Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
華麗なる世界で唯一の手作り真鍮模型の世界
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(昭和九年 小倉造兵廠製) |
今回の匠の作品もレアな代物です。試製半自動銃甲型(1/2スケール) この試製半自動銃甲型 は、これまでの小銃等のシリーズが…1/4スケ ールで統一していましたが、今回は初の1/2スケールです。この大きさ になると引金がかろうじて引く事ができます。この為、排莢ギミックがとて も面白くなりました。何しろ1/4スケールでは排莢ギミックがあっても引き 金を動かそうとすると爪楊枝か何か細いもので触るしかないのですが… 流石に1/2スケールになると指で操作出来るだけでなく…存在感が全く 違います。…このリアル感と可動部の排莢ギミックを回転弾倉のリアルさ を失わず…忠実に試製半自動銃甲を再現して製作してくださいました。 しかしこのサイズを経験すると…もう1/4スケールには戻れません。以降 は1/2スケールになる予定です。 |
銃剣に狙撃眼鏡脱着可、そして引き金で槓桿スライドします。 排莢は銃の角度で完全に上に排出しませんが銃口を上向き でダーミー弾を外部に排出し、次の装填に移ることができます 照準は実物通り内部ギヤを組み込みで軽く、照準本体の上下 と照星左右に可動。二分の一サイズは手に持ってもずっしりと 重く 、木部も当初ウォールナットを予定していたようですが、 美しさを重視し花梨に変更しましたので木目も綺麗に出て美 しく良い感じになって製作して下さいました。 |
上の画像の下側は実物の画像です。比較しても判らない 仕上がりに匠の良い仕事ぶりを改めて感じさせます。 |
二分の一サイズにする事で輪転弾倉を見事に再現して下さいました。 |
左上の画像は四分の一サイズのの村田銃と並べて比較したものです。 1/2サイズと1/4サイズとの違いは、体積で8倍となり…画像で見ても これだけ違います。まさに大人と子供以上のようです! |
ピターゼン…鼓状型弾倉は、日本で唯一の試製半自動小銃甲型 のみ採用されたものです。長短共に銃身は存在し、全てに銃剣と 狙撃眼鏡が付くとされています 当時の帝國陸軍の用兵思想の 違いから正式採用されず…ボルトアクション一本で日米戦に突入 した事は謂うまでもありません。 |
アップして見ると木目が美しい。高価な花梨材を使っております。 |
大戦前の早い時期に陸軍が世界の軍事情勢を俯瞰し様々な 可能性を念頭に試作した半自動小銃です。結果的に製作に掛 かるコストの問題、そして量産性の問題、使用する弾薬の消費 量や様々な問題を考慮して採用を見送った小銃です。結果的に その後、帝國陸軍は明治38年に仮採用になって日露戦争以降 の皇軍勝利に貢献したボルトアクションの三八式歩兵を基幹小 銃として日米戦に突入しました。途中、改良版で殺傷力を高めた 九九式歩兵銃を追加で投入したものの、結果的には明治以来の 旧態たる主武装で米英欧相手の世界大戦を戦いました。これを 持って旧陸軍に先見性が無く硬直した精神論だけで敗戦に至り せしめたという解釈がおおいようですが、自動小銃もそうですが 短機関銃など様々な兵器が試作され考証がなされています。 単純に我国が貧乏でコストの掛かる兵器を持つ事が出来なかっ ただけの話です。持たざる貧しい国が潤沢に持つ金持ちの国に 戦いを挑む時、知略以外に頼るものは精神力しか無かっただけ の話でありましょう。…米軍のように、これでもかと弾薬をばら撒 き補給やコストの問題も考えずに軍隊なら精神論など無用でしょ う。…多くの諸外国は絶望的な国力差を前にすると戦争など諦め て大国に屈し隷属しますが…悲しい事に日本と謂う国は、屈辱に 甘んじるよりも戦う事を選びました。と謂うよりもギリギリまで開戦 を回避し、譲歩に次ぐ譲歩を重ねても…人種差別が根底にある 米国の厭らしい外交の前に刀を抜かずにいられなかった。そうし た状況に追い込まれただけの話だと思います…。日本の防人達 が次世代を見据えて試作したこの小銃は採用に至らないまでも そうした先人達の試行錯誤の痕跡を見る想いがしますね…。 |
こだわりの銃剣です。まるで本物のようです! |
製作時の匠の感想に以下の記載がございました。 …素晴らしい構造です。これは自分で縦横の線を書いて理解しないと 分からない部分。照星と照がの左に大幅にオフセット、これもこれまで の日本の銃には見当たりません。独特の照門の動き、ピターゼン機構 ですが、まさに日本的な芸術作品に発展させております。独特の弾倉 写真から推測すると鼓状型ですが、センター芯が有りリボルバー形式 の様です。槓桿が置き上がった時と閉鎖時の左右のロック機構といい 作図しているうちに、なんときめ細かい設計をしたものだと感心します。 これでは多分大量生産は無理な作りだと思いますので、この辺も正式 採用に至らなかったな理由かもしれません。当時の工作機械の精度で は、この機構の大量生産は不可能な為、従来の三八式歩兵銃を使い 続けたのであろうと…勝手に解釈する位、精密な銃です。 |
またこの様にも記載しています。以下、 …仕組みを理解しながらの製作。進めれば進めるほど、こんな 緻密で素晴らしいものを当事、造ったのかと驚きます。殆どが 左右非対称、メカニカルな構造にドンドンのめり込んでしまいま す…。 |
この引金の先の黒い鼓状型弾倉のある部分にオリジナルには 無い装置(ギヤ)があります。これが匠がピターゼンの尺取虫、 数は少し少ないですが鼓状弾倉回転システムを手動で外から 回るように製作して下さった部分です。ギヤを指で回す事で鼓 状弾倉が回転します。 |
以下は、また匠の製作過程を画像で振り返り紹介します。 |
いつものように国内の大御所だけでなく…国内外の各所から資料を取り寄せて 図面をひいていきます。職人気質の匠の無から有を生む作品作りは…まさに二 輪や四輪のパーツでいう所のワンオフのカスタムパーツと同じです。絶版車に 乗られる方は皆さん、同様の悩みでメーカーの純正品の部品供給が途絶え、次 に市販されているレーシーングパーツに手を出しますが…これも何れ無くなると ワンオフで製作してもらうしか方法がありません。古いものを維持するのは…そ れだけ苦労が絶えませんが…匠はいい仕事をしてくれます。出来上がるのを 順に見ているだけでも感心して嬉しくなります。 |
手作りで無から有を生む事の醍醐味を見るようです。無垢の真鍮 を削り、木材を削り…まるで誂えた様に製図した通りに出来てしま う事には、毎度の事ですが感動します。 |
陸軍受命刀匠の筑後國 武藤 秀弘の軍刀
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安物の日本刀拵えに収まるこの刀は…明らかに軍刀として世に でた刀です。刀工は、筑後国 武藤 秀弘。本名を武藤 秀吉。こ の方は福岡県の刀匠で昭和初期頃から作刀があり、刀匠協会 責任鑑修 栗原 彦三郎 謹選では貴品上位 最上大業物 検査 役格と格付けも高い刀匠として知られています。 |
陸軍受命刀匠として日米戦開戦の前夜に上野東京府博物館で開催 せられた大日本刀匠協會主催の昭和16年春の新作日本刀展覧会で は全国から気鋭の刀匠が7百名余りが参加しました。この時、武藤 秀弘は軍刀展刀匠第1部 (新作刀)の部で第一席 (國工) の35名に 選ばれています。 |
また大戦後期の昭和19年12月21日に陸軍軍刀技術奨励会(兵器行政 本部将校軍刀鑑査委員会が行った)の刀匠序列では入賞刀位列で陸軍 大臣賞(1名)、総裁賞(4名)に次ぐ会長賞(39名)に選ばれた刀匠です。 |
軍刀だった時の拵えは無く…日本刀の拵えに入れられて おる状態でオクに出ていた品です。銘文には表に刀匠の 名の筑後国住 武藤秀広と刻まれており、裏には皇紀二千 六百二年が彫られております。従って昭和17年作刀の品 である事が判ります。 |
戦後に紆余曲折があって巡り巡って手元に現れた一振りです。 昭和17年から敗戦までに何方かは判りませんが将校が軍刀と して佩用していたものと思われます。 |
軍刀として打たれた刀なので約二尺と様々な軍務での佩用を 考慮して短寸に作られております。 |
武藤 秀弘は戦後も刀工として活躍し多くの作品を残しております。 そして80歳の晩年にもまだ刀を打ち二尺五寸の業物を作刀してお り高い評価を受けています。 |
珍しい陸軍四式重爆撃機”飛龍”一型
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オクで一式陸攻用の尾輪として出されていた品です。確かに タイヤサイズは、500×180で一式陸攻と九共通サイズです が海軍の物でなく陸軍の尾輪です。このサイズで該当する機 体は限られ、キ-67 四式重爆の飛龍一型もしくはキ109特殊 防空戦闘機となりますが…キ-109は試作機を含めても約22 機足らずの生産数。ベースは同じ飛龍ですから…飛龍の尾輪 で間違いないと思います。飛龍は、キ-109も含めても全生産 数が約650機程で大戦後期に四式戦”疾風”同様に大東亜決 戦機として期待された帝國陸軍最後の制式重爆です。 |
元々のオーナーさんだった方は、長らく零戦の主輪と思い所持 されていたようです。わざわざ台まで作り飾っていたようです。 |
陸軍航空隊が最後に制式採用した四式重爆”飛龍”です。三菱重工が昭和18年から 量産を開始した爆撃機ですから…海軍の一式陸攻の後継機と謂われてもおかしくあり ません。そして中島飛行機の四式戦”疾風”と共に大東亜決戦機と称されたように傑出 した性能を持ち…まさに当時の日本航空技術の粋を集めた傑作機と謂われました。何 よりも卓越した運動性能を持ち急降下爆撃が可能な重爆でした。搭載量こそ800s爆 弾または魚雷1本と僅かなれど…一式陸攻などの苦い経験をフィードバックさせて防弾 機能を高め防御に重武装にした飛龍の最高速度は、開戦当時の戦闘機並みの最高速 度 537q/hで航続距離は 3800kmと高性能を叩きだしました。陸軍機でありながら海 軍機の様に雷撃機として大戦後期の台湾沖航空決戦を皮切りに活躍していきました。 既に戦局は敗戦へとひた走り…大きな活躍の場は用意されず、沖縄戦の義列空挺隊 の突入の支援作戦に投入されたり、海軍の作戦で硫黄島経由でサイパン島を夜襲し爆 撃など…その高性能を活かしての奇襲爆撃などに僅かに使われるのみでした。また少 数ながら特攻機としても出撃しています。 |
大きさを比較する為に三式戦”飛燕”(キ-61)の尾輪と並べてみました。 |
飛龍もそうですが、飛龍を改造したこのキ109 特殊防空戦闘機 も当然ですが、同じ尾輪を採用しています。下が1号機で上は 米軍に接収された機体です。試作機を含めて全生産数が僅か 22機なので可能性は低いですね。 |
因みに陸軍で最多生産の重爆である九七式重爆(約二千機)の尾輪サイズは、 一型が450×150、二型が430×120。この後継機種である百式重爆”呑龍”は 尾輪サイズは、430×120で生産機数は飛龍を上回る約800機。また四式重爆の 飛龍は一型が500×180、二型が430X120。 |
この品の出品者は一式陸攻として出していましたが、同機の生産数は約二千五百機 で…飛龍の場合は約650機です。U型は試作機のレベルで敗戦を迎えましたので実 質的にはT型と考えるのが妥当であり、生産数の多さから比較的に多く残る一式陸 攻の尾輪などに比べて生産数が僅かな大東亜決戦機の飛龍T型の尾輪は希少なも のと思われます。 |
タイヤのゴムの劣化が激しくなっていますが、タイヤサイズの500×180 が読めます。更にその他の画像から日本タイヤ株式会社(後のブリジス トン)の物と判ります。 |
尾輪のアルミホイールのリム部にはサイズの500×180と製作会社 の岡本(現在のオカモト株式会社→旧 岡本理研ゴム)のシリアル NO.が7494刻まれています。当時は岡本ゴム工業所と謂う社名で ありました。 |
敗戦後に日の丸を塗りつぶされ米軍機のマークを入れられた飛龍。 |
陸軍 一式戦”隼”(キ-43)や
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左右の真ん中に矢印のある陸軍の旋回計です。 コンデションも悪くなく良い品です。 |
航空計器も末期になると銘板がシールにかわります。 この旋回計は年月の刻印が無いもののアルミ製の銘 板にシリアルNo.と陸軍の星章に検査印が刻印されて おります。 |
【戦中・戦時資料】戦時中に国内で
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珍しい戦時中の東京帝大の助教授だった 原 正人 氏のID等です。 ID自体は…大戦期前後に軍や貴族院議員など様々な役所のIDと 大差なく当時の一般的な様式のようです。この他に図書館の利用 券や教員食堂の牛乳券に学生時代の授業料の領収証などがあり ます。上のIDは、別のIDと比較すると新しく直近で使用したIDと思 われます。専門は調べて行くと土木工学である事が判りました。 |
左上が大戦中に当時の東京帝大総長 平賀 譲 氏の提案で昭和17年 千葉市に新設された第二工学部(通称:二工)の校舎です。右上が 原 正人 助教授の写真です。この二工は拡大の一途を遂げる大東亜戦争 に於いて国家の存亡を左右する総力戦に打ち勝つ為、軍事産業を支え る工学者や技術者を養成する目的で…従来の工学部を第一工学部(一 工)として学科構成は一工とほぼ同じ 機械、電気、土木、建築、船舶、 造兵、応用化学、冶金、航空、航空原動機 の10学科構成で、3つの共 通教室も設置された。教職員は学部長の瀬藤 象二 氏を筆頭に、教授 45名、助教授32名、他15名、職員308名の合計441名を擁してスタート を切りました。教官の半数はメーカー出身の技術者が占め、他大学の 出身者や若手教官、本郷からの移籍組からなる混合部隊で、助教授の 自由度も高く…原 正人 助教授もそうした新進気鋭の学者の一人として 二工に赴任されたようです。 |
こちらが(上のID)は古い方で使用中に最初に掲出した写真附き のIDに切り替わったものと想像します。面白いのは血液型まで記 載されている事です。また千葉市に写る前は、品川区大井庚塚町 に本籍・現住所共にあった事が判ります。ここは現在の大井7丁目 に当たります。丁度、東西を東海道本線と東海道新幹線の線路に 挟まれ、池上通りが近くを通り、少し池上通りを南下すると環七か ら大森駅に向かい分岐する馬込銀座の交差点で道路が終わりで 左右にぶつかる山王口交差点となります。最寄りの駅は、大森駅 となり…特に鹿島神社が近くにある程度で何もない住宅街と謂う 感じです。移住先の千葉市稲毛町3丁目は現在でも存在し…千葉 経済大学や市立轟町小・中学校に養護学校などがある文教地域 のような感じです。最寄りの駅は、タウンライナーの天台駅のよう です。 |
上は昭和17年と18年度の図書館証票です。19年が記されて いないのは…昭和19年に 原 助教授が病死されたからだと思 われます。下は、学費の振替口座と注意事項を記載した紙で す。学生時代に使用したものと思われます。 |
左上は授業料の領収書です。原 氏は昭和17年には助教授になって おります。上の学生期間は昭和13年度〜15年度の前期と後期です。 年数から考えるに大学院(博士課程)の3年間の学生時代と思われ ます。昭和16年に博士号取得し、同大工学部の講師になり、昭和17 年7年の二工の設立と共に昇進し助教授として赴任されたものと推察 します。いずれにしろ二年の修士課程修了だけでは大学の助手(現在 の助教)にはなれますが、講師以上になるには博士号の学位が必要 となります。…原 氏は、この前の昭和11年度と12年度で大学院の修 士課程にあったのでしょう。従って東大の卒業年は、昭和11年で入学 したのは現役ストレートで昭和8年(帝大予科入学の場合)、旧制高 等学校の卒業者であれば昭和10年に本科へ編入(入学)となります。 いずれにしろ当時の我国の最高学府の中でもTOPを極めた東京帝大 で学士〜修士〜博士と進み助教授(現在の准教授)になられた方で すから…当時の超エリートの一人と謂って過言では無いと思います。 |
上にあるのは…原 助教授と当時同僚として働いていた福田 武雄 助教授 (当時)の寄稿した文です。後にこの方は教授となり、戦後は二工が生産技 術研究所と名前を変え…そこの第五代所長を務めた後に東大名誉教授に なられております。この寄稿文の中で昭和19年の9月に原 助教授は亡くな られたと記載があります。そしてその最後の写真となった同年5月23日の 稲毛の旅館にて行われた出陣学徒送別会の写真です。中央で肩を抱かれ ている国民服の方が当時の福田 助教授、肩を抱いて学生に囲まれている のが、掘 助教授、福田 氏の右隣のスーツ姿で笑顔を見せている方が原 助教授です。更に右手のスーツ姿の方も同僚の井口 助教授と記載があり ます。当時の教授は参加されていないようですが、助教授4名が学生達を 送り出す宴席に出ています。徴兵や学徒出陣が免れていた理科系学生達 も遂に出陣となりました。この技術系の帝大生達は、陸海軍でも技術系の (予備)士官となって入隊したと思われます。海軍ならば海軍航空技術廠や 海軍工廠などで勤務をしながら見習尉官教育を即席で行われ第一・二期の 技術見習尉官の教程を終え、同年9月末には技術見習尉官第三期の課程 へ進み海軍技術少尉候補生となります。そして昭和20年1月には、訓練過 程を終えて少尉に任官し任地に赴任します。技術系士官の場合、多くが国 内の工廠や支廠に配属されるので戦死と謂うのは珍しく…多くは国内の赴 任地での大空襲による戦死が有り得ました。運が良ければ約7カ月余りで 敗戦を迎えて短い海軍生活に終止符を打ち…学窓に戻りました。最も彼等 は専門が土木工学なので陣地構築や要塞建築が主体となすと思われます ので…むしろ対空襲に地下壕や防空壕などや本土決戦用の地下要塞に地 下壕などに活躍したものと想像します。 |
原 助教授が亡くなられたのが昭和19年9月との事ですから まだ東京も千葉も空襲被害を受けていない頃です。サイパン やグアムが陥落し帝都大空襲が開始されるのは、昭和20年 の3月以降、千葉の空襲は同年の6月と7月ですので戦災で 亡くなったわけでは無いので病死と思われます。 |
第二次上海事変後、上海近郊の呉淞に派遣され
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鉄道省の鉄道挺身隊より華中鉄道の鉄道マンとして尽力した永井氏 の当時の写真アルバムです。滿鉄やその系列の華北交通のものは、 時々、見かけますが…華中鉄道の物は数が少ないので珍しい。特に 鉄道第一聯隊と共に進出し支那軍が破壊した鉄路を再建した鉄道挺 身隊に華中鉄道の黎明期のものは特に珍しいものと思います。 |
昭和九年制定の鉄道省の制服に軍刀を持って写真に写る永井氏。 撮影は自宅の縁側の前あたりでしょうか。ゲートルを巻き下士官用 の刀帯を締めている姿は…まさに鉄道戦士の山田部隊 |
上の2枚の軍事郵便の葉書は、以前ヤフオクで出品されて いたもので同時期の山田部隊の方のものです。まさに同じ 時期に同じ第四四野戦郵便局の消印があります。 |
古き良き時代の日本の家庭です。当時は子沢山ですから…この小さな お子さん四人の他に大きなお子さんが三名ほどおられるようです。 |
恐らくお子さんは7名いると思われます。全員で9人家族となります ので…本当に昔の人は大家族で子沢山ですね。 |
何年生の時の写真かは不明ですが、尋常小学校のクラス写真です。 |
昭和14年の尋常小学校の卒業時のクラス写真です。 |
木造校舎に中庭…非常にノスタルジックな風景です。私の小学校 時代も…古い戦前からの木造校舎でした。…卒業後すぐに建て替え られて鉄筋の学校になりましたが…中学校以降は全て鉄筋の新し い校舎でしたが…振り返って見て小中高大学と夫々、どの校舎が 印象深いか比べると…やはり古き良き昭和の匂いが残る戦前から の木造校舎です。…やはり懐かしいものですね。 |
こちらは昭和16年3月の姫路市立城陽幼稚園の保育修了記念の 写真です。この幼稚園は今も姫路に存在します。 |
こちらの左上は長女の方。右上は次女または三女の方の写真と 思われます。子供が多いと学費だけでも大変な負担だと思います。 |
上も下も長男の方の写真です。 |
長女の方は看護婦になられています。 |
こちらは次女の方の職場で姫路の海軍第二衣糧廠の集合写真 と思われます。第二衣糧廠の稼動は昭和17年4月1日からなの でそれ以降の写真と思われます。女子学生の勤労奉仕も多いの でやたらに女子が目立ちます。 |
次女の方と思われます。胸には海軍第衣糧廠の雇員の 章を縫い付けています。この時代、国難にあって男も女 も学生も社会人も総力戦で戦っている姿が…現在の世 情と対比すると…過去の時代の方が崇高に見えるのは 私だけでしょうか?…こうした事を書くと媚中媚韓のアカ が騒ぎ立てて煩いでしょうけど…。 |
何の説明書きも無いので判りませんが…寫眞の流れから見ると 女性がやたら多いので第二衣糧廠の開廠の祝いの宴席と思わ れます。 |
昭和9年制の鉄道省職員制服に略綬や従軍記章などを佩用しているので 天長節などの旗日の祝日に兵庫縣姫路護國神社などを参詣した時の写真 と思われます。 |
C51形の蒸気機関車のC515です。大陸に渡る前、姫路運転区時代の 永井氏とC515です。この機関車が姫路運転区を走っていたのは、昭和 8年から9年の間です。その後は…高崎、奈良、伊勢を走り…引退後は 青梅鉄道公園〜大宮鉄道公園と渡り歩き展示されています。尚、この C51形は敗戦までに16両が軍に供出され華中鉄道に送られました。 |
作業服姿の永井氏です。鉄道マンらしい良いワンショットです。 |
姫路運転区(旧 姫路機関区)での職場の写真となります。 全員が昭和9年制の鉄道省職員制服を着用しています。 |
この寫眞までが内地での家族や職場の最後の写真となります。 |
以下、大陸での写真となります。 |
支那が上海の日本人居住の租界地を襲撃した事に端を発して第二次上海事変(昭和12年8月13日)が起こります。当然ながら日本軍は在留邦人保護の為に軍を出して反撃を開始しました。この事が日中戦争の始まりとなります。因みにこの少し前に起きた昭和12年7月7日の盧溝橋事件を支那側は日中戦争の発端として自国民を教育し世界に発信し続けてきましたが、実際にはその後の第二次上海事変による支那側の偽装保安隊約1万2千名が上海停戦協定を無視し協定線内の日本租界地に無断侵入し、陣地構築を開始を開始。その少し前の8月9日に大山事件が起こったばかりで大山中尉と斉藤一水の二名を保安隊に虐殺された日本側が堪忍袋の緒が切れた形で反撃を開始した事が第二次上海事変であり、その後に続く泥沼の日中戦争(支那事変)の始まりです。当初、不拡大方針の中で日本側は支那軍の10分の1の兵力である海軍の上海陸戦隊だけで対峙していたが支那の爆撃機によるパレスホテルへの誤爆事件やエスカレートする蒋介石隷下の15万の兵力に日本側は上海派遣軍を投入し、同年8月24日に呉松および揚子江岸に上陸を開始。激戦の末、支那軍は次々と撃破され撤退を開始します。そして10月26日にこの左上の写真にある大場鎮を占領します。この寫眞は休日に激戦の戦跡を永井氏が見学した時のものです。右上は呉淞砲台を占領した皇軍兵士の万歳の写真です。呉淞砲台は呉淞江口に臨み、上海の外港として有名。左上の大場鎮は、上海戦線の二〇三高地と謂われました。第二次上海事変中、最大の激戦地となった場所であります。 無数のクリークに守られたこの天然の要塞を陥落させる為に日本軍はその兵力の八割を失いました。昭和12年8月9日、上海市で海軍陸戦隊と中国軍が衝突し11月まで続く空前の激戦で日本軍側の戦死者数は9115名、負傷者数は31257名にのぼりました。対する中国側の死傷者83000人でした。 |
昭和12年8月13日にはじまる第二次上海事変は、10月26日に蘇州河を超え 11月6日に第十軍による杭州湾上陸作戦が開始されます。また上海派遣軍 と第十軍を併せて中支那方面軍として軍司令官に松井 石根 陸軍大将(後 にある筈も無い南京大虐殺の責任を取らされてA級戦犯で処刑された)が就 きましたが…皮肉な事に日中連携・アジア連帯にその生涯を投じ蒋介石を支 援した松井 大将が全責任を負わされ刑死します。まさに悲運の将軍と謂えま す。こうして日本軍は上海周辺全域をほぼ制定しましたが、約9千名の戦死者 を出し…この数は日露戦争以来の事でした。右上の画像は上海戦跡見物の 乗合バスです。 |
左上の写真は漸江省杭県にある霊隠寺三門・大殿の大雄宝殿です。 右上は杭州市に建てられた六和塔です。今も昔もこの地の観光の 目玉の一つです。杭州市が日本軍に占領されたのが昭和12年12月 24日です。第二次上海事変より僅か4カ月で日本軍は上海方面から 杭州まで約千kmの距離を戦闘しながら行軍してきたわけです。多大 な犠牲を払いながら日中共存と大東亜共栄圏による平和を希求した 日本が米国と蒋介石の奸計に嵌り…国土が焦土と化し、明治維新以 来、営々と築いた全てを失うのは約8年先の事となります。 |
昭和12年8月から中国華北・華中の鉄道占領が始まり、その運営開始します。 華中に於いては支那軍が撤退の際に鉄道施設を徹底的に破壊したので…鉄道 第一連隊と鉄道挺身隊が鉄路の復旧を行い、内地から機関車も客車も全て搬入 し伸び続ける日本軍の補給路を欠かす事無いように大動脈を再生し確保していき ました。…上の真中の写真は何処の河川か判りませんが。渡河中の船舶の上で 撮影した写真です。右上は支那の子供とのワンショットですが…内地に残した子 供達を思い出すのでしょうか…結構、支那の子供と写る写真が見受けられます。 |
中華民国二十八年三月の東亜新秩序記念碑の石碑です。 丁度、昭和14年3月に当たります。上海市に本社を置いた 華中鉄道が正式に日本と中華民国維新政府及び南京国民 政府の合弁特殊法人として正式に再スタートしたのが昭和 14年4月になります。 |
今も昔も魔都と謂うのがふさわしい上海の昼の顔と夜景です。 まるで西欧の街中のような豊かな街を永井氏をはじめとする 鉄道マンたちは…どう見たものでしょうか? |
上海での宿泊先とした旅館でしょう。 |
世界遺産に登録された西湖です。周囲は十数キロと謂う広さで 現在も遊覧船で三澤印月(西湖上の中島)を見学するのは今も 昔も観光の目玉のようです。 |
上は二枚とも占領直後の華中鉄道の建物です。 |
供出先の華中鉄道で運用中のC51 116です。ロケーションは 昭和14年1月30日の蘇州駅で日赤の救護(従軍)看護婦が医 官と共にホームを歩いています。 |
投網を放ち小魚を捕らえる休日の永井氏。結構、楽しそうですね。 |
どうやらこの駅は禹県車站と謂う名のようです。河南省許昌市に位置 して現在の平禹鉄路禹州站とは少し違うような気がします。9名で寫眞 に収まっています。 |
当然、理容室などあるわけも無く…散髪は互いにバリカンやハサミで 済まします。 |
すこしピントがずれていますが、二名とも臂章から判任官二等又は三等 おそらく三等と思われます。下士官の軍曹に相当します。警官で謂えば 警部補に相当します。 |
真中で写る最高位の方は判任官一等だと臂章から読み取れます。 軍属は面白いもので高等官から雇員まで帯刀を許されているので 遠目からは判別しにくいのが難点です。この為、昭和18年の改正 では肩章と臂章が変更されました。因みに判任官一等は准士官待 遇です。陸軍では准尉。海軍では兵曹長に相当します。 |
満鉄も華北交通も同じですが、ここ華中鉄道沿線も常に抗日ゲリラ によるテロ攻撃や襲撃があり鉄道マンも武装して鉄路を守る形にな り日本国内での鉄道マン時代と比べると危険度がアップしました。 まさに準戦場の職場と謂えるでしょう。周辺に散らばる頭蓋骨は… 悪辣非道の八路軍や国民党軍などのゲリラがテロを企んだり、近隣 の農家などに押し入り虐殺、強盗、強姦に殺害を企て日本兵との戦 闘で悪運が尽きたものでありましょう。今も昔も支那人の本質は変わ りません。平気で他国の人間だけでなく同胞をも平気で虐殺する様は 我国を抜き世界二位の経済大国に躍り出た今も何等変わりません。 |
左上の機関車の写真は検閲によるものでしょうか修整され ております。下は鉄道第一聯隊と共に支那軍の撤退時に破 壊された鉄道を復旧させる為、枕木を入れて新しいレールを 敷設 している状況の写真です。 |
華中鉄道は、前述した通り満鉄では無く本土の鉄道省の鉄道マン の協力で急速復旧させ、後に国策会社として華中華南の大動脈と して日本軍の物流を支えて行きます。日本から運び込まれた9600 形の9618です。中国の鉄道規格に合わせて高軌(1435mm)に改 造されています。この9618は大正三年に川崎造船所で作られた40 輛の一つで製造番号が127です。内地から鉄道マンと共に大陸へ 運ばれ力強く走り続け…敗戦後も支那人に使われ続けました。 |
九一式広軌牽引車です。帝國陸軍最後の大野戦である大陸打通作戦 でも使用されました。当然、華中鉄道でも運用されています。上部の銃 眼のある砲塔から身を出して笑う永井氏が印象的です。前の部分の 扉が開いており…そこから中に入ったものと思われます。 |
満鉄同様に華中鉄道でも同様に装甲列車が走りました。上は 砲歩兵車に乗る二名を写した写真ですが、リベットの状況まで よく見えます。右の人の横に片側スライド式の小銃用銃眼が よく判ります。右上の拡大写真には恐らく中支の文字が読めま す。 |
九一式手榴弾の収納箱です。厚紙製で簡易な作りですが 以外にも頑丈で安価ですみ実に合理的だと思います。 |
レプリカの手榴弾と合わせてみました。 |
古い金属製の皇軍兵士の像です。立襟時代の陸軍の兵士 で完全装備にて捧げ銃をする兵士像です。戦前の物でしょ うが徴兵制が当然だった時代、国軍が陸海共に敬愛された 時代の代物です。素材は当時安価だったアンチモン製です。 今となればレアメタルの一種であり、銅像より価値があるの かも知れないのは、皮肉な話ですね。 |
下の画像は…よくネットで見かける着装趣味やサバゲ などを楽しむ人達の画像ですが…一見して謂えるのが 緩いな〜という感じです。まあ趣味で普通の人がやる だけなので仕方ありませんが…正規に初年兵教育で 敬礼の仕方から直立不動に歩き方まで鉄拳制裁を交え て叩き込まれたら…こんなに緩い猫背な捧げ銃にはな らない事でしょう…Σ( ̄ロ ̄lll) |
下に掲載した初年兵から叩き込まれた皇軍兵士との姿勢 の違いは明らかです。…別に彼等が趣味でされる事なの でどうでも良い事ですが、毎年、敗戦記念日の靖国神社 で海外のメディアも押し寄せてくる中…こうした人が緩い 感じの着装で目立つのは…情けない限りです。あれが日 本の旧軍なのかと世界中で感違いされると思うと止めて 欲しいものですね…(v_v) |
映画などでもそうですが、軍人に限らず俳優達が特定のプロフェッショナルの職種の演技をする際には…その道のプロに指導を仰いだり、時にはプロ集団に実際に体験で入り込むなどして本物らしさを演出します。これで本物らしく見えるのがプロの俳優と謂えるでしょう。しかし趣味で山の中で 趣味のお仲間と楽しむ分には構わないでしょう…靖国神社でしかも最も意義のある日に猫背の素人集団がチンドン屋であるまいに海外に映像が 配信されるのかと想うと…ウンザリします。そんなにやりたければ…俳優さんのように誰の目から 見ても軍人であるような所作を徹底的に訓練しから披露してもらいたいものです。…毎年、暑い夏 に必ず想う事です…。 |
緩すぎるな〜( ̄▽ ̄;) |
この緩さを果たして靖国に眠る陸海の皇軍将兵が歓ぶと はとても思えない…そう思うのは私だけなのであろうか? これならば…現在の国軍たる現役の自衛隊の隊列を組ん だ参拝を見たいものだが…世間が許さないでしょうね。 |
嗚呼、素晴らしき玩具の世界 |
実に素晴らしい時代になりました。ご覧のようなラジコン 操作のオモチャの九七式中戦車や無可動の旧日本軍の 真鍮製各種戦車など・・・昔ではプラモデルしかあり得な かった玩具が巷に溢れています。 |
1/72 R/C VS タンクシリーズ 九七式中戦車(チハ) |
華麗なる御当地ものキューピーちゃんの世界 |
このQPちゃんシリーズと同様に御当地もので人気を博している キティーちゃんシリーズがありますが、私はこちらのQPちゃんが 可愛くて好きです。旅先で見掛けるとツイツイ買ってしまいます。 |
イタリアの老舗ミニカーメーカーRIO(リオ)社の 1/43スケールが出した フォルクスワーゲン 1939 大島駐独大使 です。しかし顔が全然似てい なく見ると笑えます。 |
嗚呼、昭和は遠くになりにけり… |
大阪の万博…まだ子供でしたが両親に連れられて家族で 見に行きました。昭和45年(1970年)です。物凄い人混み だったのを覚えいます。大阪万博の象徴ともいうべ物がこ の太陽の塔だと謂えます。 |
この時が初めての大阪であり関西入りでした。当時は関西弁 と謂うのはテレビの漫才師が喋る言葉だとおもっていたので 周りで多くの一般人、大人から子供までが大阪弁を使っている のを見てカルチャーショックを受けたの鮮烈に記憶しています。 |
昭和の子供たち…特に戦後の子供たちにとってTVのヒーローは切っても 切り離せないものです。白黒テレビの時代は”月光忍者部隊”や”ブースカ” に”マグマ大使”に”黄金バット”…”宇宙少年そらん”に”遊星少年パピィ” や”エイトマン”…いつの間にかTVがカラーに代わり…漫画は実写版のヒー ローの全盛期を迎えました。…ウルトラマンにウルトラセブン、仮面ライダー 1号、2号にV3…そして人造人間キカイダーやキカイダー01など…毎週、胸 躍らせて見ていたものです。 |
平成の御代も早いもので…あっいう間に28年が経過しました。 昭和がますます遠き懐かしいものになっていきます。 |
ウルトラマンにセブン、そしてタイガーマスク…当時、ドストライクで 見ていた子供だった同世代には堪らない懐かしさがありますね。 |
〜 脱 線 2 〜 |
キャロルからソロになった永ちゃんは ずっと今に至るまで第一線で活躍し続 けてきました。既に矢沢永吉のその名 前自体がブランドになっています。私は 10代の頃から永ちゃんのファンの一人 として永ちゃんを見つめてきました。 今回…”恋の列車はリバプール発”を この新ページのBGMに使用しました。 |
自分が10代で…永ちゃんが若かった時も カッコよかったですが…歳を取り還暦を過 ぎた今もパワフルに歌う永ちゃんのシブさ やカッコよさは極め付けです!! |
昭和50年(1975年)にソロとなり、初めて出した曲が I LOVE YOU,OK でした。この曲名のアルバムを同年 9月21日に発売します。この中に収録されたのが、この ”恋の列車はリバプール発”です。 |
まさに王者の貫録です。そんな永ちゃんも今や 65歳です。…10代から見つめてきた一ファンか らすると…永ちゃんが歳を取ったのもショックで すが…同時に自身も歳を取つた事を痛感させら れます。しかし65歳を感じさせないパワフルな ライブパフォーマンスには脱帽です。やっぱり永 ちゃんは…いつまでもカッコいいKingです! |
〜 脱 線 3 〜 |
若かりし頃の昔に夢中になって乗った四輪車や単車は今も尚 脳裏に懐かしい思い出と共に鮮明に記憶されています。そんな 昔懐かしい愛車達の模型を集めてみました。第三弾で今回紹介 するのは…以下です。 |
BMW M535ia(E28)の模型です!ナンバーがドイツ本国の ものですから日本仕様のM535iではなく本国仕様のM535ia を想定した模型であると思われます。 |
BMW M535ia(E28)(ドイツ本国モデル 81〜87年)です 。日本仕様の輸入車はM535iです。独本国仕様のM535 iaが3460ccで218馬力のフルパワーに対して、日本仕様 のM535iは3430ccの185馬力とダウンします。この車は 私の亡くなった父が気に入って逆輸入した車です。こちら も随分と懐かしい車です。父の死後…処分するのも母が 嫌がり何年か乗りましたが…流石に色んなパーツの交換 で金が掛かるようになり…九州に住む友人が欲しがった ので譲りました。思い入れの深い車の一台です。 |
メーカー
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B M W 社
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車種
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M535ia
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スタイル
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4ドアセダン
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車種形式
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E28(M1)
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エンジン形式
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直列6気筒SOHC
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排気量
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3460cc
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駆動方式
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F R
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エンジン出力
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218 ps
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トランスミッション
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4速 A T
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ボディーサイズ(D×W×H)
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4600x1710x1390
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発動機
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346EB
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特記装備
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ボディ的には5ナンバーサイズでありながら直6 3.5L 218馬力のエンジンを搭載していましたので、実にパ ワフルな走りでした。これはM社( BMW M GmbH ) による4台目のMパワーチューンを受けた車体であ り…エンジンも足回りもノーマルの5シリーズとは一 線を画しました。通常の3・5・6・7シリーズでは無く 、わざわざM-powerを購入する人はフルパワーを希 望されます。これはバイクの国内仕様モデルより輸 出仕様のフルパワーを求めて逆輸入するのと同じ様 なものですね…。 |
この後、BMWは、540 M-sport に 545 M-sport など5 シリーズを三台位、新車で乗り継ぎましたが…今になり 振り返ると…この時代のBMWが一番、素敵だったと思い ます。同じ世代の635csiや3シリーズもE21からE30の方 がBMWらしい個性を強く感じさせてくれるように感じてな りません。 |
スズキのGSX-R400です。模型を持っていなかったので 元々の改造前の原型と同じカラーリングのGSX-Rを参 考にネットで拾い掲載してみました。まるで耐久マシーン のようなハーフカウルにデュアルバルブが印象的です。 |
下に掲載した大幅にイメチェンしたGSX-R400もこの 下にあるタンクの画像を見ていただければ一目瞭然 で大元が何か判っていしまいます。 |
こちらも耐貧生活時代のバイクです。検残りが一年半近くあるので 友人から紹介で譲り受けました。しかし元々、レーサーレプリカが嫌 いだったので…無理矢理、ネイキッドに変更して塗装も友人と二人 で試行錯誤を重ねて…このシブい色に変更し塗装し、ついでなので 正体不明のバイクにしようと Kawasaki のロゴマークを張りつけまし た。…しかし特徴ありすぎるテール周りを見るとGSX-Rと一目瞭然 でしたが、正面側からパッと見ると正体不明の謎のバイクを上手く 演出できました…(苦笑)。まあお金が無かったので…テール周りを 変更するまでは至らなかったバイクです。これも検切れと同時に別 の足になるバイクと入れ替わりました。若い頃はツーリングも全国 各地と色々と出掛けたものですが…今では以前は当たり前に何処 にでもいた筈のツーリングのライダー達とすれ違う事も殆どなくなり ました…バイクの販売台数が80年代の200万台をピークに今では 四分の一の50万台を割るようになったとか…若者が単車に乗らな い…今のバイク人口の殆どが50代〜60代のバイクが全盛期を迎 えた時代の人達ばかりだとか…まあ私自身もその中に入るのです が10代から途切れる事無く…バイクに乗り続けた身にすると…どう してこうまで激減したのか、不思議でなりません。多分、四輪車もそ うですが…税金も維持費も高すぎるせいでしょう。中免ライダーでも 維持費を考えると車検が無い250t以下の単車に乗る人は昔から 多かったし…それでもガソリン代も高ければ高速料金も高く…特に 1〜2名しか乗れない単車が四輪車と同じでは割り切れないのも事 実で…若くて独身のうちは乗れても家族が出来て子供たちにお金 が掛かる年代になるとバイクを売り、家族で乗れる四輪車だけを所 持する人が殆どになります。…またこうした方が子供が大きくなり手 が掛からなくなると青春を取り戻すようにカンバックしてバイクに乗 るようです。…まあそうした人も、そう多くないので世界の四大バイ クメーカーが存在するバイク王国の日本でありながらバイク人口は 減るばかりと寂しい状況が実に皮肉です。 |
このGSX-Rに前のオーナーだった友人が搭載したヨシムラ管は 中々、相性が良かった!…丁度、上にこのバイクのオリジナル の画像を掲載していますが…同じヨシムラ集合管を入れていま すね。真横から見ても一見すると不思議なネイキッドですが…見 る人が見れば…この当時、クラス初となるアルミフレームが特徴 的です。またこのクラスで当時最軽量の乾燥重量が152kgをで したが…この私が乗ったバイクはカウルも取っ払っているんので 更に軽量化していました。まあ下の画像の様にタンク上を写すと GSX-Rがバレてしまいます…(笑)。 |
YZF750レプリカとして誕生。デルタボックスフレームに 5バルブエンジンを搭載。足まわりは41φフォーク、リン ク式モノクロスサスで固められた。 |
愛機CB1100Fの第二期カスタム中の長い期間、友人の某T氏が 長い間、貸し出してくれたFZR750です。自分で購入したわけでは ありませんが…長い間、足代わりで使わせていただき…元々、レ ーサーレプリカは好きでは無かったのですが…愛着を持った単車の 一つとなりました。…しかし当時としては速かったです。 |
当時、一世風靡したソアラです。ツインカム24バルブ2000cc の1G−Gを搭載した2.0GTは憧れでした。ライバル車である 日産の鉄仮面と謂われたニューマンスカイライン(R31型)が 4気筒ツインカム16バルブ2000ccのFJ20Eを搭載で…その 枠を超えず…後でターボ化して190HPの高出力化で”史上 最強のスカイライン”を謳ったが…ファンの求める6気筒DO HC24バルブを搭載するのは更に2年後に発売されたR31 型を待たねばならなかった。トヨタがソアラを筆頭にマークU 三兄弟に搭載した1G-GEUが既に昭和50年代半ばである 事を考えると日産が5年遅れで昭和60年から6気筒DOH C24バルブのRB20DETを搭載したのは遅きに失した感が 否めなかった。またトヨタの後追いで出したこの7代目のス カイラインとなるR31型は”史上最低のスカイライン”と酷評 されたのは記憶に新しい所であった。…この時代に成功した ソニーにしてもホンダにしても他メーカーに先んじて先進性の 高いスペックや新機軸を打ち出して勝負してきた感が強い。 日産が常にトヨタの後塵を拝したのも…こうした姿勢が薄かっ たせいのように思える。またスズキがバイクで金字塔を打ち 立てた絶版車のGSX-刀を再販したような酷い真似はしない ものの…初期に大ヒットしたS20型エンジンを搭載したハコス カGT-Rの栄光をもう一度と…いつまでもGT-Rの名前で勝 負するのは、どうかとも考えたが…結果的には格安なスパー カーとして世界で認められ、超高級スポーツカーとしてポルシ ェに肩を並べる大成功を収めました…。個人的には日産車は L型チューンの時代が一番好きです。私自身は買った事があ りませんが…ケンメリやジャパンの時代が好きです。 |
ソアラにセリカXXにマークU三兄弟と一世を風靡し激動の昭和の後半を代表 するような車達ですね。高度成長期から狂乱のバブル時代…平成になりバブ ルが弾け…失われた20年が始まり…長い長い低迷期とデフレスパイラルの 中で喘いだ時代を経験してきた世代としては何とも謂えない複雑な心境に今 あります。10年前…小泉改革と称して小泉・竹中コンビが郵政民営化を推し 進め…今、株式上場を目前としています。遂に米国の思うがままに郵貯マネー は自由に取り崩される時が来たというわけです。…今まさしくTPPが大筋で合 意がなされたばかりです。日本の医療や保険は10年後〜20年後にかけて 壊されてゆくのでしょう。安価で受けられる保険診療は骨抜きにされ…いずれ は米国同様に貧乏人は医療など受けられない国に成り果てる事でしょう。下ら ない安保平和法案を叫ぶ位なら…この直接的に日本売りになる郵政民営化や TPPに反対するデモをするべきでした。日本を集団的自衛権で支那から守る事 が出来るようにする必要かつ当たり前の法案にトンチンカンにも反対して本当 に不要な事には目を向ける事もしない…アホな在日やプロ市民に労組、そして 在日野党に扇動された不見識な悲しい一部の国民の無駄なデモには情けなく ウンザリする限りです。…日本が最も豊かに上り詰めようとするバブル前の昭 和61年から平成3年位までの約5年ほどです。まさにその始まりの時から売れ た車の代表がソアラなどのハイソカーと謂えると思います。 |
メーカー
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トヨタ自動車
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車種
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ソアラ
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スタイル
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2ドアクーペ
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車種形式
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Z10型
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エンジン形式
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1G-GEU型
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排気量
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2000cc
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駆動方式
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F R
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エンジン出力
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150ps
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トランスミッション
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5速 M T
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ボディーサイズ(D×W×H)
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4655x1695x1360
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平均燃費
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特記装備
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こちらの初代ソアラも…後に一連のハイソカーブームを生むきっかけ のような車でした。2.8のGTよりも16バルブ直6ツインカムの2000GT は…このスタイルと共に憧れの的でした。中古車でも高価で中々手 が出ない車でした。こちらは後輩の事故車を払い下げてもらったもの ですが、金持ちの後輩の親は太っ腹で…事故車は縁起が悪いので 新車に変わったと謂うので…廃車する位なら安く譲り受けたもので …解体屋巡りで必要なパーツを集めて再生した車です。買った時よ りも最終的には結構、高く売れましたから、人気車は違うと実感した ものです。後部と全部と左側面がやられてました。事故車のVRやVX などの同様の白色の事故車からかなりパーツを移植しドアも入れ替 えました。左前輪のドア側にまだ凹みが残っています。これも少しず つ治しました。よく考えると…こんな事が無ければ中々手に入れて乗 る事もなかった高嶺の車でした。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |