旧軍関連収集品
(軍装品...etc) Part U















Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服








海軍少佐一種軍衣       海軍大尉 外套


海軍参謀大尉 二種軍衣      予科練生徒 三種軍衣


海軍機関少尉候補生
         一種軍衣   
 海軍飛行特務中尉
         一種軍衣

 (川合誠 特務中尉)


右上の画像の航空特務中尉の一種軍衣に関する資料


この通礼服も上記同様に私の所蔵品では。
ありませんが川合特務中尉の通礼服(礼衣)
です。参考資料として上記同様に掲載します。


海軍少尉候補生一種軍衣


海軍大佐 二種軍衣        海軍兵学校生徒一種衣


海軍兵学校生徒外套


海軍 飛行兵曹長 一種軍衣 (兵曹長襟章に青の識別線)



海軍予備少尉 一種軍衣 (改正前旧型)コンパス襟章 山型袖章


海軍上等整備兵曹(陸戦衣) 高等科八重桜、特別善行章一線
 海軍金属襟章 …このタイプの陸戦服は、昭和15年より17年
まで使用され廃止になっています。(襟の金属章と特技章が複製
品の可能性有と見ています。また整備科の兵曹に陸戦服が必要
なのかは、疑問の残るところですが…一般に必要に応じて陸戦隊
は、艦の手空きの人員が当てられる事もありましたが、後半は、初
めから陸戦隊として組織されていたように記憶しています。)


海軍機関特務大尉  
      通礼衣(礼衣)
 海軍少尉
  飛行装備(夏)


海軍参謀少佐 三種軍衣    海軍少尉 特攻艇『震洋』
     乗務員軍衣袴
   (セパレート型飛行服)


予科錬生徒(一種軍衣袴・軍帽)


予科練生徒一種   
    (軍衣袴)
 海軍上等兵曹 一種軍衣
   (善行章二本、特技章)


海軍上等飛行兵曹
  三種軍衣(特技章)   
  海軍三等水兵 事業服(夏)


海軍主計少佐
     一種軍衣  
 海軍少尉
    三種軍衣



海軍飛曹長 南方服   
        防暑略襦袢
    海軍々属 高等官(六等) 
                一種衣


海軍砲術科一等水兵 
      二種軍衣袴
海軍兵学校
  三種生徒軍衣


海軍一等兵曹 二種軍衣
      甲板下士官腕章、軍帽 特技章


海軍少尉 防暑略衣       海軍航空隊大尉
   飛行服(夏)・カポック


海軍三等機関兵曹 一種        海軍二等水兵 一種


第一種水兵軍袴(未使用)
昭和19年・横須賀軍需部・3号


海軍二等水兵 一種         海軍大佐 二種軍衣袴


海軍大佐 外套


海軍中尉マント(雨衣) 海軍中佐マント(雨衣)
   佐官用マント
     (桜花章2個)


海軍少尉
  防暑略衣 
 海軍少尉 防暑略衣(中央)
    海軍兵学校生徒 二種軍衣(右)


海軍少尉 一種軍衣     海軍軍医少尉 
       一種軍衣


    海軍技術大佐 一種軍衣
海軍大尉 陸戦隊軍衣 (上海バンド)   
 海軍少尉 
 飛行(夏)軍衣
 (カポック、マフラー)


海軍少尉 飛行(夏)軍衣  
飛行帽(夏)・航空眼鏡
  マフラー
 海軍少将 一種軍衣袴
  (軍帽・将官用雨衣)


海軍少佐 
    一種軍衣・軍帽   
  海軍飛行兵曹長
     夏用飛行軍衣
        (カポック)


海軍士官用 第一種雨衣


戦後も使われていたようで相当に着込まれています。補修も
結構なされています。菱形編布には、記名がありません。







下士官・兵用 外套




明治20年制定で敗戦まで使われたダブルのハーフコートです。
通称、ピーコートまたは、ピージャケットと言われました。



末期のピーコート




作りも生地もかなり粗末です。本来は、ダブルのハーフコートですが
釦が一番上しかなく、その下の第二釦以下は、付けた気配もありま
せん。上海衣糧廠、昭和二十年、貸与品の記名布があります。











海軍軍属(軍需工場の工員)の上衣






胸に名札があり”サン四七五〇工場 工務課 ○○”とあります。







海軍中佐
一種軍衣袴
皇室付武官
参謀飾緒(銀) 
一種略帽
 予科練生徒 二種軍衣袴
 軍帽/陸軍歩兵科准尉 
 開襟軍衣・略帽/海軍
 中尉防暑衣/海軍二種
  略帽/水兵帽


海軍少尉 三種軍衣
十九年・第一海軍衣糧廠 三号


海軍少尉 二種軍衣袴    海軍一等兵曹 一種       海軍機関二等兵 
      事業服(冬)


海軍 上等兵
兵・下士官用防暑軍衣袴

佐世保軍需部・十九年度(二)


海軍士官用 開襟防暑衣


海軍士官用 開襟防暑衣
肩章を剥がした後があります。
胸のポケットに桜花章を取り外した襟章が
あったようです。当時使われていた方が
少尉である事が判ります。



肩章留があります。珍しいものです。手持ちの少佐の肩章を合わせてみました。
内部に今野の記名があります。





下士官軍衣です。美品ですが残念な
事に釦が当時のものと違うようです。


海軍兵・下士官用 
   最末期の三種軍衣   
 海軍少尉
 旧型陸戦隊
     軍衣袴


海軍最後の三種(冬)改造

【貸与・横須賀軍需部・製作年月・昭和二十年六月・
寸法(一)】表地裏地とも良質な素材が使われておりま
す。(ジャンパー状に胸ポケットの釦は当初から付けら
れた様子は有りません。)
敗戦の二ヶ月前に造られた、
通常三種のポケットを上に移動し、着丈を短くして裾をベ
ルト状にしたしてます。背面のベルトは取り外されて
おります。







海軍兵学校 三種軍衣(褐青色夏服)と軍袴






海軍兵学校生徒上衣三種です。菱形返付は
岡山衣料廠となっています。肩章止めがあり、
どうも二種を染めて三種にしたもののようです。

昭和19年8月に”海軍第三種軍装令”で、この褐青色の略装
を第三種軍装として、従来の第一種・二種軍装に替えて常時
着用を命じました。臨時特例で19年2月に発令され、昭和20
年初夏を前に白色被服品の全てを褐青色に変えました。多く
は、白を染めて三種にしました。しかし麻は、染料の吸収に
問題があるのか新調した三種とは、色合いが大きく違いが出
たようです。
海兵第77期 オ203分隊(大原分校) 塙 省造生徒
(天王寺中出身)の三種短ジャケットです。この77期
生も敗戦で任官できませんでしたが、故郷に帰郷し
た時に、これを着装したそうです。 


上記の軍衣とは、全然別物の海兵生徒の軍袴です。







予科練 二種軍衣






予科練の二種軍衣です。7つ釦が士官用
の釦に変えられているのが残念です。







海軍 軍医の術着




手術に際して着るガウンのようなものです。
陸軍のコーナーで出した術着と違いこちらの
海軍のものは、マスク一体式となっています。







海軍 傷病兵衣




昭和18年、佐世保軍需部、貸与品。







村田 海軍機関中将の少将・少佐時代の一種軍衣




海軍少佐一種軍衣:状態があまり良くない一種衣です。こちらの軍衣は、
ヤフオクで手に入れたものですが”むらた”のネームがあります。同時に
同名で中将と大佐の一種衣が出品されておりました。同一人物の少佐時
代の一種衣と思われます。海軍の将官名簿より該当すると思われる人物
は、村田豊太郎 海軍機関中将(鹿児島)となります。

海軍機関学校13期
 横須賀工廠長を最後に昭和10年12月20日 予備役編入の方です。
尚、襟章は、取り外した糸の跡が残っています。
同じ村田ネームの海軍少将一種軍衣です。略綬と少将の襟章は、
撮影用参考品で手持ちの物を使用しました。同じヤフオクの出品者
から入手しましたので、村田中将の少将時代の軍衣かと思います。
相当使い込まれたのかテカッています。







海軍各種 正装・通常礼装




海軍軍医少佐 正衣 軍医識別線(袖)

海軍機関特務少尉 通礼服(礼衣)         海軍軍医大佐  通礼服(礼衣)
海軍軍医中尉 正衣             海軍特務少尉  通礼服(礼衣)







海軍士官用 胴衣




海軍士官通礼用の胴衣です







海軍士官 通礼装用の蝶タイ




とある海軍大佐の使用品との事です。







海軍士官 サスペンダー




この持主は、辻冨雄海軍少佐(昭和17年12月7日、ルンガ沖にて
特殊潜航艇(甲標的)で戦死し全軍布告、二階級特進。)です。







海軍士官の通礼装用等
      で使用されたウィング・カラー




ヤマトカラー製、サイズ16.5in=42cmです。
海軍に於いてもフロックコートは、大正〜昭和期に完全に
ウイングカラーに移行した感があります。軍装でも大正期か
らちらほら見られるようになりました。、昭和期には、相当な
割合で普及し主流を占めるようになってていました。







明治 海軍中佐(常服)





 海軍中佐 常服
明治3年11月制定で短期間の間だけ使用されまし
た。珍しい袖章の丸で無く四角いのは”袖角”と言わ
れる物です。尚、この袖角は、将官と少尉以下には、
付かないのが特徴です。これも明治4年12月には、
見慣れた環形の袖章に変わりましたので、帝國海軍
黎明期の極めてレアなものと言えます。この軍服は
、134年前の一年だけ使用された物と考えると非常に
保存状態が良く極美品と言えます。

片方だけの当時の肩章ですが、この状態を考えると
…この常服の保存状態は、非常に素晴らしい事が良
く判ります。







海軍少佐参謀軍衣(皇族付武官or副官)




海軍少佐一種参謀衣です。飾緒は、銀の海軍
飾緒です。従って皇族付武官若しくは、副官だ
った方だと思われます。尚、略綬は、イメージで
手許の物を合わせての撮影です。







海軍二種 腹巻(兵・下士官用)






白ネル製ですが,だいぶ汚れがあります。昭和18年の
舞鶴軍需部。この腹巻にも一種と二種があるそうです。


こちらは、昭和十七年、呉軍需部の標記のある二種腹巻です。







海軍艦内紺足袋






海軍兵用貸与品で、海軍順知提要によれば、紺足袋
(正式名称)は「水兵ニ限ル」と有り、2足貸与されてい
ます。「十一文・日足総 長野 納 」十一文のサイズ
は、少ないそうです。
まだ複葉機の時代、海軍の整備に当たる水兵は、
紺足袋が使用されました。デッキ作業に使用する
麻裏の足袋です。火災に弱いのが難点で大正15
年にゴム底足袋(地下足袋)を一時使用しましたが
、昭和6年には茶褐色ズック製のゴム底靴が整備
靴として制式採用になっています。本品は、複葉
機の時代に使用された古き良き海軍の時代の
紺足袋です。



こちらは、上とは別の足袋で未使用の新品です。







海軍 兵・下士官用 冬用・防寒襦袢・袴下




冬用の官給品の襦袢です。
佐世保軍需部、再生品


とても状態の良い防寒襦袢と袴下
防寒襦袢は、横須賀軍需部、貸与品、十九年四月製作、
寸法(二)。防寒袴下は、同じく横須賀軍需部、貸与品、
十九年四月製作、寸法(二)と若干色合いが違いますが
揃いです。



未使用の夏用の袴下
呉軍需部、昭和18年10月製の二号







海軍リュックサック








海軍の大型リュックサック”昭和十九年製・第二衣糧廠”
大きさ幅32x高さ44x厚み15cm。…未使用品のようです。



下の画像の海軍リュックは、かなり使い込まれています。
恐らく戦後も使用していたのでしょう。スタンプも薄く
第二衣料廠が読み取れます。











海軍 雑嚢




戦後もかなり使い込んだようです。記名布は、
外されています。蓋の締紐とそれを固定する留
め金具に欠品無く、腰のフックも欠品無しです。
真鍮製の金具に錆が出ています。




以下は、別の海軍の雑嚢です。
イニシャルの書き込があります。
所々に黒いシミが多少あります。







ある海軍中尉(予備学生)の二種軍衣と軍歴




海軍中尉 二種軍衣


cf.上記二種軍衣の海軍中尉の
      方の軍歴を覘いて見ましょう!





東京出身の海軍中尉さんです。この方の軍歴を見てみると、
昭和18年12月10日に武山海兵団に入団。即、海軍予備学
生となる。昭和19年7月15日に館山海軍砲術学校に対空班
専修として入校。同年12月25日に術科教程を終了し海軍少
尉に任じられる。同日、再召集にて舞鶴鎮守府被迎付とな
る。翌26日、学校を退校して赴任。12月28日、着任し舞鶴警
備隊司令部付となる。20年3月22日に駆逐艦 榎 艤装員を
命ぜられ、司令部を退隊し舞鶴にて31日に着任。榎乗組とな
り連合艦隊に編入される。6月28日背部に戦傷を負い舞鶴海
軍病院に入院、7月28日に退院している。…陸軍でもそうです
が、海軍の士官不足で始まった予備士官制度では、旧制中
学校以上の学歴を有すると認められた者は、兵役法により召
集により海軍兵となる事を免除され予備士官への道を歩みま
す。平時であれば卒業し予備少尉に任官すると予備役に編入
され除隊となります。…しかし、戦時下であれば、この方のよ
うに招集解除、即、再召集となり軍服を脱ぐ間もなく継続して
軍務に服す事となります。これは、一般兵の場合も同じで日中
戦争の泥沼化で慢性的に兵を必要となり、気が付くと日米戦
が開始されました。こうして除隊する者が激減した為
上等兵が
陸軍では、急増しました。仕方なく陸軍は、伍長の階級の下に
兵長と言う階級を増設した訳です。さて話が脱線してしまいま
したので元に戻しましょう。入院中の7月15日付で舞鶴鎮守府
守備隊に編入され、特殊警備駆逐艦に定められる。敗戦後の
9月1日付で海軍中尉に昇進、同日、召集解除となる。恩給加
算の記録では、19.12.28〜20.3.31と20.7.2〜9.1までが戦務
丁(舞鶴海軍警備隊と榎)。20.4.7〜6.28が太平洋方面にて
戦務甲(榎)となっています。所謂、ポツダム中尉さんだったわ
けですね。







海軍航空隊 救命胴衣(カポック)




未使用の美品です。


昭和19年5月、横須賀軍需部 貸与品







海軍航空隊 救命胴衣(カポック)






昭和19年の横須賀軍需部貸与品
前の持ち主の奥様が誤って洗濯をしてしまった模様です。背中に消えて
しまいましたが、部隊番号があったそうです。丸に七3つの印だったようです。







海軍航空隊 飛行マフラー






官給品の飛行マフラーです。舞鶴軍需部貸与 昭和19年8月の検定印
記名部に兵籍番号と名前が記入されています。元々の官給品マフラー
にこれまたマフラーに取り付けられていた記名布を付けて戻したようで
す。縫い付けが新しい事が判ります。上記にあるように私製の二点の
飛行マフラーと比較すると同じシルクでも官給品の方は、言われるよう
に余り強く無いようです。すぐに裂けそうな感じです。対して反物から起
こした私製のマフラーは、頑丈です。搭乗員達ががこうした点もこだわっ
た理由が判る気がします。このマフラーは、展示品の為に再生されたた
ようです。マフラー自体も満州におられた方の将校行李から出てきた実
物の品で、検定布も実物、縫った方も当時の縫工員の方で、当時の本
物の糸を使ってかなり手間をかけて再生したようです。
陸軍にしろ海軍にしろ飛行服のマフラーに本来は
官給品があったかは、定かでありませんが。概ね
今まで見てきたものは、私物品で長いものもあり
ますが短い風呂敷のような物が殆どでした。一般
には戦後に某◎商会など軍装品店がバンバンス
タンプを押し捲り、記名布を縫い付けして売り捌い
たというのが定説です。立派な官給品のマフラー
を見つけましたら首を捻って考えて見ると良いかも
しれませんね!



252空戦闘304飛行隊 吉田 勝義 海軍飛曹長
      (甲飛六期)の使用された飛行マフラー二点




絹の飛行マフラーは飛行機乗りの代名詞のようなものです。
私製の物から官給品と謂われるものまで時々見る事があり
ます。色も定番は白ですが…紫や赤など色々あったようで
す。コレクションから当サイトで収蔵した飛行マフラーが数点
ありますが、今回のように所持者がはっきり判る飛行マフラ
ーは初めてです。この吉田 飛曹長の愛用のマフラーの一点
目には、かなり薄れかけていますが…大きく”非理法権天”
と記されています。楠木正成公の軍旗に菊水紋と共に記され
た事で有名なこの言葉は”非は理に勝たず、理は法に勝た
ず、法は権に勝たず、権は天に勝たず”を意味し…先の大東
亜戦争では非理法権天と印した幟や特攻隊員や航空隊員の
カポックなどにもこのマフラーのように記載されているのをよく
見かけます。法非理法権天と七生報國は戦時中に最もよく目
にするスローガンだったかもしれません。
他にも所属等が記載されていたのか相当薄れて難読です。


大空のサムライで余りに有名な撃墜王・坂井三郎中尉の
写真です。右は台南空でラバウルでの画像です。人により
マフラーの巻き方も個性がある事が判ります。多くは高空
での寒さ対策であり、いよいよ切羽詰れば包帯代わりにも
三角巾代わりにでも何でも変身する便利な代物です。

もう一点の飛行マフラーです。これには”明日ありと思ふ心の
仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ”記載があります。これは
京都青蓮院の慈円のもとで得度する前夜に僅か9歳の親鸞
上人が詠んだ歌です。一度、大空に飛び立ち出撃すれば明日
の命も知れぬ身の搭乗員にとって同じ想いに至るのでしょう。
これを襟に巻き昭和20年8月15日、敗戦の日の空でも英軍機
一機を撃墜し個人撃墜スコアーの10機目を記録しました。
この他、日本人らしく金毘羅神社などの朱印があります。


全て御本人です。飛曹長に昇進する前の下士官時代です。
(左端は202空時代で愛機の前でポーズを取る写真。真ん
中は昭和20年3月、戦闘304飛行隊の先任下士官時代。
右端は202空で同期の甲飛6期・後藤 庫一 一飛曹(撃墜
スコアー:8機)です。
昭和20年3月、沖縄戦開始直前に茂原基地での戦闘304
飛行隊の搭乗員達の集合写真です。飛行隊長の柳沢
八郎 少佐の後ろが吉田 上飛曹(右下の拡大)です。また
二列左から二人目が志賀 正美 飛曹長(敗戦時 少尉、
撃墜スコアー:16機)です。


昭和19年に結婚されました。 三式初練の前で写る練習生時代 昭和20年5月1日、飛行兵曹長に昇進

昭和20年4月、252空戦闘304飛行隊の先任下士官
だった時の吉田 上飛曹(前列左から三人目)。尚、
後列の左から二人目が志賀 正美 飛曹長(敗戦時、
少尉。撃墜記録数:16機)です。







海軍 飛行服







夏用の飛行服(セパレートタイプ)




両臂の大尉臂章と国籍識別臂章は、複製品でしょう。旭日の臂章は、
明らかに戦後のものと思われますが飛行服は、実物で良い品です。
虫食いも無い美品。絹製です。
人気のあるベルトタイプ。上下共に鎮海軍需部は、珍しい。
鎮海軍需部、貸与品、衣が4号、袴が1号です。



夏用の飛行服(つなぎタイプ)




同じく夏用の飛行服です。こちらは綿製のものです。


飛行練習生達が使用したのか、かなり回して着用したようです。
3名以上の方の名前があります。持ち主が名札の上に茶色の生
地でポケットを仮縫い状態で付けていたわけが判ります。またベ
ルトも完全です。しいて言えば油の汚れですが、これも実際に使
用していた証といえます。良い品です。





冬用の飛行服(つなぎタイプ)




冬用の絹製ツナギ。裏地は、綿製でキルティング。
記名布無しで年式不明。”三号”サイズのタグ付き。
ジッパーは全て健全、概ね良好なれど、かなり着用されています。縛帯
を締めた部分にスレや電線が走ってます。何かに引っ掛けたような破
れ箇所が右袖に一箇所。左太腿付近に大小6箇所。バンドの先角・
股間・袖先・裾部分にスリ切れ箇所が多少あります。バックルに薄錆。
左袖と右ポケット付近、腰にシミがあります。全体に薄汚れ。前の第4
釦が変わっていて、股間の釦の周囲が傷んでます。左襟裏の奥側釦が
1個欠。襟の前留布(ウインド・フラップ)欠品しています。



夏季飛行服(セパレートタイプ)の袴




末期の20年6月の未用品です。香取海軍航空隊主計長
だった海軍主計大尉さんが所持していたそうです。







海軍 各種 航空電熱被服 収納ケース








電熱服は、この軽量コンパクトなグラスファイバー製
のケースに収納されて供給されました。サイズは、
21×60×12。重量1.4kg


別の電熱航空被服の収容箱











海軍航空隊 電熱手袋






昭和19年、藤倉工業製、イ165とあります。
検査印は、昭和20年4月に9.59Ωとあります。


香取海軍航空隊主計長だった海軍主計大尉さんが所持していたそうです。







海軍航空隊 電熱服 一式




電熱手袋に少し痛みがありますが、全て揃いの一式です。






上衣は、昭和18年、横須賀軍需部の貸与品の2号です。
藤倉製で検査票に昭和18年10月の記載があります。


電熱袴の方も18年の2号、同年10月の検査を受けています。


電熱袴の内部と股の部分


電熱手袋は、少し痛みがあります。
こちらも同じ18年10月の検査を受けています。
電熱足袋です。
こちらも同じ18年10月の検査を受けています。




上の電熱服の収納箱では、ありませんが同じものです。
下の画像の右隅に同じケースがあり、昭和15年製 電熱
航空被服と記載されています。この画像は、支那事変の
頃の九六陸攻内部で電熱服を着用しているものです。大
型機では、寒くなってから着替える事が可能です。 







海軍 航空科少尉の一種軍衣













野村吉三郎 海軍大将の御長男
       野村忠 主計大尉一種・二種軍衣




海軍大尉一種衣です。階級章は、手元の物を撮影の為、合わせてます。
有名な野村大将の御子息の一種軍衣です。
こちらも同じ大尉の二種です。惜しい事にクリーニングの
後、仕舞いぱなしで釦が見つからなかったようです。


後日、入手した御当人の主計大尉肩章と軍帽覆です。




戦後の所持品。この方は東京帝大法学部卒で
昭和16年海軍に入隊。敗戦時は、主計大尉で
ありました。戦後は、日銀で活躍されたそうです。







某参謀大佐の中佐時代の一種参謀衣




海軍一種参謀中佐の軍衣袴です。着用されていた方は、海兵卒業以後は艦隊
参謀畑の方だったらしく、所持されていたどの服にも参謀飾緒通しが空いてい
たみたいです。この軍衣袴は、元南西方面艦隊司令部の参謀で国内に残して
出られた遺品です。南方へ異動となった際に併せて大佐に昇任した為、中佐の
服を直しに出す予定で置いてあったとの事です。







海軍空挺用 一式縛帯と落下傘






縛帯の背当布です。


藤倉航空工業株式会社製、一式落下傘(特型)、製造番号1610165、
製造年月日16,9,14、修理18,12,5の記載があります。


上記の画像は、敗戦の4日前に橘花のテスト飛行に
飛び立つ前にテストパイロットが搭乗する画像です。
一式縛帯を装着しています。
九二式操縦者用縛帯を装備した海軍空挺隊である
横一特の堀内豊秋司令(中佐)です。昭和16年に
製作された海軍三型鉄兜を被っている。手袋は、航
空夏手袋である。

cf.堀内豊秋 海軍大佐

海軍体操の創始者であった堀内中佐(当時)がその能力を買われ横須賀
鎮守府 第一特別陸戦隊長(落下傘降下部隊司令)に任じられたのは、昭
和十六年九月であった。昭和十七年一月、落下傘部隊を率いてインドネ
シア・スラウェシ(旧セレベス)島のメナドに降下して電撃的勝利を収め、
有名な”空の神兵”と歌われました。占領地での中佐は、投降したオラン
ダ兵捕虜への暴行を厳禁し、オランダ統治時代の四分の一という減税を
行い教会や学校などを建設し、軍紀厳正で、現地の女性が安心して外出
できる街を実現しました。現地住民には『日本軍は、インドネシアをオラン
ダから解放する為に戦っている。軍紀は厳しくするので安心して仕事に励
むように』と言いました。この伝聞がオランダ側に伝わり後のBC級戦犯で
の処刑に繋がったようです。次に転任したバリ島でも彼の博愛精神は、陸
軍による略奪を無視せず陸軍に直談判して住民の信頼を勝ち得ました。
支那においても同様でありました。そうした大佐が昭和二十年七月まで
海兵の教官を勤め再び前線へ出る際に”メナド降下行”という自作の詩を
朗読したそうです。

   余は降下兵の死を悼む
           余は敵兵の死を悼む
   余は名もなき、戦士の死を悼む
           犬死にではなかりしことを
   平和の礎えたらんことを
           再び血の争いのなきことを

堀内大佐は敗戦後、邦人の引揚げ業務に従事していたが、彼に届いた
のはオランダ側からのBC級戦犯の逮捕状でありました。起訴状は『メナ
ドでの戦闘で投降したオランダ軍人・官吏を彼の部下が銃剣で殺害し、
捕虜を繰り返し虐待・暴行を加えた』との内容でした。彼は一切の弁明を
行わず、多くの部下を死なせた想いと自分が刑に服する事が戦犯に指名
された多くの同僚・部下の減刑に繋がるという思いがあったと推察されま
す。こうして空の英雄は、昭和二十三年九月、銃殺刑となりました。享年
四十三歳。銃殺に際して目隠しを拒否しての見事な最期だったと言われ
ております。堀内大佐の遺書には、『自分の死は見守る人もいないが、
立派なものと信じてほしい。死に臨んで少しの不安もないのは、過去の
清らかな生活がそうさせるのだろう』と記載されていたと言います。

戦後も現地メナドでは、トアン・ホリウチとして彼の事は伝えられ平成四
年一月に堀内司令官を敬愛するメナドの住民の尽力で、現地で落下傘
降下五十周年式典が催され、日本からも堀内大佐の縁故者や海兵時
代の教え子ら百二十人が参加、州知事はじめ住民の熱烈歓迎を受け、
昔に覚えた日本の歌も披露され、式典は大いに盛り上がったようです。
大佐の人徳が戦後五十年が過ぎても現地住民の心に刻み込まれてい
た事は特筆すべき事と思います。またその後の平成7年8月のインドン
ネシア独立50周年には、堀内大佐が埋葬されていた墓地跡に、メドナ
市によって大佐の慰霊碑が建立されました。

以下に平成15年5月に靖国神社が公開した”今月の遺書”で堀内大佐
の遺書がありましたのでご紹介致します。


        "立派な人になって下さい"

              海軍大佐 堀内豊秋命

               横須賀鎮守府第一特別陸戦隊
               昭和二十三年九月二十五日
               セレベス島メナドにて法務死
               熊本県出身
(前略)

 人がなんと言っても恥ずかしいことはありません。皆母様の教えを守
りよく勉強をし、立派な人になって下さい。日本を救う道は立派な人間
になること、よく学問して、偉くなることです。体は若いうちに作らねば
後で後悔します。監房の生活は少しも苦しくないからお父様のことは
全く心配いりません。お父様に対する孝行は、ただ勉強して立派な人
になることです。特に一人息子の一坊は一家の柱です。呑気すぎては
なりません。それでこせこせしたり、卑しくなってもいけません。

(中略)

 くれぐれも心配するな母ちゃん。少しでも仕事があるようなら知らして
くれ。筍生活には限りがある。小生の帰り何時か解らん。健康に特に気
をつけ無理するな。
 神の正しい裁きを待つばかり。

  下壽殿
  一坊外子供達一同殿


海兵生徒時代
海軍体操の創始者で常に陣頭に立ち実演したと言われています。
海軍兵学校で使われた『海軍体操教範』です。
海軍兵学校の貸与品として168ページに別表ま
である凄い内容になっています。

左は、昭和16年の秋に千葉・館山基地で降下訓練を陣頭に
立ち行なっているもの。右は、昭和15年10月に支那の厦門を
去る際に堀内司令(当時少佐)を慕い住民が建てた去思碑の
前に立っている写真。
左は、昭和17年1月12日に蘭領ランゴアン飛行場に降下した急襲した
堀内部隊の第二陣の降下途中の画像(第一陣は、11日に降下)。左
は、制圧した翌日にランゴアン飛行場で幹部と記念撮影した写真です。
前列右から2人目が1001空の飛行隊長 森富士雄 少佐、3人目が
堀内中佐です。
左は、ランゴア飛行場制圧直後の堀内中佐。右は、11日正午頃の
メナド市郊外のトンダノ湖畔で戦況を見る軍刀を手にした堀内司令。
左は、17年2月11日に制圧地域の住民代表よ紀元節を祝う中佐。
右は、バリ島のシンガラシャ司令時代(17年)に現地の民族衣装を
纏った写真。
メナド民政部の角田 司政官に贈った堀内中佐の書です。右は
昭和20年7月、海軍兵学校針尾分校 部監事時代の堀内大佐。
44歳の若さです。




こちらは、元横一特の空挺部隊の生き残りで堀内司令の
部下だった方の功七級金鵄勲章とメナド攻略戦で山本
五十六連合艦隊司令長官よりの部隊感状の写しを額縁に
したものです。誇りとして戦後もご自宅で飾られたのでしょ
う。かなり額縁も古く年季が入っています。









正木 軍医大尉の二種軍衣袴






 海軍 軍医大尉 二種軍衣袴
肩章に持主の正木の名があります。







海軍大尉の防暑略衣袴




                海軍士官用防暑略衣袴
この持ち主は、海軍航空隊整備班の技術将校で機関科出身の叩き
上げ特務士官です。しかしながら服を着用した時期には特務士官制
度が廃止されておりましたので通常の襟章が付いています。この衣
袴は、中田商店が複製品を作る歳に貸し出されたオリジナルの品と
いわれています。







海軍士官 防暑略衣袴




上記と違い肩章タイプです。合わせで手持ちの造船大佐の肩章を留めて見ました。
袴の釦は、オリジナルと思いますが衣のほうの釦は、戦後の物かも知れません。
衣・袴共に洞口の名前が記入されています。







海軍 第三種 防暑半袴(未使用)















海軍上等機関兵曹の一種軍衣






とても程度の良い極美品の海軍上等機関兵曹の下士官軍衣で
す。右腕の肘章は、昭和17年改正の上等機関兵曹に善行章2
本、左腕には、普通科教程卒業の特技章が付いています。5個
の下士官用釦の鍍金の剥がれや黒ずみも無く…つい最近の物
の様にきれいです。…以下に拡大した画像を入れて見ました。







古参下士官の二種軍衣




歴戦の古参下士官の二種軍衣です。肘章や徽章は、イメージで
取り付けて合わせて見ました。両腕は、善行章などを取り外した
跡が残っています。略綬や優等章などの糸がかりが残っていま
す。海軍上等兵曹の肘章に善行章三線、小銃射撃優等章、通信
優等章、工作優等章、傷痍軍人章、高等科特技章、略綬をあわ
せて見ました。







海軍陸戦隊 兵・下士官用軍衣




昭和15年制定の所謂、褐青色の軍衣 釦が2個欠です。
昭和18年3月、三号、呉軍需部の貸与品
両袖と背中に何か付いています。多分、捕虜になった時に着用したか
捕虜用と使われたのどちらかだと思います。







海軍陸戦隊 兵・下士官用軍衣




昭和18年8月、舞鶴軍需部の貸与品
この上の同じ陸戦隊軍衣に比較すると極美です。



左は、華中・鎮海封鎖作戦での艦上の海軍陸戦隊の兵士。右は、上海事変で
の側車付自動二輪車の軽機関銃を中心に防護陣を形成する海軍陸戦隊。







海軍陸式軍衣(兵・下士官用)








この軍衣は標記でも分かるように敗戦の1ヶ月前に出来あがった
軍衣で、復員時に持ち帰り物資不足の折、日常に使用したのでし
ょうが、完品の状態で出てくるのは稀との事。この軍衣は、最後の
戦いを本土決戦と想定し、既に所有している艦船も少なく海軍の
最後の決戦を本土の陸戦と考え、海軍三種を陸軍タイプに改造し
たものです。この軍衣の特徴は何と云っても陸軍の兵用軍衣の様
にサイドベンツの脇に刀吊が付けられた事と、肩当と肘当てが有
ることです。








海軍陸式軍衣(冬:兵・下士官用)




一般に陸式は、海軍第三種の地質(綿布)を使用した夏物ですが、
この軍衣は陸軍兵用の冬物(絨)で海軍の釦と片布が付いていなけ
れば、どう見てもただの陸軍兵用の冬軍衣にしか見えません。
裏地に薄れていますが”航 26/3”と読めます。”航”は、
航空隊の事でありましょう。”
26/”は、三分隊を示してい
るのか、良く判りません。
軍衣の裏には、製作時から物入れは、一つもありません。








海軍陸式軍衣(下士官用)




下士官用の金属釦がついた陸式軍衣です。通常の三種との
違いは、上記で述べた点の他に内物入れ(ポケット)と包帯入
れがある事です。この軍衣は、未使用のもののようでまだミシ
ン糸の末端処理がなされていません。











海軍四種軍衣




私も知りませんでしたが海軍の軍衣に四種があるようです。
第三種は、皆様御存知のように昭和17年までは、海軍作業
服でありました。この作業服が17年以降も通常着用が認めら
れたので、その代わりに四種ができたようです。その特徴とし
ては、三種と違い開襟でない事。それに伴い5個釦である事、
一種との違いで外物入れ(ポケット)がありますが外物入れに
蓋が無い事です。









未使用新品の海軍ゲートルです。








水兵のジョンベラ




使い回されています。最初の使用者は、横二補水一〇二一・
釜港栄治・十九年四月・製作十八年十月、次の使用者は、
横山王水六五二六三・高山文吉・二十年二月・製作十九年
十月となっております。








海軍 飛行科兵長の水兵軍衣袴






記名布はジョンベラの記名印以外は外されています。
個人記名無しです。八重桜(飛行練習生教程卒業者)
も、袖章も初付けのようです。サイズ:肩幅約41cm、
袖丈約52cm、着丈約56cm。W約82cm、ズボン丈
約96cm。








海軍 煙管服(掃除服) 未使用











軍艦の燃料が石炭・練炭焚きの時代から重油になって
も変わらず、罐焚きが掃除の時に着た物です。制式名
は「掃除服」と呼ばれています。

14年の「給与 施行細則」では、「綾木木綿製,上下結合
セルモノ・・」となってますが、この服は上下別々になって
ます。本来掃除服(煙管服)の掃除頭巾は別々でケープ
状に肩に掛けますが、この服は1体となってます。煙管服
と言われるのは、罐の中に熱交換の為のパイプがあり、
其の中を火が通過します、長く使用するとパイプ(煙管)の
中にススが付着して効率が悪くなるので、掃除が必要に
なります。この時に着るからか通称:煙管服と言われてい
ます。

 (この服の特徴)
   1,頭巾は紐で絞るようになってます。

   2,胴回りも絞りの紐が付いてます。
 
   3,袖口も同じです.

cf.参考
     
 掃除服に関する施行細則・二件

海軍服・海軍服装及同施行細則
艦船内ニ於イテ石炭搭載其ノ他汚染事業ニ従事スルトキ
ハ下士官及兵ニ掃除服ヲ着用セシムルコトヲ得。
     (海軍省教育局・海軍兵須知提要)

給与令施行細則(昭和14年)
綾木木綿製、上下結合セルモノ、胸部前合セボタン止、頸
及腰ニ紐ス、尻当、肩当、肘当テ古布残屑ヲ利用スルヲ立
前トス。
     (柳生悦子著・『日本海軍軍装図鑑』)







海軍 煙管服(掃除服) 使用品




煙管服にしては状態良好で痛みありません。
海軍煙管服は本来白地ですが、この品は緑染めをして有ります。
記名布を見ると通常白地ですが緑に染まっています。これらより
当時、染められた物であると思われます。
惜しい事に所有者が復員時に持ち帰り農業作業に
使用したようで左にポケットを付けています(苦笑)。







航空整備・特殊作業(整備)用の白色三種衣






第二衣糧廠、昭和19年製1号。通常の三種衣でなく
特殊被服扱いの貸興品。航空整備・特殊作業(整備
)用の為、白色の三種衣です。現存数は非常に少な
い物のようです。元は士官の所持品で襟に赤糸の
縫取りがあります。当時の洗濯糊がまだ残っていま
すが使用形跡で襟汚れや若干の汚れがあります。







呉鎮守府の海軍士官クラブの大表札!!




縁があって手に入れる事が出来ました。敗戦前まで
呉の海軍鎮守の海軍士官クラブの入り口に掲げられ
ていた表札です。これも今となれば貴重な当時を偲
ばせる歴史的資料となります。
 
 大きさ:縦 96cm × 横 16cm × 厚 3cm







海軍倶楽部の壺




何処の海軍倶楽部かは、不明ですが海軍倶楽部で
飾られた金属製の壺です。おき錨に銀の桜を配した
デザインの黄銅製で底部に画像のように”海軍倶楽
部”の刻印があります。

サイズは、H 37cm X W 21cm

重量は、約7kg あります。







レプリカ(中田製)と実物の三種




興味深いレプリカ(中田製)の三種です。階級章は、大佐に
なっています。ネクタイは、実物の当時の三種用ネクタイを
合わせて見ました。余りレプリカを手にした事が無いので遊
びで購入した品です。
こちらは、実物の三種軍衣です。小さいので釦が留
められませんでした。陸戦隊用の海軍大尉襟章です。
こちらも実物の三種軍衣です。麻製でタック・ヨーク型の三種です。







貴重な資料:開戦時の海軍第四水雷戦隊
 機関参謀を務め後に海軍機関学校 先任
  学年監事を勤めた前田 馨 海軍機関中佐
                  (海機38期)の資料




こちらの資料も非常に貴重な資料です。開戦時の海軍第四水雷
戦隊機関参謀の前田 馨 少佐(当時)の二種参謀軍衣袴と参謀
飾緒に戦後の資料です。御存知のように機関参謀は、海軍機関
学校を卒業した機関科士官が勤める職種です。前田中佐は昭和
17年12月1日より海軍機関学校学年幹事に着任、昭和19年4月
に退庁。以降、敗戦までの足取りは不明です。戦後の公職追放の
解除後に自衛隊に勤務されたと聞いていおります。
略綬のみ撮影のイメージで手持ちの合わせです。
肩章は、末期の物で、裏革は革でなく模造革です。




この機関参謀の飾緒は、非常に変わっています。
飾緒自体は、黄丸打絹糸で状態は、良好の品です。
石筆は、海軍用錨マーク付き・頭部模様は初めて
見る図柄です(長さ7.5cm)。下の画像は、比較の
為です。右2本は本品・右3本目は陸軍初期型・左は
陸軍後期方・頭部模様を見るとお判りのように少し違
います。




前田馨中佐は、神奈川県出身。 戦後は、無事に復員されて、公職追放
解除後に公務員になられた事が分かります。上の書類は、昭和22年勅
令第一号第四条の二の規定で正規海軍将校であった前田少佐が公職
への就職の禁止をされていたのが、昭和26年9月1日付けで指定理由
を取り消すと記した指定理由取消書と、その理由に関して記載された書
類です。発行は、内閣総理大臣で理由書の発行は、内閣総理大臣官房
監査課長となっています。またその下は、昭和28年7月1日の神奈川県
横浜渉外労務管理事務所の通知で、定期昇給の通知です。この事より
陸海軍の職業軍人の公職追放が解除された後、県職員の公務員として
前田少佐は、勤務されていた事が判ります。配属は、調達部となってお
ります。このような資料が残っている事は、非常に興味深く、また珍しい
事です。しかし栄光ある帝國海軍のエリートとして参謀まで勤めた将校
が…如何に敗戦国になったとはいえ…一地方の下級官吏をしなければ
ならなかった想いを考えると複雑な心境になります。確か栗田中将(レ
イテの敗戦の将で最後の海兵校長)は、都内の小学校の用務員となり
一切口を閉ざしその生を終えた事を思い出しました。源田実氏のように
戦後、自衛隊に入り幕僚長としてTOPに立ち国会議員に転じるような華
麗な転進を遂げた方は、ほんのごく一部の軍人にしか過ぎません。多く
の軍人は、市井に埋もれて何も言わず消えていかれております。
尚、この公務員生活の後、自衛隊の旧軍将校の
再就職が解除されたのを受けて前田氏は自衛隊
に入隊したそうです。…自衛隊での地位や経歴は
、定かではありません。








海軍将官飾緒






海軍将官用十九年改正の飾緒です。石筆の先の造りから
明治十九年7月六日改正タイプである事判断出来ます。頭
部の図柄は陸軍の物と違います。胸止めの結び(纏め)が
複雑ですが、意識してした事では無いとおもわれます。下
の画像の右側で、左の二本が海軍将官用です。右のは比
較の為、陸軍参謀用です。頭部の図柄は陸軍式?飾緒の
太さも右の物と違う事が分かります。計測すると二分有る
事が判ります。
下の画像は、海軍の副官・武官用の飾緒です。




cf. 海軍 略式飾緒















兵器参謀 山之内鐡也 海軍大尉
        の略式参謀飾緒2本と帽子入れ




所属等は、不明ですが所持者の名前が判る貴重な略式参謀飾緒が2本です。
帽子入れの木札に”兵器参謀 海軍大尉 山之内鐡也”と記されています。一
般の海軍参謀飾緒は、将官用も含めて良く見かけますが略式のものは、使用
された時期が非常に短い事もあって滅多に見かけません。また小橋製の贋作
が出回るなど性質の悪い事もあるので大変貴重な物と思います。
山之内大尉は、昭和13年9月27日卒業の海兵
66期の方と思われます。出身校は、旧制伊集院
中学(現在の鹿児島県立伊集院高校)となってお
ります。詳細な軍歴等は不明ですが…復員され
戦後を生きられた方のようです。左の略式は、か
なり使い込まれておりますが右の略式は、使用頻
度が少なかったようできれいな状態です。
帽子入れのネームタグに名刺が入っ
ておりボロボロですが恐らく少尉候補
生の時のものと思われます。








海軍 参謀飾緒(ペンシルタイプ)




共箱(オリジナルの桐箱)



ペンシルは、今でも使用可能です。陸軍では、良く
見られますが、
海軍で見る事は、珍しいです。








海軍参謀 防暑衣・袴 (フルセット)




こちらは、珍しく靴に靴下まで揃いであります。
略式参謀飾緒を吊るしたのかもしれません。
上衣に河村の記名があります。飾緒のホールと留釦です。
簡単な物なので重い普通の飾緒は、無理かも知れません。
精々、略式参謀飾緒を吊るす程度の作りと思われます。
手元にあった兵曹長の肩章を合わせてみました。











牛丸 福作 海軍中将の一種軍衣と将官飾緒










牛丸中将の一種軍衣です。胸に略綬用の縫い付けと
昭和9年4月29日に授章した勲一等瑞宝章を取り付け
ると見られる縫い付けがあります。高級将校のオーダ
ーメイドで有名な東京の山城屋製で服の生地がすごく
良いもので、さわった感じは大礼服の物に似ています。
俗に『工廠長生地』とか言われていたものと思われます
。背部の短剣用の切り込み部も皮が当てもしっかりして
います。予備用として使われていなかったのかデッドス
トック状態のような感じです。
サイズ:肩幅約42cm、袖丈約58cm、着丈約65cm
サイズは、当時として結構、大きなものです。
<略歴>
岐阜県出身・海軍機関学校11期

大正7年6月1日     駐英造船造兵監督官
大正9年11月1日
    海軍大佐 艦政本部員
大正10年12月1日
   横須賀工廠造機部員兼機関学校教官
大正14年12月1日   海軍少将 横須賀工廠造機部長
昭和3年12月10日   艦政本部第四部長
昭和5年12月1日    海軍中将
昭和7年6月1日     軍需局長
昭和9年5月10日    出仕
昭和10年12月27日   待命
昭和10年12月28日  予備役編入
 


牛丸中将の所持した将官飾緒です。
径が6.4mmの将官用です。少し黒ず
みがありますが、欠品、ほつれ、切れ
等は、ありません。








阿久根 睦 海軍々医少将の一種軍衣




阿久根 睦 軍医少将の軍衣です。略綬は、
イメージの為の合わせです。
襟章の上部識別線に若干のすり切れが
ありますが使用感の少ない極美品です。
服地は、上等なサージのほぼ未使用品。
裏地は、アルパカ。高級将校のオーダー
メイドで有名な東京の山城屋製です。

阿久根 軍医少将(略歴)

大正8年 軍医中尉。昭和12年7月 軍医大佐。
名古屋帝国大学教授兼 海軍軍医学校教官。
昭和16年10月 軍医少将。12月予備役。
昭和18年 応召、航空医学研究所員。








敗戦直前に豊川海軍工廠で戦死(爆死)
  された続木 禎弌 海軍少将の一種軍衣袴・軍帽等






非常にきれいな一種軍衣袴です。虫食い等無く見事です。




続木少将の軍帽です。惜しい事に軍帽は、
虫食い等の痛みが若干あります。
軍衣のネームです。
軍袴のネームです。


    ◆  続木 禎弌 海軍少将 ◆

功三級
明治29年3月1日生
愛媛県出身、鹿児島川内中卒業、海兵46期

         ≪ 略 歴 ≫

大正7.11.21:任海軍少尉候補生

大正8. 8. 1 :任海軍少尉
           戦艦”金剛”乗組

昭和5.12.1:任海軍少佐
           海軍兵学校教官

昭和11.12.1:任海軍中佐
         
  横須賀海兵団分隊長

昭和13.8.5.:呉第四特別陸戦隊司令

昭和13.12.1:第四防備戦隊司令

昭和15.10.15:戦艦”日向”副長

昭和16.8.11:呉人事部第三課長

昭和16.10.15:任海軍大佐

昭和18.8.15:第八十五警備隊司令

昭和19.5.5:豊川工廠総務部長

昭和20.8.7:戦死(爆死後、海軍少将に進級)
             享年49歳

上左右の写真は昭和19年に豊川海軍工廠で撮影されたものです。
昭和13年の呉第四特別陸戦隊司令時代の続木部隊長


御存知のように昭和18年5月15日に前職である
呉人事部三課長より、フィンシュハーフェンの新編
の第八十五警備隊司令として着任しました。翌19
年2月に連合軍がフィンシュハーフェンに上陸し激
戦となるも圧倒的な連合軍の戦力の前に蹂躙され
玉砕寸前で陸軍からの長期戦の為に合流するよう
に誘われ苦悩の末、フィンシュハーフェンを放棄し
部隊を解隊(同年3月25日)し散り散りになりつつも
少数が陸軍に合流しました。この凄惨な戦いを生き
抜き内地に戻った続木大佐は、同年5月5日に豊川
工廠総務部長の任に付き…その3ヵ月後に空襲に
て戦死する運命には皮肉な想いがします。飢えと病
の生き地獄といわれたニューギニア戦で死線を乗り
越え帰国を果たした人が…敗戦を8日前に控えた直
前に爆死するなど誰が考えたでしょうか…。
続木閣下の書です。
             ↑
豊川海軍工廠の大空襲で戦死された方や
所縁の方の寄書の肉筆帳を掲載したペー
ジが開きます(ページの下の方にあります。)







小林研蔵 海軍中将の正衣・正袴




小林 研蔵 海軍中将の正衣袴です。
これら正衣袴の他に白の胴衣が三枚、
モーニング上下、ベスト、箱付き山高帽
が一緒にありました。
虫食いも無く非常にきれいな正衣袴です。
勲章の糸掛が4箇所程あり、将官飾緒のポケットもあります。

      ◆ 小林 研蔵 海軍中将 ◆

 海兵十九期、鳥取出身、功四級

           (略 歴)

大正2年12月1日  海軍大佐
   3年8月13日  新高艦長
     12月1日  臨時青島要港部参謀長
   4年7月17日  大湊要港部参謀長
   7年9月27日  舞鶴鎮守府参謀長
   7年11月10日 第三水雷戦隊司令官心得
   8年6月1日   海軍少将 3Sd司令官
   8年12月1日  佐世保鎮守府参謀長
   11年5月1日  第一遣外艦隊司令官
   12年11月1日  海軍中将
   13年2月1日   待命
   13年2月25日  予備役
昭和9年3月11日   後備役
  14年3月11日    退役
  17年10月26日   歿  享年70歳



小林 研蔵 海軍中将の直筆のまくりです。
聖徳太子制定と伝える日本最初の成文法
「十七条憲法」の第一条「以和為貴無忤為宗」
(和を何よりも大切なものとし、いさかいをおこ
さぬことを根本としなさい。)
との書がしたためられた作品(めくり)です。





御子息 小林正夫海軍少佐
        (第十六号輸送艦 艦長)の品




同時に出品された商船の制服がございましたが高値となり
軍服では無い為、入手しませんでしたが御子息の商船時代
の制服と思われます。以下の封筒より予備士官として海軍
に入られた模様です。
紙物の資料の中にありました軍用封筒です。
御子息の物と想われます。
第十六号輸送艦長殿となっております。御子息の小林正夫少佐
の事と思います。封筒の中は、正月の小さな注連飾りが入ってお
りました。輸送艦で使用したものかもしれません。
艦長・小林正夫少佐の第十六号輸送艦は、第一号型 一等輸送艦
として昭和19年12月31日に竣工(三菱・横浜)しました。その後、
横須賀に配属され昭和20年1月19日より横須賀〜八丈島間の輸送
に従事しています。この艦の性能は、

基準排水量 1550トン  出力   9500馬力
 全長    89m     速力    22ノット
 水線幅  10.2m    航続力  18ノットで3700浬
 吃水    3.36m    乗員    148名

 武  装    12.7cm40口径連装高角砲 1基
  25mm 三連装機銃  3基
  25mm 連装機銃    1基
  25mm 連装機銃    4基
     爆雷        18個 

搭載量   貨物260トン
搭載艇   14m特型運貨船4隻(または甲標的2隻)

この一号級一等輸送艦は、敵勢力圏下への強行輸送を目的に計画
された艦で、艦尾スリップウェイから上陸用舟艇艇(大発)を発進させ
る事で迅速な輸送が可能であり末期には、人間魚雷 回天の母艦に
改造された艦でもありました。小林少佐の第十六号輸送艦は、戦後ま
で生き延びて昭和20年9月15日に除籍。戦後賠償として昭和22年8
月29日、支那に引き渡されました。第十六号輸送艦のエピソードとし
て昭和20年の伊豆七島 新島沖の戦闘があります。硫黄島への輸送
任務を終えて父島に寄港した同艦は、2月15日に敵制空権下の中、
小笠原諸島・父島を母港・横須賀に向けて出港しました。翌16日に
新島沖を航行中に米機動部隊艦載機のF6Fグラマン戦闘機約80機
の大編隊と遭遇、戦闘状態に入ります。幸いに爆撃機や雷撃機は居
りませんでしたが、激しい機銃掃射を80機が反復して襲撃してきまし
た。十六号輸送艦は、搭載した8基連装機銃と高角砲一門で応戦、
実に7機のグラマンを撃墜しました。しかし高角砲は旋回不能に陥り、
連装機銃の砲火も止み、艦の操舵装置が破壊され円を書くように周
回するのみとなり機銃掃射の目標となり約小一時間、やっとF6Fグラ
マンの編隊が空母に引き返した時には、艦は凄まじい弾痕により穴だ
らけとなり戦死者は、23名。負傷者71名に及ぶ被害を受けました。こ
の戦闘で亡くなった兵士は、新島の海軍墓地に埋葬されております。
第十六号輸送艦です。画像は、昭和22年に賠償引渡しの為、佐世保に
集結した時のものです。同年8月29日に青島で中国海軍に引き渡されま
した。…昭和20年2月16日の空襲で小破した艦は、横須賀で修理を受け
て3月以降には、再び八丈島への輸送を再開しましたが、6月17日に再度
伊豆大島沖で敵機と交戦し小破しました。母港の横須賀で修理中に敗戦
を迎えました。



以下の資料は、小林正夫少佐の奥様の関係のものです。




神前の結婚式で仲人をお父上の友人でしょうか
海軍技術大佐 米村夫妻が行っております。




奥様は、神奈川県士族の出となっております。幼少時は、
お父上のお仕事の関係でしょうか尋常小学校だけ六校も
転校しております。振出は、朝鮮の鎮海、東京で二校
私立が一校、北海道で二校です。
真面目で成績も優秀な方のようです。
室蘭の高等女学校を卒業後、東京の今の
実践女子大学に入学し卒業しています。
卒後、教員となり母校の実践女学校の高等部
の国語の教師になられております。







保科 善四郎 海軍中将の一種軍衣袴と軍帽








虫食いも解れも無い保存状態の良い一種です。参謀衣となっています。








敗戦を決定した最後の御前会議にも出席された保科海軍中将
の一種軍衣袴と軍帽、軍帽の皮ケース、二種用の軍帽覆です。
軍帽には、保志奈とあります。
保科善四郎 海軍中将(略歴) 

宮城県出身 海兵41期 海大23期

開戦時兵備局長、海軍運輸本部長、軍務局次長
船舶救難本部長、海軍化兵戦部長、軍務局長
大本営海軍部綜合部長などを歴任

昭和18年11月1日:海軍中将

敗戦後は、衆議院議員として活躍する
平成三年(1991年)百歳で逝去。







希少 海軍鉄帽…!












錨がペイント塗装された海軍の鉄帽です。前章のマーク・海軍の
鉄帽の前章は帽体の塗装を海軍の着装体はヘットバンドに3枚
の豚革と2本の顎紐からなってます。3枚の豚革は”ハンモック”
と呼ばれますが、この裏には衝撃止めのクッションが付いてます。
着装体は顎紐と一緒に帽体に3箇所リング留めされています。
この鉄帽は、ハンモック結びの紐もオリジナルです。所有者名・
ハンモックの1枚に所有者名が残ってます。”三高”と有るは、
艦上に設置されてる飛行機を射撃する”高角砲”の担当する
”第三高角砲”を意味するものと考えます。『小水留(卓)』と書か
れております。陸軍も含め鉄帽に所有者の名が残っているのは
珍しいようです。陸軍鉄帽との比較で画像を出しました。右に有
りますのが陸軍使用の実物です。海軍の鉄帽であると前章に
金属(真鍮)製の錨マークを付けても陸軍と海軍の塗装の色が違
います。右の陸軍の鉄帽には内面の庇部に”大”の字が刻印され
ていますが、海軍の方は見えません。恐らく塗装下になったのか
も知れませんが、この鉄帽の大きさと右の陸軍のと大きさは同じ
です。帽体の大きさを計測すると楕円形の長い方は28cm、短い
方は23cmです。着装体の内周を計測しますと64cm有り、かなり
大きいです。”大号”は間違い有りません。数の少ない物でしょう。







海軍鉄帽覆








海軍鉄帽覆です。この鉄帽覆は、”中号”位の大きさと
思われます。状態良好・虫食い・痛み等ありません。
海軍の鉄帽覆は、海軍鉄帽よりずっと少ない物で希少
です。性質の悪い軍装店やプロ・セミプロが昔、贋作を
たくさん作り、本物として高く売りさばいた品が出回る
事が良くあります。そうした贋作に対する注意点として
以下にポイントをあげます。
上記画像にあるように裏地の星(しみ)や帽章が決め手になります。
この他にもスタンプはあまりに細い字で鮮明な物は、贋作の可能性
が大きいです。また、紐ですが…時代がこれ位あると覆自体となじみ
が出てきます。贋作も物によっては、30年以上前に製作された物の
可能性がありますので注意が必要となります。







海軍鉄帽(各種)












米国からの里帰り品の鉄帽です。顎紐、及び留金、内張り
の革と裏のクッション、共に完全。元々の灰白色の下地が
見えています。内側に2人分の名前が読みとれます。最初
の所有者が「岡田二水」その後名を消して、「平山一工」と
記載されています。鉄帽内部に906の数字の記載と側面に
「工」の記載があります。保存状態は、良好です。何処の
島かは、特定されませんが、玉砕の島より米兵が記念に持
ち帰ったもののようです。
参考に某軍装店の複製鉄帽前章です(左右ともに)。



別の海軍鉄帽




こちらは、上のとは違う鉄帽です。
外の塗装は、塗り直しです。中は、オリジナルのままの
ようです。帽章は、微妙ですが複製品のような感じです。







海軍士官 防暑帽




"TROPICAL・HELMET・REGISTERED"
”波兎印”。本体は、コルク製の美品です。
内部に名前を消した痕跡があります。







海軍特務少尉 成田 己代治氏の旧型一種軍衣




軍衣の略綬は、イメージの為の合わせで撮影しております。


サージの高級仕立ての特務少尉。裏地はアルパカ。
襟回り39センチ 肩幅41センチ。襟章も初付け。
兵曹長の軍衣をなおして少尉にしてあります。程度は
、着込まれえておりますが虫喰い・すり切れなどもなく
非常に良い保存状態です。

この方は、青森県出身で明治27年2月8日生です。

     〜成田特務少尉の略歴〜

 大正 3年12月 1日:横須賀海兵団入団
               (海軍五等水兵)
               高等科機雷学校卒

 昭和11年12月 1日:任海軍特務少尉

        12月22日:予備役編入(従七瑞六)

予備役編入後は、横須賀軍需部の嘱託となる。
昭和14年頃には、海軍省の嘱託をしておりまし
たが、先の大戦には、参加されていなかったよう
です。







海軍士官用ゲートル











海軍精神注入棒




体育会系や武道系の部活をされた方ならお判りでしょうが、所謂、ケツバットです。
帝國海軍に於いて恒常的に行われていた体罰”バッタ”で使われた棒であり、軍人
精神注入棒が最も一般的ですが、この他にも”荒鷲魂注入棒”や”大東亜戦争完遂
棒”などと様々な記載や呼び方をしましたが、もっとも典型的な樫の棒です。これは
マジに痛いです。飛び上がります!!サイズは、長さ104cm、直径5cm。重さは、
1.2kgとずっしりです。時代が作った傷や汚れが往時を彷彿とさせます。良くも悪くも
帝國海軍の伝統を受け継いで来た軍人精神注入棒です。












今回、収集品の虫干しの為、倉庫より一時、出した収集品の一部を
画像に収めてUPしてみました。まだまだ仕事が忙しくて収集品の整理
が出来ておりません。今後、少しずつ更に奥に仕舞われたままの収集
品も画像アップしていきます。