Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
高名なアメリカのミリタリー収集家
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”Swords of Imperial Japan” の Author であり アメリカのミリタリー収集家でもあるJim Dawson 氏が集めたインペリアルコレクションの内の一点で アバディーン武器博物館に寄託されていた軍刀と の事ですドーソン氏はGHQの仕事をしていた事か ら宮家の帰俗を当時の宮内省で折衝しており、 各宮様の武官達と会われて、請うて竹田宮様や 閑院宮様から不要になった軍刀を集めたようです。 |
これだけ根こそぎ敗戦国から巻きあげてコレクションしたのか と驚くほど程度の良い軍刀や珍しい刀剣類が米国のミリタリー 書籍を見るとs出てきます。まさしく愕然とさせられます。そして 何故か腹が立ちます。人種差別の激しいかった時代に白人か ら見る日本人は猿と同然で同じ人間とは思わなかったでしょう 。あの時代…正義感の強い日本の純粋な人々に身を捨ててま での喧嘩を決意するまで追いつめて…堪忍袋の緒が切れて刀 を抜いたら…白人様は徹底的にいたぶり尽くし非戦闘員の女子 供老人はおろかありったけの市民を無差別に殺し尽くした米国 人の非道さを思い出させます。そして敗戦国から残った富を奪い 尽くし…今もその富にたかっています。…本当に極悪です。 |
戦車第四師団長心得 大勲位陸軍少将
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昭和17年10月、戦車第五聯隊長時代の 閑院宮 春仁王 殿下 です。 (当時、陸軍大佐) |
鐔に”昭十”の刻印が見られますので昭和10年頃のものでしょうか。 外装はまさしく約70年の歳月の経過を全く感じさせない極美さです。 可動式の第二佩環も揃っています。柄頭には純銀製の”閑院宮家” の複雑な菊花定紋が据えられ、鉄鞘も全く痛みありません。塗装も 当時のままの極美です。鐔は初期の透かしですが、表裏の仕上げも 良く、若干経年で黒ずみが見られるものの良い状態です。 |
【外 装 寸 法】 [全長] 91センチ [柄長] 23センチ |
旧皇族 閑院宮家の御家紋です。 |
柄も短い脇差に合わせて七寸五分とやや短く 取り回し安い長さになっています。 |
この写真は昭和7年12月から昭和9年7月までの陸大卒業し 騎兵第十六連隊で中隊長を務めていた陸軍騎兵大尉の頃 のものです。 |
◆ 戦車第四師団長心得 大勲位陸軍少将 閑院宮 春仁王 殿下 ◆ < 略 歴 > 明治35年8月3日 誕生 大正 5年 学習院初等科長期休学後 神奈川県立小田原中学校入学 大正10年3月 神奈川県立小田原中学校卒業 大正11年8月 貴族院議員(皇族議員) 大正13年7月 陸軍士官学校卒業(36期) 大正13年10月 任陸軍騎兵少尉 近衛騎兵連隊付 昭和2年7月 陸軍騎兵学校卒業 昭和2年10月 任陸軍騎兵中尉 昭和7年8月 任陸軍騎兵大尉 昭和7年11月 陸軍大学校卒業(44期) 昭和7年12月 騎兵第十六連隊中隊長 昭和9年8月 陸軍騎兵学校教官 昭和9年11月3日 大勲位菊花大綬章受章 昭和11年8月 陸軍大学校研究部主事 昭和12年8月 任陸軍騎兵少佐 昭和12年11月 北支那方面軍参謀 昭和13年5月 陸軍大学校教官 昭和14年3月 任陸軍騎兵中佐 昭和16年4月1日 総力戦研究所研究生 昭和16年8月 任陸軍大佐 昭和16年9月 陸軍大学校付 昭和17年3月 千葉陸軍戦車学校付 昭和17年10月 戦車第五連隊長 昭和20年3月 戦車第四師団司令部付 昭和20年6月 任陸軍少将 昭和20年8月12日 戦車第四師団長心得 昭和20年8月16日 免戦車第四師団長心得 敗戦に伴い南方差遣(サイゴン) 昭和20年12月 予備役 昭和21年5月 免貴族院議員 昭和22年10月 臣籍降下(閑院 春仁と改名) 昭和41年 離婚、純仁と改名 昭和63年6月18日 死去 (享年85歳) |
右上は予科士官学校j時代の写真で左上は騎兵少尉に任官し 初めに配属された近衛騎兵聯隊時代の写真です。下は王妃 直子殿下と正装での写真。 |
中の刀身は古刀脇差です。殿下は騎兵科出身の戦車将校なので 航空科と同様に短寸軍刀を使われたようです。拵えの立派さに比 べてまた宮様将軍と謂う立場を考えると中の刀身が少し貧相に感 じます。もしかすると米国にある間に中身だけ別に売却され拵えに 合う脇差が合わせられた可能性は否定できません。 |
【刀 身 寸 法】 [刃長] 54センチ程 (一尺七寸五分) [反り] 1.5センチ程 [元幅] 27.3ミリ [先幅] 23.5ミリ [銘]友次 平成23年登録 |
最近帰国したばかりで平成23年に登録されたばかりの物。 米国では 研磨されずにあった為バフがけ状態。 かすかに刃紋が見て取れます。 |
陸軍少将 閑院宮 春仁王 殿下の附官
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出陣で使われた略式軍刀です。南方などの戦場では鉄鞘等は 重い上に音を立てやすく凹み等壊れやすかったので軽くて壊れ て廃棄しても勿体無くない革巻木鞘は重宝され多くが使用しまし た。 |
中の靖国刀は…輸入時に関西空港の有る大阪の刀剣審査で 「軍刀は不可」ということの一点張りで折られてしまった実に惜 しい物です。約70年ぶりに里帰りした武人の魂の籠った愛刀が 『軍刀は日本刀で無い!』アカの反日プロパガンダのような姑 息で偏った見方で宮様所縁の菊花の御紋のある刀を切断する とは随分、お偉い登録審査の人間が居るものだと呆れるばかり です。 |
またバカげた話ですが…里帰り帰国の際に登録審査員によって 「軍刀は登録不可」と一方的に決めつけられ、惜しくも切断を余儀 なくされたものであります。約70年を生き抜いて帰国した母国で存 在すら認めて貰えず切断する羽目になるとは…この国の登録審査 の担当する人間の見識を疑わいます。歴史的に見てもこの軍刀に 日本人の大和魂を込めて命掛けで出征した武士の心情を汲み取れ ない人間に日本刀を語る資格も刀剣の美術・文化を審査する資格 すら無いように思うのは私だけでは無いものと思います。 |
敗戦国の無残さをこの靖国刀の切断が物語っているようです。 この切断を命じたのは他でも無い日本人です。登録審査をする 人間の経歴や思想などその背景を見定めたいものです。審査す るにたる見識が本当にあるのか?…こちらを先に審査するべき 気がします。 |
【切 断 前 寸 法】 [全長] 99センチ [柄長] 25センチ [刃長] 14.5センチ程 (合法切断) [反り] 不明 [元幅] 30.3ミリ [先幅] 不詳 [銘] 靖典作(太刀銘)、昭和十八年八月作 |
ハバキには立派な”菊の御紋章”が精緻に手彫りされています。 |
何かの御下賜品なのか不明ですが、一般に御賜の軍刀であれば はばきに刻印されるのは御賜であります。そして通常、軍刀は陸 大で陸士の御賜は銀時計ですから陸士・陸大での優秀卒業者と は思えません。皇室や宮様から個人的に下賜された品や記念品 ではないかと考えます。 |
Jim Dawson氏の使用した管理 保存用の木製タグです。 |
F LUT(1st Lieutenant) D OHKUBO 大久保中尉の記載がわかります。 |
閑院宮家の御家紋をあしらった刀袋に”武運長久守護” と”春仁”の刺繍がなされています。残念な事に端の方 は少し痛みがあります。 |
こちらは私が購入しなかった軍刀です。春仁王 殿下が戦地に向かう 大久保中尉に下賜した軍刀だと思われます。恐らく刀袋はこの刀を包ん でいたものと推察しています。略式軍刀の方を刀袋包んでJim Dawson 氏に差し出したものでしょうか。 |
第一総軍防衛主任参謀
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第二佩環を外してしまった九四式軍刀の外装です。 |
【外 装 寸 法】 [全長] 102cm 程 透かし鐔厚 1p程 [ツナギ長] 65.7m [ツナギ反] 約1.7cm [ツナギ元幅] 2.9cm [ツナギ元重] 0.6cm 切羽6枚、第一切羽1ミリ厚、大菊座の最初期 |
フルネームは判明しませんがタグにはローマ字で T.maedaとあり話によれば大聖寺前田家出身の医 官であった事までは判っているそうです。 |
大聖寺(藩)前田家の家紋は瓜実梅鉢で宗家の加賀(藩)前田家 は、有名な剣梅鉢紋を使用。同じく支藩の富山(藩)前田家は丁子 梅鉢を使いました。この柄頭の丸に星梅鉢紋は利家の時代…つま り初期の頃は星梅鉢と一緒に紋を使用していたとも言われていま す。 |
大聖寺(藩)前田家 | 加賀(藩)前田宗家 | 富山(藩)前田家 |
比島派遣軍参謀(陸軍少佐)当時の恒徳王 殿下 |
この前田 軍医中佐の軍刀拵えと一緒にあった葉書10数枚 です。以下、一部を紹介しますが全て淡路島の島野と謂う御 家族に宛てられた昭和13年頃の葉書です。この島野義房と いう方は戦前は医師で青年団の副団長・団長を務めて、戦後 は、現在の南あわじ市医師会(旧三原郡医師会)の第三代会 長を務められた方のようです。尚、他の御兄弟でしょうか親子 でしょうか…義亀、松平という方々も医師と推察されます。主 に葉書の内容は青年団の関係者か医療関係者・軍医となって います。前田 軍医中佐ともそうした縁で知人友人など縁者だ った為、葉書が一緒にあったと思われます。 |
旭川 歩兵第二十八聯隊 軍旗奉安所
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郷土・北海道の歩兵第二十八聯隊(旭川)の軍旗奉安所の入口正面に飾られた 菊の御紋章です。天皇陛下より授与された奉安所に安置され御真影や教育勅語 と同じ扱いで神聖なるものとして特に大事されました。そして軍旗祭では軍旗は、 1mほどの高さの段の上に叉銃した三丁の銃に支えられて安置され、その周りを 幕で囲み、注連縄を張り…神酒、餅、山の幸、海の幸が飾られ一般に公開され見 る事ができました。もっとも軍旗は奉安所より持ち出され飾られ護衛兵がつきまし た。皇軍に於いて軍旗は神聖なものであり、軍旗を喪失することは極めて重大な 失態と考えられ当然、聯隊長は腹を切って自決せねばならない程の扱いでありま した。通常、軍旗には聯隊旗手(品行方正・成績優秀・眉目秀麗・長身の新任の 陸軍少尉が勤めます)に護衛・誘導の将校が別に一名、そして軍旗衛兵の下士官 兵が数名附きます。軍旗の移動に当たっては更に1個小隊から戦場では1個中隊 が護衛にあたりました。 |
尚、管理人・憂國烈士の郷土・北海道には歩兵第二十五聯隊(札幌)をはじめ 歩兵第二十六聯隊・二十七聯隊・二十八聯隊(いずれも旭川)が有名で知られ ておりますが、この二十八聯隊の軍旗は、敗戦後の昭和20年9月3日 に北見市 に移転した聯隊本部にて奉焼されました。尚、この軍旗は、ガダルカナル戦で二 十八聯隊々長 一木 清直 陸軍大佐が自決し聯隊主力である一木支隊がイル川 渡河戦で全滅しました。この時に軍旗が一度、奉焼されています(昭和19年3月1 日に軍旗を再度拝受)ので二度目の奉焼となっています。 |
下は奉安所ではありませんが、小学校の奉安殿 です。軍旗と同様に神聖視され大切に保管され た御真影と教育勅語を納めていた建物です。 |
上下の写真は陸軍の兵営前で撮影したものですが共に菊の御紋章が 輝いております。陸軍も海軍も帝国陸海軍は天皇の軍隊であります。従 ってこれを皇軍と称します。海軍兵学校にも菊のご紋章が輝いておりま した。…今では日本国民のパスポートに菊の御紋章が見る程度に世間 で御紋章を見る機会は減りました。 |
旭川歩兵第二十八聯隊の臨時召集令状の複製品です。 |
河西 惟一 陸軍中将の書 |
◆河西 惟一 陸軍中将◆ 長野県出身、歩兵科 士候7、陸大16、功四級 (略 歴) 明治 8 年 2 月16日 生 明治29年 5 月27日 陸軍士官学校卒業 明治30年 1 月25日 任陸軍歩兵少尉 明治32年12月13日 陸軍大学校入校 明治35年11月28日 陸軍大学校卒業 大正 5 年 8 月18日 任陸軍歩兵大佐 陸軍省人事局補任課長 大正 7 年 7 月24日 歩兵第33聯隊長 大正 9 年 8 月10日 任陸軍少将 歩兵第8旅団長 大正12年 3 月17日 陸軍士官学校予科長 大正13年 8 月20日 教育総監部附 大正13年12月15日 任陸軍中将・待命 大正13年12月20日 予備役 昭和13年11月 7 日 歿 |
旧皇族の梨本宮様、御下賜のタバコ |
現在、流石に禁煙が叫ばれる世の中になり皇室の煙草の御下賜 される習慣が無くなりましたが、御皇室の下賜タバコは昔から珍し いものではありません。しかし臣籍降下で皇族の身分を失われた 旧宮家の御下賜タバコは…その存在が無くなられただけに希少と 謂えるかもしれません。満洲帝國の下賜タバコより数が少ないのか も知れません。 |
元々、10本入りの煙草だったのでしょうが8本だけ残っています。 |
旧梨本宮家の御家紋です。 |
煙草の封緘で戦前の時代のものである事が判ります。 |
元帥陸軍大将 梨本宮 守正王 殿下の御一家 |
実物 戦車兵の襟兵章(昭五式までの立襟時代)と
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複製品は多いですが実物はかなり希少です。 |
戦車第四聯隊の前身となった昭和九年に習志野で編成され後に関東軍 に属し公主嶺に司令部を置いた独立混成第一旅団の戦車第四大隊の戦 車将校に戦車第二聯隊の本部将校が送った昭和12年の年賀状です。こ の年の7月に盧溝橋事件が発生し戦車第四大隊は華北に派遣されます。 その後、チャハル作戦・太原攻略戦(山西作戦)に参戦し太原陥落後の同 年11月中旬に満州に帰還し、翌13年8月1日に戦車第四聯隊に改編され ました。 ◆ 戦車第四大隊 の戦力 ◆ (人員:856、車両:192) 第1中隊 八九式中戦車×15、九四式軽装甲車×7 第2中隊 八九式中戦車×15、九四式軽装甲車×7 第3中隊 八九式中戦車×15、九四式軽装甲車×7 軽装甲車中隊 九四式軽装甲車×20 装甲自動車中隊 九二式装甲自動車×17 材料廠 |
近衛略帽章です。非常に良い状態です。 |
ドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九五式軽戦車ハ号 です。戦車第七連隊(フィリッピン)仕様。 |
手前は同じスケールのドラゴンのプラモデル模型の方です。 |
同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号 です。戦車第九連隊(サイパン)仕様。 |
小さいのは食玩の144分1スケールのチハ(バトルタンクコレクション) |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |