Imperial Japanese Army
|
陸軍関連 |
日露戦争最後の戦いとなった樺太作戦で
|
◆原口 兼済 陸軍中将◆ (略 歴) 大分県・豊後出身 陸軍兵学寮卒 貴族院議員、男爵 弘化4年2月17日、森藩士(大分県)・林寛吾の四男として生まれ 同藩士・原口等の養子となる。明治2年、陸軍兵学寮青年学舎 に入り、明治4年、陸軍少尉に任官し5番大隊付となります。歩兵 第1連隊大隊副官、陸軍士官学校付などを経て、明治9年3月か ら9月まで西南戦争に出征しました。(本姓は、才木 兼済) 歩兵第3連隊大隊長、陸士生徒司令官、陸軍戸山学校次長、 ドイツ差遣、戸山学校長、近衛歩兵第1連隊長などを歴任し、 日清戦争末に第4師団参謀長として出征したが終戦になります。 再度、戸山学校長となり、明治29年9月陸軍少将に進級。歩兵 第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、歩兵第17旅団長、 留守第1師団長、韓国駐剳軍司令官、大本営付、教育総監部 参謀長などを経て、明治38年1月、陸軍中将。日露戦争では 独立第13師団長として樺太作戦を遂行し、樺太全土を占領しま す。明治39年7月に休職し、翌年11月、予備役に編入。 明治40年9月、男爵を叙爵。明治43年8月から大正7年7月まで 貴族院議員を務めました。大正8年6月18日、逝去(享年72歳)。 出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
樺太に上陸する原口中将隷下の独立第13師団 |
日露戦争最後の戦いとなった樺太作戦で新編された独立第十三師団 (約二個旅団)を率いて上陸作戦を遂行、樺太全土を占領しました(ア メリカ合衆国大統領に依頼しその講和勧告後、日本は講和談判を有 利に進めるためにロシア領の樺太に侵攻し占領しました)。この樺太作 戦とその後の南樺太を日本が正式に領有する事に決した背景を見て みましょう。 樺太占領は、陸軍参謀次長 長岡 外史 の次長就任以前からの持論 でありました。しかし、明治37年9月8日には、長岡が立案した樺太攻 略案は不裁可となった。明治38年3月22日に大本営で樺太遠征準備 の会議が開かれたときも、海軍などの反対で実現には至らなかった。 日露戦争を最後まで戦い抜く国力がない日本は、ロシアとの講和を模 索しました。明治38年5月27日の日本海海戦勝利後の5月31日、外務 大臣小村寿太郎は駐米高平公使に訓令を発し、米大統領セオドア・ル ーズベルトに、日露講和につき友誼的斡旋を希望する旨申し入れるよ うに命じました。6月1日、高平は大統領にこの訓令を伝えました。6月6 日、米国は日露双方に対して、 「日露両国のみならず文明世界全体 の利益のため、講和会議の開始を切望する」との内容のルーズベルト 公文書を渡しました。 6月7日、ロシア皇帝からルーズベルトの停戦勧 告を受け入れるとの返事がありました。ロシア皇帝の意向は、日本軍 により樺太が占領される以前に講和を希望していました 。 日本の首脳部では樺太占領は消極的だったため、長岡外史参謀次長 は満州軍総参謀長の児玉源太郎陸軍大将に協力を依頼、6月14日、 児玉より、講和談判を有利に進めるために、樺太占領を勧めるとの内 容の電報がありました。6月15日に至って、樺太作戦の件が政府・統 帥部の協議で決定し、6月17日に明治天皇の裁可が下り、新設の独 立第13師団に出動命令が下されました。 2個旅団編成の樺太遠征軍は、日本海々戦後、新編制された連合艦 隊の第3・第4艦隊からなる北遣艦隊に護送され、7月7日、樺太南部の 亜庭湾に侵攻しました。当時、南樺太のロシア軍の兵員は、1,200名程 度と少なかったため、遊撃戦への転換を図り、5つのパルチザン部隊が 編成されました。日本軍は、優勢な戦力を背景に、8日にはコルサコフ を占領。10日にはウラジミロフカ(現:ユジノサハリンスク)を占領しまし た。16日には、コルサコフ方面司令官アルチシェフスキー大佐も降伏し ました。しかしロシア人パルチザン部隊は、その後も1ヶ月以上にわたっ て抵抗を続けました。 7月24日更に日本軍は、北樺太アレクサンドロフ附近に上陸しました。 北樺太のロシア軍は、島長官リャプノフ中将以下5,000名を越える兵士 がいましたが、ロシア軍は…わずかに抵抗を示しつつも、島の深奥部へ 退却したため、日本軍はその日の夕方にはアレクサンドロフの占領に 成功しました。その後、島長官リャプノフ中将は降伏勧告を受けて、7月 31日に日本軍に降伏しました。 樺太占領後の8月10日から開始された日露講和会議(ポーツマス条約) の結果、樺太を東西に横切る北緯50度線以北は、ロシアに返還されま したが、以南は正式に日本割譲させ日本領樺太となりました。 出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』 追記:また駐留師団として二個旅団を持って臨時に設立された独立第 十三師団ですが、その後に臨時師団より常設師団に昇格しまし た(高田第十三師団)。師団はその後、朝鮮駐剳を経て、大正9 年のシベリア出兵に動員されました。しかし、大正年間には続く 戦役によって政府は財政難となっており、大正14年に加藤高明 内閣で行われた所謂「宇垣軍縮」によって4個師団の廃止が決 まり、第13師団も第15・第17・第18師団と共に廃止されました。 |
樺太遠征軍の主だった顔ぶれです。 |
海軍:北遣艦隊 |
|
第四艦隊司令長官 出羽 重遠 海軍中将 |
第三艦隊司令官 東郷 正路 海軍少将 |
第四艦隊司令官 中尾 雄 海軍少将 |
陸軍:独立第十三師団 |
独立第十三師団々長 原口 兼成 陸軍中将 |
独立第十三師団参謀長 小泉 策良 陸軍少将 |
歩兵第二十五旅団々長 竹之内 正策 陸軍少将 |
歩兵第二十六旅団々長 内藤 新一郎 陸軍少将 |
明治38年7月7日に原口中将隷下の第十三師団が樺太に 上陸。対するロシア軍は歩兵1個大隊に砲兵1〜2個中隊 の正規軍に加えて約二千名の義勇兵が参加しましたが… 義勇兵の多くが囚人であった為…とても日本軍の敵にな らず7月31日にロシア軍は正式に降服。ここに樺太全土が 我が日本の占領下に入りました。 |
上は、亜庭(アテイ)湾に上陸する日本軍(当時)ですが 下は現在のアテイ湾を望む上陸記念碑が有った場所で す。戦後にロシア人に破壊され土台だけが残る無残な 姿になっていますが、日本領の樺太が存在していた時 代は、栄光の上陸記念碑が湾と上陸地点を見下ろす高 台に威風堂々と聳え立っていました。 |
打ち壊された上陸記念碑と土台…。 |
日本統治時代は…こんな感じでアテイ湾を見つめて いたと想われます。 |
明治38年7月7日、歩兵第二十五旅団(竹之内 正策 陸軍少将)が 樺太南部アティ湾のメレ村に上陸しました。 |
アレキサンドロフに上陸した日赤救護看護婦達(第12班と臨時 22班)です。この最北の地に明治時代も先の大東亜戦争と同様 に日赤看護婦が戦場に赴いています。 |
左上はルイコフ村を占領した歩兵第五十一連隊です。右上は ウラジオミロウフカで投降したロシア義勇兵達です。 |
左上はルイコフ教会で行われたロシア軍降服に関する会見の 模様。右上は7月31日のロシア軍降服の手続きについて日露 両軍で打ち合わせしている写真です。下はルイコフ兵営内行わ れたロシア平俘虜の尋問を撮影した写真です。 |
卑怯な旧ソ連(現在のロシア)に不法に奪われたまま ですが、この南樺太は今も尚、国際法上は我国の領 土であります。 |
惜しい事ですが上の写真の勲章一式が欠です。 |
原口閣下の靴と勲章以外の主だった 大礼服一式が揃っています。 |
古い撮影された一式の写真には佩用の勲章類が ありましたが、別にされて売却されたのか…惜しい 事にこの一式だけが縁あって手許にきました。樺太 繋がりで縁が深いのかと勝手に想っております。 |
大切の保存されていたようで痛みが殆どありません。 閣下が亡くなられたのが大正8年、予備役編入が明 治39年です。とても明治時代のものと思われません。 |
肩章も美しい見事なものです。 |
将官飾緒に中将の飾帯も経年による退色が一部に 見られますが痛みは無く…袖線や襟部分も保存状 態が良く美品です。 |
将官指揮刀も鞘に錆が少し浮いていますが総じて綺麗な品です。 あえて欠点を上げれば旧型刀緒は擦れや切れが若干気になる 程度です。 |
見事な鼈甲です。金線に解れもありません。 |
正帽も型崩れも無く総じて美品です。天頂に一箇所虫食いが 惜しい事に認めます。他に庇に少し傷みを見ます。内部にも少 しネーム刺繍部に痛みを見ますが何とかはらだと読めます。 |
手袋は痛みが少し激しくて型崩れと破れがあります。 |
頑丈な木製とランクです。原口の名前とK Hのイニシャルが 記載されています。正帽と靴以外は全て収められておりま す。 |
原口閣下、御自身が所持された写真帖です。中の記載もアルバムの 最初の文字も閣下の手によるものと思われます。 |
退色が進み薄れているのが難点ですが…この美しさです。 とても106年前のものとは思えない保存状態の良さに驚き ます。 |
上陸から占領に至るまでの生写真が写真帳に貼られています。 かなり退色して画像処理して掲載していますが…明治38年7月 7日 から7月31日の僅か三週間で完了した樺太作戦を記録した 戦勝国側の司令官の所持していたアルバムです。…106年前を 記録した明治の写真帳と考えると非常に保存状態の良いもので また希少な資料だと思います。 |
7月24日、日本軍は北樺太アレクサンドロフ附近に上陸し、その日の 夕方には…アレクサンドロフを占領しました。上の写真はその時の模 様を撮影した写真です。 |
北樺太のロシア軍は、島長官リャプノフ中将以下5,000名を 越える兵士がいましたが…日本軍の進軍の前に次々と降伏 し…島長官リャプノフ中将も降伏勧告を受けて、7月31日に 降伏しました。ここに原口師団長隷下の日本軍による全樺太 の占領が完結しました。 |
河で鮭を捕まえています。非常に豊かな漁業資源に恵まれて いた島でした。卑怯で悪辣なロシア人に奪われた我国の領土 樺太は…貴重な天然資源の宝庫である事が判り海底油田な どの開発が進められいます。 |
この上下の写真に写る方ですが、これまで長らく不明 の人物でありましたが…平成28年1月にこの写真の方 の曾孫に当たる方が名乗り出て下さり、この方の氏名 階級と略歴が判明致しました。 |
この方は、中野 廣 陸軍中佐(当時)で歩兵第 五十一聯隊の初代聯隊長として原口中将隷下 の独立第十三師団にあって樺太占領に参加さ れました。 |
以下、三枚の写真は中野 陸軍大佐の曾孫にあた る水野 俊彦 様の提供によるもので全て中野 廣 陸軍大佐の写真となります。 |
中野 廣 陸軍大佐の正衣袴姿のお写真です。中野大佐は福島県出身で 二本松藩士の家に生まれた士族です。二本松藩は奥羽列藩同盟に参加 した朝敵の敗残の身であった為、戊申戦争以降は事実上失業状態だった ようですが…西南戦争勃発で新政府軍が将兵を募集しており下士官募集 に合格、さらに東京教導団で士官教育を受け、日清、日露戦争に出征した そうです。薩長閥でなく佐幕の小藩の士族にあって大佐まで出世されたの は実力が認められたからにほかなりません。そして陸軍大佐で退役されて おります。 |
写真提供:水野 俊彦 様 |
この上の写真は、オリジナルがかなり痛みがあるようですが珍しい 写真です。第五十一聯隊の聯隊旗を持つ聯隊旗手と護衛の兵士を 前に軍旗に対して抜刀して背を向けて写っているのが聯隊長である 中野 中佐です。寫眞には本人の手書きで「送旗式に於ける敬礼」 で明治38年4月17日との記載があります。因みにこの時の聯隊旗手 を務めた若い少尉が後の藤田 進 陸軍中将(第三師団長、第十三 軍司令官)です。 |
名古屋の第三師団長時代の 藤田 進 陸軍中将の写真がありましたので掲載 しました。 |
かつて樺太には日本人が40万名も暮らしておりました。北海道同様に 扱いは内地でした。このアルバムを見てお判りのように我々の祖先は この土地を民族の血で贖い正当な国土としてきた事がはっきりと判り ます。対して旧ソ連の行った火事場泥棒の様な領土を掠め取る形で侵 攻し北方領土(千島列島)と南樺太を奪った事は絶対に許してはならな い事実です。我が民族は必ずロシアより、この地を奪還し…北サハリン もその賠償として返還してもらう必要があると思います。将来、あるべき 武力が正当に行使出来うる状態に復した時…我国と我民族は、悲願と 報復を果たすべきだと考えて止みません。 |
この佐渡丸は、ウラジオストックに残った露西亜の 太平洋艦隊の支隊が日本海で北海道・東北〜北 朝鮮付近で日本の船舶の通商破壊戦を繰り返し パニックを起こしましたが…旧式の第三艦隊が第 二艦隊に交代し対処することになりましたが… 明治37年6月15日、対馬沖で兵員を輸送航行中 に砲撃を受けて大破撃沈します。500名余りが他 の船に救難され助かっています。 |
以下の7枚の写真は、アルバムの後半に貼られた写真 ですが樺太作戦の写真でなく、それ以前の朝鮮半島や 支那・臺灣の写真が混ざっているものと思われます。 |
左上の写真の徒歩の人物のヘンテコナ格好は明らかに朝鮮人と思われます。 現在のサハリンには朝鮮人もおりますが日露戦争末期のこの時代には居りま せん。原口閣下は第十三師団長になる以前に初代の韓国駐剳軍司令官をさ れておりますので、その時の朝鮮半島での写真が含まれているものと推察し ます。また以下の写真などは…明らかに樺太とは程遠い支那や台湾での写真 と思われます。原口閣下は歩兵第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、歩兵 第17旅団長などを歴任され支那も台湾でも駐留経験がありますので、その当 時の写真と思います。 |
右下のターバンを巻いた人物は、どう考えても英印軍の兵士 やグルカ兵で…サハリンに居る訳がありません。支那での写 真と考えて間違いなさそうです。 |
この国境の境界線を示す標榜石です。 |
ありし日の樺太庁の庁舎です。 |
九八式略式軍刀(ツナギ付)拵と
|
濃州関住浅野兼眞(浅野兼真)の銘のある半鍛錬の軍刀です。 関の代表的刀匠である兼道(小島兼道)の門下で兼重、兼義と 共に兼道門下の三羽烏の一人と評価された刀匠です。 当時、師の兼道が関共進社専属刀匠中の総帥であることから、 兼眞も所属しており陸軍受命刀匠として活躍。 大日本刀剣商工名鑑(日本刀剣新聞社・昭和17年3月25日発 行)に記載がありましたが、天才肌の刀匠だったようです。 14歳で兼道の門に入り、先輩を追い抜き20歳で鍛錬場と弟子 3人を持つという若くして才能が開いた刀匠です。 |
新品の略式軍刀拵、准士官用の刀緒付です。実戦に用いない まま敗戦に至ったのでしょうか…。刀も研磨済みで傷無しで上々 のものです。 |
当サイトでもリンクしてお世話になっている”旧日本帝國陸海軍の軍刀” のページを拝見すると関のこの軍刀と拵え一式の値段が判ります。当時 古式半鍛錬刀・白鞘入で70〜80円、陸軍略式2等外装の値段が20円 合計90円から100円したようです。士官・准士官の軍刀や拳銃、軍服は 私費なので大変だったと思います。 |
この軍刀も下の軍刀も関の半鍛錬刀ですが…早い時代に登録証を 取ったので切断をしないでの所持が叶いましたが…上の刀剣のよ うに軍刀が登録出来ずに切断を余儀なくされる現代の制度には、非 常に憤りを感じずにいられません。工業刀の近代の歴史と技術の進 化や可能性を真っ向から否定するやり方は科学をも否定する事に 繋がり…そうした体質には嫌気がさします。 |
濃州浅野兼真作之の銘と桜の刻印があります。 |
昭和刀の関刻印があります。下の関の軍刀と違い内務省令の検査印 がおされています。これは名古屋陸軍造兵廠関分工場が「關」刻印を 使用した以降のものである事をさします。関刃物工業組合の検査対象 は昭和刀 (古式半鍛錬、素延刀)のみ。古式本鍛錬刀は無検査の為、 原則としてこの刻印は打たないが刀匠の気に入った本鍛錬刀にも打っ たという説もあるようです。 |
この昭和刀に誂えた陸軍九八式略式軍刀の拵です。 |
殆ど使われた形跡がありません。敗戦を迎え 未使用のまま保管されたものと思われます。 早い時期に記念に残す為に登録をしたので 当時は…審査をパスしたものと思われます。 |
短寸半鍛錬軍刀(関の刻印有り)と昭和刀拵 |
この関の刀工で小森廣利という方は昭和戦時下 軍刀(昭和刀) 関鍛治刀匠名簿 昭和14年10月迄届出調査済含む後の新刀匠 届出名簿)にS15.09.28の届出で廣利・小森廣利とあります。 |
寸法が10cm程短い脇差の長さで両側に「樋」が彫って有ります。 |
こちらの短寸半鍛錬軍刀は軍刀の拵はありませんでした。 |
何処の何方が、この短寸軍刀を購入し用意したので しょうか。そして戦後、記念としてか登録し所持を続け たものと思います。そこにどの様な想いがあったのか …今となっては知る由もありません。この昭和刀だけ がその想いを知っているのかもしれません。 |
小森廣利の銘と関の刻印があります。 |
昭和刀の關刻印です。上の関の軍刀と違い初期検査印 がおされています。これは名古屋陸軍造兵廠関分工場 が「關」刻印を使用する以前のものをさします。関刃物工 業組合の検査対象は昭和刀 (古式半鍛錬、素延刀)の み。古式本鍛錬刀は無検査の為、原則としてこの刻印は 打たないが刀匠の気に入った本鍛錬刀にも打ったという 説もあるようです。 |
蒙古聯合自治政府肇建功労章証書 |
蒙古の肇建功労章証書です。メダルはたまに見ますが 証書は中々見ません。…珍しい物と思います。 |
下は、佐藤 虎之助 少佐の大尉時代の 紀元二千六百年祝典記念章章記です。 |
珍しい陸軍 テ3 一式旋回機関銃
|
米軍の兵器開発担当者が非常に優れた アイデアと設計で優秀と評した陸軍の一 式旋回機関銃です。これを海軍が採用し たのが一〇〇式旋回機銃です。 |
一見すると7.92mmの九八式旋回機関銃を連装式の二連式 したように見えますが、実は7.7mmの八九式旋回機関銃を 7.92mmを発射できるように改造したのがこの一式旋回機関 銃です。 |
この一式旋回機関銃は、主に九九式双軽U型やキ66、百式重爆 などに搭載されました。 |
主要諸元 口 径 7.92mm 全 長 998mm 重 量 15.6kg 発射速度 2.200発/分 |
ヤフオクで九八式旋回機関銃のマガジンとして手に入れた 品です。基本構造と7.92mm弾の装弾は同じですが左上 の画像を見ると明らかのように給弾口が2個有る二連式 の一式旋回機関銃のサドルマガジンである事が判ります。 |
外観のみのマガジンです。中のバネ等もありません。 外観も錆が浮いていますが…オリジナルの塗装が、 しっかり残っています。運搬や脱着用の取っ手も生き ています。 |
名古屋造兵工廠の刻印と21851のシリアルNO.があります。 また左右のマガジンには”50”、”25”と残弾数を示す打刻と 覘き窓が見られます。射手は時々これを覘きながら射撃を 行い替え時を失せずにマガジンを替えたものと想像します。 |
マニアの方より御教授をいただき訂正いたしましたが 下に掲載した九八式旋回機関銃を連結したものでなく この上下の画像でお判りのように銃身の下のガスシリ ンダーが2本ありガス圧作動方式の7.7mmの八九式旋 回機関銃を7.92mm弾を撃てるようにして連装にしたも のです。このテ3 一式旋回機関銃は似て非なるもので ある事が良く判ります。 |
こちらは九八式旋回機関銃(MG-15)です。 |
主要諸元 口 径 7.92mm 全 長 118cm 銃 身 長 55cm 重 量 6kg 発 射 速 度 750〜1000発/分 |
↑ 上の画像をクリックすると九八式旋回機関銃 の実射撃をYouTubuの動画でみれます。 ”WW2 Japanese Type 98 machine gun” にジャンプします。 |
拡大して見ずらいですが上の方が給弾口がシングルの九八式用、 下がダブルの一式用です。下の方が広くなっているのが判ります。 |
沖縄で不時着した陸軍の特攻隊員と
|
片手でめくり九州から沖縄まで更に台湾までの 航路が操縦桿を握っていても見れるように不要 な部分を切除し上手く折り曲げて畳んである航 空地図です。極秘の赤文字がある200万分の1 大東亜航空図第三十六号とあります。 |
特攻基地”知覧”より沖縄に至るまでの航路が記載 された陸軍の航空地図です。途中の島々でも飛行 場(基地)のある部分は航路が設定されています。 種子島島、奄美諸島…そして沖縄。更に地図には 先島群島の宮古島、八重山諸島そして台湾までの 航路も記載されています。 |
この地図を所持していた陸軍のパイロットは恐らくは知覧 から出撃した特攻隊員だと思います。不時着したという 話ですが…生きていたのか死んでいいたのか不明です。 いずれにしてもこの地図を見ながらどんな想いで沖縄まで 飛来し不時着したのか…想像すると複雑な気持ちになり ます。 |
米軍の調査済みの公印とサインがあります。 |
隼二飛中戦友会記念品 (杯と掛軸) |
隼魁9872部隊は、第2飛行場中隊の戦友会は第13飛行師団の隷下部隊です。 掛軸に部隊名が見られます。第13飛行師団は、昭和20年2月、南中国における 作戦担当のため南京で編成され漢口に司令部を置きました。当初は広東方面の 対上陸航空戦備や同作戦の航空支援を担うことを目的としました。同年年5月、 第5航空軍が朝鮮へ転出となり、第5航空軍が担当していた中支方面の三角地帯 (上海、南京、杭州)の東西に至る航空戦備も担当となり、司令部を南京に移しま した。 |
この隼魁9872部隊(第2飛行場中隊)の戦友会が所属した第13飛行師団 (隼魁22101部隊:第13飛行師団司令部 )には、以下の航空部隊があり この飛行部隊を各飛行場でバックアップした部隊の一つであります。 隼魁2376部隊:飛行第44戦隊(偵察):沢山義治少佐 隼魁2381部隊:飛行第90戦隊(軽爆):鈴木武男少佐 隼魁2383部隊:飛行第82戦隊(司偵):奥村房夫少佐 隼魁2387部隊:飛行第25戦隊(一式戦):金沢知彦少佐 隼魁4353部隊:独立飛行第54中隊(直協):岡本良夫少佐 隼魁8385部隊:飛行第85戦隊(四式戦):斎藤藤吾少佐 隼魁9602部隊:飛行第24戦隊(一式戦):庄司孝一少佐 |
尚、この聞き慣れない飛行場中隊とは、飛行場大隊と同じ任務を持 ったより小規模な部隊を飛行場中隊と謂います。戦況に応じて投入 される予備兵力としての運用と、飛行戦隊よりも小規模な独立飛行 中隊の支援任務が特に期待されました。編制は、飛行場大隊をその まま1/3程度に縮小したものでした。昭和16年には17個中隊、昭和 19年初旬には73個中隊が存在しました。 |
何れにしろこの部隊は支那で敗戦を迎え無事に日本へ帰国して おります。同じ航空隊を支援する飛行場大隊や飛行場中隊、整備 中隊でも南方の島に派遣され玉砕したり、飢餓や病気で多くが亡 くなる戦場に比べればはるかに運が良い事になります。 |
昭和16年5月22日 文部省 御親閲拝受章 とあります。 |
文部省からの推薦や表彰や叙勲など 功績があった方が皇居宮殿に招かれ 亡き昭和天皇に拝謁を許された方が 佩用したと思われます。 |
野戦予備病院の軍医見習 士官の認識票です。 |
木製の粗末な門鑑はよく見ますが 現代風で金属の立派な門鑑は珍し いです。 |
興亜馬事大会参加章 |
帝國軍用犬協会 特良賞メダル |
O.S.Kの高砂丸の就航記念の品です。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |