帝國陸海軍で活躍した軍醫達!

(知られざる軍醫達の戦い)








大東亜戦争では医師達も実に多くが動員され
軍医として広大な太平洋の各地、大陸の各地
で活躍しました。そして多くが再び生きて祖国
の土を踏みしめる事がありませんでした。この
ページのコーナーでは、陸海軍で軍医として
戦前戦後を生き抜いた方、戦死された方も含
めて白衣を軍服に替えて青春を散らした青年
医師(軍医)を顕彰すべくクローズアップしまし
た。これまでにバラバラのページに収載した物
に新たな資料を加えて陸海軍軍医別のページ
として作りました。尚、獣医科及ぶ歯科医科は
含まれておりません。
先の大東亜戦争では日本の医師の主だった
ものが、軍医として出征し御国の為に戦いま
した。日本の医師で軍医となった全体の7割
陸軍の軍医に、そして3割が海軍の軍医にな
ったと言われております。




陸軍の軍醫

(Army surgeon)






皇紀2602年 陸軍軍醫学校
 第二十二期乙種学生 在校記念アルバムより



陸軍では軍医の養成は各大学医学部及び医専(医学専門学校)
の学生で一年生の中から陸軍委託生を試験で採用し卒業後は、
その者が本来召集される連隊区の歩兵連隊に見習い士官として
隊附勤務を行います。医学部・医専の在学中は、陸軍軍医委託
生として毎年の夏休みに歩兵連隊へ約一ヶ月入営し、主として
歩兵の兵卒としての実務訓練を受けました。特に一年生と二年生
は歩兵連隊で訓練を受け、三年生以上では騎兵連隊・砲兵連隊
で乗馬教育を受けました。これは軍医が乗馬本分である事から
考慮されたものです。入営中の軍医委託生は士官候補生に準じ
る者として取り扱われました。服装は普通の兵服に、士官候補生
や見習士官と同じ、金星の徽章を右襟につけ、左襟には連隊番号
を付けたようです。 さらに金星の隣には、医学の神である大国主
命の神話にちなむ、五本の蒲の穂を配し衛生部の緑色を塗った
特別徽章を襟につけました。その後、大学・医専を卒業と同時に
衛生部軍医見習士官(曹長)となり、歩兵連隊において三カ月の
歩兵科見習士官教育を受けた後、軍医学校乙種学生となり陸軍軍
医学校入学と同時に大学卒は、軍医中尉に医専卒は軍医少尉に
任官しました。乙種学生の教育期間は一年でありました。

さらに上級の幹部教育課程として甲種学生課程がありましたが。
これは乙種学生卒業者から師団軍医部長の推薦を経て選抜試験
を行い採用され、これも期間はやはり一年でありました。また上記
のような志願によらず一般召集で医師免許を有した者が現役兵と
して入営する事となった場合、初期教育のT期終了後に衛生部
軍医予備役士官を志願させます。試験選抜後に合格者は甲種(
将校要員)と乙種(下士官要員)とに分けられ、階級は上等兵にな
ります(但、殆どが甲種となり余程の事が無い限り乙種になる事は
ありませんでした)。まあこの辺りは、一般高学歴者の幹部候補生
制度と大差は、ありません。その後ですが部隊内で実務を訓練を
受けながら、三カ月後、甲種幹部候補生は軍曹となり陸軍軍医
学校に入校し半年間の軍医教育を受けて曹長に進級し、見習士
官となりました。乙種は陸軍病院などで訓練を受け三カ月後、衛生
伍長となり原隊に戻り配属されました。尚、予備役軍医は、一年志
願兵制度で予備役軍医少尉または中尉の方が殆どでしたが昭和
七年以降は幹部候補生制度に改められました。

一般の甲幹もそうですが陸軍の場合は、海軍と違い志願して委託
学生になる以外は、高学歴者で特殊技能を持った人間でも短くて
も一般兵を経験しなければなりません。海軍は始めから予備士官
候補者として一般兵下士官と同列にする事がありません。こうした
待遇の違いから将校要員への資格のある者は海軍を志望するケ
ースが多かったようによく聞きます。

日華事変以降は、いよいよ軍医不足も拍車が掛かり昭和十二年か
らは、軍医予備員制度が発足しました。あらかじめ軍医予備員を志
願した四十五歳以下の医師は、教育招集を受けてもいきなり衛生
上等兵の階級が与えられ、しかも一般の内務班教育を受けず軍医
予備員のみで歩兵連隊で一カ月教育された後、衛生伍長と成り更
に三ヶ月間の陸軍病院で教育を受けて、招集解除の時に予備役
衛生軍曹になる仕組みです。そして再招集された時には、ただち
に軍医見習士官として即戦力化させました。







陸軍技術有功章です。兵科将校に限
らず、優れた技術(科学、化学、医学
、薬学、建築、etc)の所持者に贈ら
れました。技術系士官の金鵄勲章と
謂われる程の名誉ある徽章でした。
あの石井軍醫中将の少将時代の写真が掲載され
ています。専門の防疫を軍醫の卵達に教授してい
たようです。右胸に燦然と陸軍技術有功章が輝い
ております。石井中将は軍醫大佐時代に功四級
金鵄勲章と共にこの技術有功章を受章しておりま
す。
この章の制定は昭和16年8月18日です。
僅か4年余りの期間で敗戦を迎えていま
すので授章者の数はそんなに多く無いも
のと想像されます。この章の裏にあるシリ
アルNo.と思われる番号は95です。
副賞として1万円から1万5千円が贈られましたが、
この価格は現在の1000万円から3000万円位に相
当する高額なものでした。如何に名誉ある章である
かが想像がつくでしょう






仲間内だとまだまだ娑婆っ気が抜けない
明るい若者の素顔が覗けます。

明るい笑顔のエリート達です。自軍の敗色が濃くなれば足手まといに
なり取り残されるのが負傷兵であり野戦病院でした。軍の転進命令に
背き最後まで重傷の負傷兵と行動を共にし帰還を果たさなかった軍医
も大勢いたと聞きます。命を救うべく医師になった若者が戦地で患者で
ある負傷兵に手榴弾を渡し自決させる惨い選択肢は…筆舌に尽くし難
い想いがあったものと想像します。生きて帰還するも地獄、兵と運命を
共に死するも地獄でした。




この頭脳明晰、有為たる青年医師たちが戦地に派遣され彼等のうちの
どれだけが祖国の土を再び生きて踏みしめる事が出来たのでしょうか。
左の5名は、全員が各近衛連隊からの軍医達です。

近衛連隊からの軍医が比較的多く、近衛帽章の略帽を多く見ます。
左は、正門をくぐり軍医学校を後にする軍医達。







陸軍衛生部依託学生の身分証明書



昭和18年1月21日の日付けのある身分証明書
です。No.1640です。東京慈恵会医大の当時、
医学生だった方です。この方は、軍医として出
征されたのでしょうか…。
この方は、依託生徒でなく依託学生なので慈恵医大の
医専の出でなく医大の出身である事が判ります。海軍
と同じようなもので陸軍の依託学生・生徒は、医科大・
帝大医学部・医専の在学中に採用試験を受けてなり
ます(17歳以上28歳未満)。合格すると依託学生で毎月
20円、依託生徒で毎月15円が支給されたそうです。後
に双方とも毎月30円が支給に変ったようです。学生の一
・二年の教養課程の夏期休暇時は、指定される歩兵連
隊で士官候補生と同等の訓練を受けて、三年生以降は、
馬術訓練も開始されたようです。卒業と同時に見習士官
(医官)となり曹長の階級で二ヶ月間の連隊付勤務を行
いました。そして二ヶ月後に士官に任官しますが、依託学
生である医大卒以上の医師は、軍医中尉に。依託生徒
の医専卒の医師は、軍医少尉に任官しました。こちらの
阿部純医師は、医大卒の依託学生となるので陸軍 軍医
中尉に任官したものと思われます。


明治期の別な医学生のものです。






静岡県磐田市で眼科開業医であった
  荻野 義次 陸軍軍醫中尉の旧蔵資料







父母に妻子に妹さん二名と出征前の家族写真です。
下は、医師仲間に送られての飲み会でしょうか。



昭和17年10月現在で立襟の昭五式を
使用しています。初めにあるとおり衛生
部の鍬型兵科章と衛生部腕章が残って
いる意味が良く判ります。



九八式で見習士官になっています。
愛煙家だったようです。


















昭和7年に第二乙種で未入営補充兵として昭和8年、
12年、14年と観閲点呼を受けています。この方は、
昭和9年に昭和医専(現在の昭和大学医学部)に入学
昭和13年に卒業されております。昭和17年10月に地
元の静岡県磐田で眼科医院を開業中に軍医予備制度
で召集。名古屋陸軍病院で3ヶ月の速成教育を受けて
陸軍衛生軍曹になり、召集解除即再召集で軍醫見習
士官として満州に派遣されています。




荻野軍醫中尉は、非常に運の良い方で満州から
敗戦前に台湾へ移動となっています。この為、ソ連
侵攻でシベリア抑留を経験する事も、悲惨な日米戦
を経験する事無く昭和22年2月28日に鹿児島へ
帰国上陸し召集解除され、3年半に及ぶ軍隊生活を
終えております。


平均的な日本人医師の姿かも知れません。開業医なので
特に積極的に勤務を放り出して志願する事はありませんが
いざ召集がかかった歳は、上記の予定表のように家事、
仕事、一切と挨拶まわりなど後顧の憂いなきように動き、
軍人勅諭を暗誦するなど、国民として愛国の兵役義務をし
っかりと果たそうという気構えを感じます。エリートであるが
一兵士として決して疎かにする事無く責務を果たさんとする
淡々とした気概を感じさせます。また写真を見ていても明る
くその場の状況を楽しんでいる心の余裕を感じさせます。
この戦乱が当たり前の時代に生きたエリート達の素顔を垣
間見る思いがします。

昭和18年5月3日の記載で当時、満州9705部隊
衛生部軍醫見習士官だった荻野氏が作成した勤
務成績報告控えです。封をされていました。65年
の時を越えて開封してみました。以下が中身とな
ります。








同じ外地からの復員軍人といっても戦場とならなかった
台湾からの帰還なので非常に多くの書類が残っており
ます。戦地からの帰還兵の場合は、着の身着のままで
私物など殆ど持たない物が多いのを考えると恵まれた
運の良い方だと感じます。







以下は、台南陸軍病院時代の写真です。




荻野先生の御専門である眼科病棟前にて!
台南神社が定番の散歩コースだったようです。
珍しい台湾人看護婦さんです。

眼科病棟の主です。眼科患者さんと一緒に!


一連の荻野中尉の所持品でなく別に入手した昭和醫専の
卒業アルバムです。荻野中尉が昭和醫専に入学した昭和
9年の第三回卒業生のアルバムになります。下が卒業生の
医師達の集合写真です。


臺灣などから国の家族に宛てた手紙類です。






敗戦時、津陸軍病院長であった
   伊藤 進 陸軍軍医中佐の写真



昭和17年8月5日の撮影で場所は
杭州とあります。これが敗戦時の
直近に一番近いと思います。

昭和二年の陸軍軍醫学校乙種の卒業記念写真です。

陸軍軍醫少尉です。醫専の出で医師に
なられた方だと判ります。また原隊が歩
兵第31連隊が襟が読めます。写真館も
東京と弘前になっています。

弘前第31連隊は、第8師団隷下です。
母上と69歳の記載があります。
手関節のようですが、昭和7年5月12日に
撮影された記載と患者さんの名前のような
記載が裏にあります。
正衣から大尉相当官に昇進している事が判ります。
昭和11年1月8日の記載があります。
左は軍旗祭での写真で上右と以下は、支那での写真です。

左端は、御子息のようです。真ん中の写真は昭和13年11月26日
於 済南防疫部作業室(隊長撮影セラル)の記載があります。




手術舎用自動車と記載あります。中々の豪華な装備です。




敗戦時に伊藤進軍醫中佐が院長を勤めた
津陸軍病院は、東海軍管区名古屋師団
管区司令部の隷下にありました。明治41
年に歩兵第51連隊の設置に伴い津衛戍
病院として創設されたのが始まりです。そ
の後に津陸軍病院となりましたが、敗戦
後は厚生省の管轄となり、全国津々浦々
の陸海軍病院と同じで国立病院になり、
国立津病院と名称も変わりました。その後
紆余曲折があり、
平成10年7月に国立津
病院と国立療養所静澄病院を統合し国立
三重中央病院となりました。更に平成16年
4月に国立病院・療養所の独立行政法人
化に伴い国立病院機構三重中央医療セン
ターと改称し現在に至っています。陸軍
病院は一般に直轄病院・一等病院・二等
病院・三等病院甲・三等病院乙・航空部隊
病院・分院に分類されておりました。この津
陸軍病院は最も一般的で多かった三等病
院甲で別ベット数3百〜6百床の中規模基
幹病院でありました。







陸軍軍医の術着



手術の際に着るガウンのようなものです。オートクレープ
やガス滅菌器が当たり前に使用されていない時代の術着
ですが…未使用品なのかとてもきれいです。


元陸軍軍医大尉だった方の術衣との事です。衛生腕章は、
御当人が戦後になって当時の赤十字部分を切り取って新
しく貼り付けて作ったそうです。何故か背中に大尉の襟章
を縫付けています。これが理解に苦しみます。






