Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
撃墜王で軍神となった福山 米助
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帝國陸軍最期の複葉戦闘機となった川崎 九五式戦闘機(キ10).に乗り微笑みを見せ る写真のパイロットが英雄・福山大尉です。 この方も敗戦により忘れ去られて語られる 事も無くなりましたが国の為、命を捧げた英 雄です。 |
◆福山 米助 航空兵大尉◆ (略歴) 明治37年 和歌山県生。 大正15年 陸軍に入隊。 昭和 4年 5月 所沢飛行学校を卒業、飛行第三連隊に配属。 飛行第五連隊に転属した後、昭和9年1月には 八丈島まで往復し、戦闘機による海上初飛行 に成功する。 同年 4月 京城〜立川間の往復飛行に成功。 同年 6月 立川〜台湾間の往復飛行に成功。 昭和 9年 末 陸軍士官学校入校。 昭和10年 陸士卒業(少尉任官) 日華事変勃発で飛行第2大隊に配属 昭和13年3月 8日 西安攻撃でI-15を撃墜し初戦果。 4月10日 3機を撃墜したが被弾して右肘と左膝に負傷し 操縦桿にハンカチを結び口にくわえて基地まで 帰還。 4月15日 出血多量のため戦死し。死後に航空兵団司令 官より個人感状が授与。 公認撃墜機数7機 |
上は愛機・九五式戦闘機二型に乗り微笑む福山中尉 |
昭和13年西安飛行場攻撃時の奮闘ぶりを戦前の国民に知られた 福山米助大尉機をプラモデルとして売り出したファインモルトの箱 絵です。この九五式戦闘機二型の塗装は西安上空戦以降の昭和 13年5月までのマーキングです。 |
歩兵第33連隊で初年兵時代の大尉です。 下の右から4人目が上等兵時代の大尉。 |
八日市時代 |
飛行第3連隊時代です。所天を付けています。 |
少尉時代(三鷹村) |
大陸の戦塵の中での一コマ |
九一式戦闘機にて陸軍最初の海洋飛行出発直前のスナップ! |
福山大尉が特務曹長時代 |
当時のパイロット達は一様にカメラが好きですね。 とても良い笑顔です。 |
昭和13年14月10日の出撃で大尉は敵2機を撃墜後…敵機の機銃 掃射を受けて左膝関節と左肘を撃ち砕かれる。機内の機銃修理用 ハンマーの麻紐で血止めをし操縦桿にハンカチを巻きこれを咥えて 基地まで約200kmを飛行大破しながら着陸し帰還した愛機の写真 が上のものです。まさに気力で成し遂げた帰還の偉業と謂えます。 |
英霊故山に迎えられ町葬営まれる。会葬者3000名を 超す空前の盛葬となる。 |
昭和13年12月8日、戦死された血染めの福山機が 大本営に於いて天皇陛下の天覧を賜ふ。 |
日米開戦前、激化する大陸での戦い
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昭和16年4月13日の朝日新聞大阪版に掲載された 戦死者を紹介する部分の切り抜きです。 |
同じ大阪出身で戦死した将兵が階級順に紹介され ています。 |
金谷中尉(戦死時、少尉)は、大阪市住吉区帝塚山の出身。 大阪の地理に詳しくありませんがグーグル地図で見ると万代 池公園があり、帝塚山老人ホーム玲風苑辺りに住まわれて いたと思います。地元の住吉尋常高等小学校から堺市立商 業高校を卒業しています。小学校は、現在の大阪市立住吉 小学校で今も現存し南海高野線を跨ぎすぐの所にあります。 堺商業高校は今も存在し同じ南海高野線”朝香山駅”の傍に あり実家の”帝塚山三丁目駅”から15分で到着します。大正 七年生まれの金谷中尉が堺商業を卒業したのは昭和11年の 18歳の時でした。そして大阪東区の(株)丸永商店に就職し 20歳を迎えた昭和13年12月に召集入隊します。年末に大阪 港より北満三江省にある歩兵第37連隊に合流し、ここで甲種 幹部候補生になり昭和15年7月に奉天陸軍予備士官学校を 卒業し見習士官になります。同年11月1日に陸軍少尉に任官 しています。原隊となる歩兵第37連隊は暫く三江省に移駐し ソ満国境の警備と訓練に従事し満州に駐屯していましたが、昭 和15年7月1日に動員が下令され華中に向かいます。同年11 月から漢水作戦に参加し、明けて昭和16年1月からは予南作 戦に参加します。そして部隊は9月から長沙作戦に参加し12月 8日の日米戦の開戦以降は昭和17年3月9日に比島・リンガエ ン湾に上陸作戦に参加します。 |
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しかし部隊が予南作戦終わった3月に江西省に移動し3月26日 上高懸挙家付近(現在の宜春市)の激戦で戦死しています。 同日で従七位陸軍中尉に昇進。享年24歳で少尉任官後、半年 も経たない早い小隊長の戦死です。このように大陸の各地では 日米戦の開戦以前から日中の激戦が続き…最も消耗率が高い のが戦闘の陣頭指揮にあたる下級士官でありました。日本軍で は彼のように旧制中学以上の学歴を持つ者を中心に一般召集 兵から幹部候補生として予備将校を育成して戦闘指揮にあたら せました。本家本元の陸軍士官学校卒のエリートは数が少なく 全部隊に供給は不可能でした。大東亜戦争では末期には外征 軍として国内を出て海外に駐留する派兵された日本軍は数百万 にも上りました。その多くを監督した初級将校の小隊長・中隊長 となる少尉〜大尉の多くが我々、一般市民から召集された中か ら幹部候補生として予備将校になった者達が大半でした。この 金谷中尉は…都市部で育ち商業高校を出てサラリーマンをする 現在の平均的な日本人に一番近い市民層です。時代が違えば 多くの日本人が彼と同じ立場にあり勇気ある戦いの後、戦死した かも知れません。そして彼のように軍神として靖国に祀られ神と して死して尚、国を守ってくれています。 |
御家族に宛てた手紙です。 |
戦中資料:蒙古聨合自治政府最高顧問で
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金井章二氏は、長野県出身で明治19年12月1日生れ。東京帝大卒。 大正・昭和前期の医学者で官僚です。北里研究所に入り、大正11年 国際連盟事務局保健部に勤務。翌年帰国して慶応大学教授に就任。 昭和5年に満州青年連盟理事長代理となり、理事長となります。そして 奉天省総務庁長や間島省長などを歴任。蒙古聨合自治政府最高顧問 となりました。その経緯までに昭和13年10月21日、蒙古聨盟自治政府 の徳王主席・李守信総司令官等を伴い日本へ行き昭和天皇に彼等を 拝謁させしました。この時、徳王は勲一等旭日章、李守信は勲二等瑞宝 章を授与されました。昭和14年9月1日、蒙古軍政府・察南自治政府成 立・晋北自治政府が聨合して、蒙古聨合自治政府が樹立され、徳王が 主席に選出されました。そして金井氏が蒙古聨合自治政府最高顧問に 就任しました。敗戦後は、衣類が欠乏していた郷里の長野県上田で 上田紬を復興させようという動きがあり、消えかかっていた紬の染色技 法や製織技術を再興させる必要があった。金井氏が軍放出(払い下げ) の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱し、その糸を使用して農家の副業 による機織の再興を画策したりと活躍しました。昭和42年12月3日に逝 去(享年81歳)。 |
従軍画家の 深澤 省三 氏が書いた『蒙古軍民協和の図』です。 この絵は、北白川宮永久王殿下が張家口の市場を視察した様子 を描いたものですが、この絵の左端の無帽で軍服で参謀姿の殿 下の後ろに描かれている人物が蒙古聨合自治政府最高顧問の 金井 章二 氏です。 |
戦中資料:駐満洲里日本帝國領事館
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珍しい外務省の官僚の勲記等です。この方は戦後も生きられて 論文等を発表されています。敗戦時は、駐満州里日本領事をさ れておられました。 |
下に行くほど古くなります。始まりは日露戦争で陸軍の軍属として 陸軍通辞で出向した時からです。以来、大陸を中心に頑張られて きたようです。明治43年に韓国皇帝より勲六等大極章を受勲して いますが、この時は外務省通辞生です。 |
記録を調べると大正元年には、在間島日本総領事館の 頭道溝領事館分館主任外務書記生として本省にレポー トを送っている記録が残っています。翌大正二年も同職 にあり…今で謂う吉林省頭道溝の領事館分館で働いて いた事が判ります。大正四年には外務省書記生だった 肩書きが大正九年には副領事に、同十五年には領事に 昇格しています。尚、領事代理は斉斉哈爾(チチハル) 領事館でされておりました。 |
敗戦まで間島日本帝國総領事館だった建物です。 現在は、龍井市人民政府事務庁舎として使われて います。(上も下も) |
下は間島総領事館のあった間島の龍井村(現在は龍村市) |
この村は六道溝とも謂われ約8600人の人口が あり朝鮮人が5400人、日本人が660人、支那人 2500人が暮らしていました。 |
山崎領事が主任外務書記生として勤務してた 頭道溝日本帝國領事分館です。記念撮影で写 っているのは当時の領事館警察の人達です。 |
同じく局子街日本帝國領事分館 |
同じく図們日本帝國領事分館 |
山崎氏が領事代理を務めていた斉斉哈爾 日本帝國領事館です。 |
斉斉哈爾(チチハル)領事館の敷地の配置図 と本館の図面です。 |
戦前資料:珍しい貴族院議員徽章 |
現在の参議院の前身となる貴族院の議員 徽章となります。非常に珍しいものです。 |
貴族院は、明治23年から昭和22年までの57年間 |
可愛いだけじゃない本格派、真鍮製
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細部に渡り精巧に再現されたミニチュアです。 実際の四分の一のサイズです。 |
擲弾嚢まで再現して作っていただき ました。擲弾もこだわって八発を作 成していただきました。 |
刻印までされており匠の技に ただ敬服するばかりです。 |
一枚の寫眞から:2.26事件での戒厳司令部の記念撮影写真 |
大きな写真館の紙カバーに包まれたA4サイズより少し大きい一枚の写真です。 |
立襟の軍人さん達が集合し記念撮影をしています。 |
よく見ると古めかしい洋風建築の大きな玄関口に 木製看板で”戒厳司令部”と掲げられております。 |
昭和11年2月26日…昭和維新の風が帝都を吹き抜けた時がありました。 この事件で多くの人間がその人生の歯車を狂わされ…多岐にわたる影響 を以降の日本に及ぼしました。 |
ど真ん中に居られるのが戒厳司令官の香椎 浩平 陸軍中将です。 |
香椎閣下は東京警備司令官の任にあり、2.26事件の翌早朝に電話の一報で 事態を知ります。午後に戒厳司令官に任命されますが、皇道派であった閣下 は青年将校に同情的であり…天皇陛下より維新の詔を引き出そうと試みるな ど…ぎりぎりまで武力鎮圧をためらっておりました。そうした事で粛軍の一環と して4月に待命処分となり、7月10日に予備役に編入されます。後に軍法会議 で追求を受けますが、叛乱を幇助したことを裏付ける証拠がなかった為、不起 訴になっています。 |
一枚の寫眞から |
陸軍士官学校の生徒館前の”陸軍士官学校”と 浮かし彫りある扁額の前に立つ、陸軍士官学校 生徒隊長を勤められた渡部 富士雄 陸軍少将で す。 |
◆渡部 富士雄 陸軍少将◆ 明治30年10月15日生、秋田県出身 士候31・陸大44、騎兵科 明治30年10月15日 生 大正 8 年 5月28日 陸軍士官学校卒業 大正 8 年12月25日 陸軍少尉 昭和 4年12 月13日 陸軍大学校入校 昭和 7年11 月29日 陸軍大学校卒業 昭和13年 7 月15日 陸軍省兵務局兵務課高級課員 昭和14年 4 月21日 陸軍省兵務局防衛課長 昭和15年 3 月 9日 陸軍大佐 昭和16年10月15日 騎兵第14聯隊長 昭和17年12月 1日 戦車第3師団参謀長 昭和18年 8 月 2日 陸軍士官学校生徒隊長 昭和19年 3 月 1日 陸軍少将 昭和19年12月30日 陸軍士官学校附 昭和21年5月18日 歿 |
大日本軍宣撫官の腕章と写真資料
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史上最強の軍隊であった旧日本軍と、砲煙弾雨の中で行動を ともにしながら、戦禍に苦しむ現地民たちの慰撫救援にあたっ た旧日本軍宣撫班。大陸の戦野に、大義、愛民の尖兵としてそ の青春を捧げた若き日本人達がおりました。兵隊とは違う形の 今でいえばNPOのようなボランティアに近い存在。この時代の 日本にも…こういう若者たちがいたのだ―ということをぜひ知っ てもらいたい。(形式上は軍属(判任官扱い)ですが臨時嘱託な ので、その日限りで何時でも首を切られ、パート・アルバイトと 同じ扱いなので恩給も年功加算もなにもありません。まさにボラ ンティア精神が無ければ出来ない仕事です。 |
武器なき戦士や平和の戦士と謳われた宣撫班・宣撫官の腕章です。 糸がかなり解れています。公印がありますが薄れて難読です。宣撫官 とは「宣撫」つまり占領地において日本軍の目的や方針などを知らせ て、人心を安定させることを任務とした軍属です。宣撫工作とは、その ための諸々の活動を指し、行軍する部隊や担当地域ごとに配置される 宣撫班が基本単位でありました。 |
その起源は、満州事変にともなう昭和7年の熱河作戦において南満州 鉄道総局愛路主幹の八木沼丈夫を班長とし路担当者三名で組織され た宣撫班から始まります。これが予想外の成果をあげた為、関東軍が 別途に編成することになりました。 |
日本は大戦前から占領地政策のため、満州や中国において活動する 宣撫班を組織しました。その役割は日本の目的や方針を示し、そのこ とにより占領地における人心を安定させ治安の維持に寄与することで あり、多岐にわたる作業が行われ「武器なき戦士」とたたえられました 。なお宣撫工作自体は、宣撫班が結成させる前にも日本軍の各部隊 で実情に応じて行われておりました。また宣撫班による宣撫工作は、 移動する部隊に同行して行われる従軍宣撫と地域に弁公処という拠 点を用意して行われる定着宣撫とがあり、この二つは任務の性質が 異なりました。 |
従軍宣撫班は日本軍部隊と行動をともにするが、反日的な宣伝工作を除き 日中親善のチラシなどで広報活動を行うため、可能な限り部隊に先行して 活動した。部隊が休む時は村落工作に出かけ、日本軍派遣の大義、中国共 産党、中国国民党の悪業を説いた。 民衆の理解が得られると軍用道路、 架橋、軍需物資の調達等に協力を求めることができた。労役を求める場合 には、中国側のように民衆に無賃労役を強制することがないことが違いだ った。信頼関係ができると日本に有利な情報を収集して提供する者も出た。 中国国民党軍がとった「堅壁清野之計」という焦土作戦のため、国民党軍 が敗走する場合には一切の物資を略奪または焼却破棄・破壊して日本軍に 一物も与えないという行動がなされた。このため日本軍が戦闘を行う場合 従軍宣撫班は食事を準備し、戦闘後に住民に配った。 |
定着宣撫班とは、民衆が怯えないように日本軍の守備隊からある程度 離れた場所に弁公処という拠点が用意し、 新しい占領地に対しての 作業は避難民に対しての帰来勧告から始まることが一般的でした。ま ずは彼らを探し出すことから行われるが普通は残留しているものが少 数は、いたのでその者たちを手がかりに次から次へと帰来勧告がなさ れました。 帰来した避難民の衣食住から就業支援などの相談に応じ て必要な物資の援助などを行いました。 |
民衆の生命財産を保護するため、たとえば避難した住民の留守宅の 家屋財産を保護する手段を講じ、また難民救済として薬や食事を配 給することも避難民収容所や施薬所、施米所、施粥所を用意して行 われました。その施設のために守備隊から食料が供給されたり、守 備隊の日本兵が資金を提供することもありました。また中国国民党 軍がとった焦土作戦のために広域にわたって食に窮する民衆が発生 し、遠方から評判を聞きつけて援助を求めてこれらの施設を訪ねて くる者も多くありました。 中国の医療機関が逃げさった地域のた めに宣撫班は日中戦争が発生してから中国北部各地に施療班を設 けて難民の医療を行うこととなり、その組織として満鉄施療班、同仁 会施療班、大阪朝日施療班、大阪毎日施療班が組織され、各地宣 撫班も管内所在の医療機関を動員して施療を行いました。戦禍の恐怖 や衣食住の心配が薄らぐ段階になると地域社会自体の様々な問題が 注目され始め、宣撫班の問事処が設けられました。貸借問題、権利 問題、警察関連問題から家庭問題など広範な問題が持ち込まれまし た。これとは別に住民自身による役所の組織指導も行われました。 |
新しく内地から来た男子宣撫班員が盧溝橋近くの一文字山の戦跡で 盧溝橋事件の説明を聞いています。 |
中国人の病気を施療する宣撫班員 |
北京の日本語学校。婦女宣撫班員が大学の教室を使って教えている。 |
昭和13年(1938年)4月17日午前7時半、杭州、上海間の鉄道線路が破壊された ことを付近の中国人が発見、鉄道警備隊に報告して事なきを得た事例。列車乗 務員及び中国人作業者が協力し15分で修理、列車は無事上海に向けて発車した。 引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
腕章と一緒に熊本から出た写真です。 |
盧溝橋の建物は盧溝橋駅で写っている白い腕章の人物は 宣撫官と思います。 |
中国における戦闘後は、大日本宣撫官により戦闘で破壊された 道路・家屋・橋等の修復工事の写真です。現地人を使い指導す る宣撫官の姿があり、一枚には中国人の高官だろうと思われる 三名の人物が写っています。昭和13年1月国民政府を非難し、 絶縁、日支提携の南京自治委員会を発足していますので、その 後に写された写真と思われます。中国国民党軍は”堅壁清野之 計”という焦土作戦を取っており、国民党軍が敗退する時は一 切の物資の略奪・焼却破棄・破壊し日本軍には一物も与えない 作戦を取った。一番困るのは民衆であり、食べ物もなく住む家も なくその後日本軍は従軍宣撫班により食事・医療等の世話・住 居・道路等の現地民衆を指導し賃金を出し労役に付かせた。中 国の軍隊については、無賃労役であったので、自国の軍隊につ いては反発があったそうです。当事民衆は自国軍より日本軍に 好意を持っていたと聞き及びます。 |
ありし日の宣撫官たちの姿 |
軍属扱いなので制服は陸軍の軍服に腕章と軍刀の 佩刀を許されていました。階級章は無く変わりに座 金に宣の文字のある徽章を襟章としていました。この 為、遠目から見ると襟章が見習士官に見えて紛らわ しいと一般兵下士官からは不評のようでした。身分も 判任官待遇なので兵下士官待遇です。当然、日本人 だけでなく満州人や中国人、蒙古人の宣撫官も大勢 男女で参加しました。 |
何期生か不明だが送別会の写真 |
寿張県宣撫班 |
宣撫班小史によると昭和13年の内地募集は 4、7、10月の3回行われ、その年の末に本班 1、軍指揮班2、兵団指揮班5、現地班113、 連絡班3、施療班4、計128班、人員は日系の 宣撫官が1014名、満支人542名の計1556 名が投入されました。そしてその年の1月に尾 崎宣撫官の戦死を筆頭に年内で戦死者は82 名に達し、病気による退職帰還者は日系宣撫 官で160名、満支人で12名。現地で病魔に 侵されても再起し職務に復帰しえた者は延べ 1600名という統計がありました。宣撫官の人 数は少なく…任地は広く大勢の人を相手にしな ければならず過労と不規則な生活を強いられ、 また常に国民党軍のスパイや中共のスパイが 暗躍し襲撃や暗殺の危険も心配せずにいられ ません。まさに敵地での非武装のボランティア 活動を行っているようなものですが、戦死者も 多く過酷な仕事である事が判ります。 |
支那人の女子宣撫官 | 子供達と宣撫官 |
当然、宣撫班には病院や診療所の開設も求められ医療を提供した。. |
便衣姿の宣撫官 | 愛妻と宣撫官 |
館陶県の女子宣撫員達 | ちょっとカマぽい宣撫官…(T_T; |
支那では特に地方での移動は馬が宣撫官には重宝されました。 |
子供達と宣撫官…多くの難民や捨て子を救ったのもやはり日本人でした。 |
子供達と宣撫官…同じ支那人である中共にも国民党軍にも迫害され日本人を頼る 支那人が多かった。そうして支那人の中から宣撫官になる者も多かった。今では そうした事実も語られず、全て日本が悪い事にされている。恐ろしきは中国共産党 である。また互いに口をつぐむ台湾の国民党も同罪である。 |
山東派遣の第6期生 |
何期生か不明だが北京の訓練所を終えた集合写真 |
第一期生は国内から輸送船で支那へ送られました。 |
北支派遣軍本部前の第二期生の記念撮影 |
梅壇寺の宣撫官訓練所を訪問し5期生に訓示する 北支派遣軍参謀長時代の山下奉文中将(恐らく昭 和13年頃と思われる。) |
引用:大日本軍 宣撫官〜ある青春の記録〜より |
復員兵士の帰還列車の駅に掲示されたサボ |
この赤十字が示す通り海外の戦地からの陸海軍の将兵たちの 帰国事業や復員には赤十字が積極的に関わり貢献しました。 |
昭和20年8月15日の敗戦の日から昭和21、22年の最盛期に旧国鉄の 駅で使われた復員列車への案内のサボと思われます。恐らく復員輸送 船が入港するような港町の基幹駅に掲載されたとのでは想像します。 最盛期の昭和21年をピークとして全国的には使われ無くなり…一部、 舞鶴などソ連軍によってシベリアに抑留された日本人達の帰国が昭和 22年から昭和31年にかけて抑留者47万3000人の日本への帰国事業 が行われました。…当然、この時期も使われた可能性があります。いず れにしろよく残ったものだと感心します。このサボは…多くの復員兵の 悲哀を見つめてきたのでしょう…。 |
敗戦と共に陸軍省と 海軍省は解体され、 それぞれ第一復員 省と第二復員省に 衣替えされ、それぞ れの所属した陸軍と 海軍の将兵の復員 (海軍では解員と謂 った)作業に当った。 後に合併して復員庁 を創設して第一復員 局が旧陸軍関係を、 第二復員局は旧海 軍関係を担当して復 員作業にあたった。 昭和22年10月15日 に復員庁は廃止とな り第一復員局は厚生 省に移管し、第二復 員局は総理府直属と なった後、昭和23年1 月1日に廃止され復 員業務は全て厚生省 復員局に引き継がれ ました。 |
陸軍士官學校の門鑑 |
珍しい九四式自動拳銃の
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無可動の文鎮タイプや精巧なダイキャスト製しかみない 九四式自動拳銃ですが…可動するモデルガンが発売さ れました。一四年式自動拳銃と九四式自動拳銃は日本 軍の代表的な正式拳銃ですので合法無可動の実物拳 銃を所持していますが…こうしたものは動くと聞くと欲しく なるもので予約して手に入れました。 |
可動部分があるからどうなんだ?…と謂われれば所詮はモデルガンなので ですが…されどモデルガンでやはり動く九四式には…感動を覚えました。 |
実物のホルスターに納めて見ました。 |
オマケに…各種 文鎮拳銃 |
陸海軍将校の携帯する拳銃や軍刀は私費購入 によるもので公費で与えられる装備ではありま せんでした(当然、軍服からブーツに至る全ても です。国軍が支給してくれるのは兵・下士官まで となります)。当然、拳銃や軍刀は高価ですから 安い拳銃を買う人、豪華な拳銃を買う人など様々 でした。現在と違い軍人や許可を得て拳銃を所持 できた時代でしたので売る店も各地にありました。 当然、日本製に限らず輸入拳銃も広く使われまし た。 |
35/1 完成品模型の陸軍九五式小型乗用車 (くろがね4起)と陸軍九七式側車付自動二輪 (陸王)です。 |
中々、どうしてを見事に当時を演出しています。 |
同じく1/35の陸軍九四式六輪自動貨車 です。これら三種ともピットロード製です。 |
旧陸軍 百式鉄道牽引車 旧陸軍色 (鉄道模型) で真鍮製のHOゲージ、16番ゲージ、1/80。 |
16番100式牽引車の完成品 |
大戦中に陸軍が用意した鉄道保守や警備に使われた車両で タイヤで道路を、鉄輪で線路が走行できるトラックです。戦後 は、保線用や入換機として使用された車両も存在しました。 |
アルバムに軍医の名刺と一緒に 貼られた一枚の手術の写真です。 |
奥の真ん中で頭を下げて術野をのぞき込む形の執刀医 が病院長の岩戸軍医大尉でしょうか。助手の医師が二 名、手前左に器械出しの看護婦が一名。外回りの看護 婦なのか見学なのか手前にナースキャップを被った一名 に現在でなら麻酔科医が居る場所にのぞき込む看護婦 が一名います。…マスクも帽子もしない姿はいただけま せん。…戦前は人工呼吸器や麻酔器が無いので全身麻 酔自体が大変なリスクであったろうと想像されます。また 現在のような消毒・滅菌技術が発達し感染症対策がなさ れあらゆる種類の抗生剤が揃っている時代でありません ので…麻酔中の術中死のリスクと感染症で術後に死亡 するリスクは非常に高かったと想像されます。 戦時中も米軍を中心に連合軍側にはすでにPC(ぺ二シリ ン)という抗生剤が存在しました。これ等の存在は戦場で も野戦病院で手術した患者の生存率を飛躍的に上げまし た。これ等の抗生剤が日本軍にもあれば多くの傷病兵が 助かり死ななくても良い将兵が大勢助かったものと思わ れます。 |
名刺です。 |
陸軍航空将兵の空中勤務者章です。上は未使用品 で下は使用品で軍服からの取り外し品のようです。 面白いのは共に裏側にセルロイドのような物を当て がっております。折れて痛まないようにする為でしょ うか。面白いものです。 |
中島製AT-2旅客機で、当時の生写真で54cmほどの大きな写真です。 |
昭和16年5月22日 文部省 御親閲拝受章 とあります。 |
文部省からの推薦や表彰や叙勲など 功績があった方が皇居宮殿に招かれ 亡き昭和天皇に拝謁を許された方が 佩用したと思われます。 |
野戦予備病院の軍医見習 士官の認識票です。 |
木製の粗末な門鑑はよく見ますが 現代風で金属の立派な門鑑は珍し いです。 |
興亜馬事大会参加章 |
帝國軍用犬協会 特良賞メダル |
O.S.Kの高砂丸の就航記念の品です。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |