旧軍関連・戦前資料収載品 
 (軍装品...etc) Part Ul















Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








第三艦隊(小沢機動部隊)巡洋艦戦隊司令 兼
  軽巡洋艦”多摩” 艦長として昭和19年10月25日
   にエンガノ岬沖海戦で艦と運命を共にされた戦死
     された 山本 岩多 海軍少将の遺品(海兵46期)
            (従四位 功三級)




上の画像は大正12年頃の軽巡”多摩”


紹介しますとても古い大小のトランクのかつての持ち主だったお方は…
先の大東亜戦争で日本の為に日本人の為に亡くなられた大勢の英霊の
一人で軍神となられ今も靖国で日本を護って下さって居られる方でです。
レイテ決戦のエンガノ岬沖海戦で軽巡”多摩”を率いて戦い戦死された
山本 岩多 海軍大佐(戦死後、少将)の遺品です。
昭和18年12月に海軍大佐に昇進し第七駆逐隊司令から軽巡”多摩”艦長に
転じています。トランクの中身は以下で最後の正衣袴(中佐)と儀礼長剣、正
帽など一式と海軍大佐肩章が一対に…戦後に一緒にされたと思われる御子
息の海兵78期 山本 晧之助 氏の生徒肩章二対に従軍記章など六点です。





            〜山本 岩多 海軍少将〜
           
                 (略 歴)

        群馬県出身 海兵46期(112/124)

      (明治29年5月15日 - 昭和19年10月25日)



大正4年 3 月 31日 - 旧制栃木中学校卒業
大正7年 11月 21日 - 海軍兵学校(46期)卒業
              任軍少尉候補生・「常磐」乗組
大正8年  8月 1 日 - 任海軍少尉・「比叡」乗組
大正9年  8月 3 日 - 「朝潮」乗組
      12月 1 日 - 海軍水雷学校普通科学生
大正10年 5 月 20日 - 海軍砲術学校普通科学生
       12月 1日 - 任海軍中尉・「卯月」乗組
大正11年 5 月25日 - 海軍潜水学校普通科学生
      12月 1 日 - 「第43潜水艦」乗組
大正12年 6 月 25日 - 「梅」乗組
      12月 1 日 - 「第59潜水艦」乗組
大正13年11月 1 日 - 「呂60潜水艦」乗組
      12月 1 日 - 任海軍大尉・「磯風」水雷長兼分隊長
大正14年 6月 1 日 - 「早鞆」分隊長
大正15年 4月 1 日 - 「柳」乗組
      11月 1日 -「海風」水雷長兼分隊長
昭和2年 12月 1 日 - 「呂53潜水艦」乗組
昭和4年 3 月 15日 - 「呂14潜水艦」艦長兼「呂15潜水艦」艦長
              兼「呂16潜水艦」艦長
       11月 30日 - 「呂14潜水艦」艦長兼「呂15潜水艦」艦長
昭和5 年 11月 1 日 - 「樅」駆逐艦長
昭和 6年 4 月 15日 - 「栂」駆逐艦長
      12 月 1 日 - 任海軍少佐
昭和 8 年 5 月 1 日 - 「灘風」駆逐艦長
昭和10年 11月15日 - 「常磐」水雷長
昭和11年 12月 1日 - 「叢雲」駆逐艦長
昭和12年 7月 15日 - 「叢雲」駆逐艦長兼「白雲」駆逐艦長
      10月 20日 - 「叢雲」駆逐艦長兼「薄雲」駆逐艦長
      12月 1 日 - 任海軍中佐・「叢雲」駆逐艦長
昭和13年12月15日 - 「敷波」駆逐艦長
昭和14年 2 月 2日 - 「陽炎」艤装員長
       8月10日 - 「陽炎」駆逐艦長
      11月 1日 - 「鬼怒」副長
昭和15年 8 月27日 - 「剣埼」副長
      10月15日 - 佐伯防備隊副長
昭和16年 3 月5日 - 佐伯防備隊副長兼「釣島」艤装員長
       7月1日 - 第32駆逐隊司令
昭和18年 1月 6日 - 聯合艦隊司令部附
       1 月12日 - 第7駆逐隊司令
       5 月 1日 - 任海軍大佐
      12月15日 - 「多摩」艦長
昭和19年 10月25日 - 戦死、任海軍少将(享年48歳)


海軍中佐の正衣袴です。戦況の悪化で大礼服など正衣袴が
廃止となる前の最後に山本少将が使われたものです。


この佐官正剣隊ですが一見痛んでいるように見えますが痛みで無く
包んでいた紙が張り付いてしまった物が多いです。しかし全体には
使用感が強く正帽などはかなり擦り切れが見られます。海兵46期の
大正7年卒業で、少尉任官が大正9年です。この時から使用し階級に
合わせて袖線などを加線したと考えられますから…今から90年が経
過した正帽・正衣袴です。そう考えると保存状態は良好と考えられま
す。









      〜軽巡洋艦 多摩 〜

       ≪性能諸元≫

基準排水量 : 5,100トン
常備排水量 : 5,500トン
 全  長   :162.15m
 全  幅   :14.17m
 吃  水   :4.80m (常備)
 機  関   :オールギアードタービン4基4軸
               90,000 SHP
最大速力 : 36.0ノット
航続距離 :5,000海里 / 14ノット時
 乗 員  :450名
 兵 装  :50口径14cm単装砲7門
        40口径8cm高角砲2門
        53cm連装魚雷発射管4基
        五号機雷150個
搭 載 機 : 1機(改装後)
上の写真画像は、軽巡洋艦”多摩”のとともにアリュ−シャン作戦時の北方迷彩塗装。
昭和19年10月25日 - 「多摩」、エンガノ岬沖海戦で空襲により魚雷を1本受けて大破
単艦で退避中に米海軍潜水艦”ジャラオ” (USS Jallao, SS-368) の雷撃により魚雷
3本が命中し撃沈され乗組員は全員戦死しました。
上の衛星写真の矢印部分が多摩の沈没地点です。下は米潜水艦
”ジャラオ”(USS Jallao, SS-368)の写真です。
上は ”ジャラオ”なのですが戦後にガピー改造を受けた後の写真です。
以下は、”ジャラオ”ではありませんが一番当時の”ジャラオ”に近いバラ
オ級潜水艦の写真です・
下はレイテ沖海戦の全作戦図となります。山本大佐
以下の多摩は、下図の3番のエリアで囮艦隊となった
小沢機動部隊に随伴…小沢艦隊の空母4隻と共に25
日の8時15分に第1次攻撃隊180機の襲来で魚雷を1
本受けて大破した多摩は単艦で退避中に同日の23時
5分に米潜水艦の魚雷3本を受けて沈没します。単艦
の為…艦長の山本大佐以下全員が戦死し生存者は
皆無でした。

  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上下共に近代化改修を終えた昭和9年頃夏頃の多摩です。

特別大演習(昭和8年度)での多摩の艦尾の旭日旗
と夕日です。
多摩の煙突から前檣部の画像(昭和10年に舞鶴港にて)
上は多摩の後甲板で訓示を聞く乗組員。下は後檣直前の
14cm砲での砲術訓練の画像です。




少尉時代から長く使われたようで、手で持つ部分などが
擦り切れて淵の地の革張が見えています。










長く使われた士官剣帯です。




山本提督と御一家です。大佐時代ですので昭和18年5月
から戦死される昭和19年10月までの間に撮影された写真
であると思われます。
帽章に大佐の肩章です。肩章は殆ど使用感がありません。
大佐に昇進して約10カ月余りで戦死されております。






各種プラモデルでは水偵を1機搭載していますが…昭和19年の
最期となるレイテ沖の出撃では既に搭載をしなくなりました。


最後に使用されたままトランクに仕舞われていたものと思われます。



御子息(次男)の海兵78期508分隊の山本 晧之助
生徒の海兵生徒夏肩章です。…78期生は最後の
予科生徒であり昭和20434,048名の入校
式が海軍兵学校針尾分校で行われ、敗戦まで僅か4
ヶ月の海軍生活で終わりました。




山本 晧之助 生徒は、大分中の出身です。山本大佐は群馬出身ですが
昭和15年10月15日から昭和16年6月31日まで佐伯防備隊副長を勤め
ておられます。この時、御子息は大分中に入られ敗戦の年に海兵に入学
されたものと思われます。右上の画像は佐伯海軍防備隊司令部の当時
のものです。予め用意された夏肩章ですが…夏の二種軍衣が廃されて
全て草色の三種に統一されます。これは海軍全体がそうでした。そして
入学してすぐに敗戦です。使わず仕舞いの二組の肩章と思われます。