陸軍軍医の手術用ガウン(前掛)
     未使用の新品のデットストック













ビックネームの軍医時代の三式開襟軍衣



こちらの三式開襟少尉の軍衣は、有名な歌人であり精神科医で
あった 斉藤茂吉 先生の長男である斉藤茂太先生(精神科医:
存命です)の軍医時代のものです。山形出身の斉藤茂吉先生の
事は、余りにも有名なので説明は、割愛します。斉藤茂太先生も
精神科医で有名な方です。弟に作家で精神科医の北杜夫先生
がおられます。齋藤茂太先生は、1926年、東京生まれ。医学博
士、医療法人財団 斎藤病院 名誉院長、日本神経病院協会名
誉会長、アルコール健康医学協会会長などの要職を歴任されて
おります。府中の斉藤病院は、現在、御子息が後継として
継承されているようです。
(以下、URLは、医療法人財団 斉藤病院)

http://www.toseikyo.or.jp/hospital/27.html






父上の斉藤茂吉先生の本です。






軍医中尉の九八式軍衣





八木という軍医中尉の方の九八式軍衣です。衛生科の山型胸章に
大型の三式階級章がついております。下の画像は、八木軍医が使用
されていたもののようです。







四五式軍衣袴(将校用):佐藤軍医の所持品



衛生部の鍬型も健全の将校用軍衣袴です。
イメージでで中尉の肩章を合わせてみました。



軍帽覆が2点と腕章1点です。腕章は、大東亜戦争
の頃のものと思います。多分、退役して民間のボラ
ンティアとして医療を行った時のものと考えます。






陸軍 歩兵第十九聯隊(福井県敦賀)の
        軍医将校用の四五式濃緑絨鍬形一対



銀モールで19と聯隊番号が入った四五式
軍医将校の鍬形です。裏布がありません。
縫い付けを前提としているので当初より無
かったものと想像されます。虫食い等があり
ますが、珍しい鍬形です。






軍医少尉の九八式軍衣袴(昭五式の改造した軍衣)



衛生部の将校用の山型胸章の
ある友松少尉の軍服です。

襟を立てると一目瞭然で元は、立襟だった事が
判ります。肩に通例肩章を止める糸掛が見えます。




補充手帳及び軍隊手帳より神戸市須磨区で医師をしていた
友松幸雄氏である事がわかります。明治40年の生まれで本
籍地は、大分県です。昭和2年に補充兵兵役。昭和12年9月
1日に熊本陸軍病院に應召入隊になります。同日に熊本陸
軍病院健軍臨時分院に配属となります。ここで衛生兵教育を
実施され教育は、10月10日に終了します。翌日、召集解除に
なり、同日、軍医予備員教育の為、熊本陸軍病院に應召入隊
(衛生上等兵に昇進)になり、また健軍臨時分院に配属となり
ます。10月11日、軍医予備員候補者を命じられ任・陸軍衛生
伍長。10月20日に衛生軍曹に任じられ同日、召集解除になっ
ています。軍隊手帳の記載は、ここで終わります。補充兵手帳
には、その後、昭和14年度未入営補充兵終了の印があります
。おそらく軍医予備員として暫く市井で存在し、その後軍医少
尉として任官したものと思われます。それが昭和16年の日米戦
の開始によるものか、その前の昭和15年なのかは、何の記載
も無いので判りませんが…何となく大東亜戦争により軍医不足
で駆り出されたのでは、無いでしょうかと思います。

友松軍医少尉の所持アルバムより


赤十字のマークに2597の番号があるアルバムです。
皇紀2597年 昭和12年の日赤大阪のアルバムです。
召集解除後に大阪の日赤に勤務されたのかもしれま
せんがアルバムの中身には、友松少尉の名前は、見
当たりません。場合によっては、この看護婦さんと御
結婚でもされたのかも?…などと想像します。いずれ
にしても大阪日赤は、昭和12年12月に大阪陸軍病院
赤十字病院となります。多くの看護婦さんが従軍看護
婦として戦地に赴かれた事と思います。



左の方は、小野総監督…今で言う総婦長のようです。
どうやら襟の桐花章が1つが一般の正看護婦、2つで
婦長、3つで総監督(総婦長)のようです。このアルバ
ムは、正看護婦さん達の寮生活、各地への旅行や研修
などの卒業アルバムのような物のようです。

cf.大阪日赤に関しまして

大阪赤十字病院は日本赤十字社大阪支部病院として、
博愛の精神に基づいて一般診療及び救療事業を目的
とし、併せて優秀な看護婦の養成をするため明治42年
に創立されて今に至っています。

<沿革>

明治42年5月8日 創立(200床)看護婦養成所併設
昭和2年〜昭和9年 鉄筋コンクリート5階建病棟(850床)に改築
昭和12年12月 大阪陸軍病院赤十字病院となる
昭和20年11月〜12月 連合軍に接収される
昭和21年1月 天王寺生魂国民学校講堂に移転
昭和22年2月 東区法円坂、元22部隊後に移転
昭和31年4月 筆ヶ崎町に復帰(精神神経科は法円坂に分院として残す)
昭和34年9月 外来棟、管理棟落成
昭和42年4月 東区法円坂、大阪府立大手前整肢学園開設
昭和49年4月 看護婦寄宿舎修和療、看護学校新築
昭和50年8月 本院に精神神経科を移転(精神神経科病棟新築)
昭和62年11月 健診センター完成
平成元年4月 神経内科開設
平成2年6月 半日ドック開始
平成6年4月 心臓血管外科開設
平成8年11月 腎臓内科設置
平成9年3月 災害拠点病院の指定
平成10年3月 東病棟完成
平成10年5月 脳ドック開設
平成11年4月 リハビリテーション科、循環器科の開設
平成14年8月 外来オーダリングシステム稼動
平成14年12月 大阪府地域がん診療拠点病院の指定
平成15年7月 新本館竣工
平成15年8月 新本館全面禁煙実施
平成15年9月 病棟移転
平成15年12月 外来移転
平成16年1月 新本館外来オープン
平成16年1月 消化器科開設

名 称 大阪赤十字病院
院 長 本田 孔士 氏
所在地 大阪市天王寺区筆ヶ崎町5番30号
敷 地 53,007m2
建物延面積 76,090m2
病床数 1,021床(一般 979床(内、 整肢学園分は82床)、
           精神 42床)

職員数 〈医師〉180名 〈看護師〉643名 〈技士〉145名 
     〈事務職員〉104名






大先輩が所持している三式軍医少尉軍衣袴



仕事の上でも人生においても大先輩である収集家
の方の所持している非常に美しい上下の三式軍医
少尉の軍衣軍袴です。


ここまで極美の状態の良い上下は、余り
見掛けませんので紹介させていただきま
した。








陸軍軍醫が使用した醫療嚢



かなり使い込まれていますが…革もまだ生きています。
柔らかくまだまだ現役で使えます。




中々、機能的に収納されています。今では中々見ないガラスの注射器です。
私の子供の頃、父の時代は注射器は全てガラスでした。針もデイスポでなく
滅菌して再使用していました。今の時代は注射器も一回一回の使いきりで全
てディスポです。但し、硬膜外麻酔や脊椎麻酔を行なう時はガラスの注射器
を今でも使用します。ディスポのプラスチックでは、硬くて硬膜の微妙な抵抗
や硬膜外腔に抜ける感覚が所謂、抵抗消失が判りません。昔ながらのガラス
の注射が今も多用される…人間(麻酔科医)の感覚だけに頼る部分です。
下は割れないようにガラスのアルコールをステンレスの筒で保護
したものが2本です結構頑丈で割れないものです。



聯具の中は、鑷子と剪刀に消息子(ゾンデ)でしょうか。これだけでは
どうにもならいので…鉗子や持針器やメスも必要であったものと想像
します。








陸軍 衛生部将校 腕章




腕章の表地は、白羅紗。裏地は、木綿製。赤十字の緋絨に
数カ所虫食いを認めます。真鍮鳩目・松葉ピン・留め紐は、
完全です。肋骨〜戦地服〜三九式・四五式軍服などの古い
品で、後の時代の衛生部腕章や臂章より残存数が少なく
希少なもの思われます。






陸軍衛生兵や軍醫が使用した衛生嚢(極美品)



珍しく負革に専用の腰革が付いています。革が生きて
いて時代を考えると保存状態の良さに驚きます。

陸軍衛生兵が使用した衛生嚢です。四十年式衛生嚢
よりも新型の衛生嚢とのことです。







珍しい薬剤中尉の九八式(昭和十三年制)軍衣



九八式軍衣の衛生部薬剤中尉です。
軍医は、以外と多いですが薬剤は少
ないのであえて入れました。
衛生部の将校用山型胸章を付けています。
変った九八式階級章です。この襟章の星は、肩章用
の星を後付けした改造品でなく、この状態がオリジナ
ルです。厳密にいえば軍装違反でしょうが、希にこの
ようなイレギュラー品が存在するようです。まあ士官
に対して襟章の星章がどうのとイチャモンを付けるよう
なケツの穴の小さい将校も余り居なかった事でしょう。
私は、見た事は初めてですが、前の所持者だった研究
者の方は、軍装の造詣の深い方なので何度か将官の
階級章でも見掛けたそうです。当時の特定軍服店又は
徽章店が作成したものだろうと推測されます。それ故に
数多い襟章の中でも珍しく稀少品の部類に入るものと
思われます。
上の画像の通り通礼肩章は、ベロの上で縛るようになっており、
悪質業者の手に掛かれば即、参謀服に改造されてしまいそうな
構造です。
この軍衣の所持者だった新井薬剤中尉の
名刺入れと中の所持品です。

大阪陸軍病院天王寺臨時分院付や豊中市民病院の薬局長の
経歴を持つ薬剤中尉です。一緒に当時の市電の路線表や回数
券、写真機を買った領収証などが入っています。








新谷薬剤中尉の軍事郵便2通です。年代は不明ですが
満州の部隊に居たようです。満州第四九三四部隊と満州
第九八三二部隊の二つの所属部隊が読めます。


この上下の拳銃嚢や帯皮、弾薬嚢、背嚢、図嚢は、
新谷中尉の所持品で入手しませんでしたが、一緒に
売りに出されていたものです。






三八式〜四五式時代の衛生部 将校用 軍衣(夏用)



元々、上の主計科の夏用軍衣のように相当官
銀色釦が付いた三八式〜四五式初期頃の仕立
ての夏用軍衣を大正十一年の改正に伴い、金色
金属釦に当時取り替えた品のようです。経年によ
り小虫食いが散在し縫製の糸切れなどありますが
使用感の少ない高級仕立の夏用軍衣です。

鍬形の縫製が見事でコの字型に三方を全て縫い目
に巻き込みカーブ切れ込み部分は、ミシンで縫付し
て取付しています。同じ所持者の相当官用の三八式
〜四五式軍衣(緋線付)は、廣島津村商店のテーラ
ータグがあり、同じ鍬形の縫製だったとの事ですので
本品も同じ店の熟練の職人の手による逸品と思われ
ます。袖の裏地は、帯赤褐色の雲斎を摘まで付けた
だけの真夏用で、胸物入れの釦ホールはダミーとな
っておりとても粋な仕上げでになっています。襟の釣
り紐や刀裂の留紐は、カーキー戦地服の袖章と同一
の素材を仕様しています。留めボタンも異形です。





一等軍医(一等薬剤官)大礼服(正衣・正袴)一式




明治十九年に制定された一等軍医、若しくは一等薬剤官
の大礼服一式です。いわゆる大尉相当官です。この品は
明治期(十九年〜四五年)の品で、そのため肩章の星章
の1つが衛生部を現す杖と蛇になっています。またその中
でも初期になる品なので後期の品に比べ背丈が低く作ら
れています。一式の内容は正衣、正袴、正肩章(箱付き)
、飾帯(濃緑の衛生部用、金具覆欠)、前立て。なお正衣
の背面裾部の飾釦が取れています(釦そのものはありま
す)。また、正帽のみ欠でしたので、十九年制兵科大尉大
礼帽(背面上部が前に傾斜した古いタイプ、程度佳)を付
けてお譲りしてもらいました。



以下のは、上と違う大尉相当官の
軍医官の正肩章です。


別な肩章です。二等軍医または、
二等薬剤官でしょうか。



二等軍医 大礼服(正衣・正袴)



末期の軍医のようです。
二等軍医(中尉相当官)です。

正帽は、中のネームとトランクなどのネームと
違いますので合わせのようです。






陸軍軍医中将の品々!


正肩章は、一般にケースで保護されている物が
多いのでその下のケースが欠品の飾帯と違い
退色も無くきれいな感じです。相当官としては、
中将が最高位となります。


どうもこの飾帯に関しましては、後で星章を加星したのか
…元々、星章が1個だったのに加星したものかのどちらか
のようで位置が対称ではありません。





明治二十七年制 陸軍 軍医総監 飾帯









陸軍獣医中将 小笠原 長淳 閣下
     の獣医大佐時代の正衣・正帽・他



陸軍獣医中将小笠原長淳閣下の獣医大佐時代の品です。
御存じの通り昭和13年改正で各部将官も兵科将官と変わら
ない正帽・襟・袖・正肩章・飾帯になりました。小笠原閣下は
昭和13年7月に獣医少将に進級なので、少将以上の正装は
作っていないものと思われます。金銀交差の旧正装は、改造
せずに新型の少将の正装を新調されたものと考えられます。
紫色の正袴が無いのが惜しいですが、元々、こちらの一式は
島根から出て東海地方に売られ…いつの間にか変遷して
埼玉で売りの出された時には、一式で揃っていた正袴がなく
なっておりました。しかし獣医大佐ともなれば滅多にでる品で
ありませんので、また出自も判る閣下の品という点でも珍しい
と思います。









