旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTz_12












Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)


陸軍関連








高名なアメリカのミリタリー収集家
 Jim Dawson 氏のインペリアルコレクション
           の中から里帰り品(Part V)




”Swords of Imperial Japan” の Author であり
アメリカのミリタリー収集家でもあるJim Dawson
氏が集めたインペリアルコレクションの内の一点で
アバディーン武器博物館に寄託されていた軍刀と
の事ですドーソン氏はGHQの仕事をしていた事か
ら宮家の帰俗を当時の宮内省で折衝しており、
各宮様の武官達と会われて、請うて各宮様や宮様
の所縁の方々の不要になった軍刀を集めたようで
す。このドーソンのインペリアルコレクションの第三
弾で米国から里帰りした品です。今度は軍刀でなく
宮様御下賜の懐中時計です。
これだけ根こそぎ敗戦国から巻きあげてコレクションしたのか
と驚くほど程度の良い軍刀や珍しい刀剣類が米国のミリタリー
書籍を見るとs出てきます。まさしく愕然とさせられます。そして
何故か腹が立ちます。人種差別の激しいかった時代に白人か
ら見る日本人は猿と同然で同じ人間とは思わなかったでしょう
。あの時代…正義感の強い日本の純粋な人々に身を捨ててま
での喧嘩を決意するまで追いつめて…堪忍袋の緒が切れて刀
を抜いたら…白人様は徹底的にいたぶり尽くし非戦闘員の女子
供老人はおろかありったけの市民を無差別に殺し尽くした米国
人の非道さを思い出させます。そして敗戦国から残った富を奪い
尽くし…今もその富にたかっています。…本当に極悪です。









元皇族 賀陽宮 恒憲王 殿下(敗戦時、陸軍中将)が
 陸軍戸山学校の校長時代に兵庫県姫路出身の酒井
  という名の尉官に下賜したElginの金時計(14K)と昭和
   十三年制定陸軍制式軍刀(贈 恒憲 に賀陽宮家御紋彫)




この懐中時計は賀陽宮 恒憲王 殿下の陸軍少将時代、昭和17年3月2日から
昭和18年3月1日の一年間の間、陸軍戸山学校の校長を勤められております。
この時期に成績優秀者や側近や部下の副官などに下賜された金時計と推察さ
れます。箱に経年の痛みが見られますが、時計本体は大切に保存されていたよ
うで御覧のように美しい姿を残したままです。時計は米国のエルジン社(Elgin)
です。今でこそエルジンと謂うとディスカウント時計の代名詞のような扱いで貰っ
ても有難がる人も居ない有様ですが…その昔はウォルサム、ハワード、ハンプデ
ン、イリノイ等のメーカーと並び懐中時計の高級ブランドとして栄光の黄金時代を
築いていた頃のものです。宮様の家紋を入れた特注品です。今となれば中身の
時計より
見事な装飾です。真ん中に賀陽宮家の御家紋が配されています。現在は機械彫り
が全盛の時代です。この時計のように手彫りでこの複雑な家紋を彫ることは彫金師
でも至難の業だと謂う事です。
全面に唐草を彫り、蓋の中央に純銀製の賀陽宮の紋章を据え
裏には”贈 戸山 恒憲”と彫られている金時計。
実に美しい時計です。本時計は軍刀と共に贈呈されたようで持ち主だった方は戦地では
贈呈された軍刀を愛用し、平時ではこの懐中時計を愛用されたていたと伝えられ、軍刀に
も同様の御家紋の紋章が付いており、佩用者家紋という銀に純金貼りの”剣酢漿草紋”が
付いています。

賀陽宮 恒憲王 殿下の青年将校時代の画像です。中央の御婦人は奥様(敏子 様)です。



       ◆ 賀陽宮 恒憲王 殿下 ◆

     (皇籍離脱後は、賀陽 恒憲 様)


  陸軍中将大勲位功三級、騎兵科

  明治33年1月27日生、京都出身


            ≪ 略 歴 ≫


大正9年1月  貴族院議員(皇族議員)

大正9年5月  陸士32期卒業

大正9年12月  任陸軍騎兵少尉(騎兵第十聯隊付)

大正10年1月  騎兵第一聯隊付

大正12年8月  任陸軍騎兵中尉(騎兵第一聯隊付)

大正15年7月  任陸軍騎兵大尉

大正15年12月 陸大38期卒業

昭和2年3月 騎兵第3連隊中隊長

昭和3年3月 参謀本部付勤務

昭和3年8月 参謀本部部員

昭和6年8月 任陸軍騎兵少佐

昭和7年11月 陸軍大学校教官

昭和9年3月 欧米出張

昭和10年3月 任陸軍騎兵中佐

昭和10年8月 騎兵第十聯隊長

昭和11年12月 騎兵第第十六聯隊長

昭和12年11月 陸軍大学校教官

昭和13年3月 任陸軍騎兵大佐

昭和13年7月 中支那派遣軍参謀

昭和14年6月 参謀本部員

昭和14年7月 大本営参謀

昭和15年12月 任陸軍少将(騎兵第二旅団長)

昭和16年7月  近衛混成旅団長

昭和17年3月  陸軍戸山学校長

昭和18年3月  任陸軍中将(留守第三師団長)

昭和18年6月  第四十三師団長

昭和19年4月  留守近衛第二師団長

昭和19年7月  陸軍航空総監部付

昭和20年3月  陸軍大学校長

昭和20年9月  軍事参議官

昭和20年11月 待命/予備役(掌典長兼御歌所長)

昭和21年2月 免掌典長兼御歌所長

昭和21年5月 免貴族院議員

昭和22年10月 皇籍離脱

昭和53年1月3日 逝去

機械部蓋に14Kの刻印が有り、彫られた名前の下地も金であることから
貼りでは無い14金製と思われます。(時計屋によると0.2ミリ程度の蓋に
贈呈名などを彫る技術は、昔しか出来ないとの事です。今は機械彫りな
ので線でケガクことはできるようですが、彫りはできないそうです。)

ElginのシリアルNO.7697372。この事より1898年(明治31年)に米国で
製造された時計でる事が判ります。おそらく元々は宮様のお宅にあったも
のだと思われます。また贈呈した時期が昭和17年の開戦後であり、国内
で金製品を新たに新調することは考えにくく、また敵国である米國製の物
を新たに購入するとも考えられないので、賀陽宮家がお持ちになれていた
時計に彫りを施して贈呈されたと考えるのが自然です。




昭和十三年制定陸軍制式軍刀(残欠と拵え)

賀陽宮家の御家紋を使われた所謂 九八式軍刀の拵えです。
中の軍刀は無銘ですが…米国からの里帰りの際に登録証を
取るのに非常に手間取ったとかで切断されています。宮様の
御下賜の軍刀にしろ所縁の刀にしては貧相なので中身の軍刀
は米国で抜かれて拵えと適当な残欠を仕込んで里帰りさせた
のでは…と想像しています。
金時計と共にこの軍刀を下賜された方は…戦後、無事に生きられた
のでしょうか?…とても気になる所ですが、兵庫県姫路市出身の酒井
と謂う名の尉官の将校に下賜された事しか判っていません。ただこの
将校は華族だったとの事で…旧姫路藩々主 酒井家(旧伯爵)の係累
また傍系の血筋の方と推察されます。
銀ハバキに賀陽宮家の御家紋彫り、兜金と目貫にも御家紋が見られます。






鍔には”贈 恒憲”が刻まれています。御下賜された士官は感激して
敗戦なければ家宝として代々残されたものと思います。悲しい事に
戦後67年が経過して里帰りした訳ですが…改めて日本の悲惨な敗
戦と経済的な発展とは別にして…今も敗戦以降続く情けない土下座
外交と主体性を持てない政治に独立国と謂うよりも米国の占領国を
まだ脱していない状況が重なって見え…溜息が漏れます。
柄の目貫にも賀陽宮家の御紋があります。

金時計と拵えの豪華さに…この無銘の残欠は余り吊り合わない感じ
なのででやはり繋ぎ代わりの合わせ品である印象が強いです。








世界で唯一の真鍮無垢材削り出しシリーズ
                  二十五分の一スケール模型



帝國陸軍 八十九式中戦車乙型(チロ)




また匠の世界に金字塔が一つ増えました。まさに芸術品です。25分の1は
本当にこの作品だけだと思います。実に見事に鉄牛(猛牛)らしさを出して
います。この戦車に乗った実際の将兵は鉄獅子と呼んだようですが…この
形は昔からやはり当初呼ばれたように鉄牛だと思います。








以前、製作してくださった九七式車載機関銃に合わせ1/4で
また匠が戦車帽を制作してくださりました。
この塗装された完成プラモデルの西住戦車隊長の写真を
見ていて創作意欲が湧いたと仰っておりました。しかしそ
れですぐに作られてしまうから本当に凄いと感心するばか
りです。
真鍮だと重すぎてイメージが出ないのでグラスファイバーで原型を
作り、これに革を接着して完成されたとのことです。戦車眼鏡も見事
です。…内部はきたないのでムートン詰め込まれたとか。これが裏
返すと冬仕様の戦車帽のように見えます。
















八九式中戦車は陸軍のみならず海軍陸戦隊でも使用され活躍しました。



ここでまた匠の制作過程を振り返り紹介します。





無の状態から作り上げる匠の技に今回も脱帽しました!
少しずつ組みあがり出来ていくのが判ります。…無から有を作るのですから
匠の技にまたも脱帽しました。見事に栄光ある帝國陸軍の八九式中戦車が
出来上がりました。





見事に操縦席が再現され後ろにエンジンルームの入り口
そして通信機に戦車砲弾のストックが壁に実物通りに置
かれ再現されおり…細かな部分まで気配りされている事
に感激します。







石井 豊吉 陸軍少将(陸士14期)の私物拳銃保管証
 (南部式拳銃と二十六年式拳銃)と同拳銃の買上証



陸士第14期の石井 豊吉 陸軍少将の私物拳銃(南部式拳銃と二十六年式拳銃)保管証
と同拳銃の買上証です。陸普七一一将校准士官軍装用拳銃に関する件で私物拳銃所持
者で買上を希望する者に基づいた買上証書になります。保管証書は立川憲兵隊発行です
。敗戦で帝國陸海軍そのものが消滅し…こうした手続き上、必要な書類は本来はたくさん
あったものですが…敗戦後に処分され今では残るものも少ないと思います。特に将官の
物は珍しいかも知れません。


        ◆ 石井 豊吉 陸軍少将 ◆


     山口県出身、歩兵科

            〜 略  歴 〜

明治35年11月22日 陸軍士官学校卒業(士候14)

明治36年 6月26日 任陸軍歩兵少尉

昭和 3年 8月10日 任陸軍歩兵大佐/敦賀聯隊区司令官

昭和 6年 8月 1日 歩兵第28聯隊長

昭和 8年 3月18日 任陸軍少将/待命

昭和 8年 3月31日 予備役

左上の偕行社理事長 富永 恭二とあるのは
有名な第四航空軍司令官で特攻隊を送りだし
自身は台湾へ無断で敵前逃亡した陸軍中将
です。18年9月10日は、陸軍次官を辞めてマ
ニラに左遷された時期です。








元帥陸軍大将大勲位功二級 
   小松宮 彰仁 親王殿下の筆による和歌





純仁親王は小松宮 彰仁 親王(仁和寺宮 嘉彰 親王)殿下の肉筆書です。
        純仁

雲のなみ四方にをさ

まるそこの海を

うれしとたつの

なき渡かも
雲の波四方に
   治まるそこの海を
     嬉しと鶴(たづ)の
          鳴き渡るかも

                純仁



          ◆ 小松宮 彰仁 親王殿下 ◆

               〜 略 歴 〜 

弘化 3年:降誕
安政 5年:親王宣下・嘉彰親王。入寺得度・純仁と号す
慶応 3年:王政復古・復飾を命じられる
明治元年:軍事総裁、海陸軍務総督、軍防事務局督、軍務官知事
     会津征討越後口総督
明治 2年:兵部卿、辞職
明治 3年:宮号を東伏見宮に改める。イギリス留学、議定
明治 6年:帰国、陸軍少尉
明治 7年:佐賀の乱。佐賀征討総督
明治 9年:陸軍戸山学校長、兼議定官
明治10年:東京鎮台司令長官、新撰旅団司令長官
明治11年:東部検閲使
明治13年:陸軍中将・近衛都督
明治15年:小松宮と改める。大勲位菊花大綬章
明治19年:欧州差遣
明治20年:帰国・近衛都督
明治23年:陸軍大将
明治24年:近衛師団長
明治26年:兼議定官
明治28年:参謀総長、日清戦争征清大総督、大勲位菊花章頸飾
明治31年:元帥・日清戦争征清大総督辞職
明治35年:英国国王戴冠式差遣
明治36年:薨去 (国葬)








大韓帝國 皇太子御成婚記念章 (箱欠)



珍しい大韓帝國の皇太子御成婚記念章
です。残念な事に共箱がありません。
お隣の朝鮮半島がまだ偉大なる大日本帝國の名誉ある植民地に
なる前の大韓帝國時代の記念章です。数的には少ないものでしょ
うから珍しいものだと思います。












大韓帝國 勲五等八卦章 (箱欠・綬外れ)




こちらも名誉ある大日本帝國の植民地と
なる前の大韓帝國時代の勲章である八卦
章の勲五等です。残念な事に共箱が欠で
ある事とまあ糸縫いで復元可能ですが綬
が外れいます。
韓国併合前の大韓帝國の勲章は、大日本帝國の勲章と類似した
というより猿真似したと思われる体系をしています。戦前も戦後も
お隣の半島の民族は…我国のパクリばかりである事が良く判り
ます。信号から交通標識から学生の制服から何から何までパクリ
ます。しかも恥知らずにも自分達がオリジナルだと嘘をついて憚り
ません…半島の横から引越しできない日本列島…日本人の不幸
を思わずにいられません。










大韓帝國 勲三等八卦章 (箱欠・綬金具欠)




こちらも八卦章の勲三等です。残念な事に共箱が欠と綬に止める金具の方が
欠です。基本構造は全て同じなので日本の金具の代用で再生できます。










満州帝國警察 警尉補 肩章(共箱)



経年の為、裏の金具に錆が出ていますが…ほぼ未使用状態の
美しい肩章です。階級の警尉補は国内の警察の警部補に相当
します。










珍しい台湾軍参謀本部の軍属手帳と採用案内




非常に珍しい台湾軍の参謀部の軍属手帳です。


中に一切記載はありません。


神村 興三 氏が所持された軍属手帖です。この台湾軍
参謀部の封筒の中に以下に掲載する採用の必要書類
を記した案内の紙が入っておりました。


         ありし日の台湾軍司令部庁舎です。

台湾軍参謀部の那須少尉から神村 興三 氏に送られた案内が二枚です。







沖縄日本復帰記念メダル(琉球政府公認)です。
1972年5月15日 沖縄が日本に復帰した記念日です。
早いものであれから40年が経過しました。

表面は観音様の上半身で上部に”宇宙即我”、下部には
”地上に平和”と記されています。裏面には…天女が舞い、
上部に”1972.5.15 沖縄日本復帰記念 ”と記されてい
ます。










陸軍の外科嚢です。







































我心の師…椿様が製作された作品です。












ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!