旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Uo











Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)

おと

海軍の軍服・その他








都丸 俊男 海軍薬剤少将の通礼軍衣、他




海軍軍医は良く出ますが海軍の薬剤は非常に珍しい
です。しかも都丸俊男薬剤少将は、海軍薬剤官での
最高位である薬剤少将です(軍医の最高位は、軍医
中将ですが、海軍衛生部にあって薬剤と歯科では、
最高位がそれぞれ少将となります。)入手時に同時に
出ていた正衣もそうですが、この通礼衣と同様に
袖階級章は、薬剤大佐です。肩章及び襟章のみ薬剤
少将のものでしたので共に入手しました。
ポケットに蝶ネクタイとクリーニングに
際して外した金釦がありました。
惜しい事に通礼軍衣は、山城屋のテーラータグの下に
あった刺繍ネームタグが剥ぎ取られています。
薬剤少将の肩章です。都丸の記名があります。
この薬剤の肩章・襟章・袖章で軍医や歯科との
区別はありません。
高等文官、軍属奏任官、同待遇用の背広用の徽章
に海軍薬剤少将襟章2対、肩章一対です。




         
          〜都丸 俊男
海軍薬剤少将〜   
     
              ( 略 歴 )

   群馬県出身、明治27年3月14日生

大正 6 年 5 月 17 日   千葉醫専薬学科卒
大正 6 年 11 月 26 日  海軍少薬剤士(海軍軍医校乙種学生)
大正 7 年 6 月 1 日    横須賀海軍病院附(薬剤科)
大正 8 年 9 月 23 日   海軍薬剤少尉
大正 8 年 12 月 1 日   海軍薬剤中尉
大正11年 12月 1 日    海軍薬剤大尉(佐世保海軍病院)
昭和 3 年 12 月 1 日   海軍薬剤少佐(亀川海軍病院)
昭和 7 年 11 月 15 日  佐世保海軍病院薬剤部長
昭和 7 年 12 月 1 日   海軍薬剤中佐(佐世保海軍病院薬剤部長)
昭和 8 年 11 月 1 日   呉海軍病院薬剤部長
昭和 11年 12 月 1 日   横須賀海軍病院薬剤部長
昭和 12年 12 月 1 日   海軍薬剤大佐(横須賀海軍病院薬剤部長)
昭和 17年 6 月 3 日    横須賀鎮守府出仕・海軍軍医学校教官
昭和 17年 10 月 1 日   海軍療品廠総務部長・第一製造部長
昭和 18年 5 月 1 日    海軍薬剤少将(海軍療品廠第一製造部長)
昭和 18年 11 月 15 日   海軍療品廠長
昭和 19年 6 月 20 日   海軍第二療品廠長
昭和 20年 10 月 20 日     予備役

昭和 29年 4 月 29 日       歿 (享年60歳)



以下は入手しませんでしたが、同時に売りに出ていた
都丸閣下の正衣袴、正帽、正肩章などがバラ売りされ
ておりました。






都丸閣下が薬剤中佐〜大佐だった昭和11年以降
に奥様が使われていた物と思われます。


これ等は別の場所で出た都丸少将の士官三種略帽、
士官紺ラシャ製巻脚絆、礼衣(袖章・金釦取外し)の
三点です。お定まりのパターンで遺族が亡くなったか
遺品を継いだ遺族が遠くなり処分されたものですが…
一括りの品だった遺品がバラバラにされ売られて全国
に四散します。毎度、目にすると心痛む想いがします。
紺ラシャ製の巻脚絆は、巻き紐の根元に、この方の記名がなされた布片があります。
生地もしっかりしたやや上質とおもえるラシャ生地です。こちらも、生地等の造りから、
官給品の流用とも考えられますが、官給品を示す、標記布等は無く、また取り外した
とおもわれる跡も見受けられません。部分的に僅かな虫舐めがある他は、虫食いも無
く、状態はとても良いとものです。




略帽は、残念ながら、前章と側線が取り外されております。菱形の標記布が付いた官給型ですが、
当時、戦地等での調達困難ということっでしょうか、将官でも、略帽に限らず、この様な官給のもの
を使用している例を見掛けます。生地は綿サージ製で、顎紐も陸戦タイプの様な釦留め式です。
サイズは約57センチ。画像の様に使用による汚れがあり、内側には閣下の記名があります。


外側からも黒線を二本取り外した痕跡が判りますが内側は留めていた
糸が残り色の違いも歴然で良く判ります。
前章部分も横線と一緒で取り外し後が判ります。


礼衣は、袖線(大佐とおもわれる跡があります。)、釦が取り外されて
おりまた後部裾の部分生地も取り外されております。ただ、表の生地
自体にはほとんど虫食いは見受けられずに状態は良好です。











昭和18年10月8日、第一海上護衛隊運航指揮官として
   比島方面海域で戦死された野田 謙三 海軍少将の
    正衣袴、正剣帯、通礼軍衣袴と渋谷区長から遺族へ
      贈られた皇国の守護神に列すと記された銅の銘板




昭和7年に海軍大佐で予備役、昭和11年に後備役、そして日米戦の開戦前の
昭和16年8月16日に
充員召集。佐鎮附の後、徴用輸送船でしょうか興安丸
監督官、昭和17年12月1日に横鎮附、昭和18年1月25日に第一海上護衛隊
運航指揮官。海上護衛隊とは聴こえが良いがつまるところ海軍が徴用した
輸送船勤務で通常の運航時は船本来の船長と船員が勤め、戦闘になった際
、海軍軍人である運航指揮官が命令権を持つ変則的なシステムですが…これ
で充員召集された多くの大佐クラスの退役軍人が運航指揮官として戦死し少将
になっています。現役時代は駆逐艦を中心に水雷畑で海軍大学にいかず海兵
のハンモックナンバーは、ブ-ビー賞です。戦う手段を殆ど持たない輸送船勤務
で戦う事は…命令であっても無念だった気がします。
通礼衣袴です。胴衣は虫食いがあります。蝶タイはキレイな
ものです。通礼衣は、少将の袖章になっています。下に掲載
した正衣は、海軍大佐のままです。




正衣袴です。正衣は海軍大佐のままです。


住まいのあった渋谷区の区長から”皇国の守護神に列す”の記載
のように軍神と崇められた銅の銘板です。遺族に送られたもので
すが、戦後早六十猶予年が経過し…これ等、共に世に出る筈の
無いものが出てくると謂う事は既に墓を守る係累も無く家系が絶え
たのか…離散したのかと想像されます。その上で掲載した都丸
海軍薬剤少将のお品も同様ですが…物悲しい気がします。







鈴木 格司 海軍造船少将が
 海軍省からいただいた支那事変
        の記念品(煙草盆セット)






同じ将官物でも造船は珍しいです。






灰皿も煙草入れも共に実用されていたようです。








     〜鈴木 格司 海軍造船少将〜
            (略歴)

  千葉県出身 東大工学部造船科卒

明治41年10月13日 海軍造船大技士
              佐工廠造船部部員
明治43年 3 月 3日  伏見乗組
明治43年 4月20日  佐工廠造船部部員
明治45年 5月22日  佐工廠造船部部員・検査官
明治45年 5月29日  造船監督官
大正元年11月13日  艦本部員(三部)
大正 2年12月 1 日  艦本部員(三部)・海大教官
大正 3年 9月10 日 造船監督官
大正 3年 12月 1日  海軍造船少監
大正 6年 4 月20日  造船監督官(英国出張)
大正 7年 12月 1日  海軍造船中監
大正 8年 8 月 1 日  命帰朝
大正 8年 9 月23日  海軍造船中佐
大正 8年 12月 1日  艦政局局員(二課)
大正 9年 10月 1日  艦本部員(四部)
大正10年 1月 24日  呉工廠造船部部員
大正10年 4月 30日  呉工廠検査官・造船部部員
大正11年 12月 1日  海軍造船大佐
大正11年 12月20日  呉工廠造船部部員
大正14年 2 月 2日  造船造兵監督官
昭和 2年 4月 5 日  艦本造船造兵監督官
昭和 2年 12月 1日  海軍造船少将 艦本出仕
昭和 2年 12月15日  待命
昭和 2年 12月25日  予備役
昭和10年 12月24日  艦本造船業務嘱託
昭和17年 8 月15日  解嘱託
昭和17年 11月 1日  海軍技術少将

昭和46年 4 月25日    歿 (享年86歳)








嗚呼、栄光の九九式二十粍一號
  と二號航空機銃弾・薬莢(発火済み)




ピカピカに磨かれた真鋳製の薬莢です。短い方が一号銃弾の
空薬莢で長い方が二号銃弾の空薬莢で共に発火済みです。
両方とも余り出てこないものですが特に一号の短い方は、私も
一発だけしか持ってませんでした。二号は潰れたのを入れると
空薬莢はそこそこあります。
発射薬量が少なく射程の短く、その弾道の軌跡から小便弾と揶揄された一号
銃は7.7ミリに比べ命中した時の破壊力を無視出来ず、二號銃の開発に繋が
りました。二號銃採用後、一号銃はその数を徐々に減らしてゆきましたが敗戦
まで使用されました。

二號銃用は初期採用の一號銃用の薬莢を長くし、発射薬量を大幅に
増やし初速と射程を改良したものです。並べると現金なほど大きさの
違いが判ります。これだけ装薬量が増えれば小便玉も真っ直ぐ飛んで
行く事でしょう。
エリコン機銃の特徴で莢底部に発射による高圧の為に蹴子孔の跡が凸状に
付いています。また高圧の為か減起縁上部に数本のひび割れが確認できま
す。刻印は無く昭和十八年以降の品の様です。




九九式二十粍一號航空機銃弾・薬莢の
   カットモデルと末期の無撃針信管三型改二













海軍軍醫学校 第17代目校長を
  務められた田中 朝三 軍醫中将が
        少将時代に出された年賀状






          〜田中 朝三 軍醫中将〜
               (略 歴)

埼玉県出身、明治18年5月9日生


明治42年11月 2 日  千葉醫専卒
      12月14日
  海軍少軍醫・軍医校練習学生
                   ↓
               呉病院附、厳島乗組、呉工廠附
明治44年12月 1日   海軍中軍醫・安芸乗組
                   ↓
               宗谷乗組、工機学校附
大正 2 年 5月 1日   海軍大軍醫・宇治軍医長
                   ↓
               呉工廠附、大和軍医長、第十一
               駆逐隊軍医長、常盤乗組、佐世
               鎮附、浜風乗組、佐世病附、
               第五戦隊司令部附、横病附、
               軍医学校高等科学生
大正 8 年 9月23日   海軍軍医醫大尉
      12月 1 日   海軍軍醫少佐・軍醫校選科学生
                   ↓
               佐病部員/教官/佐鎮附、佐病
               副官、海軍経理学校軍醫長、
               軍医学校教官、米国駐在
大正12年12月 1日   海軍軍醫中佐
               
命帰朝、軍医校教官/監事、
               医務局局員/教育局局員/
               軍医校教官

大正15年 8 月 9日   
医学博士
昭和 2 年12月 1日   海軍軍醫大佐・佐工廠医務部長
                     ↓
                 医務局局員、第一艦隊軍醫長
                 連合艦隊軍醫長、
昭和 8 年11月15日    海軍軍醫少将・横病第二部長
                   ↓
                
呉病院長/呉鎮軍医長、
                横須賀病院長/横鎮軍医長
昭和12年12月 1日
    海軍軍医中将軍医学校校長
                     
                  軍令部出仕
昭和15年 3月15日      待命
       3月21日     予備役
昭和16年11月 1日    支那方面艦隊事務嘱託

昭和30年12月15日       歿 (享年70歳)








  敗戦の瞬間…敗軍の将達の写真
      〜帝國陸海軍の最期〜

(昭和20年9月2日 於:米重巡 ポートランド)




上は米国海軍の軍艦の内部です。上の右は陸軍少将が敬礼をしながら
案内に沿って歩いています。後方から二種軍衣袴の海軍の佐官クラスが
歩いています。上の左は左端に二種軍衣の海軍中将、米兵を一人挟んで
三種軍衣の海軍少佐の参謀と短靴が二名いますので海軍士官と思います。
その後方に陸軍の佐官クラスの参謀と将校です。下の写真は左が何処の
島か不明ですが陸軍の将官隊長章を付けている将官と手前は三種軍衣の
海軍の将官です。後ろに其々、陸海軍の参謀と副官を従えているようです。
いずれも各地での降伏文書に調印する為に集まった所で撮影されたようで
す。下の右は、南方の島のビーチです。明らかに夏軍衣の海軍の水兵と
下士官に陸軍の将兵が若干混じっています。後方に米軍の上陸用舟艇が
あります。雰囲気は敗戦で所属軍艦などから降ろされた海軍の将兵という
感じです。陸戦隊やこの島の配属根拠地隊という感じではありません。


憮然たる表情の陸海の将校、将星達です。
精強無比を誇った帝國陸海軍が解体される瞬間の
写真と謂っても良いかもしれません。
キングコングの渾名で呼ばれた原忠一中将を思い出して
この一連の写真が第31軍と第四艦隊のトラック方面の降
伏時の物である事に思い至りました。将官隊長章を付け
た陸軍中将は、麦倉 俊三郎 陸軍中将で第31軍司令官
だと思われます。南洋庁のあるトラックを中心に陸海軍8
万の将兵を統括する軍司令官ですが、参謀長は欠員で
高級参謀の伊藤 盛逸 大佐と高級副官の鈴木 次郎
中佐ですから上の写真では中将の後ろの開襟の軍服の
将校が副官と思われます。艦内と思われる上の写真は
下の写真と同じで昭和20年9月2日に米海軍の重巡洋艦
”ポートランド”に於いてトラック並びにカロリン諸島の日本
の陸海軍代表団との降伏文書調印の模様を写したもの
です。最前列手前から第四艦隊司令長官の原 忠一 海軍
中将、第三十一軍々司令官の麦倉 俊三郎 陸軍中将そし
て南洋庁東部支庁長官(勅任官)です。後列以下は陸海
軍の参謀や副官達幕僚です。
この陸海軍の司令官の中将ですが…二人の戦後は
明暗が分かれます。陸軍の麦倉中将(陸士23期、陸
大32期)は戦後、無事に復員され昭和44年7月7日に
81歳で他界されます。一方、碌に見るべき海上戦力も
航空戦力も持たないまさに艦隊とは名ばかりの丘に上
がった海軍の第四艦隊司令長官の原 中将(海兵39期
、海大24期)は…BC級戦犯で有罪を受け服役します。
これはトラックの第四海軍病院で昭和19年2月末から7
月までに米軍捕虜8人を処刑した所謂、”2月事件”と同
年7月に捕虜2人を処刑した”7月事件”の責任を問われ
たものです。米グアム軍事法廷 で禁固6年判決を受け
て昭和26年4月19日に仮釈放になります。気苦労も重
なったのでえしょうか昭和39年2月17日に逝去されまし
た( 享年74歳)です。


トラック諸島に於けるBC級戦犯事件に関しまして


中部太平洋トラック諸島の夏島(デュブロン島)にあった第四海軍病院で
昭和19年2月末から7月までに米軍捕虜8人を処刑した"2月事件"と同
年7月に捕虜2人を処刑した"7月事件"の2件が起こり裁判となりました。

”2月事件”は、米軍捕虜の生体解剖事件としても知られています。BC級
戦犯を裁いた米軍グアム法廷の判決要旨によると昭和19年1月末から2
月にかけて起きたものとされる”2月事件”は、1月30日に発生したことに
なっています。院長 岩波 浩 軍医大佐と軍医4人(うち1人は戦死し1人
は自殺)が海軍第四一警備隊から譲り受けた米軍捕虜4人の手足に止
血器を取り付け生体切開を行った。止血器は、捕虜2人については2時間
後、残りの2人はついては7時間後に外されました。前者の2人は、一命を
取り止めたものの…後者の2人は、ショック死しました。岩波 軍医大佐は
、さらに米軍捕虜4人にぶどう状球菌を注射しました。これ等の捕虜は、高
熱を発し死亡しました。止血器実験で生き残った2人の捕虜は、2月1日に
病院裏で爆風実験として1メートルの距離で爆発させたダイナマイトで足を
引き裂かれながらもまだ絶命しなかった為、毒薬を注射して殺処分しまし
た。遺体は、ショック死した捕虜とともに岩波 院長らによって解剖され、頭
部、心臓、内臓は標本として内地の軍医学校へ送られました。これ以外の
遺体の残部は島民等によって地中に埋められました。

”7月事件”は、昭和19年7月22日に起きた。岩波 軍医大佐の命令で捕
虜2人が病院裏の丘に連行され棒杭に縛り付けられました。神川 秀博 軍
医少佐が中心となり約100人の病院関係者が現場に集合し岩波 軍医大
佐がスピーチした後、大石 鉄夫 大尉に捕虜の処刑が命じました。大石
大尉ら被告16人に列を作らせ、次々に槍と銃剣で捕虜を刺しました。岩波
軍医大佐は、大石 大尉と浅沼 大尉に斬首せよと命じ遺体は現場近くに
埋められましたが、後に岩波の命令で海に捨てられました。


”2月事件”では、岩波と坂上 衛生中尉が起訴され、坂上には終身刑が言
い渡されましたが、岩波は無罪になりました。軍医大佐が無罪になったの
は「証拠並びに証言等に於いて疑問とせらるるもの或は、ねつ造作為せる
点の露骨なる点」があったとされたた為であります。しかし”7月事件”では
、岩波 軍医大佐に絞首刑の判決がくだり、被告17人が有罪となりました。
被告側の主張によると、いずれの事件も敗戦時に第四艦隊参謀長(澄川
道男 少将)や第四根拠地隊 軍医長、トラック警備隊付軍医官、海軍病院
外科部長、同外科科長、同部員が協議し、関係者の被害を少なくする為の
隠蔽工作が行われたようでありました。協議により、実際は昭和19年2月末
より7月にわたる事件の発生時期を1月下旬と捏造することによって、当時
の艦隊司令部の責任を前任者に転嫁しようとした事です。その結果、小林
仁 海軍中将(昭和19年2月18日まで第四艦隊司令長官)、若林清作海軍
中将(昭和19年2月19日まで第四根拠地隊司令官)、原 忠一 海軍中将(
昭和19年2月19日より敗戦まで第四艦隊司令長官)にまで指揮系統上の
統括責任が波及しました。

戦後の昭和22年6月10日から始まった法廷は、”2月事件”、”7月事件”を
含む戦争の放棄慣例に対する違反で、小林 海軍中将に懲役15年、原 海
軍中将に懲役6年を言い渡しました。澄川 第四艦隊参謀長や海軍病院の
外科部長 種田 軍医大佐、外科科長 岡村 軍医中佐、同部中村 軍医大尉
(裁判中に自殺)らは検事側証人となり米軍に協力することにより起訴を免
れました。米軍に協力した澄川 海軍少将や海軍病院の軍医らが共謀して
捏造した時期の事実で全く罪に問われる必要のなかった小林 仁 海軍中
将が懲役15年の判決を言い渡されています。この小林 海軍中将は悲運の
中将でトラック島大空襲の際、迎撃体制を敷いていたが2月16-17日に警
戒を緩めさせ、この間隙を縫ってトラックへの敵の空襲が大成功を収め地
上施設を破壊されて基地機能を喪失したのみならず、残存した商船はこと
ごとく撃沈され、沈船のために泊地としての機能も完全に失われました。
これを海軍は”海軍丁事件”と称して小林 中将の弾劾に踏み切り、この失
態の責任を問われ…空襲の2日後に第四艦隊司令長官を更迭され、5月
30日に待命、その翌日31日に予備役編入という異例のスピードで海軍を
追放されました。その戦後にこの戦犯事件です。そしてこの事件の他にも
昭和18年10月、第四艦隊管区のウェーク島で捕虜虐殺が行われた事実が
発覚し裁判となっています。この事件は、空襲と艦砲射撃を受けたウェーク
島で上陸戦間近と判断し、酒井原 繁松 第六十五警備隊司令が捕虜100
名の銃殺を実行したものであります。酒井原 司令は戦犯として死刑判決を
受け、昭和22年に処刑されましたが、酒井原の上官として小林も監督責任
を問われることとなりました。トラック島の裁判の件と共に判決に基づき…
日米講和条約成立による昭和27年の仮出所まで小林 元中将は、巣鴨拘
置所に収監されました。非常に気の毒なこの方は戦後の昭和52年8月7日
に逝去されております(享年87歳)。また四根司令だった若林 清作 海軍
中将(昭和18年7月15日〜昭和19年2月18日)には管理責任は問われな
かったようですが、四根司令は澄川 海軍少将の前の第四艦隊参謀長だっ
た有馬 馨 海軍少将が転じる昭和19年8月11日まで兼務していました。
8月12日以降は四根司令官は第四艦隊司令長官が敗戦まで兼任する形と
なります。いずれにしろ原 忠一 海軍中将は、当地、海軍の最高司令官とし
て”2月事件”も”7月事件”でも指揮系統上の統括責任を問われるのは仕
方無いにしても…小林 仁 海軍中将は、澄川 第四艦隊参謀長等の虚偽に
より投獄される結果になったので…惨いとしか言いようがありません。この
澄川 少将は昭和22年10月22日に復員され… 昭52年 6月18日に80歳で
逝去されています。

ついで両事件の捜査過程で、関係者の米軍側への密告によって海軍警備
隊の”第二事件”が発覚しました。 判決文によると軍医長 上野 千里 軍医
中佐は、昭和19年5月上旬から8月にかけて(上野 軍医中佐によると6月
中旬)中瀬 庄七 軍医少佐により米軍捕虜2人の処分を持ちかけられ、上野
軍医中佐は第四十一海軍警備隊(司令 浅野 新平 海軍少将)の江里口
武 歯科少尉と小林 和三 衛生少尉の立ち会いで捕虜の生体解剖を実行し
ました。同軍医中佐らは、捕虜1人にクロロホルムで麻酔をかけ、右足の爪
を抜き、右足大腿部を切開、腿の付け根の動脈のほか 虫垂、睾丸を摘出し
ました。更に腹部や右胸を切開し筋肉と助骨を取り出した後、傷口を接合し
テープで止め診療室の裏に掘った穴に運び、そこで江里口 歯科少尉が斬
首し殺害しました。もう1人の捕虜は、診療室の裏で田中 末太 水兵長によ
って銃剣で殺害処分されました。 裁判では、警備隊の全員が関与したと認
められましたが、有罪となったのは6人に止まりました。判決では浅野 海軍
少将と 上野 軍医中佐に死刑、江里口 歯科少尉と田中 水兵長にも死刑判
決が下されたましたが、後に終身刑に減刑されました。中瀬 軍医少佐と
小林 衛生少尉には終身刑が言い渡されました。この他にもトラック警備隊
関係では、昭和19年2月7日と18日の空襲の混乱時に米軍捕虜8人を処
分した…所謂、”トラック警備隊第一事件”がありました。この事件では、
田中 政治 海軍大佐が絞首刑、檀崎 留六 少佐と吉沼 義治 少尉に 終身
刑が言い渡されました。

この”トラック島捕虜事件”は、陸軍軍医が中国大陸でしばしば試みていた
捕虜の生体解剖を海軍でもぜひ実行したいと意気ごんで着任した岩波
軍医大佐の「熱意」に起因するところが大きく、裁判を混乱させたのは、責
任者の1人である澄川 第四艦隊参謀長をふくむ関係幹部が自身の罪を免
れ、他に押し付けようとした日本側の内部不和で結果的に公正さを欠くBC
級戦犯裁判となり不公正な判決を招いた事は…後世に伝え残さねばならな
い非常に大きな問題だと思われます。何故ならこの不公正な判決は修正さ
れる事無く…本来、受けなくてよい不本意な判決を受けて刑に服した小林
仁 海軍中将がいる一方で実行犯や直接の管理責任が及ぶもので虚偽の
証言をしたり、米軍側の証人として訴追を免れるなどで罪問われる事無く逃
げおおせた者が居る事は不愉快な事です。特に本件の場合…する必要の
ない人体実験を行う事が軍医とは謂え医師が行う事とは到底理解に苦しむ
非道な行為であります。軍として戦争を遂行する上で必要不可欠な要素は
全く一切見当たらず単に非道なる行為というしかありません。米軍及び連合
軍(英豪他)の行った非道かつ不当で残酷な大虐殺(東京大空襲や広島、
長崎の原爆投下、捕虜虐待や惨殺、ダンピールの悲劇等もあります。)が
あったとしても敵と同じような非道を日本人が行う事が許されるわけでもあ
りません。何よりも医療人が行ったこの種の惨殺は決してあってはならない
まさしく犯罪…凶悪犯罪と謂えるでしょう。特に記して語り継ぐ必要を感じま
す。







最後の観艦式となった
  紀元二千六百年特別観艦式
    の記念絵葉書のセット(海軍省)




昭和15年10月11日に横浜沖で行われた観艦式です。これが帝國海軍
最後の観艦式となりました。規模的には参加:計98隻、飛行機527機
と昭和3年の御大礼特別観艦式(参加:186隻(約78万トン)、飛行機
130機、飛行船2隻)や昭和8年の大演習観艦式(参加:161隻(約85万
トン)、飛行機200機)に比べると艦船数が大幅に少ないものの航空機
の参加数は過去最高の527機と凄い威容です。







◆紀元二千六百年特別観艦式(参加艦艇98隻の陣容)◆
御召艦 『比叡』

先導艦 『高雄』

供奉艦 『加古』、『古鷹』

第一列 『赤城』、『飛龍』、『蒼龍』、『瑞穂』、『五十鈴』、『伊六八』
     以下潜水艦9隻、『沖風』、『峯風』、『矢風』

第二列 『長門』、『陸奥』、『伊勢』、『山城』、『摂津』、『涼風』
     『江風』、『村雨』『春雨』、『夕立』、『五月雨』
     『漣』、『綾波』、『浦波』、『初雪』、『白雪』、『吹雪』

第三列 『金剛』、『榛名』、『熊野』、『鈴谷』、『最上』、『利根』
     『筑摩』、 『陽炎』、『大潮』、『朝潮』、『荒潮』
     『満潮』、『霰』、『不知火』、『黒潮』、『雪風』、『初風』

第四列 『千歳』、『神威』、『千代田』、『多摩』、『常盤』、『伊十六』
     以下潜水艦6隻、『如月』、『弥生』、『望月』、『睦月』

第五列 『日向』、『沖島』、『蒼鷹』、『八重山』、『天龍』、『神風』
     『沼風』、『波風』、『野風』、『伊十五』、以下潜水艦3隻
     『掃海艇一号』〜『六号』

番外  『長鯨』、『迅鯨』、『駒橋』、『勝力』、『明石』、『間宮』
     『早鞆』、『尻矢』、『宗谷』他4隻








海軍 軍医・薬剤・技術学生募集告示及び
    海軍技術学生・生徒志願者便覧と志願票




両面印刷。昭和18年度の海軍技術学生志願者便覧
海軍技術学生生徒応募資料です。




昭和18年度海軍軍医学生、薬剤学生、技術学生の募集告示と
技術見習尉官志願票(記載例のみを切り離している)募集告示
の片面印刷になっています。















ある海軍技術尉官(第三十三期)の青島で
 行われた第一期実務訓練の記念アルバムより




昭和18年10月から昭和19年2月末まで青島で行われた
海軍技術科士官候補の速成士官訓練の記念アルバム
です。同じ予備士官でも軍医科などは戦地や軍艦勤務が
主体となる為、戦死する率が非常に高かったのに対して
技術科などは戦地や軍艦勤務になる事が無いので殆どが
戦後も無事に生存されている方が多いのでは無いでしょう
か。また同じ衛生部でも薬剤なども大規模な海軍病院や
大規模兵站施設に勤務が限定されるので任官数もその分
非常に少ないでしょうが生存率も極めて高かったようです。


昭和19年2月末で訓練が終了し、其々の任地となる研究施設
などに配属になり、この第三十三期生の皆様は翌年の8月に
敗戦を迎えます。恐らく海軍技術中尉に進級して軍服を脱いだ
ものと思います。
























ドイツの植民地らしい欧州的な部分と支那らしさの部分
外地らしい異国情緒がアルバムからも感じられます。

















豊川工廠の空襲で戦死された続木海軍少将の
   寄せ書きや当時の豊川海軍工廠長など他の
    陸海軍人など豪華な顔ぶれの肉筆寄書画帳




著名な学者や陸海軍人、華族の方々が
寄せ書きをされています。主に敗戦直前
の昭和20年7月ですが、中には敗戦後の
昭和21年の記載もあります。はじめはどう
いった事で寄せ書きされたものなのか…
不明でしたが、共通項として豊川海軍工廠
があり、敗戦間際の大空襲で被害を受けて
犠牲になられた方、そのご家族や関係者で
ある事が推察できました。


豊川工廠で爆死された続木少将の寄せ書きです。この記載の
一ヵ月後に戦死されています。その記載の内容と考え合わせる
と…まるで予期していたかのような感を受けます。左の中島民部
海軍大佐は、海兵48期・東京出身の方です。
大空襲で戦死された続木 海軍少将です。
清水 文雄 海軍技術中将は栃木出身で東京帝大工造兵科学卒
です。この記載の7月21日は豊川工廠長をされていた時です。
海軍少将に海軍技術大佐の寄せ書きです。
亜細亜大でしょうか教授に海軍主計大佐の寄せ書きです。
慶応大の佐原名誉教授は敗戦後間もなく社会心理学を始めた
方です。戦時中は、当時東洋一ともいわれた豊川海軍工廠で
慶応大学高等部160名が豊川海軍工廠に学徒動員された時の
附添教官であり、地獄と言われた”豊川八・七空襲”を体験した
方でもあります。一方の立大は、やはり豊川海軍工廠の空襲で
4名の勤労学生の被害者を出した立命館大学と思われます。
毛利 元道 公爵は、陸軍中佐(砲兵科)で昭和の時代の
毛利家当主だった方です。戦後はUNESCOの活動に深く
関わり、その縁もあって、かつてのユネスコ村には高輪の
毛利邸の門が移築されました(また邸宅をユネスコ村を
経営していた西武鉄道に売却しています)。
右は戦前に青森営林局長を務められた榛葉 可省 氏の
寄せ書きと思われます。お身内の方が犠牲になられた
豊中校長とあります。恐らく勤労学生を出して被害を出された
高豊中学校の校長先生と思われます。記載されたのは空襲
の前となります。
右の堀光一氏は、良く知りませんが「海軍技術物語(2)海軍砲煩の
回想と量産の発端」の著者でありますので海軍技術士官だったと思
われます。
静岡県立磐田南高等学校の初代校長 尾崎楠馬氏の寄せ書きです。
恐らく教育に携わる方ですので豊川工廠で学生・生徒の犠牲者を出さ
れたものと想像します。
柴山 兼四郎 陸軍中将です。昭和21年春に書かれています。昭和23
年5月に戦犯容疑により拘留され、同年11月、禁錮7年の判決を受け
ました。昭和26年8月に仮釈放されました。敗戦の一ヶ月前に予備役
になる前は、昭和17年4月、第26師団長。南京政府最高軍事顧問を
経て昭和19年8月から翌年7月まで陸軍次官。昭和20年5月から
大本営兵站総監を兼務しました。茨城県出身で輜重兵科。陸士24期
、陸大34期。輜重兵監や陸軍軍務局課長や参謀本部など軍中枢に
存在する一方、天津特務機関長や漢口特務機関長など歴任されまし
た。戦後は、昭和28年8月に軍人恩給全国連合会会長に就任されて
おります。昭和31年1月23日、逝去。
江戸和竿 の開祖で有名な竿師の松本東作…多分、四代目泰地屋
東作(松本三郎兵衛・政二郎)さんと思います。しかし実に各方面の
多彩な顔ぶれの方々が寄せ書きされておりますが…どういった繋が
りなのか不明ですが・・・唯一の共通項は、豊川海軍工廠であります
ので関係者や同僚、仲間、身内をこの空襲で亡くされた関係者によ
るものかと推察しています。
当時、豊川海軍工廠長であった清水閣下の
空襲の僅か17日前の寄せ書きです。


            ◆豊川八・七大空襲◆

豊川八・七大空襲では、勤労学生動員で各大学、高等学校
中等学校、女子挺身隊、小さな国民学校の児童に至るまで
たくさんの学童・生徒・学生が働いており…昭和20年8月7日
グアム・サイパン・テニアンから飛び立ったB29が約125機に
硫黄島から護衛に飛び立ったP51約50機の大編隊が十数波
に別れて波状攻撃の空爆を午前10時10分過ぎから開始、僅
か半時間の間に三千発以上の五百ポンド爆弾(約0.8t)を雨
霰の如く投下し…勤労学徒の婦女子を含む二千七百名が犠
牲となりました。当然、工廠周辺の一般住宅などにも大きな
被害が出ておりおりその犠牲者数は百とも数百人とも謂われ
ておりますが、今では正確な被害・犠牲者数が不明の状態に
なっています。…犠牲になられた皆様の御冥福を改めてお祈
り致します。
             ↑ 
この上をクリックすると豊川海軍工廠跡を紹介す
るサイトが開きます。画像が豊富です。
          ↑
豊川海軍工廠の空襲で戦死された
続木海軍少将の軍衣軍袴や軍帽等
を展示したページが開きます。







海軍 各種学校四校の礼装用ペンネント




額装された礼装用水兵帽章です。何故か四校のうち一番下
の海軍機関学校だけが機関科士官学校です。少しちぐはぐ
な四校ですが、中々集めるのが大変な礼装用ペンネントな
ので仕方ないものと思います。









日露戦争(明治三十七・八年戦役)で
 降伏した戦艦”ニコライ一世”の戦利銅材
        で作られた記念の置物の錨です。




錨の置物です! 明治三十八年五月二八日に竹島の南方約18海里沖で
ロシア戦艦”ニコライ一世”は我、東郷艦隊に降伏して、その後艦名を戦艦
”壱岐”と改称しました。其の戦利銅材を利用して造られた記念の錨の置
物です。錨には「用三十七八役之戦利銅材以造」「帝国義勇艦隊建設記
念」と鏨彫されおります。一個々鏨で手彫りしていますから少数の限定で
造られた物でと想われます。保存状態がすごぶる良く錨は美品状態です。
錨と台座は分離組立に成ってます。錨(箪体)大きさ幅9.3cm・高さ13cm
横棒長さ10.5cm・台座大きさ幅12cm・長さ17cm・高さ(組立後)13cm。
桐共箱(横26cm・縦21cm・高さ11cm)継ぎ目が補修されています。箱に
は「東京・生秀館製」のラベルが有り、保存用の綿と黄色布が付いてます。




この時代の日本が東亜の盟主として自他共に認め
自信を深め絶頂期に向かわんとしてる頃のものです。
そうした気風や匂いを何となく感じる気がしました。今
のこの時代が情けない状況なだけに…ご先祖様に合
わせる顔が無い気がして悲しい気持ちがします。










竣工当時のニコライ一世の勇姿です。







呉の高田帽子店謹製の水兵帽です。復刻品ですが
海軍御用達で海軍の軍帽を手広く手がけており連合
艦隊司令長官で有名な山本五十六元帥の軍帽も作
られたようです。今も海自の特約店をされています。


こちらも復刻品の戦艦 大和のペンネントです。







艦艇用 八糎高角双眼望遠鏡




銘板は取り外れています。航海科の刻印
と193の数字の刻印のみが残っています。


望遠鏡側のレンズカバーは残っています
が接眼レンズ側のカバーはありません。











平田主計少佐の写真から
良い笑顔の海の男達です。
ペンネントから大日本軍艦新高と読めます。

上海事変で出動した海軍陸戦隊の記念写真です。



ペンネントを読むと大日本軍艦陸奥と読めます。




海軍兵学校や海軍機関学校、舞鶴分校などの名簿は
戦記・資料を紐解く上で必携の品です。陸海軍の将官
名簿と共に各商船学校の出身者名簿も無くては、なら
ないものです。



なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!