旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_10















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連







小島 桶三郎 陸軍薬剤中尉の勲記・
              任記等の所持品


(陸軍に40名足らずしか存在しなった珍しい薬剤官の資料)




珍しい衛生部の薬剤官の所持品です。最前線で兵が負傷すると同時に
担架兵と共に軍医は何処の戦場でも存在する為、軍医物はかなり多く
あり戦没者も多ければ生存者もまた多く居られます。しかし薬剤官は全
陸軍でも僅かに40名足らずしか居らなかった為、残る資料は非常に珍
しいです。しかしこれ等薬剤官は、当時は安全な後方の野戦貨物廠や
本国にあっては衛生材料廠や獣医材料廠で主に薬品や衛星資材の管
理を任務とした為、余程、空襲等で亡くなるような不運が無ければ戦死
する人はまず居られなかった希少な兵科でもあります。現在の我々が
良く知る薬剤師像と帝國陸海軍の薬剤官ではかなり違いがあります。
現在の薬剤師と謂えば薬科大学を卒業し、多くは町の薬局などで化粧
品や雑貨等の販売をしながら売薬を売るパターンか、院外処方箋の薬
を扱う調剤薬局に勤務するか、各種医療機関の院内薬局で勤務する
薬を直接に患者さんに作り手渡す事を主務とします。また一方、製薬会
社に入り研究職として薬剤の開発に携わる人、また一切、開発や処方
に携わらず営業職として販売に携わるプロパーとして勤務する人(現在
では製薬業界の自主試験を受けてなるMR(医薬情報担当者)と謂う。
)…このように幾つものパターンを持ちますが、帝國陸海軍時代に於い
ては薬品類・衛星資材の管理を統括し各地の野戦病院に必要な薬品
や資材を発送する実務を担当するのが主務の為、従軍看護婦や軍醫
のように膨大な人数を必要とせず、40名足らずの僅かな人数で済んだ
ようです。尚、平成18年から大学の薬学部は医学部や歯学部と同様の
六年制の薬学部が従来の四年制の薬学部の他にスタートしました。従
来の四年薬学部の卒業生は、学位が薬学士で大学院では修士課程が
博士課程の前にあります。しかし新しい六年制に移行した卒業生の学
位は同じ薬学士でも六年制の医学部や歯学部と同様で修士扱いとなり
(学士イコール修士)となる為、大学院に進学するとダイレクトに博士課
程に入る事ができます。…しかしこの六年制の薬科大学も硬直した教
育で指導者たる大学の教授陣に臨床能力は当然ないにしても実務に
対しての能力が非常に他の先進国に比べて低い為、絵に描いた餅のよ
うな制度であると指摘されてもいます。
書類から小島薬剤中尉は茨木県下館町…現在の筑西市(筑波山
のそば)に住まわれていた方でだと判ります。
明治22年生まれなので試験に合格した大正二年で24歳です。
この小島薬剤中尉は、 大正二年にの薬剤師学科試験と大正三年の薬剤師
実地試験の合格を証明した文章です。これを陸軍軍醫が証明していますの
で陸軍衛生部依託学生・生徒として薬学の学生時代から毎月の給与の支給
を受けていた可能性が高いと思われます。短期現役制度のような扱いで看
護兵(衛生兵)からの上等看護長(特務兵曹長)に比較的早くに准士官にな
っています。その後、薬剤少尉に任官した任記が無く支那事変従軍記章の
勲記では、昭和15年には少尉になっています。そして二年後の昭和17年三
月に薬剤中尉に昇進しています。
通常、敗戦前の医師にある道は、医学専
門学校(医専)か大学医学部(医大)を出るコースの二つです。つまり旧制高
等学校三年に大学(医専・医大)四年の合計七年間の高等教育が必要でし
た。一方、薬剤師は旧制高等学校三年に大学(薬科)三年の合計六年が一
般的なレギュラーコースでした。大正三年の薬剤師実地試験の合格した時
に25歳。恐らくその後に陸軍に入ったと考えられます。大正八年に一等看護
長(曹長)から上等看護長(特務曹長)に昇進しています。これは衛生部の
下士官の最高位から准士官に昇進したわけですが、この時点で30歳になっ
ています。薬剤中尉の昇進時は、53歳です。流石に23年も准尉と少尉をして
いたとは到底思えませんので…下に掲載した在郷軍人会の感謝状に後備役
上等看護長の記載があり昭和2年から5年まで三年間、分会の幹事を勤めと
あるのでこの前後は民間で薬剤師を勤められており、昭和七年の下館町の
嘱託書から昭和7年当時もまだ民間で薬剤師をされていた事が判ります。そ
の後、再びお呼びが掛かり薬剤少尉として後備役召集を受けたと思われま
す。

