Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
精巧手作り真鍮製四分の一スケール
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見事な職人芸です。…作り手の魂が伝わってきそうな迫力が あります。そのままの真鍮色より黒塗りで兵器としての力強さ が強調されました。高姿勢で撮影画像です。 |
軽機関銃も取り外し可能!分解は、実物と同じ箇所が可動いたします。 多分、1/4スケールでは世界で唯一の品だと思われます。完全オーダー 品(注文品)ですのでまさに一点ものの贅沢を一人占めです。 |
上は一度黒染めしたものを薬品で剥がしたものだそうです。 渋い色が出ています。これを再度黒染めにしてもらったのが 下の画像です。まだ途中製作中の三脚架が色染め前でコン トラストになっています。 |
下は折りたたんで革バンドで固定された地上姿勢時です。 上は三脚架高姿勢の三脚の溶接作業中の画像です。 |
本当に六分儀を想わせる精密さです。…溜息が洩れます。 |
銃床の色合いが完璧で実物そのものと勘違いします。 |
本当に色染めすると実物を野戦分解している最中のようです。 |
実に…惚れ惚れいたします。 |
従軍記念品:昭和13年、支那の大陸である
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革で出来た通信筒と紙製の通信筒の二本です。共に紅白の長い紐が 付いていて空から落下すればかなり目立つ事が良く判ります。 |
革製と紙製の通信筒で先端部に重りが入り、後ろにリボンが付けられています。 革製には”第二次討伐記念品 昭和13年4月13日午前10時30分 全公帝鎮 似て”と記入されています。紙製の方には、来歴と通信筒本文が入っています。 ”北京―武漢”の間の警備活動の際に入手保存した物と推定いたします。 大きさ:直径5cm、長さ20cmで、革製の紅白の紐が65cm。 紙製が75cmです。持ち主だった猪野瀬伍長さんが日本がまだ連戦連勝の時期 に除隊し記念品として国内に持ち帰っていますが…時期が敗戦期であれば…帰 国の際に私物として持ち帰る事が適わなかった可能性が高いものと思われます |
上は航空機から投下された内容のようです。鉛筆で書かれて 投下したようです。通報とあり飛一 比木田部隊○○隊 ○井 中尉とあります。空中から殴り書きの様で難読です。操縦しな がら書いて投下したのでしょうが、大したものです。 1、奮闘を祝す 2、敵勢は東方○縣方向に退却中なり…。 3、順徳…に間の鉄道(?…鉄橋?)は安全なり、順徳○地区 にも山地方面より敗残兵とおぼしき…往行せんを認む。 警備を専念せらしたれ。 4、この状況○○○…只今、投下通報セリ。 飛一は飛行第一戦隊に移行する前の飛行第一聯隊と思われ ます。まさに日本軍が破竹の強さを謳歌していた時代の空陸 の連携を示す貴重な資料と思われます。 |
日米戦の開戦前に病死された
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横須賀出身で一年志願兵から陸軍大尉に昇進した方の資料です。 昭和16年に名古屋で肝臓癌で戦病死されています。 |
生前の生写真、昭和16年の記録のある手帳、債券。従軍章記、父親と思われ る明治期の第一種軍隊手帳に日清戦争に旅順要塞、台湾に勤務しており身体 をこわして入院しています。この他に御本人の葬儀関係の弔電綴、香典など。 |
こちらの写真の方が高須 砲兵大尉です。 |
この高須 砲兵大尉は、日米戦が開戦となる半年前の昭和16年 5月に名古屋帝國大学病院で肝臓癌で病死されております。一年 志願兵からの砲兵科士官ですが長引く大東亜戦争で本来は一時 的な筈の軍務が恒久化した典型でありましょう。同様の日本人は 大勢居られと思われます。一年志願兵の制度は後に甲種幹部候 補生となり…敗戦近くには学徒が動員され多くが短期即製の士官 教育を受けて多くが特攻機に乗り散りました。その過渡期の者の 多くは高須大尉のように長引く大陸での戦いで慢性的に不足する 下級士官の欠員を穴埋めする為にある一定の教育を受けたるも ので財力のある家庭の者が一年志願兵制度を利用し士官となり… その後も士官不足が解消されないまま軍務が継続され、いつの間 にか少尉が大尉に至るまでになりました。しかしこの方は多少、年 輩で体力的に問題もあり戦地でなく内地の留守師団で後方要員と して勤務中に肝癌を発病し入院し病死されています。 |
病死されるまで名古屋の留守師団参謀長の副官をされていたようです。 長らく後方での民間との折衝や地元での啓蒙活動などに携わったせい か地方の官公庁関係(市町村関係者)からの弔電や手紙類が非常に多 く感じます。後で紹介する写真類を見ても在郷軍人会や大日本愛国婦人 会など諸団体の集まりなどのものが大半を占めています。 |
戦後に当時の上司であった名古屋師団(第三師団)の 留守参謀長(当時陸軍大佐)の笠原 嘉兵衛 元陸軍中 将が当時の病死に至る前後の様子を遺族の求めに応じ て記載し…恐らく公証役場にて公正証書にしたものと思 われます。この病死が戦病と認めらず戦後になり御遺族 が遺族年金の兼合いもあり…直属の上司であった笠原 中将におすがりして現代で謂えば過密な勤務で過労死 に近いようなニュアンスで証明書が記載されているのが 判ります。非常に珍しいケースであると思います。 |
◆ 笠原 嘉兵衛 陸軍中将 ◆ 功四級、宮城県出身、歩兵科 士候27期、 陸大39期 ( 略 歴 ) 大正 4 年 5 月25日 陸軍士官学校卒業 大正 4 年12月25日 任陸軍歩兵少尉 大正13年12月26日 陸軍大学校入校 昭和 2 年12月 6 日 陸軍大学校卒業 昭和11年12月 1 日 陸軍士官学校附 昭和13年 7 月15日 任陸軍歩兵大佐 昭和14年 3 月 9 日 歩兵第224聯隊長 昭和15年12月 2 日 留守第3師団参謀長 昭和17年 7 月 1 日 阿爾山駐屯隊長 昭和17年 8 月 1 日 任陸軍少将 昭和19年 5 月 19日 第5独立守備隊長 昭和20年 4 月 30日 任陸軍中将 昭和20年 6 月 1 日 第222師団長 |
左はお父上の軍隊手帳、右は昭和16年に大尉が記載した 病状や状況などを事細かに記載した闘病記録のようなもの です。表面に奥様の記載の張り紙があります。 |
お父上の明治の第一種軍隊手帳の方は日清戦争に旅順要塞 台湾勤務で身体をこわして入院されています。上等兵で軍歴を 終えています。 |
初めの1ページ目です。3月5日 任陸軍大尉と鉛筆書きの記載 からスタートです。下のページが最期の記載となります。4月30 日です。肝癌ですので腹水がかなり溜まるので穿刺して廃液し ないとこれが呼吸をも圧迫し辛くなります。当時ですから血液製 剤も満足に無く…アルブミン製剤が無ければ血管に水分を保つ 事は困難で元々、痩せた方ですからあっという間に骨と皮になっ たものと思われます。当時はIVH(中心静脈栄養)や高カロリー 輸液も無い時代ですから長く持たず…あっという間に亡くなられ た感じですが、仕方ないものと謂えるでしょう。 |
第三師団長に第十九連隊長を囲んで在郷軍人会 の集まりでの記念写真と思われます。 |
名古屋第三師団隷下の歩兵第十九聯隊長(富山)の人見 秀三 大佐(後に 陸軍中将(第十二師団長)として敗戦後の昭和21年4月13日に台南で自決 されています)の姿と思われます。人見大佐の右側の佐官の方の後ろに居 られるのが高須 大尉(当時中尉)です。 |
名古屋の第三師団長 藤田 進 陸軍中将と思われます。 |
愛知県西尾町は現在の愛知県西尾市です。名古屋より浜名湖よりで 知多半島を挟んだ東京側にあるところですね。 |
陸軍軍醫総監 石黒 大介
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石黒閣下は、軍医監となり関東軍軍医部長を昭和10年8月1日 から昭和11年8月1日まで勤めて、軍医総監に昇進。昭和11年 8月28日予備役に編入されております。 |
陸軍軍醫総監 山田 弘倫
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◆ 山田 弘倫 陸軍軍醫総監 ◆ < 略 歴 > 岡山県出身、明治2年3月生、東京帝大卒。 旧姓名は 寺田 倫二郎。 陸軍省衛生課長、陸軍軍医学校長などをへて 大正12年陸軍省医務局長。 衛生課長時代の上司に森林太郎(鴎外)がいる。 退官後は日本医大付属第一医院長をつとめた。 昭和30年4月6日死去(享年86歳)。 |
元歩兵第十五師団長 渡辺 右文 陸軍中将
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◆ 渡辺 右文 陸軍中将 ◆ 勲一等陸軍中将 熊本県出身、砲兵科 士候21期、 陸大29期(恩賜) < 略 歴 > 明治40年 陸軍士官学校入校 明治42年 5 月27日 陸軍士官学校卒業 明治42年12月25日 任陸軍少尉 大正 3 年12月12日 陸軍大学校入校 大正 6 年11月27日 陸軍大学校卒業 昭和 7 年12月 7 日 任陸軍砲兵大佐 昭和 8 年 8 月 1 日 参謀本部運輸課長 昭和10年 8 月 1 日 高射砲兵第一聯隊長 昭和12年 8 月 2 日 任陸軍少将、参謀本部附 昭和12年10月30日 参謀本部第三部長 昭和14年10月 2 日 任陸軍中将 昭和15年 3 月 9 日 第十五師団長 昭和15年 4 月29日 勲一等旭日大綬章 昭和15年 5 月28日 東部軍司令部附 昭和15年12月 3 日 予備役 昭和18年 7 月28日 歿 |
近衛兵(兵・下士官用)の軍帽(官給品) |
将校用の近衛軍帽はチェコ型だクラッシュ型だロス型だと 私物なのでよく出てまいりますが、兵・下士官用の官旧品 の近衛軍帽は中々お目にかかれません。 |
昭和七年製、5号、大支検定です。3名分の記名が見られます。 |
惜しい事に天頂部後方のカーキ生地の周囲に極小虫食い穴が数か所 見られます。その他は目庇やあご紐など革の状態が非常に良い品で す。サイズは54cmです。 |
状態の良い…陸軍の防寒帽(大号)です。 |
昭和18年、本廠検定の大号です。北海道出身の私には南方の防暑服 より防寒服やこの防寒帽などの方が親近感を覚えます。 |
最近、日本と日本人に希望と誇りを与えてくれた
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2010年…日本人の胸を熱くした”はやぶさ”です。小惑星の表面から 物質のサンプルを持ち帰ることを目的に開発された小惑星探査機です 。小惑星イトカワから1,500個程度の地球外物質を搭載の帰還カプセ ルで2010年の6月13日、地球へ持ち帰った功績により多くの注目を集 めました。 |
今後の宇宙探査においても期待されているはやぶさを塗装済み 完成品で立体化。手の平サイズの小スケールながら緻密に再現 された造形は実物の雰囲気を余すことなく再現しています。 |
小惑星探査機「はやぶさ」帰還編 |
はやぶさが最後に撮影した写真 hayabusa Return Earth |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |