旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_27













Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








完全手作り真鍮模型シリーズ

1/25 海軍 滑走艇(武装プロペラ船)

  (揚子江掃海任務を再現
     した鎮魂の真鍮精密模型) 




匠の今年最後の大物作品となる滑走艇です。非常にレアで
資料が少ない作品に脚光を浴びせました。元々、戦前に国
内の各地でプロペラ船(当時は、飛行艇と謂いました。)は
河川での交通手段として使われておりました。この滑走艇は
熊野川で使用されていた飛行艇(プロペラボート)を徴用し一
部を新造し大陸の河川(主に揚子江での掃海任務)に使用
した物で大小50隻余りが、現地で使われました。何しろ元々
が木造の和船ですから、水深が50cm程度の浅瀬でも運用が
出来、船底がキールの無い平底なので掃海艇が使えない河
川で活躍しました。支那軍は簡易の機雷を多数河川に設置
し日本側の被害は少ないものではありませんでした。資料は
少ないですが…日陰で活躍した滑走艇です。海軍だけでなく
陸軍も運用しています。しかしその殆どが掃海任務中に爆発
して河川等の藻屑に消えたと謂われています。華々しい戦場
の影でスポットライトが当たる事無く戦死して言った先人同胞
が居た事を忘れてはなりませんね。そんな数少ない消えかか
った歴史にスポットライトを浴びせた鎮魂の模型が今回の匠
の本作品となります。
匠製作で世界で唯一の真鍮模型です。資料に基づき正確に再現され
た逸品です。全長600o、重量が3.000gの大物です。過去にマイナー
なレアもので模型化された事があったそうですが、正確なものは無か
ったようです。
オール真鍮製で再現された滑走艇。救命胴衣を着けた水兵
達と軍艦旗に船首にある留式旋回機銃の回転銃座が軍用
を意識させますが、元々が和船で木造なので銃弾が貫通し
て被害は甚大だったようです。しかし木造の和船である事が
水深50cm程度の浅い水域でも支那兵の設置した簡易機雷
を掃海するにはスクリューなどの突起物が無く、木造で磁気
にも強いのは長所ですが、河川の対岸から狙う撃ちで銃撃
されると遮蔽物も殆ど無く裸に等しい状況ですね。また機関
が丸見えで据え置きであるので…ここをやられて破損すると
身動きが取れなくなるので想像しただけで悲惨です。
真横から見ると船底の平たさがよく判ります。当然、
スクリューも無く舵もそうですが水中へ突起している
部分は皆無です。
平時ならともかく戦時であれば乗りたくない船の筆頭でしょう
ね。まだ陸軍の装甲艇(AB艇)さきがけのような物ならまだし
も…この手の木造船は海洋の漁船より始末が悪いですね。
まあ兵種や配属先も運不運ですから…。この滑走艇は多くが
支那の河川で藻屑と化したようで多くの配属将兵が船と運命
を共にした事と思われます。
海軍関係者や小艦艇の研究家でも余り認知されてい無い
劇レアの滑走艇です。資料の少なさもさることながら、揚子
江の掃海に手を焼いた海軍が苦肉の策で運用を決意し白
羽の矢を立てた熊野川の飛行艇です。熊野川での運用分
の6隻の徴用では足りず、横須賀海軍工廠で増産し揚子江
で運用したこの滑走艇。この匠作品は海軍が設計図を起こ
し増産した方でなく…徴用した6隻の熊野川バージョンを再
現したものです。海軍の設計増産タイプは、基本的には、
この熊野川の飛行艇をコピーしたもので大きな変化はあり
ません。
数少ない資料と証言から日中戦争時に海軍が大陸の河川
やクリークに仕掛けられた機雷に往生していました。揚子江
では度々、輸送船が触雷し撃沈し、クリークでも漁船が木端
微塵になりました。大河の機雷除去をするだけの目的として
海軍当局は極端に喫水の浅い熊野川のプロぺラ船に白羽
の矢をたてました。喫水僅か30cmという熊野のプロペラ船
であれば機雷が敷設された浅い水面でも安全に航行できる
と考えられました。こうして熊野川で使用されているプロペ
ラ船に横須賀海軍工廠で急造されたプロペラ船を合わせて
滑走艇隊を編成しました。因みにこの時に熊野川から徴用
されたプロペラ船は七隻でした。
このプロペラ船の扱い方を指導する為、地元からプロぺラ
船の生みの親である脇川幸治氏を筆頭に四名が船の操船
と機関の修理指導の為、軍属として徴用に加わりました。
彼等の任務は揚子江の機雷の掃海でありました。昭和13年
3月に七隻のプロペラ船は先に貨物船で新宮を出港、四名
の軍属は別便にて夜間に出港して門司で横須賀から来た
海軍の要員の将兵と合流し揚子江入りしました。そこには
既に横須賀海軍工廠で急造されたプロペラ船も到着してお
り、早速、滑走艇隊による支那の浮遊機雷の掃海作業を開
始。その掃海方法は二隻のプロペラ船が川の両岸に沿って
航行し、丁度、トロール漁のように網を流し上流に向けて航
行し、一定の距離で川の中央に二隻がより網をしぼります。
網の中に引っかかった機雷を別の機雷処理班の船が狙撃し
たり機雷を投げて爆破処理しました。その後に河用砲艦が
航行する謂う方式で掃海を行いました。掃海の終わった地
点は赤旗が立て次々と海軍の艦艇が遡上したと謂います。
支那の機雷はドラム缶の大きさで角が4本のタイプ。この掃
海方法で滑走艇隊は徐々に前進して九江から漢口近くまで
至りました。掃海中に支那の航空機による機銃掃射を見舞
わる事もあり、4〜5隻のプロペラ船が触雷して吹っ飛びまし
た。海軍は掃海作業を急がせました。この理由は揚子江が
減水域に入る前に掃海を終えないと作戦上必要な艦艇を奥
地に送る事が出来なくなる為でした。こうして揚子江の掃海
作業は一年で終わり、四名の軍属は帰国の途に就き、途中
広島の海軍司令部で慰労の言葉を掛けてもらったと謂いま
す。新宮からのプロペラ船は海軍が買い上げしたようで現
地に残しましたが、その後にこのプロペラ船がどうなったか
は定かでは無いようです。
勿論、匠の作品でからプロペラがスイッチで回り稼動
します。揚子江掃海任務バージョンの滑走艇です。



この模型は真鍮製なのでとてもしっかりした武装船のような
感じですが、実物は木造和船ですので銃撃されると弾丸が
貫通します。掃海中に攻撃されたら内心冷や冷やもので生
きた心地がしなかったものと想像します。
面白いもので地元では空も飛ばないのに飛行艇と呼ばれて
いたプロペラ船ですが、名前の由来は、古い飛行機のエン
ジンを取り外して使った事からだそうです。戦後も長らく使わ
れましたが、低燃費で高出力の小型船用のエンジンが広ま
ると次第に姿を消しました。今では国内各地の川下りの観光
用の小型船でこのタイプのものを見る事はなくなりました。





エンジンはトラックのエンジンを船舶エンジンに改造し
冷却循環の使用設定になっております。大型ウォー
ターポンプで河川の水をホースから吸い上げて給水。
一時冷却の小さいラジエター、ダイナモにクランクブ
リーに連動して革ベルトで三点が回り、精密に再現さ
れております。
エンジンから両舷に向けて給排水のホースが水面下に
下りているのが判ります。またその先はゴミが入り込ま
ないようにホースの先に金網が付けられているのが判
り右上の左舷側のホースが給水用で下の右舷用のホ
ースが排水用のものとわかります。



この上の画像を見ると喫水が30cmと謂うのがよく判ります。何しろ
舵すら船底より下には降りてません。河川専用の掃海専門の船と
して白羽の矢が立てられたのがよく判ります。
和船ならではで喫水の浅さは浅瀬での掃海に適していたでしょうが
どう見ても対岸から銃撃を受けたら一溜まりも無いのは一目瞭然で
す自軍の占領地で敵対勢力が完全に駆逐された後の掃海任務は
問題ありませんが、安定してい無い地域での掃海作業は、被害が
多かったものと想像されます。



唯一の武装がこの留式機銃一丁です。




戦前の熊野川飛行艇株式会社の乗船記念絵葉書です。
不思議なのは空を飛ばないのに飛行艇と呼ぶ事です。
勿論、空を飛ぶ飛行艇は存在していますから、海軍が使
用したように滑走艇とか呼ぶのが自然だと思いますが…
とても不思議に感じました。しかし後から飛行艇の由来が
わかりました。当初は古くなった飛行機のエンジンを取り
付けて運行したので飛行艇と呼ばれたとの事です。
下のポスターは明らかに戦後のものでしょう。プロペラ船は
戦後も昭和40年代半ばまで使用されておりました。戦後は
もっぱら観光用ですが、戦前は陸上交通が発達できなかっ
た熊野川流域の主に新宮と本宮を結ぶ苦肉の策として発
達したもので人員の輸送だけなく物資輸送や様々な列車や
トラックの代わりを果たした交通手段でありました。



上と下の画像は海軍で運用されていた時のものです。
上は上海観艦式とありましたが、上海で観艦式が行
われた事はありませんので海軍記念日や何かの式典
で現地で撮影されたものと推察します。下は係留され
ている滑走艇四隻です。左端の比較的小さな滑走艇
は小さな軍艦旗を掲げています。



匠が下に掲載した熊野観光協会様よりいただいた資料を
もとに製作の為に作った下図です。上に掲載した海軍の
武装滑走艇バージョンを正確に再現しています。



親切な熊野観光協会の方が倉庫から当時の船大工さんが
製作した”くまの号”の模型を出して採寸をして各部の写真
と一緒に匠のもとに送って下さったと謂うことです。上下の
木製模型は民間船当時、運用されていた”くまの号”の模型
だそうです。しかし実に親切な観光協会様ですね!
上は操舵室から船の後方を撮影したものです。また下は
エンジン部分になります。客席部分が幌でなく木造で屋
根と窓が設けられ天井部分がサンルーフのように開放式
になっていて幌がつけられています。
このプロペラ船が各地で運用されていた時期は大正10年頃から
です。熊野川の飛行艇は昭和40年代の半ばまで運用されていた
ました時代の趨勢で燃費効率の良い通常のスクリューで航行す
る船が主流になりプロペラ船(飛行艇)は姿を見なくなりました。
現在見掛けるのは米国でよく見かける小型軽量で湿地帯などで
運用されているエアーボートですが、人口密度の高い日本でも
昨今は災害等のレスキューで使用される姿を目にするようになり
ました。確かに水害の地域では重宝しますし、雪上や砂地でも
運用が出来るのは汎用性が非常に高く魅力的です。特に北海道
の釧路湿原など積雪もする地帯には有用性がある気がします。






動画再生の際はページTOPのMP3の音楽を止めて
お楽しみ下さい。




現在主流のエアーボート(プロペラボート)の紹介です。
米国の湿原地帯での運用は有名で警察官などがこの
ボートでパトロールする映画やドラマがあったのを記憶
しています。





使用が限定的で特殊だった事もあり、資料が
殆どありません。時々、上記のように僅かに
触れられている程度です。大発などに比べる
と雲泥の差と謂えます。




           ↓
上のバナーをクリックすると熊野川で
観光用に使用され海軍に徴発されて
揚子江で軍務に就いた下りの説明が
見る事が出来ます。下は、上記サイト
の説明の一部です。



奇遇と言うのか…何かの縁を感じるような事がままありますが
このページの下に掲載した”塩田海軍大尉の資料”この方は
五等木工兵からスタートし一等木工兵、三等船匠兵曹〜船匠
兵曹長、特務機関少尉、特務工作中尉から昭和17年改正で海
軍大尉に昇進し敗戦時は、第百一海軍燃料廠のパリックパパ
ン出張所勤務で33年の軍歴を終えた古強者のエンジニアです。
この方の将校録には幾つもの艦艇図面や写真がありますが、
その一つにこの珍しい滑走艇の設計図がありました。偶然にあ
るのを見つけたので…タイムリーと言うよりもとても不思議な感
じを受けました。
この滑走艇自体が珍しいもので海軍でも知る人も少ない
希少兵器ですが…これまた珍しく希少な船匠准士官出
身の技術系特務士官が設計図を所持して…たまたま匠
の作品を紹介するページにこの塩田大尉の資料を出す
形になったものですから…。
因みにこの図面が熊野川の徴用プロペラ船を元に
海軍が増産の目的で設計図を起こしたものです。横
須賀海軍工廠にて製造され、初めに徴用された6隻
のプロペラ船と共に揚子江に送られましたが、熊野
川バージョンと若干違いがあります。海軍側で改良を
加えたものと思います。匠の作品は、この海軍バー
ジョンでは無く、徴用された熊野川のオリジナルバー
ジョンの作品となります。










戦艦”山城”の水兵より海軍潜水学校へ進学。
 以来、潜水艦畑の配置勤務で伊号第七潜水艦
  の操舵手、呂号第五十八潜水艦の魚雷員を勤め
   操舵優等章、魚雷発射優等章を持ち下士官より
    准士官に昇進後は、黒潮部隊(第二十二戦隊)の
     特設監視艇 第十八南進丸の艇長 金本 庄三郎
        海軍兵曹長が遺した古いアルバム写真帳より
           主に潜水艦勤務時代の写真を中心に紹介!




金本 庄三郎 海軍兵曹長の写真アルバムです。キャプチャー
が全くないので写真から解る情報から推察するしかありませ
ん。しかし個人写真アルバムに時々ある珍しいショットの未発
表写真があります。数は少ないですが珍しい当時の潜水艦の
写真が検閲を受けることなくありました。まだ戦前の機密も甘
い頃、しかも戦地でない内地という事も関係して修正もありま
せんが、経年の劣化が見られ状態の悪い写真が多くみられる
のが残念でなりません。
この写真の方が金本 庄三郎 海軍兵曹長です。写真からキャリア
の始まりは…横須賀海兵団です。准士官に昇進までは兵籍の所
管は横須賀鎮守府と思われます。水兵としての初めての配置は
戦艦”山城”で水上艦艇には准士官に昇進されるまでは唯一のも
のとなるようです。次に海軍潜水学校練習生となり以降は潜水艦
一筋の配置のようで…まさに潜水屋のような方です。また准士官
に昇進以降ですが、唯一、写真の中でなく別の記録から民間徴用
船の特設監視艇(第十八南進丸)の艇長として昭和18年7月より
昭和19年4月まで関東並びに東海地方の太平洋の哨戒任務に就
いておられる事が判明しています。その後、敗戦までの1年4か月
の間は…どちらで勤務されておられたかは全く不明です。しかし
戦後の写真もある事から…戦後を無事に生きのびられた事がわ
かります。
乗艦していた事がアルバムから判明しているのが伊七号潜水艦
(左上)と呂五十八号潜水艦です。ロ-58の方が後での乗艦で
ある事がわかります。
古参の下士官の感じが出ています。右臂章は一等兵曹
で善行章が四線、左臂の術科章は高等科水雷術章です。
昭和12年度イ-7潜水艦で操舵検定で優等の賞状と記念
の盾。右上は昭和13年度の呂-58潜での魚雷発射検定
の優等の賞状と記念の兜です。
右の胸下に左から魚雷発射優等徽章と小銃射撃優等
徽章、海軍潜水学校卒業徽章を佩用しています。






上の写真は髭を蓄えているので昭和13年以降で呂-58潜乗組
の一等兵曹の時です。手摺のある上の6人の左から二人目が
金本一曹です。妙に貫禄があり古参下士官…下手すると先任
下士官になっている可能性もあります。
呂五十八潜水艦の甲板での集合写真です。わざわざ背景に
枝のような樹木を配しているので正月とか特別な日の写真か
もしれません。中央に艦長が腕組しております。水兵のペン
ネントは画像が粗いですが、何とか呂五十八潜水艦と読めま
す。後方に立つ下士官達の笑顔に和やかな戦時でない大戦
前の雰囲気を感じ取れるようです。
中央に腕組する髭の先任将校は流石に画像を拡大しても粗すぎて
大尉です。このアルバムにはキャプションの類が全く無く年月日も
全く記載無いので推理、類推するしかありません。


場所は何処か不明ですが…沖合いに潜水艦が二隻、水上艦が三隻
見て取れます。左上の入り江は拡大すると左下のように民間の鉄工
所の前の対岸が船着場があって衛兵の歩哨所のようなものと外部の
人間の待合所のようなものが見えるので海軍の基地施設だとおもわ
れます。恐らくその対岸を歩いて回った反対側に基地施設があるので
しょう。昭和10年代の時期ですから、潜水艦の母港となる基地は呉か
横須賀に集約されると思われます。またこの時期は潜水学校の分校
も一校も無い時期なので…横須賀方面かなと想像します。



運命共同体のような船乗りの中でも最も死に近い艦艇は…やはり
潜水艦でしょう。そうした事もあって通常の水上艦艇の士官、下士
官、水兵と謂う海軍ならではの厳格な上下関係も希薄で家庭的と
謂うか、他の水上艦艇より移った将兵が少し驚くようなアットホー
ムさがあると言います。野球や相撲にピクニックなどを通して更に
チームワークは強くなります。この風景は戦時も平和時も余り変わ
らないものと謂えると思います。
上の写真の右から3番目の士官は、艦長の川崎 陸郎 海軍少佐
と思われます。左から2番目のヒゲの大尉は先任士将校のようで
す。



左上の写真を見ると如何にもブルジョアな乗馬服姿です。
当時としてはかなりハイカラなんじゃないでしょうか。こうし
て考えると国軍というのは陸軍にしろ海軍にしろ貧しかっ
た時代に若者の雇用を促進し受け皿となり、若者は更なる
教育や研鑽を受けて立身出世の道を開くことが出来ました。
そうした意味では今は無き大海軍も大陸軍も国の防衛の
役割だけでなく…日本社会の根底支えた組織であったと謂
えます。何しろ現代と違い軍需産業が盛んで海外にも武器
を輸出していました。軍を中心に人もそうですが大きな産業
が育ち経済的な規模も大きかった事事を考えると…現在の
日本も早期に武器輸出三原則を廃して武器輸出を可能にす
るべきだと思います。
海軍は陸軍に比べ移動が多く…陸軍のように原隊に長く留まる事
が少ない…また海上勤務では国内各地は勿論の事、海外へも公
費で旅ができるのも海軍ならではで…うまく練習艦隊の乗組みに
なれば世界旅行に近い大航海で観光が出来てしまいます。上は
安芸の宮島です。当時も今も日本を代表する一大観光地で今や
世界遺産です。名物の鹿もしっかり写っております。





御家族の写真です。上で赤子を背負い、左下で抱いているのは奥様
でしょう。右下で抱いている方が兵曹長のお母さんでしょうか。大きな
お子さん達は兵曹長の御兄弟と推測します。おそらく右端のお母さん
の横の男性(中央)が父上様かと考えます。



右上の画像のお子さんは少し大きくなっております。呉の仲通り
にある松井写真館の撮影場所が判りますので、お子さんが幼児
になる頃は、呉で勤務されていたものと思います。



