旧軍関連・戦前資料収載品
 (軍装品...etc) Part Uk















Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








海軍大学校長 在職中に逝去された
        稲垣 生起 海軍中将の資料




昭和17年9月15日、海軍大学校の校長在職中に逝去された
稲垣生起海軍中将は、東郷元帥、山本元帥等、そうそうたる
海軍の提督達ともに多磨霊園に眠られております。和歌山県
出身、海兵38期、海大21期、享年52歳の若さで他界されまし
が連合艦隊参謀、第一艦隊参謀を経て軍令部第一・第二課
長を歴任しを経験し帰朝、次世代の海軍を担う提督として期
待された逸材でありました。
稲垣閣下の葬儀での弔辞や諸々の書類です。
海軍軍令部総長 永野修身 元帥海軍大将の弔辞です。

佐世保鎮守府司令長官の谷本場太郎 海軍中将の弔辞です。
この谷本閣下も約3ヵ月後の11月11日に病死されます(享年56 )。
海兵同期を代表して三十八期生会幹事の副島大助 海軍中将
(海軍水路部長)の弔辞です。
副島大助 海軍中将はこの後、第二遣支艦隊司令長官を務めて
軍令部出仕となり敗戦で予備役となっております。
副島閣下も稲垣閣下と同様に若き海軍大尉時代に第一次大戦
に参戦しています。福島閣下は、当時、一等巡洋艦”伊吹”副
砲長としてドイツの通商破壊艦エムデンの警戒のために英国海
軍と協同してインド洋で対潜作戦に従事しています。




こちらは開戦以来活躍中の空母”加賀”の搭乗員で
戦没者達の慰霊墓碑の碑銘の揮亳を元艦長であった
稲垣閣下に御願いしたい旨を遺族の方が山田中佐に
依頼している文面のようです。何らかの折に御遺族か
閣下本人が渡されておったものと思われます。




稲垣 生起 海軍中将の佐官時代の資料




稲垣閣下は、海軍中佐時代の昭5年12月1日
〜大佐に昇進後の昭7年11月15日の連合艦隊
参謀と第一艦隊参謀として転出するまでの間、
海軍大学校の教官を勤められています。また
大佐になられた昭6年12月 1日以降からは、

陸軍大学の兵学教官も勤められています。これ
等の資料はまさしくこの教官時代を中心に前後
する時期の資料になります。
陛下の御臨席の後の御立よりに関する
諸注意が記載されています。
昭和13年度の海大の卒業式に
居並ぶ列席の将星達…。




海軍大学校は、明治21年、海軍兵学校が築地から江田島
に移転した年に築地に開校しました。海軍の高級幹部を養
成する機関で、卒業生は海軍のエリートとして海軍内部の
要職を占めました。関東大震災で罹災し、昭和7年、東京
品川の上大崎に移転しました。 敗戦後、海軍大学校は、
閉鎖されます。建物は、その後に旧国立予防衛生研究所
(現在の国立感染症研究所)が使用しましたが、昭和36年
に武蔵村山市内に移転した為、跡地は現在、マンションに
なっているようです。

海軍大学校

この昭和13年度の卒業生に贈られた卒業記念の
煙草入れだとは思いますが、卒業生だけでなく教
官など海大関係者にも陛下より御下賜されるもの
なのかは、良く判りません。もしかしたら稲垣閣下
が海大21期で大正12年に卒業されておりますの
で、この時にいただいた品の可能性もありますが、
定かではありません。

銀製の未使用品です。

昭和10年十一月のロンドン軍縮会議の送別会のもの
です。この会議には稲垣閣下も全権随員として参加し
て渡英されております。








昭和4年4月3日の関東軍司令官主催の晩餐会
の招待状。この当時、閣下は第五戦隊参謀をさ
れていた時です。
こちらは、満鉄社長主催の招待状です。将来を約束され
たのエリート軍人は、佐官でも政財界からお呼びが掛か
るのが良くわかります。
バラバラの航海日誌です。笠置、三笠、出雲、和泉、宗谷等
50枚以上有ります。笠置と和泉は、海兵を卒業して海軍少尉
候補生の時に乗組んでいます(明治43年〜44年)、防御巡洋
艦”出雲”と”三笠”は、海軍少尉時代の明治44年〜大正2年
まで乗組になっております。戦利巡洋艦”宗谷”は、大正3年か
ら4年にかけて海軍中尉時代に乗組んでいます。







稲垣 生起 海軍中将の空母 加賀 艦長時代の手紙




昭和12年10月27日の消印の封書です。軍艦 加賀
より東京荻窪の自宅の奥様へ出した手紙ですが、宛
名は、自分から自分になっています。大佐時代の手
紙となります。
稲垣中将の少将時代の名刺です。航本総務
部長の後は、軍令部出仕、海大校長などをさ
れています。封書の中身は、以下ですが余り
大した内容は、記載されいません。
        稲垣 生起 海軍中将 和歌山県出身

        海兵38期、海大21期

佐官時代までは、一貫として砲術畑を歩んでいます。海大甲種
卒後は、参謀職が多くなり、連合艦隊参謀や各艦隊の参謀を
歴任し軍令部第一部二課長を務める。昭和10年11月にロンド
ン会議全権随員を務める。昭和11年 戦艦 比叡 艦長の後、
空母 加賀 艦長を昭和12年12月1日まで務めて、海軍少将に
昇進し航本総務部長に就任。17年6月1日に海大校長に就任。
同年9月15日に在職中に逝去(享年52歳)、海軍中将に昇進。


こちらは、別に入手した稲垣提督の大佐時代の晩餐会
の招待状です。昭和8年8月5日(土)に戦艦”比叡”に
て開催、主催者は、軍令部総長の博恭王殿下となって
おります。丁度、この時は、稲垣閣下は、連合艦隊参謀
兼第一j艦隊参謀をされておった頃だと思われます。



稲垣 海軍中将の出した各種・絵葉書等々
  少尉候補生時代の遠洋航海と第一次大戦
   で欧州派遣艦隊として参戦した時の絵葉書










閣下は、明治43年(1910年)7月に海兵軍学学校卒業。海軍少尉候補生
で練習艦隊の二等巡洋艦”笠置”乗組となり、同年10月より遠洋航海に
出ます。日本〜支那〜ホノルル〜サンフランシスコ〜アカプルコ〜パナマ
〜などを回り翌明治44年3月に帰国しています。画像のものは、パナマで
出したと思われる絵葉書です。軍艦郵便のスタンプと明治44年(1911年)
2月の消印が押されてます。遠洋航海の寄港先のパナマから和歌山市の
家族に宛てた絵葉書です。パナマやアカプルコのことが書かれています。
図柄は珍しいパナマ運河を建設作業してる風景と思われます。パナマ運
河は、世紀の大事業として1914年に開通しましたので訪問の時は、まだ
工事中でした。惜しい事に発送地の消印は剥がれた切手とともになくなっ
てます。
同じく明治43年(1910年)、練習艦隊の遠洋航海で寄港した青島より
和歌山市の家族に宛てた絵葉書です。青島市街に上陸したことが記
されています。まさに閣下の青春時代の真っ盛りの時期でしょう。絵葉
書に消印は、残っていますが切手は喪失してます。
大正8年(1919年1月2日、29才の海軍大尉だった閣下が滞在先の
イギリスから和歌山市の家族に宛てた絵葉書です。当時閣下は、
二特務艦隊(長官・佐藤皐蔵少将)の所属で二等駆逐艦”柳”乗組で
した。当時、第一次大戦末期に日英同盟で英国からの要請で地中海
での掃海任務と対潜作戦で送られた第二特務艦隊で欧州にあり、年
末年始を英国へ寄港しロンドンで過ごした時のものと思われます。こ
の時期、日本からは3つの艦隊が英国の要請で投入されていました。

★第一特務艦隊(司令長官 小栗孝三郎 海軍少将)
     
  (兵力)軽巡洋艦”矢矧","須磨","新高","対馬"
      の4隻と第二駆逐隊 2隻の計6隻。

  (任務)2隻をケープタウンに、主力はインド洋、南シナ海で
       対潜・海上護衛。

★第二特務艦隊(司令長官 佐藤皐蔵 海軍少将)
 
  (兵力)軽巡洋艦"明石",第10・第11駆逐隊 のちに
       巡洋艦"出雲","日進"に 3個駆逐隊を増援。

  (任務)地中海での対潜・掃海・海上護衛。

★第三特務艦隊(司令長官 山路一善 海軍少将)
       
  (兵力)軽巡洋艦”筑摩","平戸"の2隻
       
  (任務)豪州・ニュージーランド方面の対潜・海上護衛。

稲垣閣下が当時の大尉時代に所属した第二特務艦隊は、海上護衛
任務で出撃する事、実に350回以上にのぼり護衛した連合国艦船は
約8百隻余りに達しその大半が英国船でありました。ドイツ潜水艦と
の対潜戦闘は、36度行われ…駆逐艦”榊”と”松”の二隻を失いまし
た。人的な被害は、戦病死者併せて78名。このうち73名がマルタ島
の英海軍墓地に葬られました。
マルタ共和国カルカラの英国海軍墓地(現英連邦墓地)にある
日本海軍第二特務艦隊戦没者の墓です。左が山野海軍少佐が
昭和9年に海軍機関少尉候補生時代に練習艦隊で訪れ撮影
したものです。右は現代の修復後(WW−Uで破壊)のもので
す。以下のバーナーをクリックすると山野 平 海軍少佐を紹介し
ている当サイトの別ページが開きます。


以下の写真は当時参加した軍人と英国側が撮影した
写真を掲載します(駆逐艦”榊”遭難の一年後に英国
により建立されたマルタ島の日本海軍第二特務艦隊
戦没者の墓の式典)。


大正七年(1917年)…今より約100年前の日本を遥か離れた地中海は
マルタ島の式典の模様です。
英国海軍墓地に榊の遭難から1年後に建
立された慰霊碑は英海軍墓地の中でも奥の一番良い場所を提供され
当時、日本海軍の参戦と活躍がいかに英国に評価されていたかが伺え
ます。











同じく大正8年(1919年)4月16日に当時の稲垣大尉(29歳)が
連合軍として参戦し滞在した英国から和歌山市の家族へ宛て
た絵葉書です。珍しい軍事郵便ですが、右の宛先の住所部分
残念ながらが千切れてありません。絵葉書は、英国の1919年
当時の美しい公園風景と女性や子供達の姿や服装が描かれ
ている美しいものです。文面から第一次大戦が終結し近々に帰
国する旨を伝えています。
消印なく郵便として使われていません。葉書の裏のポスト側に側に
稲垣中将の筆跡で英文が書いてあります。この葉書の写真である
ロンドンの有名なハウスの説明だと思われます。多分、記念に記載
したものと思われます。
タイトルに『DIARI OF THE WAR(戦争の日記)』1914 TO 1918
とあります。第一次世界大戦の開戦から終戦までの主な出来事が
記されている英字の小冊子です。稲垣閣下が記念に持ち帰り所蔵
したものと思われます。





稲垣家から出た御家族関係の品と
   稲垣中将の葬儀関係の書類等々。




葬儀関係の費用や領収書等です。
開戦当初のまだ余裕がある時代です。海軍の現役の提督
の葬儀がどのように費用が掛かったものなのか軍事とは、
別な当時を知る研究資料とも考えます。



稲垣閣下の御令嬢の稲垣和子さんの写真二枚です。女学校の
学友が撮影し贈られたもののようです。17年9月…閣下が亡く
なられた月の撮影です。笑顔から逝去前の撮影と考えます。

御子息の学校での写真のようです。
裏に『昭和十四年五月二十三日 於
皇大神宮宇治橋際 稲垣達』と覚書
きがあります。

手帳は昭和21年のもので、ダイヤリー形式です。
御子息・稲垣達氏の府立高等学校の学生証です。
御自宅での写真でしょうか…御子息です。

海軍航空本部から発行された公務運賃割引證(証)3枚です。
発行責任者 海軍航空本部長・豊田貞次郎のスタンプが
押印されてます。2668号、2669号、2670号連番の3枚。


上下の品は後日、別に手にした品です。
稲垣閣下の名刺が二枚と絵葉書一枚に
閣下宛の手紙です。
手紙の裏は船の中のディナーのメニューになっています。


前のオーナーは1929年12月19日と判断してい
たようですが、送られてきたのが英国や欧州であ
れば消印からそうなりますが、経由地である米国
からのUSPSの消印であれば19.12.29は、192
9年19月12日となる筈です。この場合は日本の
船の中で消印を打たれたと考えて1919年12月
29日即ち大正8年12月29日と判断した方が適
切だと思われます。

封緘書簡は大正8年12月29日、稲垣閣下宛に
1月2〜3日頃ロンドンに到着予定で行かれた方
の春洋丸の封緘に書かれて出された手紙で、船
内生活と船内の人々の有り様が楽しそうに書か
れており、当時の手紙の文章にしては現代の人
でも読める優し文字になってます。裏面は奈良春
日神社と巫女に絵に船内食堂の食事メニ―ユが
書かれています。文面から察するに稲垣生起の
親籍・同僚・上官と察します。「光政から生起」と
書かれかなり親しい関係の人と推察されます。
思い当たる名はやはり…米内光政閣下でしょう
か?…ですが確証も確かめる術も無しです…。
しかし良く見るとこの更に上に掲示した手紙も光政
の差出名のある手紙でした。大正時代の1919年
です。それ相応の身分にあるか資産家か軍人な
ど国家により派遣されたりの人以外が渡航で船に
乗る場合は移民しかない時代でした。大正8年で
米内閣下と仮定すれば海軍大学校教官を任じられ
ていた時で海軍中佐だった時です。大正9年6月
3日にはベルリン駐在、大正10年11月25日から
ポーランド駐在員監督されています。この時、稲垣
閣下は戦艦”敷島”の副砲長兼分隊長を務める海
軍大尉でした。また最初の記載どおりでもし1929
年即ち昭和4年だったと仮定すると稲垣閣下は、
横鎮附で欧米各国を出張中で手紙の差出人とは
海外で出会う可能性の方が高い事になります。

  大きさ:幅26cm・高さ26cm。








海軍航空隊 

 一式三號隊内無線電話機改一(送受信機)




艦攻や艦爆、艦上偵察機などの三座機や複座機に使用された
隊内無線機です。水偵などでも使われたようです。軽量でかつ
コンパクトなのには驚きます。
昭和19年2月、松下電器無線製作所製造でシリアルNo.2464
です。海軍の刻印に大湊海軍工作部の検査刻印が銘板から
確認できます。
本来は、上図のような色ですが正面・側面・後面はオリジナルの
塗装が殆ど落ちていませんが底面だけは、色を残しています。
超短波送受信機で艦攻・艦爆機が編隊内の通信連絡用
に使用しました。送信周波数30〜50MHzでその通達能力
は、対機で5浬といわれています。
上の画像は、上部から覘いた画像です。下の画像は、
左右の側面からの撮影した画像です。

上は、後面となります。




下は、底面でオリジナル塗装の海軍機の緑色が良く
残っているのが判ります。塗装は、これ以外にも黒色
塗装のバージョンもあります。

内部画像で真空管も生きています。


収納ケース内部に572の書込みと下は
ヌまたは、スの印があります。













  〜五枚の写真の裏にある青春群像…!〜

硫黄島迎激戦で戦死された第三四一航空隊
  戦闘四〇一飛行隊  金子元威 海軍少佐
   の写真…5枚(海兵時代4枚・少尉時代1枚)




ニ種軍装姿に飛行帽で腕を組み爽やかに
笑う大分空時代の金子元威少尉(当時)の
写真です。彼は昭和19年6月12日に341空
の戦闘401飛行隊13機を率いて”あ号作戦”
に参加する為、館山基地を出発しテニアン
基地へ赴く途中、硫黄島に進出したところで
、6月15日の米艦載機の硫黄島襲来に遭遇
し…指揮官として迎激戦に臨み戦死しました
。…24歳6ヵ月の短い青春でした。
海軍兵学校時代の写真です。上の左は巡航で上陸した処
、右は帆走訓練。下は巡航の準備と裏書の記載がありま
す。全て昭和14年6月と記されています。
良い笑顔を見せるまだ幼さの残る
海兵生徒達です。
同じく昭和14年6月、分隊員全員のカッター競争と裏書
されています。故 金子少佐は、海兵69期卒(昭和16年
3月25日に同期生343名と共に卒業しています。約9ヶ月
後に運命の日米戦が始まりました。

金子元威 海軍少佐 <略歴>

東京出身 東京高師附属中から海軍兵学校69期入学

昭和16年 3月25日  海軍兵学校卒業

               大分空(第37期飛行学生)

昭和18年11月15日  第三四一海軍航空隊分隊長
               (海軍中尉)

*第三四一海軍航空隊(司令:小笠原章一中佐)は、18年11月15日
 に松山航空基地にて編成され錬成を開始。所属は、第一航空艦隊で
 あありました(通称:獅子部隊)。乙戦(局地戦闘機”紫電”)36機が定
 数でありましたが配備が遅れて零戦での錬成訓練を行っていました。

昭和18年12月 5日 笠ノ原基地(鹿児島)へ移動

昭和19年 1月14日 館山基地(千葉)へ移動。(海軍大尉)

昭和19年 3月 1日 第三四一航空隊の飛行科は、特設飛行隊:戦闘
              第四〇一飛行隊となる.

昭和19年 6月12日 あ号作戦に参加の為一個分隊(零戦52型乙13機)
             を率いてテニアン島へ進出する為、中継地の硫黄島
             に進出。同日、部下である鎌村竹二一飛曹(甲飛10
             期)。と零戦輸送任務で一緒に硫黄島に飛来してい
             た空輸任務の第一〇〇一海軍航空隊の梅沢薫一飛
             曹(予備練12期)が硫黄島から哨戒任務に出る途中
             だった第九〇一航空隊の九六陸攻一機が離陸に失敗
             し待機中の零戦に突っ込まれ死亡する。零戦も3記を
             失う。

昭和19年 6月15日 14:00に米艦載機来襲で金子大尉以下の零戦52型
             11機が邀撃に発進。硫黄島上空でグラマンF6F戦闘
             機約60機と交戦状態に入る。途中、三〇一空の零戦
             18機と二六五空の零戦1機、一〇〇一空の零戦5機の
             計24機が加勢し空戦に参加し16:00に空戦が終了し
             ました。この戦闘で金子大尉率いる戦闘401飛行隊の
             一個分隊13機は、金子大尉以下10機が撃墜され戦死
             残った3機は、館山に引き返す事になりました。また硫
             黄島派遣の三○一空の戦闘316飛行隊18機(従ニ重
             男大尉指揮)も未帰還機は、指揮官の従ニ大尉以下
             16機、不時着1機、無事生還したる零戦は、1機のみで
             あった。サイパン経由でカウ基地などに進出の二六五
             空の零戦1機もこの戦闘で撃墜され…硫黄島進出の海
             軍航空部隊は、この日一日で27機を失い壊滅的な痛
             手を被りました。対して敵の被害は、日本側戦果報告
             で撃墜4機。米側公式記録では、地上砲火による撃墜
             も含め12機が未帰還機となっています。米軍が60機中
             出撃で損害が12機、生還機が48機です。迎撃した零戦
             は、全29機のうち27機損失は、数的にも二対一と圧倒
             的に不利ですがでも…ベテラン搭乗員を失い決定的に
             技量不足が指摘されています。これらは”あ号作戦”に
             参加する為に硫黄島に中継で進出した航空兵力でした
             が…結局は、作戦に投入されても”マリアナの七面鳥
             撃ち”と酷評された結果と何等変らなかったような気がし
             ます。

