旧軍関連・戦前資料収載品
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Imperial Japanese Navy
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海軍の軍服・その他 |
海軍 九八式射爆照準器一型
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〜 大東亜戦争を敗戦まで駆け抜けた
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専用に特注したケースに収まった九八式射爆照準器一型 です。こうして見ると製造から71年の歳月が過ぎた品とは 思えない感じです。これが零戦の狭いコクピットの中で… 搭乗員の目となった日本初の光学式射爆照準器です。 |
零戦を筆頭に九八式射爆照準器一型を装備した海軍機 を少し紹介します。零戦に紫電、紫電改、雷電、月光、二 式水戦、強風等です。 |
大戦初期は圧倒的な強さを見せた零戦…しかし大戦 中期以降は対零戦用の空戦対策に新型機の出現で 苦戦を強いられるようになり…開戦時、一騎当千を誇 った支那事変以来の歴戦の搭乗員も櫛が抜けるよう に消耗戦で失い…開戦当時の優位は失われていきま した。また零戦の後継機にあたる新型艦戦の登場が 遅れに遅れ…常に付け焼刃的な零戦のマイナーチェ ンジを繰り返し敗戦にまで至り…最期まで圧倒的な物 量の米軍に対して航空優位を奪還する事は出来ませ でした。そして照準器も九八式射爆照準器の後継であ る四式射爆照準器も登場しましたが、生産数は少なく この九八式射爆照準器は敗戦まで活躍し…約1万4千 個が生産されました。 |
上は零戦11型です。下は十二試艦上戦闘機です。この十二試 艦戦から正式採用の零戦11型の30機までは新開発の九八式 射爆照準器一型ではなくRevi 3a(Bf109E-1aに搭載)を搭載し 光像メモリを書き換えた応急処置で戦地に送り出したようです。 従ってRevi 搭載の十二試艦戦は九八式射爆照準器(オリジナ ルはRevi 2c)搭載機になりません。まあRevi 搭載なので本家 の親戚みたいな関係ですが…(^^; |
上はA6M1の1号機です。後方に2号機も組み立てられて います。2号機までがA6M1で瑞星(760馬力)を発動機と して搭載。特徴的なのは3枚ペラでは無くプロペラは2枚( 後に3枚に換装)。3号機以降が栄(960馬力)を搭載しま した。因みに2号機は空中分解して失われました(左下)。 |
右上は谷田部空での画像です。研究家の方に指摘 されるまで気が付きませんでしたが…よく見ると零戦 では無く十二試艦戦です。しかも6号機以前のカウリ ングに気化器空気取り入れ口の無いタイプです。大 戦後期の画像と思われますが…錬成部隊の谷田部 空に十二試艦戦があるのを不思議に思いましたが… 研究家の方の見解では…谷田部にも教官の練度維 持の為に実戦機が配備されていますが、これはテスト ベッドでありましょう。発動機、プロペラが換装されて いますし落下増槽の牽架を利用した爆弾架など、結構 改造されています。温存されていた試作機をテストベ ッドにするのはありがちです。またもしかしたら用務飛 行で横須賀から来た機体かも知れません。…で納得 しました。 |
九八式射爆照準器の大多数が先の大戦の全期間を 帝國海軍航空隊を代表して闘った零式艦上戦闘機が 最多の搭載数を占めます。 |
戦闘機のパイロットにとって手で操作する操縦桿やレバー類 そして足で操作するラダーペダルやブレーキペダル…そして 戦闘時の目となり敵機を屠り自機を守るのが…この射爆照準 器と謂えます。この照準器が機能しなければ勘を頼りに盲射 するしか無いので戦闘機の飛行には直接関与しませんが… 非常に大切なアイテムである事と謂えます。 |
上は米軍に鹵獲されテストを受ける零戦52型です。どの角度から 見ても零戦は美しい。そうした点が旧軍機の中で覚えやすい名前 と知名度もあるのでしょうが…ダントツに人気のある要素の一つだ と感じます。 |
上が河口湖自動車博物館の零戦のコクピットです。下は 三菱重工の零戦のコクピットです。 |
上は鹿屋航空基地資料館の零戦のコクピットです。 |
上の2枚は局地戦闘機”紫電”です。下は局地戦闘機”紫電改” になります。 |
夜間戦闘機”月光”になります。 |
上は局地戦闘機”雷電”、下は、二式水上戦闘機です。 |
下は局地戦闘機”紫電”の原型となった水上戦闘機”強風”です。 |
