旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTt















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








       昭和の軍神★ノモンハンの軍神

歩兵第七十一連隊長代理としてノモンハン戦
 に緒戦より参加し陣頭指揮を執り壮烈な最期を
       遂げた 東 宗治 陸軍大佐(中佐)の品々





こちらの馬上の軍人が東 宗次 陸軍中佐(当時)
です。ノモンハン事件で緒戦より歩兵第71連隊長
代理として圧倒的な火力を誇るソ連軍戦車を前に
しても怯む事無く肉薄奮戦。昭和14年8月30日、
満州国興安北省新巴爾虎左翼旗付近で圧倒的な
敵を前に軍旗を奉焼して勅諭を奉読、万歳三唱の
後…残存将兵全軍で塹壕より抜刀し敵中深くに切
り込み突撃をし総員が壮烈な戦死を遂げ靖国神社
に軍神として祀られました。そして”武人の範”と讃
えられた方です。今も靖国神社の遊就館 展示室
10 『支那事変』では皇太后の”やすらかに ねむれ
とぞおもふ 君のため いのちささげし ますらをのとも
"とディスプレイに御歌が流れます。鈴木 聞多 陸軍
少尉や西住 小次郎 戦車隊長、山本 健一 陸軍中
尉などよく知られた昭和の軍神達と並んで東 宗次
陸軍大佐の軍服と書簡が展示されております。


東 宗次 陸軍大佐は、奈良県出身、陸士26期です。
明治25年3月12日生れでノモンハン事件で昭和14年
8月30日に戦死されました(享年47歳です)。

この陸士26期は…最期の陸軍大将である栗林 忠道
陸軍大将を輩出した事でも有名です。また同期には
宮崎 繁三郎 中将や影佐 禎昭 中将、鉢巻の名前で
有名な遠藤 三郎 中将(軍需省航空兵器局長官)もお
られました。また同じくノモンハン戦では東 宗次 大佐
戦死の少し前に同期生の東 八百蔵 中佐(第23師団
捜索隊長の東支隊長で昭和14年5月11日に戦死)が
戦死され大佐に昇進しております。尚、同じくノモンハ
ン戦で生き残り自決を強要され悲劇の公務死を遂げら
れた井置 栄一 中佐は…2期下の28期になります。

軍事保護院が遺族に贈られた横額です。東大佐の遺影と
靖国神社の写真があります。遺族が長い間、飾られていた
のでしょう。後ろも前も紙の部分に痛みがあります。



当時、楡樹縣警察大隊長 櫨幹芳が大隊長として駐屯していた
歩兵第38連隊第三大隊長 東 宗治 陸軍少佐に贈った純銀の
杯です。

(サイズ:各全高8.8cm 口径3.8cm  二個分重さ79g)
東翁大隊長恵存とあります。楡樹縣警察大隊長 櫨幹芳贈と
あります。楡樹縣は当時の満洲帝國の首都である新京市(現
在の長春市)の特別行政区である長春区にある下部行政区
画の縣です。現在は吉林省長春市の行政区画下に楡樹市が
あります。
指導と熱心の文字が刻まれています。敬神崇祖の念が篤く
大楠公の『七生報国』の精神を自らの信念とされ、戦場では
陣頭指揮をとる傍ら部下が戦死すると、砲煙弾雨のなかでも
その兵の傍に行き宮城を拝し陛下にお詫び申し上げる…その
慈悲に満ちた東隊長の姿に隷下の将兵は連隊長代理を慕っ
た。…と靖国神社の遊就館の第10展示室には遺影と共に東
大佐の軍帽、軍服が飾られており、その事績に記載されてい
ます。生真面目で何事にも真正面から熱心に取り組まれた性
格を中国人の警察幹部が拾い上げて贈る銀杯に刻んだと思
われます。


表面に三大隊長 東 少佐とあり裏に
チチハル 日満写真社の社判が捺さ
れている封筒に写真が多数あります。
軍関係で写した写真をこの地域の関係
した幹部に焼き増しして送ったものと思
われます。

当時の写真です。







陸軍中央幼年学校から士官候補生として
隊附になった時から使用した軍隊手帳で
す。見習い士官になるまでの僅かな軍歴
が記録されています。
旧姓が陸士卒業までは東本であるのが判ります。
下の勲記や位記からも判るように中尉までです。
大尉以降は東の姓になっています。養子に入られ
たか改姓されたものと思われます。
明治44年12月1日に歩兵第十三連隊に士官候補生として
隊附になります。翌45年6月1日に歩兵上等兵。2ヵ月後の
大正元年8月1日に歩兵伍長。翌月の9月1日に歩兵軍曹
に昇進し、同年12月1日に陸軍士官学校に入校。大正3年
5月28日に陸士卒業までが記載されています。


陸軍士官学校の卒業証書と集合写真です。




任官以降の勲記や位記など多数です。

戦死した日の年月日が記載された支那事変従軍記章
の証書です。陸軍大佐に特進しています。

戦死後、遺族に贈られた国境事変従軍記章証書です。










少尉任官から戦死後、大佐昇進までの全てがあります。


下のアルバムから東大佐のご遺族が奥様にお子様が三名
居られた事がわかります。長男に長女に次女の三名です。
軍服・軍刀、正衣袴以外でこれだけ出るわけですから…直
接のお子様まではご他界されて係累が無くなったか、それ
に等しい状態であった事が想像されます。これだけの武功
輝かしい軍神です。




主に大尉時代のものです。








この左右の画像の物は同時期に出て入手適わなかった品です。



荒木貞夫陸軍大将から東宗治大佐の英霊に
贈られた絹本肉筆書2枚です。




アルバム数点です。…非常に写真好きな方なのが判ります。
ご自分や家族だけでなく同僚や上司、部下の家族写真から
結婚写真・嫁さんの写真までたくさんあります。


息子さんは陸軍幼年学校に進んでいます。恐らく年代的には
任官し陸軍士官になられたものと想像します。


以下、アルバムの中身の一部を紹介します。
戦場での珍しい光景もあります。










































何気ないアルバムの中に古き良き日の日本を垣間見る事が出来ます。
















廣瀬 猛 陸軍中将(航空兵科出身)の正衣袴




廣瀬 猛 中将閣下の経歴は面白く、陸士13期、陸大22期の卒業です。
当初、歩兵科で歩兵第55連隊長を務めた後、大正14年に航空兵科が
創設された折に航空兵大佐として飛行第4連隊長に就任、その後は陸大
教官、参本第四部長、所沢飛行学校校長と創設期の航空畑の重要ポスト
を歴任して歩まれ、その後に陸大校長に就任されましたが…残念な事に
在職中に逝去されております。御存命であれば航空畑の大将にまで昇進
は確実とされる軍歴ですので残念な印象を拭えない閣下です。また正衣
袴共に保存状態が良く美品と言えます。

正衣は、流石に襟部と袖部の金モールに…経年に
よる変色はありますが珍しい程に脱落等無く、本体
生地の虫食いも見受けられません。
左胸には勲章吊り金具の留め紐があり、右腹部には勲二等章の四点留め
紐と陸大卒業徽章の留め紐(肩章留めの様なラシャ生地)があります。

衣袴共に” shikishimaya ”の表示の同じ
テーラータグが付いております。


一緒にあった陸軍参謀総長 載仁 親王殿下
主催の晩餐会(上野精養軒)への招待状。

    <廣瀬 猛 陸軍中将 略歴 >

山梨県出身
航空兵科、士候13 陸大22期

明治34年11月22日  陸軍士官学校卒業
明治35年 6 月23日  陸軍少尉
明治40年12月10日  陸軍大学校入校
明治43年11月29日  陸軍大学校卒業
大正 9年 8 月20日  陸軍大学校教官
大正12年 8月 6 日  陸軍歩兵大佐
大正13年 8 月20日  歩兵第55聯隊長
大正14年 5 月 1 日  飛行第4聯隊長
昭和 3 年 8 月10日  陸軍少将
昭和 4 年 8 月29日  参謀本部第4部長
昭和 7 年 4 月11日  所沢陸軍飛行学校長
昭和 7 年12月 7 日  陸軍中将
昭和 8 年 3 月18日  陸軍大学校長
昭和 9 年 7 月17日    歿

今も閣下の故郷の甲斐の向嶽寺の境内には
閣下の揮毫による忠魂碑があります。
この向嶽寺は1380(康暦2)年、甲斐守護・
武田信成が抜隊得勝を開山として現在地に
向嶽庵を開き、1385(至徳2)年からは南朝
の勅願寺になっていました。山梨県甲州市塩
山上於曽(旧塩山市)にあります。







満洲航空が採用した
 メッサーシュミット Bf 108 タイフン
  当時の珍しいJ-BACCの全金属製模型




戦前に満空で勤務されていた関係者のお宅から
出た珍しいJ-BACCの登録記号の入った記念の
メッサーシュミット Bf108 タイフーンの全金属製
模型です。残念ながら台座がありません。代用し
て撮影しました。
日本では読売新聞社がベルリンオリンピックの写真原稿輸送のために昭和11年
8月に1機を購入、ベルリン〜東京3日間の連絡飛行を企画したが、ソ連上空の
飛行許可が下りず、結局船便で輸入され国内では「よみうり6号機」として使用さ
れました。登録記号J-BACCは、満州国でも同様で満州航空で採用されています。

こちらは有名な海軍の戦闘機乗りでひねり込み戦法を考案した
望月 勇 海軍大尉が所持していた写真です。


メッサーシュミットBf108「タイフン」(Taifun:台風)は1934年にバイエルン航空機製造
(BFW)社(後のメッサーシュミット社)で開発された単発スポーツ機。
もともとはヨーロッパ周回国際レースの参加機として設計されたもので、著名なメッサー
シュミットBf109戦闘機に通じる全金属性引込脚の先進的なスタイルを持っている。
その後ドイツ空軍にも採用され、輸送や後方連絡用に広く使用された。本機の「タイフン
」というニックネームは女流飛行士として世界で2番目に単独で世界一周を行ったドイツ
のエリ・バインホルンによって与えられたものです。

                     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


      < Bf108B 性能諸元 >

  • 乗員:1名, ,乗客:3名
  • 全長:8.29 m ,,,全幅:10.62 m
  • 全高:2.10 m ,翼面積:16 m2
  • 自重:805 kg ,全備重量:1,400 kg
  • エンジン:アルグスAs10C(270 hp)
  • 最大速度:300 km/h
  • 巡航速度:260 km/h(高度 2,440 m)
  • 降着速度:80 km/h
  • 航続距離:1,000 km
  • 実用上昇限度:6,200 m

台座以外に欠品も破損もありませんが戦後、長い歳月の経過で
塗装の剥げや小傷などがあり保存状態が良好とは謂えない一
品です。しかし日本国内では1機しか輸人されなかった名機で
すので貴重な模型機の記念品と謂えます。
満洲航空で採用されたこの機体が他のユンカースJu86,160
やハインケルHe116などと共に満洲〜支那各地の空を翔け
抜けた事を夢想すると当時の日本人のスケールのでかさを
改めて思い知らされます。ドイツ機だけでなく英国機に米国
機も採用し新型機の開発のサンプルとしています。












在職中にニューギニアで戦病死された
 歩兵第四十一師団長 阿部 平輔 陸軍中将の縁の品




ニューギニアで戦病死された阿部 平輔 軍衣
第41師団長の開襟軍衣です。

南方用の薄手の合服開襟軍衣で涼しそうです。
左胸に略綬板と右胸に隊長章を取付ける
糸掛があります。内側に「阿部」の刺繍布
が有ります。

   ◆阿部 平輔 陸軍中将(略歴)◆

宮城県出身、陸士21期
正四位功三級

昭和13年 第八国境守備隊長
       翌年、ノモンハン事件に!

昭和15年 盛岡予備士官学校校長
昭和16年 留守第二十師団長
昭和17年 第四十一師団長(宇都宮編成)

昭和18年 6月、在任中に戦病にてウェワク
       に死亡。


阿部閣下が使用された略帽です。
サイズ:56p。
後部の調整紐が欠品しています。また外貌的に大きな
ダメ−ジは有りませんが、小汚れや後部の合せ目に小
破れが有り、内部の布張りに大きな破れが有ります。




米軍B-25の執拗な低空爆撃に晒されるウェワクの日本軍
左上は第十八軍司令官の安達中将。右上は阿部閣下
の戦死後、第四十一師団の指揮を執った新師団長の
真野 五郎 中将。下は敗戦で降伏文書に調印し軍刀を
連合軍の司令官に差し出す安達二十三中将です。







山田 国太郎 陸軍中将が泰國大使館附陸軍武官
  (兼 泰國駐屯軍参謀長)を去る時に作り関係者
     に贈った記念の象嵌細工のシガレットケース




見事な記念の煙草入れです。全体が銀と銅で作られ内部は木製です。
大きさが14.5cm×9.3cm×3.5cmです。蓋に美しい象嵌細工でタイの
寺院をモチーフに作られています。



”御協力ヲ謝ス 昭和十九年十月十七日 ?(タイ語)盤谷(バンコク) 獨送 陸軍武官”

・・・と正面に彫られてあります。この事から昭和19年10月17日近辺までバンコクの
日本大使館で陸軍武官を務めていた方を調べると山田 国太郎 閣下(当時、少将)で
ある事が判明しました。開戦時の陸軍武官だった田村 浩 中将(俘虜情報局長官)の
後を受けた守屋 精爾 中将(戦病死)の後任となったのが山田 閣下です。昭和18年
1月21日にタイ国駐屯軍参謀長兼タイ国大使館附武官となられ同年10月29日 に
中将へ昇進。翌年の昭和19年11月22日に第48師団長として転じるまで陸軍武官を
勤められておりました。尚、閣下の後任は浜田 平 中将です。この方は最後の陸軍武
官となりますが…昭和20年9月17日 、バンコクで自決されております。


          <山田 国太郎 陸軍中将 略歴>

   愛知県出身
   歩兵科、功四級
   士候27 陸大40恩賜


大正 4 年 5月25日  陸軍士官学校卒業 
大正 4 年12月25日  陸軍少尉 
大正14年12月26日  陸軍大学校入校 
昭和 3 年12月12日  陸軍大学校卒業 
昭和 9 年10月10日  陸軍大学校教官兼研究部主事 
昭和12年 8月 2 日  陸軍歩兵大佐 
昭和12年 8月30日  第2軍情報課長 
昭和13年 3 月 1日  陸軍省兵務局兵務課長 
昭和14年 1 月16日  陸軍省兵務局防衛課長 
昭和14年 4 月21日  戦車第5大隊長 
昭和14年 7 月23日  公主嶺陸軍戦車学校教導隊長 
昭和15年 3 月 9 日  陸軍公主嶺学校幹事 
昭和15年 8 月 1 日  陸軍少将 
昭和16年 4 月10日  陸軍機甲本部附 
昭和16年12月 5 日  第1戦車団長 
昭和17年 4 月 1 日  戦車第2旅団長 
昭和18年 1 月21日  タイ国駐屯軍参謀長兼タイ国大使館附武官 
昭和18年10月29日  陸軍中将 
昭和19年11月22日  第48師団長 








陸軍九七式戦闘機(キ-27)の主輪




中島飛行機製の九七式戦闘機の車輪(主輪)です。
平成18年8月15日の神戸新聞にこの車輪の記事が掲載されています。
その内容によると、大戦末期に尾上飛行場(兵庫県加古川市)に所属し
ていた九七式戦闘機の車輪で戦後に近隣の農家で荷車の車輪に代用
されていたものを譲り受けたもののようです。元所有者の方が何処かの
資料館や展示に貸し出ししたようで展示用の説明パネルも一緒にあり
ます。サイズは、600×175。ブリジストンのBSマークもあります。














前のオーナーの名前は消してあります。




戦後しばらくまでは残されていた加古川空港の空中写真です。
下は拡大画像です。三角飛行場と謂われたのが良く判ります。

              ◆加古川飛行場(尾上飛行場)◆

昭和12年 に陸軍が主に戦闘機による関西地区の防空および少年飛行兵の
訓練の拠点として開設しました。建設された町名をもとに「尾上飛行場」とも
通称されました。 また3本の舗装滑走路が三角形状に連結された特徴的な
構造から「三角飛行場」とも呼ばれました。基地には飛行第13戦隊、飛行第
246戦隊,第1教育隊などが展開し97式戦闘機などが運用されました。また航
空分廠なども設置されるなど大規模な一大航空基地でありました。大戦末期
の昭和19年10月頃からは各地の陸軍基地から知覧基地に向かう特攻隊が
集結・燃料補給拠点として多くの特攻隊員が立ちより、また当基地からも数次
の特攻隊(第76,213,214神武隊)が出撃しました。

昭和25〜28年位までは滑走路が現存し、藤田航空による小型機の遊覧飛行
に利用されたり、自衛隊がトラック運転の訓練所として利用するため一時駐屯
したこともありましたが、現在跡地はオーミケンシの加古川工場や商業地、住
宅地になっており当時を忍ばせるものはほとんど現存していません。基地の面
前にあった旅館「中村屋」は出撃前の隊員の慰安施設として利用されており隊
員が残した遺書などとともに慰霊碑があったが旅館の取り壊しとともに近在の
鶴林寺に移設されました。

当時の主な概要は以下のとおりである。

・面積 :約1,170,000平方メートル

・滑走路

・全長2,750フィート、幅325フィート (舗装)
・全長1,850フィート、幅325フィート (舗装)
・全長1,700フィート、幅325フィート (舗装)
・全長4,500フィート、幅1650フィート (非舗装)
・全長3,700フィート、幅1650フィート (非舗装)

                
               
引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』










軍服からの取り外し品の空中勤務者章です。よくある
航空胸章は単に航空部隊に所属する将兵である事を
示し、そこには整備兵もいれば事務方なども大勢いま
す。航空胸章にこの空中勤務者章を胸につけている
者はパイロットもしくは搭乗者(偵察・通信の航空兵)
のまさに空中勤務者である事を意味します。












一枚の写真から…

駅のホームです。これから出発する
のか背嚢に手袋をはめ左手にはサ
ーベル型軍刀を手にしたフル装備の
陸軍軍医(少尉相当官)です。右腰
には左手で見えませんが斜革より拳
銃嚢と図嚢などを携えているようで
す。左手の奥には多分、醫療嚢もあ
るものと想像します。



こちらは珍しい日赤の医官の
写真です。明治時代と思われ
ます。






珍しい陸軍気象部の営外居住証です。第18号とあります。




京都航空機乗員養成所監視員の腕章です。
グライダーの滑空免許を持った人が各地で
少年飛行兵や予科練などを目指す少年達を
指導した時に付けたものです。



ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!