昭和19年頃の戦闘第401飛行隊のマーキング(零戦21型)
硫黄島飛行場のピストより擂鉢山方面を写した画像です。
下に見える機体は、整備中の252空の零戦です。







非常に希少な青メダル

     海軍 應急優等徽章




昭和14年8月31日制定の應急優等徽章です。



下は、私の所持している青メダルの手前の
應急優等章です。こうして優等章と優等徽
章の二つが揃うのは、珍しく嬉しく思います。
現在、6種類の優等章と優等徽章のペアを
集めました。残る4種類のカップリングが揃っ
ておらず片方だけです。
同じく昭和14年8月31日制定の
應急優等章です。この優等章を
3年連続で保持すると上の青メ
ダルの應急優等徽章が授与され
ます。









海軍 九九式25番爆弾換栓(仮栓)




海軍航空隊の九九式艦上爆撃機で使用された
九九式25番航空爆弾(250kg通常爆弾)に使わ
れた物です。運搬時や信管をつけるまでに仮に
装着された仮栓です。当時はして回収再用され
たものですが、現在となると大変に希少な品と
思われます。
九九式25番通常爆弾1型は、九九式艦爆とセットで
開発された事でも有名です。


九九式25番のデビューは、昭和17年3月に空母”
飛龍”の九九式艦爆隊18機が25番通9発と25番陸
を9発を搭載してコロンボを攻撃したものです。4月
9日には、同じ艦爆隊がインド洋上で英空母”ハー
ミス”を発見して、この25番で仕留めています。この
25番通常弾は、真珠湾攻撃では一切使われており
ませんでしたので軍艦に対する使用は、この攻撃が
初めてとなります。この前にマレー沖海戦で水兵爆
撃の陸攻隊が英戦艦”レパレス”に25番による編隊
公算爆撃を敢行し二発の直撃弾を与えておりますが
この艦を撃沈したのは、九六式陸攻(23機)と一式陸
攻(26機)が夫々に放った九一式魚雷改一と改ニの
命中した13本あります。尚、この時にプリンス・オブ・
ウェールズには、7本が命中し仕留めています。また、
運命の同年6月のミッドウェイ海戦で敵空母に25番通
と陸を4〜6発命中させたのも空母”飛龍”の九九式
艦爆攻撃隊の生き残りでありました!…この25番は、
帝國海軍の栄枯盛衰を象徴するかのように最後は、
特攻用として零戦(21型・32型)や零観や零戦練習機
、白菊にも搭載され出撃しています。








海軍 砲弾用換栓(仮栓)














海軍航空隊 大輪三杵分度儀




こちらは、海軍の刻印のあるものですが、基本的には
V-2のページにある民間の物と全く同じものです。
昭和18年2月の島津製作所製。シリアルNo.は、箱も
中の分度儀も同一のものでオリジナルです。



海軍マークとシリアルNo.の刻印と
○にオの刻印があります。これは、
工廠印ですので大湊海軍工作部と
思われます。











機種不明の航空機計
  三菱重工製 電気式回転計指示器




通常、このタイプは中攻や大艇などの双発機に
多い縦型の回転計です。目盛りは、単発機用で
ある事が判ります。機種が不明です。

昭和18年8月の刻印とシリアルNo.が
ありますが、海軍や陸軍を示す刻印が
ありませんので陸軍機用か海軍機用
かも断定できません。







呉海軍工廠 造船部軍属(造船技師)
             の使用したバック二点




珍しい呉海軍工廠の技術者だった軍属の方が
当時、現場で使われていたバックが二点です。
こちらは、巾着タイプで底が木製になって丈夫
な造りになっています。横に材料班 3515 と
記載されています。巾着を結ぶ紐は、布でなく
頑丈な革製になっています。


こちらの方は、ショルダーバックになっています。
生前、使われていた御本人が譲った方に申した
話では、調達器材の資材検査で使用したと言う
事でした。



下は、ありし日の呉海軍工廠です。







海軍 対空機関砲手のものと
   思われるジュラルミン製の認識票




海軍では、珍しい認識票と思われます。
海軍は、陸軍と違い身につけるもの全てに名前を書く事で
基本的に認識票を使用していません。先の大戦では、空
軍力が物を言う新しいタイプの戦争形態になりました。この
激変に伴い海軍でも非常に被害の多い外部に突出した対
空機関砲などの火砲担当者には、複数枚の認識票を持た
せ、火薬等の爆発で、身元を推定するものが見つからない
場合や遺体の損傷の激しい場合も身元を特定可能なよう
にしたものと思われます。大きさは、3cm2.5cmで厚さが
約2mm。
刻印は、「兵」に「渡」した「機」関「砲」手、兵籍番号「29」、
血液型「A」と読むと考えられます。







海軍第十四期 飛行専修豫備学生(要務)名簿
  (詫間海軍航空隊)    平成元年五月吉日


















青春の想い出に作られて配布したテレカ二枚です。
海軍兵科第四期予備学生会とあります。海軍少尉の
一種軍装姿の画像と海防艦らしき軍艦の画像です。
神戸商大予科とあります。バンカラで高下駄にマント姿
の旧制高等学校生達の姿が浮かびます。




海軍第三期兵科予備学生会と刻印がある金杯です。
24K GP とあり、戦後の海軍予備学生の同期会を
記念して会員に配ったものと思われます。
海軍予備学生は、海軍予備員たる海軍予備少尉(昭和18年
以降は海軍予備員たる海軍少尉)となるための教育を一定
期間受けます。海軍予備学生の身分は各科少尉候補生に準
ずるものです。制高等学校・旧制専門学校卒業以上の学歴を
有する者が試験の上、採用されました。兵科予備学生と飛行
科予備学生があります。兵科予備学生の第1期は昭和17年1
月に400名が採用されました。以後兵科予備学生は昭和20
年4月採用の6期まで続きました。第3期は昭和18年9月に採
用されました。







一枚の写真から…。




入手しました一枚の写真、裏書に工作学校
教頭 海軍大佐 坂上富平 とあります。
         *坂上 富平 海軍少将(略歴)*

           兵庫県出身 海機26期 

昭和14年11月15日 海軍機関大佐 工作艦 朝日工作部部員
                       艦本造船造兵監督官

昭和15年11月 1日   横須賀鎮守府附

昭和16年 4月 1日   海軍工作校 教頭

昭和17年11月 1日  海軍大佐

昭和18年 4月10日    南西方面艦隊司令部附

昭和18年 4月20日    南西方面艦隊機関長 兼
                        第二南遣艦隊機関長

昭和18年 7月10日    南西方面艦隊機関長

昭和18年 9月20日    南西方面艦隊機関長 兼
                        第十三航空艦隊機関長

昭和19年 2月25日    横須賀鎮守府附

昭和19年 3月10日    横須賀海軍工廠総務部長 兼
                         工員養成所長

昭和19年10月15日  海軍少将

昭和20年 4月 1日    海軍軍令部出仕・海軍省出仕

昭和20年 5月 5日    海軍軍需局第四部長

昭和20年 6月22日    横須賀鎮守府附

昭和20年 9月15日   予備役

昭和55年11月15日   歿 (85歳)








一枚の写真から…。




九七式艦上攻撃機の生写真
九七式艦攻の編隊飛行で陸上爆撃を終えて
反転帰投する所を撮影したものでしょうか。
場所と時期は、何も記載されておらず不明で
す。一緒に大判の男性の顔写真がありました
…その方が誰なのかは、不明です(以下)。











一本の礎石から…。




海軍兵学校 西生徒館の礎石(御影石)です!









珍しい造船佐官の正剣帯です。
一部虫食いに金線の剥れありますが、識別線の退色も
なく時代を考えると、まあまあと考えます。







戦前の海軍大臣旗です。この大臣旗は何処で出ていても
必ず色染みがあるようです。色染みしていない品を殆ど見
たためしがありません。







水交社の創立五十周年記念メダルです。







海軍兵学校や海軍機関学校、舞鶴分校などの名簿は
戦記・資料を紐解く上で必携の品です。陸海軍の将官
名簿と共に各商船学校の出身者名簿も無くては、なら
ないものです。



なんとも可愛い自衛隊限定販売の
大日本帝國陸海軍 同期の桜 シリ
ーズのキューピーです!