旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装...etc)PartTq















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








敗戦前、昭和十四年八月十三日に大谷大學運動場で
       執り行われた歩兵第百十六師団の戦陣歿者
                  の京都府上京區葬の写真等





清水 喜重 陸軍中将は、この式の行われる3ヶ月前まで
第116師団長をされていた方です。愛媛県出身、士候14
陸大22期、第十二師団長を最後に昭和12年に予備役に
なっておりましたが、支那事変の拡大で京都に新設の第
116師団が特設されると召集を受けて昭和13年5月15日
に師団長になります。翌14年4月19日に召集解除されま
す。この葬儀の時は予備役陸軍中将です。昭和28年8月
15日に歿。色紙の表裏に記載があります。

稲垣 孝照 予備役陸軍中将の色紙に書かれた書です。
この方は士候12期、愛媛県出身です。昭和10年3月30
日に予備役になられた方で、最終職は第三師団留守司
令官、その前は歩兵第十旅団長。昭和17年に大政翼賛
会市協力会議々長そして翼賛政治体制協議会京都府支
部長を歴任されていたので京都在住者で前の百十六師
団長 清水閣下と同郷の愛媛県の繋がりで来賓として呼
ばれたものと想像します。











陸軍航空総監賞として各種航空学校、飛行学校、
  少年飛行兵学校、航空技術学校航空整備学校、
   航空通信学校の優秀な卒業生へ贈った懐中時計




裏に 賞 陸軍航空総監と彫られている懐中時計。
中は、 SEIKO 15JEWELSです。
陸軍航空士官学校などの場合は優秀卒業者は、陸士と同様に
御賜の銀時計となります。これは、その他の各種飛行学校等で
優秀者に贈られた陸軍航空総監賞の懐中時計となります。この
賞の下に教育隊長賞などがあったようです。







日露戦争で使用された二十八糎砲の精密模型
  そしてピットロード製の精密完成品プラモデル
   の1/35スケールの二十八糎榴弾砲(砲兵4体付)




二十年前に東京書芸館で売りに出された模型のようです。
1884年(明治17年)に大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試作した
もので、1886年(明治19年)に大阪府信太山にて試射したところ、非常に優秀で
あったため、1887年(明治20年)に正式化され、量産化された。 装填は砲を水平
にしてクレーンで吊り上げた砲弾を人力で押し込んでから装薬を入れる後装式で
発射速度はそれほど高くなかったという。

元は沿岸砲台に対艦用として配備されていたものであったが、日露戦争において
本砲も動員され、203高地の戦いを含む旅順攻略戦では18門がこの戦いに参加、
16940発を発射した。特に旅順攻略において3週間といわれた砲床構築を9日で完
成、6門にて敵陣に大打撃を与え、更に旅順要塞陥落後は旅順湾内に停泊する
ロシア旅順艦隊(第1太平洋艦隊)にも大打撃を加え、これらをほぼ殲滅することに
成功した。(Wikipediaより転載)

   <基本スペック>
  • 口径:280mm
  • 重量:26トン
  • 初速:142〜315 m/s
  • 最大射程:7650m
  • 俯仰角:-5度〜+65度
  • 砲弾:堅鉄弾
  • 砲弾重量:217Kg


明治陸軍を象徴した二十八糎砲です。


こんなジオラマのような塗装人体付きの完成品のプラモデルが
出現する時代が来るとは夢にも思いませんでした。プラモデルは
無塗装で作り上げてから塗装するものと相場が決まっていたよ
うな感じでしたが…何とも隔世の感を受けます。
流石に金属モデルに比べて重量感は無いのですが…それでも
十分に細部まで再現されていて感心します。







良く出来た九五式小型乗用車の完成品プラモです。











陸軍 九三式八回線電話交換機




陸軍の野戦用電話交換機で8回線まで切り替えが
出来ます。安達電気株式会社製造で昭和十七 三
 NO1127 △ 京 刻印があります。13センチ×
23センチ×23センチの大きさです。
最も一般的な野戦用電話交換機で九三式には、この他に
一二回戦交換機もあります。これ等は連隊や大隊の通信
隊が使用し大東亜戦争の後半では師団通信隊などは、
二十回戦がある一式二十回線交換機を使用したようです。
九三式八回線交換機は同時に三組、一二回線交換機は
同時五組まで使用可能で、一式二十回線交換機の交換
容量は同時に八組まであったそうです。通信兵はこれ等
交換機を複数並列に接続し一名で運用しました。












陸軍航空隊 電熱足袋 昭和18年 中號
            (未使用デットストック)




こちらも未使用のデットストックです。

昭和18年大支検定の中號です。







陸軍 九二式望遠測角機鏡眼鏡




望遠測角機接眼鏡は上の物と違いオリジナルの
一般的なものです。前の持ち主が眼鏡嚢に下ら
ん物を書き込んでいます。困ったものです。








戦時資料:京都の各種 軍友會の腕章


















戦時資料:
   満鉄の皇紀2604年(昭和19年)のカレンダー

           〜南満洲鉄道株式会社〜




敗戦一年前の昭和19年のカレンダーです。あれから65年
の歳月が流れましたが…よく残したものだと思います。
惜しい事に1〜3月がありません。







戦前資料 
   玄洋社総帥 頭山 満の直筆揮毫幅二点、他





明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。
玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の
愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また教え子の内田良平の
奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・
黒幕的存在と見られた。しかし、その交友範囲には中江兆民や吉野作造な
ど民権運動家や、伊藤野枝などアナキストまでも含まれるなど、右翼・左翼
の枠でとらえることは難しい。 また犬養毅・大隈重信・広田弘毅らを始めとし
て政界に広い人脈を持つ反面、 また実業家(鉱山経営者)でもあり、篤志
家としての側面ももっていた。条約改正交渉に関しては一貫して強硬姿勢
の主張をおこない、また早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会
に加わって日露戦争開戦論を主張した。その反面、日本に亡命したアジア
各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行っている。その恩恵
に接したのは、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・
ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなどである。
  
            出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





こちらも頭山満の掛軸です。








富国徴兵保険(現 フコク生命)を
 創設した伊豆 凡夫 元陸軍少将の書など




           ◆伊豆 凡夫 陸軍少将◆

群馬県出身、軍人・実業家、従2位勲3等功3級

17歳で陸軍教導団に志願。卒後、熊本鎮台歩兵13連隊付
(軍曹)。明治16年、陸軍士官学校入学。その後、陸軍大学
に進み、日清戦争で大山巌の副官として金洲半島に上陸、参
戦。大尉で凱旋の後、参謀本部に入り、陸軍大学の教官を兼
ねました。日露戦争の際には、乃木大将に従って、旅順の
203高地の激戦に参謀中佐として参戦。明治41年、大阪歩兵
第37連隊長となり、少将に昇進。退役後は、富国徴兵保険会
社を創設し、実業界入りました。その後、多くの団体役員を兼ね
公共事業に尽力しました。

こちらの肉筆短冊も伊豆 凡夫 元陸軍少将
の筆によるものです。


こちらの肉筆色紙も伊豆 凡夫 元陸軍少将
の筆によるものです。



こちらの肉筆短冊も伊豆 凡夫 元陸軍少将
の筆によるものです。








『坂の上の雲』の登場人物、元台湾軍司令官で
  昭和維新の魁・明倫会の総裁としても知られる
           田中 国重 陸軍大将の肉筆の色紙





満洲軍司令部の集合写真です。二列目左端が当時参謀だった田中閣下。

大正10年10月24日、ワシントン会議での集合写真。田中閣下の横、中央の方は
艦隊派と謂われた加藤 寛治 海軍大将で首席随員として参加。首席全権で条約
派の加藤 友三郎 海軍大将と激しく対立した事が知られています。


      < 田中 国重 陸軍大将 略歴 >

 功三級 陸軍大将
 薩摩(鹿児島出身)士族、明治2年12月17日生
 騎兵科出身、士候4期、陸大14期(恩賜)


明治26年 7月25日 陸軍士官学校卒業
明治27年 3月 7 日 陸軍騎兵少尉・近衛騎兵大隊附
明治30年12月28日 陸軍大学校入校
明治33年12月20日 陸軍大学校卒業
             満洲軍参謀
             後備混成第4旅団参謀長
明治39年 2月 8 日 アメリカ大使館附武官
明治43年10月 1 日 参謀本部部員
大正 2 年 8 月22日 陸軍騎兵大佐・騎兵第16聯隊長
大正 3 年 8 月22日 侍従武官
大正 6 年 1 月 9 日 イギリス大使館附武官
大正 7 年 7 月24日 陸軍少将
大正 8 年 7 月25日 参謀本部第2部長
             ワシントン会議随員
大正11年 2 月 8日 騎兵第3旅団長
大正11年 8 月15日 陸軍中将・第15師団長
大正14年 5 月 1 日 近衛師団長
大正15年 7 月28日 台湾軍司令官
昭和 3 年 8 月10日 陸軍大将・軍事参議官
昭和 4 年 8 月 1 日 待命
昭和 4 年 8 月 31日 予備役
昭和 8 年        明倫会 総裁
昭和16年 3 月 9日    歿









陸士60期同窓会で配布された
   陸軍予科士官学校の正門の絵




陸士60期同窓会で配布された陸軍予科士官学校
の正門の絵の印刷です。敗戦時、59期生までは
卒業扱いとなったがそれ以下の期は在校のまま
敗戦を迎えました。58期はギリギリで少尉に任官し
たようですが、59期では卒業扱いなので最終身分
は見習士官とされたかと思われます。










陸軍の衛生材料のメンタ酒です。
メンタ酒は、陸軍衛生兵の四〇式包帯嚢の内容品として必ず一本づつ入っており
ました。最前線で用いられる衛生材料です。メンタ酒は言わばメントールを入れた
アルコールであり、ミントとアルコールによって作られた消毒薬です。証言などから
も消毒だけでなく傷病兵などへの気付け薬としても使用された例が確認できます。
割れないように専用の木製の筒に収納されメンタ酒と記入されています。既に揮発
してしまい中身は空です。包帯嚢はよく出て参りますが、メンタ酒は余り見かけませ
ん。珍しい一品と思います。







帝国名誉録 完(明治23年 帝国名誉会)
明治の時代の全国紳士録です。





軽機関銃射撃章



古い明治期の日本陸軍の兵・下士官用
官給品の記名布です。歩兵十三連隊(
熊本)のものです。明治31年5月の検閲
の赤印もあります。







征討大将軍・参謀総長を務められた
元帥陸軍大将 小松宮彰仁親王
(晩翠) 筆による 書幅。 


今も昔も観光の模様は大差が無いようです。
未使用の観光バスの切符(見本)です。



今でも郷戸の英雄を顕彰する立派な地方自治体
は素晴らしいと思います。



少飛の記念の背広用徽章と一緒に出た下士官飛行操縦者徽章
です。留金が上下で壊れていましたが、補修されてあります。青
春の想い出としてでしょうか大切にされていたようです。



陸軍航空兵の博多人形








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!