Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
昭和の軍神☆伝説の英雄
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昭和19年…劣勢の戦場で既に明らかに性能の劣る一式戦”隼”II型を
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ブーツ東飛行場の滑走路を歩く南郷大尉(本部附将校時代) 飛行第59戦隊にあって常に率先出動、必ず結果を残し部下 から不死身と噂され…四航軍及び六飛師司令部の参謀や司 令部職員等…幕僚の信頼を一身に集めた南郷大尉は戦後も 生きた航士の一機先輩にあたる撃墜王・黒江 保彦 少佐が 南郷大尉を評した言葉は『まさに快男子、竹を割ったような性 格というのは、この人のためにある言葉かと思えるほどの、惚 れ惚れする好漢であった。型破りの颯爽とした長身で、いつも 男性的な痩せ意味を発散させていた。その明朗、括淡たる風 格、そして豪勇にして、てらわず、ぶらず、これほど衆望を集め 上下同僚に愛された人物は、また稀有であった』と手放しのべ た褒めでした。…謂われる通りの優れた人間性が何処からも 伝えられているので本当に素晴らしい理想の人物であったの だと思われます。 |
中尉時代の勲記です。 |
◆ 南郷 茂男 陸軍中佐 ◆ 東京都出身、航空科 陸軍航空士官学校51期 (略 歴) 大正6年2月26日生 学習院中等部卒 昭和10年4月 陸軍士官学校予科入校 昭和13年12月22日 陸軍士官学校予科卒業 昭和14年4月27日 陸軍航空士官学校卒業 任陸軍航空兵少尉 明野陸軍飛行学校乙種学生 昭和14年8月 飛行第33戦隊附 昭和15年4月 任陸軍航空兵中尉 昭和15年11月 明野陸軍飛行学校甲種学生 昭和16年4月 陸軍航空士官学校教官 昭和17年1月 飛行第59戦隊第2中隊長 昭和18年7月 飛行第59戦隊飛行隊長 昭和19年1月23日 ニューギニア東部ウェワクで戦死 任陸軍中佐(二階級特進) 昭和19年4月 個人感状 |
南郷家から出た兄である南郷 茂章 海軍少佐の生写真 |
この生写真は有名ですが昭和18年の11月から12月の戦死される 1〜2か月前、ブーツ東飛行場を離陸滑走する南郷大尉の搭乗の 愛機・一式戦”隼”U型です。 |
圧倒的に不利なニューギニアで旧式機の隼を駆り僅かの間に15機の 敵機を撃墜し”ニューギニアは南郷で持つ”と謂わしめた不世出のエー ス・パイロットです。そんな彼をして戦死する少し前の日記には『もはや 隼の時代では無い』と記されていたという有名な話があります。 |
南郷家から出た軍人遺族徽章と略綬、航空胸章 や空中勤務者章に軍帽の星章やカフス釦など南 郷中佐の遺品です。 |
兄で高名な撃墜王である軍神・南郷 茂章 海軍少佐 |
上のニューギニア地図のピンク線の部分が南郷大尉が活躍した ブーツ東基地です。そして横のウェワク上空の迎撃戦闘で昭和 19年1月23日に優勢なP-38との乱戦で戦死する。下は敵の猛 爆を受ける我、陸軍のブーツ東飛行場です。 |
ニューギニアで最大のライバル機であったロッキードP-38ライトニング です。”双胴の悪魔”の異名を持ちます。南郷大尉が対峙し最期もこの 機に屠られました。戦死する一カ月前の日記に大尉は『P-38は性能を 十分に発揮し散々にやられる。一式戦の時代にあらず。』と書かれてい る。ニューギニアの陸軍航空隊は、一式戦、二式戦、三式戦でしたが 稼働率の低い二式戦と三式戦に比べ速度も火力も既に時代奥であっ たが、その高い稼働率ゆえに使用し続けるしか無かったが…軽快さだ け唯一の取り柄といえた隼で多くの陸軍搭乗員が疲弊し消耗し戦死し ていきました。緑の地獄と謂われた東部ニューギニアで飛行第1戦隊、 11戦隊、13戦隊、24戦隊、59戦隊と多くの戦闘機隊が進出し戦い圧 倒的物量を誇る連合軍の前に疲弊し消耗していきました。 |
昭和18年初期のブーツ東飛行場…展開する隼U型は飛行 第24戦隊の列線。増槽を装着し出撃に備えている。 |
遺髪も爪も残さなかった南郷大尉でしたが…59戦隊の部下達は せめての品にと出撃前に大尉が吸った煙草の吸殻を集めてジャワ 島以来の付き合いである整備の岩村 裕 中尉が南郷家に届けた と謂われています。これは南郷家から出た南郷大尉の遺品となっ た数少ない品々です。支那事変従軍記章之証と略綬に航空胸章に 空中勤務者章等です。 |
こちらも南郷家から出た遺品です。兄である南郷 茂章 海軍少佐 の生写真に、こちらは有名な写真ですが昭和18年11〜12月に撮 影されたブーツ東飛行場を離陸滑走する南郷大尉の搭乗する一式 戦”隼”U型です。この写真は一番下のプラモデルの箱書きの写真 にもなっています。それに戦死後の軍人遺族徽章です。 |
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この兄である軍神・南郷 茂章 海軍少佐の写真は一般に出回っていおる 写真では見ない写真で公式写真でメディア等で扱ったものでなく隊員が 個人的に撮影した私的な写真で戦後も外に流出しなった画像と思われま す。 |
南郷大尉の戦死…59戦隊の原認証明での空戦空域は『場所: カイリル島東方約30km、離岸約30km洋上、敵地まで約300km 』とあります。第四航空軍司令官 寺本 熊市 中将より個人感状 が出され二階級特進の措置がとられました。その感状の文面に は”必死敢闘ノ精神ヲ昂揚シテ執拗果敢ナル攻撃ヲ断行シ、戦 隊ノ嚇々タル戦果獲得ノ骨幹ヲ成セリ”は、まさに大げさでなく 南郷大尉の鬼神のような戦いぶりを淡々と表現した感じでありま す。 |
軍神となるエースパイロットはプラモデルにも当然、なる わけですが…先の掲載写真がプラモの箱を飾っています。 |
引っ張り出した南郷機です。アンテナ支柱が折れてしまい 補修中です。少し古い模型なので接着面が空いて隙間が 出ています。 |
プラモデルになるほどの有名なエースパイロットです。 亡くなっても英雄の存在は後世に語り継がれまます。 いや語り継ぎ忘れさせてはなりません。 |
兄で軍神の南郷 茂章 海軍少佐 の関連の品を紹介したページが以 下のバナーをクリックすると開きま す。 ↓ |
明治二十五年式 陸軍乗馬下士兵卒看守刀
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後に大量に生産された三十二年式下士官刀の前には様々 に生産されたプロトタイプのような騎砲工輜重各科の下士兵 卒刀です。明治三十二年式以前の下士兵卒刀は数が少なく 中々…出てきません。明治八年式と明治二十五年式がありま すが明治八年式は幾つか所持していますが…この二十五年 式は、はじめて入手しました。(全長93cm、柄長12cm) 因みに明治八年のサーベルは乗馬下士刀ですが、厳密には 輜重兵刀です。明治二十五年のサーベルは騎兵刀として純国 産化の第一号となった制式の乗馬兵刀です。 |
明治八年式に比べて簡素化されて豪華さは無く非常に 三十二年式近くなっています。明治八年式と同じ指貫が 残っています。三十二年式はストッパーがかなり簡略化 されましたが…この25年式は柄の金属部分に釦式でス トッパーがあるなど機構が複雑になっています。この部 分が後に簡略化され、指貫も甲タイプでも後に省略され ていきます。 |
この型のストッパーでは砂や小石を噛むと軍刀が抜けなく なる恐れがあります。釦が作動しないと致命的になります。 三十二年式のように外に簡易でストッパーが張り出してい る形は非常に実用的で何かの際は切断する事も可能でよ く考えられて進化した事が見て取れます。 |
法令に則り切断されています。 |
そして柄も木製部分(柄木)も金属部分(背金)も 二十二年式はそのままですが三十二年式は甲も 乙タイプも共に滑り止めに筋目が入れられていま す。後の九五式下士官刀もそうですが…将校用 の軍刀が実用に中々、向かなかったのに対して 下士官刀は非常に丈夫で最も実用性が高い軍刀 であったと評されますが…これ等を手にするとすぐ に頷けます。見た目の美しさや装飾性と謂う点で は九四式や九八式軍刀に見劣りしますが…本来 の兵器と謂う点では過酷な環境のあらゆる戦場( 寒冷地や熱帯地、海水など塩害の地など)で最も 優秀と謂って過言でないのが官給の下士官刀と謂 えると思います。 |
陸軍砲兵刀 乙型 |
砲兵刀は別名:徒歩刀とも謂われました。 |
剣は法令に則り切断されています。明治26年東京砲兵工廠製 の銘があります。…今から118年も前に製造されたものです。 |
見てわかる通り砲兵刀は片刃です。切断されて見えませんが 切っ先のみが諸刃になっています。 |
十三年式村田小銃用の十三年式銃剣 |
下の写真は私の所持する十三年式村田小銃の無可動実銃です。 |
↑ 上の画像をクリックすると村田小銃各種と村田銃用の銃剣を 掲載紹介したページが開きます。 |
陸軍軍医総監 中館 長三郎 氏の自筆一行書 |
中館 長三郎 軍医総監の書です。 |
◆ 中館 長三郎 軍医総監 ◆ 岩手県出身 文久1年10月 生 (略 歴) 明治41年 6月6日 第4師団軍医部長 大正 3 年 8月8日 陸軍軍医総監・予備役 昭和18 年 1月3日 歿 |
満州国参議府 副議長
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筑紫 熊七 陸軍中将は日露戦争で大本営参謀をつとめ 重砲兵監・技術本部長などを歴任し陸軍中将で退役。昭 和9年に満州国参議府副議長に。昭和14年の平沼内閣 のとき国民精神総動員中央連盟理事長となります。この 方の娘婿が嶋田 繁太郎 海軍大将と光延 東洋 海軍少 将です。 |
◆ 筑紫 熊七 陸軍中将 ◆ 熊本県出身 文久3年1月25日 - 昭和19年1月21日 (略 歴) 明治17年 9 月 陸軍士官学校入学 明治21年 7 月 陸軍士官学校卒業(旧9期) 野戦砲兵第6連隊付 明治27年 11月 要塞砲兵第2連隊付 参謀本部員 明治32年 10月 任陸軍砲兵少佐 明治33年 10月 清国派遣〜 東京湾要塞砲兵連隊大隊長 参謀本部出仕、要塞砲兵監部員 明治38年 1月 大本営参謀 陸軍要塞砲兵射撃学校教官 同校々長 明治40年 11月 任陸軍砲兵大佐 明治41年 1 月 重砲兵射撃学校々長 大正 2 年 7 月 任陸軍少将、陸軍省兵器局長 大正 6 年 8 月 任陸軍中将、重砲兵監 兵器局長(再任)、陸軍技術本部長 大正 11年 8 月 待命 大正 12年 3 月 予備役 昭和 7 年 8 月 満州国参議 昭和 9 年 8 月 満州国参議府副議長 昭和14年 3 月 国民精神総動員中央連盟理事長 昭和19年1月21日 逝去 |
辻村 楠造 陸軍主計総監 自筆の一行書 |
◆ 辻村 楠造 陸軍主計総監 ◆ 主計科 高知県出身 文久2年1月6日生 (略 歴) 陸軍歩兵中尉の時に経理部に転科 明治36年5月1日 陸軍経理学校長(一等監督) (〜明治36年11月30日) 第10師団経理部長 遼東守備軍経理部長 明治40年11月12日 関東都督府陸軍参謀長 明治40年11月12日 近衛師団経理部長 明治42年 8 月 1日 陸軍省経理局長 (〜大正3年5月11日) 大正 2 年 3 月 4日 陸軍主計総監 大正 3 年 8 月 8日 予備役 昭和 27年12月28日 歿 |
蒙古連盟自治政府主席 徳王 直筆書幅 額装 |
◆徳王(通称)◆ 〜略歴〜 |
内蒙古察哈爾(Chahar:チャハル)部西スニト旗の王公の出身。 内蒙古(モンゴル)における蒙古(モンゴル)独立運動の指導者。 中国語における字は希賢。1930年代から日本軍と協力して蒙古 (モンゴル)人の独立政権である蒙古聯合自治政府の主席を務 めましたた。汎蒙古(モンゴル)主義を推進した蒙古(モンゴル) 民族自決主義者であります。日本の敗戦後、蒙古自治邦政府は 解散します。一時、北平に寓居するものの昭和24年に人民解放 軍が北平を占領すると脱出して国民政府に再度内蒙古の自治を 要求。同年4月13日には、蒙古自治準備委員会を結成し副委員 長に就任します。そして8月10日には、蒙古自治政府が成立し 主席となります。しかし人民解放軍の攻勢を前に日本軍の後ろ盾 も無ければチベット同様に蟷螂の斧のようなもので同じ結末を見 ました。昭和25年にコ王主席と李守信将軍は、蒙古(モンゴル) 人民共和国に逃亡します。しかし逮捕され中華人民共和国引き 渡され戦犯として同年9月、張家口収容所へ収監され禁固刑を受 けます。昭和38年に釈放された後、博物館で働きながら昭和40 年から回顧録を執筆していましたが、翌41年に中国の内蒙古 自治区フフホト市で逝去、享年64歳でした。 |
帝國陸軍の軍用車輛の前章(星章) |
帝國陸軍の軍用車両(サイドカー附バイク(側車附自動二輪車) 軍用自動車、軍用トラック、戦車、装甲車、トラクター等)まで日 本陸軍の軍籍の軍用車両には前章としてこれ等の★(星)章が 付いていました。今では海軍の方が良く出て来ますが…中々、 陸軍の星章は見ませんので珍しいと思います。簡素なブリキで できており裏側に付いている細い針金で車両に付ける簡単な物 です。この品は、2ヶ処ほど小さな破損が有り取り付けの為の針 金は欠損しています。 |
陸軍の前章は星章そのものを針金で取り付けているものと 丸い台座に星章を取りつけてから付けているものと大まか に二種類が見受けられます。 |
鉄道第六連隊の九一式鉄道牽引車です。台座無しで直接 星章を前章として取り付けているのが判ります。 |
プラモデルの箱絵です。この九四式六輪自動貨車です。フロントグリル に台座に星章を付けた前章が書かれています。 |
下の生写真は相武台の陸士生徒が演習で移動中のワンショットです。 ピンボケしていますがトラックのフロントグリルに台座の星章があります。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |