旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_7















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








精巧手作り真鍮製四分の一スケール              


     九 七 式 自 動 砲

(二十粍対戦車半自動ライフル)




新しく製作していただいた九七式自動砲です。2年前に製作された
同作品を見て黒塗りの四分の一スケールの作品です。さすがに大
物で重量だけでも1.5kg1.5kg以上あります。
前後運搬具を取り付け防弾盾に特別に防弾盾嚢に弾倉嚢を作って
いただきました。
また本作品はダミーを排莢できる仕掛けになって
います。旧作品とも少し違う…世界に一つの真鍮手作りの芸術品だ
と思います。目の前にすると兵器のミニチュアと謂うより芸術作品と
しか思えない見事さで美しい出来栄えです。


これまでの製作していただきたモデルと比べても一段と大きい
事が一目瞭然です。しかし余りに見事で惚れ惚れします。






























































組み立て前の分解され黒塗りされた状態です。


本作品の前に2年前、唯一製作された九七式自動砲です。
こちらは黒塗りではありませんが真鍮のオリジナルの色が
美しく…毎度、どちらにすべきか悩みます。



製作者のbrassww2006様の作成動画です。







李王妃 方子女王 殿下の直筆書額
(婚前は、梨本宮 方子女王 殿下)




戦後に方子妃殿下が記載されたものです。



誂えたオリジナルの収納箱に入っています。
敗戦後に離別し日本に残る選択肢もあった
筈なのに日本と朝鮮の懸け橋にならんと敢
えていばらの道を選択された方子妃殿下の
女王時代の写真です。
旧皇族・梨本宮家の御一家です。一番左の方が方子女王殿下です。

昭和45年、李垠と死別した後も韓国に帰化した方子妃殿下は
李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかっ
た障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)の支援に取
り組ました。知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校
である「慈恵学校」を設立します。因みにこの"明暉"は李垠の
"慈恵"は方子様自身のそれぞれの雅号であります。閉鎖的で
特に先進国で宗主国たる日本にコンプレックスを強く抱く韓国
社会であっても…方子様の長く地道な努力と尽力は韓国国内
でもやがて好意的に受け止められてやがてやっとその功績が
認められ昭和56年に韓国政府から”牡丹勲章”が授与されまし
た。また敗戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡っ
て様々な事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦
人会”芙蓉会”の初代名誉会長を勤められました。平成元年4月
30日に逝去され享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の
準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王殿下御
夫妻が参列されました。後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)が追
贈されております。まさにその生き様は”日朝の懸け橋”たらん
と身を投じた流天の女王そのもので…頭が下がる想いが致しま
す。




旧皇族の梨本宮家の御家紋です。


これは書画と一緒にヤフオクに出品されていた旧梨本宮家の
カフスボタンです。恐らく一緒に一括りで出てきたものと推察
しますが…高額になったので入手を諦めました。

18Kで梨本宮家の家紋のカフスボタンになっています。



下は方子妃殿下が最期の住まいとされた韓国の昌徳宮です。
現在は世界遺産にも登録され朝鮮時代の宮殿の中で王が最も
長く住んだ王宮だそうです。日本統治が行きとどき文化保護が
篤くなされていましたが、愚かな事に南北で民族が分断して朝鮮
戦争を始めた為、多くの他の王宮等が焼失し唯一、ここだけが昔
の面影を残しています。日本に感謝しなければいけませんね。
下が楽善斎といって後宮の処所として建てられ、王の死後に
王の妾や女官などが残りの人生を送っていたといいます。朝鮮
の宗主国である大日本帝國の皇族・梨本宮様から最後の朝鮮
の皇太子である李垠に嫁いだ方子女王殿下がふざけた事にこ
んな場所に閉じ込められ晩年を過ごした場所でもあります。







明治の陸軍一等卒の傷痍軍人(公傷)の所持品
 (軍隊手帳・傷痍軍人手帳・軍人傷痍記章・傷痍軍人証
  (戦前)・戦傷病者認定証(戦後)・戦傷病者乗車引換券)

 
   〜明治・大正・昭和を生きた傷痍軍人の遺品〜




明治37年7月に第八師団歩兵第三十二聯隊に所属する
兵士として公傷を負い兵役を免除される。以来、戦前・戦
後を傷痍軍人として過ごされた山形の方です。
平成の御代になる前に他界されているようですが
現在、存命であれば130歳です(明治14年生)。
障害の程度も無く受傷罹病も第七項症の最も軽症であります。この
もっとも軽い第七項症がどの程度かと謂えば『一側示指乃至小指ヲ
全ク失ヒタルモノ』という程度です。かの海軍の聨合艦隊司令長官の
山本 五十六 元帥海軍大将は、日本海々戦で左手指を2本を失った
がこちらも同様に第七項症でこちらの加藤 芳蔵 陸軍一等卒と同じ
程度となる。但し元帥の場合は戦闘による受傷なので同じ第七項症
でも公傷(乙種)でなく甲種(戦傷)となります。
右上が戦前の陸軍省が発行した傷痍軍人証で左上が
戦後に山形県の方で発行した戦傷病者認定票です。
昭和39年6月の発行のものです。さすがに戦後も現在
ではこの戦後の認定票も見掛ける事がありません。


軍人傷痍記章の乙種の公傷の方です。古色がつくと金も銀も色では
判別がつかなくなりますが、裏を見れば戦傷と公傷と区別できます。
現在であればどちらでも余り大差なく感じる事でしょうが、当時の感覚では戦傷
と公傷では非常に大きな差異があり…特にこう記載して区別しておりました。…
”甲種軍人傷痍記章ハ戦闘又ハ戦闘ニ準ズベキ公務ノ為、乙種軍人傷痍記章
ハ普通公務ノ為傷痍ヲ受ケ又ハ疾病ニ罹リタル者ニコレヲ授与ス”…やはり名誉
の負傷にも甲乙丙と色々と背景の事情によっても大きく変わってくるようです。
同じ傷でも戦と公の違いは甲・乙、金・銀の違いで
戦前は明らかな待遇や扱いの差異があったことは
明白だと思います。

戦前と戦後…傷痍軍人を支えた支援はどちらが篤かったのか
定かではありませんが、見守る目は明らかに戦前の方が感謝
され一定の処遇をなされたものと思われます。


遠方へ旅に出る際は事前に申請したようで封筒の宛名の書き方
申請書の記載の仕方などが書かれたガリ版刷りの用紙です。

現在では無く…戦前のものと思われますが軍人傷痍記章を
佩用しているだけで無料で乗車できる私鉄(日本および外地
の)を書き出したガリ版刷りの紙です。
身体障害者の方もそうですが傷痍軍人も主な交通機関は
無料(公費負担)で乗る事ができます。





明治の古い旧型の軍隊手帖です。



明治35年(1902年)に韓国駐剳しています。
現在より109年前の事で本当に古い歴史とな
ってしまっています。
歩兵第三十二聯隊は韓国駐剳の後、日露戦争
に従軍しますが…この方は従軍しなかったようで
す。帰国後、秋田から山形へ聯隊は転営しますが
山形で公傷を受傷したようです。







高山 公通 陸軍中将 自筆
       茶掛用一行書 めくり







   ◆ 陸軍中将 功四級 高山 公通 ◆


 歩兵科 士官生徒11 陸大13
 鹿児島県出身 士族
 慶応3年8月8日生

          ( 略 歴 )

明治22年7月26日  陸軍士官学校卒業
             任陸軍歩兵少尉
             歩兵第二十三聯隊附
明治25年12月     任陸軍歩兵中尉
明治29年12月     陸軍大学校入校
明治30年4月      任陸軍歩兵大尉
明治32年12月21日  陸軍大学校卒業
明治33年5月      第12師団参謀
明治35年3月      清国差遣(貴州駐在)
明治35年11月     任陸軍歩兵少佐
明治37年2月     大本営参謀
明治37年6月     第3軍司令部附
明治37年10月    歩兵第四十八聯隊大隊長
明治38年3月12日  歩兵第三十二聯隊長
明治38年6月17日  後備混成第八旅団参謀
明治39年3月1日   関東総督府附
明治41年9月12日  第四師団参謀長
明治41年12月21日 任陸軍歩兵大佐
明治45年1月19日  奉天特務機関長
             (〜大正1年9月2日)
大正1年9月28日   歩兵第二聯隊長
大正3年8月8日    任陸軍少将
             歩兵第二十五旅団長
大正5年8月18日   関東都督府参謀長
大正7年7月24日   任陸軍中将
             独立守備隊司令官
大正8年7月25日   第十八師団長
大正11年8月15日     待 命
大正12年3月23日     予備役
昭和15年8月28日       歿


関東國粹会会長を務めた。







市瀬 源助 陸軍中将 自筆 三行書 二点





      ◆ 市瀬 源助 陸軍中将 ◆


 騎兵科
 士候13 陸大24
 長野県出身
 明治10年1月5日生

           (略 歴)


明治34年11月22日  陸軍士官学校卒業
明治35年6月23日   任陸軍騎兵少尉
明治42年12月25日  陸軍大学校入校
大正1年11月25日   陸軍大学校卒業
大正8年12月25日   シンガポール駐在
大正12年8月6日    任陸軍騎兵大佐
              近衛騎兵聯隊長
大正15年3月2日    陸軍省軍務局騎兵課長
大正15年10月1日   陸軍省軍務局馬政課長
昭和4年3月16日    任陸軍少将
              陸軍軍馬補充部附
昭和5年12月22日   陸軍騎兵学校長
昭和7年4月11日    騎兵第三旅団長
昭和8年3月18日    任陸軍中将
                 待 命
昭和8年3月30日       予備役
昭和34年6月6日         歿









木下 宇三郎 陸軍中将 自筆の書





    ◆ 木下 宇三郎 陸軍中将 ◆


 慶応1年9月27日生、熊本県出身
 砲兵科、士官生徒9、陸大11期


           ≪略 歴≫


明治17年9月      陸軍士官学校入校
明治20年7月21日   任陸軍砲兵少尉
明治25年12月      陸軍大学校入校
明治27年7月24日    陸軍大学校中退
明治29年2月29日    陸軍大学校復校
明治30年12月13日   陸軍大学校卒業
明治43年10月1日    野砲兵第二十四聯隊長
明治45年1月28日    第十二師団参謀長
大正2年7月3日     任陸軍少将
              台湾総督府陸軍参謀長
大正5年1月21日    野戦砲兵第二旅団長
大正5年8月18日    陸軍砲工学校長
大正6年8月6日     任陸軍中将
               野砲兵監
大正8年4月15日     教育総監部附
大正8年8月26日     第十二師団長
大正10年7月20日    予 備 役

昭和21年1月27日      歿








明治天皇の侍従長 徳大寺 実則 公爵の肉筆短冊






                 ◆ 徳大寺 実則 公爵 ◆

天保10年12月6日 - 大正8年6月4日。幕末から明治期〜大正まで活躍した
公卿・華族であり官僚です。長く明治天皇の侍従長でした。徳大寺公純の長男
で西園寺公望の兄。国事御用掛,議奏にすすみますが尊攘派として活動し,文久
3年に罷免されます。維新後,宮内省に出仕し,明治天皇の侍従長をながくつとめ
ました。明治24年に内大臣。貴族院議員・公爵。大正8年6月4日に81歳で死去。


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徳大寺公爵の勲記を紹介したページが開き
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マニラから引揚で陸軍兵長の兵食を出す事を停止した証明書です。
昭和20年11月22日に日附で関東上陸地支局長と公印があります。
もう一枚は礼状で昭和18年3月で出征の際に見送り等に来られた
来客へ出したものでしょう。無事にフィリッピンより復員され2年半余
りの軍隊生活より解放された事が判ります。
















ドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九五式軽戦車ハ号
です。戦車第七連隊(フィリッピン)仕様。

手前は同じスケールのドラゴンのプラモデル模型の方です。





同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号
です。戦車第九連隊(サイパン)仕様。








小さいのは食玩の144分1スケールのチハ(バトルタンクコレクション)





以下、私がペリリュー島慰霊に出掛けて撮影した現地で擱座
した九五式軽戦車の残骸です。サイパンの戦車と謂い…想い
だすと身につまされる…鉄の棺桶です。
砲塔は、吹飛ばされてありません。正面の
車載機銃の銃眼があります。

両側のキャタビラは、しっかり残っています。恐らく
砲塔を打ち抜かれ内部で爆破したのでしょう。底も
抜けています。
戦車の後部に搭載されていた予備のキャタビラ
が妙に新しいのが印象的です。
車載機銃の搭載部分を内部より撮影した物です。
正面にあるライトです。内部に電球は、割れていますが
金属とフィラメント部分が残存しています。
ぶれてしまい掲載しませんでしたが、車載機銃
の右側部分の内部に35o戦車砲弾を搭載した
砲弾ラックがありました。

米軍が上陸を開始して9時間後、ゆっくりと地歩を固めつつある中、
中川大佐は反撃を命令。日本軍には、虎の子の戦車が17輌、配備
されていた。この虎の子の戦車部隊は、中崎に待機していて、反撃
命令が出るや海軍飛行場を横切り、天山の麓に終結し、午後4時30
分に海側の米軍に向かって出撃を開始する。戦車の上部にロープが
張り巡らし、歩兵は、これに掴まり跨って進撃した。何と1輌に2個分
隊が取り付き斬込隊として米軍陣地に突入しました。しかし、米軍は
各種砲などの重火器とてM4シャーマン戦車を浜辺に陸揚げした後で
した。この中に17輌の戦車部隊と斬込隊が突入しました。対戦車砲
やM4シャーマン戦車の火砲によって火達磨となりながらなだれ込む
様に米陣地に突入し米軍を大混乱に陥れたものの、戦車は悉く撃破
され斬込隊の反撃も成功しませんでした。




ペリリュー島でもう一つピットロードから完成品モデル
が発売されました。米軍のLVTA1(水陸両用戦車)で
す。







実際に現地のペリリュー島慰霊で訪問の際に
撮影した日本軍により撃破された米軍水陸両
用戦車(LVTA1)の写真です。

日本軍の戦車の約5倍の威力を持つと
言われた水陸両用戦車(LVTA1)。
昭和19年9月15日AM5:30、米海兵第一師団は、
猛烈な砲爆撃の掩護を中、約300輌の水陸両用
戦車に分乗し西浜に迫った。日本側がサンゴ礁と
海岸線の中間に敷設した機雷の為、米軍は一旦
進撃を停止しましたが、残存のLVTを集合し再統
制して煙幕を張り、それにに乗じて再び上陸を決
行しました。
西浜北部(西地区)には、富田大隊の635名が陣取り、南部(南地区)には、
千明大隊の750名が布陣していました。いずれも関東軍最強と言われた現役
兵で、20〜23歳の戦意も士気も高い甲種兵でありました。そこに米軍上陸部
隊の二個師団約4万2千名が襲来しました。日本軍側の各陣地は、一個小隊
の守備兵が配置されていただけで、各陣地の正面に米軍は、一個大隊約千
名を最小単位として攻撃を開始しました。水際の日本側守備隊は、米上陸部
隊を充分に引きつけた上で、天山々上や中腹の砲兵陣地からの砲撃と共に
米軍を次々に撃破し、無敵関東軍の精強現役部隊の意地を大いに示しました
同、千明大隊の正面に来襲した米軍の損害は、上陸用舟艇60数隻、LVT
A1が30両、人員約千名でありました。西地区、富田大隊の正面に上陸した海
兵隊も損害は、約1750名に達しました。しかし段々に物量に勝る米軍は、後
続で上陸した米軍部隊との戦闘で日本軍は、消耗し個別撃破され分散する憂
き目と相成りました。米軍は、9月15日のうちに飛行場南端まで進軍しました。


この撃破されたLVTA1の前には、米軍による捕虜収容所の
フェンス跡が残っていました。

上の2枚の画像は、N.O様が提供して下さいました。



おまけに米軍が破壊されたシリーズで掲載します。
以下もペリリュー島で日本軍が米軍のシャーマン
戦車を撃破したものとその下は撃墜した米海軍の
艦載機のグラマンF6Fヘルキャットです。
このM4シャーマン戦車は、8月18日その下の画像
の撃墜されたF6Fヘルキャット搭乗員を助ける為、
近ずいたそうですが、上記のような地中から突き出
した日本軍の砲により撃破され転倒したそうです。
米軍の戦車兵は、全員戦死したそうです(一部の
記載では、日本軍の地雷を踏んで各坐した事にな
っていますが、現実には砲でやられています。


今まで日本軍の悲惨な姿しか見てこなかった
私には、こうした米軍機や上記のような米戦車
が撃破されている姿を見ると、とても不謹慎な
事ですが急に嬉しくなりました。
米海軍艦載機のグラマンF6Fヘルキャット
の撃墜された残骸です。








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!