旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装...etc)PartTp















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








緒戦のシンガポール島攻略戦で戦死した
 陸士54期、 高荷 久市 陸軍中尉(戦死後 大尉)
  の国内に残した軍服軍袴と陸士時代の日記等の資料

  <剛勇を謳われた第十八師団の
             久留米・第百十四連隊:菊兵団>




この真新しい袖を殆ど通していない陸軍少尉の九八式軍衣袴と
日記類にカラーがあります。この方は昭和15年に陸軍士官学校
(54期)を卒業し歩兵第114連隊に見習士官として配属され以降
南支を転戦し大東亜戦争の開戦と共に第3大隊第12中隊第1少
隊長としてマレー・シンガポール攻略戦を戦い、いよいよシンガ
ポール島の攻略戦で2月10日に戦死された大荷久市中尉の
所持品だったものです。
軍衣は本当の完全未使用品で、ボタンもまだ金色に輝いてます。
若い将校らしく、丈の短い青年将校風の仕立てになってます。
士官学校予科卒業後の隊附は歩兵第十四連隊(ソ満国境)
で半年間、士官候補生として勤務しています。
軍袴は短袴絨で仕立てられており、大荷少尉の品ですが、
生地が異なります。これは当時でもよくあった事です。生地
は違いますが色合いはほぼ同じです。汚れはありませんが
小虫食いが多いです。
高荷大尉(戦死後)は、石川県小松市の出身。この品を
紹介してくれた先の話では、高荷さんは見習士官で赴任
した南支で少尉任官前に戦死したとの事でしたが、念の
為、調べると菊兵団で緒戦の大勝利を飾った山下奉文
大将(当時、中将)の第二十五軍にあって牟田口中将の
指揮する第十八師団は、昭和16年12月8日未明にマレ
ー半島、コタバル〜シンゴラ〜パタニなどに其々、上陸し
一気にマレー半島を破竹の勢いで南下し当時の戦史レ
コードを次々と塗り替えました。その緒戦の大勝利の栄
光の一歩手前で赤高荷大尉は、多くの将兵と共に英印
軍と戦い戦死されます。シンガポール島攻略戦では昭和
17年2月8日から2月15日の僅か7日間の戦いで連隊の
将校29名、下士官65名、兵218名の合計312名が戦死し
ています。その後の連隊の歴史の中でも19年と20年にあ
ったミートキナ反激戦とミイトソン付近の戦闘を除いては、
最も消耗率の高い戦闘の一つでした。

陸軍の歩兵科少尉の九八式軍衣袴(襟章、山型兵科章初付け)

左は陸士入学の3日目から卒業までを毎日記載した日記です。
右の方は、手書きメモ帳に軍歌集、そして同じ候補生の人名禄
です。若く純粋な輝く士官生徒の生の声が記載されています。
メモ帳にあった鉛筆書きです。入学当初の頃で
しょう。外出先の敬礼の注意として上等兵以下に
敬礼はせず、伍長勤務上等兵、憲兵上等兵、歩
哨や負傷兵に対しては敬礼す。…とあります。中
々面白い物です。確か陸士予科入学レベルでは
上等兵相当だったと記憶しています。この為予科
卒の士官候補生は軍曹だったと思います。士官
学校(本科)入学で曹長の階級章に候補生徽章
を附けます。卒業で見習士官ですから曹長・准尉
より上級者になり隊附で半年もすると少尉任官で
す。陸士卒業から僅か2年弱で若い命を桜の如く
散らせました。南支で国府軍と戦い、マレー半島
に戦場を移しては英印軍と戦いました。高荷大尉
は間違いなく英雄であり、後世に平和を享受して
生きる我々日本人が顕彰しなければならない国家
と民族の恩人の一人であります。
陸士卒業以来、南支〜シンガポールと戦った
菊兵団の百十四連隊が受けた感状です。







菊池 陸軍騎兵大尉の正衣袴一式




前立てが欠品ですが、それ以外は手袋もあります。
羅紗に虫食いなど散見されますが、保存状態は概ね
良好な品です。


大礼服一式を納めたカバンに菊地騎兵大尉と
記載が見られます。正衣と正袴にネーム刺繍
は見られません。






何故か肩章だけ大佐の肩章です。恐らく前のオーナー
だった方が肩章が欠で大尉の肩章を買ったつもりで大
型の大佐を買い揃えたのではと想像しています。











陸軍 憲兵中尉正帽













獣医科の立派な獣医携帯嚢です。




負皮が欠品で無いので不思議な皮バックに
見えますが、抱き茗荷の皮刺繍も立派な獣医
携帯嚢です。
中身が少し残っています。








戦時資料:大日本国防婦人会の雑嚢




愛国婦人会が内務省の主導で作られたのに対し国防婦人会は
昭和7年10月陸軍の主導で作られました。後の昭和17年2月に
大日本婦人会に改名し統合されました。








戦前資料:東京電車鉄道株式会社の免許證




非常に珍しい品で東京電車鉄道株式会社の免許證 です。裏に免許證 警視庁印の
焼印があります。明治15年、鉄道の上を馬車で輸送する東京馬車鉄道が開業。後に
明治33年、電車への動力変更があり東京電車鉄道会社と改称しました。丁度その頃
の免許證 と思われます。
東京馬車鉄道会社は、明治15年6月25日に開業され
新橋〜日本橋間の路線を営業していました。明治32年
には、品川馬車鉄道会社を吸収合併して営業路線を
品川まで延長しました。33年には、電車への動力変更
の特許を得て社名を東京電車鉄道株式会社と改称して
います。最終的には買収され明治44年に東京市電とな
ります。大正12年の関東大震災で甚大な被害を受けて
壊滅した市電の代替輸送として、大正13年に路線バス
が登場。後の都営バスで、当時は市営バスでした。昭
和17年、陸上交通調整法により、市内路面交通事業(
市内電車、路線バス)が東京市に統合されました。この
時、市電となった市内電車は王子電気軌道(現在の
都電荒川線です)、東京地下鉄道軌道城東線、西武新宿
線(新宿〜荻窪)でした。昭和18年に都制が施行され、
東京市は東京都になり、路面電車も市電から都電に変わ
りました。昭和20年、戦災により再び壊滅的な被害を被る
が戦後、懸命な復旧作業により、昭和30年代半ばまでに
都電最盛期を向えます。高度経済成長期になり昭和30年
頃から車が増え、都電の状況は厳しくなっていきました。
そして昭和38年、営団地下鉄丸の内線の開通により、11
月、都電杉並線(新宿〜荻窪)が廃止されます。その後
都営地下鉄三田線の開通により都電の路線はドンドン廃
止され、昭和47年11月に三ノ輪橋〜赤羽と荒川電車前〜
早稲田を残し、全て廃止されました。東京の街から都電が
消えた年です。 これが昭和49年10月1日に、早稲田〜
三ノ輪橋(王子駅〜赤羽駅は、昭和47年11月に廃止され
ている)を「荒川線」と改称し、現在も1日6万人の人を乗せ
元気に走っています。


下の画像が現在の都営 荒川線です。この右の池袋
方面から新宿に向かい明治通りと並走して降りてくる
都電が一番イメージに合います。







戦後利根川で発掘された九九式少銃弾です。




大先輩からのいただき物の九九式小銃弾です。
30年以上前に利根川で工事関係者の投げた
投網に箱ごと掛かった弾薬箱の中身の一つと
聞いています。敗戦で陸軍が米軍の押収を嫌い
利根川に廃棄した弾薬箱のようです。戦後数十
年川の水に漬かり真鍮色も消えて中も火薬まで
水浸しだったそうです。紙ヤスリ少し磨くと元々の
色が少し出てきます。戦争に負けた国の軍隊の
主力小銃の銃弾です。何とも哀しい感じがします。







陸軍 八九式旋回固定機関銃
  の発火済み徹甲弾5発(装弾子付)




昭和4年制定の陸軍の八九式旋回固定機関銃
の7.7mm徹甲弾5発です。雷管の発火済み
で火薬の無い合法品です。
本体は薬莢口の黒い識別色もしっかり
残った大変良い状態です。
三八式用に比べてもより大きく側面のリブ
も無い専用の大型装弾子である事が判り
ます。








歩兵支援火器(連隊砲や大体砲など)の油缶














戦友会で製作し配られた
 九六式十五糎榴弾砲の野戦重砲仕様モデル
  そして実物の十五糎榴霰弾2個用弾薬箱(昭和十三)




靖國神社の遊就館で実物を見る事が出来ます。


 〜性能データ〜

口径:149.1mm
砲身長:352.3cm
砲重量:4.140kg
初速:540m/秒
発射速度:45発/hr
最大射程:11.900m


箱ガラスケースの裏のプレートに”元満州一〇一三部隊
石門五中会 謹製”とあります。ガラス箱は汚れてくたび
れて見えますが中身の砲のモデルは新品同様です。





発射装填作業中の砲兵と九六式十五糎榴弾砲


十五糎榴弾砲榴霰弾2個格納する弾薬箱です。蓋の裏に「昭和十三 三 
小倉造兵廠?」と思われる刻印が入っています。オリジナル塗装は95%
以上残っていますが、蓋の布に擦り切れがあります。中の仕切りと吊紐が
欠品しています。








珍しい四年式十五糎榴弾砲
     の装薬筒(甲)の装薬筒蓋つき




旧軍の150oクラスの弾薬では比較的見かける事がありますが
装薬筒蓋の付いた物は殆んど見かけません。蓋は単に薬莢蓋と
も呼ばれます。この装薬筒は発射薬量や点火薬の有無等の違っ
た5つの装薬袋が装填してあり、この装薬袋の加減や組み合わ
せにより弾丸の飛距離を調整しました。また蓋は発射薬量を調整
(減らした)装薬筒の装薬袋の押さえの役目も担っています。
四年式榴弾砲の装薬筒(薬莢)で全長が約26pで
あることから薬筒(甲)になります。

この薬莢蓋は紙製で柿渋の様な塗料で塗り固めたもの
となっています。綿布の引き手が取付けられています。
引き手の部分に難読ですが製造所か調整箇所の押印と
縫製指示が紫色で捺印されています。経年の傷や小さな
ひび割れ等がみられますが致命的な破損や欠陥等は見
受けられません。







この薬莢は、黄銅製で莢底に画像の様に刻印があります。
これにより昭和十六年6月に小倉造兵廠で生産された事が
読み取れます。


爆管(雷管)は四〇式薬莢爆管が螺着されています。
末期製なのか「阪」の刻印以外には確認が出来ませ
ん。


四年式十五糎榴弾砲です。
左は、昭和12年10月の上海で海軍陸戦隊の上陸の前に支援砲火を上げる
松井石根大将隷下、上海派遣軍の砲兵部隊の四年式15榴。右は、開戦劈
頭、シンガポール対岸のジョホールバルから英国軍陣地に砲撃を行なう野戦
重砲兵第21大隊の四年式15榴。大東亜戦争の特に開戦劈頭では全戦域で
広く使われ活躍した事が見て取れます。
ガダルカナル島で各坐し遺棄された四年式15榴。砲弾を前に
記念撮影する米兵。砲弾の中央に”14.3”が見える。昭和14年
3月に火薬装填した事を示します。こうして見ると大正4年に制
式採用され既に九六式十五糎榴弾砲が後継となっていても大
東亜戦争の全域で敗戦の最後まで広く活躍した事が良く判りま
す。







砲兵照準徽章(昭和四年改正)二点













陸軍 九八式軽地上標定機




砲兵観測用で、敵陣地の正確な座標を図上に決定する為の
位置計測に主に砲兵部隊が使いました。一般に三脚の上に
設置して使います。オリジナルの箱、属品、ほぼ揃っています
。接眼部のゴムだけは硬化しています。箱の中に「19.9 東
」の印が押された紙が貼ってあります。米兵が記念に持って
帰ったらしく、英語の説明が入っています。

箱の大きさは、24cm×14.5cm×24cm









陸軍気象隊(気象部)で
  使用されたと思われる温湿記録計




温度湿度の自動記録機です。「三科」「二号」文字が読み取れます。陸軍気象隊
が使用したと思われます。23センチ×22センチ×10センチの大きさです。







陸軍気球聯隊で使用されたと
       思われる気球用高度計




陸軍の気球聯隊で使われたと思われる気球用光度計です。
航空計器で御馴染みの柳製作所の製品です。
上部に吊り下げるリングが付いていますが、内側のナットが
外れて、中でカラカラいっています。直径13.5センチ、厚さ
5.5センチです。







冤罪・南京大虐殺の嘘でA級戦犯で訴追・
 処刑された中支那方面軍司令官・悲劇の将軍
         松井 石根 陸軍大将の肉筆の辞世





      松 井 石 根 

天地も人もうらみず一すじに

       無畏を念じて安らけく逝く

いきにえに尽くる命は惜かれど

        国に捧げて残りし身なれば

世の人にのこさばやと思ふ言の葉は

        自他平等誠の心


衆生皆姑息  正気払神州

無畏観音力  普明照亜洲


    昭和二十三年十二月二十三日
                午前零時一分











軽機関銃射撃章


古い明治期の日本陸軍の兵・下士官用
官給品の記名布です。歩兵十三連隊(
熊本)のものです。明治31年5月の検閲
の赤印もあります。







征討大将軍・参謀総長を務められた
元帥陸軍大将 小松宮彰仁親王
(晩翠) 筆による 書幅。 


今も昔も観光の模様は大差が無いようです。
未使用の観光バスの切符(見本)です。



今でも郷戸の英雄を顕彰する立派な地方自治体
は素晴らしいと思います。



少飛の記念の背広用徽章と一緒に出た下士官飛行操縦者徽章
です。留金が上下で壊れていましたが、補修されてあります。青
春の想い出としてでしょうか大切にされていたようです。



陸軍航空兵の博多人形








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!