戦後の御一家です。次男で海兵78期生であった山本 晧之助 氏
は、日本郵船に勤務されたようです。







海軍乙事件で有名な851空の二式大艇
 一番機のパイロット機長で古賀 峯一 大将
  (連合艦隊司令長官)やGF要員七名とパラオ
   からダバオへ移動飛行中に低気圧に遭い運命
    を共にし殉職した 難波 正忠 海軍少佐と父君で
      難波 正 退役海軍中佐(海兵37期)縁の品々




難波正忠氏(海兵69期)の士官二種(夏)軍衣袴です。
難波 正忠 大尉(海兵69期:昭和16年卒)は、昭和19年殉職し少佐に
昇進しています。海軍乙事件(古賀峯一大将が搭乗していた二式大艇
が低気圧に遭遇し墜落、殉職した事件。その際、二番機に搭乗した
参謀長 福留 繁 中将はゲリラの捕虜となり機密情報(新Z號作戦計画
書、司令部用暗号書等)が漏れた為、米軍に回送された事件。)この
一番機を操縦して殉職されたのが難波大尉です。因みに御存知のとお
り海軍甲事件は連合艦隊司令長官 山本 五十六 海軍大将の座上した
一式陸攻機の撃墜事件を指します。)
あつらえ品で”難波”のネーム刺繍が軍衣の襟元と軍袴の
内側にあります。海兵69期(昭和16年卒)で任官後あまり
年功が少ない為か、胸に略綬・勲章ループの糸かがりは
ありません。美しい上下の夏軍衣袴です。

当時洗濯して畳んで収納されたままの状態です。
非常に程度が良い使用感の少ない品です。軍袴
の裾もホツレ破れなく美品です。当時の洗濯糊が
効いている上下完全揃いです。残念な事にクリー
ニング時に外された士官用釦がありません。


難波大尉が使用したカラー六点です。


これは、難波大尉が海軍兵学校生徒時代に自習室から
貸し出してもらった海軍ポケット年鑑ですが、ちゃっかり
自分の物として中に自分の名前を自筆で書いています。
何とも学生らしく微笑ましいものです。








海兵69期の卒業アルバムに写る
生徒時代の難波正忠大尉です。


こちらは、難波大尉が海兵生徒時代と卒業後の少尉候補生
時代に着用した一種軍衣です。初付けの少尉候補生襟章が
そのまま残っています。


少尉候補生の袖章はなぜか取られています。袖章の取り付け跡
(ミシン目跡)があり、袖の縫い合せ部に糸のほどけがあります。
ポケットに取り外された左右の少尉候補生袖章が入っています。
襟の黒蛇腹線にホツレがあります。左袖の内側に虫食いがありま
すがそれ以外に虫食いはありません。裏地にも破れなく兵学校時
代より頻繁に使用された軍服であることを考えるとまずまずの程度
だと思われます。。




少尉候補生の細い袖線で幅9ミリ位で、
長さ50センチ位あります。
難波少佐の父君、難波正中佐は海兵37期(明治42年卒)
で駆逐艦”矢風”の艦長をされておりましたが、昭和 3年に
42歳の若さでお亡くなりになっています。以下は、ありし日
の難波 正 中佐の縁の品です。



父君である難波 正 中佐
  (大尉時代)に記載された
    珍しい大正時代の艦長申継書




艦長が交代する時に記載した申継書です。
非常に珍しい物で余り見かけないものです。
惜しい事に艦名等の記載が一切なく坦々と
艦の現状等を記載してあります。
峯風型駆逐艦 ”矢風”(後の爆撃標的艦)の第八代艦長として
大正15年10月15日〜昭和2年12月 1日まで艦長職にありまし
た。この申継書は、この時のものです(少佐時代)。






こちらが大尉時代の父上の難波正氏です。画像は、
大正十一年十月一日に一等駆逐艦”野風”の進水式
に参列した帰り、海兵団の私室にて撮影されたもの
のようです。




開戦後、駆逐艦”矢風”は爆撃訓練の実験艦にされmした。昭和17年9月
より更に標的艦に類別変更されました。画像は戦後に浸水拡大より着底し
てしまった哀れな矢風の姿です。この矢風も昭和23年に解体処理されてい
ます。
      ≪現役駆逐艦時代の主要性能≫

