旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装...etc)PartTs















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








珍しい九一式車載機関銃または
      九七式車載機銃用の照準器眼鏡




非常に珍しい九一式または九七式の車載重機関銃用の照準眼鏡です。
下図のものと同じで富岡光学製です。(下図では九十式となっています
が間違いで九一式または九七式車載重機関銃用照準眼鏡が正しい筈
です。)尚、惜しい事にオリジナルの収納箱は欠で品物だけです。

板橋と光学 Vol.2 -国産一眼レフ誕生の地・板橋-より










流石は戦車用なので衝撃でケガをしないように
接眼部分も非常に大きいのが印象的です。まだ
ひび割れ等の劣化も無くしっかり機能しています。

照準眼鏡としても今も問題なく機能しています。




富岡光学の刻印とシリアルンNO.
の刻印が読み取れます。


これらは当時の日本を代表する光学メーカーの刻印です。



重機関銃に取り付けする金具の先が切れかけています。


この写真は2010年の10月〜11月に開催されていた板橋区立郷土資料館
の企画展で『板橋と光学〜フィルム発祥の地 光学王国〜』での展示品を
撮影したものです。殆どが高名なガンマニアで陸自の武器学校のアドバイ
ザーも務める須川薫雄氏のコレクションです。真ん中にあるのが、上のもの
と同じ車載重機関銃用照準眼鏡です。こちらも九十式車載重機関銃用照準
眼鏡となっていますが、間違いで九一式または九七式車載重機関銃用照準
眼鏡が正しい筈です。



九一式は十一年式軽機関銃を改良し改良した車載機関銃です。
十一年式軽機関銃から銃床を取り外して防弾器と倍率1.5倍の
照準眼鏡を取り付けました。給弾は装填架を使用していましたが
のちに45発入弾倉を採用しました。口径 6・5mmで名古屋工廠
で生産され、その生産数は2.043挺とされています。



九一式の後継としてチェコ機銃をベースに戦車や装甲車に搭載する為
に開発された口径7.7ミリの重機関銃です。九一式と同様に銃身を守
るための防弾器と共通の倍率1.5倍の照準眼鏡を装着しました。



九七式車載機関銃弾薬紙箱




九七式車載機関銃用の口径7.7mmの銃弾です。
箱の形状からも五発クリップに装着されていたと
思われます。
カートリッジクラブが十数年前に復元カートリッジボックス
を作ったそうです。当時の代表の方が蓋の部分のない
箱を入手して復元したのではないかと推測されます。


カートリッジボックスの底には昭和17年3月の製造刻印が入っています。










戦時資料:従軍報道記者(カメラマン)
       の遺した大判戦場生写真の数々
             (支那事変)




昭和13年〜14年を中心とした支那事変の戦場を撮影しています。
B4より大きな台紙にA4サイズに欠ける大きさの大判写真が貼られ
後ろに詳細なキャプションが付けられていますが、写真の説明と言う
形でなくカメラやレンズ、現像方法など専門的な物が中心です。これ
等は恐らく何処かで展示されたものだと思われます。この写真を撮
影した従軍記者の名前も会社も不明ですが、戦場を往く兵士の生の
素顔や現地の子供や老人の素顔もカメラで追っており結構な力作だ
と思います。写真ジャーナリズムの原点のような生写真だと思います。
広東省、徐州、山東省、江西省と広範囲に移動して撮影しています。


救命胴衣を付けた兵士を乗せた大発の上を離水して飛んでいく
水上機です。題名は”海空一体”です。昭和13年10月23日に広
東省虎門で撮影されています。水上機はシルエットから九五式
水上偵察機(E8N)と思われます。支那事変では大活躍した機体
で、偵察・哨戒・爆撃・空戦となんでもこなした万能機でした。後
に零式観測機の登場で引退を余儀なくされた名機です。



徴発したような小船から左側の数隻は大発のようです。


裏に説明がありません。大きな河川と思いますが延々と
救命胴衣つけた兵士を乗せた大発が続いています。大
規模な渡河上陸作戦と思われます。


小休止なのか上陸なのか不明ですがバックの背景
と言い大陸の例えようの無い広大さを感じさせます。


重武装の兵士達が息を切らせながら高台を登っています。
後方には広大な河川と水郷が果てしなく広がっています。


バナナの実がなっています。ここまで来ると東南アジアの
ような気もしますが南支那なのでしょう。


教会でしょうか英仏などの租界地が近くに
あるのか…裏書も無く不明です。


広東省官蜜塩とあります。上の洋風建築の続きの写真のようです。



何となく郷愁を誘う写真です。人も馬も輸送船に積まれて
戦地に向かいました。この時期は支那ですが後には南方
へ果てしなく遠い地へ船出しました。軍属となった民間船
員も悲惨です。その40%以上が敵潜水艦や航空機の餌
食となり陸海軍の兵士より高い戦死率を記録しました。


昭和13年6月に徐州市内で撮影とあります。略帽に帽垂れの後姿の
皇軍兵士のシルエットに煉瓦壁に日本兵が支那人の子供を抱くポス
ターが象徴的です。この年の3月に近くの台児荘で陸軍は国民党軍
の頑強な抵抗に徐州攻略を一時諦め撤退し、5月に援軍を集めて徐
州を包囲し同年5月20日に要害の地・徐州を陥落させました(徐州
会戦)。入場し間もない頃の写真と思われます。



山東省官庄にて昭和14年8月の午前11時に撮影された写真で
題名は”歩哨”でそのまんまです。トーチカ風に石を積んだ半地
下の民家だったのでしょうか押収されたのか、その上で歩哨に
立つ日本兵の帽垂れが風を受けて膨らみ涼しそうです。



江蘇省双溝で昭和13年4月27日午後3時に撮影された
写真です。題名は無く…地元の老人か?後姿の男性が
料理をする姿を撮影しています。



小さな支那人の子供が大きな子供にご飯を奪われたのか
必死に怒っている様子が伝わってきます。周りの雑嚢や
ゲートルから、日本兵から白飯を小さな坊やがもらったの
でしょう。それを左の子が強引に取ったのか…『返せよ!』
とばかりに抗議する右の子の真剣な様子が伝わってきます
。山東省雛平縣城にて昭和13年2月午前8時に撮影されて
います。兵隊がたくさんいる戦地の風景の中、現地の人々
の生活を見事に捕らえたワンショットだと思います。



昭和14年4月に山東省莱陽縣城外で午後3時に撮影された
写真です。題名は”命令受領”です。手前に飯を食い休憩す
る兵士がいて奥に軍刀を持つ将校の前で9名の兵が並んで
命令を書きとめています。右端は三十二年式軍刀を下げて
いますので曹長さんでしょうか。他、何名かは拳銃嚢を付け
ています。



朧海線、所謂、ロンハイ線です。千葉の鉄道第二連隊が
運営管理しました。この写真の兵も鉄道第二連隊の兵士
である可能性が高いです。


題名のとおり”黄塵”です。たまらない感じですね。今も昔も
大陸は変わらず黄砂を巻き上げていたわけですね。



昭和14年1月23日午前8時撮影の山東省寿光縣城の
城門を防寒姿の日本兵が銃を担ぎ日の丸を背負い入
城する光景を収めた写真です。題名もまさしく”入城”
です。



次々に日の丸に塗り変えられる勢力図を見る支那人達。
彼等の心中に去来した想いは本当はどうだったのか?国
民党には虐殺され、後に治めた中共には貧しき自由なき
生活を強制され…文化大革命をはじめ謂われ無き罪で多
くが虐殺されました。日本と満洲帝國や共鳴した蒙古聯合
などと共に自由を謳歌した方が彼等にとっても幸せだった
のでは無いかと思いますが…。



日の丸を振り日本軍を出迎える支那の民衆達。親日興国・抗日亡国
共産主義打倒のスローガンが壁に踊っています。



昭和14年8月、討匪行とあります。匪賊を討伐に玉蜀黍畑の
横を小銃を担いで歩く日本兵の姿を収めています。のんびり
した風景にも見えますが兵隊さんの苦労が偲ばれます。


1月24日です。防寒帽を被り焚き火に当たっています。
しかし寒そうですね!







戦前の朝日新聞 従軍記者が
 使用した考えられる軍用規格の鉄帽




軍用と同じ九〇式鉄帽です。サイズは小号で
唯一の違いは陸軍の星章や海軍の錨マーク
の前章で無く、戦前の朝日新聞の社章を前
章にしている点です。
内部も革帯(3枚)に座布団、顎紐、革帯纏め紐は
オリジナルの完品です。星章を前章にすれば陸軍
の九〇式鉄帽そのままです。



神戸製鋼の製造刻印のSが見えます。







戦前の朝日新聞の半被(はっぴ)




敗戦前のまだ反日団体に陥る前の朝日新聞の半被です。
未使用のデットストックのようです。こうした半被を着て街
中で号外を配る姿が想像されます。日本の戦前から続く大
新聞はどうしてたった一度の敗戦でこうまで反日・反国民
団体へと転落したのでしょうか??落ちる所まで落ちて今
やチョウニチ新聞と笑われマスゴミと哂われています。すで
に情報通信は活字新聞よりTVへそしてネットへと変わりつ
つあり、巨大新聞メディアが持つTV局も凋落しネット社会が
偏向報道を正しマスゴミによる暴動を戒める時代に突入しま
した。最早、NHKなどを見れば判るように巨大メディアが嘘の
情報を流し国民を扇動しようとしても、その意図がばれて逆
に国民より訴訟を起こされる時代になりました。第三の権力
に胡坐をかいていた驕り高ぶったマスゴミ人は真摯にこの流
れを受け止めて反日姿勢や反国民姿勢を反省し支那や朝鮮
を見るのでなく足元を見るという、本来あるべき正しい姿を取
り戻すべきでしょう。









中支の徐州会戦で負傷し帰国した
 歩兵第五十八聯隊 歩兵第二大隊
  第二機関銃中隊 牧口 豊雄 上等兵
   の認識票と戦傷時の後送票と証明書等




中々、珍しい物です。兵隊としては致命的ですが生命予後としては
比較的軽症である右膝蓋骨々折で野戦病院に後送された時に前
線の衛生兵が担架や負傷兵本人に取り付ける後送票です。今でい
えば少し違いますがトリアージカードのようなものです。本人が軽症
で意識がはっきりしていたからこそ、これ等が捨てられず残ったもの
と思います。よく誰の物か判らない認識票が出る事はありますが、
こうした取り合わせで出てくるのは非常に珍しいです。


昭和13年9月14日に最初に収容された仮包帯所から
郷里の信州・高田に帰郷したのが同年11月29日です。
その後県内の温泉地で湯治を繰り返しているまでが
記載されています。







陸軍の航空搭乗員用に特別補充食
  として作られたビタミンA及びDの100錠瓶




ビタミン補給食です。航空兵の視力向上などに使用されたと思われます。
瓶入りと、箱に入った状態と2つ出てまいりました。箱の方の糊付けを剥
がして出して見ましたら、壜と同一のものが出てまいりました。昭和十八
年十月一日製造となっています。千葉水産化学納とあります。












満州国軍事最高顧問 が建国拾周年記念
         に贈った 遺芳の 七宝焼花瓶




七宝焼の雲龍文花瓶です。満州国建国拾周年記念を祝って
遺芳とありますので満州国建国に尽力した民間人や軍人など
亡くなられた関係者に満州国軍事最高顧問より贈られたもの
と思います。ヘコミや錆・表面割れ等の傷みがあります。
満州国建国は大同元年(1932年・昭和7年)です。建国拾周年は
康徳9年(1942年・昭和17年)になります。
初代の最高軍事顧問は、多田駿少将(後に大将)です。
この拾周年の最高軍事顧問は、河野悦次郎中将(当時
少将)でした。
少将時代の河野閣下です。
67年の月日を経た満州の花瓶は何を見てきたのでしょうか
?…凹みや傷を見ていると複雑な想いが錯綜します。









明治38年に従軍写真師・若尾 庄司 氏
  が撮影した写真を明治39年に非売品で
      作成した第一師団歴戦記念写真帖




明治39年春 第一師団司令部附 従軍写真師若尾庄司謹製
の非売品 写真帳”第一師団歴戦記念写真帖
です写真帖
寸法:28.0cm x 19.0cm
コロタイプ刷写真全119枚を嵌め込み
背・コーネル革/平バックラム装

119枚の写真内容:
「嗚呼乃木将軍 右手ニ持スルハ是将軍ノニ愛子ガ将ニ
戦争ニ参加セントシ撮影シタル種板 千古ノ英雄感無量」
「南山ニ於テ戦死者ヲ支那車輌ニテ運搬スルノ処」
「十三里台戦闘ニ於ケル我戦死者」
「我廿八珊砲ノ展盤溝ヨリ二〇三高地ヲ猛射スル光景」
「占領当日ノ奉天城内ノ光景」
「二〇三高地占領後第一師団戦没者ノ掃索」
「於孤樹子南山占領記念(歩兵第三連隊出身将校)」
「明治三十七年十二月五日午後五時二十分「ナマコ」山
ヨリ二〇三高地ノ石投戦線ヲ望ム」
「奉天城内旧宮殿愛親覚羅氏ノ離宮」
「露探刑ニ処セラル」
「明治三十八年三月八日后〇時二十分「ウンガンツン」ニ
向テ進撃スル我歩兵二旅団」
「旅順東港ヨリ西港新市街ヲ望ム」
「斃ルルモノ是金州占領ノ時ニ於ケル名誉ノ戦死者 傍ニ
立ツモノハ是レ其同僚戦友 人生悲壮ノ極致」
「於昌図 生田目枝隊深ク敵地ヲ侵シ此地ニ於イテ敵大部
隊ノ包囲スル処トナリシモ奮闘難戦遂イ彼ヲ破リテ帰ル」



















戦時資料:防空壕の設計図




都市空襲に備えた内務省案の防空壕の設計図です。地上用
地下用、都市部の公共防空壕の設計図ですが、数種類ある
設計図の一枚と思われます。

この図面にはC、D、Eの3つの防空壕が描かれています。恐らく
他の設計図に@〜Bがあると考えます。横穴や洞穴を利用した壕
から地下、半地下、地上式と様々なタイプの防空壕が存在しました
が日本では、昭和19年頃より学校の校庭や公園や空き地、各家
々の庭や敷地内に大量に作られ利用されました。






基本構造は概ねこの設計図の通りです。大きさは一弾による被害を
局限するために 20人収容を限度とし、なるべく小単位のものが分散
的に配置されるべきである。構造は、座るか、腰掛けていられる程度
の深さ、すなわち 1.5m 程度に穴を掘り、土質が軟弱である場合は
杭と板で土留めをし、掩蓋として丸太、角材などを渡し、雨戸や板など
を敷き、掘り出した土を 30〜60cm 厚さに積む。以上は地下式の場
合である。地下水位が著しく高い、または舗装地面であるなど、地下
式にできない場合は半地下式、地上式とするが、その場合の側壁の
厚さは、土嚢などにより土を用いた場合は 1m 以上、煉瓦、石その他
の場合は 50cm 以上を標準とする。

入り口は弾片、崩壊物の飛散物、爆風などが直接、侵入しないように
防護塀を設けたり、入り口を屈曲させたりする。入り口に厚い板戸を設
ければ爆風をある程度阻止し、雨水の浸入を防止することができるとさ
れ、防毒幕を二重以上適当に取り付ければ防毒の効果も期待できよう
といわれた。壕内への雨水の流入の防止、また排水については特段の
注意を払い、床は板敷きまたは砂利敷きにするなど、水でぬかるまない
ように心がける。壕内に木または土嚢などで腰掛けを設ければ便利で
ある。

今も日本各地に残る防空壕の跡です。上の設計図のように
作られたもの自然洞窟を利用したもの。地下式、半地下式
横穴式など様々です。


人々に出来る事は空襲警報を聞くと防空壕に避難する事だけです。
誰もが不安な顔の中で無事に通り過ぎる事だ
けを祈りました。生死は、運次第でありました。
地域により防空壕は様々です。ビルであれば地下に退避
する場所、横穴も竪穴もありますし上の写真のように防空
壕と謂うより小さな退避壕と謂うような穴に不安そうな面持
ちを隠せない人々を捕えた写真です。
ビルの入り口には爆風を防ぐ砂嚢が積まれています。下は地下に
退避する人々を写した写真です。時に凄まじい爆撃は防空壕もろ
ともビル丸ごとを押しつぶし地下や壕内で退避した人を生き埋めに
にする事も多く…多くの被害者を出しました。







宮城事件で監禁されも玉音盤を守り抜いた
 下村 宏 国務大臣兼内閣情報局総裁の直筆色紙
        (海南)




内閣情報局総裁の地位に就く前が日本放送教会
(現在のNHK)の会長であった人です。また大阪
朝日新聞の副社長まで勤めたジャーナリストでも
あります。玉音放送の勅語放送の前に下村総裁
が陛下自らの朗読である事を述べました。これが
正午の事でした。その12時間前の8月15日午前
零時過ぎ、玉音放送の録音を終えて宮城を退出し
ようとした下村総裁とNHK職員等は坂下門付近で
近衛歩兵第二連隊第三大隊長の佐藤好弘大尉に
より拘束され、付近の守衛室に監禁されました。午
前7時から8時までの間に田中東部軍管区司令官
が兵の撤収を命じ宮内省や宮城内の反乱の鎮圧
をはかり下村総裁等も無事に解放され無事に玉音
放送が正午過ぎに流れ8月15日の暑く長い敗戦の
日が終わりました。
                                        
                   ◆ 下村 宏 ◆

明治8年5月11日〜昭和32年12月9日。和歌山生まれ、官僚、ジャーナリスト。
東京帝国大学卒業後、逓信省に入り、為替貯金局長等を務める。大正4年、
明石元二郎台湾総督に招かれ、台湾総督府民政長官(後に総務長官)となり
植民地行政に携わる。大正8年法学博士。10年に大阪朝日新聞社入社、
昭和5年副社長となる。11年に退職し、12年貴族院議員となる。18年日本放送
協会会長。20年4月鈴木貫太郎内閣に国務大臣兼情報局総裁として入閣した。
同年戦犯容疑者として拘留。21年から26年にかけて公職追放。
著作に『新聞に入りて』や『終戦秘史』があり、エッセイや歌集も多い。
 
玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したこと
でも知られている。拓殖大学第6代学長。和歌山県出身。下村宏は歌人としても
知られ、下村海南の名前で多くの作品を残している。

                 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                     日本大百科全書(小学館)







菱刈 隆 陸軍大将 肉筆短冊





                 ◆菱刈 隆 陸軍大将◆

明治4年11月16日 - 昭和27年7月31日、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
幼名、幸吉。薩摩藩士、菱刈八郎太の三男として生れる。成城中学校を経て、明治
27年7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、陸軍少尉に任官し、日清戦争で
は歩兵第3連隊付として出征した。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)
を卒業。歩兵第26連隊中隊長、陸軍戸山学校教官、台湾総督府参謀を歴任。
日露戦争では、第1軍参謀として出征した。戸山学校教官、教育総監部課員、欧州
出張、陸軍省軍務局課員、陸軍歩兵学校教官、歩兵第4連隊長、第2師団参謀長
などを歴任。1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級し、歩兵第23旅団長、戸山
学校長などを経て、大正12年8月、陸軍中将に進級。由良要塞司令官、第8師団長
、第4師団長、台湾軍司令官などを歴任。1929年(昭和4年)8月、陸軍大将に進み
、関東軍司令官、軍事参議官、満州国大使などを歴任。昭和10年8月、予備役に
編入され、昭和16年4月に退役した。大日本忠霊顕彰会会長、大日本剣道会会長
も勤めた。
 
                  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 









初代鉄道大臣を勤めた
    元田 肇(国東) の肉筆短冊






                  ◆ 元田 肇 ◆

政治家。大分県生。元田直の養子。本姓は猪俣、国東と号する。
東京帝大卒。第一次山本権兵衛内閣の逓相、初代鉄道相に就任。
また衆議院議長・枢密顧問官を務める。昭和13年(1938)歿、80才。

                    出典:思文閣『美術人名辞典』








台湾総督 田 健治郎(譲山) 男爵の肉筆短冊






               ◆ 田 健 治郎 男爵 ◆

官僚・政治家・男爵。田英夫の祖父。幼名梅之助、諱は季秋、号は譲山。
丹波生。渡辺弗措・小島省斎門人。後藤象二郎に認められ、逓信次官・
勅選貴族院議員・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。関西鉄道会社・
九州炭鉱等の社長、南洋協会々長等も務める。昭和5年歿、76才。
 
                      出典:思文閣『美術人名辞典』







戦時資料:航空機メーカーの電圧計の
       テスターと思われるような計器




昭和19年4月の東京航空(株)の銘板のある電圧計が
正しく値を出しているかを調べるテスターのような機械
だと思われます。
東京航空(株)は今も現存しTKK 東京航空計器(株)と同じ名称のまま
現在は蒲田より町田に本社を移しています。昭和12年創業し主に定針
儀、水平儀、旋回計、昇降計、磁気コンパス、自動操縦装置を製造、昭
和16年には航空計器で国内最大の最大手の企業にまで成長。戦後は
民需にも進出したが今も防衛庁を中心に自衛隊の航空機、ヘリコプター
から戦車の計器類を手掛けています。
非常に軽くてコンパクトです。縦・横・他三面で置く事が可能です。










一枚の写真から…

駅のホームです。これから出発する
のか背嚢に手袋をはめ左手にはサ
ーベル型軍刀を手にしたフル装備の
陸軍軍医(少尉相当官)です。右腰
には左手で見えませんが斜革より拳
銃嚢と図嚢などを携えているようで
す。左手の奥には多分、醫療嚢もあ
るものと想像します。



こちらは珍しい日赤の医官の
写真です。明治時代と思われ
ます。






珍しい陸軍気象部の営外居住証です。第18号とあります。




京都航空機乗員養成所監視員の腕章です。
グライダーの滑空免許を持った人が各地で
少年飛行兵や予科練などを目指す少年達を
指導した時に付けたものです。



ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!