旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Un















Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








海軍経理学校 専修学生の修業証書




昭和19年5月の修業証書です。専修学生ですので
下の経理学校門柱前で写真に写る主計中尉方と
違い准士官である主計兵曹長または進級に定年ま
で余裕のある年数を持つ主計上等兵曹が将来尉
官になり勤務する為、学びました。


上の修行証書とは別人ですが、たま
たま海軍経理学校前で写る主計士官
の写真がありましたので掲載しました。
この写真の方は、改正前の主計科の
白の識別線のある軍帽に白の識別線
のある中尉襟章をつけて海軍経理学
校正門の門柱の前で撮影されています







珍しい大型艦の物と
     思われる艦内鍵札の束




艦長室以外に将官用の鍵札が複数あるので駆逐艦以下の小型艦艇でなく
将旗を上げる事を前提とした軽巡洋艦以上の大型艦のものと思われます。
将官用は、戦隊司令官や艦隊司令長官が使用される物でしょう。敗戦で
退艦の時に関係者だった者が鍵を残し記念に持ち帰ったものでしょうか。
いずれにしても非常に珍しいものだと思います。艦長室用だけでも6枚の鍵
札があります。英国海軍をお手本とした帝國海軍の行き過ぎた貴族趣味の
一端を垣間見る思いもします。























海軍省が 東伏見 邦英 伯爵へ
        出した観艦式への招待状




旧皇族で旧華族の東伏見慈洽様です。戦前の
まだ仏門に入る前の時代のものです。














左の方は、元帥海軍大将・大勲位・功三級の東伏見宮依仁親王
です。右は東伏見宮の祭祀を受継ぎ、東伏見の家名を賜り臣籍
降下し伯爵東伏見邦英となった邦英王の学習院時代の画像です。



昭和六年に撮影された邦英王殿下(東伏見慈洽)の
 肖像写真原板(臣籍降下前の皇族として写る最後の写真)




臣籍降下の前に記念に写された写真の
の原版です。私など下々から見ると何と
も雅なお姿です!







歴史学者の角田文衛氏に宛てた
 東伏見慈洽(邦英王殿下)の 自筆書簡




昭和36年消印封筒に便箋4枚にペン書きされています。


角田 文衞氏は、福島出身の歴史学者です。大正2年生まれで
京都帝国大学文学部史学科考古学専攻卒業後、昭和17年ま
で日伊交換学生としてイタリアに留学。帰国後、昭和17年から
満洲に出征し、戦後シベリア抑留を経験し昭和22年に帰国。
すぐに大阪市立大学助教授に招聘され昭和28年に同大教授に
就任。(財)古代学協会・平安博物館館長兼教授。昭和43年に
文学博士号を取得(大谷大学)。その後、(財)古代学協会・
古代学研究所所長兼教授。同協会理事長・名誉会長を歴任さ
れ平成20年5月24日、急性呼吸器不全によって自宅に逝去さ
れます(享年九十五歳)。従四位に叙せられています。











西太平洋ガダルカナル上空で戦死された
  浦田 健治 海軍飛曹長の弔辞等紙物資料



















海軍士官用 艦内帽




金具等に錆がありますが
記名なく保存状態も良い
方だと思います。









海軍兵学校生徒の体操帽(四級)




こちらは細線二本、4級の体操帽です。







靖光の銘のある短刀と
    極太の海軍士官短剣の拵















靖光の入った海軍士官短剣と比較です。
どちらも同じような極太の将官が持つような拵えです。
短刀は、似ているような似ていないような良く判りま
せん。


拵えは弄ってあるのが判ります。金具は
錆止めで光らせています。まあしかしこれ
だけ太身の拵えも珍しいものです。









海軍 三十五年式小銃の銃遊底部分
    (円筒、安全子、撃茎のみ)二点分




珍しい三十五年式小銃のボルトアクション部分です。
明治35年(1902年)制定で主に海軍陸戦隊用に作ら
れた仕上げの良い小銃です。三十年式小銃をベース
に有坂大佐が三十年式同様に作りました。生産数は
僅かに3万6千挺で一部、タイへ輸出された事から現
存する物はタイからの里帰り品が多いようです。
諸元は三十年式とほぼ同じです。




上の物と別の遊底部分です。こちらも上と同様で撃茎バネは
ありません。撃針のある撃茎と安全子、槓桿のある円筒だけ
です。上のような歪みはありませんが、ボロボロです。













坂本 伊久太 海軍中将が
   いただいた恩賜の銀製煙草ケース




坂本伊久太中将は熊本出身で海兵36期、海大甲19期
開戦時は、鎮海警備府司令長官の地位にありました。
昭和17年9月15日に軍令部出仕となり、12月15日に
待命。21日に予備役になっております。戦後も無事に
生き延びられ昭和49年1月26日にに86歳で逝去されて
おります。
しょう
日付の昭和12年12月に御賜でいただいたシガレットケース
ですが、この時の坂本閣下は、呉警備戦隊司令官の任に
あった時で海軍少将時代でした。前職は第二水雷戦隊司令
官です。この呉警備戦隊司令官の後は、佐世保海兵団長、
海軍水雷学校校長を歴任して昭和15年に海軍中将に昇進
しています。







敗戦時の内閣総理大臣であった
 鈴木 貫太郎 男爵(予備役海軍大将)の
   海軍関係の研究所への視察の生写真




国民服姿で視察する鈴木貫太郎総理大臣です。
場所は、恐らく海軍技術研究所と思います。時期
は、三種服の海軍軍人の姿と国民服の鈴木貫太
郎予備役海軍大将の総理大臣の前職である枢密
院議長職を考え合わさせれば第42代総理大臣の
職にあった昭和20年4月7日から8月17日の間と
思われます。後半の廣島、長崎の原爆投下などで
御聖断を仰ぎ敗戦に至った時期でなく4月から5月
などの比較的、就任して間もない頃と考えます。
三種軍服姿は、技術研究所長の徳永栄海軍中将
と総務部長であった藤田健六海軍(機関)少将と
思われます。他に民間人の研究員や職人のような
雇人も写っています。












            〜鈴木貫太郎 海軍大将〜

                  (略歴)

   従一位 勲一等 功三級、男爵


   大阪出身、慶応3年12月24日生

海軍軍人として最高位の大将にまで登りつめ連合艦隊司令長官
と軍令部総長の要職を全て経験した余りにも有名な人物です。
日露戦争では、駆逐隊司令としてバルチック艦隊の残存戦艦3隻
を沈めた実戦派としてもその手腕を高く買われた軍人でした。また
陛下の信任厚く乞われて侍従長となる為、海軍大将で予備役とな
ました。2.26事件では安東大尉の部下の将兵の銃弾を左脚付
根、左胸、左頭部に三発浴びながらも気丈に会話を続け運び込ま
れた日本医大病院では出血多量で一時、心停止するも蘇生した
化け物のような体力と強運の持ち主でありました。小磯内閣総辞職
により枢密院議長から第42代内閣総理大臣となり昭和20年4月7日
より同年8月17日まで敗戦を決定した内閣を維持した。東久邇宮稔
彦王内閣の時に再び枢密院議長の職に就くが公職追放により辞職
。昭和23年4月17日、82歳で逝去されました。江戸時代生まれの最
後の総理大臣でありました。





別に入手した写真ですが大佐時代(参謀)の鈴木貫太郎大将
に不明の参謀中佐、右端の参謀中佐は小笠原長生中将です。
中々、珍しい写真です。



敗戦時の総理大臣鈴木 貫太郎 海軍大将の
 横一行書 紙本 マクリと一行書のマクリです。 


横一行書です。「天雲海闊」とあります。
サイズ:約33× 130 cm。経年のため、多少シミ・折れがあります
がマクリとしては、保存状態も良い物です。紙本、裏打あり。


一行書で「修徳 立義」とあります。
サイズ:約44 × 170 cm。経年のため、多少シミ・折れがあり
ますがマクリとしては、保存状態も良いです。紙本、裏打あり。







山本GF長官の海軍少将時代の名刺













米内 光正 海軍大将の書(掛軸)













航空母艦で着艦姿勢修正用の手持ち信号




空母艦載機の着艦姿勢の修正用に使用された手持ち
信号と謂う事で入手しましたが、定かではありません。
日米戦の開戦の時には既に日本の空母では手旗信号
から蒸気を吹出しを利用した発艦時の風光指示器が既
にあり、着艦時も着艦制動索の手前に着艦誘導灯があ
りました。もしこれが使われていたとしたら…この着艦誘
導灯が導入される前の古い時代だと思われます。
1つには日の丸、もう一つにはガラス状の反射材が塗ってあります。
棒の長さは45.5センチ、直径は20センチです。







平田主計少佐の写真から
良い笑顔の海の男達です。
ペンネントから大日本軍艦新高と読めます。

上海事変で出動した海軍陸戦隊の記念写真です。




ペンネントを読むと大日本軍艦陸奥と読めます。




海軍兵学校や海軍機関学校、舞鶴分校などの名簿は
戦記・資料を紐解く上で必携の品です。陸海軍の将官
名簿と共に各商船学校の出身者名簿も無くては、なら
ないものです。



なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!