嗚呼、鎮魂のパラオの沈船と航空機:慰霊の旅 V

(南海に眠る沈船と航空機、慰霊シリーズ)

(パラオの日本沈船と航空機達)










海軍給油艦 ”石廊(Iro)”



初期の頃の石廊です。まだ前後のマスト状の鉄塔が
二本になっていません。また前部に主砲がありません。
海軍給油艦 知床級 石廊(Iro)

基準排水量:14.050t
常備排水量:15.400t
  全   長:143.25m
  全   幅:17.68m
  吃   水:8.08m
 主   機:直立式3気筒3段膨張レシプロ蒸気機関1基
        1軸 3750HP(石炭1350t搭載)
 乗   員:157名
 速   力:12ノット
石油搭載能力:8.000t


*八八艦隊計画により増大する石油輸送を満たす為に
建造された帝國海軍最初の給油艦です。速力12ノットに
指定した以外は、三菱造船に設計を一任した大型油槽船
です。大正6年度の八四艦隊計画で2隻、7年度の八六艦
隊計画にて5隻が建造された知床級の大型給油艦ですが
経済面を優先させ、大量の石油搭載を目的としましたが、
洋上給油能力が無く、速力が満載時に12ノットに過ぎない
事など艦隊随伴能力が低いのが後に致命的になりました。
一番艦が”能登呂”、二番艦が”知床”でしたが”能登呂”が
水上機母艦に”、知床”が給炭油艦に改装された為、運用
上は、”襟裳”が一番艦と称されることもあるようです。また
”佐多”も途中から潜水艦救難設備を搭載し(”朝日”が潜水
艦救難艦から工作艦へ改装された為)多彩な任務について
いました。

”石廊”は、大正11年10月30日に大阪鉄工所桜島工場にて
竣工。呉鎮守府籍に編入されました。昭和16年10月31日に
第四艦隊付属に編入されました。開戦前に佐世保港を出港
し12月4日にクェゼリンに入港、8日に出港しウエーキ攻略作
戦を支援しました。以降は、トラックやラバウルなどを本土と
往復したり、トラック〜ラバウル間の輸送に従事しました。昭和
18年2月27日、ヤルート出港しヤルート西方にて雷撃を受け
航行不能となります。3月4日 ヤルート入港し修理。6月10日
大分県細島の南東海域にて雷撃を受け再び損傷。6月12日
呉入港し、11月30日まで入渠修理を行います。12月8日に
佐伯出港し、パラオ〜バリックパパン間の輸送に従事します。
昭和19年3月23日、パラオに入港。3月30日にパラオにて
米海軍機動部隊艦載機の攻撃を受け航行不能に陥ります。
翌31日に再び米海軍機動部隊艦載機に再度攻撃を受け大
破し総員退去となる。昭和19年4月17日、船体が完全沈没す
る。昭和19年5月10日、除籍。
まさに空爆を受けて船尾に爆発炎上し沈まんとする石廊
の断末魔の姿です。この写真からは、メインマスト状の
巨大鉄塔が二本になっているのが良く判ります。

石廊は、知床級の給油艦の五番艦です。知床級のプラモデルの
箱を紹介しました。同じ同型艦である”佐田”と共にパラオの海に
沈みましたが、佐田には一番艦の”襟裳”と同様に潜水艦救難
設備を搭載されていました。”佐田”は、完全に裏返しになり海底
に埋まっており入る入り口も無い為、サルベージも入らず当時の
まま海底に眠っています。中に侵入不可能な為、今回は潜水調
査の対象から外しています。
完成したプラモデルの石廊です!製作は、トラックのコーナー
で御馴染みの元ダイバー様です。まだ黎明期のトラックで若か
りし頃、キミオさんの友としてレックダイビングに傾倒されたプロ
ダイバーの方です。当時、訪れる人も少なかった小笠原でも
レックをされていました。




船尾の12cm45口径三年式単装砲です。船首にもあり合計2基
が設置されています。12cm砲と記録では、なっていますが海
中で私が砲口に手を入れるとすっぽりと入りましたので、20cm
砲以上の印象を受けました。この他にも記録では、8cm40口径
三年式単装高角砲が2基搭載されている筈ですが、船体に珊瑚
等の付着が多くて確認できませんでした。
船外から見た船首部分
ブリッジ側から見た船首部分




甲板より聳える様に突き出た約20mの鉄塔二基です。この画像は
一回目の潜水の時の画像ですが、二回目の潜水では、20m以上の
透明度があり…海面から潜行し二基の鉄塔の上を通り後部甲板に
潜行していきましたが、丸で空中から舞い降りるようなスカイダイビ
ングのような怖さを味わいました。長い事ダイビングを経験していま
すが、このような感じを受けた事は、初めてでした。

右は、ブリッジ内部の画像、左は、ブリッジから下の船室へ降りるラッタルです。


船室の中には、調理場や風呂、トイレなどが確認できました。
左は、剥き出しになった配線が垂れている画像、
下は、船倉内に無数に積まれたドラム缶です。

水中の状態は、こんな感じです!!



僅か二分位の映像ですがYouTubeに上げた動画です。
このページのMIDIの音源を止めてから御覧ください。


追加写真









陸軍 徴用貨物船 ”忠洋丸(Cyuyou Maru)”

       (Lion Fish Wreck)



軍徴用貨物船 忠洋丸

昭和18年に製造され東洋汽船の中型貨物船です。

 排水量:1.941t
 全 長:89m
 全 幅:12.4m

この船も昭和19年3月30日の早朝、パラオ在泊中に
米機動部隊艦載機の空襲を受け被害を受け、翌31日
に身動きのならない処で再攻撃を受けて沈没させられ
ました。船員十二名が戦死されております。
 現地では、ミノカサゴが船内に住み着いているので
”Lion Fish Wreck”と別名されています。この船は、
水深約40m付近に正立状態で着底しています。デッキ
付近で約水深30m位でしょうか。船の中央付近に煙突
が折れて倒れています。
船尾にある砲です。
砲口は、最後に狙いを定めたままなのか虚空を狙っている
かのように開いていました。

船首です。ここにブイが繋がれています。
歪んだブリッジが空爆の凄まじさを無言で物語るようです。


今は、誰も掴む者も無い舷側の手すり。



他の船も同様ですが…まさしく幽玄の世界です。
沈船でレックダイビングをしていると生者の世界から冥界の死者の世界
に足を踏み入れた感じを覚えます。まさしく手を合わさずに居られない場
所です。
機関室は、結構広いのですがシルトが堆積し、船の赤錆も混じって沈殿しているので
一人が入ると撒き上がり視界が困難となるので複数で入る場合は、注意が必要です。
船内は、まさに暗闇の世界です。ライトのバッテリーを切らしたり
ライトを落とすと帰還するのは、困難です。死の世界とまさに隣合
わせになります。右は、暗闇の船内の船室に浮かぶ絃窓の光で
す。
調理場と思われます。竈などがあります。
船の中央に両弦一本ずつ並列の鉄塔があります。また船主側には、左の画像のように
マストのような高い鉄塔がそびえ立っています。右は、吊るすボートを失った牽引柵。
左は、穴のあいたブリッジの中に見える弦窓と右は、その拡大です。キレイに窓が残っています。

付着物が多く判りにくいですがアンカーウインチやケーブルを巻き上げた束などです。

船尾には、3〜4個の弾薬箱や爆雷が装填された発射装置があります。






海軍 徴用貨物船 ”隆興丸(Ryukou Maru)”



貨物船 隆興丸

昭和17年製造。大洋興業に所属の貨物船。

 排水量:2.764t
  全 長:80m
  全 幅:18m


この船も昭和19年3月30日の早朝、高雄に向け
て船出するも、間に合わず米機動部隊の大空襲
で沈没しました。船員六名が戦死しております。
尚、この船は2月18日のトラック大空襲の際も
チュークで攻撃を受け火災を起こしながらも、別の
船の生存者を救助し積荷の弾薬を運ぶ為、入港し
ましたが、トラックの軍司令部から暗号で『パラオ
へ向え』と指令を受けましたが、これは米軍に解読
されていたようです。この船は、隠しブイが外国人
ガイドにより水面下約2mにあります。天候が良い
日に山たてが上手いオペレーターに当たれば難な
く見つかります。船は、水深約35mで正立状態で
着底しています。デッキ上で20m前後です。機関室
で31m前後でした。右舷後部に爆弾による大きな
穴が見えます。

船首の錨を巻上げるところです。

左は、ブリッジ側より見た船首部分。右は、船首部の手摺です。
左は、船倉の下部デッキより船首部の砲台部に上が階段。
ブリッジ内部です。攻撃と火災により骨組みだけになっています。
左は、船倉内部。右は、機関室の内部です。
中央船倉かの下部デッキより艦橋に登る右舷側の階段
左舷側の階段ですが煙突か鉄塔が倒れています。
右は、かろうじて天井が残った艦橋部分です。
左は、20mm単装機銃です。デッキ上部が抜けた為、艦橋内に落ちた物です。
20mm機銃の土台の部分が写っています。右は、艦橋内部から外を見た画像
です。
こちらも空爆で上が穴だらけの艦橋内部です。
下部デッキ上に散乱する機械関係と20mmと思われる弾薬類。
一番左は、かろうじて残るマストのような鉄塔。右の二枚は
左舷側の艦橋上部部分で骨組みの状態です。






陸軍 ”大発(大型発動艇:Dai-Hatu )”



大発は、鉱鉄製の上陸用舟艇です。前部が上陸時に開き、ここから兵員
や車両が上陸できる仕組みになっています。ここパラオでは木製大発(
鋼材節約のため船体を木製に変更したタイプ。特に戦線が拡大するに連
れてこうした省エネタイプが多くなりました)や合板製大発も最もポピュラ
ーなD型大発と共に水中廃棄されている姿を見る事が出来ます。

撮影場所は、マリンレイクSPと言うポイントにあります。敗戦後に陸上か
ら海没廃棄処理したようです。ここだけで6隻の大発が処分されています
。最大水深は、10m以内と浅瀬にあります。大発以外にも様々な旧軍の
物が廃棄されています。現状では…D型大発一隻は、前部の解放扉が開
いた状態で、完全に残っていますが、その他の木製大発や合板製大発は
…かなり朽ち果てております。




  ≪大発(D型)≫
 
 =基本スペック= 

全 長

14.8 m

全 幅

3.3 m

全 高

m

重 量

9.5 t

乗 員 数

完全武装兵員70名、又は、物資11t

装 甲 ・ 武 装

備 考

トラック4台分の輸送力を持つ

機 動 力

速 度

9ノット(16km/h ・ 空 荷)
8
ノット(14 km/h ・ 満 載 時)

 エンジン

ディーゼルエンジン
60
馬力



船体の殆どは、朽ち果てて崩れていますが全部の開口部付近は、
鉱鉄製なのできれいに残っていました!鋼鉄製の大発はこのよ
うに船体が良く残っていますが…多くが木造大発や合板製大発な
ので多くが朽ち果てて原型をとどめません。
典型的なD型の大発と思われます。


鉄製部分は、残っていますが木製部分は、かなり朽ち果てています。
発動機部分です。

船体内部です。かなり残っている方です。
内部に燃料として積まれていたドラム缶のようです。
上の残骸は、大発(D型)では無く…合板製大発です。無残な朽ち果てぶり
と捨てられた透明度の悪い沼のようなロケーションに涙が出そうになりまし
た。敗戦国の軍隊の悲惨な末路が…水中で身に沁みました…。
木製大発と明らかに違う合板製大発も身受けます。
この大発は明らかに合板製と判ります。



旧軍の使用した資材、工具から機械まで夢の島のように
海中に投棄されています。鎖から大型ウインチまで…。


旧軍の使ったコンクリの塊りです。石が荒いのが良く判ります。
視界が悪く透明度は、2〜3mでしょう。
まさしく皇軍の墓場のようでした。

戦後60猶予年でここまで朽ち果てました。後10年で無くなる様な気がします。

溶接等に使用された大型ボンベでしょうか3〜4本が捨てられていました。



小西社製の50分の一の大発(D型)の模型です。
大発の模型です。敗戦までこの大発に多くの日本兵が小銃を持ち支那大陸から
東南アジアから太平洋の島々、アリューシャン諸島に至るまで上陸の際に使用
されこの小さな船から戦地に上陸を果たしました。戦争が拡大してからは鋼材
節約のため船体を木製にした大発も多く見られましたが…陸路や空路で外地に
入った一部の将兵や大きな港から大型船で降り立った将兵以外は別とし…多く
の日本兵が世話になった代表的な上陸用舟艇です。島嶼戦がメインだった南方
では本来の上陸用舟艇の用途だけでなく海上輸送や警備、連絡など様々な用
途に使われました。







支那大陸での大発の小発…海上は勿論、河川など水上輸送において
八面六臂の活躍をし多くの日本兵の戦場での移動を行いました。










陸軍 徴用貨物船 ”天塩丸(Tesio Maru)”



貨物船 手塩丸

所属:三井船舶

排水量:2.840t
 全 長:98.1m
 全 幅:15.8m



こちらの船も昭和19年3月30日パラオより
高雄へ向けて避難中にアラカベサン島の
西岸沖で米艦載機の空襲で被害を受け、
暫らく漂流した後に沈んだものとされてい
ます。船員三名が戦死しております。
上の図は管理人である私の手書き
ですが、右舷を下にして、左舷を海面に向
ける形で横倒しに着底しています。上図で
言うと右が船首です。その丸は、陸軍の高
射砲がそえられている台座です。中央から
後部に掛けて船倉等も空襲による破壊が
激しくブリッジ内部も空洞に近い形で被
害が甚大でした。
ここは、PPR沖で潮の流れもあるので比
較的に透明度(15〜18m)が良いので良
く観察できます。水深は、着底部で25〜
30m前後と浅く、平均して16m前後で見
て回れるので初心者でも見に行ける船だ
と思います。

艦橋部です。中は、爆撃で穴が開いています。



今も誰か船員が走り出してきそうな左舷側の通路。判りやすいように
写真を真っ直ぐにしていますが、実際は、横倒しでこの左の部分が海
面を向いています。


艦橋の操舵室です。所々、上も下も穴が開いています。






船首部の高射砲です。こちら側は、装填する後部です。
船首部と高射砲です。船首部の船外からブリッジ方向に向けて撮影しています。
左は、船首をブリッジ側の横から撮影した感じです。右は、高射砲を上から見ています。
左は、高射砲の砲口部分です。多分、7.5cm砲だと思います。
右は、高射砲の台座の部分です。
左は、高射砲。右は、中央船倉への下部デッキから見上げた船尾砲方向の左舷です。
鉄柱や鉄のパイプが折れていて空爆の衝撃の凄まじさを物語っています。
上と下の画像を見ると横倒しの船体である事がお判りと思います。


吊るすべき救命ボートを失って墓標のように見えます。
船尾部です。



中央から後部に掛けて激しい破壊の跡が見て取れます。
厨房です。竈やオーブンのような物がありました。右は、厨房のタイルです。


物言わぬバケツや船内の一輪の荷車などが物悲しい感じでした。








零戦(Zero戦)U ”Zeke Fighter WreckU”



このポイントは、浅すぎて難所です。水深1〜2mの所にあり満潮の時でも
ボートを近ずけるのが困難です。かといって人のいる島より遠いので、カヤッ
クで行くわけにもいかず…シュノーケリングでいったら遭難しそうな所です。
無理を言って近くに船を侵入させて、そこよりシュノーケリングで行きました。
帰りのボートは、エンジン二機を半分上げて騙し騙し浅瀬から離脱しました。
御覧のように遠目からも零戦のプロペラが出ています。これは、墜落時にエン
ジンが止まっていた事を意味します。このパイロットは、予科練での若い少年
のような海軍軍人で無事に泳いで帰還したと聞いております。
エンジン付近です。一番下に入れた91年3月の発見当初の画像に比べると
かなり朽ち果ててきているのが判ると思います。エンジンカウルの特徴から
や集合排気管の形などから零戦の一一型〜二二型では、ないのかと思わ
れます。
搭乗員の座席(シート)が横を向いて残っていました。
朽ち果てた機体の中に酸素ボンベと思われるものやレバー類が残っていました。
フラップ切替レバーとか、脚切替レバーとかだと思います。


7〜8年前の頃の状態!
91年3月の発見当時の画像です。約15年前です。


追加写真

海面に突き出たペラが哀しげでした。







零戦(Zero戦)V ”Zeke Fighter WreckV”



この零戦は、見つけるのに一苦労しました。クルコンの社長が
最後に見た5年前の記憶を元に山たてしましたが…ダブルリー
フの傍でドロップオフになった傾斜の近くという事で探しました
が近くにダブルリーフが二箇所あり結局、両方を探して長い時
間を掛けて社長が探し出してくれました!!水底20mに眠るこ
の零戦は、逆さまに砂地に埋まっています。このゼロも上のゼ
ロと同様にプロペラが折れて破損したり、曲がって歪になって
いません。上と同様にエンジンが停止した状態で海中に没した
事を意味します。また現地の方の伝聞では、こちらのパイロット
も戦死せず無事に帰還したとの事です。
エンジン部の単排気管を見ると明らかにA6M5(五二型)と
思われます。しかし主翼の補助翼は、五二型のものでなく
二一型と同じタイプでした。



誰かが昔、目印にブイを打ったのでしょう!胴体横に破損した
ブイが沈んでいました。
外洋に近く潮の流れも強いので透明度は、20mと良好です。
また上の零戦のように波を被る事も無い為か段違いに保存
状態は、良いのですが…こちらもかなり朽ちています。いつま
で持つものでしょうか?
気化器は、潰れて判りません。

エンジン部分です

少し潰れていますが単排気管が良く判ります。
上下とも主翼内の主輪が納まっているのが見えています。
タイヤフェアリングが歪んで開いています。


増槽の取付部分!…内部の接合部は、破壊を免れていました!


両翼の20mm機銃とピトー管が生きているの感動!
また打穀放出孔に更に感動しました!!




コクピットは、完全に砂に埋もれてどうにもなりません!

機体の外に投げ出されるように大小の二つの箱状の物体が
ありました。左は、小さいので無線管制機でないかと推察し
ています。右は、大きいので配電盤ではと想像しました。
左端は、尾部の構造ですがかなり朽ちています。右は、尾輪を保持した支柱です。
尾輪は、探しても見つかりませんでした。外人当たりが持ち去ったようです。



上は、コクピット後方の胴体部分に開いた長方形の穴です。
五二型丙から新設されたという胴体内作業用の明り取り窓
では、無いかと思います。カメラを突っ込んでみましたが、砂
だらけでした。下は、着艦フックの出る縦長の部分です!






海軍 徴用油槽船 ”あまつ丸(Amatu Maru)”

        (Black Coral Wreck)




油槽船 あまつ丸

排水量:10.567t
全 長:153m
全 幅:20m

昭和18年 三菱造船製造
       日本海運 所属


昭和19年3月30日、昭南(シンガポール)
より重油を満載しパラオへ入港。重油を揚陸
中に米機動部隊の空襲を受け撃沈される。
船員十名が戦死しております。

あまつ丸は、1万トンクラスのタンカーで
海軍の正規のタンカーである石廊と同型
艦の佐田に次ぐ、パラオ最大級の沈船の
一つです。この船も昭和19年3月30・31
日の大空襲で沈められています。何度か
サルベージを受けている船のようです。
水深約40mの海底に正立状態で着底し
ています。デッキ部分で丁度、水深約30m
になります。結構、大きな船です。

船尾は、空爆の影響で大きな穴や捻じ曲
がった鋼鉄の残骸が無数にあります。また
円形の砲台の台座なども歪んだ形で見受
けられますが備砲は、紛失し見当たりませ
ん。タンカーですのでデッキ上は、大小の
鉄パイプやホース類が雑然とあります。ブリ
ッジは、三層構造ですが上部層の操舵室は
まだ機器類も残っています。

戦後の50年代初頭に一部で引き上げを開
始しましたが失敗に終わったようです。アン
カーとアンカーウインチが取り除かれてあり
ません。しかし一部、アンカーの鎖が残存し
ています。この船体を爆破分断して引き上げ
しようとしたサルベージ会社(日本の)は、船
に仕掛けた爆破装置が火災を起こす事故に
遭い二名の作業員の犠牲者を出して引き上
げを断念したそうです。
まさに沈没寸前の断末魔の”あまつ丸”

左は、下部甲板から艦橋部に上がる階段。右は、その艦橋の一部。
和式の水洗トイレが並んでいました。仕切りのドア等は、木製の為、
焼け落ちたのか朽ち果てたようで残っていませんでした。
左は、トイレの汚水管。右は、操舵室内のヒューズボックス。
船室の弦窓が割れもしないで存在しています。

ブリッジの中層部分だったと思います。
操舵室内の崩れた配電盤等が散乱していました。

モーターや小型ウインチまで色々とありました。

ブリッジ下層にあった資材関係でしょうか。機器類やコイルなど様々。

右は、ブリッジ内にあった空いた金庫です。船長室だったのかも
しれません。左は、割れた陶器の破片です。

艦橋部の最上部の手摺。操舵室への天井は、爆撃で穴が空いています。

いたるところにパイプ類があってタンカーらしさを感じさせます。
船内外に意外と多くのキャットウォークが存在します。


船首の両弦のアンカーの鎖を巻上げる穴が左右です。真ん中は、その穴を
覗いた画像です。遠くに外界の海の青が覗き繋がっているのが判ります。
左は、ブリッジ側から見た船首。右は、アンカーの鎖を巻上げた
ウインチへの経路となる左右の一部です。
左は、外側から覗いた船首の手摺。右は、内部です。
左は、船首の内側です。右は、船首の両弦のアンカーの鎖を巻上げる穴です。



厨房です。右は、竈です。
一番右は、資材倉庫に続く扉、真ん中は、中の資材。
左は、更に下へ続くラッタルへの入り口です。
石油を通す無数のパイプが走っていました。






2006年10月のレックダイビングの様子



最終日のチャーター船です。いざ出陣!!
現実のレックダイビングは、地味で労力のかかるものです。大海原に
沈む船や飛行機を探し出して潜るのですから仕方ない事ですが…。
まずは、伝聞や英文のバイブルとなっている学術書などの地図から
おおよその沈没地点を山たてする事から開始します。そしてボートか
ら数名でフィンとマスクで海面を流しながら探索し、手掛かりを探しま
す。外国人が良く行く沈船の場合は、隠しブイなどが海面下2m位に
仕込んである場合もあります。その後、試験的にタンクを背負い潜り
ます。当たりがあると実際にカメラやビデオを持って実際に潜ります。
画像のように船内のタンクは、EAN32のナイトロックスのエンリッチの
タンクで深い反復潜水にも耐えるように用意して使用しました。これは
通常のダイビング用のタンクが空気の21%酸素であるのに対して、酸
素分圧を32%まで上げたエアーを使用しています。これにより減圧不
用潜水時間が大きく伸びると共にダイバーへの負担も軽減されます。
突然のスコールの中、未だ見ぬ海底の沈船を想い海面を見つめるダイバー達。
水中の沈船を発見して浮上した探索ダイバー!
タンクを背負いカメラや撮影器材を手に海底に向うダイバー達!
零戦Uにて何時もの様に水中ビデオと
デジカメを持ち撮影している管理人(憂
国烈士)の姿です。






グース島(ウス島?)の不明な旧軍双発機の
        残骸と島に残る施設跡



ロックアイランドの無人島の一つであるグース島または、ウス島です。
ヒヤリングが上手く出来ずどちらか不明です。…ここのビーチと海岸に
は意外なものが存在していました。一つは、ビーチの沖に沈む旧軍の
双発機の主翼が二分割された物。もう一つは、ビーチの奥に存在する
戦前は、銀座の有名な真珠店であるミキモト真珠の真珠養殖所跡地と
言われています。で戦時中は、軍が使用したようで激しくい弾痕や攻撃
の後が残る建物や施設跡が残っています。

ビーチ沖に僅か水深2mに沈む双発機の主翼の残骸です。
丁度、上の図のような形に二分割され海底に沈んでいます。
話によると島の山頂の絶壁の上(登る道がありません)に
爆発炎上した機体が密林に引っ掛かっているという話です。
上れる道も50度以上の大絶壁の密林ですのでロッククラミン
グの装備でも鉈を使いながらでないと登れないのでヘリでも
チャーターしないと確認できないようです。推測は、上空で米
軍機に攻撃された日本軍の双発機が爆発炎上し空中分解し
機体の大部分が島の山頂部の絶壁に片翼が島の海中に没し
たものと思われます。翼にエンジンが無く何処か途中の海に
脱落して落ちたか山頂にあるものと想像されます。
二分割された翼の先端の方が左です。弾痕のような穴
があります。翼の鋲は、明らかに枕頭鋲です。

主翼内の翼内(燃料)タンクがあります。下の右は、外れたフラップです。

上は、エンジンが付着していた部分です。エンジンは、近くには見当たりません。



リブの部分でしょうか。非常に軽量でジュラルミン製と思われます。
このような戦争の跡がパラオには、無数に点在すると言われています。


戦前、パラオでは、真珠養殖の取組みも積極的に
行われていたようです。この島も伝聞によるとミキモト
真珠の養殖場の跡地と言われています。以下の画像
の施設は、ミキモト真珠(東京・銀座)だったと言われ
ています。戦時中は、この養殖は既に中止されていた
ようです。恐らく水があり鉄筋コンクリの施設があり
天然の港のような入江を持ち、小さなコンクリの桟橋
もあるこの島は、軍の駐留する施設になったものと思
われます。前のページで紹介したオモカン島よりも良
い格好の島です。この施設の殆どが密林に覆われて
いて良く探さないと見過ごしてしまいます。建物の残
骸は、弾痕が残り明らかに攻撃により破壊されてい
ます。また完全に上部構造が破壊され土台だけにな
っている物も探すとかなり見つかります。


以下のURLは、参考までにMIKIMOTO様のサイト
です。
http://www.mikimoto.co.jp/

その後、MIMOTO様にお問い合わせしておりましたが
結果が、文面で寄せられました。

お話では、戦前の御木本は、確かにパラオで真珠養
殖場を開設しておりましたが、戦争の影が落ち始めて
開戦の前年の昭和15年に全員が引揚げられたとの事
です。

大正6年設立の南洋産業(株)を大正11年に御木本が
買収し、養殖漁業権の免許を受けて真珠養殖事業を
開始。この海域では、日本で使うアコヤガイと違い、
クロチョウガイという品種の真珠貝を使用する為、伝統
の養殖技術を活かせず、事業的には成功とは、言えな
かったようです。

(株)御木本真珠島の真珠博物館々長の松月 様から戴きました
資料のコピーからの抜粋です。改めまして御丁寧に御回答をいた
きました事を真珠博物館々長の松月 様に感謝いたします。


元々、民間施設であるのでコンクリは、薄い構造です。無数の
弾痕が見られます。下は、水道管の通った跡のある施設です。
水が中に溜まっているので井戸水を使っていた可能性がある
と思います。






周辺には、破壊され土台だけになった施設跡が無数にあります。


荒いコンクリートが基にある小さな桟橋です。現代にものでなく
戦前のミキモト真珠時代に作られた物と思われます。
乗ってきたダイビングボートです。
美しい小さなビーチです。左下を見るとお判りのように天然の入江となっています。
ここに船を入れると目隠しになります。






  アラカベサン島の旧海軍水上機基地の跡

(現在のPPR:パラオ・パシフィック・リゾート
                    及び日本大使館)





現在、パラオ屈指の高級リゾートのPPR(パラオ・パシフィック・リゾート)
と隣接する日本大使館の敷地全体は、と言うよりもアラカベサン島自体
が旧日本海軍の巨大水上機基地でありました。このPPR自体がその土
台の海辺の鉄筋コンクリートで固められた広大な敷地を最大限に利用し
ホテル等の施設を建てたと言う方が正しいかもしれません。上下の画像
は、PPRの端の小さな岬の付根に当たる部分に置かれた碑文です。ここ
が南西部水上基地であった事が記載されています。
アラカベサン島海軍水上基地

滑走台:幅45m×1、幅85m×1
格納庫:900u×2、3000u×2
居住施設:士官宿舎4棟、兵舎4棟
燃料庫:200u×1、250u×1
爆弾庫:250u×2
魚雷調整所:700u×1

大型飛行艇も使用できました。パラオは、
昭和12年の海軍補充計画で二個飛行艇
隊に陸上攻撃隊が各二隊ずつ配置されて
特設航空廠が置かれて航空機整備がなさ
れました。戦時下では、開戦時に第104航
空廠が設置され、開戦の前年の11月末に
第四艦隊隷下の第三根拠地隊が新編され
パラオに司令部が置かれました。この隷下
に水上機12機を持つ第七航空隊、第四砲
艦隊、第五十五駆潜隊、第十三防備隊な
どが配置されました。
現在、PPRのカヤック置き場と化している岬の反対側に当たる
水上機を引揚げるスロープが残る部分です。
コンクリは、一部、崩壊が始まっています。
上の画像の↓部分が上下記画像の岬の反対側の基地跡です。








所々にコンクリにこのような金具や固定具があります。
恐らく水上機を固定したりに使ったものと想像します。




ここは、PPRの正面側で岬の付根の北側の水上機の
引揚げスロープの残る基地跡です。
恐らく司令部跡の正面に近い基地跡ですのでメインで
使われた水上機用のスロープだったと思われます。今
は、ボート用の桟橋とカヌーやマリンスポーツ用に使用
されています。

このアカラベサン基地の当時の様子が僅かですが古い出版物に
なりますが朝日ソノラマ社の”死闘の水偵隊”(原題”予科練魂”)
に記載があるので紹介します。この本の筆者は予科練(甲飛2期)
出身で日米戦の開戦から敗戦まで水偵操縦搭乗員として長く零式
水偵で戦い大戦末期は高速偵察機である艦上偵察機”彩雲”に
搭乗し大分空で第五航空艦隊の宇垣特攻を冷やかに見送り敗戦を
迎えています。敗戦時、海軍少尉(特准)。

…パラオは規模の大きい珊瑚の環礁の中で、青い海と外国調のダ
イバー船の群れで私を待っていた。映画のシーンそっくりなのであ
まり驚かない。着水した(零式水偵)アラカベサン基地は、少年倶楽
部の口絵に出る未来船の基地に似ていて嬉しかった。新格納庫、
高い無線柱、広いコンクリートの広場、白塗りの指揮所と、近代戦
用基地である。四発の大型飛行艇が十数機見え、活気にあふれて
がいる。牽引車で引き上げてもらうと…。

僅かな記載ですが国内の基地から開戦の準備で艦隊と共に南下し
たパラオで重巡”妙高”の艦載の零式水偵が翼を休めにアラカベサ
ン基地に舞い降り…思わぬ豪華な装備の基地に驚いているのが伝
わります。また割愛しましたが、予科練の同期の仲間が九七式大艇
で配属されており旧交を改めあっております。この後すぐに開戦で
昭和16年12月8日…運命の大東亜戦争対米英戦の開幕の日です
が彼はルソン島レガスピー北方のスリガオ水道で索敵偵察を行っ
ています。その中で陸軍は上陸し、空母”龍驤”の艦載機がレガス
ピー飛行場の敵を襲撃しています。



PPRに隣接する敷地で岬の付根にあるのが現在の
日本大使館です。両方の水上機のスロープのある
基地跡から500mも離れていない位置関係です。
小さな大使館です。基地との位置関係を考えるならば
昔は、ここに色んな日本の施設があったのだと思われ
ます。
入り口の上に菊の御門が輝いておりました。



PPR正面車寄せの脇、目立たない所に従業員用宿舎があります。
その横の密林の中で発見された建物です。密林を伐採するとかな
り大掛かりな軍用施設だったのがわかります。ぺリリュー島にあっ
た旧海軍病院(現博物館)より少し小さめ位の分厚いコンクリの2
階建ての建物です。脇には、貯水用のコンクリの溜池のような物
や土台だけになった跡があります。日本大使館とここも300mと離
れていません。この辺りが南西水上機基地の司令部のあった場所
と思われます。ここは、その施設だと考えられます。





このコンクリートの分厚さが民間施設でなく軍用施設であった
事を物語ります。





水上基地のある岬の高台に現在は、地元の人のデート
スポットになっている見晴台があります。ここは、旧水上
機基地の見張台や防空指揮所のようなものがあったも
の推測されます。今や土台の跡と高台に上るコンクリー
トと石垣のような階段基礎だけが残っています。また岬
の突端の前に破壊された建物の残骸と小さな建物が残
存しています。ここも見張りの施設と無線または有線施
設を兼ねた施設などであったと想像します。
高台の上は、地元のカップルが戯れています。あちこちに
日本軍施設の土台が残っています。



小さな建物にも関わらず入り口の高台側以外の海に面する三方に
大きな開窓があります。明らかに海を見張っていた海軍の施設と
思われます。横にも施設があったようですが土台と基礎だけが残っ
おり破壊されたようです。上に掲載した碑文では、コントロールタワー
と記載されていますが、どうも場所等を考慮すると見張り台のような
感じしか受けません。





右の画像がこの建物の先にある岬の突端です。
高台に至る道は、雑な珊瑚の石垣の上に粗いコンクリートで
塗り固められています。手摺だけをPPRが増設したのでしょう。
かなりの急勾配です。






おまけです!…その他の
  軍事施設の跡と旧日本統治時代の面影



マラカル湾に入る水路の片側の狭窄部の島の先端に設けられた
洞窟陣地です。矢印は、トーチカです。内部は、掘られて繋がって
いるそうです。海岸砲も設置されています。今は、台座から落ちて
錆付く砲身を海に向けています。




海岸砲と洞窟陣地




日本統治時代の郵便ポスト
現在の最高裁判所ですが、昔は南洋庁のパラオ
支庁舎でした。この辺りに日本人街があって賑わい
を見せていたそうです。
南洋神社跡です。今は、灯篭と石段が残るのみで
すが往時は、立派な鳥居と社殿のある官幣大社で
した。
コロール島の旧マダライ波止場。大型船は、
パラオ港に入港後、小型船に乗り換えて上
陸したそうです。

埠頭から街へ通じる大通り。椰子の木が両側に
並木を作り、両側に瀟洒な家々が建ち並び賑わい
を見せていたそうです。

パラオ郵便局の無線電信所。






終わりに。



帰国早々に、一連のページを立ち上げたのは、現地での感動や想いが消え
去る前に記録にしたかったからに他なりません。趣味や仕事でたくさんの南
国の海を旅し潜りました。旧軍の戦場であった島々も多くありましたが、ぺリ
リュー島ほど色濃く戦争の名残を今も深く焼き付けている場所は、少ない物
と思います。今後、私の中で慰霊に行かなければならない候補地としてガダ
ルカナル島、ニューギニアなどがあります。これらの戦場は、戦闘よりも悲惨
な飢えと病が深刻であった事、そこがぺリリュー島や硫黄島と一線を画して
いる気がします。いずれにしろ大東亜戦争、緒戦の戦いを除き昭和19年以
降の末期の戦争では、唯一、対米戦で敵に一矢報いたと言えるのは、この
ぺリリュー攻防戦と硫黄島の戦いです。マリアナの戦いに学んだ中川洲男
陸軍大佐が要塞作りの神様を招き…短時間で徹底した要塞化を果たし、そ
の守備戦も、これまでの日本軍の水際撃滅戦を大きく変更し、初めの打撃を
与えた後、水際で玉砕せず、後方に退いて再度、体制を整えて敵に打撃を

与えると言う、グアムやサイパンであったような玉砕戦を完全に避けました。
また主力を成した水戸の第二連隊(中川洲男 連隊長)は、絶対国防圏という
構想の中で、新防衛線に配備する戦力を関東軍から転用することとなりまし
た。パラオには、その中でも関東軍で最強と謳われた第十四師団(照兵団)
の派遣が決定しました。
昭和19年4月に第十四師団(師団長・井上貞衛中将
)はパラオに到着。第二連隊(水戸)、第十五連隊(高崎)、第五十九連隊(宇
都宮)がパラオ本島、ヤップ島、アンガウル島などに展開しました。このパラオ
地区集団は、当初、グアムにあった第三十一軍(小畑 陸軍中将)の隷下でし
たが、昭和19年8月11日にグアムが玉砕した為、パラオ地区集団は9月1日、
南方総軍に編入され、連合艦隊の指揮下に入りました。こうしてパラオは、日
本に残された最後の外地基地となり、米軍にしては、フィリッピン攻略への大
きな足掛かりとなりました。しかし、この陸軍最強を謳われた精強関東軍の甲
部隊がぺリリュー島に入った事は、米軍にとって最大の悲劇であったといえま
す。歩兵第二聯隊に砲兵一個大隊、工兵一個中隊が加わり、高崎の歩兵第
十五聯隊から一個大隊、山口旅団から一個大隊、戦車一個中隊、機関砲三
個中隊が増援され、海軍航空隊の基地警備隊が加えて守備隊の総勢は約1
万名に登りました。島内は、縦横に洞窟を掘り500以上の壕が出来、要塞化さ
れ、水際には、乱杭を打ち機雷を敷設し米軍の来襲を待ちました。

こうした結果、昭和19年9月末には、
米海兵第1師団は、60%の兵力を失い、
アンガウルでの作戦を完了した米陸軍第81師団に交替するが、これも上陸後
1ヶ月半で死傷者は軽く1万名を超す被害を出しました。こうした奮戦は、帝都
の陛下の耳にも達し、陛下は毎日、臣下にぺリリューの様子をお尋ねになられ
ました。陛下の感状は、3度に及び全軍がこの勇戦に士気を鼓舞したと言われ
ます。

また特筆すべきは、パラオ人と日本人の関わりです。非常に深い信頼関係と友
情が当時、結ばれており…これが戦後の深い親日感情に繋がっています。多く
のパラオ人は、日本人の統治前にドイツなどの白人の統治を経験しています。
ぺリリュー島では、現地人の大人も子供も、日本軍と一緒に戦う決意を持ってい
ました。しかし日本軍は、住民を戦火に巻き込みたくない配慮から、船舶の乏し
い中をやりくりし、夜間に空襲を避けて…何とか全員をパラオ本島に退避させまし
た。戦争が終わり…ぺリリュー島に帰島したパラオ人が、腐敗し放置された日本
兵の遺体を見て涙したと聞いています。米軍は、自国の兵士の遺体だけを持ち帰
り日本兵の遺体は、野晒しにしていました。西欧キリスト教の白人国家の本性を
見る想いがパラオ人にあったそうです。その後、島民は…こぞって日本兵の遺体
を葬り、また日本人がいつ来ても良いよう、その後も墓地の清掃に心掛けてくれ
たそうです。

かの地には、日本人より日本人らしい大和魂と精神性を口にする高齢者が居ら
れたそうです。今や日本統治時代を知る現地人は、少なくなりました。それでも
私が日本人と判ると一生懸命に話しかけてきます。彼等が尊敬し憧れた日本と
日本人が…今や別な存在になろうとしています。誇りを失い、欧米化し…精神性
よりも拝金主義に近い社会を形成しています。そうした事が非常に後めたく、彼
等の目にどう映るのか?…哀しいかな忸怩たる想いがしました。

最後に昭和五十六年一月にパラオ共和国が誕生しましたが、この時に日本の国
旗である”日の丸”をデザイン化した国旗を制定しています(以下)。
        
               

丸の黄色は月を現わし、青地は海。日本の太陽の反射を受けて輝きたいとの島
民の気持を現わしているそうです。
これだけの親日の想いを我々、現在に生きる
日本人は、どう答えていけば良いのでしょうか??…これ以上、彼等の持つ親日
の感情も、敗戦前の日本人への尊敬や憧憬の念を壊したくない気がしてなりませ
んでした。

 
  2005年10月
    
        憂国烈士



追記

2006年再び、パラオへ戻り昨年に引き続きパラオの海に眠る沈船と航空機を潜り
ました。前年は、用意の無い形で行きましたが、今回は撮影用の明るい水中ライト
も二個持参し万全の形で渡航し目的を無事に果たす事が出来ました。

またレックダイビングの多くが日本人よりも外国人の方が盛んであり、パラオにはチ
ューク(トラック)に劣らない数の同胞が眠る沈船が眠っているに関わらず、日本人
に見向きもされない事は、非常に悲しむべき現実だと痛感しています。本来であれ
ば自国の船であり同胞が眠る船を日本人ダイバーとガイドで潜る事が筋ですが…こ
れが日本人ダイバーには、レックダイビングが人気が無い事と、これにより全くニー
ズが無い事で日本人経営のダイビングショップでレックダイビング自体を行う店自体
が皆無近く、戦没沈船をガイドする日本人プロダイバーが居ないというのが現状です
。昨年から現地の日本人ダイブショップさんに御願いして戦没日本沈船・航空機のレ
ックポイントの拡大を御願いして同時に日本人ガイドによる日本沈船のレックダイビ
ングの確立に重点を置いて、若い日本人のダイバーが鎮魂と歴史を知る意味で気
軽に戦没沈船へのレックダイブを行えるようにと考え、今年も出かけてまいりました。

現地の日本人プロダイバーの方の中で、日本人ダイバーはお魚さんが大好きでにレ
ックダイブをする習慣が薄く、外国人にレック人気が高い事を敗戦国と戦勝国のメン
タリティーの違いと捕らえる向きもありますが、これには異論があります。70年代か
ら80年代にかけてチューク(トラック)や小笠原などでで戦没日本沈船のレックダイブ
を行ってきた数少ない日本人パイオニアである元プロダイバーの大先輩の元ダイバ
ー様(HN)は、メールのやり取り中で、こう書かれております。以下

『…沈没船ダイビングは中途半端な自信の持ち主では楽しめないと思いますし、また
同時に、本を読み、いろいろと想像を巡らす人間でないと、その醍醐味を味わえない
と思います。残念ながら日本人ダイバーの平均的力量は欧米人より劣るように思えま
すし、欧米人でダイビングが出来る人は、軍人以外では経済的に余裕の有る人が多
かったと感じましたが・・・・これらの階級の人は、よく本を読んでいるようで、船につい
て様々な事を良く知ってました・・・日本人ダイバーで読書量が多い人は少数派です
ね、歴史的なことに興味も向かないのではないでしょうか。 
 私が話した欧米人のダイバー達、はかつての敵の船だから見ようというのではなく、
沈没船だったら何でも良いという感じでした。フロリダの沈没船だろうが、グアムの
ドイツ船コルモランだろうが何でも良いって感じのようでした。 
 本を読んで沈没船に興味を持ち、船内に入って、本で得た知識で当時を想像し、タイ
ムスリップした感じを味わうのはぞくぞくするような快感でもあると思います。船の中で
ライトの光、窓から差し込む光の美しさ、シルトに埋もれた生活用品を発見する驚き等々
・・・。沈没船ダイビングとケーブダイビングは、ダイビングの中でも最も危険と言われてます、
自信と知識が無いとどうしようもないです。…』

…まさしく
元ダイバー様の仰る通りであります。旅に出る場所が同胞先人が多数の血を
流し国家と民族の名誉の為に戦った因縁の地である事も…美しい海の下でまだ遺骨を
回収もされず眠る戦没沈船が多数ある事も…どれだけの若い人が知ってダイビングに
来ている事でしょうか?…日本人のプロガイドの方でもそうした深い造詣や少なくとも
興味を持つ素養のある方がいるか、いないかで大きく、今後を左右します。ただ潜って
も美しい海でもありますが、我々、日本人にとっても大きな関わりの深い地であります。
歴史的背景を学び先人同胞の皆様の足跡を辿り、日程の僅かな時間を割いて慰霊を
行っていただければ、当地で亡くなられた英霊の皆様方もお喜びになられるものと想う
次第です。

最後に現地のダイブショップの Cruse Control の橋ゾー社長とメインガイドの田中さん
には、大変お世話になりました。こちらよりリンクして御紹介させていただきます。

     


  2006年10月21日
      
          憂国烈士


素晴しい名ガイドの田中氏とクルコンのスタッフ皆さん!
今回、バディとしてパラオ入りしたA氏!8月にOWを取り
AOW講習を終えたばかりの中年ダイバーですが…頑張
りました!!






戦場の下の海(パラオとぺリリューの海)



戦場の島々の下にある海は、世界中のダイバーが憧れる豪快な海があります。
ダイバーなら一度は、訪れたい海があります。オマケにそうした海の一端を御紹
介致します。
お判りでしょうか?…カレント・フックに捕まったダイバーの呼吸したエアーがずっと
後方に激しく流れていくのが。…これが激流と言われる海の所以です。

南国の海を代表するバラクーダとギンガメアジの群れです。
左は、ギンガメアジの群れ、右は、アオウミガメとタイマイの2大海亀のすれ違いショットです!


これは、ビック・ドロップ・オフというポイントにある鉄球です。
多分、防潜網の一部だった物と思います。昔は、対岸の島ま
で繋がっていたと言われています。今は、この鉄球とそれを
固定してる大きな鉄鎖のみが残されています。旧日本軍の
物と思います。
様々なサンゴが海底庭園のように見事に咲き乱れています。


大きな大きなシャコ貝です。


有名なブルーホール(ブルーホールは、パラオとグアムにあります)
パラオは、シャンデリア・ケープなど大物狙いの海ばかりでなく
地形も楽しめます。またパラオには、チューク(トラック)にひけを
とらない30隻以上とも言われる日本の沈船があり、レックダイビ
ングも盛んに行なわれています。

シャンデリア・ケープの鍾乳洞
マラカル島(ロックアイランド)が隆起した時に出来た湖(塩湖)に
取り残されたタコクラゲ達です。外敵が無い事からSting(毒針)
を進化の過程で失いました。ジェリーフィッシュツアーの一コマ!
沈船の隆興丸で見掛けた見事なマダラトビエイ!
愛嬌のあるナポレオンです!

何ともカッコイイ、戦闘機や魚雷のようなグレイリーフシャークです!




見事なジャイアントバラクーダ
疾走するボートの上から海底が見えます。透明度の良さが良くわかります。