旧軍関連・戦前資料収載品 
 (帝國海軍の軍装品) 特別編














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)



帝國海軍の軍装品・その他

特別編




帝國海軍(=旧日本海軍)と謂われた大日本帝國海軍は、大英帝國海軍や
米國海軍と並び世界三大海軍國と称さる程の大海軍でありました。その偉大
なる陣容は日本海、太平洋、東支那海、オホーツク海を我海として広大な海
域を支配しまさに大アジアの覇者と謂えました。この大海軍の起源は安政2年
の幕府海軍に端を発します。大政奉還・明治維新を経て帝國海軍に引き継が
れ以来、昭和20年12月1日に海軍省が第二復員省へ移行するまで約90年の
歴史は…不可能を可能にした大日本帝國海軍の栄光と巨大海軍が物量戦の
前に滅亡を見た悲劇の滅亡…まさに栄枯盛衰そのものと謂って過言の無いも
のでありました。その足跡を辿ると日清戦争・日露戦争をはじめ…第一次世界
大戦と無敵無敗を誇った帝國海軍は、泥沼の十五年戦争に突入…運命の英
米の大海軍国を含む連合国と3年9カ月に及ぶ不眠不休の死闘と大消耗戦の
果てに…敗戦時に稼働する軍艦は空母2隻、巡洋艦3隻、駆逐30隻、潜水艦
50隻、海防艦80隻、その他3隻の計168隻と往時の大海軍を想うと見る影も
ない有様になるまで戦力をすり減らし尽くしました。

日米決戦が開戦された昭和16年末に帝國海軍は、戦艦10隻、空母10隻、巡
洋艦41隻、駆逐艦111隻、潜水艦64隻、海防艦4隻、その他 14隻の合計254
隻、106万トン。小艦艇を含めると390隻、110万トンの大威容を誇っておりま
した。大戦中竣工した戦艦2隻、空母15隻、巡洋艦6隻、駆逐艦63隻、潜水艦
126隻、海防艦168隻、その他 3隻の計383隻を加えても…平均損耗率81%
以上の大消耗戦で疲弊した帝國海軍は敗戦時の残存艦艇(無可動も含む)
戦艦4隻、空母6隻、巡洋艦11隻、駆逐艦39隻、潜水艦59隻、海防艦100隻
その他6隻という負けても世界第三位の海軍力を保持しておりましたが、最早
、艦があっても動かす燃料が無く…敗戦後に海軍は稼働艦を使い復員船で旧
戦地である外地より取り残された陸海将兵の復員事業にあたりますが、米軍
より燃料の支給を受けなければ立ち行かない窮状ぶりでありました。思えば枯
渇する燃料を求めての戦争でもありました。軍艦や航空機を動かす油が無け
れば如何に大海軍を誇っても張り子の虎です。…すべての資源に乏しかった
貧しい島国の日本には多くの選択肢は残されておりませんでした。まだまだ人
種差別の激しい時代でありました。有色人種で唯一の独立した大国であり先
進国であった日本が…どんなに屈辱的なハルノートに外交上の譲歩をしても
対独参戦の口実が欲しかっただけの米国に日本が取れる選択肢はありませ
んでした。また現在の日本と違い、当時の日本帝國は屈辱外交に甘んじる程
、情けない国家ではありませんでした。理不尽に対して例え負けると判ってい
た戦いでも遂に腰の刀を抜いたのが大東亜戦争です。

明治維新以来、この全てに貧しく持たざる国の日本が僅か半世紀で作り上げ
たのが四方を海で囲まれた島国・日本を護る大海軍でありました。その帝國海
軍は、単に南北朝鮮や支那の陸軍の兵士の様に単に銃を持ち武装すればよ
いと謂うものでありません。…一朝一夕では偉大なる海軍力は生まれません。
その事は、お隣の支那やロシアを見れば明らかです。未だにこのアジアや極東
では帝國海軍を凌ぐ大海軍力は育っておりません。海軍国とは優れた造艦技
術だけでなく操鑑技術は勿論、国家としての総合力が無いと中々産まれませ
ん。…艦と人と技量、その全てを築き上げなければ生まれません。海洋国家
日本は…その大海軍を作り海軍国として敗戦前は偉大な存在感を示しており
ました。戦後は、海上自衛隊が育てられ帝國海軍の威容とは行かないまでも
米国海軍に次ぐ世界有数の海軍国として生まれ変わりました。そして戦前と変
わらぬ尊敬を持って今も海自の提督達は欧米で処遇されるといいます。ありし
日、日本の多くの国民が頼りの綱とした大海軍は滅亡しましたが…今も尚、
民族の誇りの結晶とも謂える存在として帝國海軍の威容は鮮明に思い描かれ
国民の多くに記憶されております。…その一例が戦艦”大和”のブームであり、
呉の大和ミュージアムの存在に繋がっていると思われます。


武装解除された海軍の最後の仕事は、稼働艦を持って外地に残る旧陸海軍
将兵の復員事業を行う事でした。この為、海軍省が第二復員省となっても事
務方だけでなく操艦する海軍軍人が必要でした。第二復員省に勤務する旧海
軍武官は昭和20年11月30日に海軍省廃官により予備役に編入され、即日充
員召集され12月1日から第二復員省職員(復員官)として勤務する形式が採ら
れた。その後、この第一と第二の復員省は、昭和21年6月15日に廃止され第
一復員省(旧・陸軍省)と統合して復員庁(旧第二復員省は復員庁第二復員
局)となりました。そして昭和23年に厚生省第二復員残務処理部となり、水路
部、保有艦艇、掃海部隊などは運輸省(海上保安庁)へ、海軍病院は国立病
院(現国立病院機構)へ移されました。その後、復員事業は厚生省外局の
引揚援護庁へ統合されます。引揚援護庁は、昭和29年に閉庁。また昭和27
年の海上警備隊発足に際し、操艦の技術等は熟練を要する為、海軍出身者
や軍関係者が数多く採用されました。この為、海上警備隊の後身である海上
自衛隊では、旧海軍と別組織と謂いながらも旭日旗の自衛艦旗制定をはじめ
、軍艦行進曲演奏や東郷平八郎の肖像を飾るなど、帝國海軍の伝統が現在
も息づいています。こうして一度は、排除された旧海軍が海上自衛隊の中に
復活し再び伝統が受け継がれていく下地が出来上がった事は、戦前・戦後を
通して大海軍を愛して止まない多くの国民にとっては…幸せな結果となりまし
た。






最後の帝國海軍々人

(激動の昭和を生きた…ある日本人の記録)




今回、”大日本帝國海軍 海軍の軍装 特別編”として最後の帝國海軍々人
として以下の軽巡 酒匂 機関長の山野 平 海軍少佐(海機42期)をクローズ
アップしました。山野少佐は、東京出身の大正元年生まれ、海軍機関学校を
昭和5年4月に入学、昭和8年11月卒業。同じ海軍三学校ではコレスが海兵
61期、海経22期というまだまだ帝國海軍華やかしき頃の古き良き時代の帝
國海軍を謳歌した時代の軍人の一人と謂えます。練習艦隊ではインド洋から
紅海、スエズ運河を抜けて地中海、南欧を旅しています。

任官後は、戦艦”伊勢”を皮切りに軽巡”鬼怒”、駆逐艦”雷”、重巡”羽黒”、
戦艦”長門”、駆逐艦”朝顔”、駆逐艦”若葉”、水上機母艦”千代田”などを
乗り継ぎ、昭和15年には海軍工機学校の教官として分隊長を勤めています。
そして運命の日米戦の開戦の時は、第二艦隊旗艦の重巡”高雄”に乗艦、南
方上陸部隊の支援を主任務としマレー・比島作戦等に参加します。そして最
初の会敵は、英戦艦”プリンス・オブ・ウェールズ”と”レパレス”の英艦隊で夜
襲を企図しましたが敵は退却し、功を一式陸攻に譲りました。その後のジャワ
沖海戦でマーブルヘッド型軽巡を月明下の砲戦で3分で仕留めたのを見たの
が唯一の海戦と手記に記載があります。実はこれは昭和17年3月2日の夜戦
で駆逐艦”ピルスバリー”(DD-227) を撃沈したのを同じ4本煙突のシルエット
で間違いで記録されたもので山野少佐も戦後もずっと軽巡”マーブル”(CL-
12)と思い込んでいたようです。この後、洋上に敵無く第一段作戦を終了し
横須賀に帰投。次はミッドウェー作戦の牽制部隊として第二機動部隊の空母
”龍驤”と空母”隼鷹”を護衛し重巡”高雄”でキスカ・アッツ攻撃に随伴しかし
敵影なく寒さとの戦いに終始し帰投後、更にソロモン作戦と南太平洋に出撃し
ます。そしてトラックで第九戦隊参謀に転出し軽巡”北上”に乗艦します。その
後、一度、横須賀へ帰投した後、昭和18年に第二十五特別根拠地隊参謀に
転じて西部ニューギニアを転々と輸送基地建設と飛行場の設営に従事し一年
半の間に四回もマラリアに罹患し、昭和19年3月に廃人同様になりながら
内地に帰還。以降、敗戦まで海軍機関学校及び海軍兵学校の教官を勤めま
す。

敗戦後の昭和20年9月20日に酒匂機関長に任じられます。、そして復員輸送
の航海に従事します。昭和20年11月30日に予備役編入、同年12月1日、
帝國海軍が解散して第二復員省の
官吏である第二復員官(高等官五等)とし
て即日充足召集されました。またその後も陸海軍将兵の復員航海は継続され
12月27日、米第五艦隊に編入…函館〜釜山、佐世保〜ニューギニア〜台湾
〜大竹、大竹〜横須賀に帰港。そしてそこで酒匂がビキニ環礁での原爆実
験の供試艦として米海軍に引き渡される事と知ります。横須賀には同じ運命
を待つ戦艦”長門”のマストも煙突も無い無残に変わり果てた廃艦同然の姿
がありました。長門もまた山野少佐が中尉時代に乗艦した想いで深い艦であ
りました。そして戦艦”アイオア”から派遣された約100名の米海軍の機関長
以下の米国人将兵に酒匂が自走(ビキニまで自力航海)出来るように教える
最後の任務が与えられます。米海軍少佐扱い(旧海軍階級の扱い)でインス
トラクターとしてID(身分証)も発行されました。そして横須賀に停泊した酒匂
に泊まり込みでの米海軍将兵達との珍妙な共同生活が始まります。
 既に艦長以下大部分が退艦し、残るのは小野寺副長以下、山野機関長な
ど操艦に必要なパートの幹部士官だけが残留し、米海軍将兵が自力航行可
能となるまで約20日間、酒匂に残り身ぶり手ぶりで教えました。そして最後に
星条旗を翻した酒匂に別れを告げてLCT(戦車揚陸艇)で久里浜の桟橋に降
り立ちそれぞれの家路につきました。こうして昭和21年2月20日に充員召集
が解除され本当に…この時が海軍との訣別の日となりました。

その後の山野少佐は、無職で職に就く事が出来ない日々が長らく続き非常に
苦しい日々を数年間も送ったようです。そして食料品・和洋酒類の小売・製造
販売・輸出入で有名な明治屋に昭和25年5月に入社されます。…生き残った
同期の者が公職追放解除後に海上自衛隊に入隊する中、昭和29年8月29日
付で防衛人事局長 加藤陽三氏の名前で出された幹部海上自衛官志願の面
接及び身体検査の案内を戴いていましたが、無職を数年味わった後で、当時
やっと明治屋に就職したばかりで、悩み抜いた末、結局受験しなかったようで
す。昭和20年以降の後日の自啓録ノートに『勇断に欠けた事はやはり自己の
責任である』と自戒のメモがありました。海軍で軍人生活をはじめて16年、
34歳で海軍が解体され軍人の道が閉ざされ約4年間の就職浪人生活の後、
38歳で明治屋に就職、ここからサラリーマン人生と謂う第二の人生が始まり
ました。心中を察すれば海上自衛隊が発足し再び軍人の道が開けた時、同期
の人間のようにその道に踏み出したい気持ちは相当に強かったと思われます
。しかし苦しい時に世話になった会社を裏切れない気持ちも強く…海軍への想
いを断ち切り封印したようです。その後の山野少佐は、定年退職をされるまで
明治屋に勤め、次に子会社へ出向され更に定年後も暫く元気に働かれており
ました。そして69才で名古屋で胃癌を手術し克服、10年後に79歳で胃癌再発
の為、御子息の住まわれる東京で再入院し抗癌剤による治療を行います。
この入院の少し前に寿命を予感したのでしょうか…自叙伝の原稿に着手した
ようですが…続きを書けないまま平成4年に79歳で逝去されました。


最期を看取られた御子息は、父である山野少佐を振り返り…こう
申されました。父は私に…『家は残せないが、教育だけは与えて
やる。』と言ってくれました。…『いずれにしても青春時代をまさに
職業軍人として生き、敗戦後も同じ姿勢を通した男で、バカが付く
程努力の人で子供には貧乏を決して感じさせない人でした。』…
そして海軍機関学校の卒業の年には 大元帥陛下が御臨席され
た由、その感激を忘れず…昭和天皇崩御の時も号外新聞や週
刊誌を集め大事にしておりました。きっと心の中は、未だ海軍が
存続していたようです。


海軍三学校と謂われ海軍兵学校に続き海軍機関学校
も高倍率で超難関校でありました。しかしやはり蛙の子
は蛙です。お父上同様に御子息も優秀で旧七帝大の
一つを御卒業され日本有数の商社に入られ、長く米国
勤務をされて帰国し定年退職なされております。このよ
うに我国有数の一流商社を定年退職されている事は
山野少佐が『家は残せないが、教育だけは与えてやる
。』と謂われたお話を彷彿させ、まさにその通りの…有
言実行をされた証しだと感じ入りました。そんな山野少
佐が御子息が商社に入社された時に送った言葉があ
ります。以下の6項目で、

  1、 健 康  2、不撓不屈 3、不断努力

  4、油断大敵 5、本文完遂 6、至誠一貫

…でありました。山野少佐の人生を知ると”虎は死して
皮を留め人は死して名を残す”…と謂いますが、国破れ
て民に下っても文武両道に秀でた旧帝國海軍士官の
生き様とか矜持を垣間見る想いが致します。


山野少佐は海軍機関学校42期級会の懐旧50年の中でこう記載しています。

『…知らぬ間に67歳。もう末も見えている。これが二度と味わえぬ我が人生
であったかと思うと感慨無量である。確かに肉体の衰えは否めない。しかし
気分は昔と少しも変わらない。これも人生の一側面の発見ではなかろうか。
目下、名古屋のメイカン(株)という所に勤めている。定年は、過ぎたけれど
誰もやめろと謂わないので毎日、平気で通勤している。仕事は人事部長、会
社教育に重点を指向し、海軍式教育を施している。蛮声は時々張り上げるが
叩く事はもうしない。企業の為だけでなく、日本の将来のため良い後輩を育
てようと念願している。…(中略)…敗戦直後、酒匂機関長として復員輸送に
従事していた折、突如、米第五艦隊に編入され艦尾に星条旗が掲げられた。
ビキニ環礁での原爆実験に供するためである。乗員は米海軍と交代、私と航
海長が教官として残された。米軍自力で運航できるよう教育してくれとのこと
である。待遇は米軍少佐並み、米兵はよく敬礼した。毎日機械室で、米兵を
教育したが、極めて従順、熱心なのに感心した。彼等は日本のジェツト造水
装置、旋転式補助機械、酸素魚雷、飛行機搭載の潜水艦に絶賛していた。
退艦する頃は米機関長とも親しくなり、個人的にうらみも無いのに何故戦争
をしなければならないのかと術懐していた。彼はアナポリス出身で、もう60歳
を越したと思う。敗戦時は海軍兵学校防府分校第78期生の教官をしていた。
海軍の遺産と呼ばれた彼等の温存に努めた後、私の海軍に対する全任務は
終了した。さて、それから自分の身の振り方ある。筍生活をしながら考えたが
遂にエンジニアの世界を捨て、食料品の(株)明治屋に入社を決心した。一番
心配したのがサラリーマンとして勤まるかどうかであった。任せられたセクショ
ンはG.H.Q委託の進駐軍専用スーパーであった。商品は全部英語、通貨は
ドル、お客は全部外人。全く困った。夜も眠らず勉強した。生徒の頃の”頑張
り精神”を発揮して、サラリーマン陣地の壁を破った。その後は順調で最短コ
ースで支店長になった。しかし敵もまた多かっく、武士の商法は難しかった。
潮時を見て他社に替わった。それが現在の会社である。これからも偉くなろう
と思わないが、黙々として日本の将来のために良き後継者を育てたいと思っ
ている。』

…昭和44年に19年勤めた明治屋を定年退職し、名古屋の(株)メイカンに出
向されました。この上記の掲載がなされたのが昭和55年です。…何に対して
も全て全力で当たる努力の人であった山野少佐は、60歳で運転免許を取得
されたりと…何事も前向きにチャレンジされる精神は老いても変わらずで、ま
さに人生の最期まで海軍精神・海軍魂で生き抜き通した最後の帝國海軍々
人と謂うにふさわしい方であると想います。…戦前・戦中・戦後を通して昭和を
生き抜いた真面目で愛国心に満ちた日本人の代表を見る想いがします。改め
て…ここに特別編のページを作り紹介させていただいたのは、そうした気持ち
からであります。昭和と平成を一生懸命掛け抜けて生きた山野少佐に戦後の
廃墟と化し荒廃し貧しく全てを失った日本と日本人を再び不死鳥のごとく蘇ら
せ…世界に奇跡の復興と謂わしめた原動力となったのもまた…戦時中は銃を
持って命掛けで前線で戦い、戦後は復興に全力を尽くした山野少達、戦前派
の世代の力だったと謂って過言では無いと思います。そしてその世代は私の
父や母、そして祖父母達の世代でもありました。…今の日本で平和と豊かな
先進国としての暮らしを享受する日本人の全てが…戦争中も戦後も我々の先
人同胞であるこの世代の方々の艱難辛苦の果ての努力により導かれている
事を努々忘れず平和の有難味を噛み締める必要性を改めて説きたいと思い
ます。








帝國海軍の最期を看取ったと謂える
 特別輸送艦(軽巡) 酒匂 機関長を務めた
   山野 平 海軍少佐(海機42期)の全資料
    (正六位 勲四等)




左上は、九戦隊 機関参謀だった時の山野少佐です(当時、大尉)。
右上はニューギニアで第25特根参謀兼副官時代の山野少佐です。
少尉候補生時代の写真です。練習艦隊で南洋諸島と思われ
ます。左端の一種軍衣跨姿の士官がが山野少佐です。
戦艦”伊勢”乗組の少尉時代の写真です。二列目真ん中より
左の二種軍医衣跨の士官が山野少佐です。


敗戦前の軽巡”酒匂”
この写真は昭和21年元旦にウェワク近くで酒匂の艦上で撮影
された記念写真です。既に武装を外され特別輸送艦として復
員業務に従事していた為、砲術科や水雷科の士官達は艦長と
共に退艦し副長を中心に機関科、航海科、主計科の士官等が
艦を運航していました。三種軍装の襟階級章は既に外してある
のが判ります。手前右端で腕組みして座られているのが山野
機関長です。
この写真は今も御高齢ながら存命の阿部 達 海軍大尉
(海機53期)が山野機関長の御遺族である御長男の方
に送られたものです。阿部大尉自身も一番後方右側に
写っております。阿部大尉は昭和28年に海上自衛隊に
入隊し再建された初めての自衛隊艦隊の護衛艦『あさ
かぜ』機関長をされた方です。
写真の撮影されたウェワクは…上の地図でお判りの
ようにニューギニアビスマルク海側にあります。奇し
くも敗戦後の昭和20年9月20日に軽巡洋艦”酒匂”
の機関長に任じられ同年11月30日に予備役編入、
同年12月1日に帝國海軍解散し第二復員官。そして
12月27日に米第五艦隊に編入されます。山野少佐
は敗戦前は、昭和17年6月のアリューシャン攻撃(
アッツ・キスカ攻略)に参加し、次に南方へ移動し
ソロモン海での作戦行動に従事後、トラック諸島で
第九戦隊へ転属し同戦隊参謀を勤めます。その後、
横須賀に帰投した後、第二十五特根司令部に転勤
を命じられ横浜より同隊へ赴任し参謀兼副官を勤め
ます。そして西部ニューギニアを転々とし輸送基地建
設や飛行場設営に従事されております。その一年半
の間に4回もマラリアに罹患し、遂には廃人同様に痩
せこけて内地に帰還した経緯があります。以降は
敗戦まで海軍機関学校、海軍兵学校の教官を歴任し
ています。下図のニューギニアのマノワリに上陸して
1年半を過ごした地へ復員輸送でまさかの再訪を果た
す形になりました。山野少佐が当時、これをどう思わ
れたのかは特に記載なく心中を察する術はありませ
ん。


         ↑ (クリック)                     ↑ (クリック)

阿部大尉の海軍機関学校53期生時代の写真と戦後、海上自衛隊
で機関長を勤めた元米駆逐艦だった初代の護衛艦『あさかぜ』です。
上の写真画像をクリックすると阿部大尉が機関記念誌に投降した
”軍艦『酒匂』始末記”をUPした”なにわ会のHP”が開きます。



ありし日の軽巡洋艦”酒匂”です。
長門と共にビキニ環礁の海底に眠る酒匂の模型です。
ビキニ環礁で行なわれた第二次大戦後、最初の核実験は昭和21年
7月1日と7月25日のクロスロード作戦です。大小71隻の艦艇を標的
とする原子爆弾の実験であり、連合国の艦艇のみならず米軍が接収
した日本海軍の戦艦”長門”や軽巡”酒匂”、ドイツ海軍の重巡”プリ
ンツ・オイゲン”なども標的となりました。米海軍籍で標的となった主
な艦艇は、戦艦”ネバダ”、”アーカンソー”、”ニューヨーク”、”ペンシ
ルベニア”、空母”サラトガ”などでした。
昭和21年7月にマーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米軍の
核実験は、2回に分けて行われました。初めに行なわれた7月1日
の第一実験はABLE(エーブル:空中爆発)これは予定爆心地を大
きくはずしてしましたが、この軽巡”酒匂”を含めた5隻の小艦艇が
沈没しました。
軽巡洋艦”酒匂”は、阿賀野型の4番艦として完成し就役したのが
昭和19年11月30日と大戦末期でした。既に作戦参加の機会もな
く敗戦時は、最後の水雷戦隊旗艦として舞鶴にて何とか無傷で残
存していました。
          性 能 諸 元
 排 水 量 基準:6,652トン
公試:7,710トン
   全 長 174.50m
   全 幅 15.20m
   吃 水 5.63m
   主 缶 艦本式ロ号缶6基
   機 関 艦本式タービン4基4軸 100,000hp
 最 大 速 力 35.0ノット
 巡 航 速 度 18ノット
 航 続 距 離 6,000海里
  乗 員 730名
  兵 装 65口径7.6cm連装高角砲61cm
四連装魚雷発射管2基8門
 搭 載 機 2機(射出機1基)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


横須賀に係留中の特別輸送艦になった酒匂です。
砲塔はありますが砲や武装は撤去され艦の横に
日の丸とローマ字でSAKAWAと書かれています。
ビキニに運ばれ係留された酒匂。星条旗が艦首にある。
撮影日は昭和22年6月15日とあります。
原爆実験3日前の7月1日の撮影の酒匂の写真です。
酒匂が沈められた昭和21年年7月1日の1回目の原爆実験 エイブル (ABLE)のキノコ雲。
撃沈前の原爆を喰らった悲惨な状態の酒匂の写真です。
7月24日の第二実験(BAKER:べーカー)は、水中爆発で1600mの
水柱が上がり、爆心地から200mの距離にあった米戦艦”アーカン
ソー”が一瞬で爆沈し、空母”サラトガ”が爆発後7時間で沈み、爆
心地から1000mの距離にあった戦艦”長門”は数日間浮かび続け
たものの同月29日から30日にかけての深夜に沈没し、合計8隻の
艦船が沈没しました。


ビキニ環礁の衛星写真です。


昭和21年7月25日、クロスロード作戦の2回目となる
ベーカー核実験で発生した巨大な水柱。


呉で敗戦を迎えた戦艦”長門”は数度に渡る空襲でかろうじて
自力航行出来る程度でかろうじて原形を保っていますが…その
姿は、かつての連合艦隊旗艦の威容は失われ敗戦国の無残さ
を醸し出していたと謂われます。呉から横須賀へ回航され軽巡
”酒匂”と同様に横須賀に係留され、ビキニへ移動しました。
遠目からは判りませんが…近くから見ると空襲の被害は生々しく
煙突も失われ塗装もはげ無残な姿です。
長門の甲板上で笑顔のG.Iが記念撮影する姿は、敗戦の
現実をヒシヒシと伝えます。栄光を誇った連合艦隊旗艦
”長門”だけに変わり果てたこの姿は…涙を誘います。
この栄光ある元連合艦隊旗艦だった戦艦”長門”にも
山野少佐は、中尉時代に乗艦勤務した事がありました。
横須賀でこの長門の哀しき姿をどう見て感じられたもの
でしょうか…。
ベーカー実験での最も有名な写真。実験で使用された
戦艦”アーカンソー”が水柱に持ち上げられている様子
が見える。



2 Nuclear test: Able and Baker (full) !!!

…You tubeのクロスロード作戦を記録した
動画です。(ページTOPのMIDIの音楽を停
めてからお楽しみ下さい。)


2回目のベーカー (BAKER)を空中から捉えた写真です。









〜山野 平 元少佐の遺品
      海軍時代の想い出の品々〜




山野少佐の約16年の海軍生活が詰め込まれたトランクです。





使用感の少ない海軍儀礼長剣です。


海軍士官短剣は、長く使用した為でしょうか鮫皮に痛みが見られます。


中身は刃の無い模造刀です。


吸湿の為か隙間を埋めていた新聞紙は呉新聞です。
昭和14年4月13日の呉新聞です。
流石は海軍の町…軍港呉の新聞だけあって一面には
海軍関係のニュースが複数見受けられます。
軍校開港50周年とあります。今から72年前の
新聞ですから…現在なら軍港開港122年だっ
た事になります。呉の海軍鎮守府も軍港呉も
無くなりましたが…昨年の平成22年は敗戦65
年で呉海軍墓地の創設120年の節目となった
為、第40回呉海軍墓地合同追悼式が雨天の
中、関係者等約1500名が参列して行われまし
た。




正帽と正肩章を仕舞ったトランクケースです。


正帽も殆ど使用感がありません。










大尉の肩章と士官軍帽の帽章です。
肩章は桜花が一個取れています。






士官剣帯ですがバックルが欠です。そう謂えば御遺族の
御子息が子供の頃、バックルを付けて遊んでいたと仰っ
ておられましたので随分昔に紛失されたのかもしれません


正剣帯です。機関科の識別色が美しく映えます。




山野少佐の大尉時代の正衣袴です。時局柄、少佐の正衣袴
や通礼衣などは作らなかったものと思います。
殆ど着用しなかったのでしょう。使用感の少ない美品です。








海軍少佐一種軍衣です。参謀軍衣となっています。
山野少佐は、第九戦隊司令部付で機関参謀をされ
ておられたので、そのまま使用されているようです。
少佐の襟章は何故か桜花章が取り外されています。


山野少佐の所持されていた参謀飾緒を佩用した画像です。
参謀飾緒は殆ど使用感無く美品です。











〜海軍機関学校 生徒時代〜




大正元年に東京府で生まれた山野平氏は
名門・麻布中学から海軍機関学校へ昭和5
年に入学し、ここから海軍生活が始まります。
海軍三校は陸士などと同様に単に頭脳明晰な
秀才だけでなく運動能力に長けた文武両道の
超エリートが全国からしのぎを削り集められた
俊英揃いで将来の陸海軍しいては帝國を背負
って立つ人物として期待されました。まさに国の
宝超エリートの一歩を踏み出した瞬間の書類で
す。
昭和5年3月31日、42期生入校被命40名が海機
に入校します。この年(1930年)はロンドン海軍
々縮条約が英米仏伊日の五カ国で調印された年
でもあり、翌昭和6年は満洲事変勃発ときな臭い
時代でもありました。
麻布中学の同級生の集まりと思われます。
新入学時の42期生達
山野 平 生徒


舞鶴の海軍機関学校


入学式の記念写真です。


豪華な装丁の卒業アルバムに見る海軍機関学校
昭和8年…約80年前の卒業アルバムです。
しかも僅か36名の卒業生。40名の募集に
二千名の学生が受験した倍率50倍の超難
関エリート校です。…流石は立派なアルバム
です。国家を背負って立つエンジニアであり
海軍士官です。
卒業までの3年間もまさに激動の時代でした。昭和6年の盧溝橋事件
昭和7年の満洲国建国に5.15事件。卒業の年となる昭和8年には国際
連盟脱退。そして11月に卒業を控えた42期生は、5月に下級生制裁事
件により期生総員1か月の謹慎を命ぜられるなどありながら…多感な
青春時代を同期生と切磋琢磨しこの学校で育みました。












海軍三校と陸士など日本の陸海の将校教育を行う学校
はまさに質実剛健で全国から集った超エリート達を国軍
を背負い国家を背負う人材に育てるべく教育しますが、
特に海軍三校は英国海軍をお手本にしだだけに陸軍に
は無い貴族的な特権階級的な豪華さを感じる部分があ
ります。






海機生徒時代の山野少佐です。


剣道部で活躍した山野生徒は後列右端です。


夏はカッター訓練に!






ヨットに水泳に…!




文武両道で青春を謳歌する生徒達です。



二種軍装の山野生徒




寒そうな雪景色です。
さすがは海軍、寒中カッター訓練です。


兎狩り


兎追いしかの山…小鮒釣りしかの川…故郷の名曲が浮かんできそうな情景です。


冬はスキーに兎狩り
後列右から3人目が山野少佐です。


この時代に野球でも無くラクビーです。…何ともハイカラですね。












士官は乗馬も出来ないといけません!


京都御所の前を馬に乗り…。


舞鶴近郊の陸軍の兵営と思われます。恐らく舞鶴重砲兵連隊と想像します。




















昭和8年11月21日、海軍機関学校を卒業し39名の
42期生は海軍機関機関少尉候補生に任ぜられ練
習艦隊(浅間・磐手)内国航海(航程3.679浬)出発
しました。


卒業したら練習艦隊です!






〜少尉候補生
          練習艦隊〜






山野少佐の戦前のパスポートです。


21歳と4ヵ月の若者が海軍軍人としてキャリアをスタートさせた
時に用意されたパスポートです。この公用パスポートを持ち世
界を巡る航海に出る事から山野少佐の本当の意味での軍人
生活が始まります。エリート軍人として船出次第では戦前は出
世は思うがままです。但し海軍大学校など更なる上の階段をスl
テップアップする事が必要になりますが…国家は前途洋々たる
優秀な若者を集めて教育し莫大なお金を掛けて育成します。そ
して若者はこれに応えて軍人から政治家に転ずる者…または
財界に転じる者など何れにしろ国家の将来の為の礎となる人材
に多くが育ち…国家の為に尽力しました。








海軍三校の卒業生がお世話になる練習艦隊のメインが上の浅間と
下が磐手です。山野機関少尉候補生は浅間の乗組でした。
昭和8年11月21日、海軍機関少尉候補生となった海機42期生は
練習艦隊の浅間に乗組となります。コレスとなる海兵61期(116名
)、海経22期(15名)が同じ練習艦隊となります。同年12月11日に
旅順発芝罘(外国鎮戍)〜同年12月25日鹿児島帰着(中華民国沿
海巡航中警備の任を兼務)。昭和9年2月25日、馬公発マニラ・阿
弗利加・地中海方面(外国鎮戍)〜同年7月11日、パラオ帰着しま
す。昭和10年4月1日、任海軍機関少尉。同年3月29日、(戦艦”
伊勢”乗組)佐世保発馬鞍群島(外国鎮戍)〜4月4日、佐世保帰
着。

機関少尉候補生時代に約8か月に及ぶ練習艦隊勤務を終えると同
期生達は其々の新たなる任地や乗組の艦に移動し各々の新たな
海軍生活を開始し少尉へ任官します。


昭和9年度の練習艦隊の遠洋航海は地中海(スエズ運河経由)
です。司令官は松下 元 海軍中将です。
遠洋航海を記録した左上が写真のアルバムです。
右上が絵葉書を収めたアルバムです。
非常に几帳面にアルバムを整理されています。


昭和初期…1930年代の南欧、アフリカ、地中海やフランスなどの
珍しい写真が当時のまま記録されています。




各地の絵葉書もきれいに収められております。























上海に翻る日の丸と軍艦旗。後続の艦は磐手と
思われます。艦首の菊の御紋が印象的です。
上海特陸のカ式機銃車に毘式装甲自動車!
珍しいカ式機銃車(ガーデンロイドMk.VIb)…6輌を輸入したうちの2輌が写っています。


左上は芝罘にて士官マント姿の山野少尉候補生です。
右上は台湾博物館前で優しく微笑み記念撮影する姿です。
マニラ湾にて




インド洋を行く練習艦隊
石炭搭載と笑顔の機関少尉候補生達
スエズ運河を行く


この当時にエジプトの大ピラミッドを見学する日本人など軍人さん以外は
皇族・華族か財閥などの相当な富裕層位のものです。現代のような一般
観光客など存在しえない時代です。如何に恵まれた特権階級にあるか
が理解できると思います。また逆に謂えば日本政府がこれ等有為な将
来日本を背負って立つ若者に国費を出して広く世界を検分させている。こ
れを海軍が予算を取り行っていたと謂えます。しかし今も昔も変わらず…
雄大な景色です。











トルコ海軍兵学校の生徒と交流、右下はナポリのベスビオ火山


マルタ共和国カルカラの英国海軍墓地(現英連邦墓地)にある
日本海軍第二特務艦隊戦没者の墓です。左が山野少佐が撮影
したもの。右が現代の修復後(WW−Uで破壊)のものです。
ここは第一次大戦で日英同盟に呼応してドイツの潜水艦の猛威
に晒された連合軍側の船団護衛の為に派遣された佐藤 皐蔵
海軍少将を司令官とする第二特務艦隊が雷撃を受けた駆逐艦”
榊”と”松”の二隻が失われ78名の戦死者を出し…連合国各国
から賞賛を浴びましたが…その慰霊碑です。当サイトの稲垣
生起 海軍中将の所縁の品を紹介したページでも触れてあります
が…稲垣 提督が大尉時代に駆逐艦”榊”乗組でこの地中海で
当時、第一次大戦に参戦しております。興味のある方は見て下
さい(下のバーナーをクリックすると該当ページが開きます)。



平成29年(2017年)5月27日、シチリア島で行われたG7に
参加し帰国の前に安倍総理大臣夫妻はマルタ島を訪れて
大日本帝國海軍第二特務艦隊戦没者慰霊碑に献花し黙祷
されました。
日本の総理大臣が慰霊にこの地を訪れるのは初めての事
となります。丁度、今年の6月で100年の節目となるので実
に安倍総理の慰霊の訪問は意義深く英霊達もさぞよろこば
れたものと思います。戦後、特に最近は祖国の為に戦い命
を落とした英霊に対して崇敬の念を抱くことが憚れるような
世論形成がなされている傾向が高い中での献花する安倍
総理の姿に日本国民として嬉しく思いました。



侍…花のパリを行く!


マルタ島のバレッタ港です。右の艦が練習特務艦”浅間”で左が”磐手”


寄港先で賓客を招く…これら外交の一環も
海軍士官のたしなみとして身につけていく
形になるのでしょう。
演芸大会か赤道祭でしょうか…。






サン・ピエトロ広場
この写真は珍しいですね。イタリア・ローマで開催されていたファシスト党
の展覧会を練習艦隊の海軍将兵が訪問した時の答礼を受けている写真
です。(下の二枚はイタリアで一般公開されている写真です。)


フォロ・ロマーノでしょうか…?





遠洋航海中の浅間で発刊された浅間新聞を
全て几帳面に一冊の本にしています。
80年以上前に発行された艦内新聞ですが…見事に鮮明に
読む事が出来ます。今となんら変わらぬ日本人の姿がそこ
に見えてきます。
この浅間新聞とアルバム写真と絵葉書を見ていると
脳裏に練習航海の情景がまるで浮かぶようです。





各地の情報や見聞録など各地の大使館からの情報
などもまとめられています。





練習艦隊で満洲(新京)から台湾へ回ってきた山野少尉候補生
が基隆から出した絵葉書です。新京の田中静子と謂う女性に宛
てています。新京でお見送りしてくれた事へのお礼の葉書のよう
です。南国で開放的な気分を味わう若者の素直な心情が短い文
面に見えるようです。


初々しい笑顔の少尉候補生と椅子に座るのは少尉達です。


練習艦隊での遠洋航海も終わり其々の配属が決まると
同期生が一堂に会する事は殆ど無くなります。同じ釜の
飯を食う同期生約40名…その三分の一が敗戦後には
戦死して還らぬ人となり二度と会う事も叶わなくなります。
軍人と謂うよりまだ若者の風情を残す42期生です。



初めの配属となったのが戦艦”伊勢”です。
山野 機関少尉候補生が乗組していた当時の伊勢の画像です。
練習艦隊の遠洋航海から帰朝し少尉任官前の
次の勤務が戦艦”伊勢”乗組みでした。昭和9年
7月30日です(第四艦隊)。
この戦艦”伊勢”は後に航空戦艦に大改装されるも
敗戦前に呉軍港空襲により大破着底し敗戦を迎え
後に解体される運命を辿ります。



こうして海軍軍人としても本格的なキャリアが
スタートしました。山野 機関少尉候補生まだ
弱冠21歳の時でした。






〜少尉任官・海軍士官
           激動の海軍時代〜




戦艦”伊勢”乗組から8カ月後、機関少尉に昇進します。


通礼服姿も初々しい山野海軍機関少尉です。
正衣袴姿もバッチリ決まって凛々しいです。



昭和10年8月1日、軽巡”鬼怒”乗組(第四艦隊)
少尉任官後の初勤務は、軽巡洋艦”鬼怒”の乗組みです。


この軽巡”鬼怒”は、後の昭和19年10月26日にフィリッピンの
パナイ島沖で米軍機の空襲で3発の命中弾と多数の至近弾に
よる後部機関室の浸水により沈没しました。



昭和10年11月21日、駆逐艦”雷”乗組(第二艦隊 第六駆逐隊)
昭和11年4月29日、第二艦隊短艇撓漕競技優勝記念 駆逐艦 雷
二列目左から3人目が山野 海軍機関少尉です。
昭和11年4月13日、福岡湾発〜青島(外国鎮戍)、4月23日
寺島水道帰着。同年8月24日、馬公発〜厦門(外国鎮戍)、
同年8月6日、高雄帰着。
因みにこの駆逐艦”雷”は、大東亜戦争中、『敵兵を救助せよ!
―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』との本で有
名になった艦です。もっともこのお話しが起こるのは、1942年
3月…つまり昭和17年ですから…山野少尉がこの艦を降りて
5年4カ月後に起こる話です。この時期の山野少尉は大尉に
昇進して丁度、重巡”高雄”で同じように南方方面の作戦で太
平洋上で作戦行動に従事していた時です。



山野少佐の機少尉時代の招待状です。通礼装や正装で
参加します。山野少佐の前後位がギリギリ、古き良き海軍
の伝統や全てを経験できた世代でありましょう。この暫く後
に任官する士官達は大東亜戦争に突入すると正装などは
廃止され戦時一色で世界一周の卒業の練習艦隊なども勿
論無いし…ただただ戦争で命を摩り減らすのみで可哀想な
若者でしたが…ゆとりある時代は海軍は陸軍に比べ特に華
やかでした。

















昭和11年11月6日、重巡”羽黒”乗組(第二艦隊)
この重巡”羽黒”もまた昭和20年5月26日、ペナン沖海戦で英軍機
の攻撃と英海軍の駆逐艦群の放つ雷撃を3本浴びてペナン島沖で
撃沈し第五戦隊司令官 橋本 信太郎 海軍中将・艦長の杉浦 嘉十
大佐以下約四百名が艦と運命を共にし戦死しました。8年前の平成
15年にペナン島沖の水深66mの海底でダイバーにより羽黒が発見
されました。艦は正立状態で水没し上部構造が大きく損傷し艦橋や
マストに煙突になど破壊の跡が確認できると謂う。



重巡”羽黒”に乗組のまま中尉に昇進です。
昭和12年3月27日、寺島水道発青島(外国鎮戍)〜4月6日、
有明湾帰着。同年8月20日、名古屋発中支方面(戦地戦務)
〜8月24日大連帰着。9月4日、旅順発北支方面(戦地戦務)
〜9月24日、旅順帰着。9月29日、旅順発北支方面(戦地戦
務)〜10月7日、裏長山列島帰着。10月12日、旅順発北支方
面(戦地戦務)〜10月20日、旅順帰着。10月24日、旅順発北
支方面(戦地戦務)〜10月30日、旅順帰着。11月9日、旅順
発北支方面(戦地戦務)〜11月16日、旅順帰着。同年8月7
日〜9月7日(戦地戦務)…昭和12年11月一杯まで羽黒での
戦地外戦務が継続されました。



昭和12年12月1日、戦艦”長門”乗組(練習艦)となります。
同年12月4日より昭和13年6月16日、長門にて戦地外戦務
海軍中尉時代



封筒を持つ人形です。殺風景な軍艦での無聊を
慰めたものでしょうか。…封筒の宛書きを拡大す
ると

” 横須賀軍港
     軍艦長門第一士官次室

          山野 平 様
       ”

…戦艦”長門”勤務の時の写真のようです。

尚、この時期…昭和13年2月3日に横須賀鎮守府軍法会議判事を
命じられております。
上の通礼衣姿で記念写真の山野少佐(当時中尉)の横で真ん中に
座られている若い中尉は左胸に大勲位菊花大綬章(日本最高位の
勲章)を佩用されています。恐らく山野少佐とコレスとなる海兵62期
の音羽侯と思われます。(音羽侯爵は、皇族で朝香宮鳩彦王の第2
皇子 朝香宮正彦王 殿下です。昭和11年に臣籍降下され音羽 正
彦を名乗ります。音羽侯爵は第六根拠地隊司令部参謀として任地
のクェゼリン島で昭和19年2月6日に玉砕し戦死され海軍少佐に特進
されております。殿下が臣籍降下されたのは成人以降です。右下の
画像は大勲位菊花大綬章は、皇族叙勲で
「親王ハ満十五年ニ達シ
タル後大勲位ニ叙シ菊花大綬章ヲ賜フ」
で海兵入学前に大勲位菊
花大綬章を叙勲されておりました。)音羽侯は同期で同じく若くして
戦死された伏見伯と同様に若くして亡くなられた臣籍降下された皇
族男子であり写真等は他の皇族の方より少なく貴重な一枚だと思わ
れます。
音羽中尉は昭和12年12月に中尉に進級したばかり
で”長門”に乗組になられました。山野少佐が翌13
年6月に駆逐艦”朝顔”乗組に転じますが、殿下もま
た8月に上海特別陸戦隊に転じます。
因みにこの写真は以下に続く2枚の集合写真と同日に撮影された
もので昭和12年12月から翌13年6月までの間の天長節や紀元節
、海軍記念日などで撮影された戦艦”長門”乗組みの士官・准士官
の集合写真と思われます。

クェゼリン島で玉砕戦で戦死…享年30歳の若さでした。
その後、音羽家は継承者を欠き音羽侯爵家は廃絶となり
ました。

音羽 正彦 侯爵(朝香宮正彦王 殿下)と大勲位菊花大綬章です。


戦艦”長門”艦長以下純粋な乗組みの士官達の集合
写真です。士官・准士官に分けて三枚が残されてい
ます。顔ぶれから察すると恐らく昭和12年12月〜昭和
13年6月までの間の天長節や紀元節、海軍記念日で
の撮影と思われます。長門の40cm主砲が右隅に写っ
ていますが人の大きさに比べても如何に巨砲であるか
がよく判ります。
因みに艦長の横座られる砲術長は海軍中佐
久邇宮 朝融王 殿下です。やはり左胸には
大勲位菊花大綬章が輝いております。
艦長の中島 寅彦 海軍大佐も部下に二名も殿下が
居られると気を使って大変苦労されたものと想像し
ます。
久邇宮 朝融王 殿下は海軍中将で敗戦を迎えます。
戦後に臣籍降下で皇籍離脱、久邇 朝融を名乗られま
す。その後、事業を手掛けますが余り上手くいかず…
昭和34年12月7日に逝去されます。


戦艦”長門”の准士官一同です。叩き上げのつわもの
の中でも帝國海軍の最強の軍艦であり昭和17年2月
に戦艦”大和”に連合艦隊旗艦の座を譲るまで不動の
旗艦を務めた戦艦”長門”の准士官とあらば…さぞかし
強面が効いた事でしょう。謂わば帝國海軍最強の艦の
准士官達となります。
この後…10年も経たず通礼衣や正衣袴の正装を
する機会も無くなり消耗戦の末に偉大なる東洋一
にして世界に三大海軍国の一角を占めた帝國海軍
そのものが消滅するなど…この集合写真の職業軍
人達の誰一人として想像もしなかった事でありまし
ょう。
帝國海軍の最盛期の最強時代の戦艦”長門”
の乗組みの士官・准士官達の集合写真です。
昭和19年10月、ブルネイ泊地での戦艦”長門”の勇姿です。
後方に戦艦”大和”と”武蔵”が見えます。連合艦隊の最期の
威容です。


海軍将校勤務録です。山野少佐の少尉任官から長門
乗組みまでが記載されています。
















非常に真面目で几帳面に記載されています。まさにエンジニア
そのもので技術系…特に機関に関しての記載はさすがに機関
科将校で乗艦した艦の機関に関する詳細な記載があり実に感
心致します。









昭和13年6月30日、駆逐艦”朝顔”乗組(支那方面艦隊)。
第十六駆逐隊の所属ですが、後に第五艦隊〜第五水雷
戦隊などに艦の所属が変わります。
昭和13年11月、日支事変従軍記念・第十六駆逐隊 朝顔
昭和13年7月11日、於馬公乗船。7月24日馬公発中支方面(戦地戦務)
〜8月26日、高雄帰着。8月30日、高雄発南支方面(戦地戦務)〜9月17
日、馬公帰着。9月20日、高雄発南支方面(戦地戦務)〜11月17日、高
雄帰着(この航海中の11月15日に海軍機関大尉に昇進)。11月21日、
高雄発南支方面(戦地戦務)〜12月15日、馬公帰着。
駆逐艦”朝顔”も呉で敗戦を迎えるがその7日後に関門
海峡で触雷大破し浸水着底しました。
  







第16駆逐隊所属の駆逐艦”朝顔”に乗務中の11月15日に
大尉に昇進します。この時、朝顔は7月17より香港沖より
電白港に至る支那近海沿岸の監視封鎖、敵軍事施設への
攻撃・航空警戒に12月15日まで従事しています。
その後、12月28日〜30日に(大)横琴島攻略作戦に従事。
翌13年1月19日〜1月29日までは、紅梅湾敵前掃海に従事。
同年10月8日〜11月9日まで広東攻略作戦に従事します。
台湾での一コマです。妙に民族衣装が似合っています。
この時期には非常に台湾や支那に上陸する機会が多く
非常に多くの記念写真や絵葉書が残っております。



奥様との婚姻願いです。昭和14年1月12日に婚姻願出進立します。
昭和14年2月13日、婚姻の件が承認され、同年4月26日成婚。
5月2日に成婚届けが出されます。
若い青年士官と新妻の初々しい夫婦です。

仲の良い同期生の夫婦の写真です。




仲のむつまじさが伝わる素敵な笑顔の山野御夫妻です。
古き良き時代の日本人の姿を見るようです。


昭和16年6月1日、海軍工機学校高等科被仰付。
同年6月5日に着校。
海軍工機学校高等科学生の時の記念写真とです。






昭和14年12月1日に退校。同日、駆逐艦”若葉”機関長兼分隊長
に任じられ、12月14日、高雄に於いて若葉に着任(第21駆逐隊)。
昭和14年12月14日、若葉の工作長を命ぜられます。昭和14年
12月17日、高雄発南支方面(戦地戦務)〜昭和15年1月29日、
馬公帰着(昭和15年1月17日〜21日まで南寧方面陸軍作戦に
協力。)昭和15年2月5日、高雄発南支那方面(戦地戦務)〜3月
26日、台北帰着。(2月25日〜3月25日まで海南島掃討作戦に
従事。)します。尚、この間の3月5日に補 海軍工機学校教官兼
分隊長。3月29日、着任。



そして昭和15年5月9日、横須賀鎮守府軍法会議判事を
再び命じられます。









昭和15年、海軍工機学校の教官時代の写真です。
前列左から三番目の方が山野機関大尉(分隊長)
です。



昭和15年11月15日、水上機母艦”千代田”工作長兼分隊長に補せられます。
                  (連合艦隊)            
11月18日、海軍工機学校退校。昭和16年2月25日、中城湾発南支方面
(戦地戦務)〜3月3日、高雄着。


昭和16年12月4日、馬公発南支方面(事変地勤務)。12月8日、対英米戦宣戦
布告(大東亜戦争)〜南方方面(戦地戦務):12月4日〜11日、マレー上陸作戦
支援従事。12月14日〜17日、マレー・ボルネオ上陸作戦支援従事。12月20日
〜24日、比島上陸作戦支援従事。昭和17年1月11日、馬公帰着。昭和17年1月
14日、馬公発南方方面(戦地戦務):2月15日〜21日、第一次機動作戦(ポート
ダーウィン奇襲)に従事。2月25日〜3月7日:第二次機動作戦(インド洋方面)に
従事。〜3月11日まで南方方面全作戦支援に従事。昭和17年3月12日〜3月17
日は、米機動部隊邀撃作戦に従事。3月18日、横須賀帰着。4月18日、横須賀
発太平洋方面(戦地戦務)へ米機動部隊攻撃作戦に従事。4月22日、横須賀帰
着。5月1日、横須賀発太平洋方面(戦地戦務)へ米潜水艦攻撃作戦(潜水艦に
よる攻撃を受けた水上機母艦”瑞穂”の救難)に従事。5月19日、呉帰着。5月
22日、呉発太平洋方面(戦地戦務)〜5月24日、大湊帰着。5月26日、大湊発
北太平洋方面(戦地戦務)〜アリューシャン方面作戦に従事。6月28日〜7月13
日、北太平洋方面作戦に従事。7月13日、呉帰着。7月17日、呉発太平洋(戦地
戦務):8月20日〜9月5日、ソロモン群島方面作戦に従事。9月9日〜9月23日、
同じくソロモン群島方面作戦に従事。(10月5日、第9戦隊司令部付の補せられ
る)10月10日〜10月30日、ソロモン群島方面作戦に従事。(10月20日、第9戦
隊参謀に補せられる)
昭和16年4月15日、重巡”高雄”分隊長(第二艦隊)
昭和16年4月30日撮影


昭和16年11月…運命の日米開戦の1か月前です。




開戦以来、昭和17年末の第25特根への転属まで重巡”高雄”に乗艦
されておりました。


ありし日の重巡”高雄”
多くの艦に山野少佐は乗艦しておりますが、最も長い間勤務された艦は
この高雄です。開戦前後の激動期を1年半以上乗艦されています。
やはり想い入れが深いのでしょう。残された品々に
高雄の最後に関するこの冊子がありました。




恐らく敵兵を救助し艦に引き揚げた珍しい写真です。
アメリカ兵と思われる被服はボア付の毛皮(ボンバー
ジャケット)のツナギような感じから航空兵と思われま
す。
軍医が捕虜の米兵の脈を測っているようです。
九六式二十五粍高角機銃
四〇口径八九式十二糎七高角砲と薬莢です。
ミッドウェー作戦の支援作戦のアリューシャン攻撃に出掛けた時の
貴重な写真と思われます。角田少将隷下の第四航空戦隊を護衛す
る第四戦隊として瞭艦の重巡”摩耶”と共に出撃した重巡”高雄”の
甲板から山野少佐が撮影したものです。甲板の彼方の海上に写っ
ているのは空母”隼鷹”と思われます。下は拡大した写真です。写真
が古いのでこれが限界なのですが、そのシルエットからもやはり空母
”隼鷹”と思われます。
空母の後方の小型艦は、吹雪改型駆逐艦と思われます。護衛の
第七駆逐隊の三隻・・・”曙”、”潮”、”漣”の吹雪改型駆逐艦が
参加していましたのでそのいずれかと思われます。
戦後に寄稿された文章にもアリーシャン作戦は敵との戦いよりも
寒さとの戦いとの記載がありましたが…実に寒そうな防寒装備の
山野少佐です。


重巡”高雄”の主砲発射の写真です。…50口径
20.3cmの2連装砲5基10門を搭載しておりました。
実に機関科らしい写真です。






アリューシャン方面及び北太平洋作戦が終わり呉に帰着した
昭和17年7月からソロモン作戦に出撃する8月までの期間の
写真と思われます。




防暑衣姿で撮影されておりますので昭和17年8月〜11月までの
ソロモン方面での作戦活動に従事中と思われます。


昭和17年11月2日、トラックにて高雄を退艦し、軽巡”北上”に乗船。第九戦隊
司令部に着任。第九戦隊参謀となる。尚、11月1日付けで勅令により海軍機関
大尉より海軍大尉となる。以降、識別線が廃止となる。(12月10日、横須賀鎮守
府附被仰付)、12月15日、第二南遣艦隊司令部付。12月29日、第25特別根拠
地隊参謀兼副官。昭和18年1月3日、佐世保にて北上を退艦赴任。
昭和18年1月9日、アンボンに向けて横浜発南太平洋方面(戦地甲)〜



昭和18年1月13日、第二十五特別根拠地隊司令部に着任。参謀兼副官
として活躍を開始します。昭和18年11月1日、任海軍少佐。
ニューギニア(西イリアン)カイマナ飛行場での写真です。中央で
軍刀を抱え映る三種軍装の将官が第25特別根拠地隊司令官の
鈴木 長蔵 海軍少将です。左端の方は敗戦時、陸軍のジャワ軍
司令官だった馬渕 逸雄 陸軍少将。右端が第25特根の着任され
参謀兼副官をつとめた山野 少佐です。
左端の馬淵閣下は敗戦の半年前に独立混成第二十七旅団長として
ジャワに赴任し日本軍憎しで復讐に燃える蘭軍を相手に孤軍奮闘の
交渉を行い多くの日本兵を帰国させ…現地の日本兵の多くが『馬淵
閣下のお蔭で帰国できた。”と謂わしめた人物でした。愛知県出身で
士候30・陸大41で歩兵科、中支那派遣軍報道部長、支那派遣軍報道
部長、大本営報道部長と報道畑一筋を歴任し彩管報国の理念を打ち
立てて画家に戦争記録画を描かせ従軍画家を多く世に送る切欠をな
した人でもあります。”麦と兵隊”の火野 葦平こと玉井 勝則 陸軍伍長
に執筆の時間を与え育てたのも南京時代の馬淵閣下です。今も世に
残る豪華な”聖戦美術”を世に出したの大本営陸軍報道部長の在任
中の彼の傑出した仕事の一つです。この写真は第五師団参謀長として
ジャワの独混27旅団長に2月に転じる前にニューギニアで撮られた珍
しいワンショットです。




鈴木 長蔵 海軍少将

写真からは劇的に痩せた姿は身受けません。しかしこのニューギニアの
地で四度のマラリアの罹患で死線を彷徨い、つい最近になり山野少佐の
御子息が軽巡”酒匂”で一緒だった阿部大尉に参謀時代の写真を郵送
でお見せした所、お返事の中で敗戦前後に見た山野少佐が非常に痩せ
ていたのは病み上がりのせいだった事を初めて認識したとの記述があっ
た事をお聞きしました。昭和19年1月10日、免兼職。3月1日、横須賀鎮
守府附被仰付。3月16日、二十五特根退隊赴任。3月22日、横浜帰着。
3月23日、横須賀鎮守府着任。4月1日、海軍機関学校教官兼監事に補
せられる。同日、横須賀鎮守府退庁。


昭和19年10月1日、勅令により海軍機関学校令廃止。同日、海軍
兵学校(舞鶴分校)の相当職員に補命せられる。昭和20年2月20
日、海軍兵学校教官兼監事(針尾分校)に補せられる。2月24日、
退庁赴任。


自宅に生徒を招く山野少佐です。




宮島です。海軍兵学校の教官で敗戦を迎えております。
カッター訓練と思われます。
面白いのはオールを持ち記念撮影する海兵生徒の後方で
山野教官に下士官が1名と水兵が2名が待機しています。
昭和20年3月1日、海軍兵学校針尾分校着任。3月15日、兼針尾海兵団
教官。同日同日、着任。4月1日、兼針尾警備隊附。同日、着任。7月9日
、海軍兵学校針尾分校が山口県防府に移転(防府分校)。
海軍兵学校生徒と記念撮影する山野少佐です。
この写真も数少ない少佐時代の写真の一つで
す。海兵生徒は恐らく76期生と思われます。
昭和20年8月15日、敗戦。昭和20年9月20日、軽巡”酒匂”機関長に
補せられる。昭和20年10月1日、海軍兵学校防府分校を退庁赴任。


教官として担当した海機55期生の顔写真です。










〜 敗戦・復員輸送航海 〜
  (特別輸送艦”酒匂”)




上はありし日の軽巡”酒匂”。下は武装を
取り去り特別輸送艦になった酒匂です。
上は砲塔から砲を外す前の酒匂です。


昭和20年10月6日、舞鶴に於いて酒匂に着任。11月30日、予備役編入
昭和20年12月1日、充員召集・第二復員官(高等官五等)に任じられ
ます(第二復員省)。昭和21年1月27日、米第五艦隊に編入。昭和20年
2月20日、充員召集解除。
特別輸送艦”酒匂”の艦橋付近…砲座がありますが
高角砲や連装機銃が撤去されています。
既に海軍は消滅し海軍少佐でなく第二復員省
の官吏である第二復員官として特別輸送艦”
酒匂”で復員輸送業務を担当した際の身分証
明書です。
左上は酒匂の甲板上で下士官水兵の撮影した写真と思われ
ます。既に階級章などは全て取り外してあります。また兵装を
外し特別輸送艦となった酒匂の艦橋がバックに見えます。主
砲は無くなりましたが艦橋の電探(レーダー)は、そのままの
ようです。右上は艦内で食事を取る副長の小野寺中佐と思わ
れます。
階級章を外した酒匂の士官達です。昭和21年元旦に
ウェワク近海で撮影された写真です。


横須賀で米海軍の将兵に酒匂を運航を指導した際に使用した
米軍発行のID(身分証明書)です。

ビキニに運ばれ係留された酒匂。星条旗が艦首にある。
撮影日は昭和22年6月15日とあります。






原爆実験3日前の7月1日の撮影の酒匂の写真です。
酒匂が沈められた昭和21年年7月1日の1回目の原爆実験 エイブル (ABLE)のキノコ雲。
撃沈前の原爆を喰らった悲惨な状態の酒匂の写真です。
対比すると原爆の 爆風の凄まじさが判ります。



多くの海機42期の同期生が海軍少佐で従六位で民間に下りますが
敗戦後の復員官として活躍など一連の仕事に対してと思われますが
昭和21年4月19日に叙正六位です。何しろ後年自衛隊に進み海将補
や空将補、一等陸佐など将官や大佐クラスに進んだ同期でも従六位
のものも居られましたので、しっかりと評価されたものと思います。


敗戦直後の横須賀港で撮影した米戦艦”アイオア”と思われます。






〜恩給申請時に記載した
    履歴書(軍歴)の正・副本〜



恩給の申請に作成した履歴書正本




海軍の履歴書です。










〜敗戦後生活
   サラリーマン〜定年後時代〜




戦後海軍を辞めて4年間…就職先が見つからず苦労
された山野少佐は、昭和25年5月に(株)明治屋に
入社します。門司出張所を皮切りに…持ち前の頑張り
と努力を発揮し北九州支店長から本社の関西調査部
長をされて定年、次の会社に移動されています。この
写真はまだ昭和20年代後半か30年代と思われます。
明治屋の門司出張所時代の頃と思われます。




山野少佐の多彩な一面を見るような表彰状です。
昭和29年に描かれた絵です。








残された所持品にあったスケッチ画です。朝鮮戦争の時の釜山港の
様子を知り合いの船長が書いた絵を頂いた物と思われます。やはり
かつて海軍々人として我庭のように出入りした朝鮮半島や釜山港の
様子が気になったのでしょう。


戦後21年目の慰霊祭です。
昭和40年代か50年代でしょうか。お正月と思われます。
ちゃんと国旗が掲揚されております。御家族でのスナップ
です。三人のお子さんに恵まれ戦後も戦前と変わらず一
生懸命に真面目に生きてこられた様子が伝わって参りま
す。まさに古き良き時代の日本の家庭を垣間見る感が伝
わってくる写真です。


結婚式の仲人をされる山野元少佐です。






全ての職を退かれた後は想い出の地を巡り旅をする事が
多かったようです。御夫妻で仲良く旧海軍関係の会にも
積極的に参加されておりました。











かつての教え子達である76期生と舞鶴の海機校跡を巡ります。
既にかつての教官も高齢者なら生徒達もまた高齢者です。


10年余り前に懐かしき顔ぶれで集いし海軍士官と士官の卵達も
…教官である山野少佐が亡くなられ…76期生も櫛が欠けるよう
に教官の後を追われ…今も健在で居られる皆様も齢80歳を超え
られるようです。




現在は海上自衛隊の舞鶴地方総監部が置かれ、この下に
第44掃海隊と舞鶴警備隊があります。










教官方と代表幹事による鏡開き。左から4人目が山野元少佐
海上自衛隊東京音楽隊による記念演奏











旧海軍関係の会誌などに投稿された山野少佐の
記述や対談などを掲載しました。





かつての教え子である76期生が会報の中で伝えた
山野少佐が亡くなられた事を告げた記述です。



同期生代表からの弔辞です。




こちらの同期生代表である長束 巌氏(元海軍少佐)は、2年前の平成9年に
NHKが放映した”NHKスペシャル 日本海軍 400時間の証言”の第二回 や
ましき特攻(2) の中で長束 巌元少佐(97歳)として登場されておられる方
です。空技廠飛行機部第二工場主任として特攻機 ”桜花”の主翼と艤装を
担当した方としても有名な方です。



かつての教え子となる海兵76期(海機57期)の方からの弔辞です。



79歳の最後の入院前に80歳までに仕上げる予定だった自叙伝の原稿
です。昭和の特に古い時代の方らしく…新聞の折り込みチラシの裏紙を
切って原稿綴を作っています。…祖父母や父母やまだ小さな子供だった
頃を思い出します。
残念ながら大まかな概要を考えただけで完成させる
事無く…お亡くなりになられました。


山野少佐の遺された品の中には皇室関係、特に
昭和天皇に関する崩御の号外から様々書籍、雑
誌から新聞の切り抜きなど多数が残されておりま
す。
昭和8年10月30日の卒業の約1か月前に天皇陛下が海軍機関学校に
行幸に際し御紋菓下賜せらる。の記載が履歴書にあります。…以来、
56年間…二度と拝謁する事は叶いませんでしたが、深く海軍と共に心
の奥底に陛下も居られたものと思います。


中の記事などに赤線が引かれ、時に書き込みなどもあり
ました。やはり特別な想いがあったものと想像します。


昭和天皇に限らず皇室全般のニュースを切り抜かれスクラップ
されています。やはり皇室への強い崇敬の念想いを感じます。

人の上に立ち指導する立場にあった者は、時代が変わり立場が変わり
組織が変わっても…やはり人の上に立ち教えを説く立場に再び立つ事
がよく判ります。その良い例が山野少佐の人生だと思います。敗戦を機
に職業軍人であった山野少佐の人生は、民間のサラリーマン人生へと
大きく舵を切ります。しかしサラリーマンの世界でも、その非凡なる才能
を存分に発揮し…(株)明治屋の北九州支店長から(株)明治屋本社
関西調査長、定年後は出向し、(株)メ―ユーの取締役営業部長兼
(株)メイカン取締役人事部長を務めます。その間、家庭にあっても庄司
小学校PTA会長、門司高校PTA会長、また仕事関係でも関門港沖組合
長、そして地域住民として領内区長兼町内会長、杉山町議選挙後援会
長などを歴任しておられます。その底知れぬパワーとバイタリティーには
舌を巻き…実に頭の下がる想いが致します。

こうして戦前・戦中・戦後を逞しく一生懸命に生きられた山野 平 元海軍
少佐の人生の一端を…その遺された記録から振り返るだけでも…その
人生が決して平坦なもので無く、まさに山あり谷ありで時に厳しい状況が
待ち受けていた事は、容易に窺い知ることが出来ます。軍人時代は海機
卒業以来、常に第一線の艦隊勤務をこなし陸上勤務は海軍工機学校高
等科学生時代と同校教官時代だけです。日中戦争、その後の大東亜戦
争を通して通して常に第一線の艦隊にあり…生きて戻られたのは運不運
で、単に山野少佐の運が強かったとしか謂いようがありません。そしてあ
のニューギニアの海軍陸戦隊勤務でも四度のマラリアの罹患で死線を彷
徨いながら無事に帰国し体力を回復させながら敗戦まで海軍機関学校か
ら海軍兵学校の教官を務めたのも…全ては運の強さであり、神仏が山野
少佐を生かしてくれたとしか謂いようがありません。戦後も復員輸送に汗
を流され…最後まで残った連合艦隊旗艦でもあった戦艦”長門”…これは
中尉時代に乗艦した艦でもありました。そして”酒匂”…ビキニで沈む運命
の両艦を最後の帝國海軍々人として見送ったのも山野少佐ら数少ない軍
人だけでした。その後の敗戦の混迷期は…働く場も無く就職浪人を余儀
なくされ…エリート達にとっては失意の連続だったと思われます。やっと民
間で職を見つけサラリーマン生活に入ります。

多くの日本国民がこの時代、同じ焼跡の敗戦の痛手を多かれ少なかれ背
負いながら、ただ生きる為に再び厳しい別の戦いを余儀なくされました。
そして戦後の混迷期を抜けていき、日本経済も奇跡の復興を果たしました
。それは戦前を遥かに凌ぐ経済的繁栄であり、その原動力となったのは謂
うまでもなく山野少佐等の戦前・戦中を生きた世代である事は間違いの無
い事実でありましょう。我々、平和を享受し今を生きる戦後の世代は…気が
付けば既に社会が豊かで平和な日本に生まれました。その平和と豊かさと
幸せを築いてくれた先人達がいる事を忘れてはなりません。この繁栄と豊
かさは…戦争で亡くなられた多くの英霊達と生き残った多くの日本人達が
築いてくれたものである事を知り、感謝の念を忘れてはなりません。…先の
戦争で亡くなった英雄・軍神や名も無き英霊達だけで無く…戦争を生き延
びて焼跡の復興に力を注いだ祖父母や父母の世代への広い感謝の念が
必要だと感じてなりません。

特にマスゴミの論調はとかく反日一本やりで理不尽を極め…己が主張の
観点でしか歴史も人も見せません。しかし、こうした大多数の愛国の心で
大東亜戦争を戦い生き死にした圧倒的多数の庶民・国民が居られた事も
忘れてはならない事実であります。こうした事実を今、スポットを当てて紹
介する事例を私は余り見た事がありません。そんな反日の蔓延る現在だ
からこそ…最後の帝國海軍軍人は、高名な提督や軍人、軍神となられた
方でも無く…ごく当たり前に我々の社会に溶け込み隣に居られるような普
通の方である故・山野 平 元海軍少佐を逆に紹介させていただいた次第
であります。

また最後に亡くならた山野 平 元海軍少佐をはじめとする多くの戦後日本
の復興に力を尽くした76期生をはじめ戦前・戦中派と呼ばれる多くの先人
同胞の皆様に改めて感謝の念を捧げると共に既にお亡くなりになられた
方々の御冥福をお祈り致します。

                        
                      皇紀2671年1月  憂國烈士




 軽巡洋艦”酒匂” 艦長用の双眼鏡 




この酒匂の艦長用の双眼鏡は、他の多くの旧軍の品々同様に接収に来た
米兵が凱旋帰国の記念品や土産物品として公然と略奪し米国に持ち帰った
ものです。戦後、年数が経過し米国内のオークションで売買されているのを
日本人が見つけ里帰りするケースが多いのは、酒匂と同様に核実験に供さ
れた…かつての日本海軍の象徴だった連合艦隊旗艦も務めた戦艦”長門”
の艦内備品の携帯電気信号器と手旗も同様に里帰りし収集し手元に保管し
ております。この酒匂の艦長用の双眼鏡は、この特別編のページの公開前
に高名な軍装研究家で収集家であるT様から初めに買い取りの打診があり
ましたが高額過ぎて手が出なく諦めた品でした。その後、ヤフオクで出品さ
れ価格が三分の一にまで下がった為、入手した次第です。やはり縁があっ
たようです。よく品物同士が呼び合ったりする事を感じる事がありますが…
今、この双眼鏡も山野少佐の御子息が寄贈してくださりました山野少佐の
軍装品と一緒に保管しております。以下に戦艦”長門”の備品だった携帯電
気信号器と手旗(紅旗)を再掲します。
”酒匂”は、阿賀野型軽巡洋艦として、昭和19年11月30日に完成しています。
。天一号作戦で”矢矧”と共に呉軍港に昭和20年3月終結します。軽巡洋艦
”矢矧”は戦艦大和と共に沖縄へ向けて特攻出撃いたしますが、”酒匂”は燃料
不足を理由として岸壁に残され、舞鶴に回送されて敗戦を迎えます。軽巡洋艦
以上の艦で、唯一無傷で残った帝国海軍の残存軍艦です。戦艦”長門”と共に
原爆の標的艦としてビキニ環礁に回送され、”酒匂”は水爆の直下に居ましたが
丸一日炎上した後に沈没しました。この双眼鏡は高名な研究家でコレクターで
ある方が20年程前にアメリカのミリタリーオークションで入手した物です。舞鶴
で接収された時に、米兵に土産として持ち帰られた物と思われます。海自の
護衛艦と同様であれば…この双眼鏡は艦橋の艦長席の後ろの棚に入っていま
す。艦長は海軍兵学校第49期の大原 利通 海軍大佐で、”磯波”、”霧”艦長、
第19駆逐戦隊司令を歴任されておりました。双眼鏡ケースに、”酒匂”、”四一
九五”と記されて双眼鏡に”艦長”、”航一”の文字が入っています。”四一九五”
は、”酒匂”の艦籍番号と思われます。レンズはほぼクリアーで目盛は斜めにな
っている程度です。また双眼鏡のケース紐の欠損と、底の糸が一部切れていま
す。




艦長の反対面に”航一”とあります。これは航空第一戦隊の略と思われます。
葛城、天城等を中心に編成されました。昭和20年2月に大和が編入され、そ
の時に”酒匂”も編入されたと思われます。大和の最後の出撃、撃沈後、航空
第一戦隊は解散致しました。
























米国からの里帰りした戦艦”長門”の艦内備品
          (携帯電気信号機と手旗紅旗)




1945年9月2日、米戦艦”ミズーリー”の艦上にて
連合国に対して降伏文書に調印しました。この時、
戦艦ミズーリの護衛任務及び日本海軍艦船の武装
解除任務の為、東京湾に寄港した米駆逐艦 
アルヴァート M.ムーアの乗組員であったアラン
ガード氏によって記念の戦利品として持ち出された
品との事です。

ありし日の戦艦長門


携帯電気信号器 安全電機工業株式会社 
昭和7年12月製造とプレートに記載されて
います。
米駆逐艦 アルヴァート M.ムーア


こちらもムーア氏の放出品で当時、長門の備品
であった手旗です。紅旗のみ2点です。












一枚の写真から…




哀しい一枚の写真です。凛々しい好男子の
海軍少尉です。兵学校出の本チャンか予備
学生出のスペアーか判りません…。昭和19
年の年末の日付があります。特攻に出撃さ
れたものと思われます。










最近発売されたばかりの連合艦隊司令長官”三船敏郎”の
冬服バージョンです。襟の階級章が貧乏臭くもう少しお金を
掛けて欲しい所ですが…凛々しい三船敏郎さんのイメージ
がしっかりできていて連合艦隊司令長官の威厳が感じられ
ます。
海軍士官短剣と軍刀は手抜きせず立派な出来です。



遅れて発売された連合艦隊司令長官”三船敏郎”の夏服バージョンです。
















四分の一スケールの手作りの真鍮製模型です。今回黒塗りを
御願いして製作者から戻って参りました。真鍮のそのままの色
も美しく楽しめますが…こうして黒塗りされると実物のベルグマ
ンのようです。上海の街を駆け抜ける海軍陸戦隊の勇士達の
姿が脳裏に浮かぶようです。