旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_8














Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








歩兵第二十二旅団長 青山 寛 陸軍少将の四五式軍衣(夏服)




明るいカーキ色で上質なサマーウールです。虫食い多いのが
残念ですが約90年前の夏服である事を考えると保存状態も
良いものと考えた方が良いと思います。
高級将校御用達の”ゼンカイ”製です。襟カラーに
”アオ山”の刺繍があります。


        ◆ 青山 寛 陸軍少将 ◆


 明治8年9月19日生、愛知県出身
 歩兵科出身、士候8

           (略 歴)

 明治27年12月   士官候補生
 明治29年11月26日 陸軍士官学校卒業
 明治30年6月28日 陸軍歩兵少尉
 大正9年8月10日  近衛歩兵第4聯隊長
 大正13年2月4日  陸軍少将・第10師団司令部附
 大正14年4月13日 歩兵第22旅団長
 昭和3年3月8日   待 命
 昭和3年3月29日  予 備 役



陸軍の大正期の着用者が分かる軍服は珍しいです。
将官なので襟の鍬形(兵科章)はありません(鍬形をつけた形跡もありません)。
肩章止めは健在です。昭和3年に待命・予備役になられております
ので、青山閣下は立襟時代の陸軍しか経験がありません。後の九八
式の襟章時代の軍服は着用しなかったものと思われます。







戦時資料:陸軍省の立ち入り禁止の赤看板(昭和14年)




珍しい第二次世界大戦の勃発前の立ち入り禁止と撮影等の
禁止を記載した看板です。昭和14年の12月26日の記載があ
ります。今より72年前の立て看板です。赤色の看板だから当
時は山中や草原にあっても随分と目立った看板だったと想像
します。
敗戦から70有余年…よく残ったものです。殆どが燃やされて無くなった
ものと思います。こうして生き残って存在しているのが不思議です。

よく見ると何度か塗りなおされ年月日と海軍省の文字が透けて見えます。
この軍用地または軍指定の保護用地が時により陸軍省であったり、海軍
省であったり替わった可能性があるようです。いずれにしても面白いもの
です。軍港や飛行場は全景を見える所では陸軍や海軍によってこのよう
な立て看板で規制され…むやみに写真撮影すると憲兵隊や警察に連行さ
れ痛くもない腹を探られます。軍港や飛行場等の機密区域を削られて見え
ないように加工されたネガを返却されるのがオチです。










清朝皇族で男装の麗人と謳われた
 川島芳子の兄・粛親王の第七王子
  金壁東こと愛新覚羅憲杢の直筆の色紙




金壁東こと愛新覚羅憲杢と交遊を持った元陸軍将校旧蔵品
の色紙です。金壁東は清朝皇族の粛親王善耆の第七子で
男装の麗人で有名な川島芳子の兄にあたります。
粛親王善耆の父親である粛親王 愛新覚羅善耆は八大親王と
呼ばれる親王の中でも筆頭格の由緒ある家柄。清朝初代皇帝
ヌルハチから数えて十代目。二代皇帝ホンタイジの長男の子孫
で代々粛親王を継承してきた親王家です。その第七王子である
愛新覚羅憲奎(金壁東)は、新京特別市長・黒龍江省長・満州
映画協会理事長などを歴任し、晩年は大連に居を構えました。


    ◆金壁東(愛新覚羅憲杢)◆

明治29年(1896年)〜昭和15年(1940年)

大正5年の第二次満蒙独立運動に父の名代
として参加。 昭和6年の満洲事変勃発では
皇族出身の吉林軍閥煕洽と関東軍の連絡役
をつとめ、東北交通委員会副委員長、吉林鉄
路守備隊司令になる。満洲国建国後は新京
特別市長、黒龍江省長、満州映画協会理事
長などを歴任。昭和15年に死去。
金壁東の妹で肅親王の十七名いる王女の
第十四王女が上にある男装の麗人・川島
芳子です。日本のマスコミを騒がした川島
芳子は共に日本を介して清朝、清王朝の
復権を目指しておりました。
画像は金壁東の大連星ヶ浦に構えた屋敷です。後に星海賓館の
レストランとして使用され、ホテル側の説明には誤って恭親王府と
記されていたが、現在はホテルとレストランは営業を停止。(尚、
近所に恭親王溥偉の屋敷もありましたが現在は取り壊されて存在
しません)。今は観光コースになっている金壁東の別荘(別宅)で
すが住所は、大連市沙河口区西村街61号。この旧屋敷は支那の
改革解放後に周恩来などの要人を接待するホテルとして使われた
といいます。
金壁東の父、粛親王 愛新覚羅善耆は、清朝末期に御前大臣、民政大臣
理藩大臣などを歴任し北京には約3万uの土地を所有していました。清朝
滅亡後は、清朝復興、立憲君主制を主張するようになるも北京を追われ、
日本の援助を求めて、委任統治していた旅順へ一族で移住しました。大正
11年に旅順で没し、北京の粛親王家墓所へ埋葬されております。しかしこ
の方も凄い方で正室1名、側室4名との間に王子21名、王女17名の38名の
子をもうけております。








戦前資料:野村 益三 子爵の紙物資料
            (宮内省からの手紙等)




父上の野村 靖 子爵は明治42年1月24日に69歳で亡くなられて
おりますがその一年前の加療静養中の頃に送られた手紙や没後
間も無くに御夫人へ送られた手紙。大正11年に野村 益三 子爵
に送られた手紙。大正9年に欧州航路の鎌倉丸からシンガポール
の消印で送られた友人からの手紙など4点です。以前、貴族院の
身分証(IDカード)なども入手しましたが、これと別な所より入手し
た品ですので…遺族が亡くなり業者等の手に渡り全国に四散した
ものと思われます。…長州藩の足軽の子から倒幕と維新で身を立
てて子爵になり内務大臣〜逓信大臣…最後は枢密顧問官に上り
つめた野村 靖 子爵の品々です。明治天皇両陛下の信任も厚く
お二方の内親王の御用掛長を拝命された方です。


他界される一年前の明治41年2月に送られた手紙です。
この一か月前に正二位に叙せられ旭日桐花大授章を受章
しております。
明治天皇の皇女である両内親王(富美宮様と泰宮様)の御用掛長を
拝命されていた父上の野村 靖 子爵への宮内大臣からの手紙です。


明治天皇皇后両陛下の信任がとても厚かったのでしょう
1月24日に身罷られてすぐの2月3日にお手紙です。




立身出世を遂げた父君と違い…2代目の野村 益三 子爵は余りその功績を
聞きませんが…戦前は、貴族議員で北支開発(株)監事や社団法人南洋水
産協会々長などを歴任されておられました。


1920年のシンガポールの消印があり神戸での受領印があります。
日本郵船の鎌倉丸から東京の野村子爵へ送られた手紙です。


Viscount Nomura ( 野村 子爵 ) Tokyo Japan とあります。


1920年(大正9年、皇紀2580年)12月8日の鎌倉丸の
ディナーのメニューがスタンプされてる便箋件手紙です。
鎌倉丸は大正時代から昭和初期までの欧州航路で活躍
した客船です。


以前に入手した野村子爵の貴族院の身分証
(IDカード)です。
よくも残っていたものと感心しました。中々、
この手合いの品は出てこない珍しいものだ
と思います。
この野村 益三 子爵は防長倶楽部理事長として
有名な方ですが、父上の野村 靖 子爵も長州藩
出身の官僚で政治家としても有名な方で神奈川
県令、駅逓総監、逓信次官を歴任。駐仏公使な
どを経て、第二次伊藤内閣内相、第二次松方
内閣逓相等を歴任し…晩年は皇室の養育掛長
をつとめられた方としても有名です。
上の写真は閣僚を歴任した父上の
野村 靖 子爵です。
             ↑
現在は山口県人会として存在する。
財団法人 防長倶楽部の公式サイトです。
上のバーナーをクリックすると開きます。


野村子爵のものではありませんが
珍しいものなので一緒に紹介します。
現在の参議院の前身となる貴族院の議員
徽章となります。非常に珍しいものです。







高橋 於菟丸 陸軍中将 自筆の一行書






        ◆ 高橋 於菟丸 陸軍中将 ◆


 明治4年3月23日生、滋賀県出身
 歩兵科、士候5期、陸大16期


               (略 歴)

 明治24年12月     士官候補生
 明治25年11月     陸軍士官学校入校
 明治27年7月27日   陸軍士官学校卒業
 明治27年9月18日   任陸軍歩兵少尉
 明治32年12月13日  陸軍大学校入校
 明治35年11月28日  陸軍大学校卒業
 明治44年8月      任陸軍中佐、歩兵第二十五聯隊附
 大正2年10月5日    歩兵第二十三聯隊長
 大正6年5月2日     第三師団参謀長
 大正7年7月24日    任陸軍少将、歩兵第二旅団長
 大正9年8月10日    第二十五師団司令部附
 大正10年3月17日   第十五師団留守司令官
 大正11年8月15日   第十五師団司令部附
 大正12年8月6日    任陸軍中将、待 命
 大正12年9月1日      予 備 役








井出 治 陸軍主計総監 自筆 めくり






     ◆ 井出 治 陸軍主計総監 ◆ 


 岡山県出身、功四級


           (略 歴)

 陸軍工兵中尉より転科
 ドイツ駐在

 明治39年10月10日 第9師団経理部長
 明治41年 6 月 6日 陸軍省経理局建築課長
 明治43年11月30日 陸軍主計監
              第18師団経理部長
 大正 2 年 5月 8 日 近衛師団経理部長
 大正 3 年 5月 11日 朝鮮駐箚軍経理部長
 大正 5 年 8月 18日   待 命
 大正 6 年 1月 17日 陸軍主計総監
               予 備 役








両角 三郎 陸軍中将 自筆の書




両角 三郎 閣下は、父親が会津藩士で禄百石を食み、祐筆を勤めた両角衛門。
陸軍教導団を経て陸軍士官学校を卒業(一期)。日清戦争、日露戦争に従軍し、
歩兵第六十連隊長、近衛歩兵第四連隊長を経て、大正5年8月に少将へ昇進し、
台湾第二守備隊司令官、歩兵第十八旅団長を歴任しました。大正10年6月に陸
軍中将へ昇進と同時に待命となり、同年10月予備役に編入されています。
親族には、義兄の下平 英太郎(海軍少将・稚松会副会長)
そして女婿に飯倉 貞造(海軍少将・海兵37期)、また女婿
に小原 直良(陸軍将校)がおります。
    ◆ 両角 三郎 陸軍中将 ◆


 慶応2年11月生、青森県出身

 歩兵科、士候1

         ≪略 歴≫

明治23年 7月26日 陸軍士官学校卒業

明治24年 3月26日 任陸軍歩兵少尉

大正元年 2月14日 歩兵第六十聯隊長

大正4 年 4月10日 近衛歩兵第4聯隊長

大正5 年 8月18日 任陸軍少将
       
             台湾第二守備隊司令官

大正7 年10月18日 歩兵第十八旅団長

大正10年 6月28日 任陸軍中将
        
             待 命

大正10年10月1日  予 備 役

             没年不詳

予備役後は、日本徴兵保険顧問を勤めたほか
在郷軍人会審議委員を勤めている。尚、両角は
旧会津藩所縁の高等武官で組織された稚松会
の最後の会長でした。








一枚の名刺より…




今回の名刺は、敗戦時に南方総軍参謀長を勤めて
いた沼田 多稼蔵 陸軍中将の大佐時代…歩兵第
三十九聯隊長時代のものです。昭和十三年の徐州
会戦では、この三十九聯隊を率いて支那と戦ってお
ります。南方軍参謀長だった中将は、昭和22年まで
の三年間、作業隊が全員帰還するまで敗軍の将とし
てシンガポールで、残された兵士たちに軍としての秩
序をたもさせました。そして海軍の第十艦隊司令長官
福留 繁 中将と第一南遣艦隊司令長官 柴田 海軍中
将の二人とにもセレタ軍港で使役される海軍の作業
隊の面倒を見た温情家です。昭和22年11月、戦犯容
疑で巣鴨プリズンに収監。昭和23年4月、橘丸事件で
重労働七年の判決が下るも昭和25年12月に仮釈放
されました。昭和36年11月15日に69歳で逝去されて
おります。(広島出身、陸士24期、陸大31期)







戦後日本の宇宙技術の結晶と誇り…

 H-II A ロケット 発射台付(1/400)完成品模型
         (スペース ドラゴン ウイングス)




日本が世界に誇る主力大型ロケットとして「あかつき」、「IKAROS」、
「かぐや」など多くの人工衛星を打ち上げてきたH-IIAをプラッツとドラ
ゴンの共同開発により完全新金型で完成品モデル化したものです。
日本の主力大型ロケットであるH-IIAは、日本初の純国産ロケットで
あるH-IIロケットで培われた技術をベースにして、高い信頼性と打ち
上げの低コスト化を目指して、さまざまな打ち上げ能力要求に応える
べく、5年半の歳月をかけて開発されました。
H2A ロケットは、2001年8月に初めての試験1号機の打上げに成功し
以降、月周回衛星「かぐや」、金星探査機「あかつき」、準天頂衛星初
号機「みちびき」など、さまざまな衛星を各ミッションに応じた軌道に投
入してきました。これからも日本の宇宙開発において信頼性、経済性
ともに優れた基幹ロケットとして活躍することが期待されています。
H2A 202 型と呼ばれる、左右にSRB-A 固体ロケットブースタを装備した
現在も運用中のタイプを模型で完全再現。ロケット本体はダイキャスト製
細部パーツはプラスチック製。またロケット本体だけではなく、移動発射台
(ML)付きです。今年度中には観測衛星「しずく」を搭載したH2Aの打ち上
げが予定されています。




2011年1月22日  H2B 2号機打ち上げ  こうのとり



         ↑
JAXAの公式サイトが開きます。


























ドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九五式軽戦車ハ号
です。戦車第七連隊(フィリッピン)仕様。

手前は同じスケールのドラゴンのプラモデル模型の方です。





同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号
です。戦車第九連隊(サイパン)仕様。








小さいのは食玩の144分1スケールのチハ(バトルタンクコレクション)




同じシーリーズの九五式軽戦車 ハ号 北満型 公主嶺陸軍戦車学校
仕様の三台です。








以下、私がペリリュー島慰霊に出掛けて撮影した現地で擱座
した九五式軽戦車の残骸です。サイパンの戦車と謂い…想い
だすと身につまされる…鉄の棺桶です。
砲塔は、吹飛ばされてありません。正面の
車載機銃の銃眼があります。

両側のキャタビラは、しっかり残っています。恐らく
砲塔を打ち抜かれ内部で爆破したのでしょう。底も
抜けています。
戦車の後部に搭載されていた予備のキャタビラ
が妙に新しいのが印象的です。
車載機銃の搭載部分を内部より撮影した物です。
正面にあるライトです。内部に電球は、割れていますが
金属とフィラメント部分が残存しています。
ぶれてしまい掲載しませんでしたが、車載機銃
の右側部分の内部に35o戦車砲弾を搭載した
砲弾ラックがありました。

米軍が上陸を開始して9時間後、ゆっくりと地歩を固めつつある中、
中川大佐は反撃を命令。日本軍には、虎の子の戦車が17輌、配備
されていた。この虎の子の戦車部隊は、中崎に待機していて、反撃
命令が出るや海軍飛行場を横切り、天山の麓に終結し、午後4時30
分に海側の米軍に向かって出撃を開始する。戦車の上部にロープが
張り巡らし、歩兵は、これに掴まり跨って進撃した。何と1輌に2個分
隊が取り付き斬込隊として米軍陣地に突入しました。しかし、米軍は
各種砲などの重火器とてM4シャーマン戦車を浜辺に陸揚げした後で
した。この中に17輌の戦車部隊と斬込隊が突入しました。対戦車砲
やM4シャーマン戦車の火砲によって火達磨となりながらなだれ込む
様に米陣地に突入し米軍を大混乱に陥れたものの、戦車は悉く撃破
され斬込隊の反撃も成功しませんでした。




ペリリュー島でもう一つピットロードから完成品モデル
が発売されました。米軍のLVTA1(水陸両用戦車)で
す。







実際に現地のペリリュー島慰霊で訪問の際に
撮影した日本軍により撃破された米軍水陸両
用戦車(LVTA1)の写真です。

日本軍の戦車の約5倍の威力を持つと
言われた水陸両用戦車(LVTA1)。
昭和19年9月15日AM5:30、米海兵第一師団は、
猛烈な砲爆撃の掩護を中、約300輌の水陸両用
戦車に分乗し西浜に迫った。日本側がサンゴ礁と
海岸線の中間に敷設した機雷の為、米軍は一旦
進撃を停止しましたが、残存のLVTを集合し再統
制して煙幕を張り、それにに乗じて再び上陸を決
行しました。
西浜北部(西地区)には、富田大隊の635名が陣取り、南部(南地区)には、
千明大隊の750名が布陣していました。いずれも関東軍最強と言われた現役
兵で、20〜23歳の戦意も士気も高い甲種兵でありました。そこに米軍上陸部
隊の二個師団約4万2千名が襲来しました。日本軍側の各陣地は、一個小隊
の守備兵が配置されていただけで、各陣地の正面に米軍は、一個大隊約千
名を最小単位として攻撃を開始しました。水際の日本側守備隊は、米上陸部
隊を充分に引きつけた上で、天山々上や中腹の砲兵陣地からの砲撃と共に
米軍を次々に撃破し、無敵関東軍の精強現役部隊の意地を大いに示しました
同、千明大隊の正面に来襲した米軍の損害は、上陸用舟艇60数隻、LVT
A1が30両、人員約千名でありました。西地区、富田大隊の正面に上陸した海
兵隊も損害は、約1750名に達しました。しかし段々に物量に勝る米軍は、後
続で上陸した米軍部隊との戦闘で日本軍は、消耗し個別撃破され分散する憂
き目と相成りました。米軍は、9月15日のうちに飛行場南端まで進軍しました。


この撃破されたLVTA1の前には、米軍による捕虜収容所の
フェンス跡が残っていました。

上の2枚の画像は、N.O様が提供して下さいました。


おまけに米軍が破壊されたシリーズで掲載します。
以下もペリリュー島で日本軍が米軍のシャーマン
戦車を撃破したものとその下は撃墜した米海軍の
艦載機のグラマンF6Fヘルキャットです。
このM4シャーマン戦車は、8月18日その下の画像
の撃墜されたF6Fヘルキャット搭乗員を助ける為、
近ずいたそうですが、上記のような地中から突き出
した日本軍の砲により撃破され転倒したそうです。
米軍の戦車兵は、全員戦死したそうです(一部の
記載では、日本軍の地雷を踏んで各坐した事にな
っていますが、現実には砲でやられています。


今まで日本軍の悲惨な姿しか見てこなかった
私には、こうした米軍機や上記のような米戦車
が撃破されている姿を見ると、とても不謹慎な
事ですが急に嬉しくなりました。
米海軍艦載機のグラマンF6Fヘルキャット
の撃墜された残骸です。








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!