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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装...etc)PartTo















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








希少な四四式騎兵銃(初期型の)無可動実銃
  (極美な米国からの里帰りした芸術品)




ガンブルーの美しい初期型の四四式です。芸術品と言われ数が少ない
四四式の中でもこの前期型の美品は特に希少価値が高いとされていま
す。前期・中期・後期型に大別される四四式は総生産数は約10万挺と
謂われておりますが、前期・中期型が大正元年〜11年までの約5万〜
5万5千挺までとされています。銃の仕様・機能は基本的に三八式騎兵
銃と殆ど同じです。
勘違いされている方も多いようですが、銃剣が直接銃身溶接されていないで
押し釦の所だけが溶接されているのは、ロシアの折り畳み式銃剣附き小銃の
無可動銃で輸入されている加工と同じです。

銃剣を固定している金具の違いにより初期型と中・後期型とに大別されます。
この短い取り付け金具の特徴から初期型であることが良く判ります。

溶接の為、本来は180度開き突き出る銃剣部分が開かず閉じたままです。


タナカの四四式のモデルガンを持っておりますが…それはそれでよく出来た品ですが
この実銃の美しさと重量感の前には、玩具と芸術品位の違いを感じさせます。


東京・小倉工廠印があります。シリアルNo.43519の
5万挺前の初期ロッドの製品で小石川小銃製造所で
製作された銃である事が判ります。
画像ではそのままの色がでるのか不安ですが、美しいガンブルーです。
下の画像の丸印は工廠刻印の他に特に優良を示す刻印であり、この
四四式の仕上げの良さが軍用銃としては別格といわれた初期の三八式
を遙かに超えて木部・金属部分共に世界最高の品質と銃器の専門家が
絶賛し解説するような芸術性の高い軍用銃です。
よくある質の悪い無可動銃では、通関後の展示や装飾の美観を考えず無造作な
溶接など…単に通関し合法にすれば見た目など、どうでも良いというばかりの品
を見受けます。この四四式のように目立ない丁寧な溶接は軍用銃と謂うより芸術
品と謂われる本銃の美観を損ねまいとする無可動処置を施した人の深い理解を
感じさせます。
哀しい事に聞くの御紋章が削られて一部の瘢痕しか見えません。
しかし考えようによれば…この銃を敗戦まで使っていた兵隊さんが
愛用した銃を武装解除される前の最後に削った証でもあります。





また初期型の特徴として遊底、円筒は着色がなされず銃身も排莢部分は白磨
のままの凝った作りです。また下に掲載したように銃床尾に内部に柵杖を納め
るように右側の扇形の金具で開閉し出し入れが出来るようになっています。こ
れ等からこの四四式は、兵器芸術時代の代表作と謂われアメリカでもコレクタ
ーが多いと言われます。






素晴らしい事に日本の銃に良くありがちな、木部が他の国の銃と違い劣化しやすい
のですが、この銃は製造から約90年前後が経過して戦後も60有余年の経過を見て
も当時と変わらないコンデションを保っています。これは小まめに手入れをしていた
証拠です。日本の銃の木部は、木が生きていた時の水の通り道(導管)が木部の経
年の変化で共に目立ち始め木部全体が収縮し縮んでいきます。塗装しなおす時など
は、紙やすりをかけると木部は粉になって落ちるそうです。またグリスに漬けて保管
してあった銃の木部は真っ黒になります。この色といい状態といい極美品と言えると
思います。

銃口は見事に溶接で塞がれています。

通常、柵杖は二本の分解柵杖ですが分解式で5本あります。前の
オーナーさんの時からだそうで…柵杖がオリジナルか米国で作ら
れた複製品かは定かで無いとの事でした。
柵杖の収納装置と収納部分(開いた状態)


下の写真は前のオーナーが米国から里帰りする前に送ってもらった
米国での写真との事です。落下傘が二個、収納バック一個、銃剣が
4本、艦内電話に四四式騎兵銃に銃口蓋、陸軍の佐官用の刀緒で
しょうか、そして十一年式軽機関銃に重機関銃の装填された弾装と
収納箱などがブルーシーツの上に置かれております。実に豪華なに
見えます。大先輩から御指摘されましたが良く見ると教練用の軽機
関銃で十一年式軽機関銃でありません。南部式教練軽機関銃で別
名”南部銃”と謂われた青年学校をはじめとする軍事教練の為に
中央工業(南部)が作製した教練用の軽機関銃です。







十年式信号拳銃 用の信号弾・吊星
 (緑吊星・白吊星)及び龍と謂われた
     煙弾(黒龍・黄龍)等の各種薬莢




珍しい十年式信号銃の薬莢です。近接する部隊間
及び航空機と地上間の連絡に使用されました。従っ
て地上だけでなく航空機内部からも使用発射されて
地上へ合図が送られました。このように弾薬の薬莢
底面には夜暗における弾種判別を可能とする刻印あ
ります。
信号弾は種類が思いのほか多く…龍(黄、黒)、吊り星(赤、白、緑)、
流星(赤一星、同三星、白一星、同三星、緑一星、同三星)等の種類
がありましたた。 この35mm信号弾は真鍮製の厚いしっかりしたケース
に装填されており、このケースは多分何回かリロードされたものと想像
されます。中には本品のように使い捨て厚紙を代用にした紙薬莢もあ
ったようで初めて見ました。
星に例えられた光弾は、昼夜兼用だったため、目視による選定が困難
な夜間には、接触で違いが判るように莢底には刻みが有ります。因み
に”吊星”は落下傘付の光弾で、光輝時間は約15秒、認識距離は(昼)
2500米(夜)12000米だそうで、落下傘にも光輝色と同一のものが使用
されていたそうです。
緑吊星薬莢です。


暗闇でも判る様に薬莢の尻に刻み目が付いています。


白吊星薬莢です。紙薬莢は珍しく初めて入手しました。


十年式信号拳銃の実銃を撮影した貴重な頂き物の画像です。
十年式信号拳銃は、大正10年制定。近接する部隊間及び航空機と
地上間の連絡に使用されました。外観、構造共に二十六年式拳銃を
踏襲しています。形式は、中折れ式ダブルアクション単発です。弾薬
の薬莢底面には夜暗における弾種判別を可能とする刻印あります。


       [諸元]

     口径   :35o
     装弾数 :1発
     銃身長 :120o
     全長  :208o
     重量  :1,250g
     生産数 :約8,500挺

大正10年〜昭和20年までに8500挺が製造されました。下の画像
に東京砲兵工廠印に十年式の刻印、そして3332のシリアルナンバー
があります。



信号弾(吊星)には、緑と白の他に赤もありました。また吊星だけでなく
龍(黄、黒)、流星(赤一星、同三星、白一星、同三星、緑一星、同三星)
等10種類以上が存在しました。
 


昼間用の煙弾である龍(黄龍と黒龍)の二種類の薬莢

こちらは上の信号弾と違い昼間の使用に限定された煙弾です。
この為、夜間識別用の薬莢底部の刻みが無く煙弾の色を示す
黄龍と黒龍のみが刻まれています。地上から空に向けて打ち上
げる名前のとおり龍が空に立ち昇るように走り、約15秒間発煙
し、その認識距離は約4千mだったと謂います。
黄龍の薬莢底には東京砲兵工廠の刻印があります。また
黒龍の薬莢底には東京砲兵工廠の支廠の板橋火薬製造
所の刻印があります。







九〇・九七式五十七粍戦車砲の薬莢




九〇式でも九七式でも五十七粍戦車砲どちら
でも共用で使えた戦車砲の薬莢です。
ヘッドスタンプはF,阪,テ,大阪工廠のスタンプに昭九です。
全長は約12.2cm。




これで見てお判りのように薬莢の長さは121mmです。九四式三十七
粍戦車砲弾の薬莢の方が133.5mmと僅かに高い事が判ります。

我国初の国産戦車となった八九式中戦車の主砲
である九〇式五十七粍戦車砲です。



こちらは九七式中戦車(チハ)に搭載された
九七式五十七粍戦車砲です。











一式 48口径 47mm戦車砲の砲弾(発火済)
 を二種類(一式47mm機動砲の弾薬筒の薬莢
                   二種と弾頭一種種)




一式中戦車や九七式中戦車改の搭載された戦車砲弾と思われます。
さすがに一式四十七粍戦車砲になると薬莢
が非常に長くなります。貫徹力が上の三十七
粍や下の五十七粍戦車砲と違うのが良く判り
ます。











こちらも一式機動砲や新砲塔”チハ”の戦車砲に使用された
弾薬筒の薬莢です。珍しいのは材質が鉄で製造されていま
す。砲弾用鉄薬莢は名古屋工廠製は稀に見かけるそうです
が、この品の刻印のとおり大阪砲兵工廠製は、まず見掛ける
事の無い珍しい物と前のオーナーである銃砲弾の研究者の
方が仰っておりました。
鉄製薬莢は当時の諸外国ではポピュラーなもので日本でも海軍は少し早く
導入していますが、陸軍では製鋼の技術の違いが仇となり国産化がかなり
遅くなった様です。
莢底部の刻印は「5」なのか「ち」の刻印と大阪砲兵工廠の
シンボルマークの「砲身交差と「阪」が刻まれています。また
漢数字か片仮名の「二」の刻印が材質区分の刻印位置に刻
まれています。
爆管(雷管)は「九八式薬莢爆管」をこれまた鉄で製造した
「試製三瓦爆管(二修)」が螺着されています。
全体に錆が出て変色が顕著ですが、防錆の真鍮鍍金
(貼り合せ圧延カモ?)が結構残っています。鍍金部は
銅色に変色した箇所が部分的に見られます。







フランクリン・ミント社の1:35 
      九七式中戦車の精密模型




1993年にフランクリン・ミント社からでた「九七式中戦車」です。
実存の設計図をもとに1:35の縮尺率で再現した驚異的なディテ
ィールに富むピューター製レプリカです。迷彩色に塗られ戦車砲
は22金仕上げの真鍮製です。





小西社の1:72 
    戦車シリーズ(精密模型)から




以下は、小西の1/72 戦車シリーズからチハとホニT、チハ改です。
























1/40スケール
  真鍮ロストワックス鋳造品(イブシ仕上げ)
   に日本陸軍の精密大砲シリーズ(小西社製)




改造三八式野砲



四一式山砲





九一式十糎榴弾砲





九四式山砲





九六式十五糎榴弾砲









無天で将官に上り詰め敗戦間際に
 山東省で戦死された歩兵第53旅団長
    吉川 資 陸軍中将の正衣の正飾帯




時々将官用の飾帯などが出て来ますが所持者が不明の
ものが多いのが実態です。正衣や正袴、正帽などはネー
ムが刺繍されますが正剣帯もそうですが正飾帯も名が
無いことが多いので所持者の判る貴重な正飾帯です。
所持者の吉川資中将は、山口県出身の歩兵科で士候24期で
陸大を経ていない無天で少将に上りました。大東亜戦争が無け
れば昭和15年5月23日に歩兵第233連隊長を最後に昭和18年
3月1日に留守第56師団司令部附(九州帝大配属将校)の閑職
に回され陸軍大佐で退役の筈でしたが、運命の駒は周り昭和
20年1月12日、歩兵第53旅団長(3月1日、任陸軍少将)を仰せ
つかりその2ヵ月後の5月17日に山東省で戦死し陸軍中将に特
進されています。享年55歳。
吉川閣下が旅団長を務めた歩兵第53旅団(東京)は第59師団
(師団長:藤田茂中将)隷下で独立歩兵第41大隊(東京)、同
第42大隊(佐倉)、第43大隊(佐倉)、第44大隊(甲府)の4個
独立歩兵大隊を基幹とした兵力で山東省で警備活動に任じて
いました。その後、ソ連参戦で敗戦後はシベリア抑留を経験し
この部隊の将兵は中国の戦犯として帰国できず悪名高き撫順
戦犯管理所で強制的に思想改造を受けて帰国後もありもしな
い支那人強制連行などを証言したり転向させられた者が多い
事でも有名です。これら中帰連などと称して反日活動に転じた
撫順及び太原戦犯管理所で思想教育の果てに支那側に寝返
ったアカが多い事でも有名で今でも支那のプロパガンダを継承
しています。一度、自分を見失い転向した者は、自らの存在意
義を守る為にも嘘をつき続けなければならない事は、後世を生
きる愛国者から見ても実に悲劇的であり、ある意味戦争の犠
牲者である事を痛感させられるが、同時に小野田元少尉をはじ
めとする一貫した愛国者である皇軍将兵が戦後も大勢いた事
と併せて比較すると複雑な心境になりますが、支那の思想強制
の周到さ卑劣さを改めて思い知らされます。 







飯能醫療報國隊の旗




昭和17年に国民医療法が公布されると各地の医師会も
また戦時体制に編成されていきました。翌18年になると
各地で医療(防衛)報国隊 が結成されました。この17年
12月に公布された医療関係者徴用令で医師・看護婦等
の徴用と被徴用者の使用や給料等について規定されま
した。醫療報国隊は一般の勤労報国隊と同様に時局が
緊迫化するにつれて国家総動員法より更に一歩進めて
国民勤労報国協力令と国民徴用令、報国協力令が短期
と長期にわたり、14歳以上40歳未満の男子と、14歳以
上25歳未満の配偶者なき女子によって、職場ないし
団体単位に国民勤労報国隊が組織されました。無報酬
で、時局下に必要な工場・鉱山・農業等の労働につくこ
とになりました。昭和17年1月はじめて東京府下の中等
学校にも適用されました。また6月から石炭増産運動に
中小商工業者を動員することにもなりました。
職業等から分類すると軍人・準軍人・軍属
・準軍属・民間人に別れますが、意外と知
られておりませんが日本赤十字社救護員
や戦時衛生勤務に従事した救護看護婦、
救護医員などは軍属の扱いになります。ま
た同様に陸海軍に徴用された輸送船等の
船舶の乗組船員等も軍属となります。そし
て満鉄職員と満鉄関連の国策会社の職員
もまた軍属として扱われました。そして軍人
または軍属の行う業務の補完的業務に従
事した者として準軍属があります。ここには
被徴用者等 国家総動員法に基づき総動員
業務に従事した者(国民徴用令、船員徴用
令等により徴用され、国の行う総動員業務
や政府が管理する工場等の総動員業務に
従事した者等。軍需会社法により指定され
た軍需会社の従業員及び現員徴用者等。
学校報国隊員、女子挺身隊員、国民勤労
報国隊員等。醫療報国隊もこの準軍属の
扱いの範疇に組み込まれると謂えると思い
ます。既に醫学生以上から中年までの医師
の大半が軍醫として陸海軍にとられている
中、これ等醫療報国隊で活動をしたのは相
当に壮年期以上の医師や健康状態や運動
能力で現役軍人に向かない方と想像されま
す。これ等の方々がいざ本土決戦の折には
地獄の戦場と化した国内各地で傷つき斃れ
た一般国民を診るシステムだったようです。







ある元警察官で陸軍憲兵隊員の手製アルバム




御覧のように軍事郵便の葉書を使って作った
私製のアルバム帳です。下に写る陸軍憲兵さ
んの持ち物です。



アルバムの持ち主の憲兵上等兵殿です。
一般現地住民を襲い略奪や強盗・強姦・殺人など悪逆非道の限りを尽くす
支那人の山賊や匪賊を取り締まり住民を守るのも憲兵隊の仕事です。多く
は現地の日本軍と憲兵隊だけでは広大な大陸の極悪な支那人山賊・匪賊
を取り締まるのは不可能です。現実的に村や集落を守る為に馬賊が生まれ
自衛団組織から地域の用心棒として傭兵として存在していました。写真は、
戦闘後に住民が死んだ匪賊を見せしめの為、死体を放置した前で記念撮影
をしたものです。これ等の写真も支那人や国内の売国奴・国賊サヨが手に
入れるとたちまち日本軍の虐殺写真に速成で嘘八百で転用されるから恐ろ
しいものです。支那の共産党のやり口で嘘も長年つき続けていると本当に
なるという恐ろしい戦略。これが南京大虐殺という大嘘の原点でもあります。
ありもしない日本軍の虐殺・・・国民党の残党や支那人同志で行われた殺し
合いまで敗戦国・日本にいい様に利用されなすりつけらては堪りません。
地元の長野県では警察官をされていました。
郷里の家族との写真です。4人のお子さんがおります。








戦地憲兵と国内の憲兵と大陸での憲兵が大いに違う点は
007ばりの工作員としての任務をこなし政治的にも活動を
行う点です。戦場として進出した南方や国内などは治安
維持や対諜報や危険思想や検閲等が主体となりますが、
在支那・満州の憲兵はまさにスーパーマンさながらに縦横
無尽に活動しソ満国境を越えソ連側に潜入したりなども当
然のように行われ上海、香港などの国際都市の憲兵は、
白人諸国の工作員とも暗殺を含む諜報戦を行った事は良
く知られています。この為、敗戦時に多くの憲兵が見せし
めで復員できず無残な死を公共の場で暴徒化した支那人
に吊し上げ惨殺された者も少なくありません。また謂われ
無き罪をでっち上げられBC級戦犯で処刑された者も大勢
おりました。
スーパーマンのような憲兵は、現地で支那人の工作員を
遣い国民党の連中とも八路軍とも敢然と諜報戦でも優位
に戦い支那の大都市では、このような軍服を着ない平服
や支那服の憲兵がたくさんおりました。
典型的な支那の集落・民家の風景です。皇軍の威光に守られて
滞りなく安心して生活が出来る為、支那人は幸せでした!

皇軍と憲兵は良く支那の治安を守り現地の子供達の
安全を確保する事に努めました。現在、中国共産党
がでっち上げの反日教育で大嘘のデマを真実として
教育された極悪支那人が中国国民の大半を占める
事は大変に不幸な事です。
皆、良い笑顔です。考えても見て下さい。臺灣で南洋で現地人に
尊敬された日本軍と日本人です。支那や朝鮮でだけは鬼に豹変
して残虐の限りを尽くしたとでも本当に考えられるものでしょうか?
それは戦場でもあることですから…特に便衣隊(ゲリラ)が民間人
に混じりいきなり果物を差し出すと手榴弾が炸裂したりなど中国軍
を相手にすると卑怯なゲリラ戦・テロ戦が多く、後にベトナム戦争
でべトコン相手に常に疑心暗鬼になった米兵がソンミ村事件を起
こしたように前線での暴発は多分たくさんあったものと思います。
しかしソ連軍や米軍、、中国軍(国民党軍も共産党軍も含む)など
より余程、統率・統制が行き届いた皇軍にあっての暴発は連合軍
に比べて非常に少ない事は想像に難くありません。










敗戦後、ロシア人に強制的にシベリアへ抑留され
     殺された鹿児島県出身の木村 勇 陸軍伍長
             の死亡告知書(公報)等の書類など



僅か4枚の粗末なガリ版すりの薄紙に戦死を告げられ
ています。しかも戦死時期は、敗戦から一年を近く経つ
昭和21年4月6日と記載されています。告知書の日付け
は、昭和23年12月20日です。昭和20年8月15日の大東
亜戦争の敗戦により戦争は終了し日本軍は連合軍に降
伏し武装解除を受けます。本来であればこの木村伍長も
無事に帰国する筈でした。彼の人生が狂わされたのは、
ロシア(旧ソ連)の当時の指導者スターリンが出した一枚
の命令書でした。そこには『健康な日本兵50万人をシベ
リアへ連行せよ…』とありました。これが60万とも64万名
とも謂われるシベリア抑留の始まりでした。そして氷点下
40度を超える極寒の地・シベリアで最初の一年で6万名
の日本人が過酷な強制労働の末、劣悪な環境に耐えら
れず多くが凍死しました。これを虐殺と言わず何と謂うべ
きでありましょうか。
木村伍長は北支那方面軍・第十二軍隷下の独立
山砲兵第一大隊(大隊長 佐々木 典吾 陸軍少佐)
の砲兵でした。第十二軍は河南省鄭州市で敗戦を
迎えて昭和21年に復員していますが、第十二軍の
直轄部隊であった独立山砲兵第一大隊が何処で
シベリア行きになったのかは不明ですが、チタ州は
支那戦線から転用された4個師団が収容されたとい
う記録がありますので、その中に入れられていたも
のと想像します。チタ州の記録では30の墓地に五千
五百名の埋葬が確認されているようです。恐らくは
北支那方面軍隷下の独立混成第二旅団が張家口に
終結した約4万近い引揚の民間人を守る為、内蒙古
から侵攻したソ連軍と交戦しています。この南下した
ソ連軍に武装解除し連行された可能性もあると考え
ています。
敗戦から3年以上が経過した年末に息子の死を
たった4枚の粗末なこの紙で知らされた御両親の
気持ちを考えるとただただ理不尽としか表現でき
ません。卑怯なロシア人は事実上無警告で中立
条約を破棄し攻撃を開始しました。8月8日の午後
5時に佐藤駐ソ連大使がモロトフ外相より宣戦布
告を受けますがモスクワの電信事情の悪さで電報
は、東京に届かず宣戦布告の7時間後にソ連軍の
前面攻撃が開始されました。
極悪なるロシア人は北方領土を返還しません。
我々、日本人は決してロシアの非道と虐殺され
た満州の在留邦人・開拓団関係者、そしてシベ
リア抑留によって殺された6万名もの日本人の
恨み節も忘れてはなりません。民族の歴史とし
て必ず後世に伝えていかねばなりません。
矢印の下のバーナーをクリックすると
父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。
墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の
建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に
努める。”シベリア抑留死亡者チタ州遺児
の会
”へジャンプします!

            ↓







満州醫科大學から岩崎 医博に
 贈られた光之國手と記された記念盾




非常に入れ物も手の込んだ立派な記念盾です。






上の二枚は、ありし日の満州醫科大學の附属病院と
本館です。下は、病院を視察する満州皇帝 溥儀に
手術台や器械を説明する愛新覚羅憲均(清王朝の
王族の末裔の一人で満州国衛生部のTOPです)。








騎兵佐官指揮刀




佐官用の騎兵指揮刀です。鞘に痛みがあります。
指揮刀は戦後のペラペラのアルミ製に変更されています。
背金の鍍金はまだキレイですが護拳部分は
鍍金が一部剥げて緑青が浮いています。ま
た柄の金線も切れている部分があります。
鞘の痛みが錆とともに一番悪い部分です。








旧陸軍参謀本部(櫻田濠前の)鬼瓦




戦後最近に解体された市ヶ谷の新しい参謀本部でなく
その以前の国会議事堂の近くにあった旧参謀本部の
建物で使用された鬼瓦だと思います。今となれば風雨
雪の中で帝都の中枢にあってこの国の栄枯盛衰の近
代史を高い屋根から見下ろし見続けた証人のような…
鬼瓦です。









蒙古聯合自治政府成立記念の写真三点




皮肉なもので戦時中、日本が支援し独立させたモンゴルが
日本の敗戦で独立を取り消され中国に占領され自治区とし
て圧政に喘いでいます。中国の長年の取締りが功を奏して
チベットの占領・圧政と違い民族運動はほぼ完全に鎮圧さ
れ不満分子の種となりそうなモンゴル人は悉く弾圧されて
います亜細亜の自由と独立を支援し結果を導いた敗戦国
日本の真の姿と…戦後戦勝国となり近隣アジア諸国に軍事
侵攻し植民地化した中国…実に皮肉な結果だと思います。


徳王に李守信将軍の姿もあります。

日の丸の横にそしてポールにも高々と蒙古聯盟自治政府
の旗が掲げられています。

多くの日本人市民が彼等の独立を支持し暖かい
目で祝い慶祝の行列に参加しました。







征討大将軍・参謀総長を務められた
元帥陸軍大将 小松宮彰仁親王
(晩翠) 筆による 書幅。 


今も昔も観光の模様は大差が無いようです。
未使用の観光バスの切符(見本)です。



今でも郷戸の英雄を顕彰する立派な地方自治体
は素晴らしいと思います。



少飛の記念の背広用徽章と一緒に出た下士官飛行操縦者徽章
です。留金が上下で壊れていましたが、補修されてあります。青
春の想い出としてでしょうか大切にされていたようです。



陸軍航空兵の博多人形








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!