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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装...etc)PartTn















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








従軍画家 小早川 秋声の従軍画”征軍所見”




戦時中に大阪毎日新聞社の主催で行われた歳末義金(募金)運動の
為に出展された従軍画です。絹本の色紙に直筆で描かれてあります。
色紙の裏に即売会の紙票がついたままで10円の値がついています。

色紙に描かれた小さな絵が10円の高額が付いていますのでちゃんとし
た大きさの絵であれば結構な額の付く画家だった事がわかります。
支那の荒野で歩哨に立つ皇軍兵士。遠く小さく上弦の月が
見える夜空に雪が降る様は、凍てついた雰囲気を出してい
ます。着剣した小銃を持ち微動だにしない兵士の背中に雪
が落ちる銃剣と鉄帽が僅かに月明かりを僅かに受けて光っ
ており実に趣があります。
下の画像をクリックすると小早川秋声画伯の作品集
を紹介しているサイトにジャンプします。
               ↓







石原 莞爾 陸軍中将の肉筆署名入り
 の豪華な総革製の満州絵画集(偕行社編集部)




立派な絵画集で昭和10年10月25日の発行です。
石原莞爾と署名があります。記載された昭和10年夏は
石原閣下が参謀本部作戦課長(陸軍大佐)時代でまだ
軍の中枢にあった時代です。



絵画の中に上に掲載しました従軍画家の小早川秋声氏
の作品も何点かありましたので、少し掲載してしました。



下の画像の左は石原閣下の大佐時代で
仙台の歩兵第四連隊長をされていた時の
画像です。


    ◆ 石原 莞爾 陸軍中将 (略歴) ◆

明治22年 1月18日  山形県鶴岡町(現鶴岡市)生まれ
明治38年 7月     仙台陸軍地方幼年学校卒業
明治38年 9月 1日  東京陸軍中央幼年学校入学
明治40年 6月     山形歩兵第三十二連隊配属
明治40年12月 1日  陸軍士官学校入学
明治42年 5月27日  陸軍士官学校卒業(原隊復帰)
明治42年12月25日  任陸軍歩兵少尉
大正 4年11月29日   陸軍大学校入学
大正 7年11月29日  陸軍大学校卒業

大正11年 9月〜    ドイツ駐在
昭和 3年10月     関東軍参謀
昭和 6年 9 月18日  満州事変(関東軍作戦主任参謀)
昭和 7年 8 月 8日   任歩兵大佐
昭和 7年 8月〜   国連臨時会議帝国代表随員
昭和 8年 8 月     歩兵第四連隊長
昭和10年 8月     参謀本部作戦課長
昭和11年 2月     2.26事件(戒厳司令部参謀兼務)
昭和11年 6月     参謀本部戦争指導課長
昭和12年 3月 1日  任陸軍少将(参謀本部作戦部長)
昭和12年 9月27日  関東軍参謀副長

昭和13年 8月     予備役編入願(病気療養)
昭和13年12月 5日  舞鶴要塞司令官

昭和14年 8月     任陸軍中将(第十六師団長)
昭和16年 3月     予備役編入(立命館大学教授)

昭和24年 8月15日     逝去









熊本の地元の名士に
      送られた二通の手紙




熊本では有名な名士のお宅のようです。そちらに送られた
二通の手紙です。一通は、島津公爵家の家礼より。もう一通
は、後にA級戦犯となり東京裁判で終身刑を受けた橋本欣
五郎 陸軍大佐(大日本青年党統領、桜会の中心メンバー)
の海拉爾特務機関 当時の橋本砲兵中佐からの手紙です。
共に贈り物に対する礼状のようです。













大日本赤誠会(橋本欣五郎 会長)
           の会員証と領収書




東京裁判でA級戦犯に指定され終身刑を受けた
橋本欣五郎元陸軍砲兵大佐が主催した大日本
赤誠会の会員手帳と同会の領収書です。中々の
珍品です。














清朝王族で男装の麗人と謳われた川島芳子こと
 愛新覚羅 顕
(別名 金璧輝)の父 愛新覚羅善耆
  (粛親王)の秘書官長 荘炳章(錦堂)の筆による巻子




肅親王(愛新覚羅善耆)の秘書官長の荘炳章が錦堂と号して
康徳四年(民国26年)に書いたものです。この方は民国時代
には濟南府尚志書院大学教授兼山東省自治局長を勤めらて
おります。

下の画像の方が肅親王です。この方の
第十四王女が上にある男装の麗人と
日本のマスコミを騒がした川島芳子です
共に日本を介して清朝、清王朝の復権を
目指しておりました。

この時代の満州・支那…大陸の人々は日本人も支那人も
非常に魅力的で個性的なキャラクターが多いですね!!
この時代までの支那は本当に北米のゴールドラッシュ
、西部劇を彷彿させるロマン溢れる一攫千金の時代と
も謂いましょうか。大陸浪人が闊歩し馬賊、匪賊が暴れ
る危険で魅力的なイメージがあります。しかし日本の
敗戦以降…中共が一党支配でつまらない国にしてしま
った印象が拭えません。


多分、大陸の土産物屋ででも売られていた絵だと
思います。愛新覚羅は清朝王族のファミリーネーム
です。これをペンネームにしています。絵も最近のも
ののようですが面白いので掲載しました。







流麗な愛新覚羅溥傑氏の書(印刷)




清朝最後の皇帝である宣統帝(溥儀)の弟として有名な方です。
清朝における地位は醇親王継嗣。満州国軍人としての階級は
陸軍中校(中佐)です。満州国軍から陸士47期で本科に昭和8年
入校。昭和10年6月に卒業です。見習士官として歩兵第59連隊へ
入隊。陸大59期(昭和19年12月卒業)です。敗戦時、奉天の飛行
場でソ連軍空挺部隊に捕らえられた。その後ソ連領内に移送され
、ソ連極東部のチタとハバロフスクの収容所に収監され、中国側に
引き渡され戦犯として撫順とハルピンの戦犯収容所で徹底的な思
想教育を施される。中華人民共和国では全人代常務委員会委員。
立命館大学名誉法学博士。書家でもあり、流水の如き独特の書体
は流麗で人気が高かった為、このように印刷ものも多く出回ってい
ます。

思い入れがあったのか額の裏に溥傑氏が亡くなった
ときの新聞記事がありました。








第四十一師団長 真野五郎 中将の
 開戦前 昭和14年、第三十六師団兵站司令官
   (張家口)時代の親族に宛てた航空郵便です。




真野部隊 検査済 副官 小野寺國夫
航空便、軍事郵便、航空の印が捺さ
れたエンタイヤです。第九二野戦の
14年10月9日と兵庫・榎列の14年10
月14日の消印もあります。
裏に真野少将と記載された軍事
郵便なら殆どフリーパスでしょう。



      真野 五郎 陸軍中将(略歴)

 62功四級、兵庫県出身、歩兵科

 明治23年10月2日生

 士候24 陸大35

大正 1 年12月24日  陸軍歩兵少尉
大正 9 年12月 7日   陸軍大学校入校
大正12年11月29日   陸軍大学校卒業
昭和11年 8月 1日   陸軍歩兵大佐
                豊橋陸軍教導学校附
昭和12年8月24日   第一軍兵站参謀長
昭和13年3月31日   歩兵第77聯隊長
昭和14年 3月 9日   陸軍少将
                第三十六師団兵站司令官
昭和15年 3 月 9日   留守第三師団司令部附
昭和16年10月15日  独立混成第二旅団長
昭和17年11月18日  第六十五旅団長
昭和17年12月 1 日  陸軍中将
昭和18年 6 月14日  第四十一師団長








初版の『日本薬局方』の編集委員を
    務めた緒方 維準 陸軍 軍医監
            兼薬剤監の肉筆短冊




軍医監+薬剤監です凄いスーパーマンです。
明治草創の頃で無いと有り得ない地位です。
あの日本薬局方の初版の編集員をされてい
た事でも有名な方です。
幕末明治期の医家。維新後、大阪仮病院勤務(暗殺された大村益次郎を
診察)を経て明治11年から明治14年まで大阪鎮台病院長。明治16年7月
から松本良順の下で陸軍軍医監兼薬剤監。当時軍に蔓延していた病気
撲滅に兵食に麦飯を入れるか否かの問題で良順と確執があり退役。







大勲位功一級 陸軍大将 第43代内閣総理大臣
          皇族 東久邇宮稔彦王の自筆書簡




東久邇宮稔彦王より久邇宮邦彦王の家令であった角田敬三郎氏に
出された書簡です。絵葉書にペン書き。封筒付き。結婚の勅許を得た
ことが報告されています。皇室関係書簡の例によって、投函は
東久邇宮の当直の手で行われ、投函封筒の消印は大正3年2月15日
麻布です。

明治20年〜平成2年…102歳で他界された東久邇稔彦様は、首相経験者としては
最も長命かつ100歳を超えて他界した人物としてギネスブックにも掲載されておら
れます。また日本の皇族としても最高齢の記録であったそうです。
第43代内閣総理大臣(在任:昭和20年8月17日-同年10月9日)。元皇族。陸軍
軍人。皇族で唯一の、かつ戦後初の内閣総理大臣。階級は陸軍大将。位階は従
二位、勲等功級は大勲位功一級。大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で
最後の皇族内閣を組閣しました。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体
、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱えましたが、GHQの民主化方針についてゆ
けず…歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職しました。また陸軍大将で最も長く
生存された記録も作られた方です。
戦後は、様々な事業に手を出すものの上手く行かず新興宗教や
色々な詐欺師的な輩に騙されたりされたようです。


          
           東久邇 稔彦 様(略歴)

明治20年12月3日生
京都府出身、元皇族

東久邇宮稔彦王

久邇宮(中川宮)朝彦親王の第9子
妻は明治天皇第九皇女子、聡子内親王

明治39年        東久邇宮家を創立
大正6年10月31日   大勲位菊花大綬章
                陸軍大学校卒
                フランスに留学

昭和14年        陸軍大将
昭和17年4月4日   功一級金鵄勲章
昭和20年8月17日
     〜10月8日  内閣総理大臣
昭和22年10月     皇族の身分を離れる
平成2年1月20日   心不全(日赤医療センター
              へ入院。東京都渋谷区で死去
              享年102歳。








陸軍軍医の手術用ガウン(前掛)
   未使用の新品のデットストック















一年志願兵より三等軍醫正(少佐)
 にまで昇進した明治陸軍軍醫の紙物資料




一年志願兵として見習醫官から陸軍三等軍醫正(少佐)まで
勤めた渡邊虎之助という方の任官辞令等39枚と日露従軍紀
念証1枚です。明治陸軍の熟成期を明治30年から45年の15
年間を駆け抜けて予備役になった軍醫殿であります。

一年志願兵の服役を許可する官費服役証書は非常に珍しい
ものです。通常は自費によるものですが、やはり軍醫不足は
何処の軍隊も同じようです。人材確保に予算は付き物である
事が見てとれます。
履歴は、歩四→歩二十九→台湾歩兵一蓮隊→台北衛戍病院
→歩四十→歩八→歩四→歩六十五→若松病院→予備役です。

転属先で徴兵副醫官、幼年学校身体検査官、福島連隊区徴兵醫官
一年志願兵検査醫官、若松連隊区徴兵醫官、将校生徒志願者身体
検査官なども勤めており非常に興味深い軍醫ものです。


















初代南満州鉄道総裁の後藤 新平 子爵が
 東京市長として東京駅舎建設の現場責任と

  しても有名な金子 彦三郎 鉄道院技師に送った
   書簡や宮内大臣より「鉄道院饗饌」の招待状二枚




後藤新平子爵は、初代南満州鉄道総裁・鉄道院総裁等の要職を歴任後、
東京市市長を勤めています。金子彦三郎氏はかつて鉄道院総裁時代の
腹心であり、その彼に宛てて出した自筆の書簡になります。また後藤氏は
医師であり、臺灣総督府民生長官、拓殖大学学長、など歴任した方であり
政治家としても逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任したスーパーマンで
す。関東大震災では内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興
計画を立案された事でも有名な方ですが、ボーイスカウト日本連盟の初代
総長としてもとしても有名な方です。

金子彦三郎氏は、東京駅舎建設の現場責任者としても
更に各種の工事を完成させた有名な鉄道院師です。下
は、宮内大臣より「鉄道院饗饌」の招待状が二枚です。

後藤新平氏は、シチズン時計の名付け親でもあります(彼と親交のあった社長から新作
懐中時計の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。また
虎ノ門事件の責任を取らされ内務省を辞めた正力松太郎が読売新聞の経営に乗り出し
たとき、上司(内務大臣)だった後藤氏は自宅を抵当に入れて資金を調達し何も言わず
に貸した。その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もうすでに新平は他界していた
。そこで、正力はその恩返しとして新平の故郷である水沢町(当時)に後藤氏から借りた
金の
倍近い金を寄付しました。この資金を使って、昭和16年に日本初の公民館が建設さ
れました。 また地下鉄の父・早川徳次の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を
示し、いち早く支援者に名を連ねた一人でもありました。これ等伝えられる様々なエピソ
ードからも後藤氏が非常に魅力的で器の大きい人物である事が良く判ります。 明治期
の日本人には特にこのようなスケールの大きな人が多い気がします。因みに後藤氏が
倒れる日に最後に残した言葉は「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ
者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」であったと謂います。非常に含蓄
の深い言葉です。



後藤 新平 子爵の書簡額




額サイズ:約30 × 170 cm、書簡サイズ:約17.5 × 134 cm。
後藤新平(1857‐1929):明治・大正期の政治家。陸奥水沢藩士の子。須賀川医学校卒。
愛知県病院院長兼愛知県医学校校長となる。板垣退助を治療して内務省衛生局に迎えら
れ、局長となるが失脚。明治31年(1898)台湾総督児玉源太郎に異例の起用を受け、総督
府民政局長、のち民政長官となる。新渡戸稲造を抜擢して糖業を振興させた。36年貴族院
議員。39年満鉄の初代総裁。第2次・3次桂内閣の逓信相、寺内内閣の内相、外相を歴任
。この間鉄道院総裁を兼任。対外積極政策を唱え、中国の経済的分割、東亜経済同盟を
構想し、シベリア出兵を強行した。大正9年(1920)東京市長、12年第2次山本内閣内相と
なり、帝都復興院総裁を兼ねて関東大震災後の東京の復興に努力。ヨッフェを招いてソ連
との国交実現の予備交渉を行い、昭和2年訪ソしてスターリンと会見している。
後藤新平の書簡額。宛て先は丸山某ですが不明。また、切手が剥落
している為、執筆年代は不明。約 44行の比較的長めの書簡です。







第五代 満鉄総裁 国澤 新兵衛 氏
     (後の日通社長)の直筆色紙




国澤新兵衛氏の直筆色紙です。国澤氏は、南満州鉄道創立時よりの理事
であり後に五代目理事長(総裁)となりました(大正6年7月31日−8年4月
12日)。その後、衆議院議員朝鮮京南鉄道会長をつとめ初代日本通運
社長となりました。満鉄では上に掲載した初代後藤総裁のもと唯一の技術
系理事として狭軌から標準軌への切り替えなどに従事事で知られています。







マレーの虎の異名を持つ国民的な英雄で
 マニラで悲運の刑死を遂げた悲運の名将
        山下 奉文 陸軍大将の直筆の書




和紙に書かれたものを切りとり裏打ちして額装しています。
真贋は定かではありませんが、落款あります。


今も尚、 その大きな存在感で海軍の山本 五十六 GF長官
と並び陸軍の一番人気の山下大将です。…指揮官としての
直接の実績で謂えば陸軍の山下大将の方が上のように思
います。
           <山下 奉文 陸軍大将>

                (略 歴)

  従三位勲一等功三級

  高知県出身、明治18年11月8日生
 
  海南中学校から広島陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校
  に進む。

明治38年11月25日 - 陸軍士官学校卒業(18期)
明治39年 6月26日 - 任陸軍少尉(歩兵第十一連隊附)
明治41年12月 - 任陸軍中尉
大正 5年 5月 - 任陸軍大尉
大正 5年11月25日 - 陸軍大学校卒業(28期優等)
大正 6年 8月 - 参謀本部附勤務
大正 7年 2月 - 参謀本部部員(ドイツ班)
大正 8年 4月 - 駐スイス大使館付武官補佐官
大正10年 7月 - ドイツ駐在
大正11年 2月 - 任陸軍少佐
大正11年 7月22日 - 陸軍技術本部附兼軍務局課員
                      (編制班長)
大正14年 8月 - 任陸軍中佐
大正15年 3月16日 - 陸軍大学校教官(兼任)
昭和 2年 2月22日 - オーストリア大使館
                    兼ハンガリー公使館附武官
昭和 4年 8月 1日 - 任陸軍大佐,陸軍兵器本廠附
             (軍事調査部軍政査会幹事)
昭和 5年 8月 1日 - 歩兵第三連隊長
昭和 7年 4月11日 - 陸軍省軍事課長
昭和 9年 8月 1日 - 任陸軍少将
昭和10年 3月15日 - 陸軍省軍事調査部長
昭和11年 3月10日 - 歩兵第四十旅団長
昭和12年 8月26日 - 支那駐屯混成旅団長
昭和12年11月 1日 - 任陸軍中将
昭和13年 7月15日 - 北支那方面軍参謀長
昭和14年 9月23日 - 第四師団長
昭和15年 7月22日 - 航空総監兼航空本部長
昭和15年12月10日 - ドイツ派遣航空視察団長
昭和16年 6月 9日 - 軍事参議官
昭和16年 7月17日 - 関東防衛軍司令官
昭和16年11月 6日 - 第二十五軍司令官
昭和17年 7月 1日 - 第一方面軍司令官
昭和18年 2月10日 - 任陸軍大将に昇進
昭和19年 9月26日 - 第十四方面軍司令官
昭和20年12月   - マニラ軍事裁判で死刑判決
昭和21年 2月23日 - 刑死(絞首刑)享年六十二歳


                <辞世>

 待てしばし 勲のこして ゆきし友
                  あとなしたいて 我もゆきなむ


    (妻に宛てた辞世)

 満ちて欠け 晴れと曇りに かわれども
                    とわに冴え澄む大空の月









面白い陸軍航空隊で使用されたと
  思われる撃墜マーク用のステンシル




航空機の整備工具と一緒に工具箱に入っていた
そうです。愛知県から出たものですので中部軍管
区にあった航空隊のものでないかとの事でした。
中々あるようで見ない品です。
左が表で右が裏です。下は、大型機用のステンシル
と対ででたようです。大型機の方は入手できず小型
機用のステンシルのみを入手しました。







戦前・戦時資料




面白いものです。左上の画像は陸軍士官勤務適任証です。
よく下士官適任証は見受けますけど…士官適任証は初めて
みました。この曹長さん明治45年にこの証書をいただいてお
ります。右上は姓が変わっておりますが同一人物の大正7年
のものです。養子か婿養子に入ったのでしょう。少尉になっ
ている事が判ります。




あるようで中々、残っていない品です。
上の在郷軍人物は全国でかなり残って
るでしょうが、先の大戦で防空監視所な
ど地域社会で取り組んだこうした品は、
敗戦とともに燃やされたり処分される事
の方が多いのが実情で特に燃えやすい
木製のものは残存しにくいようです。










逓信省 勤続章












征討大将軍・参謀総長を務められた
元帥陸軍大将 小松宮彰仁親王
(晩翠) 筆による 書幅。 


今も昔も観光の模様は大差が無いようです。
未使用の観光バスの切符(見本)です。



今でも郷戸の英雄を顕彰する立派な地方自治体
は素晴らしいと思います。



少飛の記念の背広用徽章と一緒に出た下士官飛行操縦者徽章
です。留金が上下で壊れていましたが、補修されてあります。青
春の想い出としてでしょうか大切にされていたようです。



陸軍航空兵の博多人形








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!