大正四年乃至九年戦役は第一次大戦(日独戦)から
シべリア出兵までの一括です。
見て行くと大正八〜十年は軍務に附いていた事が判ります。


在郷軍人会の役員を勤めての感謝状、この時点で41歳です。

昭和七年当時に民間人であり、この時点で43歳でした。


昭和15年で薬剤少尉です。既に51歳です。実務者の
薬剤官が如何に不足していたのかが良く判ります。支
那事変で泥沼の戦争が兵隊は勿論、軍医も従軍看護
婦も何もかも不足で大陸に送られました。そこに送る
薬品や衛星資材を管理する実務者を呼び戻したという
事と思われます。この方が敗戦まで軍務に就いておら
れたら昭和20年の敗戦時は56歳です。少なくとも薬剤
大尉には昇進されたものと思われます。




将校なので私製の認識票となります。



下のバーナーをクリックすると小島中尉の
御子息で千葉大薬科を卒業されて薬剤師
になり…海軍の豫備学生として海軍薬剤
少尉に任官した小島 彰 氏の軍装品等の
展示のページに移動します。
            ↓








戦時資料:江頭 恒治 滋賀大学名誉教授
  (兼京都産業大教授)の満洲帝國 建國大学
            任命状と満洲國皇帝印など4点




昭和時代の経済史学者で近江商人の研究家として知られた
江頭 恒治 氏が敗戦まで教鞭をとっていた満州帝國の建國
大學の任命状等の遺品です。


 ◆ 江頭 恒治 滋賀大学名誉教授 ◆ 

  明治33年10月7日生、佐賀県出身

   経済学博士

          ≪略 歴≫

昭和 2年 京都帝國大学経済学部卒業。
       大阪府立浪速高等学校講師
       彦根高等商業学校講師
昭和14年 満州國 建國大学助教授
昭和18年    同学  教授
昭和20年 敗戦後、満州より日本に引揚
       彦根経済専門学校教授
昭和22年 ”日本荘園経済史論”で京大で
       経済学博士号を取得
昭和24年 彦根経済専門学校の滋賀大学
       合併により滋賀大学教授
       経済学部長、評議員、
       附設史料館長などを歴任
昭和41年  同学を定年退職
        同学 名誉教授
同年5月  ”近江商人中井家の研究”で
       日本学士院賞を受賞
       京都産業大学教授

昭和53年10月5日 肝硬変にて死去
             (享年 77歳)


建國大学の助教授で招聘された4年後に教授の任命状です。
任命状の真ん中上に国章とされた蘭花紋章が見れます。


国務総理大臣 張 景惠より送られた満洲國建國10周年記念式典の招待状2枚


満洲國皇帝陛下からの奉呈書に押印されたであろう蔵書印です








大陸で撮影された数枚の軍人の写真から…




新潟日報に連載された『破帽と軍帽』や秦郁彦氏の著
した『旧制高校物語』の弊衣破帽のバンカラ旧制高等
学校生達と配属将校の心温まる交流が戦前・戦中そ
して戦後…閣下が亡くなられるまで続いた美しい師弟
愛で知られた異色の将軍・池田 廉二 陸軍中将の珍し
い秘蔵写真の紹介です。
少将時代の池田 廉二 閣下です。
少将時代の北満での撮影と思われます。
平陽の歩兵団本部はソ満国境のすぐ傍でソ連軍のトーチカ群
と相対する感じで隷下に歩兵第四十聯隊、十四聯隊、七十聯
隊がありました。昭和15年8月から昭和18年8月までの3年間
をこの地で過ごします。
満州国東安省密山縣平陽鎮に駐屯した第二十五
歩兵団長の少将時代です。副官はじめ幕僚達との
記念写真のようです。
一般には歩兵団と聞くと…聞き慣れない方もおられ
ますが、皇軍において師団編成を4単位制から3単
位制に移行した際に歩兵連隊三個を統括する為に
これまでの旅団に代わって作られた中間組織です。
そして師団長の命令で歩兵団長は師団隷下の各
部隊と編成して支隊などを編成して機動的に部隊運
用を行いました。
昭和15年8月1日に少将に昇進した閣下は歩兵第五十一聯隊長から
この地の第二十五歩兵団長として赴任されました。以来、昭和18年8
月2日に留守第五六師団兵務部長で転じるまでこの満州に駐屯され
ておられました。
 
      ◆ 池田 廉二 陸軍中将 ◆

 功四級

 明治23年12月29日

 出身地, 愛知県.

 歩兵科, 士候23.

             
          ≪略 歴≫


明治44年12月    任陸軍歩兵少尉
              歩兵第五一聯隊旗手

大正14年 5月 5日  歩兵第三三聯隊
              (歩兵第五一聯隊廃止)

昭和3年8月      任陸軍少佐
             勧学院高等学校配属将校

昭和6年12月     歩兵第四五聯隊附
                      第三大隊長

昭和6年12月15日  満州派遣(鹿児島港出向)

昭和7年 2 月23日 熱河省通遼(転戦)

昭和7年 3 月 1 日 熱河省赤峰(転戦)

昭和7年 8 月 1 日 任陸軍中佐
             歩兵第十六聯隊附
             新潟高等学校配属将校

昭和12年 4月 7日 歩兵第十六聯隊留守隊長

昭和12年11月 1日 任陸軍大佐

昭和13年 7月16日 歩兵第五一聯隊長
             (再建による初代聯隊長)

昭和13年 8月 5日 中支派遣(大阪港出港)
             華中に派遣、江蘇省各地
             に駐屯し警備・討伐・治安
             維持の任にあたる、漢口作
             戦等に参加

昭和14年       セツ東作戦等に参加

昭和15年 8月 1日 任陸軍少将 
             第二五歩兵団長

昭和18年 8月 2日 留守第五六師団兵務部長

昭和19年 7月 8日 留守第五六師団長

昭和19年 7月14日 任陸軍中将 

昭和20年 4月 2 日 予備役


昭和39年 7月 8 日  逝去
天長節の記念撮影です。平陽鎮憲兵隊検閲印が裏面にあります。
第二十五歩兵団は第二十五師団の隷下にあり昭和20年3月に師団が
本国の宮崎に転用されるまでソ満国境にありました。
第二十五歩兵団
司令部
歩兵第十四聯隊(小倉)、歩兵第四十聯隊(鳥取)、歩兵第
七十聯隊(篠山)を隷下に従えていました。
右の写真の将校が写真の持ち主だった方です。写真が小さくまたピンボケなので階級が
判りませんが…右端の写真と裏書で第二十五歩兵団の司令部附将校で閣下に仕えてら
れた少尉の方のようです。
池田閣下は…無天で陸軍中将まで上られた猛将ですが、知れば知るほどその魅力
にひかれます。新潟高校の卒業生だけでなくその前の勧学院高校の学生にも戦後
を過ぎても尚、慕われ…池田会が作られた経緯を合わせて見れば閣下の人間力と
謂うべきでしょうか人の大きさに多くの人が魅せられていく事がよく判ります。それは
旧部下…特に将校だけでなく最古参の下士官や准士官達の心を強く掴み離さない
事実や占領地での支那人や現地人を労わり守る強い意志が相手方の心を動かし温
かな交流を生む姿となり伝わっています。決して略奪や徴発を許さず強く部下を戒め
て懲罰を与えた閣下は、戦場では師団においても最右翼の聯隊長で自ら師団最強を
自認し勇猛を馳せました。他聯隊が安全な後方に軍旗を置く中、常に軍旗と共に戦
場にある事を常とし大いに部下将兵の士気を鼓舞し参謀達を困らせた猛将でありなが
ら、例え作戦に遅延があっても犠牲になった将兵は一兵たりとも回収しないと許さな
い方で…上官である当時の師団長・岩松義男中将をして『戦国の世なら池田君は一
国一城のあるじだよ』と常に謂わせしめた方でした。


池田閣下の後任の少将の方です。裏面に昭和十八年十二月三十一日
蜜山憲兵隊の検閲印があります。所持者の方はこの新しい団長に仕え
たのでしょう。
前橋の陸軍豫備士官学校での写真のようです。






〜嗚呼、天下国家を憂い語った当時の若きエリート達のマントに
 高下駄に学生帽のバンカラ姿が瞼に浮かびます。ありし日の純粋
 な青春群像が蘇るそんな想いがします。今は死に絶えたストーム〜
旧制新潟高校に池田 廉二 陸軍中佐が配属将校として着任したのが
昭和8年8月でした。以来、歩兵第十六聯隊留守隊長として転出され
る昭和12年4月7日まで3年半の間…若き将来の日本を背負って立つ
エリートの卵である学生達との魂の交流の始まりでした。以来、この心
温まる師弟愛で結ばれた交流は、戦後の昭和39年に閣下が没するま
で継続されました。
昭和12年元旦に自宅前で正装の池田中佐に学生達。眼鏡の学生は政治家の
小沢辰男(自民党旧田中派で建設大臣、厚生大臣、環境庁長官などを歴任。そ
の後、離党し新進党へ)氏である。右の写真も後列左から三人目が小沢氏であ
る。下は政治家時代の画像です。平成12年に政界を引退されています。
彼等、旧制高等学校生は多くが旧帝大に進み各界の中心人物となって国を
牽引する人材に育っていきました。戦前・戦後の名だたる政治家・官僚・学者
や大企業の社長など…経歴を見れば明らかです。戦後生まれの総理大臣を
排出するまでで旧制高等学校の出身者で無いのは田中角栄さんだけでは無
いでしょうか?
現在、私の同年代を含めて更に若い方にバンカラの弊衣破帽の旧制高等学校
の生徒たちを理解するのは、難しいと思います。私はたまたま父親が旧制第四
高等学校の出身で…子供の頃に寮歌祭によく連れられていたので雰囲気や臭
い…あの方々の青春の息吹を感じられ…幼くしてナンバースクールの各寮歌は
覚えて歌う事が出来た位でした。戦前の教育制度において旧制高校は旧帝大
の予科として存在したようなもので、旧帝大の定員が旧制高校の卒業生数とほ
ぼ同じだった事もあり、卒業生は学科を選り好みしなければほとんど無試験で
各地の帝大に進学できる特権がありました。まあ旧制高等学校に入るまでが難
関であり…その後はエスカレーターに近いのは、陸軍幼年学校に入るのと同じで
戦後の現在では、慶応の幼稚舎に入ると医学部や理系以外だったたら慶応の文
系学部にエスカレーターで進学できるのと同じです。この為、今の若者よりも強い
て受験勉強に多大な時間とエネルギーを費やす必要が無く、その分を全てを勉
学以外の人間形成に注ぎ込む事ができました。こうしてかつての旧制高等学校
の学生たちは、白線帽に高ゲタそして黒マントに汚い手拭いの弊衣破帽の定番ス
タイルに身を包んで街を闊歩し、大いに飲み酩酊し友と肩を組んでは各校に伝わ
る寮歌・高歌放吟し、ストームと呼ばれる狂乱の騒ぎで青春の力を爆発させました
。今でなら町の大人たちも白い目を向けるのでしょうが…当時は限られた将来の
日本を背負って立つエリート達ですから学校を誘致するのも大変な争いだったよ
うです。そうした事もあり…彼等の蛮行も非常に温かい目で見られ地元でも寛大
な扱いを受けたようです。この新潟高校はナンバースクールと謂われた明治創建
の名門八校(旧制一高〜八高)次ぐ9番目の伝統ある旧制高等学校だったと記憶
しております。敗戦後、少しして廃止されるまでこの旧制高等学校は、全国に38校
が存在しておりました。
このハチャメチャ振りが戦前だから尚、愉快ですね。
この珍しい軍人と学生の師弟愛は…こうして長く池田会として続きました。
昭和5年1月2日の宮中参賀の後、一堂に会した池田兄弟
揃い踏みの写真です。二男の廉二閣下を筆頭に三〜六男
までが全員陸軍将校です。凄い強力な兄弟です。こちらの
ご家庭はお父上の池田 筆吉氏が陸軍少佐で六男の池田
末男氏は、陸軍少将になられておりますそして末弟の勇氏
は、軍医でした。
軍旗と写る歩兵第五一聯隊長時代の池田大佐(当時)。右上も江蘇省栗陽附近の
戦場で昼食をとる池田聯隊長。(昭和15年2月頃) 下は、戦後の津の御自宅で病
床に伏した閣下を囲んだ御家族の写真です。閣下の御兄弟もお父上も陸軍軍人で
したが御子息3人とも其々、陸軍士官学校、陸軍航空士官学校、陸軍幼年学校に
進学された凄まじい軍人一家でありました。そして奥様と長女の方の隣に座る次女
の方は小児科医をされております。子供たちにこれだけの学を与える事も中々大変
な事です。



      最も古いナンバースクールのその後です。

第一高等学校

→  東京大学

第二高等学校

→  東北大学

第三高等学校

→  京都大学

第四高等学校

→  金沢大学

第五高等学校

→  熊本大学

第六高等学校

→  岡山大学

第七高等学校

→ 鹿児島大学

第八高等学校

→ 名古屋大学

     以下はナンバースクールの校章です。

以下は、管理人の父が過ごした旧制高等学校の様子と戦後、この世代が
焼け跡から必死の復興を行った今の日本の発展の基盤を担った原動力と
謂えます。その日本の奇跡の経済復興を支え高度経済成長を成し遂げた
彼等…旧制高等学校出身者達の老後は、青春を謳歌した古き良き日を想
い栄光の寮歌・校歌を若き日のままに歌い踊る事を喜びとし毎年、友と集
いし事を楽しみにしておりました。
金沢の旧制第四高等学校です。
謂わずと知れた四高の校風と謂えば…超然自習(超然脱俗)と
至誠自治であります。超然主義…『世俗を離れ寮に立て籠もり
自己の進むべき道に専念する。』
現在の日教組による心を失った教育と違い…自由と独立自治そして何よりも学生を慈しみ
愛した教授・教官たちが居りました。今となればこの失われた伝統や気風を取り戻す事は
最早、不可能と思いますが…こうした生きた教育の中から生まれた学生達は、やがて社会
に出て多くが国を動かす中央官庁から各界の要人となり…敗戦でどん底まで落ち込んだ
日本を見事に不死鳥の如く立ち直らせる牽引役を果たしました。現在、日本の現状を見た
時…昭和50年代後半から60年代に掛けて所謂、1980年代はまだまだ日本は経済的にも
成長すると疑いませんでした。バブル崩壊があって失われた10年があっても…現在のよう
なここまでの急激な世界的にも日本の地盤沈下を意識する事はまずありませんでした。し
かし韓国と中国の経済的台頭という近隣での急激な変化も相まって我国の凋落ぶりは目を
覆いたくなるばかりです。…しかし現在、これだけ国が危機的な状況にあっても政界にも官
界にも最早、これを打開してくれる人材そのものが育っていません。戦後の心無い日教組
の教育の集大成がここに表れていると謂って過言でないと思われます。戦前と対比すると
明らかで奇跡の復興も…その後の世界第2位の経済大国へ押し上げたのも全て戦前教育
を受けた日本人が国の中心でした。引き継いで戦後教育を受けた人間が国の大多数を占
める現在…全てにおいて下降する一方で拍車のかかったこれ等の悪化傾向を止める術も
無い程の人材不足に喘いでいます。リーダー不在…政治と官僚の無様な為体を見るにつけ
国民の期待は、東京都知事の石原さんや…大阪府知事から乗り換えて選挙で大勝した橋
下大阪市長に一心に注がれている始末です。それほど人材難でありリーダー不在と謂えま
す。…私が診る処方箋は、国家百年の計の為に…国に仇なす日教組などを教育の現場か
ら排除追放し、まともな教育を取り戻す事しか国家再生を託せる道は無いと思います。
また四高と謂えば南下軍です。作家・井上 靖(北海道・旭川生まれで四高から九州帝大
に進んだ。)が柔道部主将で六高と死闘を繰り広げ高専大会で七度連続優勝した事は有
名であります。左翼運動をはじめナンバースクールの中で最も過激な反骨精神を示したの
が四高でありますが…その出身者には、陸軍大将で総理大臣を務めた林 銑十郎、同じく
阿部 信行、七三一部隊で有名になった関東軍防疫給水部長だった石井 四郎 軍醫中将
や読売新聞社主・正力 松太郎…など各界の多くの著名人や文化人を輩出していいます。
かつての旧制高等学校の学生は、昔のエリートにありがちなパターンで多くが左翼思想に
被れている人が多い感がありました。このエリートの反骨心からかどうしてもゾル(軍人)を
馬鹿にして下に見る傾向が強かったように見受けられます。私の父の例を見てもやはりご
多聞にもれずで四高から帝大医学部本科に進みますが…卒業し結婚するまでは自他とも
に認めるアカだったそうです。…しかし昔からアカと謂うのは転向も早く現金な連中が多い
ので(我々は、連中を”キャッシュ”と愛称で呼んでます)父も独身時代は社会党を支持して
おりましたようで…それが結婚では仲人さんが現職の自民党の郵政大臣でした。実に見事
な転身ぶりですが…あの時代の人の強さを今に振り替えると見る思いがします。激動の時
代でした敗戦で親族の多くは樺太や北方領土からの悲惨な引揚やシベリア抑留など…いま
だ殺伐とした時代がやっと終わりかけた頃です。敗戦も何もかも理不尽を飲み込んで明日を
生きないと生きていけない時代…今の平和を享受し豊かな我々の時代からは想像もつかな
いものです。運命の分かれ道は理科系で医学を志望したものはギリギリで軍隊に取られな
かったが、旧制中・高で文系を志望した同期生では甲幹で陸軍見習士官になり大陸で南方
で復員しなかった者、特攻で南冥の空に散った者もおったと聞きました。動員学徒で空襲で
死んだ者も…運不運の分かれ道の中で大海を筏で漂流するような人生を経験した戦前・戦
中派の時代の生き様は、我々後進の目に焼き付いています。…ゾルを嫌った青年達が必要
に迫られて軍服に身を纏い二度と還る事が無かった…そうした同期・先輩や後輩を持つ最期
の世代です。
そして戦前や戦中だけでなく…悲惨な敗戦後の焼け跡にあって
日本の奇跡の戦後復興を支えたのもオールドボーイ達です!
年老いても意気盛ん…されど悲しきかな毎年、参加者が減って
いきました。この姿も最早、見られなくなるでしょう。
父が亡くなりかなりの歳月が経ち…その後の白線会や寮歌祭
の噂はあまり聞かなくなりましたが…高齢化がかなり激しいもの
と想像します。
今、健在なれば80歳代〜100歳代の方々です。多くが戦争を体験し生き残り
戦後は国の復興に尽くしました。教育とは何でしょう?…日教組の教育が示
すように義務無き権利…何でも権利意識の小さな暴君を生む間違った民主
主義教育なのでしょうか?…きっとそうでなく我々の父親達の世代のように
苦しい時も黙々と歯を喰いしばり汗を流し家族を喰わせ、子に教育を与え結果
国を支え故郷を支える人々をこの世に生み出す事では無いでしょうか?そし
てより良い社会や伝統文化をを後世の子々孫々に至るまで継承する事を目的
にするものと思います。戦後の日教組の教育では…赤信号を無視した車の運
転手に注意を促した人が逆切れされて殺される…そんな殺伐とした誤った権利
意識を振りかざす事件が余りにも多いのが実態です。教育を再生する事は、国
を再生する事に繋がります。







              



               



     




 北の都に(大正四年)
 

 駒井重次  作詞
 金原祐之介 作曲


一、

北の都に秋たけて
吾等二十の夢数ふ
男女の棲む国に
二八に帰るすべもなし


二、

そのすべなきを謎ならで
杯捨てヽ歎かんや
酔へる心の吾若し
吾永久に緑なる


三、

髪は、緑の青年が
友情の園に耕ひし
いや生き繁る友垣や
三年の春とめぐる哉


四、

竪琴とりて自治の歌
声高らかに奏づれば
三つの城辺の山彦の
今を限りに呼び返す


五、

自由の為に死するてふ
主義を愛して死するてふ
男の児の意気地今も尚
石に砕きて砕き得じ


六、

藻の花ひらくうつし世に
潮の流れ渦をまく
名も無き道を行く勿れ
吾等が行く手星光る


七、

氷塊の如吾胸に
抱く心の解け出でヽ
語り明かさん今宵かな
星影冴ゆる記念祭





             



               



      






Youtubeで拾った映像です。最近の群馬での寮歌祭の
模様です。まだまだ元気で頑張って欲しいものです。



以下は、亡くなった父が残した寮歌祭関係のパンフ等です。
右上の続・寮歌祭よもやま話に寄稿し掲載されたページ!
















    アルバムからの取り外し寫眞

〜緒戦の南方での快進撃の頃の寫眞〜




緒戦の快進撃で連戦連勝の頃の南方戦線の寫眞と思われます。
敵の艦船を次から次へと見つけては沈めています。この数年後に
主客転倒し追われ攻められ苦しい立場に追い込まれますが…。

陸海空のいずれの戦いも負け知らずでまさに破竹の勢いでした。
無敵皇軍の勝利の凱歌に帝國臣民の多くが酔いしれた時期です。

この後、日本帝國は悲惨な敗戦を迎えますが…代りに東南アジア諸国は
欧米白人諸国からの植民地支配から独立を勝ち得ます。唯一、欧米が
非白人の国・日本に完全にやり込められた大戦争の結末です。





































プラモデル模型の中の日本兵達です。
大したものでこんなに小さいのに実物同様に見事に再現されています。






















ピットロード社製(1/35) 陸軍 九二式重装甲車(後期型)






ドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九五式軽戦車ハ号
です。戦車第七連隊(フィリッピン)仕様。

手前は同じスケールのドラゴンのプラモデル模型の方です。





同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号
です。第三戦車団 戦車第一聯隊(マレーシア)仕様。



同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号
です。戦車第九聯隊(サイパン)仕様。








小さいのは食玩の144分1スケールのチハ(バトルタンクコレクション)





同じシーリーズの九五式軽戦車 ハ号 北満型 公主嶺陸軍戦車学校
仕様の三台です。








同じくドラゴンアーマーの完成品モデル(1/72) 九七式中戦車チハ号
です。戦車第十四連隊(済州島)仕様の後期車台が二輌です。





以下、私がペリリュー島慰霊に出掛けて撮影した現地で擱座
した九五式軽戦車の残骸です。サイパンの戦車と謂い…想い
だすと身につまされる…鉄の棺桶です。
砲塔は、吹飛ばされてありません。正面の
車載機銃の銃眼があります。

両側のキャタビラは、しっかり残っています。恐らく
砲塔を打ち抜かれ内部で爆破したのでしょう。底も
抜けています。
戦車の後部に搭載されていた予備のキャタビラ
が妙に新しいのが印象的です。
車載機銃の搭載部分を内部より撮影した物です。
正面にあるライトです。内部に電球は、割れていますが
金属とフィラメント部分が残存しています。
ぶれてしまい掲載しませんでしたが、車載機銃
の右側部分の内部に35o戦車砲弾を搭載した
砲弾ラックがありました。

米軍が上陸を開始して9時間後、ゆっくりと地歩を固めつつある中、
中川大佐は反撃を命令。日本軍には、虎の子の戦車が17輌、配備
されていた。この虎の子の戦車部隊は、中崎に待機していて、反撃
命令が出るや海軍飛行場を横切り、天山の麓に終結し、午後4時30
分に海側の米軍に向かって出撃を開始する。戦車の上部にロープが
張り巡らし、歩兵は、これに掴まり跨って進撃した。何と1輌に2個分
隊が取り付き斬込隊として米軍陣地に突入しました。しかし、米軍は
各種砲などの重火器とてM4シャーマン戦車を浜辺に陸揚げした後で
した。この中に17輌の戦車部隊と斬込隊が突入しました。対戦車砲
やM4シャーマン戦車の火砲によって火達磨となりながらなだれ込む
様に米陣地に突入し米軍を大混乱に陥れたものの、戦車は悉く撃破
され斬込隊の反撃も成功しませんでした。




ペリリュー島でもう一つピットロードから完成品モデル
が発売されました。米軍のLVTA1(水陸両用戦車)で
す。







実際に現地のペリリュー島慰霊で訪問の際に
撮影した日本軍により撃破された米軍水陸両
用戦車(LVTA1)の写真です。

日本軍の戦車の約5倍の威力を持つと
言われた水陸両用戦車(LVTA1)。
昭和19年9月15日AM5:30、米海兵第一師団は、
猛烈な砲爆撃の掩護を中、約300輌の水陸両用
戦車に分乗し西浜に迫った。日本側がサンゴ礁と
海岸線の中間に敷設した機雷の為、米軍は一旦
進撃を停止しましたが、残存のLVTを集合し再統
制して煙幕を張り、それにに乗じて再び上陸を決
行しました。
西浜北部(西地区)には、富田大隊の635名が陣取り、南部(南地区)には、
千明大隊の750名が布陣していました。いずれも関東軍最強と言われた現役
兵で、20〜23歳の戦意も士気も高い甲種兵でありました。そこに米軍上陸部
隊の二個師団約4万2千名が襲来しました。日本軍側の各陣地は、一個小隊
の守備兵が配置されていただけで、各陣地の正面に米軍は、一個大隊約千
名を最小単位として攻撃を開始しました。水際の日本側守備隊は、米上陸部
隊を充分に引きつけた上で、天山々上や中腹の砲兵陣地からの砲撃と共に
米軍を次々に撃破し、無敵関東軍の精強現役部隊の意地を大いに示しました
同、千明大隊の正面に来襲した米軍の損害は、上陸用舟艇60数隻、LVT
A1が30両、人員約千名でありました。西地区、富田大隊の正面に上陸した海
兵隊も損害は、約1750名に達しました。しかし段々に物量に勝る米軍は、後
続で上陸した米軍部隊との戦闘で日本軍は、消耗し個別撃破され分散する憂
き目と相成りました。米軍は、9月15日のうちに飛行場南端まで進軍しました。


この撃破されたLVTA1の前には、米軍による捕虜収容所の
フェンス跡が残っていました。

上の2枚の画像は、N.O様が提供して下さいました。



おまけに米軍が破壊されたシリーズで掲載します。
以下もペリリュー島で日本軍が米軍のシャーマン
戦車を撃破したものとその下は撃墜した米海軍の
艦載機のグラマンF6Fヘルキャットです。
このM4シャーマン戦車は、8月18日その下の画像
の撃墜されたF6Fヘルキャット搭乗員を助ける為、
近ずいたそうですが、上記のような地中から突き出
した日本軍の砲により撃破され転倒したそうです。
米軍の戦車兵は、全員戦死したそうです(一部の
記載では、日本軍の地雷を踏んで各坐した事にな
っていますが、現実には砲でやられています。


今まで日本軍の悲惨な姿しか見てこなかった
私には、こうした米軍機や上記のような米戦車
が撃破されている姿を見ると、とても不謹慎な
事ですが急に嬉しくなりました。
米海軍艦載機のグラマンF6Fヘルキャット
の撃墜された残骸です。








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