とても希少な実物の九八式射爆照準器一型(千代田光学:現ミノルタ製) 昭和19年6月製造の一品です!箱や機体用マウントは無く…本体のみ 前のオーナーである旧軍航空物の研究家の方より譲っていただきました。 ほぼ未使用常態のコンディションの良い個体で…難点としては反射ガラス が破損していた為、オリジナルから型をとったレフレクターガラスに交換さ れている点でしょうか。また小さな部分では…よくある経年の劣化でゴム パッドが朽ち始めている所でしょうか。 |
この千代田光学製は有名な龍驤D1-108号機に搭載されていたメーカー
です。千代田は…参入は早かったのですが、製造数は少なく、現存を確認 でできたのは国内では…この一点と別に1個だけだそうです。現存が確認 出来ている個体が20個足らずだそうです。その他に全世界で埋もれている ものが倍あったとしても恐らく40個程度しか現存しないと思われます。全生 産個数が約1万4千個ですから…敗戦国の軍用品が如何に無残にも失わ れ…結果として国宝級のアイテム化された事を思い知らされます。 |
日本海軍初となるこの光学式照準器ですが、主に零戦をはじめ紫電や 紫電改、雷電、月光、二式水戦、強風…等に装備されましたが、その生 産量から圧倒的に多いのは零戦です。後にReviC/12Dを基に後継とな る四式射爆照準器が世に出ても生産量が少なく…防弾ガラス装備の零 戦五二型乙以降には予備照門をカットして搭載され敗戦まで活躍しまし た。まさに開戦から敗戦まで帝國海軍航空隊の最期を…その栄枯盛衰 を蒼空から見続けたガンサイトと謂えます。 |
銘板から昭和19年6月に千代田光学精工で製造されたシリアル NO.3612の九八式射爆照準器である事がわかります。…71年 前に現在のミノルタで製作された品です。 |
参考に電源が取れてきれいにレチクルが光り浮かぶ 九八式射爆照準器一型を展示している陸自武器学校 の個体を紹介します。画像は以前、見学に行った際に 撮影したものです。 |
土浦の陸自の武器学校の九八式射爆照準器一型です。 基地内の古い倉庫から見つかった一品だそうです。現存し 機能も生きている珍しい数少ない希少な射爆照準器です。 |
日光の具合により二色の照準像を選択できます。 |
電源をやられた時は左上にあるアナログの照準器を手 で建てれば像の真ん中に浮かびように出来ています。 |
昭和19年4月 東京光学製。この東京光学製は
他に国内で1個あるのが確認されているだけだ そうです。 |
この武器学校の照準器も…紹介している千代田製の 照準器同様に後期の零戦や紫電改に搭載した九八式 でなく前期(一一型〜二二型、五二型甲まで)の零戦 に搭載されたものと思われます。 |
ゴムパッドは画像の通り経年変化が始まっています。と謂っても
富岡製のようなしぼんだ風船のような崩壊まで至ってはおりませ ん。多少の剥離がある程度です。赤く見えるのが内部の合成ゴム が見えている部分です。靴底修理用の練りゴムで、剥離部分の 修復は簡単です。前のオーナーがオリジナル重視で手を付けてい ませんでしたが、受け渡し前にゴムパッドの劣化個所ですが硬化 した剥離部分がこれ以上広がらないように、靴底の補修用ゴムで 修正。何回かに分けて、本来の形状に盛ることも可能でしたが 欠損部分を閉塞するだけにとどめています。ただ、非常に目立つ 場所なので、上下を逆に付け直して下さいました。実際…下の補 修前の画像と比較すると補修部分が下側になり殆ど目立たなくな りました。 |
嫁入り前の射爆照準器の画像です。右下の画像にある 銀色の機体側マウントは、零戦のマウントを模して近年 好事家が製作した複製品です。 |
こちらは前のオーナーが展示用に製作して下さった物です。 機体側マウントは、零戦のマウントを模したものでオリジナル の物ではありませんが十分に機能して本体を固定してその重 量を支えて射爆照準器が本来あるべき姿を常時、見せてくれ ます。 |
上が遮光フィルターを起こした状態。下はフィルターを倒した 通常時の定位置の状態です。 |
上方から見ると光るレンズが美しく見えます。 |
因みにこれら九八式射爆照準器などのガンサイトを生産したのは 現在も存在する有名なカメラや光学機器メーカーばかりです。この 照準器を最初に設計を担当したのが日本光学工業株式会社(現在 のニコン)です。そして製造を担当したのが、富岡光学器械製造所 (現在の京セラオプテック株式会社)で此処が主契約を結びます。他 に東京光学機械株式会社 (現在の株式会社トプコン)に千代田光 学精工株式会社 (現在のコニカミノルタ社)の三社となります。そし てこの三社の総製造台数が総生産台数は約1万5千台になります。 やはり現存数が一番多いのがメイン契約会社で製造数も一番多い 富岡製になります。陸自武器学校の展示品のは東京光学製でこの 個体以外は他に国内に1個が確認されているのみです。今回入手 した千代田光学製は、参入は早かったのですが、製造数は少なく 現存を確認したのは国内でこれと別には1個だけと聞いています。 |
この上下の画像のように電球のアッセンブリはユニット 化され簡単に出し入れし電球交換が可能です。かと言 ってパイロットが操縦中に狭いコクピットの中で電球切 れで交換するのはストレスだったと思います。ましてや 空戦中は交換は不可能なので予備照門を使う形となり ます。電球は上だけに点灯するように下半分を黒く塗 装してあります。このASSY(アッセンブリ)はべークライ ド製となっています。 |
光像の昼用と夜用の鏡用のローレット切り替え画像です。 右上が夜間用の赤のフィルターです。左上は昼用で白い 光像が浮かび上がります。 |
電源も無い為…電球を抜いて代わりにLED電球を入れ点灯する と白いレチクルが浮かび上がります。光が弱い為、室内の明かり を消して見やすいように遮光フィルターを立てて奥には白布を垂 らしてあります。 |
大掛かりな用意も無い状態で小さなLED電球の明かりで この白いレチクルが浮かんだ時は何とも謂えない感動が したものです。 |
こちらは夜間用に切替えて赤色のレチクルを浮かばせた 画像です。70年以上前に…この射爆照準器の同じレチク ルを覗いたパイロットが居た事に思いを巡らすと感無量の 感があります。前のオーナーの方も語っておられましたが 終戦時の残存機体からの取り外しだとすると、程度が良 すぎるので…何処かの戦場域でアリューシャンゼロ(龍驤 D1-108号)のように力尽きて鹵獲され…米国に土産品と してか…米国に渡り…それでも今の状態を見るとかつての 敵国でも物の価値が判る米国人が大切に保管したのでし ょう。…そしてかれこれ70年以上の歳月が流れ…幾多の 所有者の手を経て運よく里帰りを果たした…この物言わぬ 射爆照準器が目の前にあり…このように光像を結ぶ姿を 見る事は感動そのものです。 |
またこの千代田光学精工製の射爆照準器一型と謂えば 昭和17年6月5日のダッチハーバー攻撃で不時着に失敗 し米軍にほぼ無傷で鹵獲され研究された龍驤D1-108号 機を思い起こします。まさにこれに搭載されたものと同じ ガンサイトになります。 |
一見すると草原に見えますが…実際は人の足も深く埋まる 湿地帯で古賀二飛曹は着陸しようとして両脚を湿地に取ら れトンボ返りで写真の様にひっくり返り…古賀二飛曹はコク ピットの中で水死しました。 |
また射爆照準器で思い起こすのは…若い頃から戦記物同様に貪り 読んだ松本 零士 先生の戦場漫画シリーズ…わが青春のアルカデ ィア出てくる照準器です。 |
いや〜懐かしいですね!!…昭和51年に当初は”不滅のアルカディア” の題名でビックコミックに掲載され…単行本に収録される時に改題され たようです。 |
零戦や紫電改、雷電に使用された九八式射爆照準器一型 の原型は…この漫画に出てくる Bf109B-1 に搭載された Revi C/12 Cではなく…ハインケルHe162に搭載された Revi 2bに保護パッドを追加したRevi 2cが原型です! |
このRevi C/12 Cは、九八式射爆照準器の後継となった 四式射爆照準器のベースとなったものです。まあ考えて みるとガンサイトで考えると大戦全期間を通して海軍も陸 軍も全てドイツ製のコピーを作り使用しましたが、航空機 銃も全て同じ状況です。 |
下が以前手に入れた実寸大の 四式射爆照準器の複製品です。 |
九八式射爆照準器の後継と なった四式射爆照準器…。 |
九八式射撃照準器 1/3モデルの模型です。この 模型の基になったオリジナルは、上に紹介した動 画の方の所持された富岡製の九八式射撃照準器 一型のようです。 |
我国初の光学式反射照準器です。昭和12年に開発が スタートされましたが、当初の零戦配備に間に合わず、 初めの零戦は、昭和13年に独逸から輸入されたHe112 戦闘機に搭載されていたレビ2b照準機を一部改造して 代用して使用していました。またそれ自体が九八式射爆 照準機の開発ベースとなりました。富岡光学での生産が 軌道に乗り、零戦を中心とした照準器のスタンダードとし て標準装備されて行きました。一型(射撃用)と二型(爆 撃用)がありますが、この1/3モデルは、一型の主生産 会社であった富岡光学製作所製作を模したものと記載さ れています。 |
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今回の匠の作品は…あの高速偵察機”彩雲”の環形軌状銃座に 放熱筒形式の海軍一〇〇式航空旋回機銃(別に海軍一式航空 旋回機銃と称する)を三分の一スケールで見事に再現していただ きました。 |
この旋回機銃の名称に関してかなり混同がなされております。 同じラインメタルMG-15ベースでライセンス生産した陸軍の物 と同じものです。陸軍での呼称は、九八式旋回機関銃となりま す。しかし海軍では複雑で二つの名称が存在します。日本で の銃・機関銃の大家である日本銃砲史学会理事の須川 薫雄 先生の研究では海軍一〇〇式(単装)旋回機銃と謂います。 また別に海軍一式(単装)旋回機銃とも呼ばれます。須川 先生 によると陸軍で謂う一式(連装)旋回機関銃を海軍では海軍一 〇〇式(連装)旋回機銃と謂い、海軍の航空旋回機銃には 一〇〇式が単装と連装で違うもので二種類存在するとの事で す。この事は須川 先生の著書である”日本の機関銃”にも明記 されております。一般的には、彩雲や天山甲型などの搭載機銃 は、海軍一式(単装)旋回機銃(7.92粍)とされています。因みに この複雑なマニアでも理解している人殆どおらないと思います。 念の為に須川 先生と、これまた日本の小火器・大砲の有名な大 家である佐山 二郎 先生にもメールで確認していただきましたが 須川 先生著の”日本の機関銃”内の説明記載で間違い無い事 をお教えいただきました。また須川 先生が米国の高名な日本の 小火器の研究家である リビー教授とも確認していただいたとの 回答をいただきました。混乱を避ける上で須山 先生の海軍一〇 〇式に併記する形で(別称:一式(単装)航空旋回機銃)として 掲載しております。 |
見て下さい…この見事な再現は中々お目に掛かる事は出来ないで しょう。彩雲の機体部分は…勿論、枕頭鋲です。また内部の青竹色 の塗装など細かいディテールに感激します。 |
環形軌状銃座です。以前の解放式の銃座で射手が凍えながら 飛行中に射撃する事無く密閉した銃座になっています。また環 形軌状は上の様に上下と左右で動かせますが制限があります。 これは上手い事、自機の垂直尾翼を撃たない為ですが、射撃を しながら、もう片方の手で内部から環形軌状を回すので…大変 だったと思います。後方に追尾した敵機は当然、射線をずらして 左右にも上下にも動くでしょうから…。 |
ラインメタルMG-15ベース 海軍型 木製胴被 左手杷手 である海軍一〇〇式単装旋回機関銃です。上が環形軌状 銃座用の環球(ボールマウント)を付けたままの状態で下は 外した状態です。 |
陸軍の九八式旋回機関銃を分解した画像です。 |
この上の画像を見ると…その構造が実によく判ります。下は河口湖 自動車博物館で復元中の一式陸攻の前方銃座部分です。同じよう に環形軌條銃架を採用する事で射手は外気に触れずに機内から 射撃を行う事が出来るようになりました。 |
以下は当サイトで所蔵の品の陸軍 テ3 一式旋回機関銃 (7.9粍 連装旋回機関銃)のサドルマガジン(名古屋造兵 廠製)です。こちらは二連なのですが、形状は共通で非常 によく似ているので掲載します。 |
ヤフオクで九八式旋回機関銃のマガジンとして手に入れた 品です。基本構造と7.92mm弾の装弾は同じですが左上 の画像を見ると明らかのように給弾口が2個有る二連式 の一式旋回機関銃のサドルマガジンである事が判ります。 |
外観のみのマガジンです。中のバネ等もありません。 外観も錆が浮いていますが…オリジナルの塗装が、 しっかり残っています。運搬や脱着用の取っ手も生き ています。 |
名古屋造兵工廠の刻印と21851のシリアルNO.があります。 また左右のマガジンには”50”、”25”と残弾数を示す打刻と 覘き窓が見られます。射手は時々これを覘きながら射撃を 行い替え時を失せずにマガジンを替えたものと想像します。 |
この陸軍 テ3 一式旋回機関銃(7.9粍 連装旋回機関銃) のサドルマガジン(名古屋造兵廠製)を収載したページは 以下のバナーをクリックすると開きます。 ↓ |
海軍 百式旋回機銃(艦上偵察機”彩雲”銃架)1/3スケール真鍮手作り模型 |
九八式旋回機関銃 |
それでは、いつものように匠の製作過程・様子を画像で 紹介します。以下、 |
上海駐在海軍武官 菅沼 恕人 海軍大佐
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菅沼 大佐は愛知県出身で海兵35期。上海駐在海軍武官をされた 方で、海軍大佐で軍人としてのキャリアを終えております。 |
駐在武官は参謀飾緒を佩用するのでこの正服も参謀衣 となっております。襟の金モール刺繍部が完全な保存状 態の美品です。 |
菅沼 大佐のコレスである35期には、近藤 信竹 海軍大将に 高須 四郎 大将、野村 直邦 大将など三名の海軍大将を輩出 している当たり年の35期です。36期や39期など戦死で大将に 進級されて3名輩出の期もありますが、その他の期では…10 期と13期に29期だけです。またこの35期で特筆すべきは海兵 卒後に練習艦隊での遠洋航海で台湾の馬公で巡洋艦”松島” が火薬庫爆発に引火して爆沈し…少尉候補生33名が殉職す るという悲惨な事故で知られています。 |
オーダーメイドで海軍々人の御用達の山城屋の テーラタグに菅沼とネームが刺繍されています。 |
襟の金モール刺繍部が完全な参謀大佐の正衣です。 |
通常、経年の保存で襟周りの金モールの刺繍飾りは ホツレ等があるのですが、入手先からも奇跡的に襟 の刺繍部が完全な状態で保存されているとの事でし たが…その通りで健全です。 |
珍しい第十一海軍航空工廠製の機体から
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非常に珍しい部品銘板です。戦前は海軍機の部品を作っていた 近江航空工業株式会社の部品銘板です。この会社は、戦後にな り、オーミケンシという生地屋さんに生まれ変わっています。 |
銘板の機体番号に第十一海軍航空工廠とあり、使用機体が呉 の第十一海軍航空工廠で作られたものである事がわかります。 該当するの機体は、彗星や零式三座水偵、九七式艦上攻撃機 になります。 |
三菱重工や中島飛行機のような航空機メーカーではなく、海軍 航空工廠が直接製作した機体の部品銘板であり珍しいと言えま す。まあメーカー各社にだけ頼れないほど機体不足に喘いでいた 海軍が自ら機体製作を行ったわけですが…敗戦までに彗星の 約430機を筆頭に九七式三号艦攻が約180機、零式三座水偵が 約90機と700機以上の航空機を生産したのですから大したもので す。 |
四散シリーズでお馴染みの
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こちらも四散した小田中 大佐の品で巡って近日、入手した紙物です。 |
小田中 大佐は、海機17期(明治38年卒)出身の長野県の方です。 |
機関中佐時代の小田中 機関大佐です! |
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小田中 精一郎 機関大佐の階級章や 勲記類や書類を収載したページです。 |
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小田中 精一郎 機関大佐の軍帽が 収載されているページが開きます。 |
第25代 海軍機関学校長 平岡 巌 海軍中将
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平岡 中将が海軍機関少佐で艦政本部造兵監督官 時代のものです。左側に破れ痛みがあります。 |
御覧のようにこちらもかなり痛みのある従軍 記章之證です。平岡 中将は鹿児島県出身、 海機17期 ハンモックナンバーは4/61です。 技研電気研究部長から艦政本部第三部長を 経て昭和13年に海軍機関中将に。同時に海 軍機関学校の校長に日米戦の開戦前に軍令 部出仕になり待命、昭和17年3月に予備役。 戦後の昭和40年3月28日に79歳で永眠され ています。 |
下のバナーをクリックすると上にある同中将の 瑞三勲記を収載したページが開きます。 ↓ |
海軍 軍事功労章 |
海軍にも陸軍同様に軍事功労章があります。これは永年に亘り海軍の 振興に務めた者に対して特別に表彰、授与された物で、海軍協会会長 都道府県の兵事担当で課長以上の役職、永年に亘り務めた物が主な 対象です。通常は表彰、銀杯のみですが、特に海軍省で功労を認めた 際に軍事功労章も併せて授与されます。この徽章は純銀製。 |
【戦前・戦時資料】 關東都督府 奏任官肩章 |
朝鮮総督府や台湾総督府のものは比較的によく 出てきますが、南洋庁や関東都督府のものは少 なく…この関東都督府の肩章は私も他に一組し か所持していません。 |
各官庁によりデザインに違いがありますが、関東都督府 の肩章は個性的な形状で一目瞭然です。他の文官肩章 に比べても一際目を引く意匠です。 |
帝國海軍で支給されたコンドーム |
海軍で使ったコンドームです。陸軍では衛生兵が慰安所前で配布 し”突撃一番”が有名です。海軍では上陸の際に好きなだけ持って いけるようになっており、性病の蔓延による戦力の低下に士気の低 下を防いでおりました。 |
中身入りの未使用品ですが、ゴム製品なので上から そっと覗いても劣化しており総崩れしそうです。 |
内閣総理大臣専用車(GZG50) 精密模型 |
RAI'S製の 1/43 トヨタ センチュリー (GZG50) 2007 日本国内閣総理大臣車専用です。 |
内閣総理大臣専用車は、トヨタのセンチュリーおよびレクサスLS600hL の2車種が用意され使われている。内閣総理大臣が外出や移動する際 は、公用・私用を問わず専用車を使用、警視庁のSPが常に同乗し身辺 警護している。また総理専用車はテロ対策として、防弾ガラスに特殊鋼 による装甲が施された防弾車仕様であるが、セキュリティ上の理由から 詳しいスペックは明らかにされていない。他の国務大臣の公用車には 防弾改造は施されておらず、この点でも日本国政府のトップたる総理 専用車は特別な扱いである。フロントグリルの内または外およびリア バンパーには、LED光源の青灯が装備されており、総理大臣乗車時に はこれを点灯させて走る。運転手は総理大臣官邸職員(内閣技官)。 内閣総辞職と共に退任し、新しい首相が誕生すると選任される。一般 の自動車と同様にナンバープレートを取得しているが、老朽化等で車 両の入れ替えがあっても番号が不変であるのが特徴である。車検証 上の所有者は内閣。回送時を除いて総理専用車が単独で移動するこ とはない。 |
『画像等引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
戦後に復刻された”海軍志願兵徴募”ポスターと ”支那事変国債”募集のポスターです。 |
世界の軍艦コレクションのオモチャです。 三段甲板時代の空母”加賀”です。 |
〜 脱 線 〜 |
平成23年10月に63歳の若さでこの世を去った 不世出の天才ボーカリスト…柳ジョージです。大好き でアルバムは全部買って若い頃はよく聞いていました 。和製クラプトンと称され…人気を博した柳ジョージ… 。このページのBGMは、柳ジョージ&レイニーウッドの ”微笑みの法則SMAIL ON ME”です。昭和54年に売 り出された4thアルバムの収録曲です。資生堂のCM ソングになり大ヒットしてオリコンアルバムチャートで 初登場1位の大ヒットを記録しました。 |
〜 脱 線 2 〜 |
若かりし頃の昔に夢中になって乗った四輪車や単車は今も尚 脳裏に懐かしい思い出と共に鮮明に記憶されています。そんな 昔懐かしい愛車達の模型を集めてみました。その中から毎回 何台かずつ紹介していく…第三弾です。 |
このミニカーはアルファロメオ・アルファスッド 1300 Ti (ALFAROMEO ALFASUD Ti)です。78年から83年 の5年間に販売された車でした。 |
亡くなった父が昔、愛用した一台ですが一年の殆ど ディーラーで修理と謂うイタ車ならではを地でいく車 でした。…従って何時の間にかガレージの奥に埃を 被り、長い長い間、放置され眠っていました。ある時 に何とかレストアして動けるようにと思い立ち…車検 を取り直し復活させましたが…やはり故障が多くて 閉口し手放したアルファロメオのアルファスッドです。 |
今のイタ車は…そうでもないでしょうが70年代、80年 代のイタ車は故障しない方がおかしい位の車だったと 思います。動くときはそれなりに軽快に走ってくれるの ですが…ヘソを曲げると動かなくなりますので…通勤の 足としては信頼出来なず…あくまで買い物専用などの セカンドカーでしか使えませんでした。 |
スタイルは良くて小さいので小回りも効いてそこそこ 走りますので故障の心配さえなければ良い車だった と思います。…しかし今見ても懐かしい…。 |
雪の北海道でスパイクタイヤを履いてのアルファスッド です。今や何処もスパイクタイヤは消えてスタッドレス だらけになりましたが…凍結路での走行はスパイクタ イヤの安心感に勝るものは無かったと思いますが…雪 解けの時期や春先の粉塵被害など…今時の環境規制 には勝てないようですね。 |
雪道の多い雪国を走行するにはFFなので 意外と適しておりました。また軽自動車が全 長3.4m以内ですが…少し長い3.89mで660 cc以下で64馬力までの規制がある軽の約 2.2倍の1500ccの排気量で105馬力なので 意外とパワフル。また特筆すべきは現在の 軽自動車の車重よりもはるかに軽い約830 sと軽量なうえにそこそおパワフルなエンジ ンなので…当時としても軽快軽量で小回り の利く車と謂えたでしょう。 |
メーカー
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アルファロメオ社
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車種
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アルファスッド Ti
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スタイル
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5ドアセダン
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車種形式
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ベルリーナ型Ti
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エンジン形式
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水平対向4気筒SOHC
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排気量
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1490cc
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駆動方式
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F F
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エンジン出力
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105 ps
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トランスミッション
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5速 M T
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ボディーサイズ(D×W×H)
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3890x1590x1370
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平均燃費
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特記装備
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当時のイタ車らしい直線的な中にも丸みを持つ独特の スタイルが魅力的な車でした…。 |
食玩のオマケのようなミニカーです。 |
こちらも色違いのアルファスッドのミニカー |
VT250FのチョロQです。 |
ホンダのVT250Fインテグラです。…悪いバイクでは ありません。しかし今の教習所ライダーと違い運転免 許試験場で一発受けで大型自動二輪の限定解除を した身には…余りに寂しいバイクで本当に非力でし た。しかし父親を亡くし学費どころか明日の生活費す ら何とかしなければならない身では…大型のバイク は売り払い…田舎の学生時代でしたので足が必要 でしたので…このVTに乗り換えました。…金が無く 車検代すらケチってバイト三昧に明け暮れて…毎日 腹を空かせていた苦学生時代の思い出のバイクで あります…。 |
こちらも友人から譲り受けたバイクで余り長い間 乗りませんでしたが…バイトや通学の足として非 力ながら活躍してくれました。維持費が殆ど掛か らないのが何より有り難かった…。 |
1985年 (昭和60年) 6月〜1988年 (昭和63年) 10月 SUZUKI GS250FW |
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排気量 | 249cc |
エンジン形式 | 4サイクル 水冷 DOHC2バルブ 並列4気筒 |
最高出力 | 36ps/11,000rpm |
最大トルク | 2.3kg/10,000rpm |
クラス初の4気筒エンジンに16インチタイヤと画期的な マシンなのですが人気無く…車重が重くパワーが無い 遅い単車でした。極貧の貧乏生活でしたので見かねた 友人からのもらい物のバイクです。VTよりも少し出世し た想いがしたものです。 |
当時、一世風靡したソアラです。ツインカム24バルブ2000cc の1G−Gを搭載した2.0GTは憧れでした。ライバル車である 日産の鉄仮面と謂われたニューマンスカイライン(R31型)が 4気筒ツインカム16バルブ2000ccのFJ20Eを搭載で…その 枠を超えず…後でターボ化して190HPの高出力化で”史上 最強のスカイライン”を謳ったが…ファンの求める6気筒DO HC24バルブを搭載するのは更に2年後に発売されたR31 型を待たねばならなかった。トヨタがソアラを筆頭にマークU 三兄弟に搭載した1G-GEUが既に昭和50年代半ばである 事を考えると日産が5年遅れで昭和60年から6気筒DOH C24バルブのRB20DETを搭載したのは遅きに失した感が 否めなかった。またトヨタの後追いで出したこの7代目のス カイラインとなるR31型は”史上最低のスカイライン”と酷評 されたのは記憶に新しい所であった。…この時代に成功した ソニーにしてもホンダにしても他メーカーに先んじて先進性の 高いスペックや新機軸を打ち出して勝負してきた感が強い。 日産が常にトヨタの後塵を拝したのも…こうした姿勢が薄かっ たせいのように思える。またスズキがバイクで金字塔を打ち 立てた絶版車のGSX-刀を再販したような酷い真似はしない ものの…初期に大ヒットしたS20型エンジンを搭載したハコス カGT-Rの栄光をもう一度と…いつまでもGT-Rの名前で勝 負するのは、どうかとも考えたが…結果的には格安なスパー カーとして世界で認められ、超高級スポーツカーとしてポルシ ェに肩を並べる大成功を収めました…。個人的には日産車は L型チューンの時代が一番好きです。私自身は買った事があ りませんが…ケンメリやジャパンの時代が好きです。 |
メーカー
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トヨタ自動車
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車種
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ソアラ
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スタイル
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2ドアクーペ
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車種形式
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Z10型
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エンジン形式
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1G-GEU型
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排気量
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2000cc
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駆動方式
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F R
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エンジン出力
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150ps
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トランスミッション
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5速 M T
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ボディーサイズ(D×W×H)
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4655x1695x1360
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平均燃費
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特記装備
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こちらの初代ソアラも…後に一連のハイソカーブームを生むきっかけ のような車でした。2.8のGTよりも16バルブ直6ツインカムの2000GT は…このスタイルと共に憧れの的でした。中古車でも高価で中々手 が出ない車でした。こちらは後輩の事故車を払い下げてもらったもの ですが、金持ちの後輩の親は太っ腹で…事故車は縁起が悪いので 新車に変わったと謂うので…廃車する位なら安く譲り受けたもので …解体屋巡りで必要なパーツを集めて再生した車です。買った時よ りも最終的には結構、高く売れましたから、人気車は違うと実感した ものです。後部と全部と左側面がやられてました。事故車のVRやVX などの同様の白色の事故車からかなりパーツを移植しドアも入れ替 えました。左前輪のドア側にまだ凹みが残っています。これも少しず つ治しました。よく考えると…こんな事が無ければ中々手に入れて乗 る事もなかった高嶺の車でした。 |
いつもお世話になっている大先輩から頂いた 横須賀土産のコースターです! |
海軍刀の菊水紋彫の銀ハバキです。 |
陸具の靖国刀に対して海軍では菊水刀が有名で人気が高いようです。 菊水刀には茎に菊水紋彫りの銘とこの菊水紋彫りの銀ハバキが定番 です。…その人気にあやかって贋作を売る悪い業者も多いようです。 |