は正式に日本割譲させ日本領樺太となりました。

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 追記:また駐留師団として二個旅団を持って臨時に設立された独立第
     十三師団ですが、その後に臨時師団より常設師団に昇格しまし
     た(高田第十三師団)。師団はその後、朝鮮駐剳を経て、大正9
     年のシベリア出兵に動員されました。しかし、大正年間には続く
     戦役によって政府は財政難となっており、大正14年に加藤高明
     内閣で行われた所謂「宇垣軍縮」によって4個師団の廃止が決
     まり、第13師団も第15・第17・第18師団と共に廃止されました。
     


樺太遠征軍の主だった顔ぶれです。



海軍:北遣艦隊


北遣艦隊司令長官兼
       第三艦隊司令長官

        片岡 七郎 海軍中将

第四艦隊司令長官

   出羽 重遠 海軍中将

第三艦隊司令官 

   東郷 正路 海軍少将

第四艦隊司令官 

   中尾 雄 海軍少将


陸軍:独立第十三師団


独立第十三師団々長

  原口 兼成 陸軍中将

独立第十三師団参謀長

   小泉 策良 陸軍少将

歩兵第二十五旅団々長
   
   竹之内 正策 陸軍少将

歩兵第二十六旅団々長
   
   内藤 新一郎 陸軍少将






上は、亜庭(アテイ)湾に上陸する日本軍(当時)ですが
下は現在のアテイ湾を望む上陸記念碑が有った場所で
す。戦後にロシア人に破壊され土台だけが残る無残な
姿になっていますが、日本領の樺太が存在していた時
代は、栄光の上陸記念碑が湾と上陸地点を見下ろす高
台に威風堂々と聳え立っていました。

打ち壊された上陸記念碑と土台…。

日本統治時代は…こんな感じでアテイ湾を見つめて
いたと想われます。

明治38年7月7日、歩兵第二十五旅団(竹之内 正策 陸軍少将)が
樺太南部アティ湾のメレ村に上陸しました。
アレキサンドロフに上陸した日赤救護看護婦達(第12班と臨時
22班)です。この最北の地に明治時代も先の大東亜戦争と同様
に日赤看護婦が戦場に赴いています。
左上はルイコフ村を占領した歩兵第五十一連隊です。右上は
ウラジオミロウフカで投降したロシア義勇兵達です。
左上はルイコフ教会で行われたロシア軍降服に関する会見の
模様。右上は7月31日のロシア軍降服の手続きについて日露
両軍で打ち合わせしている写真です。下はルイコフ兵営内行わ
れたロシア平俘虜の尋問を撮影した写真です。





卑怯な旧ソ連(現在のロシア)に不法に奪われたまま
ですが、この南樺太は今も尚、国際法上は我国の領
土であります。


惜しい事ですが上の写真の勲章一式が欠です。


原口閣下の靴と勲章以外の主だった
大礼服一式が揃っています。

古い撮影された一式の写真には佩用の勲章類が
ありましたが、別にされて売却されたのか…惜しい
事にこの一式だけが縁あって手許にきました。樺太
繋がりで縁が深いのかと勝手に想っております。




大切の保存されていたようで痛みが殆どありません。
閣下が亡くなられたのが大正8年、予備役編入が明
治39年です。とても明治時代のものと思われません。




肩章も美しい見事なものです。


将官飾緒に中将の飾帯も経年による退色が一部に
見られますが痛みは無く…袖線や襟部分も保存状
態が良く美品です。


将官指揮刀も鞘に錆が少し浮いていますが総じて綺麗な品です。
あえて欠点を上げれば旧型刀緒は擦れや切れが若干気になる
程度です。





見事な鼈甲です。金線に解れもありません。


正帽も型崩れも無く総じて美品です。天頂に一箇所虫食いが
惜しい事に認めます。他に庇に少し傷みを見ます。内部にも少
しネーム刺繍部に痛みを見ますが何とかはらだと読めます。




手袋は痛みが少し激しくて型崩れと破れがあります。




頑丈な木製とランクです。原口の名前とK Hのイニシャルが
記載されています。正帽と靴以外は全て収められておりま
す。



















原口閣下、御自身が所持された写真帖です。中の記載もアルバムの
最初の文字も閣下の手によるものと思われます。
退色が進み薄れているのが難点ですが…この美しさです。
とても106年前のものとは思えない保存状態の良さに驚き
ます。






上陸から占領に至るまでの生写真が写真帳に貼られています。
かなり退色して画像処理して掲載していますが…明治38年7月
7日 から7月31日の僅か三週間で完了した樺太作戦を記録した
戦勝国側の司令官の所持していたアルバムです。…106年前を
記録した明治の写真帳と考えると非常に保存状態の良いもので
また希少な資料だと思います。
7月24日、日本軍は北樺太アレクサンドロフ附近に上陸し、その日の
夕方には…アレクサンドロフを占領しました。上の写真はその時の模
様を撮影した写真です。


北樺太のロシア軍は、島長官リャプノフ中将以下5,000名を
越える兵士がいましたが…日本軍の進軍の前に次々と降伏
し…島長官リャプノフ中将も降伏勧告を受けて、7月31日に
降伏しました。ここに原口師団長隷下の日本軍による全樺太
の占領が完結しました。


河で鮭を捕まえています。非常に豊かな漁業資源に恵まれて
いた島でした。卑怯で悪辣なロシア人に奪われた我国の領土
樺太は…貴重な天然資源の宝庫である事が判り海底油田な
どの開発が進められいます。




この上下の写真に写る方ですが、これまで長らく不明
の人物でありましたが…平成28年1月にこの写真の方
の曾孫に当たる方が名乗り出て下さり、この方の氏名
階級と略歴が判明致しました。
この方は、中野 廣 陸軍中佐(当時)で歩兵第
五十一聯隊の初代聯隊長として原口中将隷下
の独立第十三師団にあって樺太占領に参加さ
れました。
以下、三枚の写真は中野 陸軍大佐の曾孫にあた
る水野 俊彦 様の提供によるもので全て中野 廣
陸軍大佐の写真となります。
中野 廣 陸軍大佐の正衣袴姿のお写真です。中野大佐は福島県出身で
二本松藩士の家に生まれた士族です。二本松藩は奥羽列藩同盟に参加
した朝敵の敗残の身であった為、戊申戦争以降は事実上失業状態だった
ようですが…西南戦争勃発で新政府軍が将兵を募集しており下士官募集
に合格、さらに東京教導団で士官教育を受け、日清、日露戦争に出征した
そうです。薩長閥でなく佐幕の小藩の士族にあって大佐まで出世されたの
は実力が認められたからにほかなりません。そして陸軍大佐で退役されて
おります。
写真提供:水野 俊彦 様
この上の写真は、オリジナルがかなり痛みがあるようですが珍しい
写真です。第五十一聯隊の聯隊旗を持つ聯隊旗手と護衛の兵士を
前に軍旗に対して抜刀して背を向けて写っているのが聯隊長である
中野 中佐です。寫眞には本人の手書きで「送旗式に於ける敬礼」
で明治38年4月17日との記載があります。因みにこの時の聯隊旗手
を務めた若い少尉が後の藤田 進 陸軍中将(第三師団長、第十三
軍司令官)です。
名古屋の第三師団長時代の 藤田 進
陸軍中将の写真がありましたので掲載
しました。


かつて樺太には日本人が40万名も暮らしておりました。北海道同様に
扱いは内地でした。このアルバムを見てお判りのように我々の祖先は
この土地を民族の血で贖い正当な国土としてきた事がはっきりと判り
ます。対して旧ソ連の行った火事場泥棒の様な領土を掠め取る形で侵
攻し北方領土(千島列島)と南樺太を奪った事は絶対に許してはならな
い事実です。我が民族は必ずロシアより、この地を奪還し…北サハリン
もその賠償として返還してもらう必要があると思います。将来、あるべき
武力が正当に行使出来うる状態に復した時…我国と我民族は、悲願と
報復を果たすべきだと考えて止みません。
この佐渡丸は、ウラジオストックに残った露西亜の
太平洋艦隊の支隊が日本海で北海道・東北〜北
朝鮮付近で日本の船舶の通商破壊戦を繰り返し
パニックを起こしましたが…旧式の第三艦隊が第
二艦隊に交代し対処することになりましたが…
明治37年6月15日、対馬沖で兵員を輸送航行中
に砲撃を受けて大破撃沈します。500名余りが他
の船に救難され助かっています。


以下の7枚の写真は、アルバムの後半に貼られた写真
ですが樺太作戦の写真でなく、それ以前の朝鮮半島や
支那・臺灣の写真が混ざっているものと思われます。
左上の写真の徒歩の人物のヘンテコナ格好は明らかに朝鮮人と思われます。
現在のサハリンには朝鮮人もおりますが日露戦争末期のこの時代には居りま
せん。原口閣下は第十三師団長になる以前に初代の韓国駐剳軍司令官をさ
れておりますので、その時の朝鮮半島での写真が含まれているものと推察し
ます。また以下の写真などは…明らかに樺太とは程遠い支那や台湾での写真
と思われます。原口閣下は歩兵第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、歩兵
第17旅団長などを歴任され支那も台湾でも駐留経験がありますので、その当
時の写真と思います。
右下のターバンを巻いた人物は、どう考えても英印軍の兵士
やグルカ兵で…サハリンに居る訳がありません。支那での写
真と考えて間違いなさそうです。





この国境の境界線を示す標榜石です。


ありし日の樺太庁の庁舎です。














敗戦後、ロシア人に強制的にシベリアへ抑留され
     殺された鹿児島県出身の木村 勇 陸軍伍長
             の死亡告知書(公報)等の書類など



僅か4枚の粗末なガリ版すりの薄紙に戦死を告げられ
ています。しかも戦死時期は、敗戦から一年を近く経つ
昭和21年4月6日と記載されています。告知書の日付け
は、昭和23年12月20日です。昭和20年8月15日の大東
亜戦争の敗戦により戦争は終了し日本軍は連合軍に降
伏し武装解除を受けます。本来であればこの木村伍長も
無事に帰国する筈でした。彼の人生が狂わされたのは、
ロシア(旧ソ連)の当時の指導者スターリンが出した一枚
の命令書でした。そこには『健康な日本兵50万人をシベ
リアへ連行せよ…』とありました。これが60万とも64万名
とも謂われるシベリア抑留の始まりでした。そして氷点下
40度を超える極寒の地・シベリアで最初の一年で6万名
の日本人が過酷な強制労働の末、劣悪な環境に耐えら
れず多くが凍死しました。これを虐殺と言わず何と謂うべ
きでありましょうか。
木村伍長は北支那方面軍・第十二軍隷下の独立
山砲兵第一大隊(大隊長 佐々木 典吾 陸軍少佐)
の砲兵でした。第十二軍は河南省鄭州市で敗戦を
迎えて昭和21年に復員していますが、第十二軍の
直轄部隊であった独立山砲兵第一大隊が何処で
シベリア行きになったのかは不明ですが、チタ州は
支那戦線から転用された4個師団が収容されたとい
う記録がありますので、その中に入れられていたも
のと想像します。チタ州の記録では30の墓地に五千
五百名の埋葬が確認されているようです。恐らくは
北支那方面軍隷下の独立混成第二旅団が張家口に
終結した約4万近い引揚の民間人を守る為、内蒙古
から侵攻したソ連軍と交戦しています。この南下した
ソ連軍に武装解除し連行された可能性もあると考え
ています。
敗戦から3年以上が経過した年末に息子の死を
たった4枚の粗末なこの紙で知らされた御両親の
気持ちを考えると,ただただ理不尽としか表現でき
ません。卑怯なロシア人は事実上無警告で中立
条約を破棄し攻撃を開始しました。8月8日の午後
5時に佐藤駐ソ連大使がモロトフ外相より宣戦布
告を受けますがモスクワの電信事情の悪さで電報
は、東京に届かず宣戦布告の7時間後にソ連軍の
前面攻撃が開始されました。
極悪なるロシア人は北方領土を返還しません。
我々、日本人は決してロシアの非道と虐殺され
た満州の在留邦人・開拓団関係者、そしてシベ
リア抑留によって殺された6万名もの日本人の
恨み節も忘れてはなりません。民族の歴史とし
て必ず後世に伝えていかねばなりません。
矢印の下のバーナーをクリックすると
父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。
墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の
建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に
努める。”シベリア抑留死亡者チタ州遺児
の会
”へジャンプします!

            ↓






シベリアに抑留された日本兵(捕虜)の
        往復郵便(赤十字)・エンタイア



非常に珍しいエンタイアでもあります。ソ連赤十字と日本赤十字が
介在したのでしょうロシア語と日本語の併記です。日本へ向けの
往信は、使用されていますが返信は、されていません。
裏面が自由に記載する欄のようですが…不自由なカタカナで
記載がされていますが…あまり日本人の書いた内容にしては
片言の印象が強く、通訳が勝手に書いて出した物かもしれな
いと考えてしまいます。

カタカナの日本語やはり変です。『皆、元気でしょ。私も元気で
おります。安心下さい。近親の方に宜しく頼みます。 さよなら』
とあります。


別に入手したソ連日赤の俘虜用郵便葉書



こちらのカタカナの文面も日本人の使うものとしては
非常に不自然です。作り上げられた文面と言うのが
判ります。ソビエト共産党・・・中国共産党にしろ…
北朝鮮労働党にしろ同じ穴の狢で碌なもんじゃあり
ません。






敗戦と戦後



昭和20年8月15日の敗戦で我々戦後の生まれの人間は翌日の16日より
平和が蘇ったかのように錯覚しているが現実はそんな甘いものでなく戦後
の混乱は戦時中と異なる別の悲惨なドラマを国内外で招いていた。私の
祖父母を含めて多くの戦中戦前派の日本人が異口同音に口にするのは
『あの日を境にして価値観が一転し全てが一変した。』という事である。
終戦の詔だけで全てが丸く収まる筈も無く悲劇は戦後長く続いたのは言う
までもない事ですが…単純に考えてもガダルカナル島撤退やインパール作
戦を考えても判るように転進や撤退が決定から前線部隊に到達するまでに
1ヶ月から2ヶ月を要している。更に敗戦の知らせが敗走中または密林の戦
場で散り散りになった最小単位の部隊をも形成できない将兵には届く筈も無
く敗戦を知らず戦い続けて戦死するものや投降の呼びかけに敵の罠だとカ
ン違いして戦闘を継続して命を落とすものは太平洋の全域からソ満国境、
中国戦線と…膨大な人数となる事が想像される。また遺族にして見れば敗
戦後の8月15日以降の戦死であると知らさればその思いは無念の二文字し
か残らない事も…その心中察するにあまりあるものがあるでしょう。また、
戦後の内地の荒廃は、まだ戦時中の方がマシだったと嘆かせるものがあり
引き揚げの苦労が戦闘の苦しみを上回ったと答える兵士も多かったのも事
実であります。これらは戦後を生きる日本人が一様に通らねばならない試練
でも有りました。しかし、シベリアに抑留された60万人の日本人ほど過酷な
戦後を送った者はいないでしょう!!…捕虜となりしは軍人だけでなく従軍看
護婦、その他の軍属、新聞社員は勿論、満鉄関係者といった民間人は勿論、
一般の民間人で開拓団員として満州や樺太に入植していた農民の女性や子
供なども含まれ年齢は16歳位から50歳以上に及んだ。…軍人の多くは勿論
ソ満国境で戦っていた関東軍や国後、択捉などの千島列島の守備隊の将兵
らがことごとく捕らえられていました。我国の厚生省の発表ではソ連本土に抑
留された者は57万5千名とされているがソ連東洋研究所の調査結果では63万
9635名にのぼるとされている。いずれにしろ長い間、捕虜の死亡者数や埋葬
場所についてはソ連は明らかにせず…91年4月ゴルバチョフ大統領(当時)の
訪日が決定する中で初めて資料が明らかにされたが…多くの関係者が死んで
入る事もあり正確な人数と墓地も判然とせず…未だに犠牲となった人々の正確
な人数すら把握できていない状況である。しかしこれらの60万名の日本人は、
8月9日より9月2日の間に満州の27箇所と朝鮮の7箇所で集められて千人単位
の労働大隊に別けられて9月中旬から翌21年の夏までにソ連国内の収容所に
移送された。そこから更に貨車や船に詰められて或いは徒歩で2000に及ぶ
ソ連各地のラーゲリに収容されたのである。ここに至るまでに女性は強姦され
殺戮され日本兵の多くも虐殺されたり嬲り殺しにあっている事は特に記しておき
たい。2000箇所に及んだラーゲリは、北は北極圏(ナリリスクなど)から南は、
カスピ海周辺の中央アジア南部…西はヨーロッパ・ロシア(モスクワ均衡の都市
部を含む)広大なソ連全域の地域にまたがりもっとも多かったのがシベリアであ
る。抑留者の約80%が収容されたシベリアは有名な『収容所群島』でも有名であ
るが…凄惨な生活環境であり収容者の死亡者の多くがその年の冬を越せず…
そこで死んだと言われている。このシベリアの寒さは筆舌に尽くしがたいもので
一説に脳みそまで凍ると表現されるように氷点下40度に達する…。バイカル湖
の湖畔のタシュトからアムール川沿いの町ハバロフスクまでシベリア鉄道と並行
するように走るバム鉄道は第二シベリア鉄道とも呼ばれるがこの鉄路の枕木の
一本は日本人抑留者一名の命だと言われている位の苛酷な労働が科せられた
事を知るものが誰も居なくなる事は許しがたい事だと考えます。…戦争で疲弊し
た我国には外地にいる日本人660万名(軍人軍属353万名、民間人306万余)を
引き揚げさせる余力は無く連合国とくに米国に頼るしか方法は無かった!…しか
し米軍が進駐した地域は引き揚げ作業がスムーズであったが独立運動が盛ん
な東南アジア地域の引き揚げは困難を極め引き揚げ作業が機動に乗ったのは
諸輪21年に入ってからで660万名の約95%が引き揚げが出来たのが昭和25年で
すでに敗戦から5年が経過していた。ソ連からの引き揚げに関しても21年5月に
アメリカとソ連の交渉に委ねられ12月に毎月5万名ずつ送還すると言う米ソ協定
が締結された。これを受けてシベリアから2555名を乗せた最初の引き揚げ船『大
久丸』が舞鶴に入港したのは同年12月8日の事であった。更に同日に樺太からの
第1次引き揚げ船『雲仙丸』も1927名を乗せて函館港に入港している。シベリアか
らの引き揚げは続いて22年1月6日までに1万9千名が帰国した。22年は19万5765
名が帰国、ソ連がタス通信を通して日本人抑留者の送還完了を声明した25年4月
までに約53万名が帰国したが…戦犯として有罪判決を受けた者も釈放されて最
期の引き揚げ船『興安丸』が1049名を乗せて舞鶴港に入港したのは昭和31年12
月26日の事であった。しかしその内の24名は遺骨としての帰国であった。またこ
の最終船に乗れず無念の涙を飲んだ日本人抑留者もまだ大勢いたのである…
それは、ソ連の判っている780箇所の墓地に眠る6万名とも8万名とも10万名とも
言われる名も無き日本人抑留者の無縁仏に眠る御魂であった。…長い間、ソ連か
ら墓参の許可が下りず初めてシベリア墓参団の遺族代表がハバロフスク、チタの
両市を訪れ追悼式を行ったのは敗戦から26年を経た昭和36年8月の事であった
。…膨大な数にのぼる犠牲者を強いられたシベリア抑留を思う時『この人達に戦
後は無い…』と言う有名な言葉である。…物知らぬ左翼も若者も主婦もTVのかす
かな偏向したニュースの知識に頼る乏しい歴史知識で反戦と平和を皆、口にする
が真の平和を語るには…これら同胞の凄惨な悲劇を知る事が一番では無いであ
ろうか?…戦後20数年も隠れ敗走した元陸軍兵長 故横井庄一さんや戦後30年
も一人ジャングルで戦って帰還した元陸軍少尉 小野田寛朗さん…自国の歴史
を学ばずして先の大戦を知らずして何の平和か?…昨今の風潮に強くそうした想
いが心より湧き…無知なる者の言葉にまた憤りを覚えます。…戦争は哀しい事で
す。勝てば官軍負ければ賊軍であり…敗れた国の国民の悲哀は我国が日本人が
本来一番よく知っている筈なのに…日教組教育と堕落した朝日新聞などの偏向し
たマスコミにより無知蒙昧な国民が多くなり果てている現状に憂国の想いを今更
ながらに強く危機感を感じる次第であります。…最後にこの鎮魂を改めて先の大東
亜戦争やその後の抑留生活その他で亡くなられた多くの我々の先人同胞の皆様
へその艱難辛苦を偲び哀悼の意を表します…合掌。
                                    憂国烈士










Remember Karafuto!

Remember Japan's Northern Territories!

Do not forget Russian's cruel doing!

Sneak thief's Russian!

Sneak thief in the Soviet Union!

We get back northern territories from a cruel Russian without fail.