Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
南方の海底から引揚げられ里帰りした
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ヤフオクで入手した九二式重機関銃です。空冷フィンにびっしりと サンゴが詰まり長い間…南方の海中に投棄されていたのが良く判 ります。現地人が引揚げたものを遺骨収集などの戦友会などが日 本に持ち買った物のようです。 |
ヤフオクでは三年式重機関銃として売りに出されていましたが下に 特徴を画像で描出したように外形からも明らかに三年式でなく九二 式重機関銃であることがわかります。出品者は軍装研究の世界で は非常に高名な方なので販売を委託した前のオーナーが強く思い 込み(三年式であると)その方が旧軍で軍隊体験のある方だったの で仕方なく三年式として売りに出した物と思われます。 |
時代背景としても南方の海でサンゴが付着しているので九二式以外は 時代に合わず… 幾ら支那に展開していた部隊がそのまま南方に移動し 展開したといっても戦闘中の最前線の部隊だからこそ旧式の三年式で なく九二式重機関銃が重点配備されていく筈なので・・・考えられる可 能性は沖縄しか思いつきませんでした。ここでならば大正時代の…三 年式重機関銃が残っていて使われたとしてもおかしくありません。 また私の師匠である椿様の推理も…大陸から南方に転用された部隊が三年 式をそのまま持っていった…と言うのも疑問です。かえって大陸の部隊の方が 装備改変が終わっていたと考えるのが必然です。大陸の部隊が弾の威力の弱 さに悩んでいたのは有名な話です。重機関銃に6.5mm弾は小さすぎます。 当時の重機関銃の役割は…まず遠くの敵には大砲、近くの敵には小銃、その 中間に対してが重機関銃と云う考え方です。しかしこの距離では中国軍のモ ーゼル7.92mm弾のチェッコ機銃ZB26に明らかに劣っていました。 日本軍は補給をなおざりにしたと現在、盛んに言われております。ガダルカナル 、ニューギニア、インパールなどの印象が強すぎるのでしょうが…これらの方面で は輸送船での補給が出来なかった事が強調されておりますが、その他にジャン グルに道路を作ることが出来なかった事も非常に大きな理由でした。戦後、 ニューギニア、インパールは何て無茶な戦いをやったのだろうと批判されますが… これは中国戦線での補給をそれなりに続けることが出来て現地調達も上手く出 来た成功体験のせいで、後方で作戦を立てる参謀の多くがが補給の重要さを 場数を最も踏んだ戦場である中国の感覚で行っていたからでしょう。中国では 鉄道や自動車で有る程度は補給は出来ました。このことからも中国大陸の部 隊の重機関銃の装備改変はしっかりと進んでいたと考えられます。 |
上に上げた特徴と銃杷の違いと口径以外は殆ど外形からは違いが判りません。 |
錆が酷くて口径では6.5mmか7.7mmかは最早、判断不能です。 しかし上の画像からも矢印部分があるかないかで決定的に外見 で判断がつきます。以下のように右側が見えない角度では銃杷 の形状以外では判断は難しいです。 |
後方右側の縦の棒状の特徴のある突起は九二式用照門に成ります。 . |
錆付き朽ち果てた機関銃が物哀しさを訴えます。 |
サンゴがびっしりと詰まった空冷フィンです。 |
〜九二式重機関銃〜 (基本スペック) |
設計・製造 | 南部麒次郎 ・日立兵器 |
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旧日本陸軍の最優秀銃器といわれる名銃の一つです。 出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
フィリピン辺りで無いかと引揚げた地域を推測されて いましたが…何処で引き上がられたかも不明です。 |
物言わぬ朽ち果てた九二式重機関銃…この鉄の塊が7.7mmの 銃弾を連射しその咆哮を止めた時…少なくとも3〜4名の兵士が この銃の移動と操作に携わっていました。これ等の兵士はどうな ったのでしょうか…見つめていると様々な想いがよぎります。 |
いずれにしてもこの九二式重機関銃は…大東亜戦争の全期間と 全戦域で皇軍で最も使用された帝國陸軍を代表する重機関銃と 謂えます。…この錆付き朽ちた重機関銃が帝國陸軍の栄枯盛衰 を象徴しているかのように感じます。 |
錆付いた銃身の先に開く銃口です。 |
我郷土の北鎮師団…第七師団の九二式重機関銃です。 |
日本軍の銃器 |
この動画は、ヒストリーチャンネルの特集を録画しYoutubeに UPしたものですが、この中の最後の方に九二式重機関銃を 実際に発射している部分があります。 |
Japanese small arms of WWII (3/5) |
以下は陸自の土浦駐屯地の武器学校の 小火器館で展示されている九二式重機 関銃です。 |
手作り真鍮製 四分の一スケールの
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防盾を装着した画像です。 |
マズルサプレッサー(消炎器)を装着した画像です。 |
ここまで極めればまさに芸術品です。 |
九六式照準眼鏡と嚢です。ここまで凝ると脱帽です! |
九六式照準眼鏡を取り付けた画像です。 このデティールの精密さがたまりません。 |
激戦のガダルカナル島
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ガ島のボネギ川(Bonegi River)の戦跡地の砂地と写真2枚です。
またガ島の戦いを現地で研究されている方からのメモ用紙の説明文 です。現地では病院施設が設置され…ここで多くの日本兵が戦死した との事です。 |
何でもない砂と小石です。…半世紀以上前に我同胞が二万名も死んだ 島であります。二万名の多くが戦死では無く戦病死(餓死)した事よりガ ダルカナル島は餓島と謂われます。この砂も我々の同胞である日本兵 の血を浴びたかも知れません。想像すると手を合わさずにはいられませ ん。ただの砂ですが…多くの遺品と共に仏前に置かなければ気が収まら ない品です。 |
美しいボネギ川が海に注ぐ入江附近です。…沖合にフロリダ島が見えます。 |
この近くには有名な輸送船の鬼怒川丸が海岸に沈んでいます。 |
このフロリダ半島とガ島の間の海峡が有名な鉄底海峡(アイアン・ ボトム・サウンド)です。第一次・三次ソロモン海戦、サボ島沖海戦 ルンガ沖夜戦などで日米(豪)両海軍の軍艦の墓場となっています 。日本側だけでも駆逐艦”暁”、綾波”、”吹雪”、”夕立”、”照月”、 ”高波”、”巻雲”、重巡洋艦”古鷹”、戦艦”霧島”、”比叡”、潜水 艦 イ-123、イ-3、イ-1、輸送船”鬼怒川丸”、樫丸”、”広川丸”、 ”東亜丸”などが知られています。 |
上は日米両軍の沈船の位置を記したもの。下は鬼怒川丸。 |
先島集団(八重山諸島)方面の陸海軍で
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当サイトの河辺虎四郎中将の軍服を紹介したページで参謀次長として 昭和20年8月19日に緑十字機の一式陸攻に乗り伊江島へ飛び、輸送 機に乗り換えてマニラに飛びここで米軍と降伏と武装解除、米軍の進駐 に関して話し合いを持った事が有名ですが、この5枚の写真の緑十字機 は海軍機の一式陸攻ではなく陸軍の九七式重爆に搭乗した先島諸島の 陸海軍の代表からなる降伏使節団です。 |
緑十字機の九七式重爆の周りに物珍しそうに集まるGI達 |
陸軍の搭乗員達です。…パイロット達も何もすること無く居るだけ という感じです。 |
上の写真の真ん中で横を向き下の写真で右を向いている 軍刀の将官が独立混成第59旅団長の多賀 哲四郎 少将 (宮古島)です。またその右側で参謀飾緒に略綬の大佐が 第28師団参謀長の一之瀬大佐(石垣島)です。下の写真 の右端の三種軍装で軍刀の方が宮古島海軍警備隊司令 の村尾重二海軍大佐です。先島諸島(群島)と謂ってもか なり広範囲で沖縄に近い宮古島諸島(列島)と台湾に近い 石垣島を中心とする八重山諸島(列島)に大別されます。 ここに八重山諸島に第28師団が、宮古島諸島に独立混成 第59旅団と海軍警備隊が無傷で守備についておりました。 尚、石垣島の海軍部隊は貧弱な装備の小部隊があるだけ ですが…決戦用に第19震洋隊(川平湾:50艇、186名)と 第23震洋隊(宮良:52艇、184名)と第26震洋隊(宮良:52 艇、184名)の特攻艇・震洋隊が3隊154艇が敵前上陸に 備えておりましたが…米軍は先島諸島を飛び越えて沖縄 本島に上陸し攻略しました。 |
先島集団は本来であれば最高司令部は第32軍である が既に沖縄で玉砕しており…従って南西諸島の石垣島 を中心とする八重山諸島及び宮古島を中心とする宮古 島列島の併せて先島諸島の先島集団は第28師団長の 納見 敏郎 陸軍中将が日本陸海軍の最高司令官として 連合国軍に対する降伏文書に調印しました。 |
昭和20年9月7日、沖縄では南西諸島の全日本軍を代表して 先島集団日本軍司令官の納見中将が、しして奄美群島日本 陸軍司令官の高田 利貞 少将と奄美群島日本海軍司令官の 加藤 唯雄 海軍少将を引き連れ、ジョセフ・スティルウェル米 陸軍大将との降伏文書に調印を行いました。これにより全ての 沖縄戦が公式に終了しました。その調印式の米軍側の写真で す。 |
能美中将が降伏調印文書にサインしている写真です。 |
ジョセフ・スティルウェル米軍大将がサインしています。 |
この調印式に先立つ9月6日に先島諸島の宮古島では米軍 が上陸し日本軍は降伏しました。またこの後、12月2日に連 合国はA級戦犯として納見中将の逮捕命令を出しますが、 納見中将は宮古島に渡り、部下将兵復員の目処がたった 同年12月13日自決し果てました。 |
九三式地雷(対戦車・対人)と
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通称 あんぱん と呼ばれた日本軍の代表的な地雷です。 |
旧陸軍の対戦車・対人用の地雷です。 下の写真は九三式地雷を二個背中合 わせに紐で固定した様子です。 |
昭和8年制定、対人対戦車兼用の最もスタンダードな 圧力型地雷です。この後に昭和14年に制定された九九 式破甲爆雷が4個のマグネットが付き信管の安全ピンを 抜き戦車に投げるか付けるかすると約10秒後に信管が 作動し爆発する装甲を破る目的の対戦車地雷と一線を 画しています。 |
アンパンと呼ばれた九三式地雷の専用信管です。 |
よく見かける米軍の教材でも有名ですが…この信管は当時の実物です。 実物の本体も非常に希少ですが、信管は殆ど出回る事は無く大変珍しい ものです。本体は真鍮製で銅製線断線の入った機械部分(ストライカー 式)で鉄製です。機械部に黒染めの識別色が施されており、線断線が 2箇所で留められています。これは「対人用」で10〜12sの圧力で作動し ます。(対戦車用は120s以上で作動) |
安全栓の頭部には「安」の刻印があり外周に滑り止めのローレットが 施されており螺子式で外れます。また本体底部の装着螺子の保護筒 も残っています。 |
嗚呼、我郷土の北鎮第七師団の写真 |
昭和19年4月…留守第七師団幕僚(師団長 落合 忠吉 陸軍中将)達 です。後に第七十七師団となって昭和20年4月8日に本土決戦に備え 南九州に転用されました。副官らしき佐官と参謀・大佐の前に座り微笑 みを見せるのは落合 中将閣下です。将官隊長章に軍刀の将官刀緒の 房が一際大きく見えます。 |
以下、時代はまちまちですが北海道が誇る精強第七師団の写真です。 |
月夜の晩に歩哨に立つ防寒装備の兵士二名 |
この雪中で鉄条網を切断する工兵ですが珍しい桜ヘルメット(鉄帽) を三名とも被っているのが判ります。 |
何処の連隊か不明ですが上は兵営から暖房の煙突が外されていますので 初夏〜秋と思われます。下は煙突が付いていますので晩秋また早春と思わ れます。 |
第七師団隷下の何処の連隊か判りませんが…祝・入営という感じです。 |
雪上装備の九二式重機関銃と冬装備の兵士達! |
九四式三十七粍速射砲です。 |
昭五式の立襟に九八式襟章を付けたスキーを 履いて背嚢と小銃を背負った兵士です。裏に ”器材庫の親方”横林嘉男殿と記載があります。 |
軍都・旭川時代の旭橋です。当時は橋の正面に第七師団長 佐藤 巳之助 中将の筆による”誠”という文字を中心に、忠節 、礼儀、武勇、信義、質素の軍人勅諭の網領が書かれた旭日 章が高く掲げられておりました。下は現在の旭橋です。 |
旭川第七師団の『勅諭下賜五十周年記念』の官製記念文鎮 |
戦前では教育勅語の精神然り…両親に孝行を尽くし 兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い…夫婦は 仲睦まじく解け合い…友人は胸襟を開いて信じ合い、 学問を怠らず職業に専念し知識を養い人格を高める。 進んで社会公共へ貢献し…また公序良俗を守ることは 勿論のこと…戦争など非常時には、真心を捧げ国の 平和と安全の為に奉仕する。…日本人が戦後、忘れて しまった権利の裏にある義務です。そして何よりも国を 守る事は米国や外国では無く国民自身である事です。 戦後になり物質的には豊かになりましたが…精神の豊 かさを完全に失い…子供や若者の目からは輝きが失わ れ…老いも若きも己の権利ばかりを主張し我を張り通ら なければ他人を殺傷するどころか、親や子…兄弟まで も手に掛ける鬼畜同然の犯罪が横行する社会となり果 てました。…こうした戦後社会を見るにつけて、再びこの 国は徴兵制を復活させ若者を鍛え、腐り果ててしまった 教育を再興する為に…日教組を中心とする国賊教師の 一掃を期待します。 |
かつては故郷の誇りとなる部隊が軍としての役割 だけでなく地域生活に溶け込み、人間教育や啓蒙 を行い…世界的にも稀な教養と規律の高い軍隊を うみました。これは第二次世界大戦までの各先進 国の軍隊の犯した重犯罪(強姦、輪姦、殺人、等) と重ね合わせると日本軍の犯す犯罪率が米軍や ソ連軍、中国軍のそれよりも遥かに低い事からも よく分かります。 |
戦前資料:貴族院議員 野村 益三 子爵
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よくも残っていたものと感心しました。中々、 この手合いの品は出てこない珍しいものだ と思います。 |
この野村 益三 子爵は防長倶楽部理事長として 有名な方ですが、父上の野村 靖 子爵も長州藩 出身の官僚で有名な政治家としても有名な方で 神奈川県令、駅逓総監、逓信次官を歴任。駐仏 公使などを経て、第2次伊藤内閣内相、第二次 松方内閣逓相等を歴任し晩年は皇室の養育掛 長をつとめられた方としても有名です。 |
写真は閣僚を歴任した父君の 野村 靖 子爵です。 |
↑ 現在は山口県人会として存在する。 財団法人 防長倶楽部の公式サイトです。 上のバーナーをクリックすると開きます。 |
野村子爵のものではありませんが 珍しいものなので一緒に紹介します。 |
現在の参議院の前身となる貴族院の議員 徽章となります。非常に珍しいものです。 |
↑ 野村子爵関連の別の収蔵品が 掲載されたページが開きます。 |
陸軍少年飛行兵学校の生徒特別襟章 |
操縦課程の特別襟章 |
通信課程の特別襟章 |
整備課程の特別襟章 |
昭和18年10月の改正以降の生徒夏軍衣袴です。 |
上下共に未使用の改正後の”大三号 昭和十九 本廠検定” 夏衣跨です。襟章がありません。夏衣には袖の緋線がありま せん。釦は、物資不足を反映して木製に金塗装を施してあり ます。 |
昭和18年製、大号の未使用の冬軍衣袴 |
こちらも未使用の冬軍衣袴となります。 |
上下とも昭和19年、三号 |
陸軍 九八式二十粍機関砲の
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陸軍九八式二十粍機関砲弾用の代用弾頭と百式曳光弾の2点。 代用弾は先端部が平らになり「代」の文字が胴部にあります。曳 光弾は頭部の信管は欠です。薄れつつありますが緑と黄色の識 別線が残っています。また”一〇〇式”の文字が胴部に残ってい て読めます。 |
九八式高射機関砲弾薬紙筒(蓋なしの美品) |
使用済みの二十粍弾自体はよく出てきますが、厚紙 製の一発ずつ収めたこの紙筒は、中々、残っていませ ん。私もこの程度の良い物以外に他に二点しか収集し ておりません。 |
九八式高射機関砲弾薬 一〇〇式曳光自爆瑠弾弾薬筒 東京陸軍造兵廠第三製造所製 と紙ラベルに記載されています。 納品前の品で年号などは入って いません。 |
こちらは、九八式20o対空機関砲弾。弾頭部は、100式弾頭。 |
珍しく残存した九八式高射機関砲弾薬紙筒の美品です。蓋も 残存しています。左は時の画像は紙筒の中に二十粍弾を収め て撮影したものです。 |
陸軍 九三式百五十糎探照灯 継電器予備品箱 |
中身はありませんが…珍しい探照灯の部品の属品箱です。 九三式探照灯は昭和10年から大東亜戦争の末期まで、多 少の改造はありましたが、機動性がある野戦用として量産さ れました。管制方式は海軍の9九二式と同じでした。探照灯 は四輪車に固定、これを発電機と共に大型トラックに積載し て移動しました。 |
現在のように防空兵器がレーダーで連動していない時代は 侵入する敵航空機に対して高射砲や高射機関砲で攻撃する には聴音機などと連動させた探照灯で夜空を照らし攻撃する スタイルが主流でした。 |
昭和14年11月 NO.1104 と入っているようです。 箱は鉄製で大きさは18cm×25cm×10cmです。 |
開発製造を行った富士電機の銘板があります。敗戦までに 電源発電車を一千台以上を生産し納入したと記録がありま す。探照灯は他の探照灯製作会社も同じものを作らせまし たが電源発電車は富士電機だけが生産しましたので、この 探照灯の生産数もほぼ同様の一千台であったと想像されま す。 |
部品の箱の銘板だけでなく対の探照灯の番号のある 銘板も打たれてあります。探照灯番号53481です。 |
中の部品表から探照灯は、炭素棒を使ったアーク灯なので 炭素棒間の調整部品が中心となっているのがわかります。 探照灯の発光は、アーク(弧光)放電が持続し、発生した光 を凹面鏡に反射させて平行な光束にし目標を照射します。 より明るい光を出すには、放電時に流れる電流を大きくして やれば良いのですが当時は技術的に難しかった面がありま す。そんな中でも日本の探照灯は高いアンペア数と高い照 度を誇り優秀だったようです。 |
開発は富士電機、生産は富士電機の他に 東京計器等が行いました。 |
九三式管制器です。 |
九三式百五十糎探照灯と管制器に運搬用トラックの一式です。 |
以下は小笠原諸島父島の電信山(長崎展望台)
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昔は乳頭山と言われた地域です。陸軍の高射砲中隊が使用 した直径150cmの探照灯です。格納庫が頑丈な壕になってお りここからレールで移動させて使用しました。 |
相当に朽ち果ててきていますが、かろうじて原型を保っています。 |
格納庫の奥に外れた反射鏡が転がっていました。 |
土台基部の写真です。回転盤になっています。銘盤が二枚 ありますが、これも難読で解読不明です。 |
一部、石垣が崩れていますが下の通路にレールが残っています。 ここを通して照射場まで移動させ電信山の高射砲と連動して対空 戦闘を行ったと謂われております。 |
正式名称は、陸軍 一式 百五十糎 照空燈です。 下が実物の画像ですが…まさしくこれです!! |
この下の二式一型航速測定具と組み合わせて 使うようで、高射砲による夜間迎撃射撃には欠 かせないものだったと謂われています。2軸の 車輪付き台座に据えられている。光力を強く した防空用サーチライトだがその数両を揃え られずに中々活躍できませんでした。その有 効距離は8000〜9000mあり高度1万m以上 で飛来するB-29を捉える事は出来なくとも 爆撃体制に入り高度を少し落とすと確実に照 射範囲に捉える事は可能でしたが数個では 捕らえ続けれないので相当の数を揃えないと 効果的な夜間迎撃射撃は難しいものです。 |
陸軍技術有効章(陸軍技術徽章) |
兵科将校に限らず、優れた技術(科学、化学、医学、薬学、建築、etc)の 所持者に贈られました。技術系士官の金鵄勲章と謂われる程の名誉ある 徽章でした。副賞として1万円から1万5千円が贈られましたが、この価格 は現在の1000万円から3000万円位に相当する高額なものでした。如何 に名誉ある章であるかが想像がつくでしょう。 |
この章の制定は昭和16年8月18日です。僅か4年余りの 期間で敗戦を迎えていますので授章者の数はそんなに多 く無いものと想像されます。この章の裏にあるシリアルNo. と思われる番号は95です。 |
731部隊で有名な石井 四朗 軍醫中将の の少将時代です。右胸に燦然と陸軍技術 有功章が輝いております。石井中将は軍 醫大佐時代に功四級金鵄勲章と共にこの 技術有功章を受章しております。 |
35/1 完成品模型の陸軍九五式小型乗用車 (くろがね4起)と陸軍九七式側車付自動二輪 (陸王)です。 |
中々、どうしてを見事に当時を演出しています。 |
同じく1/35の陸軍九四式六輪自動貨車 です。これら三種ともピットロード製です。 |
アルバムに軍医の名刺と一緒に 貼られた一枚の手術の写真です。 |
奥の真ん中で頭を下げて術野をのぞき込む形の執刀医 が病院長の岩戸軍医大尉でしょうか。助手の医師が二 名、手前左に器械出しの看護婦が一名。外回りの看護 婦なのか見学なのか手前にナースキャップを被った一名 に現在でなら麻酔科医が居る場所にのぞき込む看護婦 が一名います。…マスクも帽子もしない姿はいただけま せん。…戦前は人工呼吸器や麻酔器が無いので全身麻 酔自体が大変なリスクであったろうと想像されます。また 現在のような消毒・滅菌技術が発達し感染症対策がなさ れあらゆる種類の抗生剤が揃っている時代でありません ので…麻酔中の術中死のリスクと感染症で術後に死亡 するリスクは非常に高かったと想像されます。 戦時中も米軍を中心に連合軍側にはすでにPC(ぺ二シリ ン)という抗生剤が存在しました。これ等の存在は戦場で も野戦病院で手術した患者の生存率を飛躍的に上げまし た。これ等の抗生剤が日本軍にもあれば多くの傷病兵が 助かり死ななくても良い将兵が大勢助かったものと思わ れます。 |
名刺です。 |
昭和16年5月22日 文部省 御親閲拝受章 とあります。 |
文部省からの推薦や表彰や叙勲など 功績があった方が皇居宮殿に招かれ 亡き昭和天皇に拝謁を許された方が 佩用したと思われます。 |
野戦予備病院の軍医見習 士官の認識票です。 |
木製の粗末な門鑑はよく見ますが 現代風で金属の立派な門鑑は珍し いです。 |
興亜馬事大会参加章 |
帝國軍用犬協会 特良賞メダル |
O.S.Kの高砂丸の就航記念の品です。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |