Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
戦前・戦時資料:非常に珍しい
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天皇陛下や皇族の方々の行幸啓に際して供をする者が 佩用する徽章である宮内省供奉員徽章です。この徽章 は銀製で文官・武官の関係なく佩用致しました。 |
供奉員徽章は、主に天皇陛下他行幸啓に際して宮内省、 警察、軍関係他の随行員に貸与された徽章です。 大正2年11月6日制定されました。 大きさは、縦:38mm、横:29mm。 佩用する人の身分により甲・乙・丙種の三種類に大別され ます。 @甲種(全体:銀色)⇒勅任官相当以上の文官、将官相当の 武官が佩用しました。 …中央に白色七宝の菊花、その中央に紫色七宝二囲まれ た銀色の『宮』字。 A乙種(全体:銀色)⇒奏任官相当以上の文官、尉官・佐官 相当の武官が佩用しました。 …中央に白色七宝の菊花、その中央に緑色七宝二囲まれ た銀色の『宮』字 。 B丙種(全体:銀色)⇒判任官相当以上の文官、下士官から 准士官までの武官が佩用しました。 …中央に金色の『宮』字(七宝の菊花はない)。 |
現在はどうなのか判りませんが敗戦前では、宮内省から廃棄の際に菊花部分は この徽章のように加熱して触媒を溶かして取り外したようです。 このような徽章 は通常、一般市場に出回る事は余りありません。これまで私がヤフオクなどで見 ても一度、以前に出品されたのを見た位です。本来であれば決して出てはいけ ない徽章と謂えます。、徽章には必ず通しナンバーが打刻されており、 そのNO. の『11』から…ごく初期のものである事が推察されます。 通常、昭和初期のもの では『昭』という字が打刻されているそうです。 従いましてこの徽章は、大正期の ごく初期の供奉員徽章である事が判ります。 |
またこの供奉員徽章は、菊花章が付いていた痕跡があり ますので甲種もしくは乙種の徽章である事が判ります。 |
侍従長や宮内大臣、枢密顧問官うあ侍従武官長など勅任官や 将官などの高官は当然、甲種の供奉員徽章を佩用しました。 |
昭和の初期から開戦前と思われる当時の写真です。天皇旗の横で昭和天皇が 陸軍大元帥の軍服を着用し敬礼をして閲兵しています。近くに陸軍の侍従武官 長が控えており陸大徽章・侍従武官長徽章・供奉員徽章の三種類を佩している のが判ります。奥の海軍の侍従武官は徽章が良く判りません。侍従武官長は 恐らく東宮武官・侍従武官・東宮武官長を歴任し侍従武官長を務められた奈良 武次 陸軍大将(当時、中将)と思われます。従って昭和元年から昭和八年四月 五日までの間の写真であると思われます。 |
戦前・戦時資料:元陸軍通詞の日本人にあてた
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日本人で清王朝に乞われて清の公務員となった方も 珍しいですが…その新王朝時代の辞令も珍しく1908 年のこの辞令…103年前のものです。まあ通詞の職を 解いた辞令も明治34年(1901年)ですから今から110 年も前の辞令になります…。 |
日本陸軍での通訳時代の辞令です。 |
封書の宛先は小平 副指揮官殿となっており 差出人は、警察学校校長です。 |
光緒31年は…清朝時代の中国の年号で西暦で1908年 日本では明治38年です。警務学堂監督から教習兼副堤 調という職種になっています。月給が160元がどの位の ものか良く判りません。監督は教育長という事なので警 察学校の校長からの辞令となるのでしょう。また提調は 配置指揮者という意味の様です。副提調は副配置指揮 者という事でしょう。警察学校の教官兼副指揮官を務め ていたようです。 |
戦前・戦後資料:東京裁判でA級戦犯として
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最期の内大臣として知られる昭和天皇の側近・木戸 幸一 侯爵が 敗戦後に東京裁判でA級戦犯として起訴され巣鴨プリズンに収監さ れましたが…この巣鴨プリズンから知人女性に出した手紙です。 |
◆ 木戸 幸一 侯爵 ◆ 明治22年7月18日 - 昭和52年4月6日 東京市赤坂において侯爵・木戸孝正の長男として生まれる。学習 院高等科を経て京都帝国大学法学部に入学し、河上肇に私淑。 同校卒業後は農商務省へ入省。農商務省が農林省と商工省に分 割の際は、商工省に属することとなる。その後、工務局工務課長、 同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。昭和5年、友人であ った近衛文麿の引きにより、臨時産業合理局第一部長兼第二部長 を最後に商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。昭和12年、 第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣、昭和14年の平沼内閣 で内務大臣、翌15年には近衛と有馬頼寧とともに「新党樹立に関す る覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった。 昭和15年から20年までに内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や 元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与 し宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や 原田熊雄らと共に政界をリードした。 西園寺が首班指名を辞退したのちは、幸一が重臣会議を主催し、後 継総理の推薦には幸一の意向・判断が最重要となる。大戦中は東條 内閣を支えたが、一方では早い段階での和平を考えていた。戦争末 期には、外務大臣・重光葵と2人だけで天皇の「鶴の一声」による終 戦工作を行い、鈴木貫太郎内閣の面々に和平の方針を説いて回る など、いわゆる「聖断」工作を進めた。これらの政策を推し進めてい たことから、本土決戦派の間では幸一を暗殺する計画が持ち上がり 、横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長として、横浜高 等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、 平沼や鈴木と同様に、自宅を焼き討ちされるという憂き目に遭った (宮城事件)。戦後のインタビューのなかで、次のように証言してい る。「陛下や私があの原子爆弾に依つて得た感じは、待ちに待つた 終戦断行の好機を此処に与へられたと言ふのであつた。それらの 心理的衝撃を利用して此の際断行すれば、終戦はどうやら出来るの ではないかと考へたのだ。……私ども和平派はあれに拠つて終戦 運動を援助して貰つた格好である」。こうして、原爆は和平派にとっ て、戦争終結という大目的のために政治的に利用すべき「口実」とし て「非常に好都合なもの」(鈴木貫太郎首相)であった[1]。つまり 日本の和平派が軍部の強硬派から襲撃を受けず、終戦の機会を得 た事を意味している。東京裁判で木戸は、終身禁固刑の判決を受け 服役する。昭和30年に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退 する。後に青山のマンションに転居。80歳の傘寿では昭和天皇から 賜杖を下賜されている。昭和52年4月6日、宮内庁病院で胆汁性肝 硬変(PBC)のため87歳で死去。遺骨は東京都府中市多磨町の 多磨霊園に埋葬された。 |
大正・昭和二代の天皇に仕え
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奈良 陸軍大将の迫力のある墨蹟 漢詩双幅と一行書軸の二点です。 |
表具 縦 199.5cm 幅 51.6cm 紙本 縦 134.0cm 幅 33.0cm |
◆ 奈良 武次 陸軍大将 ◆ 陸軍大将勲一等功三級男爵 慶応4年4月6日生 栃木県鹿沼市出身 陸士旧11期 陸大13期 砲兵科 砲工校2期 優等 ドイツ駐在 (略 歴) 明治22年 7 月 26日 任陸軍砲兵少尉 明治26年11月 25日 陸軍砲工学校高等科卒業(2期優等) 明治29年12月 陸軍大学校入校 明治32年12月 21日 陸軍大学校卒業 明治41年12月 21日 陸軍省軍務局砲兵課長 明治43年 7 月 12日 任陸軍砲兵大佐 大正 1年 9 月 28日 陸軍省高級副官兼軍務局砲兵課長 大正 2年 2 月 24日 免兼 大正 3年 8 月 8 日 任陸軍少将・支那駐屯軍司令官 大正 4年 7 月 5 日 青島守備軍参謀長 大正 5年 3 月 31日 陸軍省軍務局長 大正 7年 7 月 24日 任陸軍中将 大正 7年12 月 17日 参謀本部附(講和会議委員) 大正 9年 7 月 16 日 東宮武官長 大正11年11月 24 日 侍従武官長兼東宮武官長 大正13年 8 月 20 日 任陸軍大将 大正15年12月 25 日 免兼 昭和 8 年 4 月 6 日 予備役 昭和 8 年 4 月 25日 男爵 昭和 9 年 4 月 29日 勲一等旭日桐花大綬章 昭和12年 5 月 14 日 枢密顧問官 昭和12年 9 月 大日本武徳会長 (〜昭和17年3月31日) 昭和 21年 4 月 17日 辞職 昭和 37年12 月 21日 歿( 享年94歳) |
昭和の初期から開戦前と思われる当時の写真です。天皇旗の横で昭和天皇が 陸軍大元帥の軍服を着用し敬礼をして閲兵しています。近くに陸軍の侍従武官 長が控えており陸大徽章・侍従武官長徽章・供奉員徽章の三種類を佩している のが判ります。奥の海軍の侍従武官は徽章が良く判りません。侍従武官長は 恐らく東宮武官・侍従武官・東宮武官長を歴任し侍従武官長を務められた奈良 武次 陸軍大将(当時、中将)と思われます。従って昭和元年から昭和八年四月 五日までの間の写真であると思われます。 |
日本スキーの父
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明治44年、オーストリア・ハンガリーのレルヒ陸軍少佐 からスキーを学び、日本スキー界の草分け的な存在と なります。 |
◆ 堀内 文治郎 陸軍中将 ◆ 文久3年9月17日生 長野県松代出身、士族 攻玉社、士候7期 (略 歴) 明治18年 6月18日 任陸軍少尉 陸軍士官学校教官 台湾総督府副官 陸軍省軍務局出仕 明治33年 4月 任陸軍歩兵少佐・参謀本部高級副官 明治37年 2月 兼大本営陸軍部副官 明治37年 8月 任陸軍歩兵中佐 明治39年 7月11日 歩兵第58聯隊長 明治40年11月13日 任陸軍歩兵大佐 明治44年 9 月 6日 任陸軍少将・歩兵第23旅団長 大正 5年 5 月 2 日 任陸軍中将・待命 大正 5年 8 月10日 予備役 大正 9年 信州山ノ内スキー倶楽部総裁 大正14年 国学振興会会長 平安中学校長 満蒙学校長 全日本アマチュア拳闘聯盟会長 昭和17年3月14日 歿(享年79歳) |
満州銀行頭取や南満鉱業、
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◆ 村井 啓太郎 氏 ◆ (略歴) 福岡県出身の実業家。明治28年熊本五高1部法科卒。中国大陸に渡り 満州銀行頭取、南満鉱業、大連取引所信託取締役など大連実業界の 中心人物として活躍する。明治33年の義和団事件(庚子事変)の際に義 勇兵として戦い、朝日新聞に『北京籠上日記』を連載した村井啓太郎記 者と同一人物か否かは未詳。 |
南部十四年式拳銃 実包(15発)使用済みの紙箱 |
こちらも上とは別の十四年式拳銃のオリジナル実包の空箱です。 |
南部十四年式拳銃15発用と文字が入っています。板橋火薬製造所で 昭和11年7月製。火薬は昭和11年6月製と入り、ロットナンバーが印 刷されています。 |
箱はコレクターの手で注意深く蓋をされて接着されています。 大きさは、2センチ×8センチ×3.3センチ。 |
九四式拳銃 実包(15発)使用済みの紙箱 |
こちらは十四年式よりもっと希少な九四式拳銃 の15発紙箱のオリジナルです。前のオーナー が箱の蓋を接着して外見上の復元を試みてあ ります。 |
”九四式拳銃実包十五発 昭14.8”の刻印が入っています。 |
我国の航空黎明期の一つ
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非常に珍しい日本飛行学校の卒業証書です。大正時代に相羽有氏と 玉井清太郎氏によって共同で設立されたパイロット養成学校です。練 習機として玉井式3号機を大正6年に設計製作しました。グレアム・ホ ワイト機を模した設計と云われ、かなり洗練された機体でした、当時は この機は3回目の飛行で空中分解を起こし玉井氏は死亡しました。この 事故は、東京日日新聞社の湯浅礼三写真班員を同乗させ東京市を一 周する予定でしたが離陸間もなく機体が故障して着陸しようとした瞬間 に空中分解して墜落し玉井飛行士と湯浅写真班員が殉職しました。こ れが日本で初の民間飛行学校の飛行機による死亡事故となりました。 そして同時に新聞社の写真班員が取材飛行中に遭遇した最初の事故 でもあるったわけです。相羽氏は後の昭和2年に東京航空輸送を設立 東京〜下田間(後に清水まで延長)の定期輸送を行いました。昭和6年 には日本初の客室乗務員…エアガール(スチュワーデス)を搭乗させて います。同じく相羽氏によって大正6年に設立された東京初の自動車学 校「日本自動車学校」が併設されました。 |
大阪陸軍病院の
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負傷して現地から送還され入院した砲兵少尉の 所持品(預金通帳、外套、戦闘帽、拳銃、銃弾が 125発)が記載されています。 |
ミコアームズ製 二式銃剣(百式銃剣)の複製品 |
30年位前に20丁作成されたミコアームズ製2式テラ小銃。 そのレプリカ銃剣が約10セット分ほど作成された物の一つ です。実物も希少ですが、レプリカの銃剣も希少というので 笑えます。 |
タナカ製の百式銃剣は実物と同様に刃が艶消しの黒色でしたが この銃剣は非鉄金属に銀メッキです。鞘は鉄を使っています。タ ナカ製の銃剣は鞘がありませんでした。 |
タナカ製の百式短機銃に取り付けて見ると…しっかりと はまりました。銀メッキが少し安ポイのが残念ですが… 鞘などを仕舞った感じは…タナカ製の銃剣より高級感が あります。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |