小笠原諸島の戦没沈船及び航空機・番外編!

(南海に眠る沈船と航空機、慰霊シリーズ)

(番外編:小笠原の戦没沈船・航空機、戦跡の遺構)






6〜7年前に小笠原諸島にダイビングに訪れた時の画像が見つ
かりました。当時、レックを目的とせず普通にダイビングをしてい
ましたが、たまたま訪れたポイントに戦没沈船がありました。すっ
かり記憶から脱落し忘れておりましたが番外編として掲載します
。美しい小笠原の画像とともにお楽しみ下さい。ここが東京都で
ある事を思い出すと不思議な気持ちになります。

(更新)
2008年小笠原が返還40周年を迎えました。久しぶりに父島を
訪れ戦没沈船や地上の旧軍の施設・小笠原要塞の遺構を見て
参りました。海底で眠る戦没船・航空機の慰霊だけでなく敗戦ま
でに空襲などで陸上戦病死した小笠原兵団に所属した陸海軍将
兵三百十有余名と小笠原諸島全体として海没将兵を含む戦没者
四千四百四十柱の慰霊をも兼ねて訪問いたしました。

                          憂国烈士









父島(二見湾に沈む):駆潜艇と特殊潜航艇


海軍 駆潜艇 五十号



二見湾で特殊潜航艇 丙型(三隻配備の一隻)を牽引して曳航中に
米軍機の襲撃を受けて沈んだ駆潜艇 第50号の船首部分です。ここ
が最も浅い部分で深度が27m位です。船尾が32m位で更に後方に
曳航していた特殊潜航艇が砂に埋まるように深度33〜34mに眠って
います。状態は波風の潮の影響を受けない湾内でも澱みの溜まる海
域の為、保存状態は最良です。しかし澱みが多く透明度は5m〜20
mと非常に悪いのが特徴です。また海域は漁業権が絡む微妙な場所
なのでボートでも行けず、ビーチエントリーとなりますが、結構、沖合
いまで移動してからの潜行となります。
駆潜艇50号と同型艦の駆潜艇42号の100分の一スケール
の模型です。私の師匠の更に師匠に当たる方の製作によ
る力作の模型の写真です。今回の小笠原へ出発前にイメー
ジを膨らませよと師匠がお送り下さった画像です。

       ◆第二八号型駆潜艇◆
          (駆潜艇50号)

  ★同型艦基本スペック(昭和19年以降)★  

基準排水量 438t
全長      51m
全幅      6.70m
吃水      2.75m
機関     艦本式23号8型ディーゼル2基
        2軸 1,700HP
速力     16.0ノット
航続距離  2.000海里(14ノット)
燃料     重油16t
乗員     68名
武装     四〇口径三年式八糎高角砲1基
        25mm単装機銃3挺
        13mm機銃連装1基
        94式爆雷投射機2基
        爆雷投下軌条2基(爆雷36個)
        二号二型電探1基
        九三式水中聴音機1基
        九三式探信儀
        (または、三式探信儀1基)

以下の画像で水中でデジカメが作動不良を起こした為
一部の画像で水中ビデオから落とした画像を使用して
います。その為、透明度の悪さに加えて不鮮明な画像
が多くありますが、勘弁してやって下さい。
主砲となる四〇口径三年式八糎高角砲の砲身です。
襲撃した米軍機を狙い撃ちした角度のまま高角度で
虚空を睨む様に砲身を突き出しています。隣を移動す
るダイバーと比較すると、その大きさが判るものと思い
ます。



主砲です。

主砲と艦橋の間にある対空連装機銃があった場所です。

同型艦の艦橋部です。以下、ブリッジ内外となります。



ブリッジへの入り口と下部船室への入り口


駆潜艇50号は、昭和16年度計画により昭和18年11月30日に日立造船
因島造船所にて竣工。竣工後は横須賀防備戦隊に編入され、横須賀〜
神戸間の船団護衛に従事します。昭和19年1月末より、横須賀〜サイパ
ン間の船団護衛に従事。昭和19年6月12日、サイパンより帰途の途中に
米艦載機の攻撃を受け損傷。昭和19年7月15日父島方面哨戒任務のた
め横須賀を出港、この際、父島に配備される特殊潜航艇を曳航し輸送し
ていた模様。同年7月20日。父島海域にて米艦載機の攻撃を受け二見
湾で撃沈されます。昭和19年9月20日に除籍。

ブリッジ内部です。








煙突とその周囲

艦尾へ至る煙突より後部は破壊が激しく船体が爆撃で捲り上がっています。
また左舷のボートを吊るす部分は残存していますが、右舷側は吹き飛んであ
りません。



左は同型艦の28号です。右は同時期に父島にあって同じく二見湾内で
米艦載機に撃沈された駆潜艇16号です。




海軍 特殊潜航艇(甲標的) 丙型




二見湾の海底36mに眠る帝國海軍の特殊潜航艇 丙型の司令塔部分です。
潜望鏡がしっかり確認できます。船体は魚雷発射管二本ある船首を中心に
砂地に船体の三分の二が埋まっている状態です。司令塔付近から後部スク
リューが砂地より出ている状態です。搭乗員出入り口のハッチも確認できまし
た。司令塔の一部に機銃掃射で空いたと思われる亀裂が確認できました。
昭和18年9月に完成した丙型ですが父島方面に3隻が
昭和19年8月に配備されています。この中の1隻がこの
丙型と思われます。この他の二隻の行方はいまだに不明
となっています。

透明度悪く判りぬくいですがスクリュー部分です。
ペラもしっかりと壊れずヒレと一緒に残っています。


米国に鹵獲された特殊潜航艇の丙型です。
全く構造が同じです。




右上の画像が艦橋部に空いた弾痕です。下は搭乗員用のハッチです。
甲型が自己充電装置がなく航続距離が短かったので40HP
ディーゼル発動機を搭載した改良型の乙型が作られました。
この乙型がプロトタイプになり量産型がこの丙型となります。
甲標的 丙型は、甲型に比べ航続距離が大幅にアップして
実戦能力も相当に向上しました。事実、比島方面の作戦で
多大なる戦果を挙げています。
潜望鏡が良く判ります。



    ★甲標的 丙型(性能)★

     水中排水量  49t
     全 長      25m
     最高速力    18.5ノット
     深 度     100m
     武 装     九七式酸素魚雷2本
     機 関     蓄電池+600HPモーター
              (この他、自己充電用40HP
               のディーゼル発動機を搭載)
     航続距離    500海里(水上6ノット)
     乗 員      3名


本土決戦に備え、昭和19年8月に甲標的6基が進出命令が出され
父島へ配備される予定でした。しかし、実際にはその内、到着した
のは3基だけだったようです。平成6年にこの特殊潜航艇(甲標的
丙型)が発見されてから、今年で14年目を迎えます。もう一隻同型
艦も確認されているようで、三隻のうち不明は一隻だけとなってい
ます。






父島(二見湾内):零式艦上戦闘機



栄光の名機・零戦です。


父島に唯一存在した海軍航空隊の飛行場前の沖合い33mの海底に
眠る零戦の残骸です。父島海軍航空隊の当初は滑走路が無く主体は
水上戦闘機部隊でした。昭和12年に海軍が作った洲崎飛行場として
約600mと言う短い滑走路が作られましたが、周りが急峻な断崖が多く
非常にタイトで空母に着艦するより難しい事故の多い滑走路だったと謂
われています。この機も着陸時にオーバーランして再浮上後に海没した
零戦と言われております。それを物語るように唯一残る右翼には半開き
で下ろした主輪が確認できます。プロペラが三枚とも内向きに曲がって
いるのも海面を叩いた事を物語、海面に激突時にエンジンが掛かってい
てペラが回っていた事を示しています。しかし余程、無理な体勢で海面
に衝突したのでしょう。ここにあるのは、プロペラの付いたエンジンと右
翼の三分の二だけです。その他の機体の主要パーツを発見できません
でした。相当に広範囲で四散した模様と思われます。また計器類があっ
た部分より後部側のコクピットも無い事からもパイロットの生存は難しか
ったと思われます。米軍が父島をはじめとする小笠原諸島を攻略せず
硫黄島を占領した事が良く理解できます。600mの離着陸困難なまる
で昔の九龍国際空港のような飛行場を占領しようとは思わなかった
筈です。事実、その後もこの滑走路は放棄され、戦後も全く利用されま
せんでした。元々、父島海軍航空隊(南方諸島海軍航空隊)は、硫黄島
飛行場を拠点とし、南鳥島飛行場・父島飛行場を管轄しましたが父島
飛行場の扱いは臨時飛行場的な扱いのようです。水上飛行機部隊
以外に常駐の航空部隊は配備されていませんでした。
上のMAPで黄色く塗った部分が滑走路だった場所です。
エンジンとプロペラ部分です。シリンダーにはウツボと海蛇が巣くっています。

主輪です。タイヤを降ろして父島飛行場に着陸体制で
進入しオーバーランして海没しままの状態のようです。
下は我家にある零戦の主輪です。


右翼の九九式二号20mm機銃が残っていました。
九九式二号20mm機銃


⇒が九七式7.7mm機銃です。左右に確認できます。
下の画像は零戦52型の操縦席です。矢印のように
この海没零戦と同じ九七式7.7mm機銃の銃尾が
左右共にしっかり残っているのがわかります。
下が機首の九七式7.7mm機銃です。




左の写真の正面に父島航空隊(南方諸島航空隊)の父島飛行場
がありました(現在は、ジャングル化していますが、自動車運転練
習場と資材置き場として使用されているようです)。右写真の海域
が零戦の海没地点です。(↓下が飛行場滑走路です。)
洲崎飛行場は、昭和7年に野羊山東側を埋め立てて建設が開始
された海軍飛行場です。工事自体は昭和12年に完成しましたが
ワシントン条約の関係から農業試験場の造成地の名目で施工し
たようです。主に南方への海軍機の中継基地としてとして使用さ
れました。戦時中は近くの振分山の北山麓に航空機の格納庫が
建設されましたが、途中から平射砲台に変更されました。






父島(二見湾内)

       海軍徴用貨物船 日吉丸

    (広南汽船 1.287t 全長66.4m )



二見湾の海底20mに眠る広南汽船の”日吉丸”です。
昭和20年2月18日に敵艦載機の空襲により撃沈され
ました。

巨大なコンデンサーです。

右はボイラーです。左や下は巻上機でしょうか。





ヒューズボックスや雑多な搭載品などが船倉に転がっています。
判りにくいでしょうが不発の魚雷です。

左上は海底の砂地にめり込んだ投下爆弾の不発弾です。
信管を動作させるプロペラが爆弾後部に付いています。右
は、爆雷のようです。
壊れた船倉には自動車かトラックのシャーシと思われる
ものからエンジンなどがありました。




















兄島:滝之浦(ポイント名:浅沈)

    海軍徴用貨物船 第七雲海丸
           
    (中村汽船 1.941t 全長82.3m)



第七雲海丸(中村汽船)と謂われていますが詳細は
不明です。もし第七雲海丸であれば昭和19年8月4
日に二見港を横須賀へ向けて出港して間もなく
米艦載機に襲撃され約三波目の攻撃で船尾に魚雷
を受け僅か2分で轟沈。38名の船員が戦死していま
す。上は雲海丸の同型船です。
機関(エンジン)部分です。何かのオブジェのように静寂の中存在しています。
記憶では、最大深度が12〜13mで平均10m程度の浅瀬にあった
と思います。多分、流れも無く初心者でも楽しめるポイントです。

強烈な破壊力で鋼鉄の船をここまでバラバラにしています。
沈黙…無の世界です。船の残骸は、我々に何を問いかけているのでしょうか?
思いっきり人工物の船ですが今や半世紀を越えて
自然の一部にならんとしています。


浅瀬に沈んでいるので浅沈です。そのポイント名のままです。
伊豆・小笠原の固有種であるユウゼンがここが
日本である事を思い出させてくれます。
湾内ですが非常に透明度も20m以上あり美しい海です。
浮上後、次のポイントでマンタを見ました。港からすぐで
したので…何とも贅沢なところです。
水面下の惨い戦争の傷跡が嘘のような美しい小笠原の海と陸上です。



2008年 シュノーケリングで撮影
















兄島:滝之浦(ポイント名:バラ沈)

     陸軍徴用貨物船 利根川丸
       (松岡汽船 4.997t 全長121.9m)



こちらの利根川丸も上の第七雲海丸と同じで輸送船団
を形成し米艦載機の空襲を受けて滝之浦湾に避退しま
すが度重なる襲撃で昌元丸(石原汽船 4739トン 37名
戦死)、延寿丸(岡田商船 5374トン 73名戦死)、竜江丸
(大連汽船  5626トン 65名戦死)、第7雲海丸(中村汽
船 2182トン 38名戦死)が沈没。さらに米巡洋艦・駆逐
艦計7隻の砲撃を受けて利根川丸(松岡汽船 4997トン
) 144名の戦死者を出して夜9時頃に沈没しました。
昭和19年8月4日、米艦載機の波状攻撃を受け最後は
敵米駆逐艦等の艦砲射撃に雷撃を受けて沈んだ利根川
丸と謂われています。本当であれば2100発以上の命中
弾を受けて撃沈しています。ポイント名どおりバラバラに
なって沈んでいるので”バラ沈”であるのが頷けます。
利根川丸では、船砲隊61名、船員83名の合計144名が
壮烈な戦死を遂げています。
同じく攻撃で沈められた僚船の第七雲海丸の沈むポイントからほど遠くない
海域で水底約23mの砂地に眠っています。
難しい所で記録では”利根川丸”は聟島近海で撃沈したというものも
多いのでこの場合は、海軍徴用貨物船の”辰栄丸”(辰馬汽船 
1.942t、全長82m)の可能性が高くなります。この船は昭和19年7月
4日に空爆により撃沈しています。



今は覗く船員も居ない窓。時折、訪れるダイバーだけが覗くのみ。






強烈な破壊で船体はバラバラの状態です。






船首のアンカーです。吊り上げられたままの状態です。
反対側に吊っていた太いチェーンがあります。下の画像
左上の画像で支持棒で指し示している部分がアンカーを
持ち上げている鎖です。丁度、船首左舷側のアンカーに
なります。
この下の画像には壊れた船首部分と右舷側のアンカーが確認できます。








父島:境浦海岸

     海軍徴用貨物船 濱江丸
          
      (大連汽船 5.479t 全長 121m)



上は、ありし日の濱江丸です。
宿泊したホテルのそばから見れた沈船です。上が現在の
朽ちた姿。下が戦後30年目位の画像です。海水浴でビー
チから泳いでいける処にあります。
昭和19年2月、米軍がサイパン島に上陸。この時、サイパン補給に出ていた
輸送船団がサイパンの北方洋上にて米機動部隊の空襲を受けました。その
中の一隻が浜江丸でした。爆撃されて航行不能になりましたが、何とか修理
し自力で小笠原まで辿り着いたものの境浦海岸で座礁ししました。その時の
航空攻撃で8名の船員が戦死されています。


cf、以下は、境浦の濱江丸の動画です。美しい映像です!

メディアプレイヤーとリアルプレヤー
お使いの方をクリックして鑑賞下さい



2008年9月現在の濱江丸!



2008年(平成20年)9月末に撮影した濱江丸です。更に
小さくなった感があります。日没間近でしたがシュノーケ
リングで撮影をしてきました。


境浦ビーチから見た濱江丸

境浦ビーチ、ここに車道となっている場所から急坂を下るのですが
行きは良いのですが、帰りが膝に来る地獄の坂です。
水面から近づいて撮影した濱江丸
水中の濱江丸ですが…潮や波、自然の破壊力の凄さを
思い知らされます。鋼鉄の船も毎年来る台風や毎日の
波風を受けてここまで砕かれるのですから…。

途中で波とウネリが強くなりシュノケーリングでは、下のように
ぶれて安定して撮影できなくなり浜に引き返しました。

水面から見ると奇妙なオブジェのような感じを受けますが
日没間近だと怖い印象を受けます。戦没された船員がい
る現場なので特にそう感じました。陸にもビーチにも誰も
いない中で一人で水中カメラだけ持って泳いできたのも
あるかもしれません。
下は濱江丸から見た境浦ビーチ(父島)です。急峻な断崖の上に国道が
走っているのが判ります。ここに車を停めて降りてきました。右下の写真
はビーチの断崖に幾つもある洞穴などが無数にありますが、当然、旧軍
が陣地化し敵前上陸に備えたものが多くあります。それだけ上陸できる
ビーチが限られています。
下は1982年に撮影された濱江丸です。


境浦ビーチに残るトーチカの銃眼です。断崖の壁を掘り
コンクリで固めたものです。まさしく要塞の島です。







(番外)小笠原・地上編(旧軍の遺構)

  〜小笠原要塞の片鱗を見る〜



僅かな日程で殆ど陸上の探索に裂く時間があり
ませんでした。今回は、電信山・夜明山を中心に
見回った小笠原要塞の遺構をほんの僅かな一端
のみですが紹介します。



電信山(長崎展望台) 陸軍 探照燈

  (陸軍 一式 百五十糎 照空燈)



昔は乳頭山と言われた地域です。陸軍の高射砲中隊が使用
した直径150cmの探照灯です。格納庫が頑丈な壕になっており
ここからレールで移動させて使用しました。
相当に朽ち果ててきていますが、かろうじて原型を保っています。

格納庫の奥に外れた反射鏡が転がっていました。
土台基部の写真です。回転盤になっています。銘盤が二枚
ありますが、これも難読で解読不明です。

一部、石垣が崩れていますが下の通路にレールが残っています。
ここを通して照射場まで移動させ電信山の高射砲と連動して対空
戦闘を行ったと謂われております。



正式名称は、陸軍 一式 百五十糎 照空燈です。
下が実物の画像ですが…まさしくこれです!!
この下の二式一型航速測定具と組み合わせて
使うようで、高射砲による夜間迎撃射撃には欠
かせないものだったと謂われています。2軸の
車輪付き台座に据えられている。光力を強く
した防空用サーチライトだがその数両を揃え
られずに中々活躍できませんでした。その有
効距離は8000〜9000mあり高度1万m以上
で飛来するB-29を捉える事は出来なくとも
爆撃体制に入り高度を少し落とすと確実に照
射範囲に捉える事は可能でしたが数個では
捕らえ続けれないので相当の数を揃えないと
効果的な夜間迎撃射撃は難しいものです。 
通常では高射砲1箇中隊につき照空燈3台(故障
の場合は聯隊の予備5台から補充)が対応してい
ます。夜間の空襲があると、聴音中隊の発する警
報に従って行動を開始し、強力なサーチライトで目
標を捕捉します。照空燈の操作は、照準手が照準
鏡で目標を捕捉し、照準鏡(二式一型航速測定具
)で追尾していくと、これと電氣信號で連動してい
る照空燈が動いて同様に目標を照射します。その
動きは、やはり電氣信號で高射砲中隊の自働算
定具(照準計算機)に同時に伝えられてり、その後
は型通りの射撃となります。




電信山から見た西の二見湾側(左上)と東側(東島)の海岸線



対岸は、兄島です。
高い山はありませんが、全てが急峻な崖が多いのが特徴です。
この海の沖合い(兄島の家内見崎と東島の線上より
はる沖)で現在のG.W.ブッシュ米大統領(の父親で
あるパパ・ブッシュ(G.H.W.ブッシュ第41代米大統
領)が昭和19年9月2日に後で出てくる父島の日本
海軍の通信所を爆撃しようTBFアベンジャー雷撃機
を爆撃しようと空襲に出て旭山の対空砲火で撃墜され
ました。この時、当時のブッシュ海軍中尉はパラシュ
ートで降下し海上を三時間漂流しました。非常に幸運
にも当時、9度目の哨戒任務で同海域にいたガトー級
の潜水艦”フィンバック”に救助され九死に一生を得
ています。尚、もう一人同乗の仲間も助かりましたが
ウィリアム・ホワイトとジョン・デラニーの二名が戦死し
しています。後に航空殊勲十字章など幾つかの勲章
を受けて海軍大尉で退役、大学に進学しています。
パパ・ブッシュが乗っていたTBFアベンジャー雷撃機
志願して海軍のパイロットとなったブッシュ中尉!
この小笠原での撃墜の前にも彼はマリアナ沖海
戦で日本機動部隊の艦載戦闘機に襲撃され撃墜
されています。この時、海軍少尉時代でしたが…
二度の撃墜を生き抜き大統領になっているのです
から相当の強運の持ち主と思われます。
2002年6月18日にG・H・W・ブッシュ元大統領(78)が
58年ぶりに小笠原を訪れました。撃墜された海域での
献花など行いました。



夜明山(陣地) 海軍通信所跡と付属の発電所



昭和19年、清瀬地区にあった海軍送信所がここに移され
ました。各所に銃弾の跡が生々しく残っていますが建物
自体は破壊されず今も健在です。内部はかなり崩壊が進
んでいます。ここは海上自衛隊の管理地で立ち入り禁止
になっています。




この分厚いコンクリート、そして鉄枠の窓が
軍用施設を思わせます。戦後63年の時を経
ても…この鬱蒼としたジャングルの中に確か
に存在していました。

外観からは判りませんが、爆撃により2階の床が抜け大破し
ています。既に爆撃時に内部の人間は、山中の壕に施設を
移転しており人的な被害はなかったそうです。
内部の崩落が酷く怖くて中には、入れませんでした。


更に獣道のような中を奥に進むと少し小さいが同じよう建物
があります。これが通信所の発電所です。
発電機が設置されていた土台が残っていますが
中の機器類は全て撤去されております。

下は通信所施設の全景


海軍通信所前の門柱付近に置かれた首無しの二ノ宮尊徳像
何ともやるせない悲しい光景です。
まさに鬼畜米兵のなせる業です。
この尊徳像の上をドンドンと上がっていくと夜明山
の山頂に出ます。そこには陸軍の夜明山山頂監視
哨があります。
海自の管理用地の横には東京都の夜明山
中継所があります。



初寝浦展望台 不明の軍用施設




展望台の近くで見た野生の山羊の群れです。
凄い断崖の絶壁を軽々と駆け下りて行きました。
やっぱり野生…恐るべしです。
下は旧軍の軍用施設で弾薬庫でないかと謂っていましたが
コンクリの厚さや作りから違うと思います。不明の施設です。
無数の弾痕のある遺構に心無いイタズラ書きがうら寂しい。
初寝浦展望台から見た初寝浦です。…美しい!



夜明山陣地 トロッコレール壕



所々にトロッコのレールが残る
迷路のような地下壕です
これだけの壕を掘るのは実に大変だったと思います。
しかも中に砲を運び込み平射砲台を築いています。
戦前の方々の苦労が偲ばれ頭が下がります。
左上は、電球が付けてあった跡です。右は電線の朽ちた痕です。
しっかりと電気と水、食糧が蓄えられ要塞化されていた事が良く
判ります。
上は別な入り口です。別途の下の枠等があるので
野戦病院か兵舎に使われていたと思われます。下
は大きな鉄製の水瓶です。



夜明山陣地 四一式山砲



夜明山陣地の壕の一つにある連隊砲です。初寝浦方面に
砲身を向けています。車輪の木製部分が朽ち果て鉄の枠
のみが残存しています。
物言わぬ朽ちた山砲が幽鬼ののように佇む
壕内は、独特の空気に支配されていました。

発射機構は完全に破壊処理されています。

壕の外には、これら地下壕を掘るのに使用
したトロッコやレールが無造作に置かれて
います。

この右上と下の写真は、旧軍が使用したコンクリートの袋
がそのまま当時のまま放置され、そのまま固まってしまっ
たものです。
所々、ジャングル内に現れる旧軍が使用した
食器類や空き瓶などの生活痕です。



夜明山陣地 八八式七糎半野戦高射砲



ガイドロープを伝い狭い地下壕に降りていきます。

壕の入ってすぐにコンクリ製の給排水装置があります。
水道管は錆びて外れてしまっていますがレバーがまだ
残っています。これだけの水道施設があれば相当に長
い間の籠城が可能と思われます。
左上は、外れた水道管。右は壕内に残っていた
軍用足袋の朽ち果てたゴム底の部分です。
棚だったのがベットを置いたのか
壕の壁に残る不明の鉄枠です。


ほぼ完全な姿で原形をとどめている八八式75mm高射砲です。

移動用のタイヤも完全です。右上は軍用電話が
通じて置かれていた穴です。
壊れた薬莢の残骸らしき物がありました。

砲射高戦野糎七式八八
   製年六十和昭

と刻まれているのが読め
ます。
高射砲ですが、完全に平射砲台として使っています。
高射砲の車輪です。トレードマークが大礼服を
着たような人を使っていて洒落ています。

砲の銃眼から覗く風景です。すぐ下は断崖です。
壕からおもてに出た所です。急斜面の断崖に僅かに
たつ所がありますが、足が滑ればサヨナラです!



夜明山陣地 十年式十二糎高角砲




海軍の12cm高角砲です。ここも分厚いコンクリで固め
られた平射砲陣地にそえ付けられています。



砲身が出ている平射砲台部分です。右上の写真から
判るように急峻な断崖の絶壁の中に隠れるように砲
台があるのが判ります。左下は、砲台から見える風景
です。



夜明山陣地周辺



少し周辺の密林の中を歩くと上の写真の
ような旧軍で使用した竃の痕などが見つ
かります。右上は、不明の装置?です。
こちらは大正時代に始まった小笠原要塞の建築の一部と
思われる造りです。弾薬庫のようです。
天井部の崩落が激しく鉄板が剥き出しに
なりかなりたわんでいるのが判ります。

砲台の砲座部分と周囲のトーチカ部分と思われます。
明治大正時代の少し古いタイプの要塞を感じさせます。
明らかにこれまでの地下壕陣地やトーチカなど昭和二
桁以降の陣地などと作りもコンセプトも違うのが判ります。

兵が隠蔽されたまま移動できる陣地となっています。




この周囲にも旧軍の生活痕がかなり色濃く残っています。





ダイビングボートの上から見た風景!
海岸線の断崖や絶壁のような部分に目を凝らすと
至るところにこのようなトーチカの銃眼を見つける
事が出来ます。


海上から見た三日月山(標高204m)…まさに
天然の要塞のようなものです。





父島と兄島の間にある兄島瀬戸です。一見、泳いで渡れそうな
パスですが、水面を良く見ると判るように潮の流れが非常に速い
のが良く判ります。



小笠原諸島での敗戦



小笠原兵団は小笠原諸島方面の防衛を目的に昭和19年6月に
創設された大本営直轄の兵団です。この小笠原兵団は第109
師団、南鳥島の独立混成連隊、海軍の第27航空戦隊で編成さ
れておりました。兵団長は第109師団長が兼任し兵団司令部は
硫黄島に置かれました。昭和20年3月25日、硫黄島守備隊の
玉砕とともに兵団司令部も壊滅しましたが、父島において兵団
司令部と第109師団が再建され、敗戦まで小笠原諸島方面の
守備に従事しました。元々、第109師団は昭和19年5月に父島
要塞守備隊を基幹として編制された師団です。混成第1・第2旅
団と混成第1連隊で編制され、混成第1旅団は父島、混成第2旅
団は硫黄島、混成第1連隊が母島にそれぞれ配置されました。
マリアナ諸島の失陥後、硫黄島の守備兵力を増強するために更
に戦車第26連隊、歩兵第145連隊などが第109師団に編入され
ました。硫黄島陥落後に再建された第109師団と小笠原兵団は
父島の混成第1旅団長であったが立花芳夫少将(陸士25期 
愛媛県出身)が3月23日中将に昇進。同日に第109師団長とな
って師団を再建し、同時に小笠原兵団長を兼任しました。隷下に
は、森国造海軍中将(海兵40期)率いる横須賀鎮守府直轄の父
島方面特別根拠地隊を中心に父島に約3,500名、母島に派遣隊
等、約2,000名、南鳥島に警備隊約700名、北硫黄島に約70名の
海軍合計約6,300名がおりました。

敗戦後、昭和20年8月18日に米海軍の駆逐艦二隻が二見湾に
入り小笠原兵団の武装解除を行います。9月3日に米駆逐艦
ダンラップの艦上にて小笠原兵団との間で降伏調印が取り交わさ
れ小笠原全域(父島・母島・南鳥島等)の約二万名の小笠原兵団
の戦闘行動は全て終了しました。そして翌昭和21年2月初旬に
軍人軍属の全ての本土への復員が完了します。その後、日系の
旧島民が小笠原への帰島が許されたのは、1968年の小笠原返
還の時です。それから今年で丁度…40年になります。

降伏調印に臨む立花中将

尚、最後の小笠原兵団長として二万余の日本軍の指揮官
を勤めた立花芳夫 陸軍中将ですが、中将・師団長に昇進
する前、混成第1旅団長であった昭和20年2月末から3月
初旬の間で部下であった独立歩兵第308大隊長の的場
末男 陸軍少佐(陸士45期)と共に撃墜した米軍機のパイ
ロット等8名を処刑し解体し食肉として宴会で食べた事が
発覚し昭和22年9月24日、グアム島で行われたBC級裁
判で飢餓による止むを得ない人食いでなく、単なる戦意
高揚と好奇心に過ぎないとされ、他三名の関係者の合計
5名が絞首刑になっています。






ミナミハンドウイルカ
   (Indian Ocean Bottlenose Dolphin)



今回、ダイビングの合間に現れてドルフィンスイムを楽しんだ時に
私が写したミナミハンドウイルカです。小笠原のダイビングボートは
イルカを見つけるとシュノーケリングでイルカ達と束の間の交流を
はかります。あっという間の時間ですが楽しいものです。






東京都でありながら太古のままの
   自然を色濃く残す…憧れの小笠原諸島



同じ東京都でありながら東京から最も遠いのが小笠原です。
沖縄や北海道より遥かに遠い島々は、この”おがさわら丸”
の乗り片道25時間を要して行く美しい南の楽園です。島内を
走る車は、当然ながら”品川ナンバー”をつけています。
小笠原海運の”おがさわら丸”は、ベイブリッジとお台場の
見える竹芝桟橋から出港します。その昼と夜の顔です。

ここが竹芝桟橋の乗船する場所となります。
桟橋を出港した”おがさわら丸”は、まずベイブリッジをくぐり
東京湾を一路、小笠原に向けて南下します。

飛行機による移動手段無く唯一
のルートが船旅です。片道25時間
一回に運べる人間は約千人に限ら
れます。この事が沖縄などと違い、
いまだに美しい海を保持しえている
一番の要因です。伊豆諸島より
豆南諸島を経て父島まで約千キロ
の船旅。このスピード化の時代では
大変な長旅ですが、いつまでも小笠
原諸島の手付かずの自然を守る為
に飛行場の建設には反対したい気
持ちです。せめて以前より候補に出
て来る大型飛行艇による定期便程
度にして欲しい気がします。


コペペ海岸の日没…。


小笠原は一年を通して温暖な気候で、沖縄と同じく亜熱帯に属します。
年平均気温は22.9℃と高いものの、降雨量は東京と変わらないため、
比較的乾燥した気候となっています。海水温の年平均は23.9℃、最低
月の3月でも平均水温は20℃を下回ることはありません。



2008(平成20年)は、小笠原諸島返還40周年記念にあたります。
シンポジウムはじめ様々な催しやイベント、取組が行われています。




おがさわら丸の出港直前です。

以前よりも数が減った気がしますが…名物のお見送りで締めくくられました。
二見湾の外に”おがさわら丸”が出るまで
盛大にお見送りをしてくれます。大音量の
歌ありボートから飛び込むパフォーマンス
ありで最後まで楽しませてくれます。
東京都小笠原…まだまだ真夏です!