 
*小笠原長淳 陸軍獣医中将 (略歴)*

東京都出身、陸士24期相当

昭和 9年 8月 1日  陸軍一等獣医正
              近衛師団獣医部長

昭和11年 3月 7日  第1師団獣医部長

昭和12年 2月15日  陸軍獣医大佐

昭和13年 1月 8日  第3軍獣医部長

昭和13年 7月15日  陸軍獣医少将

昭和15年 8月 1日  陸軍獣医資材本廠長

昭和16年 8月25日  陸軍獣医中将

昭和18年 6月10日  待命

昭和18年 6月11日  予備役







鈴木二郎 陸軍々醫中尉の
    レントゲンフイルム等の所持品



認識票に名刺が多数です。

鈴木軍醫は、支派遣軍臨汾陸軍病院
に勤務されていたようです。



支派遣軍臨汾陸軍病院への赴任を命令書のようです。
第二師団第二架橋材料中隊 日々命令とあります。
戦後の手紙だと思います。大陸で世話した
人の奥さんから(長野県の方)から鈴木軍醫
に宛てた手紙です。

レントゲン袋の中に保管されていたのは、鈴木中尉御自身の
胸部X-P(正面)写真でした。かなり痛みが来ていますが…
シャーカッセンに掛けると立派に読む事が出来ます。昭和15年
10月の少尉時代に撮影された物です。今から約68年前のレン
トゲンです。自分を写したからこそ自分で保管した為、残った珍
しいものだと思います。


臨汾陸軍病院となっています。
中国山西省の(支派遣軍)臨汾陸軍病院は、
敗戦時、支那派遣軍隷下北支那方面軍管下
第1軍直轄(第1軍軍医部長 近藤治三郎
軍医大佐)で正式名称は、第163兵站病院
(岡本八十一軍医大佐)でした。
昭和20年6月の日付けで下書きされた医療用
麻薬購入を警察へ許可申請関係のものです。
戦後も無事に復員されたようです。復員先は、
福島県の四倉町のようです。
山西省は、北は万里の長城を挟んで内モンゴル自治区と、東は太行山脈を挟んで
河北省と南は黄河を挟んで河南省と、西は北上した黄河を挟んで陝西省とそれぞれ
接しています。






陸軍 伊藤 賢三 軍医総監(軍医中将)の紙物資料



伊藤軍医総監は、補職で昭和6年8月1日から昭和9年3月5日
の間、関東軍の軍医部長をされておりました。その時の満州国
と大日本帝國との間に交わされた条約の参加者と日程などを
記載された文書が二部入っています(條約調印ニ關スル業務檐
任區分表、條約締結ニ関スル行事一覧表の二部です)。
封筒に極秘の記載がされ軍医部長殿とあります。
裏面は、関東軍司令部の封緘印に関東軍参謀部
第三課の差出の印が押されています。
昭和7年9月当時の条約締結に関して参加
する関東軍各部門の長の名前が記載され
ています。


こちらは、時系列に合わせた工程表というか日程表で
上から奉天・長春・東京に分けて条約締結に関する各
作業がどう行われるかが記載されています。これが敵
の手に落ちればテロの絶好の標的となる事が考えられ
ます。極秘の印が押されているのも頷けます。また今は
なき満州帝国ですが…我国との関わりの中で想像する
よりも他人行儀と言いましょうか、対国家として条約締
結に関する作業などきちんとした外交を行っているのが
良く判ります。
伊藤閣下が引いたのでしょうか各部長と御自身が参加しなければ
ならない部分だけ赤線が引かれております。


皇后陛下御沙汰と古ぼけた大判封筒に記載が
あり、中には宮内省の透かし入り便箋(原稿用
紙)に五行の短い慰労のお言葉が記載されてお
ります。伊藤閣下が満州で関東軍 軍医部長を
されていた昭和6年8月1日〜昭和9年3月5日の
間ですので昭和9年に任を解かれ帰国された以
降(予備役となります。)に皇后陛下の直筆か
代書なのかは、判りませんが畏れ多くも下され
たものと思われます。




シャーカッセンで透かして見れば透かし文字が
浮かびます。宮内省と桜の印字です。


御存知のように軍医総監は、元々少将相当官でしたが
明治30年の勅令で中将相当官となりました。更に昭和
12年の勅令で軍医総監は、陸軍軍医中将に改められま
す。この下の方に掲載した皇室からの招待状を見ると判
りますが昭和11年までの招待状には、陸軍軍医総監  
伊藤賢三 殿と記載されていますが、昭和12年のものは、
陸軍軍医中将 伊藤賢三殿と記載されております。
昭和4年の招待状

昭和10年の招待状

昭和11年の招待状



この昭和12年の招待状から軍医総監から軍医
中将の階級名に変っています!
右上の桜花の紙は、車での入場と駐車時にフロント
の見える場所に掲示する為のものです。





☆伊藤 賢三 陸軍 軍医中将(略歴)☆

神奈川県出身

大正12年8月6日 一等軍医正(大佐相当)
            陸軍医務局衛生課長

昭和3年3月8日  陸軍軍医監
            東京第一衛戊病院長

昭和3年3月18日 陸軍軍医総監

昭和6年8月1日  関東軍 軍医部長

昭和9年3月5日  待命

昭和9年3月16日  予備役







陸軍 熊本病院の赤十字旗(未使用)



陸軍熊本病院に勤務された衛生部の軍医殿
がアルバムと共に所持していた赤十字旗です。
綿製で赤十字は、白布の切り抜きに赤布縫付。


この旗を所持されていました
陸軍熊本病院軍医殿です。







明治の陸軍々医の資料










明治32年3月静岡県立浜松尋常中学校(現浜松北高校)を
経て千葉医専(現千葉大学医学部)を卒業された医師です。
卒後は、千葉県立病院に奉職。風雲急を告げる日露戦争で
陸軍軍医として出征、戦役に従軍。凱旋、復員後は、再び
民間医療に尽くし、昭和3年従七位に叙せられるまでの辞令
、位記、卒業証書等で大小16枚、同一人物の記録です。







陸軍 軍医 三木良定氏の所持品



三木軍医の所持していた陸軍医学校50年史と軍関係
(特に衛生部)の名刺入れ2冊です。それぞれの名刺
入れには、名刺が407枚と179枚が入っておりました。


名刺入れの中の一部です。


cf.三木良英 陸軍軍医中将に関しまして
       (兵庫県出身)

昭和2年12月16日  軍医学校部員
   3年 8月10日  一等軍医正 医学博士
   8年 8月 1日  軍医監
  10年 8月 1日  近衛師団軍医部長
  11年 8月 1日  陸軍軍医学校幹事
  12年 3月 1日  中将 朝鮮軍々医部長
  13年12月10日  陸軍医務局長 兼
             大本営野戦衛生長官
  18年 3月 1日   待命
      3月 2日   予備 陸軍軍医学校長
  19年12月13日   応召解除







大阪陸軍病院 軍医予備員の軍隊手帳




大阪出身で日本医科大出身の産婦人科医の軍隊
手帳です。昭和12年日医を卒業、大阪回生病院の
産婦人科に勤務しています同年12月15日に軍医
予備員候補者として大阪陸軍病院に入隊。同日、
陸軍衛生上等兵。同月20日に陸軍衛生伍長、30日
に陸軍衛生軍曹に昇進、同日除隊になっています。

恐らく大東亜戦争で確実に軍医として召集されたも
のと推察します。まあ一兵卒で苦労するより、軍医と
して士官になった方が良い待遇でありましょう。何時
の世も考える事は、同じで海軍の予備学生、陸軍の
甲種幹部候補生何れも然りです。






陸軍 軍医大佐の紙物資料



鵜澤修一元陸軍軍医大佐の資料です。大佐は、千葉県千葉市生まれで
平民出身。大正4年9月に千葉医専を卒業、すぐに見習医官として歩兵
第三連隊に配属。大正5年4月に陸軍三等軍医に任ぜられ歩兵第四十九
連隊に補されています。
大正5年12月に陸軍士官学校付、兼教官。大正8年2月、陸軍二等軍医に。
大正年10月、東京第一衛戌病院。大正10年から11年まで普通科学生として
陸軍軍医学校に入学。大正11年、内科専攻学生として再び、陸軍軍医学校に
入校。陸軍一等軍医に任ぜられる。同年、歩兵第七十七連隊付けとなる。



何故か娘さんの高等女学校の卒業証書が一枚だけ
混じっていました。
大東亜戦争開戦の9ヶ月前に大佐に昇進。将官名簿に
名前が無い事から、敗戦時も陸軍軍医大佐で終えてい
るのが判ります。戦後、厚生省の厚生技官を勤めていた
ようです。











陸軍 軍医の”公用證明書・公務割引證”等




公用・公務旅行證明書と公務運賃割引證(奈良陸軍病院
庶務課長印)下士官兵旅客運賃割引證(菊池陸軍病院
庶務課長印)の三枚です。
いずれも粗末な紙が使用されて
います。敗戦後の日付けになっ
ています。







各種衛生材料と衛生・軍医等の品



陸軍の点滴・注射用のアンプル類


海軍の点滴・注射用アンプル関係


今でも使えるようなアンプル類です。見事に箱入り
のまま残っています。封印も製造年月日の記載の
ある物もあります。懐かしいアンプルカッターが付属
されています。

ヨードチンキです。

当時は、強心カンフル剤として
使われたビタカンファーです。




星秘薬・陸軍需品廠・陸軍衛生材料廠…性病薬です。

りバノールを染込ませた滅菌ガーゼです。


九一年式繃帯 陸軍衛生材料本廠











陸軍の縫合用の糸です。



陸軍薬局方・キニーネ錠瓶・大瓶と小瓶に・モヒ液瓶です。
キニーネは、一般に抗マラリア薬です。モヒ液は、良く判り
ませんが、塩酸モルフィン…モルヒネの略だと思いますの
で…液状で塗布して痛み止めとして使用したのかもしれま
せん。大瓶のキニーネの方には、まだ数錠の残薬がありま
す。


ラベルに陸軍衛生材料廠・莫比水・1cc=0.01とあります。

所謂、強心薬です。

止血剤の一種でしょうか。


良くわかりませんが局麻薬の一種でしょうか?
…若しくは、強ミノの類かも知れません。


所謂、トラコーマ(ドイツ語では、トラホーム)の治療剤として用いられた
ホー酸です。トラコーマは、クラミジア感染症であり性病として有名です。
またクラミジア肺炎も有名ですが、現在では、抗生剤の投与で大事に至
りませんが…当時では、まだ抗生剤も開発されておらず失明にいたる主
用な失明疾患の一つでした。開発途上国では、まだ伝染性疾患として猛
威をふるっています。この陸軍衛生材料廠の硼酸錠は、中身がそのまま
詰まっています。今でも硼酸は、結膜嚢の洗浄・消毒に使われています。


獣医部で使用されたヨードチンキです。

こちらも獣医部のものです。昭和18年塩野製と印
があります。現在の塩野義製薬の事でしょうか。


陸軍の浄水錠入れの金属ケース。説明文字はしっかり
残っています。中身はありませんが、試験用の薬液が入
ったガラスケースが残っています。

陸軍の医療鞄より出た薬品関係との事です。注射器は
ケースに格納され「針」も健在です。薬品はどれも未開
封、未使用、官許の”騙梅丸”梅毒、痔疾二袋、陸軍”
星秘貢”二箱、性病防止薬と塗薬の”蘇神薬”一箱、
食中毒の薬です。

クロールエチールは、当時、麻酔導入に使われた薬品です。
これで導入後、エーテルで全身麻酔の維持麻酔を行なった
ようです。導入の仕方は、ガーゼに含ませて吸入させていた
ようです。


突撃一番…コンドームですが、ある意味
やはり衛生材と言えます。
兵用の支給品。初期の図案の物で、
中々出ないものだそうです。


軍醫の携帯醫嚢
陸軍の軍醫携帯醫嚢です。底の検査印は
昭和十三年になっています。中々しっかり
した作りです。赤十字のマークも綺麗に残
っております。
脊椎麻酔・硬膜外麻酔にも
使用したと思います。
脊椎麻酔と脊髄液穿刺に使われた
当時のものです。





別の陸軍 軍醫携帯嚢です。締め革に破れが
有ります。中身は大部分が欠品しています。


ペンのような物のキャップを外すとメスが仕込まれています。
これで咬傷の部位を切るのでしょう。その後、このメスの部
分を外すと本体に黒い粉末の薬が入っており傷口にまぶす
ようになっています。…効いたのでしょうか??…無理のよ
うな気がしますが…!?


長野県の内地部隊付軍醫として敗戦を迎えた軍醫少佐の携帯醫嚢です。
昇昂錠、ゴム絆創膏、薬用石鹸、その他含めて合計7本の薬入れと三
角巾、包帯等が入っています。戦後も使用していたらしく本体裏面の上
蓋を留める部分が取れかかっている事と負い革と本体をつなぐ所に補強
・補修があります。




陸軍 2砠ホ隊の醫柩 赤十字マーク入り
  寸法:72*28*35cm




旧型の将校用野戦行李ですが軍医もしくは、
野戦病院の物資輸送用のものです。

従軍看護婦用の包帯嚢。状態は、未使用。
標記は取り外されています。
  大きさ幅18x高さ22x厚さ7cm。

軍醫の図嚢です。





陸軍 包帯嚢と中身



皮製の陸軍 包帯嚢です。昭和18年の検定印があります。
中身は、衛生全書ポケットブック、衛生腕章、死傷手帳、通
信封筒及び通信便箋、衛生タスキ、携帯用注射器セット、
巻軸帯、91式包帯包、ヨードチンキなどに止血用のバンド
なのか不明のベルト状のものに将校用拳銃ベルト、マーゲ
ンチューブなどの代わりをするのか不明のゴム管などが入っ
ています。未使用品のようです。惜しい事に鞄のストラップが
切れています。






注射器一本と使い回しの注射針四本、薬剤壜が
四つのキットです。表に陸軍の星章があります。
一般的なキットだったのでしょう。携帯に便利な
頑丈な作りです。

画像は、休憩中の第二師団衛生隊
(通称:勇1312部隊)のものです。






陸軍 野戦気管切開器





セロハンに包まれて未使用の状態の品です。
気切をする握りとカニューレが三人分あります
。当時は、気管内挿管チューブが無かったでし
ょうから、顔面や口腔・咽頭に負傷し呼吸が行
なえない負傷兵には、軍医や衛生兵または、
使用法の講習を受けた兵士が緊急で気切をし
たものと思われます。








陸軍 外科嚢





軍医携帯嚢に入っていた物と思われる外科嚢
です。欠品がありますが研ぎ革に備品の一覧
が示されています。






陸軍 外科器械






外科の器材一式が木箱に詰められています。箱の
裏蓋に揃いの一式の定数と種類が記載されていま
す。また完全状態の備品の白黒写真が入っており
ました。

一緒に残されていた書類です。この方が戦後も保管
し続けたのでしょうか?それとも保管責任者の看護
婦だったのでしょうか。…不明ですが、これだけ
しっかりと残されており、今も現役で使えそうです。






陸軍 野戦用処置器具と嚢



コンパクトにまとめられている嚢です。
点滴用の器具と止血用か骨折などの処置に
使う器具にステート等がまとめられています。
点滴の器具は、通常時の点滴棒と違い樹木や
その辺の高さに合う物を利用できるように鎖状
になっています。緊急時の輸血や点滴には、も
ってこいの器具です。






陸軍獣医部の馬療嚢に衛生材料と旧型水筒



馬療嚢の右内側にセッシやカンシ(大、小)など
があります。アルミのケースに革製の衛生材料
嚢が収まってます。”馬療嚢内容品目表”の裏
に”昭和17”の印。水筒に『榎本放出班一班』と
氏名がありますが詳細は、不明。ゴム引き袋は
、マーゲンチューブのような物、空気入れや木製
の棒などが入っています。☆マークの衛生材料
は”○×ラビン錠”とあります。
馬療嚢は、負布や革に欠損など一部痛みあります。
検定印は、抱茗荷で獣医部を表しています。”馬療
嚢内容品目表”の留め部品が欠損しています。アル
マイト・ケースのガラスの注射器の先端が割れてい
ます。






陸軍獣医 携帯嚢











陸軍 耳鼻咽喉器械小












陸軍 代用歯科嚢













満州第七三一部隊のボイラー室の瓦礫



満州(中国東北部)の哈爾浜にあった秘匿名:満州第七三一部隊
関東軍防疫給水部本部があった事は有名です。別名 石井部隊と
言われておりました。この細菌兵器部隊の有名なボイラー室の瓦
礫の一部が画像の物です。現在は、世界遺産に申請しており採取
禁止地区となっておりますが、かなり以前に問題化される前後に調
査に出向いた大先輩から戴いた品です。戦後60年の経過で既に崩
落がはじまっているようです。
左から石井四郎軍医中将、真中の画像は731部隊の専用引込線、右は、ボイラー室。
焼却炉の煙突

731部隊の石井式濾水管です。野戦でも汚水を濾過して安全な水にする装置。
パイプ中央に汚水を入れて圧力をかけパイプ部分で濾過し周囲に染み出た水
は浄化された水となります。石井四郎軍医は、陸軍高官の前で、小便を濾過し
て飲んで見せたのは、有名な話です。石井軍医は、この濾水器により軍内部
で認められ731部隊創設に繋がっていきました。原理的には、ヒチリンと同様
の珪藻土で作られています。直径8cm、全長45cm、両端にアルミの金具がつ
いています。この金具部の両端に”軍事秘密”の文字があります。






満州事変で右手の手指と眼球を
            失った皇軍兵士の義指






















陸軍軍医への手紙



同一人物宛ての3通の手紙です。


上の手紙は、陸軍軍医へ志願に関して願書及び卒業証書の
写しを送付せよの葉書と辞令書は、ありませんが、辞令を同
封しているので誓文を送るようにとの内容とその雛形の文面
です。付箋に辞令書を受領後3日以内に出発し入隊するよう
にとあります。明治37年8月8日の陸軍省医務局衛生課から
の手紙です。

明治40年1月15日の消印です。日本赤十字社の
当時の社長 伯爵松方正義氏から送られた手紙
です。任官し秋田の歩兵第第17連隊で三等軍医
をされている時に送られた模様です。

歩兵第22連隊にいた朝長軍医に恩賜財団 
済世会より大正2年9月9日の消印で送られた
感謝状です。済世会に軍医が39円の寄付を
行ったことに対する感謝状のようです。






日露戦争で軍医となった帝大エリート医師の資料



日露戦争がはじまった明治37年の翌年の3月末に東京帝大の医科大学助手を辞職し同年
7月に陸軍二等軍医に任官しています。二等軍医よりスターと言う事は、中尉相当官ですの
で医専卒の医師でなく大学医学部卒を意味します。一般に医専卒の医師の場合、当時は、
三等軍医すなわち少尉相当官からのスタートになります。
広島予備病院附となっています。この病院は、当初、広島鎮台病院として
旧広島城内にありましたが日露戦争中は、広島予備病院と呼ばれ現在の
広島市中区基町17の中央公園の近くに移転しました。日露戦争後は、
広島衛戍病院と名称を変えました。昭和13年に広島陸軍病院と改称され
昭和20年には、広島陸軍病院は、広島第一陸軍病院、広島第二陸軍病院
、大野陸軍病院に大きく分かれます。広島予備病院だった病院は、広島第
二陸軍病院となりました。ここは広島に投下された原爆の爆心地の僅かに
1100m程しか離れていなく、当時の入院患者約750名と職員約30名が犠牲
となりました。

日露戦争後は、奉天公立病院の院長に就任されたようです。




こちらの桧垣先生は、同仁会のメンバーだったようです。同仁会は、1902年の創立され
中国への医師の派遣や病院・医学校の建設など、対中医療事業を中心に活動を目的に
作られた会です。計画的に中国・韓国へ日本人医師を派遣、続いて病院等を建設してい
ました。手法としては、まず中国・韓国その他諸国の政府に医事衛生の必要性を説き、
学校・病院を設立させ、そこに医師等を派遣するやり方と、地元の居留民団に連絡し、そ
こに医師・助産婦・看護婦などを紹介し、派遣する二通りの方法を行っており、こうして
大正元年までに計123名を中国各地に派遣しております。その中に一つに奉天公立病院
があり桧垣先生の名前が資料として出てきます。この同仁会の関与した病院としては、他
に 漢口同仁医院、大連同仁医院、大連駆黴院、広州随軍医院・医学堂、間島慈恵病院、
天津佐野病院、長沙陸軍速成学堂、武昌軍医学堂、南京三江師範学堂、吉林武備学堂
などの病院・医院(開業医も含む)、学校などがありました。






戦前の獣(外科系)医師の往診用鞄




鞄の上部の四隅に桜花印が施され中身も機能的に詰められた高級な造りの牛革の鞄です。
外科用の手洗いブラシやその他の器具も非常に大きいので獣医用では無いかと思います。






軍医の携帯顕微鏡と携帯手動懐中電灯



携帯手動懐中電灯の”ほたる”と携帯用の小型顕微鏡です。
顕微鏡に刻印等はありません。まだ生きていて使用可能です。






野戦病院の赤十字灯




ガラス部分は、スリガラスに極薄い赤いガラスが貼ってあり、かなり手の込んだ造りです。
材質は真鍮に金塗装で明治時代特有の金色です。現在は、大阪ガス資料館に一台ある
そうですが、そこの品は、ガラスが一枚割れているそうです。こちらの品は割れも無い完
品です。ヤフオクで手に入れた品ですが、元々の入手先は、旧北野ランプ博物館コレクシ
ョン(現在大阪ガス所有の神戸らんぷミュージアム))に収められた所と一緒の出所との事
で、三品ありその内の一つとの事で大変貴重なものと思われます
現在の神戸らんぷミュージアムのHPは、
http://www.kepco.co.jp/pr/ranpu/
です。






一年志願兵より三等軍醫正(少佐)
 にまで昇進した明治陸軍軍醫の神物資料



一年志願兵として見習醫官から陸軍三等軍醫正(少佐)まで
勤めた渡邊虎之助という方の任官辞令等39枚と日露従軍紀
念証1枚です。明治陸軍の熟成期を明治30年から45年の15
年間を駆け抜けて予備役になった軍醫殿であります。

一年志願兵の服役を許可する官費服役証書は非常に珍しい
ものです。通常は自費によるものですが、やはり軍醫不足は
何処の軍隊も同じようです。人材確保に予算は付き物である
事が見てとれます。
履歴は、歩四→歩二十九→台湾歩兵一蓮隊→台北衛戍病院
→歩四十→歩八→歩四→歩六十五→若松病院→予備役です。

転属先で徴兵副醫官、幼年学校身体検査官、福島連隊区徴兵醫官
一年志願兵検査醫官、若松連隊区徴兵醫官、将校生徒志願者身体
検査官なども勤めており非常に興味深い軍醫ものです。

















初版の『日本薬局方』の編集委員を
     務めた緒方 維準 陸軍 軍医監
               兼薬剤監の肉筆短冊



軍医監+薬剤監です凄いスーパーマンです。
明治草創の頃で無いと有り得ない地位です。
あの日本薬局方の初版の編集員をされてい
た事でも有名な方です。
幕末明治期の医家。維新後、大阪仮病院勤務(暗殺された大村益次郎を
診察)を経て明治11年から明治14年まで大阪鎮台病院長。明治16年7月
から松本良順の下で陸軍軍医監兼薬剤監。当時軍に蔓延していた病気
撲滅に兵食に麦飯を入れるか否かの問題で良順と確執があり退役。






ある陸軍軍醫の身に付けた”盡忠報国”、
  ”祈武運長久”の日の丸の旗(従軍記録入り)



杉野軍医の支那事変での従軍履歴が書かれた日の丸です。中央には部隊長の揮毫が
あります。贈ったのは同期か友人なのでしょう。本島少尉とあります。
昭和12年9月7日、金沢・高岡町本部を出発とありますので第二次上海
事変で増援軍として送り込まれた金沢の第九師団である事が判ります。
この師団は、徐州会戦と武漢作戦を戦い昭和14年6月復員します。この
日の丸も最後は昭和14年元旦を汾陽(山西省)で迎える。…とありました
し途中の経路も一致しますので、まず杉野軍醫は、第九師団隷下の軍醫
と見て間違い無いでしょう。
第九師団には、第一、二、四の3つの野戦病院
がありましので、このうちのいずれかの所属だっ
たものと推察します。









金沢の第九師団は武勲高い歴戦の精強師団ですが日米戦が
開戦されてからは、一度も戦うことの無かった師団です。開戦
時は、第三軍の指揮下で衛戍地である満州にあり、昭和19年
に沖縄防衛の要として沖縄に転出するも…すぐに台湾に転出
され戦う事無く台湾で敗戦を迎えております。この軍醫少尉殿
も日中戦争以降も軍醫として同じ郷土部隊であれば台湾で敗
戦を迎えた可能性が高いと思われます。






戦時資料:青島陸軍病院☆輸血報国記念のバックル



青島陸軍病院★輸血報国記念のベルトのバックルです。
陸軍の星章の下の真ん中に赤十字社のレッドクロスが描
かれ左右に鳳凰が描かれています。








陸軍軍醫学校創立五十周年・記念飾りプレート










軍医少尉さんの認識票
第ニ兵站司令部衛生部の見習士官の認識票


森島侃一郎 陸軍軍醫少将

 群馬県出身

昭和 9 年 岡山陸軍病院長
昭和11年  下志津陸軍病院長
昭和14年 陸軍少将
       第21軍軍醫部長
昭和15年 南支方面軍軍醫部長
       第13軍軍醫部長
昭和16年 待命
昭和20年 予備


熊本衛戊病院の院長の名刺です。
後の熊本陸軍病院で現在の独立
行政ホウジン国立病院機構”熊本
医療センター”の事です。主に陸軍
病院は、二等軍醫正(軍医中佐)
が院長職に付きました。



一枚の写真から…
駅のホームです。これから出発する
のか背嚢に手袋をはめ左手にはサ
ーベル型軍刀を手にしたフル装備の
陸軍軍医(少尉相当官)です。右腰
には左手で見えませんが斜革より拳
銃嚢と図嚢などを携えているようで
す。左手の奥には多分、醫療嚢もあ
るものと想像します。






アルバムに軍医の名刺と一緒に
貼られた一枚の手術の写真です。
奥の真ん中で頭を下げて術野をのぞき込む形の執刀医
が病院長の岩戸軍医大尉でしょうか。助手の医師が二
名、手前左に器械出しの看護婦が一名。外回りの看護
婦なのか見学なのか手前にナースキャップを被った一名
に現在でなら麻酔科医が居る場所にのぞき込む看護婦
が一名います。…マスクも帽子もしない姿はいただけま
せん。…戦前は人工呼吸器や麻酔器が無いので全身麻
酔自体が大変なリスクであったろうと想像されます。また
現在のような消毒・滅菌技術が発達し感染症対策がなさ
れあらゆる種類の抗生剤が揃っている時代でありません
ので…麻酔中の術中死のリスクと感染症で術後に死亡
するリスクは非常に高かったと想像されます。

戦時中も米軍を中心に連合軍側にはすでにPC(ぺ二シリ
ン)という抗生剤が存在しました。これ等の存在は戦場で
も野戦病院で手術した患者の生存率を飛躍的に上げまし
た。これ等の抗生剤が日本軍にもあれば多くの傷病兵が
助かり死ななくても良い将兵が大勢助かったものと思わ
れます。