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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装...etc)PartTl




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Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








敗戦前まで当たり前に存在した
 忠義の精神・愛国の精神・報恩の精神
  その一端を垣間見せてくれる満洲帝國軍官學校
   豫科(軍官1期)から陸軍士官学校(57期)を卒業
      した谷村 義種 陸軍中尉の卒業証書等の資料




上は、谷村中尉の満洲帝國軍官學校豫科の生徒姿。下は
日本帝国陸軍士官学校(本科)に進んだ将校生徒姿です。
豫科士官学校を満洲で本科の士官學校を相武台で終えた将校です。
両方の卒業証書が残り写真もあるので珍しいものと思います。
最末期に近い57期です。19年4月に1268名が卒業しています。この方は
戦死していませんので敗戦までに陸軍中尉に昇進していると思われます。
珍しい軍官1期の卒業証書です。



陸士57期の卒業証書です。



この方は戦後も生き残られ奈良県の桜井市で自営業を
されるかたわら市議会議員も務められたようです。こうし
た品が出て私の手元にある事から既に鬼籍に入られ身
内が居られなかったのか、はたまた処分されたのか…と
想像されます。
ただ純粋に国を愛し家族を愛し守ろうとしている心情が
切々と記載されています。今の日本人が失った何かを
持っているのが良く判ります。
国を愛し民族を想い…悠久の大義に生きようとされ
た当時の純粋な若者の決意を…現代の日本人は
どう受け止めるだろうか?…ただマスゴミが喧伝す
るように…日教組や赤い連中が喚くように軍国教育
のなれの果てと考えるのか?



訣別の書の中にあった遺髪と爪です。
戦況が敗色が濃厚な中で任官した正規
青年将校の覚悟の程が見て取れます。


ありし日の満州帝國軍官学校です。










陸軍豫科士官学校5期生(陸士56期)の
  塩田 友三郎 士官候補生の卒業証書とアルバム

 (昭和18年7月21日 ビルマで戦死、塩田 陸軍中尉)




昭和16年3月に豫科陸士を卒業した塩田 友三郎 士官候補生の
卒業証書とアルバムからです。この第5期生は陸士本科へ進み
ます。陸士56期です。56期は戦時の卒業を1年短縮され昭和17
年12月に1672名が卒業します。各地の戦場に散り、敗戦時に大
尉に進級された方が一般的だったと思います。豫科士官学校は
中央幼年学校が陸士豫科に大正9年になり、この陸士豫科が昭
和12年に豫科陸軍士官学校になったものです。昭和16年には
朝霞に移転し振武台の名を冠されます。敗戦までに最後の卒業
生が恐らく第9期となると思いますので…歴史的にも短期間の間
の卒業証書としては陸士(本科)の卒業証書より希少と謂えると
思います。まあその上の満洲帝國軍官學校豫科の卒業証書は
更に希少性が高いわけですが…こちらの塩田候補生は、上の谷
村候補生の1期上となります。
塩田 友三郎 中尉は、鉄道第五連隊に所属しビルマにて
昭和18年7月21日に戦死されています。従七位勲六等


正式な戦死地点は、ビルマ テナセリウム州アンファスト
県アナクイン鉄道橋です。



インパール作戦で有名になる牟田口中将が
校長を務めていた時の卒業生です。

彼が卒業し56期生として陸士(本科)に進むとすぐに日米戦が開戦となります。
1年半後の昭和17年12月には、繰り上げ卒業し見習士官となり原隊に戻り、
多くが少尉に任官し…戦地に赴いて第一戦の将校として活躍されました。
丸印が付けられているのが塩田候補生です。















東京裁判(極東国際軍事裁判)にて
 A級戦犯に名を連ねた十六名のうち十名が
  連署した非常に珍しい満堂拍手≠フ色紙!




しっかりと額装された色紙には満堂拍手°L載されています。 そしてその下に
10名の名が連署されています。右より佐藤賢了(陸軍中将)、 橋本欽五郎(陸軍
大佐)、木戸幸一(内務大臣)、大島浩(陸軍中将・駐ドイツ大使)、星野直樹(満州
国総務長官)、鈴木貞一(陸軍中将)、畑俊六(元帥陸軍大将)、嶋田繁太郎(海軍
大将)、加屋興宣(法務・大蔵大臣)、荒木貞夫(陸軍大将)の10名です。この10名
は、同じA級戦犯で有罪とされた中でも死刑でなく終身刑を言い渡された10名という
共通項があります。いずれにしろ敗戦以降、勝者による身勝手と思える敗者への復
讐劇と言えるこの裁判で裁かれた側で終身刑をを言いわたされた内の10名が一枚
の色紙にサインをし、それが遺されている事に驚きを覚えました。



                 〜東京裁判〜

極東国際軍事裁判は、昭和20年12月8日に設置された国際検察局(IPS)が
昭和21年4月にかけて戦争犯罪人容疑で逮捕した者の中からA級戦犯被告
を選定する作業を行うことから始まりました。具体的には、”膨張主義的超国
家主義団体”、”陸軍軍閥”、など8作業グループに分類し調査を行い執行委
員会が該当者となるリストを作成しました。最終的には、そのリストを各国か
ら派遣された検察官が集まって会議する参与検察官会議で審議し被告人が
確定されました。最終的に選定された軍人・元首相・外交官・政府高官等は、
28名に及びその全てが最終的にA級戦犯の被告とされました。

             ◆A級戦犯リスト◆

(1) 荒木貞夫 陸軍大将(元陸相・文相)
(2) 土肥原賢二 陸軍中将(元奉天特務機関長)、
(3) 橋本欣五郎 陸軍大佐(大日本青年党統領、桜会の中心メンバー)

(4) 畑俊六 元帥陸軍大将(元陸相)
(5) 平沼騏一郎 (元首相・枢密院議長、国本社会長)
(6) 広田弘毅 (元首相・外相)
(7) 星野直樹 (元企画院総裁・満州国総務長官)
(8) 板垣征四郎 陸軍大将(元陸相)
(9) 賀屋興宣 (元蔵相・北支開発会社総裁)
(10)木戸幸一 (元内大臣・文相・厚相)
(11)木村兵太郎 陸軍大将(元陸軍次官)
(12)小磯国昭 陸軍大将(元首相・拓相)
(13)松井石根 陸軍大将(元上海派遣軍司令官・支那派遣軍司令官)
(14)松岡洋右(元外相・満鉄総裁)
(15)南次郎 陸軍大将(元陸相・朝鮮総督・関東軍司令官)
(16)武藤章 陸軍中将(元陸軍省軍務局長)
(17)永野修身 元帥海軍大将(元海軍軍令部総長・海相)
(18)岡敬純 海軍中将(元海軍省軍務局長)
(19)大川周明(民間ファシスト)
(20)大島浩 陸軍中将(元駐独大使)
(21)佐藤賢了 陸軍中将(元陸軍省軍務局長)
(22)重光葵 (元外相・駐ソ大使)
(23)嶋田繁太郎 海軍大将(元海相・海軍軍司令部総長)
(24)白鳥敏夫 (元外務省情報部長・元駐伊大使・衆院議員)
(25)鈴木貞一 陸軍中将(元国務相)
(26)東郷茂徳 (元外相)
(27)東条英機 陸軍大将(元首相・陸相・内相・軍需相・陸軍参謀総長)
(28)梅津美治郎 陸軍大将(元関東軍司令官・陸軍参謀総長)

また
これ以外の戦犯容疑者は、次の起訴もあるというこ事で巣鴨拘置所
に収監されたままでした。

東京裁判(極東国際軍事裁判)が開廷され、昭和22年1月5日永野修身が
病死。大川周明は、開廷早々から東条英機大将の頭を叩くなどの奇行で
精神障害とされ、昭和22年4月には免訴。同年6月27日に松岡洋右が病死
。まず3名が審理途中から除外されました。結審は、開廷から二年後の昭和
23年4月16日でした。半年の休廷後、昭和23年11月4日から判決文の朗読
がなされ、11月12日に残る被告25名全員に次の有罪判決が下されました。

〈絞首刑〉7名=土肥原賢二・広田弘毅・板垣征四郎・木村兵太郎
          松井石根・
武藤章・東条英機、
 
〈終身禁錮〉16名=荒木貞夫・橋本欽五郎・畑俊六・平沼騏一郎・星野直樹
                      賀屋興宣・ 木戸幸一・小磯国昭・南次郎・岡敬純
            大島浩・
佐藤賢了・嶋田繁太郎・白鳥敏夫・鈴木貞一
            梅津美治郎
 
〈禁錮20年〉   東郷茂徳、
 
〈禁錮7年〉    重光葵。

死刑(絞首刑)は12月23日に執行され、翌日には予定されていた第2次裁判
の為、拘束されていた岸信介、笹川良一、児玉誉士夫ら戦犯容疑者19名が
不起訴処分で釈放されました。これによって12月29日極東国際軍事裁判所
は閉鎖され、その役目を終えました。尚、禁錮刑になった18名も、拘禁中に
死亡した5名を除き、昭和31年までに全員が仮釈放されました。

以下は、署名のあった10名の終身刑の方々のお写真です。





同じくA級戦犯として旧ソ連の横暴で
 禁固7年の刑に処された 重光 葵 の肉筆色紙






                〜重光 葵(略歴)〜

明治20年7月29日生。大分県出身。外交官・政治家。旧制五高から
東京帝大法科に進み卒業後、外務省へ入省。昭和7年4月29日、
上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮人の極悪テロリスト
の尹奉吉の爆弾テロに遭い重傷を負い右足を失う(上海天長節
爆弾事件)。昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判で有期禁錮
の判決を受ける。仮釈放と赦免後、政界に再復帰し、再び外務大臣と
なって日本の国際連合加盟に尽力した。昭和32年1月26日、狭心症
の発作を起こし逝去(享年69歳)。

         ↑
湯河原町にある記念館です。
クリックするとリンク先が開き
ます。







東京裁判で東條 英機 被告の主任弁護人
  を務めた清瀬 一郎 衆議院議長、直筆揮毫幅




あの東京裁判で東條元首相の主任弁護人を務めた事で有名な
清瀬弁護士の書です。清瀬弁護士は、京都帝大独法科を首席
で卒業し司法省入りました優秀な方です。その後、弁護士になりま
すが大正9年に衆院選挙に出馬し国会議員となります。昭和3年
に衆院議員副議長に就任し、東京弁護士会の会長も務めていま
す。敗戦後の昭和21年、極東国際軍事裁判では日本人弁護団
副団長で東条英機大将の主任弁護人を務めました。
東京裁判の後、政界に復帰し昭和30年には第三次
鳩山内閣で文部大臣に就任。昭和35年からは、第
49・50代衆院議長を務めます。昭和39年に勲一等。
昭和42年6月に逝去。議員生活37年に幕を降ろしま
した(享年83歳)。







A級戦犯容疑をかけられた
 東條内閣の初代大東亜大臣を勤めた
  青木 一男 自民党参院議員の肉筆色紙




     ◆ 青木一男 参院議員〜(略歴)〜  ◆

1889年11月長野県生まれ。長野中学から一高、東京帝大
法学部を経て大蔵省に入省。大蔵官僚から昭和14年、
阿部内閣で大蔵大臣兼企画院総裁として初入閣する。その
後汪兆銘政権への特派大使顧問として南京に赴任し、経済
政策を指導する。昭和17年に東條内閣にて初代大東亜大臣
に就任し、大東亜会議等の施策に携わる。 戦後はA級戦犯
容疑者として収容されるも、昭和23年釈放される。その後は
弁護士を務める。追放解除後の昭和33年、第3回参議院議
員通常選挙に自由党から全国区にて立候補し当選する。
以後当選4回。石井派に所属し、参院予算、大蔵、内閣各委
員長や、自由民主党参院議員会長を歴任した。
昭和35年には千葉三郎・木村篤太郎らと右派グループ「素心
会」を結成、親台湾派の立場から日中国交回復に激しく
反発した。また高速道路網の構築に情熱を傾け、特に中央
自動車道の建設実現に大いに貢献した。追放解除後は
信越放送の顧問を務めていたが昭和38年に長野県第二の
民間放送会社長野放送が設立されると初代の会長に就任。
昭和55年の引退まで勤めている。昭和46年勲一等旭日
大綬章受章。娘婿に加藤一郎(元東大総長)。小宮山洋子
は孫(加藤一郎の娘)。 昭和57年6月25日逝去。








第一航空軍司令官時代の陸軍中将
          李王根 殿下の御写真




李王朝最後 の皇太子である、李王根殿下です。日韓併合後は
大日本帝國の名誉ある皇族の一員として手厚く遇されました。
その 第一航空軍司令官時代の御写真九枚です。邸宅内部より
赤坂にあったお屋敷(赤坂プリンスホテル旧館)でなく 第1航空
軍の司令官公舎と思われます。





純和風の家ですが、流石に皇族の方が住まわれるには風呂も小さく
粗末なので司令官公舎だと推察しています。お写真の軍服から拝察
すれば三式軍衣をお召になられているので大阪師団長(第四師団)
や宇都宮師団(第五一師団)でなく昭和18年7月より調布飛行場南
地区の天文台道路に面した上石原付近に、李王垠中将の第1航空軍
司令部がありました。その時の三鷹周辺もしくは、調布周辺に設けら
れた司令官公邸と思います。
昭和4年に建築された旧李王家邸 (千代田区
紀尾井町 赤坂プリンス旧館)です。
この他にも楽寿園(元々は、小松宮彰仁親王の別邸
でしたが彰仁親王の没後、明治44年に李垠殿下の
別邸となり、昌徳宮と称しました。現在は、三島市の
所有となり面積約6万7000平方mの公園です。この
中の庭園部分が国の天然記念物に指定されていま
す。)がありますが、規模共に全然違うので妥当なラ
インは、三鷹・調布の多摩地域にあった第一航空軍
司令官官舎だと考えるのが自然だと思います。
1922年4月、徳寿宮内で左より徳恵姫、方子妃、尹王妃、純宗皇帝
李王世子、侍従に抱かれた晉殿下
1909年、垠殿下と伊藤博文公。

       〜李王垠 陸軍中将〜
           (略歴)

出身:韓国、陸士29期、陸大35期

明治30年10月20日 〜昭和45年5月1日
旧朝鮮王族の李王垠殿下です。当時我が国では
李垠(イギン)殿下と呼ばず李王垠(リオウギン)殿下
とお呼び致しておりました。殿下は李氏朝鮮(朝鮮国)
が大韓帝国と改称した年に生まれ、大韓帝国皇太子と
なりました。幼少期に日韓併合による朝鮮半島一帯の
統治を検討していた日本の招きで訪日し以降は、
学習院、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校で教育を
日本で受けました。明治43年の日韓併合によって、
王世子となり日本の皇族に準じる待遇を受け、「殿下」
の敬称を受ける。大正9年4月に日本の皇族の梨本宮
守正王の娘の梨本宮方子女王と御結婚されます。
陸士官卒業後は帝国陸軍でキャリアを重ねます。
歩兵第五十九連隊長、陸軍士官学校教官、近衛歩兵
第二旅団長、留守第四師団長、第一航空軍司令官など
を歴任。最終階級は陸軍中将。敗戦後、昭和22年に
李垠夫妻は臣籍降下し、日本国籍も離脱しました。
しかし、朝鮮半島の李承晩政権時代には彼らの帰国は
許されず、2人が韓国に帰国を認められたのは朴正煕
政権が成立した昭和38年の日韓国交正常化交渉がは
じまってからのことでした。その後、夫妻は韓国へ渡り、
李垠殿下が昭和45年に享年73歳で逝去。遺された
方子様は、広くボランティア活動を続けられ昭和56年に
は、韓国政府から”牡丹勲章”が授与されています。
そして平成元年4月30日に逝去されました(享年87歳)。
葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行
われ、日本からは高松宮宣仁親王、同妃喜久子が参列
しました。後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。
お二人の間には長男・李晋(幼くして急死)、次男・李玖の
二人のお子がありました。唯一の後継者だった李玖は、
東京で生まれ戦後は、アメリカに留学、アメリカ人女性結婚し
てアメリカに帰化しました。昭和38年、韓国に帰国して実業家
になりましたが、経営していた新韓航空が倒産。その後、夫人
とも離婚した。その後紆余曲折して再び来日しましたが、
2005年7月16日、心臓麻痺のため、グランドプリンスホテル
赤坂(当時赤坂プリンスホテル)にて死去されました(享年74
歳)。李王家の血筋は、李玖氏の父の兄つまり伯父にあたる
義親王李の孫にあたる李源が彼の養子となり李家を継いでその
血筋を守っているようです。

李垠殿下と方子妃殿下
1938年、北京軍司令部付時代の英親王李垠殿下と李方子妃殿下
1940年、大阪師団長時代の垠殿下と玖殿下に方子妃殿下







鹿児島地区憲兵隊
   
 谷 忠夫 憲兵兵長の使用した憲兵腕章




M.P.を入れた敗戦期の憲兵が使用した実物腕章です。
憲兵腕章は良く出ますが…M.P.入りで来歴の判る物は
少ないので珍しいと思います。
同じ谷 憲兵兵長の使用された憲兵手帳です。同時
に入手しましたが…手帳カバーだけで中身の勤務手
帳が欠品でした。勤務手帳のカバーも珍しいのです
が何点か持っているので、ので返却しました。



鹿児島地区憲兵隊の公印と第四拾九號の記載
が内部にあります。

敗戦期の粗末なガリ版刷の証明書類です。





別の実物・憲兵腕章!




こちらもM.Pが入った実物の憲兵腕章です。
一緒に三式少尉襟章の片側のみがありまし
た。来歴は不明ですので、憲兵少尉殿が使
った為なのか…ただ単に紛れてあったのか
は、不明です。







戦時資料:珍しい従軍画家の従軍腕章




御覧のように陸海軍の双方で許可された腕章です。海軍の方は、
支那方面艦隊総務部の印があります。陸軍の腕章の印は難読で
す。しかし後ろに取消がなされて日付印があります。中支・軍報道
部で昭和13年5月23日とあります。
共に従軍画家 佐藤克三氏のものです。陸軍の方は、
No.520で海軍の方は、第十七號とあります。








戦時資料:群馬県 特別報道班 防空腕章













戦前資料:珍しい消防組の制服




珍しい消防組の制服です。明治27年2月、従来の自治的消防組織体制から
行政の手による消防の統一的運営に移行すべく、勅令により「消防組規則」
が公布されました。これを受けて全国各地で消防組が設置されるのですが、
当初は、警察署の下で消防手が募集され、警察組織の下で作られ運営され
るような組織でした。昭和4〜5年頃から、軍部の指導により民間防空団体と
して防護団が各地に結成されました。昭和12年には防空法が制定され、国
際情勢が悪化と共に国防体制の整備が急がれるようになり昭和13年に内務
次官名で消防組と防護団の統一について両団体統合要綱案が通牒され、勅
令制定の基礎となる両団体統合の要綱が決定されました。これらを経て、消
防団と防護団を統合し新たな警防組織を設ける為、昭和14年1月に勅令をも
って「警防団令」を公布しました。これにより、明治以来の消防組は解消され
お馴染みの”警防団”として同年4月1日に全国一斉に発足され、警察の補助
機関として従来の水火消防業務に防空の任務を加えられて敗戦に至りました。
この制服を見ると警防団の出来る前の立襟時代の
消防の制服が良く判ります。警防団より立派なもの
です。襟にあった徽章が取り外されているのが判り
ます。
戦後、GHQの指導により警防団は、解体され新たに
消防団が出来ました。そして警察から消防が独立分
離され今日に至っています。
階級は、不明です。どうも詳しい専門家によれば
警防団が出来るまでの過渡期は、好き勝手に制
服を誂えていたようで決まった制服は無かったよ
うです。



戦時資料:地方の消防組や消防團の法被




消防組時代の法被です。


こちらは消防団の法被です。



戦時資料:下谷区防護団の防護団腕章
           (東台分団 警護班)




昭和14年に公布された警防団令に消防組と統合された
半官半民の軍部の要求により空襲の際の防護の為に
組織さた防護団の腕章です。下谷区は、現在の台東区
浅草付近になります。







皇軍とスキー!




陸軍とスキー…何とも妙な組合わせに思えますが
厳寒の雪国である東北・北海道以北の防衛となれ
ば季節に寄ればスキーは重要な装備となります。
幾つか集めた品をまとめてご紹介します。
スキー板は、時々出てきますがスキー靴は、中々
お目に掛かりませんでしたが、使用感の少ない美品
のスキー靴一点からです。
このスキー靴は宇都宮在住の旧陸軍中尉だった方の御実家
から出た物との事です。官給品の兵用編上靴10文3分を
ベースに造られた誂えスキー靴となっております。
通常の長靴・編上靴と違い靴に掛かる運動量に耐える様に底の厚み
は分厚く、糸も通常の物より太い糸を使用して縫製されています。
靴紐も通常の平紐と違い長く太い黒色丸紐が使用されてます。
底部の周囲と踵の溝周囲に鎖状の飾り線が刻まれた注文品
です。洒落た模様が残ってます。底に取付られた金属金具錆も
無くビスの緩みも有りません。
爪先の金具には製作店の名「TAKAHASHI」の刻印が打たれています。
”高橋靴店”は戦前、有楽町東口に有り…戦後は店名もスポーツ専門店
としてスキー靴・登山靴等を製作販売をしていましたが…現在は廃業し、
その後は「TOTO」衛生陶器の展示ホールになっておるようです。



陸軍☆軍用スキー板(訓練用と実戦用)と関連品




長いこちらのタイプのスキーは、訓練用の
スキー板とのことです。
昭和19年の印がある陸軍の軍用スキー板です。
全長181cmあります。

上のと違うスキーです。
昭和18年、本廠検定の長寸の板です。上の
画像の下段左に左右の印が押されています。
上の画像の上段右と中段左にテール部分で滑り止め
のアザラシの毛皮など引掛ける為、切れ込みが見られ
ます。中段中は、トップ部分のアザラシの毛皮等を固定
する為、引掛ける部分が見えます。
雪中行軍訓練中の皇軍兵士達!


こちらの短いスキー板は、実戦用の板との事です。
訓練用を切断した物で無く短寸の実戦用スキー板は
残存数が少なく希少なようです。こちらは、ストックも
しっかりして残っておりビンディングの革もしっかりして
います(全長122cm)。



陸軍のスキー用滑り止めです。アザラシの
皮製で未使用の美品。
軽い上りの斜面などで威力を発揮。陸軍スキーの先端の
突起部に輪を引っ掛けて3箇所で固定。後ろの紐は、長さ
が異なるスキーでも調整できるように考案して物とのこと
です。特に刻印等は、無し。


同じく別の未使用品です。







仙幼(仙台陸軍幼年学校)のスキー板とストック!




仙台陸軍幼年学校の焼印の入ったスキーです。








現地部隊発行の自動車運転免許証





昭和19年8月に大阪商船の”めき志こ丸”を含む二隻の輸送船
が掃海艇、駆潜艇など4隻で護衛されマニラを出撃して目的地
セブを目指しました(フィリピン防衛強化の一環としてピートンに
部隊を揚陸する予定のところ、後に目的地が変更)。船内には、
輝兵団補充員、楓部隊など4020名、米1600トン、石炭1000
トンのほか重油1800缶、濃硫酸など合計3246トン、更に車両
19台、ガソリン103缶、弾薬200トン、被服1000トンが満載で
した。この”めき志こ丸”は、8月29日02:05にセレベス海で米
潜水艦ジャックの雷撃を受けて轟沈。幸いにも搭乗部隊4020
名のうち3195名が救助されました。代わりに”めき志こ丸”乗組
員22名が戦死を遂げています。この時に車輌等の全てを失って
います。この大尉殿は、こうした部隊の生き残りで輸送部隊(
輜重兵)の将校のような気がします。まあ大尉と言えば中隊長殿
ですから余り自ら車輌の運転に当たる必要も無いわけで将校で
わざわざ臨時の運転免許証の発行を受けるのは、そうした理由
があるやに考えます。またこの上林大尉殿は、36歳ですから士官
学校出の現役の正規将校でなく兵下士官から叩き上げの将校と
思います。(下の画像は、ありし日の”めき志こ丸”です。)







ベラウ支隊とあります。つまりパラオの事です。敗戦時の
パラオ方面は、南方軍直轄のパラオ地区集団として第14
師団長 井上貞衛陸軍中将を最高司令官として独立混成
第49旅団(江藤大八陸軍少将):パラオ・ヤップ島、独立
混成第53旅団(山口武夫陸軍少将):パラオ本島が無傷
で存在していました。敗戦までにぺリリュー島とアンガウル
島が激戦地となりパラオ地区軍集団の中で中川洲男大佐
を長として(水戸歩兵第二連隊を基幹とする陸海軍守備隊
)が壮絶な戦闘の末、玉砕を果たしていますが…パラオ本
島方面は、無傷のままでした。この認識証明書で衛生軍曹
が所属したと思える部隊は、この地域で第123兵站病院、
第23野戦防疫給水部、第14師団野戦病院、第14師団防疫
給水部、または、各旅団の大隊が合計14隊ありますので
各隊の衛生兵として勤務していたと思われます。







陸海軍各種航空計器メーカーとして
 有名な田中航空計器(株)の戦前の
   表彰状等、企業としても愛国精神に
    溢れ地域に根差した軍用メーカーの姿!








以下は、代表的な陸軍の田中航空計器の製品です。










十一年式軽機関銃〜手作りの精巧模型〜

(実寸大)




個人製作のスケール1:1の実寸ダイ模型です。可動部分は給弾部と二脚。悲しいかな二脚に実物に無いバネがあります。強度を出すのに必要だったと思われますが、全体的に雰囲気を良く出しているだけに惜しいです。
機関部や給弾・装填部が器用に木製で製作され塗装を施されています。銃身部は
木製を主体に金属が使われています。細かく見れば十一年式の刻印が無かったり
突起部分の形が違うなど相違点あるものの総じて見事な力作と思います。




給弾部などは特によく出来ていて手作りとは思えない
感じですが中に見える銃弾もホッパー部も全て木製で
塗装してありビス二本で固定しています。

給弾蓋・ホッパー部の蓋にバネ無く木製なので軽々と上下に
稼働します。張り出しホッパー部分が底部ネジ二個で簡単に
着脱固定出来るようになっています。見事です。


照尺も木製で稼働します。


機関部と装填部も中の弾丸も全て木製の手作りに塗装を
してあるものですが、その器用さには舌を巻きます。私の
ような不器用な者には真似が出来ません。下は、この模型
を野外において撮影した物です。こうしてみると実物のよう
に良い感じを醸し出しているから不思議です。



上は、実銃の白黒画像。以下は以前、ヤフオクで出品されて
いた無稼動実銃の十一年式の画像です。











実物から型取してキャスト製で作った
    各種日本軍の精密複製手榴弾6点




十年式、九九式、九七式手榴弾です。中々、見事に再現され
手で触れて持つまでは実物と変わりがありません。
映画や博物館・資料館の展示にはこれで十分の様な気がします。








ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!