旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_4















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








精巧手作り真鍮製四分の一スケール
    
     百式短機関銃 後期型 二式短剣 仕様




この見事に美しい実銃のような出来上がり…謂われなければ
四分の一スケールのミニチュア真鍮製モデルとは気がつきせ
ん。毎度、芸術品のような出来栄えに感動します。
今回のこだわりは二式短剣だけでなく…分解も実銃と同じで
ピン一本でストックから外れます。内部スプリングも右からの
螺子で後部が外れ取り外し可能…涙がこぼれそうな拘りです
。製作のW様も工房のプログで『小さいので目が疲れました』と
仰っておられました。




菊の御紋が…痺れます。


この状態から製作過程です。…凄いっす!









製作された大先輩のW様の説明動画です。






タナカ製の百式短機関銃(前期型)の実寸大モデルガン
と比較で並べて見ました。
熊本の義列空挺隊の慰霊碑に参拝した時の事を
思い起こしました…。












〜陸士卒業生(士候56期生)の
   アルバムに見るありし日の相武臺
       (陸士本科)と振武臺(陸士予科)〜

 
=陸士56期(士7-2)卒業生の写真帖から=




昭和天皇が命名された相武臺の地を代表する
陸軍士官学校(本科)の跡は戦後一貫して米
軍の座間キャンプが占有しその遺構を容易に
拝観できなくなっております。自衛隊の施設で
あれば何とかお願いすれば見れるかも知れま
せんが米軍施設となれば一般の日本人が中に
入れるのは年一度の交流の祭りの時だけです
。これに合わせて仕事を休む事も出来ないので
かつての陸士卒業生のアルバムから…当時の
(敗戦前)相武臺の姿を紹介する事とします。

当初、アルバムの所持者を陸士56期の木坂 康三 大尉の
本科将校生徒時代(階級章は陸軍軍曹です)の写真と思い
紹介しましたが、木坂元大尉の御子息の方から間違いとの
御指摘があり確認したところ写真で別人と判明しましたので
訂正しお詫び申し上げます。
また同期の何方であったのかを
現在、調査中です。
階級は陸軍伍長です。陸軍予科士官学校を卒業後に
陸士本科入学前の半年間を原隊で隊附をします。この
時の士官候補生達の階級は上等兵です。その後、隊附
中にに伍長になります。また陸士本科入学時には軍曹
の階級になります。この方の原隊は東京・麻布の歩兵
第一連隊です。歩一は北満に渡っておりましたので遠い
ソ満国境までこの方は、隊附に出掛けています。

今は無き陸軍士官学校の正門の門柱です。
本部庁舎には菊の御紋が飾られているのが
見て取れます。

相武臺の記念碑の裏には以下の文面が彫られておりました。


昭和十二年陸軍士官学校此ノ地ニ移ル冬十二月二十日 天皇陛下卒業式ニ
行幸アラセラレ親シク生徒ノ演習ヲ臠ハセ給ヒ陸軍大臣ヲ召シ本校所在地名ヲ
特ニ相武台ト賜フ大臣ハ恐懼感激シ益々練武養材ノ実ヲ挙ケ 聖旨ニ副ヒ奉ラ
ンコトヲ奉答セリ 謹ミテ按スルニ相模国ハ古ク佐賀牟ト訓シ古事記日本武尊
東征ノ条ニ相模国ニ作ル台ハ其ノ形勝ヲ占メ相模原ヲ控ヘ最モ武ヲ練リ鋭ヲ養
フニ適ス乃チ武ヲ相ル意ヲ寓シ給ヒタルモノト拝ス茲ニ御命名書ノ相武台ノ三字
ヲ廊大シテ碑ニ題シ縁由ヲ背ニ記スト云爾

                        陸軍大臣 杉山 元 陸軍大将


遥か向こうに大山を望む

大講堂

雄叫之獅子


雄叫神社


陸軍士官の養成は、海軍の士官養成と全く異なります。
同じエリートを集めても海軍は明らかに兵・下士官と一
線を画するエリート集団である士官を単独で育成し食事
すら兵や下士官と共にする事は無い教育を受けて巣立
ちます。一方、陸軍士官は予科時代では上等兵として原
隊附を行い、本科では下士官として隊附を再び行い兵・
下士官とも同じ釜を食いながら、尚且つ原隊である所属
連隊の将校団の先輩達からあるべき士官像の薫陶受け
て育てられ陸士卒業と共に見習い士官として原隊に復帰
しここで少尉に任官します。


入校式の閲兵

入校式の訓示をする山室 宗武 中将(校長)
アルバムから山室中将と土肥原大将が校長として存在します。
予科入学時が昭和14年12月で本科卒業時が昭和17年12月と
なる陸士56期生のアルバムです。歩兵第一聯隊は昭和19年11
月にフィリッピン(レイテ島オルモック)に上陸…敗戦を比島で迎
えています。このアルバムの持主だった方も無事に生きて復員
されていれば良いのですが…56期生は敗戦時(昭和20年6月10
日)に陸軍大尉となっておられたと思われます。




区隊(区助と呼ばれた区隊長の士官以下30数名の
   同じ釜の飯を喰う同期生が切磋琢磨しました。)
教練班
この方の原隊は、歩兵第一聯隊です。同期の歩一の士官候補生
一同の集合写真です。中央で座っているのがアルバムの所持者
だった方です。今の時代、このような凛々しい姿の若者が本当に
少なくなりました。敗戦前は…このような若者が男女ともに大勢お
りました。日教組による教育の崩壊は…日本人をドンドンダメ人間
に改造しているようにしか見えません。



〜第一次現地戦術演習(於:高師)〜


豊橋の高師ヶ原演習場で行われた野外演習の歳
に岩屋観音頂上でのワンショットです。既に将来の
大参謀…将官の面持ちが見えますでしょうか。

大岩寺は愛知県豊橋市大岩にある曹洞宗の寺院です。山号は
亀見山。本尊は千手観世音菩薩坐像。境外仏堂として、天平2
年(730年)に行基開基による岩屋観音があります。




豊橋駅南側にあった旧陸軍の高師ヶ原演習場は現在は
住宅街や一部国有地で公園として豊橋市に貸与されて
昔の面影は残っていません。
第34代校長時代の山室中将。この後、予備役となり
召集され陸軍野戦砲兵学校長、砲兵監を勤め…再び
第39代陸士校長を昭和19年8月より20年3月まで務
めています。
高師ヶ原演習場での校長閣下
現戦統裁官 三田村 陸軍中佐

於:高師ヶ原練兵場




練習船”報徳丸”の楼上にて

54期生を送り出す(卒業時)の56期生達




第35代陸士校長を務めた土肥原 賢二 陸軍大将です。
学校本部前で撮影した生写真で玄関上に掲げられてい
た”校學官士軍陸”の扁額がよく判ります。



〜第二次現地戦術演習(於:高崎)〜


高崎入り
下は陸軍高崎練兵場

現地指示
移動




〜第二次(後期)野営演習(於:富士裾野)〜


校長閣下の巡視
戦術訓話
閲兵


皇室に対する畏敬の念の深さはアルバムにも顕れます。この
お写真と皇室関係には保護用紙がしっかり掛けてあります。
写真の下に殿下とあります。54期生に皇室の方は一名だけ
です。彰常王の将校生徒時代のお写真です。昭和15年10月
25日(陸士54期卒業の1ヶ月後)に臣籍降下が認められ昭和
天皇から粟田の氏を賜り、侯爵の爵位を授けられ華族に列せ
られました。以降、粟田 彰常を名乗られました。因みに粟田
侯爵家は日本で最後に創設された侯爵家でした。
このすぐ後に卒業そして臣籍降下となりますので皇族として
最後の頃の生写真と思われます。彰常王のお写真は少ない
ので貴重な一枚と思います。
殿下は敗戦時、陸軍大尉(勲一等旭日桐花大綬章)で軍歴を終えました。
昭和22年5月3日に日本国憲法が施行され華族制度が
廃止された為、粟田侯爵は華族の身分を失しないます。
戦後は東京農業大学を卒業し東京都の建設局に勤務し
飼育係として上野動物園に入職。畏れ多くもニワトリや
ヤギなどの飼育を担当。家庭では2人の男子を儲けられ
平成18年8月30日に御逝去されております。
こちらも彰常王殿下が先頭で三八式歩兵銃を担いで進軍する写真です。
畏れながら殿下は端正なお顔立ちで二枚目だと思います。












生徒隊長の國方 慶三 陸軍大佐です。後に歩一
連隊長を務めこのアルバム所持者の親分(連隊
長)となります。敗戦時は陸軍少将で台湾軍管区
兵務部長でした。
○○部長閣下とありますが…何方か不明の将
官が視察されております。

NHKのライブカメラの映像から、左上は現在の自衛隊の富士演習場
の画像で、右上は富士山の様子です。今も昔も変わらず霊峰富士は
存在し麓で切磋琢磨する防人達を見守っています。
二冊のアルバムにある情報から推測するとこの
アルバムの持ち主だった方は、旧制呉港中出身
(甲子園など野球で有名な)、陸軍予科士官学校
から陸士本科と進み56期を卒業された方です。



〜大元帥陛下御臨席の観兵式〜


若かりし日の昭和天皇に三笠宮殿下、海軍の高松宮殿下
陛下の右後方には閑院宮殿下等の馬上姿が見えます。

椅子にお座りになり閲兵する大元帥陛下です。

天皇旗の近衛騎兵を先頭に皇族の殿下達を従えた昭和天皇の
白馬の隊列が多くの将兵を睥睨し荘厳に進みます。

馬上で答礼をする大元帥陛下







昭和17年12月…同期生1672名と共に晴れて
卒業します。陸軍曹長の階級に座金です階級
は陸軍曹長の上で准尉の下にあたる見習士官
です。御両親と東京での記念撮影の一枚です。
この後、原隊である歩兵第一聯隊に赴任し2カ
月後に将校団の許しを得て陸軍少尉に任官しま
す。歩一は昭和14年から大陸に出兵し続けてい
ます。この方は中国で陸軍少尉に任官。移動が
無ければ第一聯隊は昭和19年に上海よりフィリ
ッピンに上陸し敗戦は同地で迎えます。この方も
支那から比島に渡り、圧倒的な物量と火力を誇
る米軍と戦います。無事に復員し帰国していたな
らば敗戦時は陸軍大尉でした。その前後で戦死
されていれば大尉で戦死後なら少佐に進級され
たかもしれません。敗戦まで存命であれば約5年
に及ぶ短い軍歴と戦争が終った事になります。






〜北満の隊附勤務(歩兵第一連隊)〜


このアムール川(黒竜江)を挟んだ対岸はロシア(ソ連)領です。
東京麻布の歩兵第一連隊はノモンハン事件の発生後
連隊主力を昭和14年8月に北満に上陸させました。
x
歩一の士候53・54期生達です。
北満の隊附勤務を終えて2日目。この後、陸士本科に進む事に
なります。立襟の歩兵科クワ型に原隊を示す第一連隊のNO.に
士官候補生襟章、肩に伍長の肩章を付けた冬の軍衣袴姿が凛
々しい士官候補生です。
こちらの週番士官肩章を掛けた若い少尉は、歩一の兄と
慕う先輩であり…小隊長として戦場で散華したようです。



工事中です…(-_-;








A級戦犯で非業の死を遂げた
   昭和殉難者 松井 石根 陸軍大将
           肉筆一行書”皇威輝八紘”










 
松井 石根 陸軍大将

愛知県出身、正三位勲一等功一級、陸大首席

上海駐在武官、歩兵第三十九連隊長、ハルピン特務機関長
、歩兵第三十五旅団長参謀本部第二部長、第十一師団長、
ジュネーブ会議全権委員、軍事参議官、台湾軍司令官、
上海派遣軍司令官、中支派遣軍司令官を歴任。

親中派の松井大将は、謂れ無き”南京大虐殺”の汚名を着せ
られ戦犯として処刑された悲劇の将軍です。昭和15年2月、
日中戦争における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市
伊豆山に興亜観音を建立した事でも有名な方です。

日中戦争前に予備役であったが、第二次上海事変が勃発する
と軍務に復帰し、上海に派遣される。参謀本部と政府は、上海
事件の不拡大を望んでいた。しかし松井は、上海近辺に限定さ
れていた権限を逸脱し当時の中華民国の首都南京を攻撃・占
領した。これで中支那方面軍司令官を解任され、本国へ呼び戻
される。
この南京占領の際に中国側が後に捏造する事件”南京大虐殺
”があったとされ、この責任を敗戦後に問われ戦犯となる。昭和
23年12月23日に巣鴨プリズン内で絞首刑で刑死する。大将は
、孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援した事
で良く知られています。昭和8年、大亜細亜協会の設立発起人
となり(後に会長に就任)。同年8月には、台湾亜細亜協会を設
立。また蒋介石とも親好が深く、蒋が政治的に困難な時に、時
の首相・田中義一氏との会談を取り持ち事態を好転させたのも
松井大将であります。また大将は、軍紀に厳しいことで知られ、
昭和3年に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍
河本大作の厳罰を要求した事も良く知られています。
尚、昭和41年9月に「興亜観音を守る会」会報『興亜観音第15
号』(2002年4月18日号)に田中正明ら5人が岸信介の名代とし
て台湾を訪問した際、蒋介石が「南京には大虐殺などありはしな
い。何応欽 将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録して
いる筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはな
い。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と涙ながらに語ったと
いう体験談が記されています。









山梨 半造 陸軍大将の自筆一行書
 ((本間 雅晴 陸軍中将の義兄)










         ◆ 山梨 半造 陸軍大将 ◆


 元治元年3月1日生
 神奈川県出身
 正三位勲一等功二級
 歩兵科
 士官生徒8 陸大8

               (略 歴)

明治19年 6月25日  陸軍士官学校卒業・陸軍歩兵少尉
明治22年12月 2日  陸軍大学校入校
明治25年12月 2日  陸軍大学校卒業
明治37年 3 月 6日  第2軍参謀(作戦主任)
明治38年 1 月13日  第2軍参謀副長
明治38年 7 月18日  第3師団参謀長
明治38年12月20日  オーストリア公使館附武官
明治40年 1月12日  ドイツ大使館附武官
明治40年11月13日  任陸軍歩兵大佐
明治41年11月10日  陸軍大学校幹事
明治43年11月30日  歩兵第51聯隊長
明治44年 9月 6 日  任陸軍少将・歩兵第30旅団長
明治45年 3月 5 日  歩兵第1旅団長
明治45年 4月24 日  参謀本部総務部長
大正 3 年 8月16日  独立第18師団参謀長(青島攻略)
大正 5年 1 月21日  教育総監部本部長
大正 5年 5 月 2 日  任陸軍中将
大正 7年 10月10日  陸軍次官兼臨時軍用気球研究会長
大正 9年 5 月 14日  免兼
大正 9年 8 月 1 日  兼航空局長官
大正10年 6 月 9 日  陸軍大臣
大正10年 12月19日  任陸軍大将
大正12年 9 月 6 日  軍事参議官
大正12年 9 月 20日  関東戒厳司令官
大正12年 11月 16日  東京警備司令官
大正13年 8 月 20日  軍事参議官
大正14年 5 月 1 日    待命
大正14年 5 月 25日  予備役
昭和 2年 12 月 10日  朝鮮総督
昭和 4 年 8 月 17日     辞
昭和 7 年 4 月     無罪判決(疑獄事件)
昭和19年 7 月 2 日  鎌倉市塔ノ辻177で狭心症により死去








日本人の忘れた心を感じさせてくれた
  衝撃の帰国劇を見せてくれました…
   小野田 寛男 元陸軍少尉のサイン本等




1975年の3月の日付けのある小野田元少尉のサイン
色紙です。帰国が昭和49年(1974年)3月ですから…
丁度、帰国の一年後の昭和50年のサインです。
”誠”の一文字が実に小野田さんらしいと感じます。
長い間、誠を尽くした不器用だが真面目な生き方し
か出来ない日本人の本性を見る想いがします。


御自身の著された本に丁寧なサインをされております。
この美しく背筋の一本通ったような毛筆の署名に
小野田元少尉の心の有り様や想いが伝わるよう
な気がします。…”書は人なり”とか”書は体をあ
らわす”と謂いますが、その通りであると感じます。




マニラで当時のマルコス大統領に敬礼  
し左手に持つ軍刀を差し出し彼の戦闘  
は、終了した。
この眼光…気迫…今の日本人
が失ってしまった戦う者の厳し
さが垣間見られます。
帰国後、スーツを着て笑顔をこぼす
小野田少尉…。この後、政府からの
見舞いの一時金も貰わず、亡くなっ
た部下の墓参りを済ませ…一年後、
ブラジルに移住する。
最近の小野田氏の画像である。現在は、ブラジル
で牧場を経営しながら、福島県の東白川郡塙町で
(財)小野田自然塾を主催し、子供や親を中心に自
然への接し方や生き方を教えておられます。尚、
2004年現在で小野田氏は、82歳となられますが
活発に講演活動もなされているようです。
<略歴>
大正11年3月生 和歌山県亀川村(現・海南市)出身

昭和14年    旧制海南中学校卒業し商社マンとなり”田島洋行”に入社
昭和17年12月 徴兵により和歌山歩兵第61連隊に入隊、即日、歩兵第218
          連隊に転属となる。
昭和17年1月  久留米陸軍第一予備士官学校へ入学
 同年  8月  予備士官学校卒業
 同年  9月  陸軍中野学校二俣分校へ入学

 同年 11月  同校卒業
 同年 12月  比島派遣軍指令部参謀部付としてフイリッピンのルパング島
          へ残置遊撃戦指揮官及び残置諜報要員として赴任。以降、
          敗戦後も遊撃戦を継続する
昭和49年3月  日本へ帰国(上官である谷口元少佐の任務解除命令により)
昭和50年4月  ブラジルへ移住
昭和59年7月  自然塾を開く
平成元年3月  財団法人 小野田自然塾を設立
   
    現在に至る







ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!