排水量 (満載時) 1.650t
全長 102.6m
全幅 9.0m
喫水 2.9m
機関 2軸減速タービン, 4缶, 38.500shp
燃料 重油 395t
速力 39ノット
航続力 3.600海里/14ノット
兵装 12cm/45口径砲 4門, 7.7mm機関銃 2挺,
   53cm魚雷発射管 連装3基 6門, 機雷 20発
乗員 148名
尚、この駆逐艦”矢風”は、このすぐ下で紹介する
栗田健男中将が水雷長 として大正9年3月に着任
しております。
広東総領事の天羽英二氏(後の外務次官)から自宅
への招待状が大正12、13年で4通です。


広東沙面は、中国の広東省の広州市にある人工島の沙面島です。


中国広州時代 日本館の松岡チサと言う方は
広東沙面に新館を建てた時の案内状のようです。


大正13年3月、台湾軍司令官の鈴木荘六陸軍中将
から重砲兵大隊将校集会所への招待状です。
大正13年2月、島内 國彦 澎湖島偕行社長から
陸軍重砲兵大隊将校集会所への招待状です。
大正12年6月、外務省の官僚・打田庄六夫妻からの招待状


台湾高雄州知事(台湾総督府警務局長)
の富島元治氏からの招待状。
大正14年の難波少佐宛ての招待状です。
佐世保鎮守府司令長官 伏見宮 博恭王
(皇族、元帥)からのものです。演奏会も開
かれたようで演奏曲目の紙も付いています。
指揮者は近藤信一軍楽特務少尉です。










少尉候補生時代の写真です。
礼装で写真撮影されています。








中々の二枚目です。今風で謂うとイケメン
とでもいうのでしょうか。御子息の正忠氏
も凛々しい二枚目だったと想像されます。


御家族で写された写真のようです。


御親戚の海軍特務士官の方のようです。
下の画像は良く判りませんが…神社仏閣のような
場所で聴衆に向かい講演をしているのか講話をし
ているよような感じの写真です。
親子鷹で二代に渡り若くして国に命を捧げた
生粋の海軍々人・難波親子の縁の品でした。
            ↑
上のバナーをクリックすると後年、追加で
入手した難波 正忠 少佐の品を収載した
ページが開きます。


当サイトの掲示板より難波中佐の在職中の病死に関しての情報が寄せられました。
海兵三七期の会誌より(10代大学生様からの情報提供です)。以下、

 難波 正 君

右第四駆逐隊帆風駆逐艦長トシテ勤務中(同隊ハ佐世保ニテ修理中ナリシ)十二月
五日夕刻上陸下宿ニ於テ卒倒十二月十日死亡セラル病名脳溢血、夫人ハ御臨終ニ
間ニ合ヒシモ令息ハ間ニ合ハザリシ茲ニ哀悼ノ意ヲ表ス







あのレイテ沖海戦で謎の反転で有名な
   栗田 健男 海軍中将の遺された旧蔵品




いずれも栗太閣下の旧蔵の品です。写真集の方は、
昭和三十五年(1960年)出版共同社より初版発行の
写真集 帝国海軍≠フ上巻です。 開業医で当時
艦艇写真収集家として有名だった朝長溶氏の膨大な
コレクションを本にしたもので、下巻には駆逐艦・潜水艦
等が収録されております。 出版に関わった方かどうか
は不明ですが海兵第七十期の白石少佐から栗田閣下へ
の贈呈の手紙が付属しています。 
恐らくは、栗太閣下の手書きと思われる終戦の詔の
手書きの写しです。
昭和二十年八月十四日の日付が示すように終戦の詔書≠ナす。 
官庁に出回った公文書コピーなのか、それともご本人が写文された
のか詳細は不明です。 栗田中将の旧蔵の蔵書の中からでてきたも
のです。


在りし日の栗田中将です。
昭和三十二年(1957年)に「文芸春秋」に掲載され、
その年の愛読者賞を受賞した小論文戦艦「三笠」の
光栄と悲惨≠ナす。伊藤正徳氏がかねてより親交の
あった栗田閣下に贈呈された非売品です。 


海兵70期の白石東平少佐(京城中出身)が栗田閣下に送られた
手紙が残っています。白石大尉(当時)は、レイテ沖海戦では、
駆逐艦『磯風』で水雷長を勤めていました。栗田艦隊の一員である
駆逐艦の水雷長が大和、武蔵を主軸とする殴りこみ艦隊の司令
長官に戦後に送った手紙です。戦艦五隻、重巡十隻、軽巡二隻、
駆逐艦十五隻、水上艦艇三十二隻の大艦隊は、航空兵力を欠い
ては、いましたがまさしく連合艦隊主力そのものでした。




手紙の送り主の駆逐艦『磯風』で水雷長 白石大尉(当時)が
昭和19年10月21日1200頃 ブルネイ泊地で撮影した戦艦
「長門」です。給油の為、泊地を移動中の駆逐艦「磯風」より撮
影した一枚です。
昭和十九年10月中旬 リンガ泊地 駆逐艦「磯風」より同じく白石東平大尉が
撮影
した写真です。第十戦隊旗艦として隷下の駆逐艦を率い、最後の決戦に備
えて訓練中の軽巡洋艦「矢矧」が中央に見えます艦首右遠方に駆逐艦一隻を
はさんで停泊しているのは姉妹艦の第二水雷戦隊旗艦の軽巡「能代」です。
こちらもレイテ沖海戦で駆逐艦”磯風”水雷長白石大尉が
撮影した…まさに沈まんとする戦艦”武蔵”です。艦首がか
なり沈下しているのがわかります。日没直前の午後6時に
撮影した武蔵の最後の姿です。この時点で旗艦”大和”か
ら『全力をあげて付近の島に座礁し陸上砲台たらしめよ」の
信号を受けて艦首を島の方向に向けて約6ノットで微速航
行中であります。このあとに機関が停まってしまい(艦首が
8〜10米、下がった状態)、艦を駆逐艦で曳航するしかな
いと艦長が決断し総員が上甲板に上がり左舷側の重量物を
右舷に移す作業を開始した時点で左舷への傾斜が12度と
記録されています。しかし移動作業の効果は無く、傾斜が
30度にならんとした頃、猪口艦長が加藤副長に手帳を手渡
して『これを連合艦隊司令長官に渡してくれ』と言い残して
艦長室に入りカギをかけます。この艦長の決別で、加藤副長
が後甲板に『総員集合』を下命し軍艦旗を降ろしたのが既に
午後7時30分に近い頃です。この30分〜35分後に沈没し
たされています。







軍医が使用された夏服型士官作業服




所謂、茶褐色葛城木綿織の夏型作業服です。昭和17年10月以降の
改正で褐青色の士官作業服が新調するまで広く使用されました。艦隊
勤務で甲板士官が規則でなく慣習として愛用され、甲板士官のトレード
マークの軍装といえました。
日露戦争の陸戦重砲隊の使用に遡るこの作業衣は汚れが
目立つ二種(夏季)制服の代わりに明治後期より航海中や
外地・遠征地での使用が認められました。葛城木綿織の作
業衣は繰り返しの洗濯や酷使にも耐え、特に汚れやすい環
境にある機関科士官には重宝されました。一般に肩章留め
がありますが、甲板士官の多くは肩章を略し裾をまくり裸足
で脛を出す姿から”ニワトリ”と呼ばれてもいました。
上下揃いの同一人物(軍医)の品です。


所持者だった方の記名があります。







海軍士官用の陸戦事業服(軍衣)




海軍主計少佐だった方の所持していた海軍士官用の
陸戦事業服です。残念なことに軍衣のみで軍袴はあり
ません。
前釦が5個で、襟ホック式になっています。


腰物入れが大型の貼り付け式のものです。


薄く記名が読めます。北◎です。







永野 修身 元帥・海軍大将
    の直筆二行書と書(掛軸)












元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級。
A級戦犯として東京裁判中に獄中死。余り
にも有名な方ですのでこれ以上の説明は
割愛します。



敗戦後は、A級戦犯とされ巣鴨プリズン内で肺炎で
獄死されますが敗戦前までは、元帥に列せられ帝国
海軍史上、一人で海軍三顕職(海軍大臣、連合艦隊
司令長官、軍令部総長)を全て経験した唯一の提督
として評価と人気は低いものの絶頂を極めた軍人と
言えると思います。









内閣総理大臣・海軍大将 岡田啓介
          の 肉筆書簡 合計七通




明治44年2月13日消印封筒入り毛筆23行
◆岡田啓介

軍人・政治家。福井県生。海軍大将・軍事参議官となり、のち海相・首相となる。
二・二六事件の時、首相であったが難を逃れた。内閣総辞職後重臣となり、首相
の銓衡にあたった。昭和27年(1952)歿、84才。


岡田啓介の肉筆書簡6通です。すべて和紙に毛筆墨書。3通は封筒
入り、残り3通には封筒がありません。日付の確認できる最も古いもの
が装甲巡洋艦『春日」艦長時代の明治44年。新しいものは、終戦直後
の昭和21年で、この封筒には進駐軍の検閲印があります。







GHGの検閲印が残っています。




今も郷里の福井県福井市には
銅像が故郷を見守っています。







戦死されたイ-61潜水艦の水雷長
 元久岩美 海軍少佐の海兵生徒時代の
            生徒被服物品取扱手帳




海軍兵学校入校時に被服・物品と共に支給される生徒被服物品取扱
手帳です。被服定数表、学用品日用品、共用物品等が明記されてい
ます。海兵入学卒業者の数が少ない事や多くが戦災で消失したりや
長い歳月の間に消失したりで、下士官兵の被服物品取扱手帳などに
比べると数が少ない品と言えます。


この手帳の所持者だった方は、元久 岩実 海軍少佐(海兵62期の昭和
9年卒業)です。伊61潜水艦の水雷長として壱岐水道にて戦死されてお
ります。下の画像がイ-61です。イ−61の最期は、昭和16年10月2日に
特設潜水艦母艦(第5潜水戦隊旗艦)”りおでじゃねいろ丸”とともに
佐世保から内海西部に回航中、壱岐水道東口烏帽子島灯台の2537nm
で反航する特設砲艦”木曽丸”に左舷後部を衝突されて沈没しました。
当時、水没したイ-61には、第29潜水隊司令 久米 幾次(海兵46)大佐が
乗艦中でした。また艦長 広川 隆(海兵51)中佐以下70名が戦死しました
。尚、航海長以下2名のみが救助されています。
この海大4型の潜水艦は、伊61、伊162、伊164の三隻の
同型艦がありますが、この伊61は、最も不吉と言うか呪わ
れたような潜水艦と言えます。何しろこの艦は、昭和4年4
月6日に三菱神戸にて竣工し、佐世保鎮守府に編入されま
す。昭和14年3月11日に三田尻沖にて駆逐艦”矢風”と衝
突します。そして次に昭和16年1月8日に足摺岬南方にて
”杭州丸”と接触し、最期の三度目の正直が昭和16年10月
2日の壱岐水道北方にて訓練中に反航体勢から特設砲艦
”木曽丸”に衝突され沈没した事件でした。伊61は、昭和17
年4月1日に除籍されています。







径23mm、金鍍金の海軍初期釦(御下賜品)




表が金鍍金で裏側が15〜18金の金釦です。戦前で釦に
豪華な金鍍金に裏にまで15〜18金を使うような士官です
から普通の方でなく、やんごとない御身分の方になります。
これら釦なども御下賜品として皆で分けて記念としたようで
す。通常の釦は21mm、この釦は23mmあります。山口県徳
山出身の立野徳次郎海軍中将(海大9期)
の方の持ち物で
す。しかし豪華な物です。









海軍 各種傷病兵衣




海軍の傷病兵衣が各種五点です。陸軍の物は
よく出来てきますが、海軍は少ないです。









上の二点は、官給品で記名布や検定印が
あります。下のブチは、無くどう考えても不
細工なので私物と思われます。







明治帝國海軍の艦内時計(精工舎)
    と大正期以降に海軍で使われた
             精工舎製の艦内時計




横須賀海軍工廠の前身である横須賀造兵廠時代の
古い艦内時計です。ムーブメントは、精工舎製です。
明治早々の富国強兵に勤しんだ近代海軍への息吹
が伝わってきそうな感じがします。
幕末に横須賀製鉄所呼ばれた造船所は、明治19年に
横須賀海軍造船所に明治22年に横須賀鎮守府造船
部、明治30年に横須賀海軍造船廠と名称を変えて明
治36年に横須賀海軍造兵廠と統合されて横須賀海軍
工廠となり敗戦まで続き存在しました。精工舎の創業が
明治25年6月10日です。その4年後の明治29年に自
社製の懐中時計の製造に成功しております。以降から
明治36年の統合され海軍工廠に名称が変るまでの僅
か7年間に製造された時計である事が判ります(因みに
明治22年4月に海軍造兵廠官制が公布されています)
。…明治38年に運命の日本海海戦を、その前の黄海
海戦は明治37年です。この二つの戦いに参加した時計
かも知れません。少なくとも同じ時代に海軍にあって時
を刻み続けていた事でしょう。それ以前の日清戦争は、
精工舎製の時計が無いので除外されます。
>


建軍より日本海海戦を経て世界の列強の仲間入りを果たし
大海軍国となった日本帝國海軍の栄枯盛衰を見続けてきた
時計です。明治30〜36年に製作された物ですから…105
年前から111年前の品となります…。
艦内時計は一般に艦橋に置かれました。
ムーブメントは、精工舎で刻印が見られます。






上とは違う艦内時計です。良く記録映画の
白黒映像でもこの艦内時計を目にする事が
あります。
殆ど作りは上の明治期のものと大差はありません。
大正〜昭和のもので何十年か新しいせいもあり
塗装は、裏面で特にまだ新品の頃の艶などを残し
ています。
螺子の固着が激しくねじ山が切れそうなので
内部のムーブメントは確認していません。
シリアルNo.1346の精工舎製です。







空母”加賀”の乗組員が記念で
     使用した精工舎製目覚時計




支那事変記念・軍艦 加賀とある目覚時計
です。まだまだ現役で動いております!!
元の所有者は、軍艦 加賀 に乗って居られたそうです。
早い時期に艦から下りられて艦と運命を共にせずに済み
結果としてこの目覚時計も今も錆も無く時間の誤差も少
ない完動品として時を刻んでいられる模様のようです。




下は、ありし日の空母”加賀”です。







第十六駆逐艦(芙蓉) 北支警備記念の時計




二等駆逐艦の第16号駆逐艦は、後に若竹級駆逐艦として
駆逐艦”芙蓉”と名を改めます。1923年3月16日に藤永田
造船所で竣工し、1928年8月1日、芙蓉と改名。そのまま
日米戦に突入、1943年12月20日にマニラ湾口で米潜水艦
バッファの雷撃を受け戦没します。この時計は、はその芙蓉
が北支那を警備に参加した記念に作られたものです。
これら古い二等駆逐艦は、日米戦の開戦前後より随時、哨戒艇へ
格下げされ使用されていきました。芙蓉は、駆逐艦籍のままこの世
を去りました。


下の画像は、同型艦である若竹級の勇姿です。







戦時資料:プレス用の当時の公認腕章




恐らく未使用と思われます。舞鶴海軍鎮守府の新聞記者用の
公認腕章です。京都 第四号が手書きになります。











戦時資料:珍しい従軍画家の従軍腕章




御覧のように陸海軍の双方で許可された腕章です。海軍の方は、
支那方面艦隊総務部の印があります。陸軍の腕章の印は難読で
す。しかし後ろに取消がなされて日付印があります。中支・軍報道
部で昭和13年5月23日とあります。
共に従軍画家 佐藤克三氏のものです。陸軍の方は、
No.520で海軍の方は、第十七號とあります。









海軍 瓦斯マスク




海軍の九三式三號防毒面と防毒面嚢です。
面体は全体の形崩れなく、実着装可能な大変良い状態の防毒面です。
レンズに良くあるヒビや曇りはありません。面体内部は、レンズ周囲で少し
硬化が始まっています。しかしホースの硬化や変形は全く無く。当時の
柔軟さをそのまま残しています。正面の換気弁のカバーは、順調に脱着
可能です。また劣化や欠品しやすい内のゴム隔離弁もオリジナルのまま
健在です。
各金具、濾過缶の塗装の海軍色はほぼ完全に残っております。
錆がほとんど見られません。装着バンドはスムーズに調節できます。
濾過缶とホースの脱着も問題ありません。濾過缶に17.12の記があり
内部を覗くとオリジナルの構造のままの状態である事が確認できます。


防毒面嚢の表面に132041とプリント記載され、裏には、九三式三号
防毒面がプリント記載されています。負紐の金具(バックルとフック)も
完全です。内部の仕切りは、外されているような戦後代用品として使わ
れた改造品でなく、オリジナルのままです。







この防毒面は、面体のゴムの劣化等がありますが蛇管も
濾過器もしっかりしています。携帯嚢は、ありますが収納
ケースがありません。



九三式二型防毒面










こちらは、オリジナルの収納ケースがありますが
蛇管と携帯嚢が欠品です。また面体のゴムに経
年の硬化が見られます。


海軍では、一般に艦内の火災による有毒ガスを防ぐ物で、
これの装備をしている事は、不測の事態が予想される戦
闘中を示します。これも大きな火災になると役に立たないと
言われています。

別なガスマスクの面体と連結管


海軍 九七式防毒面(背負型瓦斯マスク)戦闘用嚢



上とは、別の箱だけですが”九三式 二号防毒面 四号 収納函”








面白い不思議な軍帽!




面白い軍帽です。改正下士官軍帽章の真ん中の錨を取って光海軍工廠
の工員徽章を付けています。勿論、従来の文官従軍服制にも17年改正
にも無く、18年の戦時海軍工員規則にもありません。遊びで作ったもの
だと思いますが…面白い品です。


同じく色は違いますが
光海軍工廠の徽章です。









海軍航空隊 計器

 前後傾斜計2型(東京航空計器)




液柱表示式の前後傾斜計です。赤い液柱が
生きていて動くのが判ります。昭和13年10月
に東京航空計器製造の計器です。海軍の
マークに豊川海軍工廠の検査刻印があります
。メーターは、上15〜0〜下15表示です。
この前後傾斜計2型は、海軍機に広く使われています。
零戦21型〜32型、零式観測機、九四式水偵、九七式艦
攻、九九式艦爆、天山、月光、銀河、九六式陸攻2号1型
、晴嵐、震電等。









回転数管制器




昭和17年9月、神戸製作所製造の回転数管制器です。
文字通り二本のレバーで双発機の発動機の
回転数を電気式に管制する遠隔制御器と思
われます。
海軍機の色が良く残っています。
双発機用なので一式陸攻などの中攻から夜戦・月光
や銀河などにも使用されたものかもしれません。









高圧油ポンプ




中島飛行機東京工場で製造された海軍機用の機用の高圧油ポンプです。
銘板には、海軍と豊川工廠の検定印がありますが、他の銘板からもお判り
のようにポンプ自体は、陸海軍機共用のものとなっています。
非常にコンパクトなオイルポンプですが、発動機(エンジン)に直結されて
使用されましたが、零戦などではオイルポンプの容量が小さかった為、余
裕のある油圧を得られず、有名な話ですが左右の主脚を離陸後翼内の
格納する時、左右同時に格納出来ず抵抗が少ない脚の方から順に上がっ
ていったようです。



零戦の高圧油圧系統ですが、高圧オイルポンプは発動機直結され、油圧力計は座席右後方
に配置されていたようです。油圧タンク容量は、3Lで座席後方に縦置きに設置されていました
。使用されたオイルは、小倉一号高圧油や航空一号作動油と謂われる物でした。
各部に”259”の刻印があります。共通のシリアルNo.
と考えられます。


陸海軍の各種高圧油ポンプの銘板です。









柳製作所製の海軍の計器です。














 







陸海軍各種航空計器メーカーとして
 有名な田中航空計器(株)の戦前の
  表彰状等、企業としても愛国精神に
   溢れ地域に根差した軍用メーカーの姿!












以下は、代表的な海軍の田中航空計器の製品です。
海軍の旋回計ニ型です。田中航空計器製造
のものと思われます。
残念な事に後の銘板が入手時より取り外されておりました。
ジャイロスコープ式で左右の傾斜を球式の
バンク計が示します。いずれの方向に旋回
しても球が中央にあれば、横すべりせずに
旋回している事を示します。
下の三つは、共に旋回計ニ型です。
左が東京航空計器製造の旋回計ニ
型で比較的に古い海軍機に装備され
ていたようです。真中は、田中航空機
製造のもので上の画像の計器と同じも
のと思われます。右は、同じ物のバリ
エーションの違いです。数字や字体の
変化に夜光塗料の塗装の違い等です
が基本構造は、全て同じです。


こちらも旋回計二型ですが、銘板もあり完全な状態の品です。
この旋回計二型は、ほとんどの海軍機に使用
されました。夜光塗料も、良く光ります。


















海軍兵学校や海軍機関学校、舞鶴分校などの名簿は
戦記・資料を紐解く上で必携の品です。陸海軍の将官
名簿と共に各商船学校の出身者名簿も無くては、なら
ないものです。



なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!