旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Um















Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








為本 博篤 海軍主計中将
  の珍しい海軍経理学校の
   卒業証書等や勲記など紙物資料




海軍経理学校の卒業証書と乙種学生の修業証書です。
為本閣下は、明治26年10月24日生まれ で高知出身。
海軍経理学校3期を首席卒業のエリートです。大正9年
海軍主計大尉に昇進、 須磨主計長兼分隊長を最後に
艦上勤務から離れて燃料廠会計部部員、経理校選科
学生、経理校教官兼監事など歴任し、主計少佐で海軍
経理局の局員、艦本造船造兵監督会計官になり英国
出張など経験しています。昭和5年に中佐、軍令部出仕
経理局一課、 経理局局員、教育局局員、経理校教官
などを繰り返し海大教官も勤めます。昭和10年にロンド
ン会議全権随員として参加中に大佐に昇進。帰朝後は
横工廠会計部計算課長や横須賀経理部第一課長を経
て経理局第一課長、支那方面艦隊主計長、昭和16年に
海軍主計少将。 第1経理部長、第1軍需部長など歴任。
更に上海地方運輸部長、横鎮主計長、艦本会計部長と
キャリアを積んで昭和20年5月に海軍主計中将。艦本会
計部長と海軍省出仕の経理局臨時調査班長を最後に
同年11月30日に予備役。昭和34年6月29日逝去(享年
65歳)。



尚、御子息の為本博信氏の海軍兵学校の生徒軍衣を
以下のバーナーをクリックで掲載ページが開きます。

























川村 久三郎 海軍主計大佐の一種軍衣
    
      (海軍経理学校第9期)






この軍服の所有者は海軍経理学校第9期の川村久三郎 海軍主計大佐です。
卒業時の序列は19名中7番です。
海軍物の高名なコレクターでもある大先輩より譲り受けました。その時の
大先輩の説明文です。海軍主計大佐第一種軍装です。識別線幅の広い
旧型襟章が帝国海軍華やかなりし頃を彷彿とさせます。仕立ては水交社
特約店の中でも高級士官の用命が多いとされる山城屋で海軍経理学校
第9期川村久三郎氏着用のものです。経年による劣化は認められるもの
の目立った虫食い箇所や破れ箇所などは認められません。他兵科にくら
べ定員数のきわめて少ない主計科は艦隊や実施部隊の中にあって必要
不可欠かつ特異な存在でした。法律、経済を知悉しその職掌範囲は糧食
、被服の管理から部内の庶務にいたるまで広範囲におよぶ。軍人として
そして一方では文官としての側面を持つ彼等。それゆえ軍令承行令では
下位の序列にあまんじつつも先の大戦では慫慂として戦いに殉じた将兵
も少なくない。少数精鋭。かつての栄光をとどめた軍服。…この美しき説
明・美文に氏の海軍に対する並々ならん愛着を感じます。








以下は、戦後に川村大佐が(財)水交会の機関紙『水交』に寄稿されたものです。









明治期 海軍士官短剣




明治期の海軍士官短剣です。もっともスタンダードな
タイプですが昭和の敗戦期近くの粗末な短剣を見た
後に手にすると非常に良い造りに思えます。






刀身は後家あわせです。元々、模造刀身が入っておりました
が所蔵していた短剣一振り上手く差し替えできました。
無銘の短剣も元々海軍短剣用でしたが外装がダメで
柄もそうですが、鞘も合うものが中々出てこず八振目
でやっと目釘穴も鞘も嵌り嬉しい限りでした。







海軍太刀型軍刀(天照山作) 不銹鋼(ステンレス刀)
       (昭和12年制定海軍制式軍刀)




天照山の紛れも無い実物ステンレス刀です。現代の刀剣界は
この刀に登録証を出しません。法律が如何に矛盾に満ちた悪法
であっても法は法です。国民の一人として守らねばなりません。
折角、戦後60年以上守られてきた不銹鋼の海軍刀ですが心を
鬼にし15cm未満の14cmで切断していただき譲り受けました。
下は、切断前の写真です。
刃長 63,8cm
元巾 3,12cm 先巾2,28cm
元重 0,8cm  先重0,55cm
反り 0,9cm
重量 760g
大東亜戦争に於いては、陸海軍ともに戦地での塩害、湿気、降雨などによる
刀身の錆は軍刀所持者の大きな悩みでした、個々に砥石を持参する事も出
来なく、軍人の魂でもあった軍刀身を錆び放題にする事も出来なく、其の維持
管理、手入れには大きな犠牲を払ったものでした。当事の陸、海軍の有識者、
化学者、刀剣専門家により国家の総力を挙げ、折れない・錆びない・良く切れ
るを主眼に研究開発された【天照山作】です。不銹鋼(ステンレス)刀の優秀
性は戦時中に証明されました。それは寒冷地向けの振武刀や満鉄刀も同様
です。残念ながら現在の銃刀法では所持が認められず廃棄されたり、この刀
と同様に断腸の想いで合法的に切断処理されます。


















当サイトのリンクでもご紹介させて頂いて
お世話になっておる軍刀の専門サイトとし
ピカイチのHPです。耐錆鋼刀 (ステンレス
刀)や不錆鋼刀に関して詳細な説明が記載
されております。御興味のある方は上記バ
ーナーをクリック下さい。







珊瑚海海戦で戦死された空母『翔鶴』の
 急降下爆撃隊(九九式艦上爆撃機(指揮機))に
  偵察員として搭乗の小泉 精三 海軍少佐の資料




真珠湾攻撃を戦い珊瑚海海戦で戦死された英雄です。
東京開成中学出身で海兵66期の小泉大尉です(戦死
後、一階級特進で少佐)。
竣工直後の空母”翔鶴”(横須賀)
九九式艦上爆撃機

上は海兵入学時の記念の集合写真と思われます。
まだ全員が生徒用の軍服でなく学生服や和服姿で
す。下は任官後の術科学校での記念撮影のような
ので霞空の飛行学生時代と思われます。
飛行学生の課程で偵察を専攻。真珠湾攻撃では第一次攻撃隊、第二
集団急降下爆撃隊。空母”翔鶴”よりの九九式艦上爆撃機(指揮機)に
搭乗する。珊瑚海海戦(昭和17)でも空母”翔鶴”艦爆隊のまま九九式
艦上爆撃隊(指揮機)に搭乗して戦闘に参加、飛行隊長・高橋 赫一
大佐(戦死後に特進)と共に戦死されます。


同期生の一部で集まった時の記念写真と思われます。
上は、純白が眩しい二種制服姿の小泉少佐です。
下は、少尉候補生時代の少佐です。


臂章から海軍中尉時代と判ります。真ん中で座られて
いる飛行服姿の方が小泉少佐です。下は芸者遊びの
記念写真でしょうか。若いですが明日をも知れぬ身の
上では、遊べるうちに遊ばないと…の気持ちは強かっ
たと想像します。よく遊びよく学びよく戦ったものと思い
ます。


戦死後に海軍省から実家に郵送された書類関係です。




少尉任官から大尉で戦死し少佐に特進するまでの全てです。




真珠湾を目指す南雲機動部隊…写真は空母”瑞鶴”
から写した前方を行く空母”赤城”です。
真珠湾攻撃へまさに飛びたたんとエンジンを回す
空母”翔鶴”の零戦隊の写真です。
真珠湾上空に突入した翔鶴攻撃隊の九七式艦攻!
黒煙は対空砲火によるもの!
真珠湾攻撃の英雄です。海軍省から遺族に
贈られた山本長官からの感状の写しです。
昭和17年1月20日、ラバウル攻撃中の翔鶴の艦爆
昭和17年2月6日、ハワイ海戦凱旋祝賀午餐会(於:横須賀水交社)
昭和17年3月、翔鶴ガンルーム士官達。
各科の中尉以下〜候補生まで。
インド洋セイロン島を目指す機動部隊
昭和17年3月下旬、インド洋作戦に向かう機動部隊。
先頭から赤城、蒼龍、飛龍、比叡、霧島、榛名、金剛
瑞鶴、翔鶴の当時、世界最強の艦隊です。
翔鶴左舷前部機銃座より見た機動部隊の勇姿!!
翔鶴より発艦する九九艦爆!
昭和17年4月9日、撃沈する英空母『ハーミス』。
この攻撃に翔鶴より18機が攻撃に参加、実に13
発の爆弾を命中させています。


昭和17年5月8日珊瑚海々戦で米機動部隊の
上空で突入寸前の翔鶴の九九艦爆!
昭和17年5月7日、まず最初に軽空母”祥鳳”が
敵の餌食となり雷撃を受けて撃沈します。この日
翔鶴等から発進した第一次攻撃隊は、空母群と
見間違えた駆逐艦”シムス”と給油艦”ネオショー
”を攻撃し敵空母群を発見できませんでした。ここ
で日本側は危険な薄暮攻撃を実施します。この時
第二次攻撃隊の指揮を執ったのが高橋赫一少佐

(小泉大尉が偵察員を勤めた隊長機)です。この
日、高橋隊長機は暗闇で敵空母”レキシントン”を
翔鶴と誤認したといいます。
珊瑚海々戦で命中弾を受けもうもうと煙を
吐きながら回避運動を行う空母”翔鶴”。こ
の一戦で搭載機の9割を失ってしまいます。
下はダメコン中の翔鶴の飛行甲板です。

空母”翔鶴”飛行隊長の高橋 赫一 少佐
です(画像は大尉時代)。この小泉大尉
の搭乗した隊長機の隊長でありパイロット
でした。海兵56期、徳島出身。小泉大尉が
中尉時代にに練成した宇佐美空の飛行隊
長も高橋少佐でした。同時の移動で宇佐空
より昭和16年8月20日付けで翔鶴飛行隊長
となります。以降、真珠湾攻撃・ラバウル攻
略、セイロン沖海戦、珊瑚海海戦と小泉大尉
と戦いました。運命の昭和17年5月7日は、
薄暮攻撃の第二次攻撃隊も会敵しえず空振
りに終わります。翌8日は朝から両軍とも敵を
発見し互いに猛攻撃が開始されます。高橋
隊長機は、敵レキシントンを攻撃後、戦果確
認と友軍機との集合待ちの為、上空を旋回
中に、米戦闘機の襲撃を受けて撃墜されまし
た。戦死後、高橋少佐は二階級特進し海軍
大佐に昇進され小泉少佐と共に軍神に列せ
られました。
九九式艦上爆撃機


雷撃と命中爆弾を受けて炎上する米空母”レキシントン”


空母”翔鶴”より小泉家に返還された遺品目録です。








昭和10年希望に胸輝かせ憧れの海兵66期に入学。
その3年半後に海兵を卒業し少尉候補生になり練習
艦隊にて遠洋航海に出ます。そして更に4年後に珊瑚
海も美しい海に散りました。短い青春です。


海兵66期会の会報です。戦死された同期生の名前や
最後の様子また想い出が寄せられています。
真珠湾で戦い、ラバウル攻略戦を戦い、インド洋に進出しては
セイロン沖海戦で英空母”ハーミス”に重巡”コーンウォール”と
”ドーセットシャー”を撃沈させました。そして運命の珊瑚海の海
戦では、井上成美中将隷下の機動部隊の三隻の空母(正規空
母”翔鶴”、”瑞鶴”、軽空母”祥鳳”が基軸でした。対する劣勢の
米豪海軍の連合軍機動部隊はF.J.フレッチャー少将の指揮する
二隻の正規空母”レキシントン”と”ヨークタウン”を主軸とする艦
隊でした。昭和17年5月7・8日の珊瑚海々戦では、有史以来初
の空母機動部隊VS空母機動部隊の戦いとなりました。結果は、
日本側は軽空母”祥鳳”を失い、空母”翔鶴”が命中弾三発を受
けて中破。連合軍は空母”レキシントン”を失い空母”ヨークタウ
ン”を中破します。戦術的には軽空母しか失わなかった日本側の
勝利となるのでしょうが…この戦いで失った艦載機は81機、この
中には小泉大尉の機も含まれます。米軍の艦載機損失は66機
でした。尚、中破したヨークタウンは乾坤一擲のミッドウェー海戦
に出撃したが、翔鶴は修理が間に合わず僚艦の瑞鶴は損傷が
無いものの艦載の航空隊の再編成が間に合わずミッドウェイに
参加できませんでした。こうした経過を考えMO作戦の無期延期
となった事を併せれば大きな戦略上の敗戦であった事が良く判
ります。





海兵生徒時代に家族へ、霞空の飛行学生時代(少尉)に
駆逐艦配属の同期生へ、宇佐美空(中尉時代)に知人へ
送った書簡類です。
多くが家族・親族間の私信です。一族の歴史・背景の一部が浮き彫りとなります。
このサイトには余り関係の無い部分は割愛していますが、現在の家族像と照らし
合わせると家族の絆の強さ愛情の強さが戦前が非常に顕著に強く、現在が希薄
化している事を感じさせます。


左は海兵入校前と思われます。右は海軍中尉時代です。
海兵の生徒時代です。まさしく青春グラフティーといった感じです。
最上級生になる前の2号生徒の気持ちを素直に吐露した
手紙が海兵の便箋に書かれて母上に送られています。


この写真の裏面の記載は、『八雲湾口を出でんとす、我々三号力漕して
之に追いつかんとしています。二号生徒達が艇首に立つて十六分隊の
旗を振り乍ら、旧十六分隊一号の候補生に別れを告げて居る所です。
練習船の上でも候補生が防止を振っておりました。』と情景が描かれて
います。
バリバリの少尉殿の芸者遊びです。
任官後のご家族との写真です。夏の二種
姿が凛々しい好青年です。


若い中尉達は、まだ遊びたい盛りといった感じです。これから
程無くして実戦に突入し多くが還らぬ人となりました。
戦後、御遺族である母上様は東京から山梨へ
移り住まわれたようです。昭和37年の第二回
慰霊祭(第六十六期会)案内が幹事より届いて
います。







昭和21年3月18日、台湾より帰国・復員した
         徳永 智行 海軍少尉の紙物資料




四等水兵から叩き上げで士官になった徳永
少尉の復員前後の紙物資料です。高雄より
大竹に帰国上陸しております。敗戦後は、
こうした陸海軍の復員兵がそれこそありった
けの船で日本に向け帰国しています。現地に
て戦病死は勿論、謂れ無き罪でBC級戦犯の
汚名を着せられ故国の土を踏む事が出来ず
無念のまま亡くなった陸海将兵も大勢おられ
ましたので無事に復員できた方は幸運であり
強運の持ち主であったと思います。約12年の
軍歴は、日本の満州事変以降敗戦に至る所
謂、十五年戦争の大半が被ります。大東亜戦
争の全期間で徳永少尉は外地にあっても戦闘
を行わず帰国をしております。非常に幸運であ
り強運の方です。上の身分証書の写真は、下
に拡大しましたが、兵曹長時の写真を使われて
おります。




復員の時に携行品の申告に使った証明書と思います。


こちらも帰国の際の検疫証明です。


敗戦までの軍歴を記載した履歴書です。
昭和9年6月に佐世保海兵団へ入団する事から徳永氏の軍歴は
始まります。大東亜戦争までは主に軍艦勤務が多く”那智”、
”出雲”、”阿武隈”などに乗組、途中、海軍航海学校に練習生で
入校。短いですが2週間ほど海軍病院にも入院しています。大東
亜戦争の開戦の直前から谷田部海軍航空隊附となり以降、海軍
航空隊基地勤務が敗戦まで中心となります。昭和17年9月28日
より第21航空戦隊司令部附です。21航戦は元々世界初の渡洋
爆撃を行った一連空(戸塚道太郎司令)の流れから昭和16年に
11航艦を編成する際に改名し出来た航空部隊です。徳永氏が赴
任した時の司令は二代目の市丸利之助少将で海軍航空の草分
けのパイロットで硫黄島で戦死した海軍側の最高司令官です
ここで約10ヶ月間、ラバウルで警備任務をされています。
昭和18年9月1日に創設されたばかりの第27航空戦隊
司令部附となり横浜に1年1ヶ月勤務します。市丸少将
が司令となる前の三代目司令の松永貞一少将が司令
です。27航戦が横浜から硫黄島に進出する前に上等
兵曹から兵曹長に昇進します。最後の27航戦司令とな
る市丸少将に再び仕えますが兵曹長昇進の為、佐世保
海兵団准士官学生を9月1日命ぜられ、そのまま19年暮
まで佐世保鎮守府附となります。そして12月20日に台湾
海軍航空隊附となり台湾に渡ります。見事に死の戦場で
ある硫黄島から准士官への昇進で本土へ運命を切り替
えています。昭和20年6月15日、台湾航空隊より分割し
て作られた乙航空隊の南台海軍航空隊(伊藤信雄司令)
附となり高雄を拠点に復員まで駐留しています。


敗戦後、昭和25年9月17日の記載があります。
就職用の履歴書の下書きのようです。ここから
復員後は麻生鉱業の上三緒坑(福岡県飯塚市
)で炭鉱夫として働き、社内技能養成課程修了
を契機に組合役員になり主に賃上げ交渉を担当
との書き込みがあります。昭和27年に依願退職
後、嘱託となり…そこで記載が終わっています。
また海軍に入る前は郵便局員をしておったよう
です。


兵曹長の時に27航戦に提出した履歴書です。27航戦の付箋が
あり佐世保海兵団にて准士官学生被命にて19年10月5日退隊
転任の記載が読めます。
戦務甲で戦闘行動に軍歴の中であったのは僅かな時間です。
大東亜戦争ではラバウル警備にあたった10ヶ月間、支那事変
では、上海で軍艦”出雲”乗組時に揚子江流域警備の3ヶ月間
となります。これ等はいずれも主体的な戦闘行動には関与して
おらず比較的、第一線の戦場に近い地帯での後方任務です。


敗戦後に管理する国民党軍に出した軍歴です。


一緒に折りたたんであったものです。







嗚呼、栄光の四五口径
       三十糎主砲の火薬袋




日清・日露戦争を戦い抜き勝利し栄光の歴史の礎を刻んだ六六艦隊
その中心となったのが戦艦”三笠”です。その勇姿は唯一現存する
帝國海軍の艦船として横須賀にありますが、この三笠をはじめ以降の
多くの主力戦艦が四五口径三十糎砲を主砲としました。戦艦 摂津 級
( 摂津, 河内 )が五十口径三十糎砲を登載し、次世代となる巡洋戦艦
金剛 級 (金剛 ,比叡 ,榛名, 霧島)や戦艦 扶桑 級 (扶桑 、山城 )、
戦艦 伊勢 級 (伊勢 、日向 )等が四五口径三十六糎砲を主軸とする
まで長くその栄光の主砲として任を果たして参りました。その未使用の
火薬袋です。


戦艦 三笠


四五口径三十糎主砲を登載した戦艦達を一部紹介します。
                戦艦 伊吹                      戦艦 香取     
               戦艦 筑波              戦艦 鹿島
          戦艦 生駒             戦艦 朝日
             戦艦 敷島                    戦艦 富士







三菱水島航空機製作所 組立ライン工員の名札




真鍮製の三菱マーク入り名札です。これは倉敷にあった、三菱水島航空機製作所
の「零戦」組立ライン工員さんの名札ということでしたが、御存知のように一式陸攻
と紫電改を生産した事で有名な工場です。従って零戦の組立ラインでなく紫電改ま
たは一式陸攻の組立ライン工員の名札と思われます。
昭和20年6月22日、グアム島より飛び立った米軍のB29 110機により、岡山県
浅口郡連島町と児島郡福田村に所在していた三菱重工業水島航空機製作所は
大空襲を受けました。投弾時刻は午前8時36分。記録によると、1時間足らずで
計603トンの爆弾を投下しました。 この爆撃で、水島航空機製作所は工場の建
物10棟が全壊、18棟が半壊、製造中の航空機数十機が破壊され、大工場は全
壊という壊滅状況に追い込まれました。当時の三菱水島航空機製作所では海軍
の一式陸攻や紫電改を生産しており、米軍が日本の軍需産業を破壊する目的で
行った空襲でありました。空襲時がたまたま休日であった為、犠牲者が奇跡的に
少なく済んだ事は、幸いでしたがそれでも…死者11人、重軽傷者46人、工場の
外でも農作業中に爆弾や高射砲弾の破片で死傷した民間人もおりました。
現在も三菱自動車工業水島製作所として生き残っています。
昭和16年11月、廃川地の葦原に三菱重工業水島航空機製作所の本工場建設工事
が着工されました。計画によると、工場(滑走路を含む)、厚生施設、社宅等を含む約
百万坪という広大な敷地を持つ巨大軍需工場でした。工場の建設は海軍省が、その
施設による航空機製造は三菱重工業が行うという”官設民営”のスタイルでした。ここ
で敗戦までに生産された航空機の総数は、522機。その内訳は、一式陸上攻撃機が
513機、紫電改が9機でありました。













保存状態が悪く程度の良くない海軍通信優等章です。



陸海軍将校婦人会正会員章




海軍兵学校や海軍機関学校、舞鶴分校などの名簿は
戦記・資料を紐解く上で必携の品です。陸海軍の将官
名簿と共に各商船学校の出身者名簿も無くては、なら
ないものです。



なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!