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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装...etc)PartTm















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








静岡県磐田市で眼科開業医であった
  荻野 義次 陸軍軍醫中尉の旧蔵資料











父母に妻子に妹さん二名と出征前の家族写真です。
下は、医師仲間に送られての飲み会でしょうか。






昭和17年10月現在で立襟の昭五式を
使用しています。初めにあるとおり衛生
部の鍬型兵科章と衛生部腕章が残って
いる意味が良く判ります。






九八式で見習士官になっています。
愛煙家だったようです。


































昭和7年に第二乙種で未入営補充兵として昭和8年、
12年、14年と観閲点呼を受けています。この方は、
昭和9年に昭和医専(現在の昭和大学医学部)に入学
昭和13年に卒業されております。昭和17年10月に地
元の静岡県磐田で眼科医院を開業中に軍医予備制度
で召集。名古屋陸軍病院で3ヶ月の速成教育を受けて
陸軍衛生軍曹になり、召集解除即再召集で軍醫見習
士官として満州に派遣されています。








荻野軍醫中尉は、非常に運の良い方で満州から
敗戦前に台湾へ移動となっています。この為、ソ連
侵攻でシベリア抑留を経験する事も、悲惨な日米戦
を経験する事無く昭和22年2月28日に鹿児島へ
帰国上陸し召集解除され、3年半に及ぶ軍隊生活を
終えております。




平均的な日本人医師の姿かも知れません。開業医なので
特に積極的に勤務を放り出して志願する事はありませんが
いざ召集がかかった歳は、上記の予定表のように家事、
仕事、一切と挨拶まわりなど後顧の憂いなきように動き、
軍人勅諭を暗誦するなど、国民として愛国の兵役義務をし
っかりと果たそうという気構えを感じます。エリートであるが
一兵士として決して疎かにする事無く責務を果たさんとする
淡々とした気概を感じさせます。また写真を見ていても明る
くその場の状況を楽しんでいる心の余裕を感じさせます。
この戦乱が当たり前の時代に生きたエリート達の素顔を垣
間見る思いがします。


昭和18年5月3日の記載で当時、満州9705部隊
衛生部軍醫見習士官だった荻野氏が作成した勤
務成績報告控えです。封をされていました。65年
の時を越えて開封してみました。以下が中身とな
ります。














同じ外地からの復員軍人といっても戦場とならなかった
台湾からの帰還なので非常に多くの書類が残っており
ます。戦地からの帰還兵の場合は、着の身着のままで
私物など殆ど持たない物が多いのを考えると恵まれた
運の良い方だと感じます。












以下は、台南陸軍病院時代の写真です。








荻野先生の御専門である眼科病棟前にて!
台南神社が定番の散歩コースだったようです。
珍しい台湾人看護婦さんです。


眼科病棟の主です。眼科患者さんと一緒に!


一連の荻野中尉の所持品でなく別に入手した昭和醫専の
卒業アルバムです。荻野中尉が昭和醫専に入学した昭和
9年の第三回卒業生のアルバムになります。下が卒業生の
医師達の集合写真です。


臺灣などから国の家族に宛てた手紙類です。







敗戦時、津陸軍病院長であった
   伊藤 進 陸軍軍医中佐の写真




昭和17年8月5日の撮影で場所は
杭州とあります。これが敗戦時の
直近に一番近いと思います。


昭和二年の陸軍軍醫学校乙種の卒業記念写真です。


陸軍軍醫少尉です。醫専の出で医師に
なられた方だと判ります。また原隊が歩
兵第31連隊が襟が読めます。写真館も
東京と弘前になっています。


弘前第31連隊は、第8師団隷下です。
母上と69歳の記載があります。
手関節のようですが、昭和7年5月12日に
撮影された記載と患者さんの名前のような
記載が裏にあります。
正衣から大尉相当官に昇進している事が判ります。
昭和11年1月8日の記載があります。
左は軍旗祭での写真で上右と以下は、支那での写真です。


左端は、御子息のようです。真ん中の写真は昭和13年11月26日
於 済南防疫部作業室(隊長撮影セラル)の記載があります。








手術舎用自動車と記載あります。中々の豪華な装備です。








敗戦時に伊藤進軍醫中佐が院長を勤めた
津陸軍病院は、東海軍管区名古屋師団
管区司令部の隷下にありました。明治41
年に歩兵第51連隊の設置に伴い津衛戍
病院として創設されたのが始まりです。そ
の後に津陸軍病院となりましたが、敗戦
後は厚生省の管轄となり、全国津々浦々
の陸海軍病院と同じで国立病院になり、
国立津病院と名称も変わりました。その後
紆余曲折があり、
平成10年7月に国立津
病院と国立療養所静澄病院を統合し国立
三重中央病院となりました。更に平成16年
4月に国立病院・療養所の独立行政法人
化に伴い国立病院機構三重中央医療セン
ターと改称し現在に至っています。陸軍
病院は一般に直轄病院・一等病院・二等
病院・三等病院甲・三等病院乙・航空部隊
病院・分院に分類されておりました。この津
陸軍病院は最も一般的で多かった三等病
院甲で別ベット数3百〜6百床の中規模基
幹病院でありました。








陸軍軍醫が使用した醫療嚢




かなり使い込まれていますが…革もまだ生きています。
柔らかくまだまだ現役で使えます。








中々、機能的に収納されています。今では中々見ないガラスの注射器です。
私の子供の頃、父の時代は注射器は全てガラスでした。針もデイスポでなく
滅菌して再使用していました。今の時代は注射器も一回一回の使いきりで全
てディスポです。但し、硬膜外麻酔や脊椎麻酔を行なう時はガラスの注射器
を今でも使用します。ディスポのプラスチックでは、硬くて硬膜の微妙な抵抗
や硬膜外腔に抜ける感覚が所謂、抵抗消失が判りません。昔ながらのガラス
の注射が今も多用される…人間(麻酔科医)の感覚だけに頼る部分です。
下は割れないようにガラスのアルコールをステンレスの筒で保護
したものが2本です結構頑丈で割れないものです。






聯具の中は、鑷子と剪刀に消息子(ゾンデ)でしょうか。これだけでは
どうにもならいので…鉗子や持針器やメスも必要であったものと想像
します。











戦前の奉安殿に飾られた菊の御紋章




戦前は何処の学校でも内外に奉安殿が置かれておりました。
そしてこの中に御真影と教育勅語とが安置されておりました。
戦後になりGHQの命令でその多くが取り壊されました。そんな
中で恐らく取り壊される時に日教組や全教組のような国賊アカ
で無いまともな学校の先生か校長先生が守り…戦後暫くは何
処かの資料館に展示されていたと聞いています。
敗戦前では、厳格で美しい理念の教育が実践されており
四大節(四方拝、紀元節、天長節、明治節)祝賀式典の
際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼と教育
勅語の奉読がなされました。また、奉安殿の前では神社
仏閣同様に登下校時や単に前を通過する際にも、職員や
生徒全てが服装を正してから最敬礼するように求められ、
皇室への崇敬の念が社会全体で盛り上がり現在のような
不敬な時代とは一線を画しておりました。







軍人外食券(満洲帝國)




満州国各地で使用できる軍人外食券です。
裏面の記載事項に「本券は全満各地に適用す」とある通り、満州国内を
公務等で移動する陸海軍軍人のみを対象とした軍人外食券です。民間
民需の配給券と比べて非常に珍しいものです。







北洋軍閥政府の四等文虎勲章




中華民国(支那共和国) 北洋軍閥政府(袁世凱)の
発行した四等文虎勲章です。この文虎勲章は支那人
だけでなく日本人にも授与されたようで種類は、一等
から六等まであったようです。







陸軍の航空計器:二号二型航空羅針盤




陸軍機に搭載された二号二型羅針盤です。九九式双発軽
爆撃機などで使用されました。中の液体が完全に抜け、
また上面の縁にかぶさる部分がなくなっていますが、磁針
はまだ機能しています。






銘板の製造番号は、97209です。







満鉄グループのバックルです。







水彩で直に色紙描かれている手紙を読む兵士
です。作者等は不明ですが、支那事変の頃で
しょうか。『義勇奉公第三』と書かれていますが
階級は上等兵です。














三菱重工業名古屋発動機製作所★陸軍大臣表彰記念の文鎮







ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!