こちらの方は兄上か叔父上か…そうした近い親族の方だと推
察します。左上が比較的に新しい(敗戦に近い)時期の写真で
右上と下の写真は子供と2名はの大人は軍帽を被っているの
で陸軍の兵士でしょうか、銃剣術の稽古をしていた感じです。
子供抱いて座る御親族の方は右上の方の若い時と思います。
長靴を履き変わった将校用雨衣のような制服をきております。
胸には在郷軍人会徽章や防空演習などに参加したり消防団
関係で貰う様な徽章を付けており、左腕には腕章を巻いていま
す。両襟に星章のようなものを付けておりますが軍人とは思え
ません。
後で下に掲載する活動中の写真を見ても防護団の活動をされ
ているものと思われます。三人とも兵役を終え予備役になった
在郷軍人と考えると軍帽を被る姿も判る気がします。



こちらは後に消防組と併せて警防団となる防護団の活動
かと思われます。防護団は東京市で昭和7年に最初に生
まれた陸軍がバックアツプした民間組織です。当然ながら
在郷軍人(予備役の人)が主体となり団員を担ったと思い
ます。…公園内に子供の為の吊り橋のようなものを作って
いるような感じです。
右下の写真に御親族の方が同じ格好で写っております。
腰のベルトは警防団で使用される黒いものと同じような
もののようです。






こちらも潜水艦らしい良い写真ですね。甲板に出て作業している
者は全て作業服を着用。金本兵曹は一種軍服の上から作業服
を着用しています。ハッチが開いていますが水上走行してい無い
ようですが、少し波があるようで白波が艦周囲に立っています。
艦橋上には双眼鏡を覗く士官の姿も確認できます。




夏季制服で初々しく写る金本兵曹長。横須賀海兵団に
入団中の頃です。陸軍でいえば赤タンですが、一種服
で海軍では黒カラスと呼ばれた最も下の海軍四等水兵
の時のものです。
下の画像から皇紀2597年つまり昭和12年
当時の写真だと判ります。


昭和9年6月の集合写真です。
横須賀海兵団や海軍潜水学校または横須賀第八潜水隊の
時の記念写真だと思われます。



子供たちが一杯です。横須賀で軍艦の見学をさせた時の写真と
思われます。今も海自で行われておりますが…国内の各地で寄
港した際でも乗艦して見学出来る事があります。
下士官は潜水学校卒徽章や水雷優等徽章を付けた人が
多く見受けます。上の水兵達はいずれも横須賀海兵団の
ペンネントで右上の水兵は善行章一線の一等機関兵です
。左腕に字がよく読めませんが普及部と記載されている感
じなので広報係のような事をされているのだと思います。





海軍二等水兵時代です。ぺンネントから戦艦”山城”乗組と
判ります。この後、海軍潜水学校に進み以降、准士官に昇
進するまで潜水艦畑一筋と思われる方です。この山城が最
初で最後の水上の軍艦勤務と思われます。
まだ潜水学校を卒業したばかりの水兵姿の金本兵曹長の
若かりし頃です。まだ少年のあどけなさが顔に残っていま
すね。戦前は…海軍に限らず陸軍も一般国民で学校に進
学もできない、良い就職先も無く、兄弟が多く家業の小作
農すらも継げない貧しい家庭の大多数の若者にとって唯
一の立身出世の道でありました。特に海軍では基本が志
願制ですから、兵役によらず海軍で飯を喰って行こうと言
うと願った若者が多く志願しました。後に大戦で将兵の不
足が深刻になると海軍でも陸軍同様に兵役で人員を確保
しました。こうした方達は年季明けをひたすら待つ方が多
いのでキャリアアップしませんが、志願兵の多くは術科学
校に学び普通科、高等科の術科を学びキャリアを積み上
げて昇進します。現在でも謂える事ですが、現状に甘んじ
て学業を疎かにしたり、就職後もキャリアップに励んで勉
強しない人は中々、出世コースから程遠くなります。この
金本兵曹長のように水兵〜下士官〜准士官と長い年月
を卒なく勤め上げていくと特務士官への道が見えてきま
す。ある意味では帝國陸海軍は日本の国防を担うだけ
でなく国内で貧しく仕事の無い若者に仕事を与えるだけ
でなく…立身出世のチャンスを与えていた謂えると思い
ます。



右臂の臂章から一等水兵時代です。善行章一線、右胸の下に
潜水学校卒業徽章を佩用しています。また左臂には普通水雷
術章が判ります。ペンネントは横須賀の第八潜水隊です。
昭和12〜13年であれば原田 覚 海軍大佐が司令を
勤めておりました。



三等兵曹に昇進し晴れて下士官になられています。
右の二種の方が善行章二線で、左の一種が一線で
すので一種の時の方が若い時期だと判ります。





海女さんと並んでのワンショットです。兵曹は嬉しそうに
微笑んでおりますが…海女さんは微妙で迷惑そうな顔
のような気がします。



この上下の4枚の写真は、巡潜V型と呼ばれた一等潜水艦の伊-7号潜水艦
の写真と思いましたが、巡潜V型であれば備砲が珍しい四十口径十四糎連
装砲になりますが…上の水上航行中の写真は四十口径十四糎単装砲が写っ
ておるので伊-7号潜水艦では無く…巡潜甲型一等潜水艦の伊号九〜十一潜
水艦ではないかと思います。波飛沫を上げて航行する力強い写真です。下の
写真を見ても呂号五十六潜に比べて甲板部分が余裕の広さであるのが見て取
れます。
下が巡潜甲型一等潜水艦の伊号十潜水艦です。丁度、右手前が艦首に
なります。上の2枚の写真は艦橋部より上から写した写真と思われます。
下の2枚の写真は、四十口径十四糎単装砲の横で撮った
ワンショットのようです。海中型に比べて砲があってもデッ
キが広いですね!
下の写真は特潜型の伊四〇〇潜水艦の四十口径十四糎単装砲
です。さすがに潜水空母のデッキは広いのがよくわかります。この
備砲の四十口径十四糎単装砲は古い旧型の潜水艦を除き、日本
の潜水艦の多くが搭載した砲となります。




中々、良い写真です。停泊中の潜水艦の艦橋部を写したものです。
上陸用のラッタルが出ています。艦橋後部甲板のハッチが開け放れて
おります。珍しく艦橋上の艦首側に設置された五年式短八糎高角砲が
見えます。右下の集合写真は艦橋後部で艦尾側から撮影したものと
おもわれます。



水兵下士官は煙管服に軍帽かアンパン帽で…士官は茶褐色の
夏型作業服(夏服型士官作業服)に軍帽を被り写っております。
下は当サイトで収蔵している実物の夏型作業服です。
大戦前の落ち着いた時期の海軍ですので陸軍のような応召兵は
おりません。士官から水兵に至るまで志願して海軍に入った人達
ばかりです。皆、良い笑顔で写っております。この潜水艦という艦
種は、陸軍よりも厳格な階級社会の海軍にあって最もアットホー
ムと謂うのか…将兵の厳格な垣根が少ないと謂われています。狭
い閉鎖空間の中で一蓮托生で運命を共にするからでしょうが、一
般の水上艦艇に勤務した兵下士官が移動し着任すると一様にそ
の点を驚くようです。
下士官や兵は、所謂、アンパン帽と呼ばれる作業帽に煙管服を着用し
ています。この格好は主に水上艦艇では主に機関科の下士官・兵が着
用するもので潜水艦では必須のアイテムになります。下は当サイトで収
蔵している実物のアンパン帽と煙管服を掲載してみました。
煙管服は本来白地ですが、この下のものは褐青色に染めてあります。
これは恐らく昭和19年8月に”海軍第三種軍装令”で、この褐青色の
略装を第三種軍装として、従来の第一種・二種軍装に替えて常時着用
を命じました。臨時特例で19年2月に発令され、昭和20年初夏を前に
白色被服品の全てを褐青色に変えました。多くは、白を染めて三種にし
ました。しかし麻は、染料の吸収に問題があるのか新調した三種とは、
色合いが大きく違いが出ましたが…下士官・兵用の白色の煙管服等の
作業着も褐青色に染めたものと思われます。
下が未使用のデットストックと思われる頭巾を付けた煙管服
です。頭巾部分は取り外しができます。白いのが判ります。









左上は艦内でのワンショットで、右上は艦橋後部から水上航行中の
艦尾を撮影した珍しい写真です。呂五十八潜は水上で最高17.1ノット
を出せますから約32q/h位で航行できるのですが逆巻く波を見ると
もっと高速で航行しているかのように見えます。





これもきれいなシルエットを写した停泊中の良い写真ですね。
この呂五十八号潜水艦は889tで全長が72mです。大体、独
のU-ボートと同じ位のサイズです。
この艦は大正生まれの老朽艦の為、実戦には投入されず
横須賀で訓練艦として敗戦を迎えています。昭和20年10
月に静岡県清水市の沖合いで海没処分されました。
右上は艦内で何かの祝賀でしゅおか熱燗をお猪口で飲まれて
いるようです。艦の定員は約46名程度です。現在の潜水艦の
ように快適な環境には程遠い…この小さな全長約72mで幅が
約7m程の小さな艦内で勤務するのですから…まさに鉄の棺桶
の中にいりようなものです。せめて和気藹々でやらないと精神的
にも辛く持たない部分もあるでしょう。
喫水線より上でデッキより下の艦の外側の潮を落として
塗装を行わないと錆が酷くなります。その作業風景と思
われます。



副長または先任将校の大尉との写真です。
皆で何かを見ています。イルカや鯨でも近くを泳いでいるのでしょうか。
艦橋からも双眼鏡でのぞいているので気になります。



上の二枚は中央左の方が艦長の川崎 陸郎 海軍少佐(海兵
51期で右の方が前の艦長の原田 覚 少佐と思われます…。
恐らく第九潜水隊司令か第二十九潜水隊司令をされている
頃かと推察します。また囲んだ集合写真で左上が下士官達、
右上が准士官以上がそれぞれ艦長を囲み写っております。
左上の艦長の左右に座る下士官は善行章を4〜5線付けてい
るように見えます。この二人が再先任下士官になるのでしょう。
…もし5線であれば所謂、洗濯板と呼ばれる”兵曹長5分前”
と言われるウルトラベテラン下士官となります。
右上は艦橋の艦首部にある五年式短八糎高角砲を撮影した
ものです。
艦長の右横に座られている方は階級章が一見すると少佐の
ようにも見えますが…ベタ金の海軍少将にも見えます。しかし
改めて拡大してみてみると下の画像のように袖章から少佐で
ある事が判明しました。


上の真ん中が原田 覚 中将の海兵生徒時代の写真で左右が
少将時代の写真です。少将昇進が昭和17年11月(52歳)です
ので…それ以降の昭和19年8月の第33特別根拠地隊司令官
としてフィリッピンのセブ島へ転出されるまでの写真と思われ
ます。恐らく呂58潜の艦長時代は44〜45歳の写真です。お
顔を比較すると…原田中将の中佐時代のお写真のような印象
を受けますが…艦長の時期と金本兵曹長(一曹時代)の乗艦
している時期と重なりません。やはりそうした点を考えると原田
艦長ではなく…川崎 陸郎 少佐であるものと思われます。また
そうなれば…上の集合写真の頃は昭和13年12月から昭和16
年17月までのものと推察されます。川崎 陸郎 少佐(海兵51期)
は…この方も水雷畑、主に潜水艦ばかりでキャリアを積んでい
ます。呂-58の前は駆逐艦”春風”艦長、後はイ-71にイ-4の艦
長を歴任後中佐に昇進し、海軍水雷学校教官兼研究部員兼
館山砲術学校兼海軍潜水学校教官と教官で敗戦を迎えており
ます。

因みに余談となりますが…この原田提督は甲標的の母艦とな
った水上機母艦”千代田”の艦長として軍令部や連合艦隊に
働きかけ真珠湾攻撃で特殊潜航艇”甲標的”の実戦投入を働
きかけて一度却下されながらも実戦投入に採用された最大の
功労者であり…特殊潜航艇の育ての親といわれた人物です。
またその呼び名の通り、大戦中期はラバウル港を基点に南東
方面潜水部隊指揮官として米軍の増援遮断や味方への潜水
艦輸送を実施しております。更に大戦末期にはフィリッピン・セ
ブ島の第33特根司令官として9隻の特殊潜航艇を擁してミン
ダナオ海で敵艦船への攻撃を実行に移し、約20隻撃沈の戦果
を挙げました。(実際には戦後の米軍記録から駆逐艦1隻の被
害だけでした。)9隻の特潜は2隻が破壊されて廃棄、1隻が未
帰還。残る6隻は米軍のセブ島上陸に際して自沈処理されまし
た。原田司令官は敗戦後の昭和20年9月25日に戦病死し同日
附で海軍中将に特進しました。まさに潜水屋の鏡のような軍人
です。この方は少尉任官以来、潜水艦畑一筋できた本物の潜
水屋と謂えましょう。




こちらも良い写真です。筆を持って塗装作業をしているのを写した
写真です。奥に立っているのは士官が一名です。水上艦艇と違い
潮風以外に海中に潜水しますから…錆は天敵ですから入港して
停泊中は潮を落として錆止めで塗装が必要になります。
日米戦以降の大戦中の写真はありません。この呂58潜は同型艦の
L3型全てですが老朽艦の為、艦籍こそ抹消されず3隻とも潜水学校
の練習艦となり敗戦を迎えます。このL3以前のL1,L2型は大戦前に
艦籍を抹消されています。老朽艦ながら唯一、L4型の9隻だけが大
型潜水艦の不足をカバーする為、佐世鎮所属の第24.26.27潜水隊
としてありました(呂60〜68潜)。日米戦開戦後は、9隻とも第7潜水
隊(旗艦:潜水母艦”人鯨”)として内南洋に展開、また途中…第四艦
隊の隷下に入るなどして第一線で活躍し、6隻が戦没しています。L4
型の残る3隻は練習潜水隊に配属となり敗戦を迎えています。




以下が黒潮部隊と呼ばれた第二十二戦隊に所属した特設監視艇
です。見ての通り木造機帆船に簡単な武装をしただけの徴用漁船
です。多くが米艦載機の餌食となり、多くの将兵と軍属として徴用
された漁民や船員が人知れず命を落としました。改めて特攻隊や
華々しい戦闘で死ぬ事も無く…影のように国の為に尽くし亡くなっ
た方々へ鎮魂の祈りを捧げたいと想います。


日米戦が始まり何時まで呂58潜に乗られて…他の艦に移動し
たかは知る由もありません。しかし昭和18年7月より昭和19年
4月までは民間徴用船の特設監視艇(第十八南進丸)の艇長
として関東並びに東海地方の太平洋上の哨戒任務に就いてお
られる事が判明しています。その後、敗戦までの1年4か月の間
は…どちらで勤務されておられたかは全く不明です。…この漁
船等を徴用して特設監視艇はまさに日本本土防衛の防波堤の
役割を担いました。敵艦隊や敵航空部隊を発見して無電を打ち
本土に来襲を知らせると同時に敵の餌食となり…あっという間
に乗組員もろとも海の藻屑となるのがお定まりのパターンであり
…内地から太平洋各地へ向けて航海する艦艇は日本近海でこ
れ等の軍艦旗を掲揚する小型漁船を見つけると旗を振り、帽子
を振ったそうです。潜水艦にしろ水上艦にしろ圧倒的に不利な
大戦後期にあっても…まだ敵に一矢を報いる兵器がありますが
…この特設監視艇に配属された海軍将兵と民間船員には…一
矢報いる矢も何もなく敵襲来を知らせた前後に木の葉のように
沈められる運命でした。行違う海軍の艦艇は…それを判るがゆ
えに大きく気持ちを込めて帽を振ったと聞きます。…これ等が横
鎮の隷下で開戦から敗戦まで活躍した縁の下の力持ちの黒潮
部隊(第二十二戦隊)です。その数は400隻以上に上りますが、
その中の大半である300隻が海の藻屑と消えています。この特
設監視艇には乗組員の半数が海軍の軍人、残り半分が漁船の
船員である漁民が軍属として徴用されて構成されます。

金本 庄三郎 兵曹長が艇長を勤めた第十八南進丸の元々は株式會社
林兼商店の持ち船でした。この会社は後の大洋捕鯨株式会社であり、
現在のマルハニチロホールディングスに繋がります。事業再編でマルハ
ニチロとなりますが…かつてはプロ野球の横浜大洋ホエールズ(今の横
浜DeNAベイスターズ)を持っていた会社です。当然、マルハニチロです
から多くの漁船(機帆船)を持っており、第十八南進丸は本土(船籍は下
関)から台湾(船籍を基隆に)へわたり…昭和16年9月に海軍に徴用され
当初は佐世鎮所管そして馬公警備部隊の馬公防備隊の所属で日米開
戦を迎えます。昭和17年になり改装作業を終えた76隻が横鎮から北洋
警備を主任務とする第五艦隊に編入され、ここに特設監視艇隊(第二十
二戦隊が正式に発足します。約20隻ずつの三隊分かれ釧路漁港等から
出航、東経155〜160度、北緯30〜50度付近にて偵察、監視線(東哨戒
線)を行います。約20日の間、三隊は交代で任務につきました。昭和17
年4月18日のドゥーリットル中佐指揮のB-25編隊による帝都初空襲では
第2哨戒隊所属の第二十三日東丸が本土東方1200km付近で米機動部
隊を発見しました。直ちに打電し通報、更に報告を続けましたが、巡洋艦
”ナッシュビル”からの砲撃で撃沈、全員が壮烈な戦死を遂げました。ハ
ルゼー中将の指揮した米第16機動部隊は、直ちに空母”ホーネット”より
B-25の編隊を発進させます。また空母”エンタープライズ”の艦載機に周
辺の日本側監視艇の攻撃を命令。その後、更に12隻の活動中の特設監
視艇が米艦載機の銃撃を受けて4隻が撃沈されます。戦死者は初めの
日東丸も含め30名以上になりました。しかし長渡丸の乗組のうち5名が
沈没の際に海上に投げ出され、米軍の捕虜となってしまいます。黒潮部
隊の初陣はこうして終わりました。あくまでも秘密の監視艇部隊であった
ので戦死の公報が出されたのは、昭和18年12月過ぎになってからでし
た。そして戦局は急速に悪化し、遂にはサイパン島が陥落します。昭和
19年8月1日、第二十二戦隊は第五艦隊から連合艦隊の直属部隊にな
ります(戦隊本部は横浜の元英国総領事館)。部隊名を秘匿の為、看板
も呼称も全て黒潮部隊とされました。そしてマリアナ諸島から日本本土
へ来襲する米軍に備え、黒潮部隊は南哨戒線上(北緯29,30,31度、
東経135〜145度)での監視任務に就きます。この南哨戒線は豆南諸島
の鳥島と小笠原諸島との中間にありましたが、既にマリアナ諸島が米軍の
支配下になり…航空機だけでなく大小艦艇や潜水艦なども特設監視艇を
攻撃し沈めました。何しろ特設監視艇は敵を発見までは敵の逆探知を防
止する為、無線封鎖を行い…敵発見の打電をする前に撃沈される特設監
視船が後を絶たなくなりました。こうした船は、その沈没位置も沈んだ日時
も沈んだ状況すら判らないままにただ喪失と認定されました。昭和19年に
なると特設監視艇にも対空・対艦電探(レーダー)が装備しはじめます。


木造船で総トン数が85t、全長26.5m、全幅4.8m、130馬力のエンジンを
一基持つ機帆船です。主な兵装は、九二式七粍七単装機銃(三脚架附)
40瓩発煙筺5個、発煙浮筺用筺嚢3個、九五式爆雷(九五式爆雷改二)
4個、落下傘一型爆雷4個です。またこれ等爆雷を投下する為の仮装投
下台を装備しています。この他に三八式歩兵小銃5挺に自動拳銃2丁を
備えていました。

金本兵曹長が艇長に着任し移動するまでの第十八南進丸の動きは、

昭和18年7月19日、監視艇長として金本 庄三郎 海軍兵曹長が着任

同年9月 3日、6月より横浜で開始していた修理が完了する。
同年9月13日、燃料及び清水タンクの増設と烹炊所の改造も完了する。
この日より甲直哨戒隊第三小隊に配属される。横浜を出港〜横浜へ帰港

昭和18年11月:二直哨戒隊になる
同年 7月20日:横浜を出港〜横浜へ帰港


昭和18年12月23日、名古屋にて修理
昭和19年1月27日、入渠
昭和19年2月21日、聯合艦隊北東方面艦隊第二十二戦隊第二監視艇隊
             に配属

昭和19年3月、二直哨戒隊

同年 3月 6日、横浜を出港〜横浜へ帰港

昭和19年4月5日、修理

昭和19年5月4日、移動の為、退船

第十八南進丸は最後まで無事に生き残り 、昭和20年8月10、除籍となり
徴用が解除されます。…こうして金本兵曹長は400隻以上の監視艇の中
で300隻が沈むという苛烈な黒潮部隊の監視哨戒任務を約2年こなして
無事に敗戦を迎えております。


以下は、戦後の写真になります。
職場の慰安旅行でしょうか。雰囲気からサラリーマンの会社員
をされていた感じがします。元海軍々人であるように見えません。
戦後の写真です。上は中年から初老期で下は、もう少し高齢になられた
時のものと思われます。お孫さんでしょう…御家族に囲まれて幸せな戦後
を過ごされたようです。
浴衣に薬師温泉と読めるので群馬の薬師温泉かと思われ
ます。東京からだと関越道で渋川伊香保まで行き一般道
を使い自家用車で2時間位の場所です。おそらく戦後は関
東エリアにお住まいだったものと想像します。








酒井田 恒二 海軍兵曹長の黒ドスキン一種軍衣




昭和17年11月の改正前の特務士官用の桜花章が袖にある
黒ドスキン製の誂え品の一種軍衣です。テーラータグは剥ぎ
取られてありません。襟元を見るとかなり使い込まれている
軍服です。兵曹長の襟階級章は外されておりありません。
面白い事に腰の部分のポケットが珍しく蓋が備えられていま
すまた左胸に糸がかりが残されています。











ポケットの中にあった所持品3点です。ご本人の名刺に
大阪の旅館のの領収書に東舞鶴〜京都の切符です。
名刺には、岐阜県武儀郡小金田村とあります。現在の
関市周辺で岐阜県百年公園の辺りが旧小金田村のあ
った辺りのようです。左上の地図のように関市南西部
にあって長良川,武儀川,津保川,今川が合流する地域
になります。海の無いこの地域から海軍の職業軍人に
なられたようです。また大阪の旅館の領収書は、昭和
16年12月3日の印があります。運命の日米戦開戦の
5日前のまさに開戦前夜であり…その後のこの方がど
うされたのか色々と想像が膨らみます。
同年12月5日の東舞鶴から京都ゆきの普通三等席の切符
です。この方の勤務が舞鎮であると思われます。この後の
激動の大戦中を如何に生きられたのでしょうか?…興味が
尽きません。








大正2年、海軍五等木工兵より三等〜
 一等船匠兵曹を経て海軍工作特務士官
  に叩き上げで昇進し…敗戦時、海軍大尉で
   33年の軍歴を終えた塩田 高治 海軍大尉の
    将校勤務録、海軍履歴手簿に写真五枚等々




塩田海軍大尉の資料数点です。将校勤務録に履歴手簿に写真
等です。この方は大正2年6月に舞鶴海兵団に入団。…五等木工
兵からスタートし一等木工兵、三等船匠兵曹〜船匠兵曹長、特務
機関少尉、特務工作中尉から昭和17年改正で海軍大尉に昇進し
敗戦時は、第百一海軍燃料廠のパリックパパン出張所勤務で33
年の軍歴を終えた古強者のエンジニアです。明治22年の生まれ
で敗戦で召集解除となった昭和21年の時は、57歳でした。




塩田海軍大尉の海軍船匠兵曹長時代の写真です。
昭和7〜8年頃で呉海兵団附の時のものです。写真
のお顔からは頑固な職人の親父という感じです。下
の一種と二種軍服の恰幅のよい方もまた特務士官
です。准士官の塩田船匠兵曹長より上の船匠特務
中尉でしょうか…画像が粗くて判然としませんが袖
章からはそう見えます。右下の二人並ぶ写真など
は軍服に軍帽を着用していなければ現場監督と大
工の棟梁と言う感じです。…しかし二人とも長いキ
ャリアを持つ立派なエンジニアであるのは間違いな
く…その笑みに技術系特務士官の叩き上げの矜持
を見て取れるような気がします。何しろ兵学校や機
関学校出の士官はある程度出生して当たり前です。
また高学歴の大學出の技術屋さんが将校相当官と
して存在する時もそれなりに出世するのが当たり前
です。しかし水兵上がりの兵が下士官になり准士官
になり更に上の特務士官になるには運も大切です
が並大抵の努力と勉強で中々、這い上がれる程、
簡単なものでは無い筈です。
船匠兵…船匠科、船匠手とは海軍工廠等で造船に携わる
謂わば船大工のようなものがスタートです。昔は単純だった
木造船や帆船が鉄の軍艦となり蒸気機関に移り変わり、こ
の機関もレシプロからタービンへと技術革新を遂げていきま
す。船匠術も溶接作業に船底や船腹の點檢・修理に必要な
水中作業の為の潜水技術にや電気技術など様々に進化し
ていき多用な技術を組み合わせて行く必要性から後に工作
術へと名称変更を余儀なくされました。技術革新と進歩が新
たな世界を開くのは時代の趨勢であり…これは現在も何等
変わりません。当初の船匠術の多くが海軍機関学校で教育
されてきましたが…海軍工作学校が新設され教育はここに
シフトしました。海軍の工作術は船匠に鍛冶に溶接や潜水作
業におダメージコントロールを含めたものになり、海軍工作学
校では…この他に築城術や設営術に航空機整備術を教育す
るようになりました。五等木工からスタートし三等船匠手、一
等船匠兵曹から船匠兵曹長に昇進した塩田氏は、機関特少
尉、そして工作特務中尉と昇進を重ねる度にその名称を変化
してきました。昭和17年改正で工作特務中尉から海軍中尉に
呼称が変わり、翌18年の昇進で海軍大尉に昇進しますが、改
正前の年であれば海軍工作特務大尉であったわけです。
大正2年6月の舞鶴海兵団入団の振出しから昭和15年9月の
兵下士官時代の准士官に昇進するまでの全ての履歴が記載
されています。海軍五等木工兵から海軍一等船匠兵曹の27年
の記録です。
昭和13年12月に勅命により機関特務少尉より工作特務少尉
に替わります。第二根拠地隊勤務で広東作戦に参加。その
後、潜水母艦”迅鯨”乗組となり、昭和14年6月に海軍工作特
務中尉に昇進。同年11月に砲艦”嵯峨”乗組から大分海軍航
空隊附に転じます。昭和15年12月21日に定年により予備役
に編入されますが、3週間後の昭和16年1月10日に充員召集
され燃料廠(第三海軍燃料廠)附となります。以降は大戦中の
全期間を通して燃料廠の所属となります。そして平壌練炭部
第五燃料廠に勤務。同年4月に第三燃料廠に復帰。昭和17年
11月、官階改正で海軍中尉となります。昭和18年6月に海軍
大尉に昇進。昭和19年4月にボルネオ島サマリンダの第百一
燃料廠(廠長:黒腹 退蔵 海軍少将)附。3月1日、バリクパパ
ン出張所(支廠)に着任。後にこの支廠が第百二燃料廠(廠長
:野宮 三郎 海軍少将)となります。この第百二燃料廠に敗戦
まで勤務します。これら南方の特設燃料廠は、ボルネオ東岸
のバリクパパンに給油燃料の積出港として重用していました。
敗戦後の昭和21年5月1日に復員船で名古屋港に上陸し帰国
を果たします。また同日で召集解除となり…33年に及ぶ海軍生
活に終止符をうちます。しかしこの時すでに57歳です。戦後の
人生と言っても還暦手前です。今の還暦前後と言えばまだまだ
若く働き盛りと謂えますが、昭和20年代の還暦前後であれば
現在の70代後半位以上の老人に相当したものと考えます。頼
みの海軍自体が消滅したので海軍関係での老後の職も得る事
は難しいので戦後はどのように暮らされたのでしょうか…興味
の尽きないところであります。
塩田大尉は大正2年6月1日に志願して舞鶴海兵団に
入団し海軍軍人としてキャリアをスタートします。初め
の兵種は木工で入籍番号は、舞志12188号。昭和11
年12月、一等船匠兵曹の時に呉鎮守府所管に転籍し
入籍番号も呉志27866号に変わっております。



戦後に恩給の受給用に申請した簡単な履歴書の下書き
のようです。33年に及ぶ軍歴も省略すると…この僅かな
履歴書に収まってしまいます。




将校録や履歴簿、写真以外には上の軍艦旗等の領布の紙と
下の戦後の葉書があります。上の紙は各種サイズの軍艦旗
やZ旗を下士官兵向けに販売する案内で場所と値段等が記
載されています。また下の葉書は、戦後のものです。この手
紙から少なくとも昭和48年7月には塩田元大尉は存命であっ
た事が判ります。既にこの昭和48年の時で83歳の御高齢に
ありました。現在、もし存命であれば127歳になられます。
葉書の内容は恩給の加算関係の問い合わせに対する
回答のようです。消印は昭和48年7月28日です。現住所
が徳山市(現在の周南市)になっておられるので昭和21
年5月1日に名古屋港にボルネオ島のバリクパパンより
帰国復員しましたが、出身地は本籍共に島根県の方で
すが…戦後は、大戦中の主な職場となった第三燃料廠
のあった徳山市に住まわれていたようです。




この勤務録の表紙に大分空が記載されております。
塩田大尉が大分空附になって勤務していたのは、
昭和14年11月から翌15年12月の予備役編入まで
の一年間で工作特務中尉の時です。この三週間後
の昭和16年1月に充員召集で海軍燃料廠付に転じ
ます。以降は熾烈な大戦中も敗戦まで各地の燃料廠
勤務をされています。
軍歴が33年に及ぶので勤務地も乗艦勤務した艦船も
多岐にわたります。…阿蘇、薩摩、三笠、大井、安芸
韓崎、長鯨、神通、天龍、迅鯨、嵯峨、…等々です。
長年に渡り同じ艦を複数回勤務したりが多く、海上勤
務の合間に海軍機関学校や舞鶴・呉海兵団等の教官
を複数回勤めています。陸上の戦地勤務としては昭和
13年4月に第二根拠地隊本部附(支那方面艦隊所属
→途中で第五艦隊所属に)で広東攻略戦に従事(13年
11月9日まで)されております。この時の勤務中の仕事
が後で掲出する第二十六号砲艇やAB艇の修理等の
写真や図面です。揚子江流域での掃海任務で使用さ
れた滑走艇の設計図があるのも納得がいきます。これ
らはエンジニアとして機関科よりも工作科の領域になる
ので…戦地勤務と言っても陸戦隊や河川艦艇に乗船し
ての勤務と違い、河川流域の進出地域で破壊された
砲艇や装甲艇など雑役船の修理等を現地で指揮して
実践していたもようです。
将校勤務録です。経歴は勿論ですが中身がびっちりと細かく
几帳面に記載されております。…やはりエンジニアの方は違
います。同様に機関科士官の方の勤務録も多くがそうでした
が…技術系の方の勤務録は兵科将校の勤務録に比べると
内容の濃さが全然違います。
上の紙片は勤務録に貼り付けられていたもので、昭和3年
当時、日本初の潜水母艦”韓崎”に乗組みの時に艦長であ
った平田 昇 大佐(当時)が書き記し捺印したものです。特
段、紙にして感謝の意を伝えているので珍しく思いました。
この平田 艦長は後に海軍中将で昭和18年3月に予備役編
入します。それまで佐世保鎮守府司令長官、第六艦隊司令
長官、南遣艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官、軍事参
議官などを歴任しました。リタイア後は帝國在郷軍人会副会
長を勤めました。昭和33年72歳で逝去されております。(下
画像が韓崎です。元々はロシアの義勇艦隊所属のエカテリ
ノスラフと謂う船でしたが、日露戦争で拿捕され、日本の船
となりました。)


まさに技術屋さんの記述です。学歴が無くとも軍の与えてくれ
た機会をフル活用して機関学校等で学び職務以外でもしっか
り勉強されたのでしょう。この記録の所見や考察、記載を見る
とそれがよく判ります。与えられたものしかしない人の勤務j録
とは明らかに一線を画します。貴族趣味で陸軍に比べて差別
の多い海軍にあって特務仕官の大尉まで昇進する為には相当
な努力と研鑽が必要だった事が想像されます。



勤務録の摘要欄には手書きで日時と内容名にページが
記載されていて、すぐに目的の内容を確認できるように
なっています。教官として各教練の成績表から艦内のダ
メコンに支那の大陸での船舶だけでなく治水関連の補修
まで様々な作業を行い詳細に記録をされています。









難破し破損した舷台上の第二十六号砲艇の写真です。左右の
スクリューと中央の舵は見えますが、船の後半部はメチャメチャ
になっているのがわかります。
第二十六号砲艇とあります。その下に掲載した破損したAB艇
も掲載しておりますが、両方共に陸軍で開発され河川警備や
討伐・臨検・船舶護衛に使用されたものですが、大陸での戦線
の拡大と揚子江など大河の河川流域での海軍の奥地への進
出を余儀なくされて必要性から陸軍と同じものを導入したと思
われます。

陸軍の第二十六号砲艇と同じであれば、そのスペックは

長さ(m)  幅(m)  深さ(m)  満載排水量(t)  速力 (ノット)

 15.50    3.50   1.65        17.5        11.5   

航続力(hr)   乗員(名)

  10       11-13

武装:九〇式五十七粍戦車砲×1 、八十九式旋回機銃×2






船台の構成図から船渠の平面図と戦地での艦艇修理の
基本となるものと言えます。これ等を見ていると海軍工作
学校では船匠・鍛冶・溶接・潜水作業などの工作術だけで
なく築城術や設営術、航空機整備術まで教えエンジニアを
自前で育てている事が納得します。大戦中は海軍も陸軍
同様に拡大する占領地に合わせて膨大な数の兵員を必要
としましたが、本来は開戦時に25万名程度の志願兵を主
とした艦船・航空機運用の技能集団でありました。その意
味では、現代の先進国の軍隊が徴兵制を止めて志願制度
で少数先鋭の高度な技術を有する兵員を育てる形ですが
旧海軍は本来はその形に近かったのが判ります。今でも
徴兵制の国は支那や南北朝鮮など近代化以前の軍隊を
有するもので…いまだに最悪の状態になれば人海戦術を
想定にしている軍隊です。大戦中の海軍も海上兵力と航空
兵力をすり減らし…丘に上がった海軍では陸軍宜しく本土
決戦や当初防衛に徹する以外に手段無く…技術集団と謂
えた近代海軍が人海戦術の陸戦隊に成り果ててしまった感
が否めません。







下渡村(南昌市と長沙市を結ぶ線の南側にある村)
です。こんな海岸線から奥地まで河川に沿って奥地
へ奥地へと行かざるおう得なかった海軍の苦肉の策
が滑走艇であり砲艇であると考えると憐れでなりませ
ん。陸軍だけでなく海軍も泥沼の戦いに身を沈めて
しまった感が強いですね。



こちらも非常に興味深いものです。AB艇(砲艇)と言われる
装甲艇の破損の修理状況を記録したものです。支那の現地
で入渠し支柱を立てて修理を行うまでを記録しています。
AB艇(砲艇)の修理の様子です。下に設計図と地図等を
掲載しましたが、下渡村(南昌市と長沙市を結ぶ線の南
側にある村)で船台と船渠に支柱の組立ての様子や支那
人を雇用し渠扉閉塞の作業などの様子まで撮影されて
おり、非常に興味深い工作科らしい資料と言えます。また
下渡村船渠の平面図等もあり…海軍の海軍の工作術が
船匠・鍛冶・溶接・潜水作業に艦内のダメコン等に及ぶ広
範な技術職である事がよくわかります。



上のAB艇の縦断面図です。
このAB艇は…明らかに陸軍のAB艇と形状が違うものと
思われます。まあ海軍は昭和15年以降に河川警備や討伐
・臨検・船舶護衛に二十五屯砲艇を80隻前後、独自に製
造し運用しています。性能は上述した二十六号砲艇などと
大差ないものです。海軍では大陸の河川でこれ等の砲艇
を3〜4隻を持って砲艇隊として敗戦まで運用しました。





こちらは滑走艇の9号艇の破損による修理の為、設計図から
破損箇所を描き修理箇所と状況を記した平面図と側面図にな
ります。このページTOPで掲載した匠作品の滑走艇の海軍の
増産バージョン用(7号艇以降)の設計図からのものとなりま
す。元となったオリジナルは熊野川の徴用プロペラ船ですが
この徴用された滑走艇(1号から6号)六隻となります。
7号滑走艇以降が横須賀海軍工廠で造作された海軍
バージョンの滑走艇です。奇しくも意図せずして匠の1〜
6号艇の熊野川バージョンの滑走艇作品と同じページで
滑走艇を現地で修理を担当した当時の塩田海軍工作特
務中尉の資料が揃うのですから…掲載する私自身が驚
きながら製作しました。
下が破損箇所を記した部分をスキャナーで読み取った
平面図の方になります。やはり被雷による破損かと思
われます。
側面図画が下になりますが、壊れた部分がよく判ります。



珍しい呉海兵団での潜水作業訓練を撮影した写真です。
塩田大尉が船匠兵曹長時代で呉海兵団の教官に転じた
時代ですから、昭和7年1月から昭和8年11月の間のもの
と思われます。
近代海軍では船匠術も高度に進化を余儀なくされました。
溶接作業が必須となり船底や船腹の點檢・修理だけに限
らず、サルベージ等には水中作業は重要なものとなり、潜
水技術は大きく進化しました。船匠術は多用な技術を組み
合わせて工作術へと変遷しました。



潜水作業です。両側のボートから夫々に潜水夫を降ろして船上の
空気供給機器を使い送気しています。左上の写真の中の右の船
は既に潜水しいて船上の水兵が送気ホースと命綱を数名で手繰り
ながら下ろしています。左側の船では潜水夫がいよいよ舷側の梯
子で海中に下りている途中です。右上の写真は潜水作業か練習を
終えた後でしょう。潜水夫はヘルメットを脱いで寛いでおりヘルメッ
トに繋ぐ送気ホースは船上に引揚げられ梯子に括られた命綱が海
中に降りたままです。
この潜水服は今でも使われているヘルメット潜水ですが…どうも
これだけは苦手です。真鍮のヘルメットにホースで海上から空気
を送気する潜水ですが…この不自由な装具…何よりも自身の力
では緊急時に何も出来ない潜水ですから…スクーバならまだしも
自身で選択してエマージェンシーでも一か八かの大勝負が出来
ますが…ヘルメット潜水では運を天に任すしか方法が無いので
ゾッとします。これで潜る方の勇気には敬服します。
一見すると送気器具の横に手回しが左右にあります。モーター
やエンジンによる送気ではないようです。左上の画像では2名の
水兵が前後で送気の為に手回ししている姿が見えます。
日本では明治早々から英国よりヘルメット潜水一式を輸入し
研究を海軍が開始します。早くも明治5年から海軍工作局で
国産化され…各地の近海のサルベージや船底の修理が民
間で始まり、魚業でも活躍し始めます。大正9年に海軍は英
国海軍の作成した減圧表を採用し、現代に近い減圧潜水が
開始されます。
敗戦で名古屋に帰国上陸したのが昭和21年5月1日。
その日に召集解除され、従六位に叙されています。そ
の後の民間での人生で変わりがなければ、この方の
官位は海軍大尉 従六位勲四等になります。








海機46期の則近 譲治
   海軍(機関)少佐のマント




海軍機関学校第46期 (昭和13年3月卒業)の則近 譲治 マントです。
海機46期は卒業者が69名で戦死者が30名です。存命の方の敗戦
時の最終階級は(機関)少佐で戦死者では(機関)中佐という期で
す。コレスは海兵65期、海経26期になります。確かな軍歴は定かで
はありませんが、敗戦時は私兵特攻された宇垣 纏 海軍中将の第
五航空艦隊におられたようです。恐らく戦後も存命だったと思われ
ますので最終階級は少佐だと推察しています。


テーラータグは丁子屋商店でネームタグは当字で
則近と読めます。品質の高い誂品で、保存の程度
も良好です。










所持者不明の古アルバム
  より外れた…古い写真から…。






















内閣総理大臣専用車(GZG50)  精密模型




RAI'S製の 1/43 トヨタ センチュリー (GZG50)
2007 日本国内閣総理大臣車専用です。








内閣総理大臣専用車は、トヨタのセンチュリーおよびレクサスLS600hL
の2車種が用意され使われている。内閣総理大臣が外出や移動する際
は、公用・私用を問わず専用車を使用、警視庁のSPが常に同乗し身辺
警護している。また総理専用車はテロ対策として、防弾ガラスに特殊鋼
による装甲が施された防弾車仕様であるが、セキュリティ上の理由から
詳しいスペックは明らかにされていない。他の国務大臣の公用車には
防弾改造は施されておらず、この点でも日本国政府のトップたる総理
専用車は特別な扱いである。フロントグリルの内または外およびリア
バンパーには、LED光源の青灯が装備されており、総理大臣乗車時に
はこれを点灯させて走る。運転手は総理大臣官邸職員(内閣技官)。
内閣総辞職と共に退任し、新しい首相が誕生すると選任される。一般
の自動車と同様にナンバープレートを取得しているが、老朽化等で車
両の入れ替えがあっても番号が不変であるのが特徴である。車検証
上の所有者は内閣。回送時を除いて総理専用車が単独で移動するこ
とはない。

                                       『画像等引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







戦後に復刻された”海軍志願兵徴募”ポスターと
”支那事変国債”募集のポスターです。










世界の軍艦コレクションのオモチャです。
三段甲板時代の空母”加賀”です。












〜 脱 線 〜




*再び平成11年に46歳の若さで脳内出血で
急逝した不世出の天才シンガーソングライター
村下 孝蔵さんを選びました。BGMは村下さん
がメジャーデビュー後、初となるヒット曲となった
”ゆうこ”です。昭和57年(1982)4月にリリースさ
れた4枚目のシングルとなります。”ゆうこ”は
当時、婚約者だった最初の奥様の名前だったそ
うです。
27歳の遅咲きのデビューの3年後に4枚目のシングル
”ゆうこ”がヒット続いて30歳の時に”初恋”が大ヒット
・・・素晴らしい世界を以来、我々ファンに19年間聞か
せてくれました。村下さんが亡くなられて約17年・・・今
も時々在りし日の彼が演奏し歌う姿を想い描き彼の残
した曲を聞き続けています…。何年経過しても彼の死
は惜しい余りにも惜しいと言う気持ちが薄れる事はあ
りません。



ゆ う こ


メジャーデビュー後、初のヒットとなった”ゆうこ”です。
メロディーも素晴らしいですが…何よりも歌詞が素晴ら
しい。村下さんの類まれな音楽の才能だけでなく文学
的な素養の高さを如実に示した曲です。この歌からファ
ンになった方も多いのではないでしょうか。私にとっても
この曲が流行った昭和57年はホテルニュージャパンの
火災事故、500円硬貨の発行にテレカの導入があった
年であり、歌謡曲では”あみん”の”待つわ”が大ヒット
を記録しました。この他にも”聖母たちのララバイ”や”
心の色”、”チャコの海岸物語”などが流行し、私もまだ
まだ若く希望に燃えていた頃ですのでバブル景気全盛
の少し前で日本が行け行けドンドンで景気が右肩上が
り元気が良かった時代です。まだ今のような少子高齢
化が叫ばれる前の頃で非常に懐かしく感じます。その
時にヒットしたこの曲は、村下ワールドの中でも大好き
な曲の一つであります。





まだ村下さんが存命であれば素晴らしい作品が
ドンドン生まれて我々をきっと魅了し続けてくれた
事でしょう。・・・本当に残念でなりません。
本当に惜しい才能を失いました・・・。




私はどちらかというと村下孝蔵さんの古くからのコアなファンと
言えるでしょう。この方の魅力は目を瞑って聞くと…その情景が
まざまざ浮かぶような美しい日本語の詞に、どの曲も外れが無
いと謂われるメロディーの素晴らしさ…その楽曲は、日本人で
あれば郷愁や哀愁を誘います。そして何よりも抜群の歌唱力
と抜群のギターテクニックが相まり…聞く者の心に歌が染み入
り切なくさせてくれます。若い人には目新しく…年配の方には
忘れかけた青春の頃や無くした故郷の情景を想起させてくれ
ます。強烈なノスタルジーの世界に浸れるあのようです。

あえて不世出の天才・歌人…天才的なギタリストなど村下孝蔵
さんを形容する言葉はたくさんあります。人柄の良さがにじみ出
る歌人の姿は、常に感動と共感を与えてくれ続けてくれました。
多くのアーティストが他界しても、これほどまでに悼む気持ちを強
く持ち続毛さてくれる歌人は、村下孝蔵さんほど心底からその早
すぎる死を惜しんだミュージシャンを私は知りません。惜しい本当
に惜しすぎる才能です。…今も存命であえば多くの曲を作り歌い
…多くの人を村下ワールドの世界へいざない魅了させファンを増
やしたに違いありません。考えれば考えるほど我々は得がたい
貴重な歌人を失った事を実感します。

彼のコンサートは常に過度な演出や踊りも、そして派手なメイクも
衣装もなく”曲と歌だけで酔わせる”事に徹しており…まさに歌人
そのものでありました。本人とギター1本にバックバンドのみと謂
う実にシンプルな舞台は、高い実力の証であり…虚飾を廃し奇を
一切てらわない純粋な歌人としてのクオリティーの高さを証明して
います。これは実力勝負だけで貫き通してきたシンガーソングライ
ター・村下孝蔵氏の音楽人生を象徴するように感じてなりません。
27歳と遅咲きのデビューでありましたが、亡くなるまで19年間の
プロミュージシャン生活に多くの日本人へ与えたインパクトと感動
は私的には国民栄誉賞に相当してもおかしくないと思っています。
少なくとも侍ジャパンに一切、参加も貢献もしなかった在日の松井
秀樹に国民栄誉賞を与えるような愚かな事をするのなら、村下
孝蔵氏に与えたほうがどれだけ良かったか…。

歌とギター1本の弾き語りで観客を酔わせ、村下ワールドにいざな
う歌人・村下孝蔵…日本広しと謂えども…彼ほどに聴衆を魅了す
る事が出来た歌人はどれだけいたでしょうか?…まさに稀有な
才能を持つ貴重で素晴らしいミュージシャンでした。そしてその優
しい眼差し、郷愁を誘う素敵なメロディー、美しい日本語の詞、
抜群のギターテクニック…私の知る限り日本人の中で最高峰の
アーティストの一人と言って過言で無いでしょう。本当にもっともっ
と生きて生きて活躍し…私達に素敵な歌を聞かせて欲しかった。
余りにも逝くのが早すぎて寂しく寂しくて悲し過ぎてなりません。

平成11年6月20日、リハーサル中に脳内出血で搬送先の病院で
昏睡したまま意識を回復せず…4日後の6月24日に天に召しまし
た。26日に行われた葬儀には生前もっともお気に入りだった
”ロマンスカー”がかけられたといいます。…高血圧性の脳出血
と謂いますから、随分前から高血圧にあったのでしょう。もし彼が
存命の時にタイムスリップできるのであれば…コストフリーのボラ
ンティアで構わないので彼の主治医となって降圧治療を行い…全
てのリスクヘッジを行い 30年、40年長生きをしていただき…更に
多くの楽曲を作り我々を魅了してくれるように尽くしたいと何度も
夢想したものです。…今となればDVDやCDの中でしか村下ワー
ルドに接する事が出来なくなりました。もう一度でもよいのでコン
サートに行き生で氏の歌を聞きたいという想いは…叶わぬ夢とな
り17年の月日が無情にも流れました。きっとあの世でも聴衆を前
に…ギターを弾きながら大好きな歌を優しい眼差しで誠実に歌い
続けていることでしょう。歳のせいか昔に比べて涙腺が緩んでい
るようで…哀愁のある氏の楽曲を独り聴くときに涙する事がありま
す。今も昔も深い感銘を与えてくれる村下孝蔵さんに改めて哀悼
の意を表したいと思います。










   アコーディオニストゆうこ&露菜 踊り子

こちらの動画はアコーディオン奏者で村下さんの
前の奥様の船田ゆうこさんが演奏する踊り子の
動画になります。下は船田さんの公式サイトです。
因みに横でギターを弾かれているのが村下さんの
娘さんでシンガー・ソングライターの露菜さんです。
右下のバナーが娘さんの公式サイトになります。




村下孝蔵 懐かしいラジオ番組012 Kozo Murashita

良い時代になりました。こうして故人の声をYoutueで
動画がアップされ見て聞いてができるようになりました。

   村下孝蔵「愛されるために」第12回 1994年

亡くなられる5年前の平成6年のラジオ番組です。こうし
て没後17年…音声に歌声、動画を見るにつけ改めて想
う事は、余りにも大きな逸材を失ってしまった事実ばかり
です。今、存命であれば還暦を過ぎているわけですが…
彼の新曲を聞くことの出来ない17年は寂しいものでした。
ネットの驚異的な発達で多くのファンの方が氏を偲び…
筑波にある氏の見事なお墓に墓参りされているのを知る
と嬉しくなります。また氏の亡くなった命日が美空ひばり
さんの没後10周年の命日と一緒です。奇遇なものでやは
り特に偉大で秀でたアーティトには共通する何かがある
のでしょうね。








〜 脱 線 2 〜




若かりし頃の昔に夢中になって乗った四輪車や単車は今も尚
脳裏に懐かしい思い出と共に鮮明に記憶されています。そんな
昔懐かしい愛車達の模型を集めてみました。その中から毎回
何台かずつ紹介していく…第四弾です。 


Audi A4のミニチュア模型です。
A4no中で初代にあたるB5系を所持していました。
このB5は1994年から2001年に販売された車種に
なります。約20年前の車です…今見ると懐かしく感
じます。



随分昔に買い物用のセカンドカーとして主に家内が
使用していたアウディーA4です。家内の評価は、非
常に高いものでありました。私には国産車の同クラ
スカーと殆ど変らない走りと味付けに面白みの無い
車の印象が強く残りました。多くのドイツ車を乗り継
ぎましたが…メルセデスにしろBMWにろしろポルシェ
にしろ足回りがしっかりしています。今はどうか知りま
せんが日本の高級車と謂われる車が何が気に食わ
ないかと謂えばカーブやコーナーで足回りがついて
いけずグニャグニャになる点です。幾らハイスペック
なエンジンを積み新機構を導入しても、基本の足回り
が弱ければハイパワーを制御できず無意味です。こ
の点の不満が国産車離れした私の最大の理由です
。若い頃は足回りをお金を掛けて改造し満足のいく
状態を国産車で得る事をしてましたが…若くなくなり
仕事に追われて時間が無くなると…初めから足回り
の良い安心できる車に行き着くのは自然な流れです
。そんなドイツ車の中で当時のアウディの没個性…
日本車と大差ない可もなく不可もない没個性に近い
走りが一時期、大きく失速した最大の要因なのかも
知れないと実感しました。まだそれ以前のアウディ
80、90、100などのラインナップを…また四輪駆動の
クワトロが全盛の頃の方が断然、面白みがあり魅力
的だった気がします。近年になりアウディの人気が持
ち直しているようです。今はSUVしかもゲレンデ等に
しか興味が無いので普通のラグジェアリーカーに乗る
事がありませんが面白く感じています。
Audi A4 (B5)はまさしく可もなく不可もない万人受け
する車でした。特に主婦層など女性人には非常に運
転しやすい評価が高かったですね。
バランスの良い
車で国産車のマークUやクラウンといった感じで、万
人受けする良い車でした。悪く言えばドイツ車として
の個性が余りにも感じられない車と謂えた気がします。



メーカー
Audi 社
車種
A4(2.4)
スタイル
4ドアセダン
車種形式
GF-8DAPS
エンジン形式
V型6気筒DOHC
排気量
2393cc
駆動方式
F F
エンジン出力
165ps
トランスミッション
5速 A T
ボディーサイズ(D×W×H)
4495x1735x1410
発動機
APS
特記装備





内装はクワトロのもの。マニュアル車がATに
なれば基本的な内装は同一になります。









可愛いゲレンデヴァーゲンのチョロQです。



以前に乗っていたゲレンデヴァーゲンです。正式名称は
Mercedes-Benz G55 AMG Long(W463)ABA-463270
です。非常に乗り易い車で都内で走らせて意外と小回り
が利きます。同じメルセデスのSクラスなんかに比べたら
断然乗り易い車です。
とにかく視界良好で取り回しも良く御覧の様に四方がほぼ
直角なので見切りも良く大胆に運転できます。OPでは現在
グリルガードの扱いがメルセデスで無くなった為、社外品の
を取り寄せて取り付けていました。
メルセデス・ベンツGクラスは、ゲレンデヴァーゲン(GELANDEWAGEN)の
名で1979年に発売されて以来、基本的なスタイリングや堅牢なボディは
そのままに最適のパワートレーン、機能装備を加え進化しつづけてきた、
SUVの前身であるクロスカントリーの代表モデルと謂えます。今回、装備
・仕様を改良した30周年記念モデルとしてリリースされたのが2009年度の
Gクラス(現行モデル)です。走行性能面は、G500ロングのエンジンを5.5L
V型8気筒エンジン(387PS)へ変更し、従来比+92PSのパワーアップを
実現するとともに、モデル名称を「G550ロング」へ変更。電子制御7速A/T
の7G-TRONICとの組み合わせ。また、「G55AMGロング」(5.5L V8スー
パーチャージャー:KOMPRESSOR)はエンジンマネジメントシステムの改
良により、従来比+7PS(507PS)の出力アップを図っています。エクステ
リアは、両モデルともにフロントグリルとアルミホイールのデザインを変更
(18インチ、AMGが19インチ)。装備面では、センターコンソールにHDDナ
ビゲーション、地上デジタル放送(12セグ)対応テレビ、音楽CDを録音する
ミュージックレジスター等を統合したCOMANDシステムを採用し、利便性と
機能性が遅ればせながらもGクラスでも大幅に向上しました。両モデルとも
左ハンドルの設定だけです。ノーマルのG550とG55 AMG Longの両モデ
ルを乗り比べると判りますが…やはりAMGは別物である事が乗ると一目
瞭然です。差異としては、エンジン以外にショック・スプリング・排気系の全てが
AMG専用で、内装はAMGの専用280kmメーターとウッドパネルにAMGロゴと創
設者のサインがプリントされ、ボディー両側面にAMGデザインのストライプとAMG
ロゴが入っています。しかしG550と排気量差が殆どなく逆に23cc減るのですが
馬力差で120馬力、トルク差は17.4kg・m/rpmと違いを見せ付けます。しか
し実際の走りでは、更にその違いを見せつけ…出足・加速共に全く別物を実感
させます。



左右に張り出した排気管からは傍を通る通行人が振り返る程の
野太いエクゾーストノイズが発生しアクセルを踏み込み車内にも
その音は伝わります。強烈なサウンド音はまるで大排気量のリ
ッターカークラスの単車が叩き出す低速からの集合管の音に似
てツイツイ酔いしれてしまいます。
AMGが刻印されたこの5.5リッターSOHCV8スパーチャジャー
付きエンジンは、2.5トンを超えるゲレンデヴァーゲンを俊足
なグリスリーに変えると謂った表現が最も似合う気がしま
す。



メーカー
メルセデス AMG
車種
G55 AMG Long
スタイル
SUV
車種形式
ABA-463270
エンジン形式
V型8気筒SOHCスパーチャージャー
排気量
5438cc
駆動方式
4WD
エンジン出力
507 ps
トランスミッション
5速 A T
ボディーサイズ(D×W×H)
    4530x1860x1950
発動機
113M55
特記装備





納車前の運転席周りです。この頃のG55AMGはSクラスに
比べて内部は少し時代遅れの感じがあります。これ等は
次のG63AMGになると同等になり改善されます。








〜 脱 線 3 〜




こちらはお世話になっている大先輩からの面白い
お土産です。給糧艦”間宮”で製造されていた羊
羹(通称・間宮羊羹)の味を忠実に再現した呉土
産も羊羹です。
味の方は、現在の飽食の時代の和洋のスイ−ツに
舌が慣らされてる者にしてみると…可も無く不可も
無くと昔の羊羹の味と謂う感じです。しかし戦前で
あれば…とても美味に感じられた事は想像できま
す。
商品包みの裏面にある説明を拡大したものです。
羊羹だけでなくアイスクリームに洋菓子まで製造す
る間宮は…甘党にすると夢のような軍艦に思えた
でしょうね。







いつもお世話になっている大先輩から頂いた
横須賀土産のコースターです!















海軍刀の菊水紋彫の銀ハバキです。
陸具の靖国刀に対して海軍では菊水刀が有名で人気が高いようです。
菊水刀には茎に菊水紋彫りの銘とこの菊水紋彫りの銀ハバキが定番
です。…その人気にあやかって贋作を売る悪い業者も多いようです。