旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_9















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








精巧手作り真鍮製四分の一スケール              


日本の陸海軍で全戦域で活躍した

  
九六式軽機関銃 と 九九式軽機関銃




手前が九六式で奥の方が九九式軽機関銃です。製作者の匠の技が
見事に十一年式と並び日本を代表する軽機関銃を四分の一のスケー
ルで見事に再現して下さりました。









以下、ダイジェスト風に制作過程の一部を画像で追って見ます。
この何でもない金属の塊が…匠の手で命を吹き込まれ形あるものに変化していきます。

驚くべき大変身です。…四分の一とは謂え本物に見えます。
























この遊び心に…常に新しい試みに挑戦する姿勢…この匠の製作者様に
日本の物作りの原点と謂うか…日本人の物作りのDNAを見る想いがし
ます。大昔から伝統の技を継承し、特に明治・大正・昭和で花開いた日
本の物作り…驕らない失敗しては修正する精神と弛まぬ努力…技術革
新に脱帽します。
















戦時資料:中島飛行機身分証と自動車運転免許証(小型)




中々、あるようで出てこない品です。中島飛行機株式会社の大宮製作所の社員の
身分証明書と同人の自動車運転免許証です。この時代は現在と違い誰もが運転
免許を持っている時代ではありません。案の定、この方は予備下士官で騎兵伍長
で後備役に入っています。
中島飛行機の大宮製作所は陸軍の疾風で無く海軍向けの発動機を生産して
いました。吉見百穴には地下工場跡が残されて有名です。


戦後の時代でも今から30年前〜の昭和の末期までは、進学が難しい者の
中で自衛隊に入り将来必要な様々な免許を取得できるという考えは普通に
ありました。恵まれた時代でさえ軍と謂う組織は、そうした様々な技術を習得
させ民間に下った後も十二分に活用できる能力・技術として兵役を終えた後
も非常に重宝されました。まして戦前であれば尚更の事でした。
この方もしたで紹介しする戦車兵達と同じ騎兵科の出身です。騎兵と謂う
兵科は時代と共に馬が消えて自動車…装甲車・戦車に移行し姿形を変え
て生き残っていった兵科です。この方のように戦前に軍を辞めた方は、
上手く免許を使い仕事に活用できたでしょう。また仕事先が飛行機産業の
中枢の中島飛行機です。IDカードも昭和18年4月のものです。中島飛行機
であれば32歳の後備役召集も無かったものと思われます。これが最重要
の兵器産業の勤務で無ければ装甲車等を扱う戦車兵として再びお呼びが
掛かっても不思議ではなかったでしょう。









戦車第二聯隊の陸軍歩兵伍長
  の特殊自動車操縦技倆證明書、等




下の感状からお判りの様に独立軽装甲車大八中隊(福田 林治 歩兵大尉)
で昭和12年10月の大場鎮攻撃から12月13日の下関突入までの活躍が書
かれた珍しいものです。この上の第十九師団軽装甲車訓練所でもらった賞
状の持ち主の山崎 喜代作 一等兵の一連の所持品です。



独立軽装甲車第二中隊(藤田部隊)です。この隊長 藤田 実彦 少佐は
、後に戦車第一聯隊長を経て第125師団参謀長になられますが、敗戦時
に中共に捕えられ痩せ衰え病に伏した身体を通貨市内の
百貨店のショー
ウインドウに3日3晩展示し見世物とし肺炎で殺害した後、3週間渡り死体
を飾り更に見世物されました。この他、3000人に及ぶ日本人がありとあら
ゆる拷問と虐待・強姦・輪姦の末、目を背けたくなるような惨い殺され方を
しました。これを通化事件と呼びますが…この恐ろしい事件を起こしたのは
八路軍(中共)と新八路軍・朝鮮八路軍(朝鮮人民義勇軍)であります。我
々、日本人はとかく忘れがちですが…これ等、チャン◎ロどもやバカチ◎ン
が如何にとんでもない連中であるかを忘れてはなりません。奴等がどのよう
なぺテンを口にしてもこれに迎合する日本のマスゴミが如何なる嘘を流して
も真実を歴史から学びとって下さい。決して連中の昔から行っている嘘も永
遠と継続すれば本当になるような滅茶苦茶な事が罷り通るような事が無い
ように今を生きる日本人が学び…そして正しい真実の歴史を後世に伝えま
しょう。

威力のある小銃弾なら貫通する僅か8〜12mmの装甲に非力な
九一式6.5mm車載軽機関銃しか無かった兵装が昭和12年以降
九七式7.7mm車載重機関銃に換装されたが…この上の軽戦車
や中戦車ですら連合軍の火器の前では歯が立たない装甲でした
…この九四式軽装甲車などは中国大陸でしか通用しない兵器で
したが大陸では広く戦車代わりに使用され被害も大きいがそれな
りの戦果を上げもしました。


昭和15年2月の戦車第二聯隊の特殊自動車操縦術技量証明書
です。伍長に昇進し装甲車の操縦を覚えております。戦車第二聯
隊は…この後、大東亜戦争に至ると第五師団に配属されカムラン
湾に進出し、マレー作戦に参加します。その後…昭和17年3月に
第十五軍の戦闘序列に編入、ビルマへ転戦します。この時、軽戦
車1個小隊がペグー北方で英印軍のM3戦車と交戦し全滅してお
ります。同年8月、独立戦車第一中隊を編制しガダルカナル作戦
に参加。昭和20年4月6日、独立戦車第二旅団隷下に編入、内地
防衛の為、神奈川県戸塚に展開しそのまま敗戦を迎えています。
この山崎 伍長は、その後の敗戦までの5年間を無事に生き抜いた
ものでしょうか?







戦車第十三聯隊(滝五五〇九部隊)で
  戦死された大熊 安雄 陸軍兵長の軍隊手帳




こちらは珍しい戦車第十三聯隊(滝五五〇九部隊)で
戦死された大阪出身の兵長の軍隊手帳です。

大熊 安雄 陸軍兵長は、昭和十五年十二月 騎兵第四連隊補充隊入隊
昭和十六年三月 捜索第三十四連隊要員として大阪出発 し、九江上陸
永修縣警備。昭和十八年七月 戦車第十三連隊に転属 臨時軽装甲車
中隊編入 内蒙古厚和警備、十一月 華北秋季冀東鉄南作戦参加、同年
十二月七日 曹西庄付近の戦闘で戦死されています。

昭和十八年七月に転属した戦車第十三聯隊は漢口で昭和14年11月30日
に編成されました。母体となったのは第二・第六・第七独立軽装甲車中隊で
あります。編成後も聯隊は終始、支那大陸にあって敗戦まで全任務を大陸
だけで約6年余りを解散するまで敗戦後も戦い続けた非常に珍しい部隊で
す。聯隊は編成後から〜昭和15年2月まで中支方面における作戦の殆どに
参加します。その後、宣撫作戦・漢水作戦・予南作戦・第一次長沙作戦・
確山作戦・第二次長沙作戦など昭和17年1月まで転戦を重ねます。そして
京漢沿線地区掃討作戦・江北殲滅作戦(べん陽作戦)・浙かん作戦に参加
。昭和18年5月からは江南殲滅作戦に参加。その後は漢口から厚和に移動
して同地の警備に従事し、続いて平地泉警備に任じた。大陸打通作戦では
京漢作戦・霊員地区会戦・湘桂作戦に参加。その後は敗戦まで湖南省特別
警備に当たっています。そして敗戦後も昭和21年4月まで北京城内の警備
に任じ、中国第九二軍の要請によって中国装甲総隊に対して戦車教育を実
施します。その間、内蒙古に侵入したソ蒙軍に対し、駐蒙軍が行った居留民
を北京に引き上げる援護作戦に参加。結局、聯隊の復員完結は昭和21年5
月20日となり…敗戦から約9カ月も経過し戦後も少なからぬ戦死者を出しま
した。







戦時資料:原爆に使用された
            八木式APS−13アンテナ

   (P-51の後方警戒レーダー、
         原爆の対地距離用アンテナ)




この八木アンテナ(APS-13)は、元々は後方警戒用レーダーとして
P-51ムスタングなど米軍の戦闘機に搭載されておりましたが広島や
長崎に投下された原爆の対地測距用アンテナとしても使用されたも
のです。名前から示す通り…このレーダー(電探)のアンテナは、日本
人である
八木 秀次 博士の発明した超短波指向性アンテナを使用し
応用したものです。日本人の産んだ発明品を敵国が発明した母国より
早くに着目し兵器化し…この電波兵器であるレーダーが日本を苦しめ
全ての戦いで日本の敗因を決定づけた事は謂うまでも無い事です。
そして日本を無条件降伏に至らしめた二発の原爆にもこの技術が搭
載された皮肉さを深く考えさせられます。


ノースアメリカン P-51 ムスタング
廣島型原爆のリトルボーイ
長崎型原爆のファットマン


八木アンテナは、国電気通信工学の第一人者で当時,東京工業大学の学長でもあった八木 秀次
博士が発明した超短波指向性アンテナです。戦時中に英軍がこの技術を応用して枢軸国に先駆
けてレーダーを開発したのは有名な話です。英国ではこれを”八木アンテナ”と命名しました。日本
では開戦後に初めて占領した英領シンガポールの英軍基地でレーダーと謂う電波兵器の存在を
知る。そこには、”YAGI”の名があり皮肉にも日本の技術が欧米では非常に重要視され兵器化さ
れていたが、日本では全く歯牙にもかけられていなかった。日本が大戦中に遅ればせながら開発
に成功したレーダー(電探)は、非常に精度の低い代物であり、最後まで欧米のレベルに到達する
事が出来ませでした。
八木アンテナが我々、日本人がに再び耳にするようになったのは戦後、超短波を利用した
テレビ放送の時代が到来し、八木アンテナに再び世界の脚光が集まってからです。昭和27
年、八木アンテナ株式会社が設立され、八木 秀次 博士が初代社長に就任。翌28年2月に
はNHK東京テレビ局が、9月には初の民放となる日本テレビが本放送を開始し、多くの国民
が街頭テレビやまだ高価だった家庭の白黒テレビで力道山や鉄腕アトムなどにに夢中にな
りました。日本の高度経済成長のシンボルとして各家庭の屋根に誇らしげに掲げられた八木
アンテナは、国内だけでなく広く世界中の街にも林立し…それは、まさに20世紀を象徴する
日本の発明品の一つであると謂えます。

左上の写真は、八木アンテナを掲げる八木 博士です。右上はNHK放送博物館に展示された当時の
研究用八木・宇田アンテナです。当初は11本の導体棒で構成されていましたが、その後簡略化され
主導体棒の前後に2〜3本の反射器と導波器を置く今の形になります。






















50分の一スケール 小西社製
 
   陸軍上陸用舟艇 大発(大発動艇)




大発の模型です。敗戦までこの大発に多くの日本兵が小銃を持ち支那大陸から
東南アジアから太平洋の島々、アリューシャン諸島に至るまで上陸の際に使用
されこの小さな船から戦地に上陸を果たしました。戦争が拡大してからは鋼材
節約のため船体を木製にした大発も多く見られましたが…陸路や空路で外地に
入った一部の将兵や大きな港から大型船で降り立った将兵以外は別とし…多く
の日本兵が世話になった代表的な上陸用舟艇です。島嶼戦がメインだった南方
では本来の上陸用舟艇の用途だけでなく海上輸送や警備、連絡など様々な用
途に使われました。



  ≪大発(D型)≫
 
 =基本スペック= 

全 長

14.8 m

全 幅

3.3 m

全 高

m

重 量

9.5 t

乗 員 数

完全武装兵員70名、又は、物資11t

装 甲 ・ 武 装

備 考

トラック4台分の輸送力を持つ

機 動 力

速 度

9ノット(16km/h ・ 空 荷)
8
ノット(14 km/h ・ 満 載 時)

 エンジン

ディーゼルエンジン
60
馬力








支那大陸での大発の小発…海上は勿論、河川など水上輸送において
八面六臂の活躍をし多くの日本兵の戦場での移動を行いました。









以下は、管理人がパラオで潜って実際に撮影した各種の大発の残骸です。
パラオでは木製大発(鋼材節約のため船体を木製に変更したタイプ。特に戦
線が拡大するに連れてこうした省エネタイプが多くなりました)や合板製大発
も最もポピュラーなD型大発と共に水中廃棄されている姿を見る事が出来ま
す。撮影場所は、マリンレイクSPと言うポイントにあります。敗戦後に陸上か
ら海没廃棄処理したようです。ここだけで6隻の大発が処分されています。
最大水深は、10m以内と浅瀬にあります。大発以外にも様々な旧軍の物が
廃棄されています。現状では…D型大発一隻は、前部の解放扉が開いた状
態で、完全に残っていますが、その他の木製大発や合板製大発は…かなり
朽ち果てております。
船体の殆どは、朽ち果てて崩れていますが全部の開口部付近は、
鉱鉄製なのできれいに残っていました!鋼鉄製の大発はこのよ
うに船体が良く残っていますが…多くが木造大発や合板製大発な
ので多くが朽ち果てて原型をとどめません。
典型的なD型の大発と思われます。


鋼鉄が厚い部分は、結構残っていますが薄い部分は、かなり朽ち果てています。
発動機部分です。

船体内部です。かなり残っている方です。
内部に燃料として積まれていたドラム缶のようです。
上の残骸は、大発(D型)では無く…合板製大発です。無残な朽ち果てぶり
と捨てられた透明度の悪い沼のようなロケーションに涙が出そうになりまし
た。敗戦国の軍隊の悲惨な末路が…水中で身に沁みました…。
木製大発と明らかに違う合板製大発も身受けます。
この大発は明らかに合板製と判ります。


まさしく皇軍の墓場のようでした。

戦後60猶予年でここまで朽ち果てました。後10年で無くなる様な気がします。















ピットロード社製(1/35) 陸軍 九二式重装甲車(後期型)






ドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九五式軽戦車ハ号
です。戦車第七連隊(フィリッピン)仕様。

手前は同じスケールのドラゴンのプラモデル模型の方です。





同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号
です。戦車第九連隊(サイパン)仕様。








小さいのは食玩の144分1スケールのチハ(バトルタンクコレクション)




同じシーリーズの九五式軽戦車 ハ号 北満型 公主嶺陸軍戦車学校
仕様の三台です。







同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号
です。戦車第十四連隊(済州島)仕様の後期車台が二輌です。





以下、私がペリリュー島慰霊に出掛けて撮影した現地で擱座
した九五式軽戦車の残骸です。サイパンの戦車と謂い…想い
だすと身につまされる…鉄の棺桶です。
砲塔は、吹飛ばされてありません。正面の
車載機銃の銃眼があります。

両側のキャタビラは、しっかり残っています。恐らく
砲塔を打ち抜かれ内部で爆破したのでしょう。底も
抜けています。
戦車の後部に搭載されていた予備のキャタビラ
が妙に新しいのが印象的です。
車載機銃の搭載部分を内部より撮影した物です。
正面にあるライトです。内部に電球は、割れていますが
金属とフィラメント部分が残存しています。
ぶれてしまい掲載しませんでしたが、車載機銃
の右側部分の内部に35o戦車砲弾を搭載した
砲弾ラックがありました。

米軍が上陸を開始して9時間後、ゆっくりと地歩を固めつつある中、
中川大佐は反撃を命令。日本軍には、虎の子の戦車が17輌、配備
されていた。この虎の子の戦車部隊は、中崎に待機していて、反撃
命令が出るや海軍飛行場を横切り、天山の麓に終結し、午後4時30
分に海側の米軍に向かって出撃を開始する。戦車の上部にロープが
張り巡らし、歩兵は、これに掴まり跨って進撃した。何と1輌に2個分
隊が取り付き斬込隊として米軍陣地に突入しました。しかし、米軍は
各種砲などの重火器とてM4シャーマン戦車を浜辺に陸揚げした後で
した。この中に17輌の戦車部隊と斬込隊が突入しました。対戦車砲
やM4シャーマン戦車の火砲によって火達磨となりながらなだれ込む
様に米陣地に突入し米軍を大混乱に陥れたものの、戦車は悉く撃破
され斬込隊の反撃も成功しませんでした。




ペリリュー島でもう一つピットロードから完成品モデル
が発売されました。米軍のLVTA1(水陸両用戦車)で
す。







実際に現地のペリリュー島慰霊で訪問の際に
撮影した日本軍により撃破された米軍水陸両
用戦車(LVTA1)の写真です。

日本軍の戦車の約5倍の威力を持つと
言われた水陸両用戦車(LVTA1)。
昭和19年9月15日AM5:30、米海兵第一師団は、
猛烈な砲爆撃の掩護を中、約300輌の水陸両用
戦車に分乗し西浜に迫った。日本側がサンゴ礁と
海岸線の中間に敷設した機雷の為、米軍は一旦
進撃を停止しましたが、残存のLVTを集合し再統
制して煙幕を張り、それにに乗じて再び上陸を決
行しました。
西浜北部(西地区)には、富田大隊の635名が陣取り、南部(南地区)には、
千明大隊の750名が布陣していました。いずれも関東軍最強と言われた現役
兵で、20〜23歳の戦意も士気も高い甲種兵でありました。そこに米軍上陸部
隊の二個師団約4万2千名が襲来しました。日本軍側の各陣地は、一個小隊
の守備兵が配置されていただけで、各陣地の正面に米軍は、一個大隊約千
名を最小単位として攻撃を開始しました。水際の日本側守備隊は、米上陸部
隊を充分に引きつけた上で、天山々上や中腹の砲兵陣地からの砲撃と共に
米軍を次々に撃破し、無敵関東軍の精強現役部隊の意地を大いに示しました
同、千明大隊の正面に来襲した米軍の損害は、上陸用舟艇60数隻、LVT
A1が30両、人員約千名でありました。西地区、富田大隊の正面に上陸した海
兵隊も損害は、約1750名に達しました。しかし段々に物量に勝る米軍は、後
続で上陸した米軍部隊との戦闘で日本軍は、消耗し個別撃破され分散する憂
き目と相成りました。米軍は、9月15日のうちに飛行場南端まで進軍しました。


この撃破されたLVTA1の前には、米軍による捕虜収容所の
フェンス跡が残っていました。

上の2枚の画像は、N.O様が提供して下さいました。



おまけに米軍が破壊されたシリーズで掲載します。
以下もペリリュー島で日本軍が米軍のシャーマン
戦車を撃破したものとその下は撃墜した米海軍の
艦載機のグラマンF6Fヘルキャットです。
このM4シャーマン戦車は、8月18日その下の画像
の撃墜されたF6Fヘルキャット搭乗員を助ける為、
近ずいたそうですが、上記のような地中から突き出
した日本軍の砲により撃破され転倒したそうです。
米軍の戦車兵は、全員戦死したそうです(一部の
記載では、日本軍の地雷を踏んで各坐した事にな
っていますが、現実には砲でやられています。


今まで日本軍の悲惨な姿しか見てこなかった
私には、こうした米軍機や上記のような米戦車
が撃破されている姿を見ると、とても不謹慎な
事ですが急に嬉しくなりました。
米海軍艦載機のグラマンF6Fヘルキャット
の撃墜された残骸です。








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!