旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_6















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








精巧手作り真鍮製四分の一スケール              


一〇〇式火焔発射機(格納箱フルセット)







見て下さい。この芸術的な仕上がりを!!格納箱と謂い
これを芸術品と謂わずして何と呼ぶ?…と毎度想って魅
入ります。いつもお世話になっている製作工房の作者の
方は時々、作品をオークションにも出されていますが…こ
れだけ真鍮製で手作りの芸術品が量産で無くワンオフで
出来上がり値段を考えると実に安いと思います。完成品
のプラモデルが如何に高いか?…手作りの附属品を考え
ても原料代を考えても実に良心的で安いかが判ります。
そして何よりも銃火器に対する知識に愛着と造詣の深さ
が加わらないと…採算を度外視した芸術品は生まれ無い
ものと思います。…出来上がった作品には絵画や彫刻な
どの芸術作品と同様に作者の魂が込められている気がし
ます。その一つ一つの作りを見ていると製作者の思い入
れや人柄を感じられ…毎回、新しい作品に触れるたびに
尊敬の念を深めます。
実寸大の実物は殆ど出回る事がありませんが…この四分の一
ではほぼ同じ設計図の通りのものを手に取る事が可能です。
そして何よりも真鍮製なのでプラモデルのように経年の劣化で
朽ちる事が無いのが何よりの魅力ですし…古色が出た時の真
鍮の色はまた素晴らしいものがあります。
このデティールを見て下さい。細部まで手抜きの無い完成度の
高さに毎回惚れ惚れします。これを眺めていじりながら飲む酒
は最高です。











製作者様がUPしたYou Tubeの動画です。


右が米兵が動作テストをしている実物の百式火炎放射機の寫眞
です。左一〇〇式の大元になった原形の九三式火炎放射機です。
敵陣地やトーチカを攻撃する日本軍!一〇〇式火炎放射機が
敵陣地を火炎放射中です。下はガダルカナル島で捕獲された
一〇〇式をテストする米兵。
*一〇〇式火焔発射機は、蘭印作戦中の昭和17年2月14日にパレンバンで
 実行された陸軍落下傘部隊(第一挺進団挺進第二連隊)による落下傘降下
 作戦”パレンバン空挺作戦”に使用予定であったが、一〇〇式火焔発射機を
 積んだ武器弾薬箱が風に流され予定位置に降下しなかったため使用できな
 かった。その後、ビルマ戦など大戦初期の攻勢時には敵陣地の攻撃に使用
 され、また一部は海軍陸戦隊に供給されて使用されました。しかし、防衛戦中
 心の大戦末期に移ると、陣地防衛に不向きな火炎放射器は徐々に使用され
 なくなり…皇軍での活躍の場は少なかった兵器です。


<主要性能>
九三式火炎放射機 一〇〇式火炎放射機
使用燃料 混合燃料 (ガソリン・タール) 混合燃料 (ガソリン・タール)
各燃料量 総燃料20kg 総燃料21kg
全重量 約25kg 約26kg
最大射程 23〜27m 約25m
燃焼継続時間 10〜12秒 12〜15秒

*構造は九三式小火焔発射機とほぼ同様。背負い式燃料タンク2つの間に
 噴射用の窒素圧縮タンクが連結され、燃料にはガソリンとタールを混合さ
 せたゲル状燃料を使用しました。一〇〇式では、発射用のノズルを筒型調
 整式に変更したことから噴射距離の調整が可能となりました。使用回数と
 しては1回につき1秒間使用し火炎放射したとして約10回程度の火炎噴射
 が可能であったと謂われています。当初は電熱線による点火方式でしたが
 満州方面など寒冷地ではこれらの発火方式では不向きとされ、後に拳銃弾
 による空包点火に変更されています。
昭和19年1月8日、米軍上陸後のグロスター岬
で撮影された捕獲した一〇〇式をテストする米
兵の姿を後方から捉えた写真です。










以下、素材から製作過程の画像の一部です










戦前・戦後の禁衛府時代を
    含む宮内省警衛局皇宮警察の紙物資料

 (元皇宮警手部長 村主 進 氏の遺品資料から)




京都連隊区で騎兵第二十聯隊の騎兵上等兵を終えた方の所持品です。
軍隊手帳(カバー付)、甲・騎兵・第20番と記した付箋、賞状や辞令等約
12枚に奉公袋があります。兵役を終えた後の昭和12年10月より京都御
所を守護する皇宮警察官(警手)として勤務をスタート。昭和19年4月に
皇宮警手部長登用試験に合格、敗戦の翌年の昭和21年2月に皇宮警手
部長(一般警察の巡査部長でしょうか)に昇進。この時の辞令は昭和20
年9月10日から昭和21年3月31日までの約半年間と謂う短期間しか存在
しなかった禁衛府の珍しいものです。




騎兵科らしく獣医部の下士官適任証を付与されて
除隊されています。


昭和12年から皇宮警察官となり以来、敗戦後の昭和21年の
年末まで約10年間を京都御所を護る皇宮警察官を務められ
ております。




敗戦を境に皇宮警察も宮内省から禁衛府そして
宮内省へと転々とします。また宮内省は宮内庁に
なっていきます。
禁衛府(Imperial Police Guard)は、昭和20年9月10日から昭和21年3月31日に
かけて僅か半年間だけ存在した敗戦期の混乱の仇花のような組織です。宮内省
(現・宮内庁)に置かれた機関で禁衛府官制(昭和20年皇室令第22号)よって設
置されました。その目的は、皇族の警護と皇室御用地を範囲とした警察・消防など
である。徽章は菊花紋章を桜葉が囲む意匠となっていました。禁衛府の前身は
宮内省警衛局皇宮警察部と陸軍の近衛師団です。敗戦までは両者が宮城警備の
任についていましたが、連合国による軍備解体の影響は近衛師団にも及んだ為で
す。これは第一次世界大戦後にドイツの再軍備に警察軍が下地となった経緯があ
る為で近衛師団の組織が温存されることが日本の再軍備に結びつくのではないか
という危惧が拭えない為、近衛師団そのものが解体され新しく禁衛府として皇室等
の警護の警察組織が新たに作られました。
禁衛府は皇宮警察部と皇宮衛士総隊に分かれ、前者は皇宮警察より後者は
主に近衛師団から選抜した精鋭をもって充てられました。衛士教育機関として
臨時皇宮衛士教習所が旧近衛騎兵連隊兵舎内に設けられました。しかし設立
の翌年3月末をもって禁衛府は廃止されました。皇宮警察は宮内省皇宮警察
署に改組されました。昭和22年1月1日に警視庁皇宮警察部となり、その後改
組に移管をかさねて現在の警察庁皇宮警察本部に至ります。上の写真は珍し
い発足間もない皇宮衛士総隊(制服から旧近衛聯隊の将兵と判る)の衛士達
の整列風景です。
旧禁衛府庁舎(現東京国立近代美術館工芸館)です。
村主 皇宮警手部長は昭和21年の年末に依願退職して
おりますが、同じ年の昭和21年の3月までの辞令は禁衛
府だったのが、再び宮内省に戻っています。
村主 皇宮警手部長が約10年間勤務し警護していた
と思われる京都御所です。因みに禁衛府では、皇宮
警察部の中に警務課、警衛課、消防課、第一分遣所
第二分遣所、赤坂分遣所、京都警務課の七部門があ
りこの内の京都警務課に所属されていました。







藤沼 庄平 元東京府知事
      ・警視総監の自筆二行書




昭和15年の秋に藤沼 庄平 警視総監が
自筆でしたためた漢詩の作品です。
この方は大正〜昭和時代の戦前戦後に活躍
された内務官僚から政治家に転じた方です。

 ◆ 藤沼 庄平 元東京府知事・警視総監 ◆


明治16年2月17日生、栃木県出身
東京帝大卒


          (略 歴)

明治42年 内務省入省
大正12年 茨城県知事
大正13年 内務省警保局長
昭和3年  衆議院議員
昭和7年  東京府知事(第28代)
        兼警視総監
昭和8年  貴族院議員
昭和11年 内閣書記官長
       大日本武徳会理事長
昭和21年 東京都長官(第4代)
       兼警視総監、枢密顧問官
昭和22年 GHQにより公職追放
昭和26年 ニッポン放送顧問
   
昭和37年1月2日 逝去(享年78歳)








岩越 恒一 陸軍中将工兵監の
       自筆 七言対句 めくり







          ◆ 岩越 恒一 陸軍中将 ◆


 陸軍中将勲一等功四級
 明治11年12月18日生、大阪府出身
 士候12期、陸大24期、工兵科


                (略 歴)


明治31年9月      士官候補生
明治33年11月21日  陸軍士官学校卒業
明治34年6月25日   任陸軍工兵少尉、工兵第3大隊附
明治36年12月     任陸軍工兵中尉
明治38年6月      任陸軍工兵大尉
明治39年8月      陸軍士官学校教官
明治42年12月25日  陸軍大学校入校
大正1年11月25日   陸軍大学校卒業
大正2年6月       陸軍省軍務局附勤務
大正2年10月      陸軍省軍務局課員
大正4年6月      任陸軍工兵少佐、電信隊附
大正5年5月       交通兵団司令部員
大正5年11月      陸軍大学校教官
大正7年7月       任陸軍工兵中佐
大正10年12月27日  臨時鉄道聯隊長
大正11年8月15日   任陸軍工兵大佐、参謀本部通信課長
大正12年9月      関東戒厳司令部附
大正13年7月      欧米出張
大正15年3月2日    電信第2聯隊長
昭和2年7月26日    任陸軍少将、佐世保要塞司令官
昭和3年8月10日    陸軍通信学校長
昭和4年8月1日     陸軍工兵学校長
昭和6年8月1日     陸軍砲工学校長
昭和7年4月11日    任陸軍中将
昭和8年8月1日     工兵監
昭和10年3月15日   第3師団長
昭和11年3月23日   参謀本部附
昭和11年4月2日    東京警備司令官兼東部防衛司令官
              兼戒厳司令官
昭和11年7月10日   勲一等旭日大綬章
昭和12年8月2日     待 命
昭和12年9月1日      予備役

昭和20年10月30日    逝 去








2.26事件で暗殺された渡邊 錠太郎 陸軍大将
 の大佐・少将時代に所持されていた古い名刺十三点




古い戦前の軍人の名刺が13点です。記載から2.26事件で
暗殺された渡邊 錠太郎 陸軍大将の大佐から少将時代
に渡されたものと推測されます。
渡邊閣下の大佐時代は大正9年から11年で
オランダ公使館附陸軍武官をされています。
少将昇進後は歩兵第二十九旅団長に参謀
本部第四部長をされておられます。
     ◆ 渡邊 錠太郎 陸軍大将 ◆

 明治7年4月16日生、愛知県小牧町出身
 士候八期、陸大十七期(首席)
 陸軍大将勲一等功三級

        <略 歴>

明治27年 陸軍士官学校入校
明治29年 陸軍士官学校卒
明治30年 任陸軍歩兵少尉、歩兵第十九聯隊附
明治33年 任陸軍大尉、陸軍大学校入学
明治36年 同大学校卒業
明治37年 日露戦争に従軍・負傷、大本営参謀
明治38年 山県有朋元帥の副官
明治39年 清国出張
明治40年 ドイツ駐在
明治41年 任陸軍少佐
明治42年 ドイツ大使館付武官補佐官
明治43年 参謀本部勤務
明治43年 山縣元帥副官
大正 2年 任陸軍中佐
大正 4年 歩兵第三連隊付
大正 5年 参謀本部課長
大正 6年 任陸軍大佐
大正 7年 オランダ公使館付武官
大正 9年 任陸軍少将、歩兵第二十九旅団長
大正11年 参謀本部第四部長
大正14年 任陸軍中将、陸軍大学校校長
昭和元年 第七師団長
昭和 4年 陸軍航空本部長
昭和 5年 台湾軍司令官
昭和 6年 任陸軍大将、軍事参議官兼航空本部長
昭和10年 陸軍教育総監
昭和11年 二・二六事件で暗殺される(享年61歳)
       勲一等旭日桐花大綬章
 
 


暗殺された閣下は気丈にも拳銃で応戦されました。
しかし多勢に無勢で軽機関銃で撃たれた足は膝か
ら皮一枚で止まっていたと謂います。全身に43発も
の銃弾を浴びて殺された凄惨な現場の画像です。
暗殺現場となった杉並の邸宅は取り壊され
ましたが、一部が再現され杉並区立郷土博
物館で限定で特別展が平成21年に行なわ
れておりました。
閣下の次女で当時、暗殺を目撃された
渡辺和子さんはノートルダム清心学園
の理事長をされております。渡辺和子
理事長の画像をクリックするとノートル
ダム清心学園のサイトが開きます。

ベルリンから渡辺閣下に送られたエンタイヤです。送り主は後の陸軍軍醫少将
の四十宮 龍蔵 氏です。







郷土・北海道の複製・赤紙セット
          (臨時召集令状) 




















 



































近衛略帽章です。非常に良い状態です。









ドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九五式軽戦車ハ号
です。戦車第七連隊(フィリッピン)仕様。

手前は同じスケールのドラゴンのプラモデル模型の方です。





同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号
です。戦車第九連隊(サイパン)仕様。








小さいのは食玩の144分1スケールのチハ(バトルタンクコレクション)









ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!