Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
戦前・戦後資料:明治から戦後の昭和期まで
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非常にレトロで明治・大正・昭和の戦前を想起 させる電話機です。 |
明治30年頃より使用され始め前後まで約70年間、日本全国 で使われ親しまれた戦前を代表する電話機と謂えます。 |
昭和29年10月の今は懐かしいNTTの前身で ある電電公社の銘板が貼られています。 |
陸士61期最後の将校生徒だった
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以下の品々は、当サイトとリンクしてお世話になっている 古本屋の常連様より仲介があって陸士61期の元将校生徒 だった てんみんパパ 様の縁の品二点を寄贈いただいたも のです。てんみんパパ様の御使用になられた外套と兄上の 御使用になられた防塵眼鏡です。 公開に辺り改めて 古本屋の常連 様と二点の想い出の品を 御寄贈くださいました てんみんパパ 様に改めて感謝致しま す。(以下のバーナーをクリックすると古本屋の常連様のサ イトに飛びます。) ↓ |
末期の物資不足でよくある幼年学校生徒や士官学校生徒 のダブル外套でなく、立襟時代の兵下士官用のシングル外 套です。同期生だけでも1800名以上です。平時の軍縮辞代 では、卒業生が220名前後という時代もありました。その頃 から比べると9倍近い生徒数になります。物資不足の末期に 本土決戦に備え国内で大増員の即席皇軍兵士を量産して いるなか官給品の一式を将校生徒に与えるのも難儀だった と思われます。 |
非常にたくさんの方が着用されたのが記名を見ていると 判ります。何故か上の検定印のある標記部分が切り取ら ています。外套の生地は末期のものと違いまだまだ余裕 のある時代の外套なので比較的、上等な生地で作られ ています。 |
両肩に肩章止を外した跡が残されています。また生徒用の 釦が付け変えられています。戦後に使用されて付け替える ケースかもしれません。検定印の標記部分が切り取られて いるのもそのせいかもしれません。 |
この外套の持ち主だった てんみんパパ さんの プログは、以下となります。(クリックで飛びます) ↓ |
てんみんパパの懐かし寫眞館 |
上の画像の左側は、てんみんパパ様の予科士官学校 の同期生達の画像です。アカタンの襟章が眩しいです。 また右側の体操服姿は、てんみんパパ様とのことです。 今の時代に若者に無い凛々しさと誇りを感じさせます。 てんみんパパ様は昭和2年東京は渋谷に生まれ、地元 渋谷小学校から商業学校に進み陸軍予科士官学校で 敗戦を迎えます。この時…18歳、軍人の道を絶たれた 後は東京商科大に進まれております。 |
てんみんパパ様の兄上(陸軍中尉)が
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てんみんパパ様のお兄様で敗戦時に大分陸軍少年飛行学校 の中隊長をされていた方が使用されていた防塵眼鏡です。 |
若い青年将校だったお兄様が部隊内外の移動に側車付二輪車 (所謂、サイドカー)などに乗る時に使用されたものと想像します。 |
防塵眼鏡は戦後は仕舞いこまれていたようで とても保存状態が良いものです。流石にゴムは へたって伸び気味ですが。 |
戦前の御皇室の御写真:二人の殿下 |
金沢の歩兵第七連隊第三大隊長(陸軍歩兵少佐) の東久邇稔彦王殿下です(後の総理大臣、陸軍大 将、大勲位功一級、戦後に皇籍を離脱され東久邇 稔彦と名乗られました。) |
後の昭和天皇となられる若かりし頃の東宮殿下です。 近衛帽章を軍帽に付けておられるのが判ります。 |
昭和天皇侍従長 入江相政 の直筆色紙 |
◆ 入江 相政 ◆ 随筆家・宮内庁侍従長。東京生。東京帝大卒。公家華族の 冷泉家の分家、入江家の三男。昭和9年(1934)学習院大 教授から侍従となる。以来51年間昭和天皇に仕える。 両陛下の訪欧、訪米の随員を務めた。随筆家としても知ら れ、『侍従とパイプ』『天皇さまの還暦』等数多くの著書を通 じて”人間天皇”の素顔を国民に紹介しました。また冷泉家 伝来の古文書や公家屋敷の調査・公開等で大きな役割を 果たした。昭和50年勲一等瑞宝章受章。 昭和60年 歿、享年80才。 |
戦時資料 戸山国民学校の学童疎開の資料 |
東京都戸山国民学校(現在の新宿区立戸山小学校)が 戦時中に発行した学童疎開輸送証明書と当時使用した 東京駅の入場券(昭和19年4月30日付)1枚と同じく、 東京駅発行の列車急行券(昭和19年5月23日付が1 枚、同年6月30日付が3枚)4枚です。東京の学童疎開 は昭和19年から始まりました。しかし良く残ったものです。 学童と共に地方にあったからこそ空襲で焼けずに残った とも考えられます。…貴重な当時を知る生き証人のような 資料です。私の自宅からも遠くなく若い時に勤務した場所 にも非常に近いので感慨深いです。 |
学童2名を連れた引率者の女性3名の証明書です。東京駅から 行き先、近江線か近鉄線、字が汚くて良く判りませんが日○駅 までです。戸山国民学校は茨城県に疎開されている方が多い ように資料に書いていありました。 |
下は新宿区百人町にある戸山小学校です。新宿は歌舞伎町の すぐ裏にある大久保・新大久保駅のすぐ近くで社会保険東京中 央病院などがあります。 |
↑ クリックすると現行の戸山小学校のHPが開きます。 |
陸軍航空技術大尉の身分証明書 |
敗戦時に航空技術大尉だった方の昭和19年の中尉時代の 身分証二点と敗戦後間もない頃の公務運賃割引証です。 |
昭和19年10月の陸軍航空総監部と航空本部 のIDです。装備科勤務とあります。下の19年4 月の第二陸軍航空研究所のIDと同じで九八式 の頃の中尉の写真を貼付してあります。右胸に 航空科山型胸章、九八式中尉襟章の奥に飛行 将校襟章をつけています。IDがよく見られるよ うになるのは大戦の後半です。民間人の出入 りの際や雇人などの鑑札や身分証はあっても ある時代までは、軍服を着ていれば特に将校 であればフリーパスだったのでしょうが大戦が 始まり防諜意識が特に強くなり重要施設では 空襲目標になるのは必定ですので出入りを厳 しく管理するのも当然と言えます。IDに貼付す る写真は通常は1ヶ月以内とか3ヶ月以内の 直近というのが現在では大体は規定があるの ですが、当時はそこまでうるさくなかったようで す。三式軍装は昭和18年10月12日制定です。 一年以上前の写真を貼付しているのは明らか です。 |
昭和10年8月に創設された陸軍航空技術研究所は 昭和17年10月15日に第1〜第8航空技術研究所に 分割されました。都内では荻窪、調布、砂川に出張 所がありました。この本永中尉は、第二陸軍航空研 究所が勤務先となっており本籍が京都市、現住所が 荻窪になっておりますので荻窪に第二研究所があっ たものと想像します。因みに第三研究所は三方原に 出張所があったようdす。 |
故郷である京都の谷木駅から都内までの二等4割引の割引証です。 |
陸軍★無線電源(発電機)用の201型発動機 |
三國商工製です。あのキャブレターで有名なミクニです。 実働がどうかのチェックはしていませんが、ガソリンタンク 以外は揃っているようです。クランクは、回りますので、 まだ焼き付いてないようです。 |
シリンダーに覆いがついており、スクーターのエンジンの強制空冷と 同じ構造で、昔から同じ方式だったのが判ります。尚、このエンジンを 使って、戦後バタバタと言われた自転車バイクが出来ました(所謂、 原付…原動機付自転車)。 |
二式複戦 屠龍 の尾輪 |
残念なことにホイールは敗戦直後で 民生品に置き換えられています。 |
九九式襲撃機・軍偵察機の計器板(レプリカ)
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上の図は、キ-51のコクピット内部です。 上のレプリカと配置が同じなのが判ります。 |
九九式襲撃機はによって三菱重工業が開発し昭和14年に正式採用。 生産は三菱を中心に昭和14年から大東亜戦争全般にわたり行われ 派生型として生まれた九九式軍偵察機(開発番号は同じくキ-51)と 併せて敗戦までに2385機が生産されました。大戦後期では鈍足ゆえ に米軍機に喰われる被害が歴然としましたが、その卓越した操縦性の 良さ、荒地など整備が整わない野戦飛行場での離着陸性能の高さは 定評がありました。しかし末期には特攻機として使われるなど哀しい翼 でもありました。 |
極東の帝政ロシア(白軍)が1920年に
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1920年の授与年からして…ロシア革命後、極東の白軍が発行した もので付属の付箋から哈爾濱停車場司令部の阿部大尉に授与され たものと推測されます。 |
総司令官 ピョートル・ヴラーンゲリ中将 指揮下の 第1軍団(1й Армейский корпус) が極東地方に残した白軍組織の極東ロシア軍が出し た勲記です。彼等は最後までロシア全軍連合にも 合一が適わなかった。後に白衛軍側に付いた多くの ロシア兵・市民がフランスやアメリカに亡命したが… 極東では満洲や北海道に移住し白系ロシア人と呼ば れたことは馴染み深い。 |
この勲記が贈られた1920年(大正9年)がどんな年だったかを 考えると…複雑な気持ちになります。1917年にロシア革命が 起こり、翌1918年から22年までロシア内戦。20年は、第一次 世界大戦の終結後、ロシア革命及び敗戦国となった中央同盟 の解体によって空白となった東欧地域が独立の主体となりま した。ウィルソン米大統領は、民族自決をヨーロッパ列強諸国 の植民地にも自決権を与えようとしたため、戦勝国である英・ 仏両国が反対し、自決権は、ヨーロッパのみに留められた。こ の自決権によって保障された国家の承認は1920年になされま したた。これらの諸国は、ヴェルサイユ体制において独立が維 持されましたが、世界恐慌以後、政情は安定せず、また、小国 故に大国の緩衝国と成り果て、第二次世界大戦が勃発すると 次々に侵略を受け、再び独立を喪失しました。そして次に独立 を勝ち得たのは旧ソ連の崩壊…そしてベルリンの壁の崩壊に 代表される東欧社会主義国家の自滅によるものでした。その 国々がエストニア、オーストリア、ユーゴスラヴィア、リトアニア チェコスロヴァキア 、フィンランド 、ポーランド 、ラトビア など でありました。…レーニンがはじめた一連の革命でロシア内戦 の終結までで国内で800万人が殺されています。また数百万 人が世界中へ亡命しました。その後も混乱は続きレーニンの 死後は、歴史に悪名を轟かす独裁者スターリンの時代を迎え ますが…現ロシア政府が認めた公式数字でスターリンが国内 で粛清した国民の数が約1260万名というのには腰を抜かしま した。 |
上はヤフオクで以前売られていた レプリカの聖アンナ一等勲章です。 |
下はハルピン停車場付近の陸橋です。 |
戦時資料:満洲飛行機製造から贈られた記念盾 |
支那や大陸ではこの手の記念盾を良く贈るようです。 贈られた方は日下部工手長という方です。永続勤務 で表彰されたか勤務態度その他、優秀で表彰された ものと思われます。 |
記念盾の額の大きさは、40.5cm×32.5cm |
満洲飛行機製造は、元々は満航(満洲航空)の工廠として スタートしましたが昭和13年に航空機メーカーとして独立を しました。 |
騎兵第十三聯隊記念
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戦後、戦友会が作って、会内で配布したものと思われます。 騎兵第13聯隊、機動歩兵第三聯隊、戦車第13聯隊とな っています。37ミリ速射砲弾を複製した置物となっていま す。箱は27センチ×16.5センチ×12センチの大きさで す。 |
満洲皇帝 溥儀の専用車の模型二台
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黒塗りの溥儀専用モデルです。ラストエンペラー博物館のミュージアムショップで 販売されている物で、箱の止めネジを外しただけです。ドアは4つとも開きます。 ハンドルは可動し回すと連動して前輪が動きます。ボンネットカバーも開き、中に エンジンが格納されています。金属製で重く感じます。30センチ×10センチ× 10センチの巨大なサイズの専用車モデルです。 |
流麗な愛新覚羅溥傑氏の書(印刷) |
清朝最後の皇帝である宣統帝(溥儀)の弟として有名な方です。 清朝における地位は醇親王継嗣。満州国軍人としての階級は 陸軍中校(中佐)です。満州国軍から陸士47期で本科に昭和8年 入校。昭和10年6月に卒業です。見習士官として歩兵第59連隊へ 入隊。陸大59期(昭和19年12月卒業)です。敗戦時、奉天の飛行 場でソ連軍空挺部隊に捕らえられた。その後ソ連領内に移送され 、ソ連極東部のチタとハバロフスクの収容所に収監され、中国側に 引き渡され戦犯として撫順とハルピンの戦犯収容所で徹底的な思 想教育を施される。中華人民共和国では全人代常務委員会委員。 立命館大学名誉法学博士。書家でもあり、流水の如き独特の書体 は流麗で人気が高かった為、このように印刷ものも多く出回ってい ます。 |
思い入れがあったのか額の裏に溥傑氏が亡くなった ときの新聞記事がありました。 |
陸士45期生の陸士本科卒業証書 |
昭和8年の陸士本科の卒業証書です。大正9年に陸軍中央幼年学校 が陸軍予科士官学校になり、従来の陸軍士官学校が陸軍士官学校 本科となりました。この新制度での卒業生は陸士37期からとなります。 |
予科(振武台)は通年四月に新入生を向かえ2年後の三月に卒業 します。卒業時の階級は上等兵です。これで卒業の四月から隊附 を行い本科入校までの半年で伍長・軍曹に昇進します。そして10月 に陸士本科に軍曹の階級章を付けて入校。そして本科で1年10ヶ 月間学び翌々年の七月に卒業を迎え見習士官(階級は曹長)とな ります。その後、原隊に戻り半年後に少尉に任官するのが平時の 場合です。戦時下の昭和13年からは、陸士本科の修学期間が2ヶ 月短縮され、昭和16年には1年に短縮され、その後、各地方幼年 学校も陸士予科も其々1年ずつ短縮されました。この為、陸士予科 を卒業し隊付を終えた本科入校生が軍曹の階級章でなく伍長のま まで入校し、その後本科で軍曹に昇進させるような形になっていま した。 |
現在、米国で南部十四年式、九四式拳銃を
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専用弾でない8mm拳銃弾を使用すると南部十四年式拳銃も 九四式拳銃も不具合が出る様で、現用の市販品は弾倉1本 まともに撃てないと謂われています。その為、短気な米国人 は旧日本軍の拳銃その物が粗悪品であるとのレッテルを貼 る傾向が強いとも謂われております。 |
この拳銃弾同様に旧日本軍の三八式歩兵銃や九九式歩兵銃 を撃つ為、専用に6.7mm小銃弾や7.7mm小銃弾を生産してい るノルマ社が当時の銃弾の図面から引き直したり、当時の銃 弾を採寸して作られたるようになったのが、この品のようです。 |
一枚の写真から… |
駅のホームです。これから出発する のか背嚢に手袋をはめ左手にはサ ーベル型軍刀を手にしたフル装備の 陸軍軍医(少尉相当官)です。右腰 には左手で見えませんが斜革より拳 銃嚢と図嚢などを携えているようで す。左手の奥には多分、醫療嚢もあ るものと想像します。 |
こちらは珍しい日赤の医官の 写真です。明治時代と思われ ます。 |
珍しい陸軍気象部の営外居住証です。第18号とあります。 |
京都航空機乗員養成所監視員の腕章です。 グライダーの滑空免許を持った人が各地で 少年飛行兵や予科練などを目指す少年達を 指導した時に付けたものです。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |