旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_11















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








高名なアメリカのミリタリー収集家
 Jim Dawson 氏のインペリアルコレクション
            の中から里帰り品(Part U)




”Swords of Imperial Japan” の Author であり
アメリカのミリタリー収集家でもあるJim Dawson
氏が集めたインペリアルコレクションの内の一点で
アバディーン武器博物館に寄託されていた軍刀と
の事ですドーソン氏はGHQの仕事をしていた事か
ら宮家の帰俗を当時の宮内省で折衝しており、
各宮様の武官達と会われて、請うて各宮様や宮様
の所縁の方々の不要になった軍刀を集めたようで
す。このドーソンのインペリアルコレクションの第二
弾で米国から里帰りした品です。
これだけ根こそぎ敗戦国から巻きあげてコレクションしたのか
と驚くほど程度の良い軍刀や珍しい刀剣類が米国のミリタリー
書籍を見るとs出てきます。まさしく愕然とさせられます。そして
何故か腹が立ちます。人種差別の激しいかった時代に白人か
ら見る日本人は猿と同然で同じ人間とは思わなかったでしょう
。あの時代…正義感の強い日本の純粋な人々に身を捨ててま
での喧嘩を決意するまで追いつめて…堪忍袋の緒が切れて刀
を抜いたら…白人様は徹底的にいたぶり尽くし非戦闘員の女子
供老人はおろかありったけの市民を無差別に殺し尽くした米国
人の非道さを思い出させます。そして敗戦国から残った富を奪い
尽くし…今もその富にたかっています。…本当に極悪です。









旧梨本宮家が旧皇族・梨本 徳彦 氏
(従四位勲一等・元伯爵)(久邇宮 徳彦王 殿下)
 と御学友で親友だったという青木 周夫 陸軍中尉
  (旧梨本宮家の家令職の子息)へ贈った昭和十三年
                 制定 陸軍制式軍刀の外装等




梨本宮家贈 青木 周夫氏 佩用軍刀外装
青木氏は、子爵・青木家の一族で後裔が梨本宮家の執事か家令職をして
おり日米開戦にあたり海軍士官の徳彦王には海軍刀を、同時に陸軍士官
となった家令職の子息だった青木 周夫 氏には陸軍刀を宮家が武運長久
の祈願としてそれぞれに贈り、いずれの軍刀のハバキにも宮家が使用して
いた”十四葉一重裏菊形”が彫られていたようです。当然ながら宮家が佩
刀するのでは無いので青木氏の軍刀の柄頭に銀の家紋は付いていません。
旧梨本宮家御家紋

外装は既製の金属鞘では無く、木製鞘乾漆塗の別作で、鐔なども昭和15〜6年頃の
モールドのしっかりとした物で仕立てられています。元は”一竿子忠綱”という刀が入っ
ていたらしく木札が付いていますが、惜しむべくは米国で刀身のみ散逸したようで米国
の所蔵者が士官学校などのサーベルを製造していたメーカーに依頼して模擬刀身を造
らせて納めています。日本の模擬刀ではないので、刃紋は入れられていませんが樋も
入り総体は良い物です。やや入れられた模擬刀身の調整が甘いので薄い赤い革を挟
んでいます。出征で佩用されていたらしく、革の外覆には小傷有りますが、中の鞘には
大きな痛み無く、丁寧に補修もされており、柄巻の状態も良く、ハバキの御家紋も鮮明
です。柄の猿手は元々は紐製環だったようで欠損の為か戦地用になのか金属製に替
えられています。
Jim Dawson氏の使用した管理保存用の木製タグです。
F LUT(1st Lieutenant)  AOKI 青木陸軍中尉の記載がわかります。

将官や宮様の佩刀に多い木鞘乾漆塗りの状態の良い所謂、九八式軍刀です。



米国でコレクション整理に付けられた木札です。
F LUT AOKI とあります。所持者の名が青木 陸軍中尉
と記載されている事が判ります。


PRESEN ROYAL F NASHIMOTO の記載があり
皇族 梨本宮様から御下賜された軍刀と判ります。






昭和17年11月17日に配信された日本ニュース台128号です。
昭和17年11月14日、海軍兵学校卒業式に高松御差遣宮殿下
の台臨を仰いで行われました。卒業生の中には久邇宮徳彦王
殿下がおられます。(尚、再生に際しては、ページTOPのMIDI
音源をSTOP(停止)してお楽しみください。)



軍刀に附属して米国から里帰りした資料には写真類の他に衛生関係の紙物資料が
非常に多く所持者だった青木 周夫 陸軍中尉は軍医だった可能性も高いと考えます。
同様に大陸での高級将校と思われる軍醫や患者等の多数の寫眞が一緒の
資料としてありましたが、青木中尉と同一人物または関連する人物と確証が
持てないので掲載しませでした。米国で誤って整理されている場合も考えら
れます。寫眞裏に名前の記載などあればよかったのですが、残念な事に地
名や年月日などの記載しかありませんでした。








戦時資料:羽田野 伯猷 東北大学 文学部 教授(インド仏教史)
        の東北帝國大學 學位記(卒業證書)及び満州での
          陸軍大尉として従軍時代の軍衣袴等の各種軍装品




羽田野 東北大教授の東北帝大の卒業(学位記)証書です。
故 羽田野 教授は、戦時中は陸軍大尉として満州で従軍されて
居られました。詳細な記録はありませんが昭和19年には東北帝
大の山田 龍城 教授の印度学第二講座を退任に伴い、着任し担
当され…昭和26年に助教授、昭和34年に教授に就任しそのまま
印度学第二講座を担当、昭和50年の退官までサーンクヤ,ニヤ
ーヤ学派の哲学史,インド・チベット仏教史を研究・教授されまし
た。特にチベット学研究において先駆的業績を残されたようです。
いずれにしろ学者としても教授として教育者としても名を残されて
おりながら、6〜7年の従軍体験を持ち国家・国民同胞への義務も
しっかりと果たされた方である事が判ります。

        〜 羽田野 伯猷 氏の略歴 〜

 明治44年7月13日生、愛知県出身

 東北帝大卒

昭和30年に”西蔵(チベツト)撰述仏典目録”(共同研究)
で学士院賞。東北印度学宗教学会会長をつとめた。

昭和34年 東北大学教授
昭和50年   退 官

昭和60年1月9日 死去(享年 73歳)。

著作:”チベット仏教叙説”、”カーダム派史” 等々


かなり少数の研究者向けの著作を残されています。当然
出版部数も初めから少なかったのでしょう。物によってか
なりの高額(4〜5万円)な絶版本となっています。
羽田野 教授が東北帝大を卒業されたのが昭和11年で調度、教授が25歳
になられた時です。その3年後の昭和14年に少尉に任官しています。徴兵
後に幹部候補生として予備役士官の道に進まれたのか、あらかじめ甲幹を
志望して予備役士官となれたかは不明ですが…昭和14年の任官であれば
予備士官学校でなく原隊で将校教育を受け見習士官を経て少尉になるの
で卒後の昭和12年〜13年に陸軍に入隊したものと思うわれます。約2年後
の昭和16年陸軍中尉に昇進されています。調度、泥沼の日中戦争で兵士
もそうですが…現場で部隊を指揮する下級将校が不足し予備役もバンバン
と大陸に駆り出されていた時代です。そしてこの中尉昇進の5か月後に運命
の日米戦が開戦されます。羽田野 教授は大陸一筋で満州方面で大尉に昇
進し昭和19年で軍務を解かれ東北帝大の印度学第二講座を担当する為に
着任しています。6〜7年の従軍経験を終えて学究生活に打ち込まれ途中、
敗戦を間に助教授から教授へとキャリアを重ねて退官されました。中々、軍
務でも6〜7年も奉仕し帰国してからは学究生活一筋に学問を修め教授にま
でなられた方も珍しいと思います。模範的すぎる立派な愛国者の鑑と謂える
のでは無いでしょうか。教授御自身は、昭和60年1月9日に73歳で死去され
ており…それから27年が経過してから教授の遺品が故郷である名古屋(愛
知県)で出た事は、遺品を管理していた遺族も亡くなられてしまったものと推
察します。何れにしろ生前は学究の徒として後進を育てる教師と立派に社会
に貢献し…戦前は生命を賭して従軍し国家国民に対して義務を立派に果たさ
れた日本人の鑑と考えます。…改めて顕彰したいと想い紹介した次第です。


羽田野 教授が実際に陸軍大尉として従軍していた時に使用された階級章に
軍帽・夏冬の軍衣袴、マントに防暑衣等々です。他にもたくさん出ていました
が高額だったので一部だけ手に入れました。後日、別口からも出ていたとの
事で譲っていただける方より仕入れた品も含まれています。
軍帽は虫食いや痛みがあります。以下の軍服類は階級章の取り外し跡が
あるものです。教授の使っておられました取り外し品の大尉襟章を撮影に
際して取り付けてみました。

羽田野 教授は本職の軍人でない事もあり軍装品に余りお金を
掛けておられないようでした。多くが偕行社製の吊るしの軍服で
間に合わせていたようです。愛知県出身の方ですが母校のある
仙台・東北を活動の場としてだからでしょうか…近くも無いですが
同じ北国の軍都・旭川の偕行社製の夏服です。





胸に部隊章を付けた跡が糸と共に残っていました。










防暑衣は、かなり使い込まれています。





















        〜希少な戦前宮中・華族資料〜

 形成外科医から春日大社宮司に転じた事で
  知られた故・葉室 頼昭 伯爵の少年時代に宮中で
   御裳捧持者として新年に皇后・皇族各宮妃の洋装
    大礼服の裾を持つ役目をされた時に着用されました
          御裳捧持者御服・帽子・剣吊りに写真等資料




もう殆ど”リボンの騎士”とか”ベルサイユのバラ”の世界のようです。
御裳捧持者とは、基本的に12〜14歳の少年(未成年者)が御役を務めました。毎年
1月1日の朝賀式(新年祝賀の儀)に当たり、戦前の学習院中等科に在籍する容姿
端麗・学業成績優秀なる華族の子弟が選抜され宮中で皇后・皇太后・宮妃方の洋
装大礼服の裾を持つ奉仕を致しました。明治22年から始まり昭和19年に廃止される
まで毎年継続して行われました。この最上級の紫天鵞絨(紫ビロード)地にシルク飾
りの御裳捧持者御服と帽子(シルク飾り帯に白駝鳥(オーストリッチ)羽飾り付き)で
す。元華族(旧伯爵家)葉室様の着用品ですが…保存状態は最高に良くとても戦前
の品とは思えない状態です。見事な華美な作りの一品に…明治宮殿を華麗に彩った
当時の栄華が目に浮かぶようです。


昭和15または16年の新年御裳捧持者の少年達の集合写真と思われます。


国立公文書館に収蔵された明治36年の
新年御裳捧持者の少年達の集合写真で
す。


剣差しは少年用で少し小ぶりです。


剣差しに合う手頃な剣が無かったので海軍の短剣を差してみました。
やはりトンボ剣のようなものでないとイメージに合いません。


故 葉山 元伯爵が13歳、14歳の時に着用されたとすれば昭和15年
から16年の運命の日米戦の開戦前後の頃です。昭和22年5月に我
国の華族制度が廃止されます。丁度、葉室先生が20歳の時に爵位
を失います。この御裳捧持者の制度も敗戦の前年となる昭和19年に
廃止されています。まあ敗色が色濃い厳しい時勢に…この華美な服
で宮殿行事をしている場合で無いとなったのでしょう。着用機会が非
常に限られて短い事もあって…痛みなく70年以上の歳月の経過を全
く感じさせません。
いずれも上下と帽子共に現在の宮内庁の前身である宮内省の記名布があります。
上衣には右下の画像のようにサーベルタイプの短いトンボ剣がポケット状の切れ
目から出るようになっています。


昭和15または16年の新年御裳捧持者の少年達の集合写真と思われます。
この中に当時、13〜14歳だった葉室 ョ昭 少年が居られます。御連絡を
いただいた 御親族の方のお話では、当時の葉室少年は上の写真の中列
の左端との事です。



          〜 葉室 ョ昭 (元伯爵) 略歴 〜


昭和2年1月3日生、東京都出身。
藤原北家勧修寺流の名家の家格を有する公家・葉室家に生まれ第35代
葉室家当主として伯爵の爵位を持たれておりました。学習院に初等科か
ら高等科に進み大阪大学医学部に入学・卒後、形成外科医となります。
そして勤務医を経て形成外科医院を開業。診療を続けながら通信教育で
神職を勉強。神職の最高階位である明階の位を取得。神社庁の推薦を受
けて平成4年に東大阪市の枚岡神社の宮司に就任。平成6年8月、春日大
社の宮司に就任。平成20年3月、春日大社宮司を退任。その後は京都の
西山山田(西京区)で約千年以上に渡り鎮守の神として葉室家の霊を祭
る葉室御霊神社があります。こちらの宮司だけをされておられましたが、
惜しくも平成21年1月3日、肺炎にて死去されました(享年82歳)。



平成六年より晩年の平成二十年までの十四年間宮司を勤めた春日大社です。
御自身で管理される葉室神社などには、こちらの春日大社の
方から出向き神事をとり行っておられました。

          ”葉室 ョ 氏の主な著作”

 『〈神道〉のこころ』春秋社 1997年

 『神道と日本人』春秋社 1999年

 『神道見えないものの力』春秋社 1999年

 『神道〈いのち〉を伝える』春秋社 2000年

 『神道感謝のこころ』春秋社 2000年

 『にほんよいくに1 えとぶんではむろぐうじがこどもにかたる』
                  富山房インターナショナル 2001年

 『神道〈徳〉に目覚める』春秋社 2001年

 『神道夫婦のきずな』春秋社 2002年

 『神道いきいきと生きる』春秋社 2002年

 『心を癒し自然に生きる』春秋社 2003年

 『御力』世界文化社 2004年

 『大祓知恵のことば CDブック』春秋社 2004年

 『神道と〈うつくしび〉』春秋社 2005年

 『神道と〈ひらめき〉』春秋社 2006年

 『神道〈はだ〉で知る』春秋社 2008年

 『神道 おふくろの味』春秋社 2009年


  出典・引用: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』


京都府京都市西京区山田南町にある葉室家の鎮守社の葉室(御霊)神社です。
この地は平安時代…葉室家の荘園でした。約千年前より鎮守の森として葉室家
の霊を祀る葉室神社が創建されました。後に御霊信仰と共に神仏習合となり…そ
の名も”葉室御霊神社”と名称が改められた経緯があります。
社殿は大納言 葉室 頼考郷が元禄二年建立したものです。
葉室神社の社紋は葉室家の家紋です。
家系図を見るとお判りのようにョ昭氏が三十五代目です。先生にはお子様が
お二人(男女お一人ずつ)おられ娘さんは既に他家へ嫁ぎ、御子息のョ由氏
(50歳)が三十六代目を葉室家を継承し、また若宮司として葉室神社を執りし
切られております。




十禅師社(十禅師とは学徳兼備の僧
十師を選んで官から授けられた称号)








国挾槌尊(月霊)…日本書紀によれば
天地倍判の最初に現れ給うた神、神世
七代の第一代の神、國常立尊に次ぎ
生まれませる神である。

葉室御霊大明神、大国主大神、観音大士
を祀る社です。
神仏習合時代の影響を色濃く残し御霊大明神を祀る中央の御霊本社の左には
国挟槌尊(月霊)と菩薩像、本社右に十禅師社を祀っているようです。



                              ↑
常住寺の近くにある茅葺きの屋根の見事な山口家は代々この地で四百年以上続いた
旧家で葉室家や徳大寺家に仕え江戸時代には山田村の庄屋を仕めたお家です。
苔香居は、山口家住宅の茶人であった先々代がつけた庵名で国の登録有形文化財に
指定されており中には入れません。年に一回だけ一般公開されるそうです。江戸末期か
ら明治初めの木造瓦葺の建築物で…二つの茶室があるそうです。

    ”苔香居” 山口邸の公式サイトは上のバーナーをクリックすると開きます。


セロハンテープで補修されていますが元箱が健在です。
中も虫食いも無く見事なものです。



帽子が随分浅いと思っていましたが、実際は被るものでなく下の図のように
飾りで背中に掛けて置くだけのもの…お洒落というべきものなのか…雅とい
うべきなのか…凡人にはよく判りませんでした。

実に雅です。…これを開戦前後までは行われていた時代があったわけです。





例え少年用の儀式の制服であっても文官や武官と同じように
きちんと定められた服制が決められております。

















敗戦後にA級戦犯として禁固刑を受けた
 田村 浩 陸軍中将(敗戦時、俘虜情報局長官)が
   泰國大使館附武官時代に知人に贈った戦前の
    タイの伝統工芸品の象牙細工のシガレットケース
                         (煙草入)




タイの大使館附武官が伝統工芸品の煙草入れにネーム等を入れ
知人や友人、関係者に贈る事は慣例になっていたようです。こちら
の田村閣下の後任にあたる守屋中将が戦病死された後を受けて
山田 国太郎 陸軍中将が大使館附陸軍武官兼泰駐屯軍参謀長を
されておられましたが…全く同様の煙草入れを関係各位に贈られ
ております。当サイトの以下のバーナーをクリックすれば山田閣下
が関係者に贈られたシガレットケースが収載されています。

                   ↓


収納の元箱があるのは珍しいと思います。結構、実際に使われるか
して元箱がなくなっているケースが多いので…。
戦犯として禁固刑を受けた田村閣下がタイ國大使館附武官時代に知人に
贈ったシガレットケースです。この時、田村閣下は陸軍大佐で昭和14年か
ら泰で活動をしておられ…特に英領インドの独立工作を扇動すべく田村
大佐の下に特務機関を置きました。昭和16年9月に発足したこの機関は、
参謀本部の藤原岩市少佐以下10名程から構成され、機関長・藤原少佐の
頭文字と自由を意味する英語のFreeをかけてF機関と命名されました。
このF機関の人員のすべては陸軍中野学校出身の遊撃戦・諜報戦を行う
青年将校であり、発足当時は数名だったメンバーも日米戦の開戦前12月
には10名を越えていました。発足当時にF機関に与えられた任務は、インド
独立連盟やマレー・中国人などによる反英団体との交渉・支援を中心とした
マレー方面の工作活動に関して、田村大佐を補佐することでありましたが、
開戦直前より南方軍の指揮下となり、インド独立連盟と協力し工作活動に
当たり、インド国民軍の編制にも当たりました。その際、機関長・藤原少佐
は「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱い、インドの独立
の為に協力したい」とインド兵に宣言した。当初はインド駐在イギリス軍の
内部分裂を目的としていた為、インド人を対象とした工作を行っていました
が、マレー作戦終了から目的が変わり大東亜新秩序の建設、インドでの反
英運動を煽りインドを独立させる事で英国の亜細亜戦線からの離脱を狙い
ました。その後、同機関は岩畔豪雄陸軍大佐を機関長とする岩畔機関に発
展改組され、250人規模の組織となりました。マレー作戦等で投降したインド
兵を教育しインド国民軍に組込み同国民軍の指導や宣伝などを行いました。
機関は六班で構成され、総務班・情報班・特務班・軍事班・宣伝班・政治班
がありました。そして機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改
称された。この光機関は昭和18年、ドイツに亡命していたインド独立運動の
スバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボ−スと親交の深い山本敏大佐が機関
長となりました。光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)で“ピカリ”と
いう言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説から“光”とされました。
支援していたインド国民軍は自由インド仮政府軍に発展し、一部はビルマの
作戦に従事しました。またインパール作戦の途中、大本営の遊撃戦重視へ
の作戦方針変更に伴ない、機関は南方軍遊撃隊司令部と改称し同時に、
前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所が
設けられた。途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は敗戦ま
で軍事顧問団として活動しました。結局インパール作戦は失敗し当時の陸軍
とインド国民軍は連合国軍に降伏を余儀なくされました。


       出典・引用: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』





        ◆ 田村 浩 陸軍中将 ◆

          ≪ 略 歴 ≫

 陸士28期、陸大39期

昭和14年 8月    在タイ国武官
昭和17年 4月    野砲学校教官
昭和17年 8月    任陸軍少将
昭和17年12月    第十二砲兵団長
昭和19年 5月    関東防衛軍参謀長
昭和19年12月    俘虜情報局長官
昭和20年 4月    任陸軍中将
昭和20年6月〜7月 満州の収容所を視察
昭和20年8月15日  敗 戦
昭和21年 3 月    GHQ国際検察局の尋問開始
       4 月    逮 捕 巣鴨プリズンに収監
昭和23年10月    起 訴
             特設”丸の内法廷”に出廷
昭和24年 2 月    虐待罪で禁固8年の刑
昭和26年12月    釈 放
昭和37年12月    死 去 (享年68歳)











陸軍の高射砲の砲側に取り付けらえた
   高射照準具に組み込まれていた測合電計




野外で使う高射砲の電装装置の為、防水がなされています。
正面の蓋は、4つの手廻ネジを緩めても固着しており外せま
せん。ガラス窓が濁っていて見えにくいですが、内部に”測合
電計”の文字が見えます。
小さな装置で大きさは、高さ16,5cm、幅14cm、奥行き11cmです。
側面の銘板には、”株式会社北辰電機製作所製造
昭和14年11月”の文字と、”東”の刻印が見えます。
北辰電機製作所は、戦前は艦船に搭載する機器、戦闘機に
搭載する航空機器等の軍需産業に強く戦時中に急成長した
企業です。特に計器類に関しては国内のTOPメーカーで業
界をリードした会社で、有名な氷川丸の羅針盤や戦艦大和
から零戦に至るまで多くに搭載される計器類を製作し、戦時
中の従業員数は2万人を抱える程でしたが、敗戦後は民需
主流に追いつけず業界三位に甘んじましたが、いち早くコン
ピューター部門に参入し戦後も生き残り子会社に日本電子機
器などを作りました。約30年前に激化する競争に生き残る為
横河電機と合併し横河北辰電気となり工業計器・プロセス制
御の分野では業界のリーディングカンパニー的存在でしたが
その後も合併を繰り返し遂に北辰の名が消えて横河電機とな
り…現在は、YOKOGAWAのブランド名となっています。
北辰電機製作所の本社と主力工場は東京都大田区下丸子にありました。


ゴムの圧着で潜水具の様な強力な防水のなされ前面パネル
を何とか取り外してみました。中身は非常に良い状態です。
面白いもので防水のこの箱の中で装置は四隅のフックに
強力な金属バネで空中に浮かぶ形で存在し衝撃を受けて
も計測出来て狂わないように配慮されています。









戦中・戦後資料 嗚呼…ヒロポン




戦後の一時期まで合法的に販売された大日本製薬株式会社ヒロポン錠
(20錠)の空き瓶・箱・説明書の3点です。中身はさすがに残存していま
せん。
ヒロポン(Philopon)とは、大日本住友製薬によるメタンフェタミンの商品名であり
このメタンフェタミンの開発者は日本人です。明治26年に薬学者の長井 長義 氏
によりエフェドリンから合成されました。大正8年、これを緒方 章 氏が結晶化に成
功したものです。成分名は塩酸メタンフェタミン錠。剤型は紹介している錠剤の他
にアンプルがあり映画やテレビなどでは…錠剤より注射の方が覚醒剤・シャブや
ネタの名称で一般的かもしれません。このヒロポンの名は、”疲労をポンと取る”に
も掛けておりますが、英文綴りに見られるように、ギリシア語の”労働を愛する”を
由来としているそうです。
日本では大東亜戦争以前より製造されており”除倦覺醒劑”として販売されていました。
その名の通り、疲労倦怠感を除き眠気を飛ばすという目的で、軍・民で使用されており
ました。現在でこそ覚醒剤の代名詞であるヒロポンですが、当時は副作用についてまだ
よく知られていなかった為、全く規制もされず、一種の強壮剤のような形で利用されて
おりました。当時の適応症は、”過度の肉体および精神活動時”、”夜間作業その他睡
気除去を必要とする時”、”疲労二日酔乗り物酔い”、”各種憂鬱症”でありました。軍で
は長距離飛行を行う航空兵等に支給されていました。ヒロポンの注射薬は”暗視ホルモ
ン”と呼ばれ、B29の迎撃にあたる夜間戦闘機隊員に投与されていました。中には一晩
で5機のB29を撃墜した例もあったようです。この為、ヒロポンは”決戦兵器”のひとつと
して量産され終戦時に大量に備蓄されていきました。敗戦により軍の備蓄品が一気に
市場へ流出すると酒や煙草といった嗜好品の欠乏も相まって人々が精神を昂揚させる
手軽な薬品として蔓延し市中に流れました。その依存者即ち”ポン中”が大量発生し、
中毒患者が50万人を超えるなど当時国内の社会問題となりました。加えて中毒者が行
う不潔な注射は、肝炎ウィルスの伝染機会を増加させて輸血後肝炎が拡大する遠因と
なりました。
政府は昭和24年にヒロポンを劇薬指定して覚醒剤としての製造の禁止を製造業者に勧告し
昭和26年に覚せい剤取締法を施行しました。これに伴い、日本国内では同法により規定さ
れた少数の研究・医療機関への販売や、統合失調症やナルコレプシーの治療等、限定的な
医療用途での使用といった項目を除いて、一切の使用・所持が禁止された(但し、日本薬局
方の医療用医薬品の麻薬として、未だに処方薬として残っています)。
現在は医療用として使われているのはヒロポンで無くメチルフェニデート (Methylphenidate)
で商品名は悪名高い”レタリン(リタリン)RitalinR”です。 精神科医(心療内科)がきちんとし
た診察もせず処方し中毒者を蔓延させたり…無資格者に処方させたなどで摘発を受けてニュ
ースになり記憶に新しいところですが…この薬はナルコレプシーならびに18歳未満のADHD
患者に対して使われれています。アンフェタミンに類似した中枢神経刺激薬です。慢性疲労
症候群といった症状に対しても効果があるとされています。リタリン (RitalinR) の他に、コン
サータ (ConcertaR) がメチルフェニデートを含む医薬品です。日本におけるリタリンの適応
症はナルコレプシー、コンサータの適応症は18歳未満のADHDです。
現在、大日本製薬(大日本住友製薬)の主力商品は、高血圧の降圧薬の
アムロジンや胃腸薬のガスモチン、抗アレルギー剤ではエバステルやジ
ルテック、糖尿病ではセイブルやメルビン等のお馴染の薬があります。
最近は目新しい新薬が無く…塩野義のイルべタンと同じARBでアバプロ
位のものでしょうか。






               ↑
大日本製薬は住友製薬を合併して大日本住友製薬
になっています。クリックで公式HPが開きます。







戦時資料 軍需工業勤務者の非常運転優先乗車証明証
                   ( 昭和十九年 兵庫県 )





現在も同名の会社が継続してあります。OKK 大阪機工(株)猪名川製造所
の対空計画部隊の分隊長の肩書の方の非常運転優先乗車証明書です。当
時の皮の定期入れに入ったままだったようです。
OKKは元々、鐘紡などに工作機械を納入していた工作機械メーカー
です。しかし戦時下ではこの猪名川製造所では、九一式十糎榴弾砲
などの兵器生産を行い軍需工場として国に尽くしていました。大戦中
は生産能力を増強して月産五門のペースで製造し大阪造兵廠に納品
しています。そこの空襲対策をする部署の方と想像します。
戦時中、大阪機工猪名川工場(兵庫県伊丹市)では多くの動員学徒
や女子挺身隊などが近隣各地より集まり、慣れない旋盤やボール盤
などを操作し兵器作りをしました。作業は初め昼間の2交代制でした
が、後に深夜作業に及ぶ昼夜3交代制にかわりました。しかし、大戦
後期には空襲が激化し、毎日退避することが多く、作業もほとんど手
につかない状態であった事が…この工場で勤労奉仕した土佐高等女
學校 學徒報國隊などの記録に記載されております。
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上のバーナーをクリックすると今も現存する大阪機工
の公式ホームページが開きます。







戦前資料 日本車輛の銘板(昭和十五年 東京)




昭和15年 日本車輛の銘板です。
裏にオハ352/68と車輛番号の記載があります。
オハ35系は戦前に製造された客車のようです。
日本車輛は謂わずとしれた日本の鉄道と共に歴史を刻んだ会社で
今も躍進している企業です。創業が明治29年9月18日の名古屋の
老舗メーカーでず。以下は戦前・戦後の同様の銘板です。


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日本車輛の公式HPがクリックで開きます。







陸軍特殊船舶勤務者章です。
マルレ(○レ)と呼ばれた四式肉薄攻撃艇の隊員が縫い付けた胸章
です。海軍では震洋艇がこれに相当します。マルレは特攻艇として
昭和20年のルソン島や沖縄戦で実戦に投入されました。







戦前戦後のあらゆる学校で使用された始終礼の鐘です。高さ32cm、
鐘直径17.5pです。木部に1本縦に割れが入っています。国民学校
等だけでなく陸海軍の各種学校でも何処でも使用されたものです。
陸軍省にも同様の鐘があって、新規連隊の連隊旗を連隊長と連隊旗
手が陸軍省玄関に挨拶に来ると、当番がこのような鐘を鳴らしながら
「軍旗〜」と、陸軍省内を廻ります。手の空いている陸軍省の職員は、
連隊旗の出迎えて御送りするそうです。
現在では、何処の学校もチャイムを鳴らしたりで実際の鐘を鳴らす
所は殆ど無いでしょう。学校でこうした鐘を聞いて学んだ人は恐らく
50代半ばから60代以降の方でしょうか。








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!