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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc)PartTk















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








満洲国軍政部最高顧問
  河野 悦次郎 陸軍中将 旧蔵の各種資料




河野 悦次郎 陸軍中将(正四位功三級)は、陸大卒後
支那での特務機関を中心に軍歴を重ねた珍しい軍人
です。一般の将軍のような連隊長職、旅団長職には殆
ど無縁で唯一、中将に昇進してから半年だけ第五十三
師団長を経験されています。非常に特異な経歴の軍人
と謂えます。またこれ等の旧蔵資料の中には非常に
貴重な品々も多くあります。
少将時代の河野閣下です。
お子様、御親族などに配られた写真のようです。


陸軍記念日に軍馬に騎乗して撮影する河野閣下。

大尉で参謀のようです。真ん中の閣下は閑院宮載仁親王(元帥陸軍大将)
と思われます。全員が左腕に黒い腕章(喪章)を巻いておりますので親王
殿下が昭和2年に大正天皇御大葬総裁を勤められた時期と考えます。
上は、大佐時代のの河野閣下です。下は朝鮮
の第19師団の第75連隊(会寧)の少佐時代の
写真です。



関東軍参謀時代の河野中佐が長物の集合写真おられます。

熱河作戦の折の第八師団本部と思われます。右から二番目の
参謀が河野閣下(当時、関東軍参謀)です。
熱河作戦の合同慰霊祭の写真と思われます。
ギラギラした男盛りの河野中佐です。如何にも
関東軍参謀という風情が漂っています。
本間雅晴中将の少将時代です。本間閣下を中心に外国人が
二名が入り集合写真です。河野閣下は階級が中佐です。河野
中佐も本間少将も参謀飾緒を佩用していませんので少将の参
謀本部附の前、歩兵第三十二旅団長時代だと思われます。
河野中佐は、陸士附から昭和11年8月(翌年8月に大佐に昇進
するまで)から太原特務機関長をされています。この時期の昭
和11年8月から同年12月までの3ヶ月間(同年12月1日より本間
閣下は、参謀本部附で欧州出張で出ます。)の写真と考えます。
写真からもお判りのように本間閣下の略綬よりも
河野中佐の略綬の方が四段で多いです。


左は、大佐時代。右二枚は、少将時代(昭和15年8月9日朝、於:青島)。


支那駐屯軍司令官(少将)時代の梅津閣下
と思われます。


左下の画像は、裏に昭和16年11月5日の憲兵隊の検閲印があります。
第十二軍参謀長を兼任した時のお写真と思われます。参謀飾緒を佩用
されております。右下は、昭和17年1月5日、参謀長官舎の玄関前にて
の記載があります。前列左より沢井曹長、閣下、前平兵長。後列右より
井上上等兵、櫻井給仕、立花給仕、山口一等兵。と記載されています。




下は、土橋部隊合同慰霊祭委員長として挨拶に立つ河野閣下。







太原特務機関新館落成記念写真

昭和11年10月1日の陸軍 太原特務機関新館
落成式記念のオリジナルプリント写真1枚です。
神主姿の方の左隣で背広姿で座っている方が河野閣下です。
当時、陸軍中佐で太原特務機関長をされておりました。太原
特務機関は、後に山西陸軍特務機関に改編されます。また
山西陸軍特務機関は、太原陸軍連絡部と別名で呼ばれるよう
になります。当時は、華北方面を全面平定し占領統治する為の
活動を中央・地方の特務機関が活動を行っておりました。昭和
12年7月に陸軍が華北の主要地域を軍事占領下におくべく作戦
行動を開始しましたが、これに先立ち支那駐屯軍司令部が作成
した計画として『昭和十一年度北支那占領地統治計画』がありま
すが、この計画に概ね沿って当地計画が進められていたようで
す。ここで占領地統治機関として軍内に「中央統治部」と「地方
統治部」が設置され、統治計画書では占領軍の基本的任務は
(作戦・警備=軍事占領)と占領地の(統治=軍政)の二大分野
に分かれますが、軍司令部内において主として後者(統治=軍政
)を分担・管掌する機関が、この2種類の統治部(「中央統治部」と
「地方統治部」)です。中央統治部は、当時の北平特務機関長
松室 孝良 陸軍少將が部長に予定されておりました。また中央統
治部内の各部長には、冀察・冀東両政府に派遣されている日本
人顧問(メンバーの大半が北平・通州両特務機関の特務機関員)
または、支那駐屯軍司令部付きの日本人顧問を充当する計画に
なっていました。さらにその下の課長、課員クラスの要員としては、
右顧問の残余と満鉄及び「満州国」日系官吏の出向者をもって充
てられる予定でした。地方統治部は、冀察、山西、山東の各統治
地区にそれぞれ一つずつ設置され、その部長には中央の場合と同
様、それぞれの地域の特務機関の機関長(冀察ならば通州特務
機関長、山西は太原特務機関長、山東は済南特務機関長が就任
し、各課のスタッフは特務機関員、満鉄社員、「満州国」日系官吏
により充当される計画であり、これが実行されました。

★河野悦次郎 陸軍中将(正四位功三級) 略歴 ★

愛媛県出身 士候25 陸大36 (歩兵科)

大正 2年 5 月26日 陸軍士官学校卒業

大正 2年12 月25日 陸軍少尉

大正10年12月14日 陸軍大学校入校

大正13年11月29日 陸軍大学校卒業

昭和 5年 8 月 1日 竜井村特務機関長

昭和 6年12月12日 免

昭和 9年 8 月 1日 関東軍参謀

昭和10年 8 月 1日 陸軍士官学校附

昭和11年 8 月 1日 太原特務機関長

昭和12年 8 月 2日 陸軍歩兵大佐・第3師団司令部附
                   (名古屋医科大学配属)
昭和13年 3 月 1日 太原特務機関長

昭和13年12月30日 第12軍司令部附
                    (青島特務機関長)
昭和14年 3 月 8日 済南特務機関長

昭和14年12月16日 山東省特務機関長

昭和15年 3 月 9日 陸軍少将

昭和16年10月15日 第12軍参謀長兼山東省特務機関長

昭和17年 5 月 3日 免兼

昭和17年12月10日 満洲国軍政部最高顧問

昭和18年 3月11日 免

昭和18年 6月10日 陸軍中将

昭和18年 7月26日 東部軍司令部附

昭和18年 9月25日 第53師団長

昭和19年 4月27日 参謀本部附

昭和19年 9 月 8日 歿(ビルマにて戦病死)

太原飛行場にて9月24日とあります。主翼の下での記念撮影
です。左から左から三人目のスーツ姿の方が河野閣下です。
一人置いて中根領事とあり支那服の右の二名は、満鉄の人間
のようで名前の記載が裏にあります。







民国28年(昭和14年) 魯西視察の古写真アルバム

民国28年(昭和14年)唐省長と河野機関長と西田顧問官
の魯西視察の古写真アルバムです。
中華民国暦28年(昭和14年)撮影の生写真31枚で
構成された記録アルバム。山東新民報社編集局の
印章があります。この時、河野閣下は済南特務機
関長(陸軍大佐)をされていた時です。
中華民国暦28年(昭和14年)10月に行われた、唐仰杜 山東省
河野悦次郎 済南特務機関長等による魯西(山東省西部)視察
旅行の記録写真帖です。同行した山東新民報社編集局の職員
によって撮影・編集・制作されたもののようで、60mm x 60mm
サイズの小型プリント31枚、8頁で構成されています。表紙には
山東新民報社編集局の印章が押されている珍しい物です。











唐仰杜

北京訳学館卒業。民国7年、山東清理官産処委員長。
10年、財政庁制用課長。11年、財政庁徴権課長。
12年、山東省会市政庁総弁。14年、兼山東防疫総局
会弁。16年、山東全省衛生総局監理。17年、市政庁
辞任。27年、山東省公署財政庁長。28年、山東省長。
日本の敗戦後の1946年10月31日に死刑。







中華民国暦28年(昭和14年)10月に行われた、唐仰杜山東省長、
河野悦次郎陸軍特務機関長等による魯西(山東省西部)視察旅行
の記録写真帖です。同行した山東新民報社編集局のスタッフによ
って撮影、編集、制作されたもののようで、60mm x 60mm サイズ
の小型プリント31枚、8頁で構成されています。表紙には山東新民
報社編集局の印章が押されています。


唐省長です。写真裏に昭和15年6月26日、
訴洲憲兵隊検閲済のの判があります。こちら
も河野中将の旧蔵写真です。









昭和16年9月18日 平原縣にて








唐仰杜 山東省長からの手紙

唐仰杜 山東省長より河野少将へ送られた
手紙です。中に日本語訳の文面もあります。

唐仰杜山東省長の直筆の中国語の文面です。

通訳が訳した文面です。





昭和15年11月16日 鈷遠縣城入口にて
小学生の歓迎の出迎えを受ける一行。



昭和15年11月30日、鋸野縣公署にて、にて
昭和15年3月31日 済南在郷軍人会にて







昭和15年 山東省 登州道公署ニテ記念写真

山東省 登州道公署ニテ 昭和15年撮影の記念写真です。
昭和15年11月17日撮影の生写真。山東省長の唐仰杜氏
と山東省特務機関長当時の河野閣下(少将)です。

左に立つ満州国協和服姿の方は
山東省特務機関の浜田補佐官で
す。河野閣下の部下です。右の方
は、芝署機関長 新郷中佐です。


昭和15年11月16日 根遠縣公署にて休憩の写真





後年、別に入手した写真です。
民国29年(昭和15年)4月1日の写真です。
拡大写真はピンボケしてしまいました。御馴染みのメンバー
写っております。裏に憲兵隊の検閲印が入っています。


以下の写真は、入手できなかった品ですが参考の為に掲載します。
北京景福閣に於いて撮影された生写真で、王克敏や鈴木貞一、
賀屋興宣、岸信介など錚々たる顔ぶれが見て取れます。
北京万寿山の東の高台にある小さな楼閣「景福閣」の前で
撮影された大判の一枚です。撮影の日付はありませんが、
旧蔵者で写真にも写っている河野悦次郎陸軍中将自筆の
メモ(写真参照)によりますと、塩沢清宣少将とありますので
昭和15年3月9日以降、鈴木貞一「少将・興亜院」とありま
すので昭和15年7月31日の間の撮影と思われます。
王克敏(中華民国臨時政府主席)を中央に、鈴木貞一陸軍少将
(興亜院政務部長)、賀屋興宣(北支那開発公社総裁)、岸信介
(商工次官)、王蔭泰(華北政務新委員長)、大野龍太(大蔵次官
)、平田正判陸軍少将(北支那方面軍参謀副長)、代谷清志海軍
少将(北京在勤武官)、塩沢清宣陸軍少将(華北連絡部次長)…
等々、当時の肩書き及び階級ですが…錚々たる顔ぶれです。
王克敏(Wang Ke min)

1873〜1945.12.26。浙江省出身。1900年来日し、清国留学生監督、
公使館参賛を歴任。帰国後は外交事務職に就く。辛亥革命後直隷派
軍閥政府の中国銀行総裁、財政総長。27年国民政府から逮捕令が
出されたため、大連に逃れ奉天派軍閥に属した。31年張学良の下で
北平財政整理委員会副委員長。さらに東北政務委員会、北平政務
整理委員会、冀察政務委員会の委員を歴任。対日よりの政策を採り、
37年12月華北に興された中華民国臨時政府行政委員長に就任。43
年華北政務委員会委員長。敗戦後、漢奸であるとして国民政府に逮捕
され、獄中で自殺。
後の総理となる岸信介(当時、商工次官)の若かりし頃の姿
が非常に印象的です。







昭和15年11月10日、青島の王克敏氏邸にての撮影。
右より浜田補佐官、夏秘書、河野少将(当時)、阿金少尉
王克敏氏、唐省長。河野中将旧蔵の写真です。














昭和16年 飯田中将送別記念(軍司令部屋上)撮影の生写真)
昭和16年3月18日撮影の写真です。河野少将(山東省機関長
)の左側の方が飯田中将(第十二軍司令官)、右側の方が山内
少将(軍参謀長)で、その他は軍幕僚となります。







第十二軍司令部に侍従武官 徳永 鹿之助 陸軍大佐を御参遣
され軍司令官土橋中将が奉答文拝読する光景を撮影した珍し
い生写真です。(昭和16年11月27日の撮影)
奉読中の土橋中将にすぐ後方手前が副官広瀬大尉
その奥が河野少将(第十二軍参謀長兼山東省特務
機関長)のようです。

















山東省済南道公署二週記念撮影・民国31年(昭和17年)
非常に興味深い生写真です。時は昭和17年7月1日です。先の写真
(昭和15年〜16年)では、九八式軍衣袴で撮影されている河野閣下
ですが、この集合記念写真では、わざわざ立襟の昭五式軍衣袴で参
加しています。少将昇進が15年3月です。17年5月までは、第12軍
参謀長兼山東省特務機関長ですが、7月1日では、免兼で第12軍参謀
長のみとなります。確かに参謀飾緒を佩用されております。他の軍人達
は皆、九八式軍衣袴姿です。昭和15〜16年まで立襟姿の混在する写
真をたまに見かけますが、翌年には三式軍(昭和18年制定)衣袴に替
わる17年で着用している姿は珍しいと思います。まあ閣下なので誰もこ
れに文句を付ける事も無いでしょうけど。
中央が河野閣下(当時、少将)右は、山東省長の唐仰杜氏です。

この写真の中には、何名か御覧のように
満州国陸軍軍官(中尉)と満州国警察の
姿も数名見られます。

































河野閣下は、兼職の多い方で公務が非常に多いのもありますが、
印象としては個人的にも写真好きだったイメージを持ちます。
短期間に非常に多くの写真を残しております。
下は、昭和17年9月18日 華北第二本国防婦人会 済南支部結成式
監督官臨場の記載と憲兵隊の9月24日の検閲印があります。

昭和15年3月10日 済南忠魂碑前にて在郷軍人の閲兵(上下とも)






昭和16年9月27日 済南日本青年団 第21回華語講習会終業式記念







蒙古聯合自治政府主席
  デムチュクドンロブ(徳王)と
    李守信総司令官(将軍)との写真集




旧日本軍によって撮影されたモンゴル独立運動の指導者デムチュクドンロブ(徳王)
及び副主席李守信たちの 姿を記録したオリジナルプリントです。 撮影の時期は
蒙古地方自治政務委員会が成立した昭和9年から11年。モンゴル独立運動に日本
軍が深く関わったことを裏付ける貴重な記録写真です。360mm x 260mmサイズの
質の悪いザラ紙に貼りこまれ、全体で20 枚から構成されています。今、チベット自
治区のチベット人が中国人に虐殺され世界中で大問題となりました。ダライ・ラマ法
王が世界に向けてアピールし北京五輪の聖火リレーが世界中でボイコットされまし
た。独立国チベットが中国に武力侵略され属国以下の自治区にされたのと同じ事が
内モンゴル自治区で行われてきました。この人権弾圧に立ち向かい独立を果たそう
とする内蒙古人を支援したのが日本であり日本軍でした。我、日本軍が植民地の圧
制や支配に喘ぐ東亜の人々を解放すべく戦い活動した動かぬ証拠であります。この
生写真等は、河野中将の旧蔵品であり自筆と思われるメモが記され、河野氏自身も
軍用機の前に徳王達と並んで写っています。…今となれば貴重な歴史的資料といえ
る生写真です。
昭和12年10月23日に内蒙古は、独立宣言を行います。
年号は、ジンギスカン紀元732年とされました。
蒙古連盟自治政府は同年12月28日に政府首席に雲王
、副首席に徳王を擁立し事実上の自治と言う名の事実上
の完全独立を日本の助力をバックに果たします。
またこの蒙古連盟自治政府に王精鋭の南京政府より独立
した察南自治政府・普北自治政府を併せて蒙疆連合委員
会が設置され、徳王が委員長をつとめました。
徳王と河野中佐(当時)を中心にした記念写真
河野中佐の横にいるのは、山瀬昌雄航空中佐(当時)です。
山瀬昌雄中将は航空畑一筋に生きた方です。支那事変の時
は、飛行第九十戦隊長でした。パイロット二名が一緒に山瀬
中佐の横で写っています。昭和10年7月には、関東軍から
徳王にスーパー六人乗り旅客機が贈与されています。 満州
航空より水本飛行士と椎木機関士が出向という形で居住運
行した模様です。この二人の飛行服姿から満空の両名の可
能性があります。またこの機体も形状からスーパーユニバー
サル旅客機(満航式T型スーパー輸送機)で間違いないと
思います。これ等、何度も運行を経験した機体と搭乗員が丸
ごと蒙古側に提供された可能性が考えられます。また山瀬中
佐の立襟の鍬型が白色のように目立つのは、航空科の薄青
をしていたせいです。隣の河野参謀は、歩兵科の赤色であっ
たのとは好対照です。

     〜山瀬昌雄 陸軍中将 (略歴)〜

広島県出身、士候26期、 陸大33期、 航空科

 明治25年7月25日 生

大正 3年 5月28日  陸軍士官学校卒業
大正 3年12月25日  陸軍少尉
大正 7年12月11日  陸軍大学校入校
大正10年11月28日  陸軍大学校卒業

昭和11年 8月 1日  航空兵団参謀
昭和12年12月 1日  第九飛行大隊長
昭和12年 8月 2日  陸軍大佐
昭和13年 7月10日  飛行第90戦隊長
昭和14年 3月 9日  浜松飛行学校研究幹事

昭和15年 3月 9日  浜松陸軍飛行学校附
昭和15年 8月 1日  陸軍少将 
              浜松陸軍飛行学校幹事
昭和17年 2月20日  白城子陸軍飛行学校長
昭和18年 6月10日  陸軍中将
昭和18年 9月11日  第2飛行師団長
昭和19年10月21日  陸軍航空本部附
昭和21年 2月23日      歿

写真は、おおよそ昭和9年から11年当時のものと考えられます。
山瀬閣下が中佐当時である事と参謀飾緒を佩用していない事と
河野閣下が中佐時代で参謀飾緒を佩用している事から昭和9年
の8月から10年8月までの間で河野閣下の関東軍参謀をされた
時代と推測されます。昭和11年2月10日、関東軍の後ろ盾が付
いて蒙古軍政府が成立します。そして総司令・総裁に就任します
。この前段階の調整を河野関東軍参謀と山瀬中佐が担当したも
のと思われ貴重な写真資料です。この写真資料を見ていると少
なくとも三度以上は、調整の為に会談を持って訪問している事が
伺えます。中の記載で最も古いものは、昭和9年とあります。その
頃より下準備で飛行機で往復を繰り返していた事が読み取れま
す。
李守信将軍と並ぶ河野参謀です。


左は、昭和10年1月の記載があり”動く砂漠(ウジュムチン)
下に拡大した画像でお判りのように大きな紋様の様に砂漠
が見えますので風で移動する様を言ったものと思います。
このウジュムチンと言えば昭和8年7月には西ウジムチン特
務機関が多倫特務機関と共に開設されています。翌年9月
からは(財)蒙古善隣協会が入蒙(西ソニットと西ウジムチン
) して医療・教育・文化工作に当たっています。
また右の
画像は、昭和10年3月の記載とダブスノール塩池(採集期)
とあります。塩池から生産される塩は、一般的に大粒なので
顆塩と中国では呼ばれたそうです。


左は、”西スニト王府 徳王ノ城下”の記載があり、
西スニトとは、日本の特務機関が置かれた西ソニ
ット(現在は、ソニド)の事だと思います。左は、字が
汚くて難読ですが”内蒙古?部落ノ側”とある気がし
ます。この西スニト(西蘇尼特)には、綏遠城があり
徳王府と呼ばれていました。
どちらも満航の機内より撮影された写真のようです。


内蒙風景とあり放牧の民や駱駝などが日本人
二名と一緒に写っています。服装が民間人な
ので満空の二名のパイロットの可能性があり
ます。


昭和の黎明期にこのような遠くまで国益の為に
日本人は勇躍しこの地の民の自由を確立しよう
と努力していた姿を後世に生き平和を享受する
我々日本人は決して忘れてはなりません。敗戦
で白いものを黒と言わされても…中国がどんな
悪辣な嘘を吹き込んで国内のサヨどもが扇動し
ても…先人達は、東亜解放の為に日本の生き
残りを賭けて必死に努力してきました。ここに写
る多くの日本人は、歴史の裏方であり裏舞台で
存在しても決してクローズアップされ皆の記憶に
残るような桧舞台に上る事もありませんが…こう
した一つ一つの日本人の愛国の想い、各々の
正義感が…国益と共に大東亜共栄圏という思想
に結びついていくのが良く判ります。大東亜共栄
圏と言うのは、美名だけに非ず、日本の浮沈を
賭けた国際社会(この時代は、白人欧米社会)
でのサバイバルの中で必然と生まれた概念だと
想います。


内蒙風俗 ウジュムチンの大官連(昭和9年)
の記載があります。ウジュムチンとは、
西ウジムチン特務機関のあったウジムチンの
事でありましょう。昭和8年に徳王は、同じ汎
モンゴル主義を掲げモンゴル独立運動を語る
雲王らと共に内蒙古王公会議を結成します。
昭和9年には、蒙古地方自治政務委員会が
結成され徳王がその秘書長になっていま
す。…ウニムチンにも王府と記載があります
ので大官連は王府の高官であり各部族長を
指していると思われます。
昭和11年2月10日、関東軍をバックに付けた蒙古
軍政府が成立し徳王は、総司令・総裁に就任しま
す。これに対し国民政府は鎮圧軍を送りました。
これが所謂、綏遠事件です。
盧溝橋事件以降、
内蒙古へ本格的に出兵した日本軍は、10月17日
に包頭を占領します。徳王・李守信は、これに
呼応して10月28日に厚和(綏遠)にて蒙古聯盟
自治政府を成立しコ王は副主席になり、後に主席
に就任しました。この蒙古聯盟自治政府は、昭和
14年年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と
合併し蒙古聯合自治政府となります。首都は、
張家口に置かれました。名目上は、汪兆銘政権下
の自治政府という形でした。



ウジュムチン王府の記載があります。


ドロンノール(多倫) 中ノ島の記載があります。飛行機
から撮影した写真のようです。多倫は、現在のモンゴル
自治領でかつて元の夏の都・上都がこの付近に築かれ
ており、その遺跡は町の北西に残存しています。現在の
町は清が築いたものとの事です。
このドロンノール(多倫)もウジムチンもソニドにしろ
徳王の出身部族が治めている地域は、内蒙古全体
で見ると小さなエリアで現在の内モンゴル自治区の
シリンゴル盟の中にあります。以下の画像の略図


河野閣下にも困ったものです。字を丁寧に書いて
もらわないと後で読むものが大変です!”大連にて
大砲を噛んだ蒙古の大官連”と読める気がします。
大連に停泊する帝國海軍の軍艦を見学させた時の
写真と思われます。艦の後部甲板で記念撮影され
ています。海軍側は4名の士官が写っており、うち1
名は、参謀です。


              ◆徳王(通称)◆

                〜略歴〜

 本名 : デムチュクドンロブ(Дэмчигдонров
                 
              徳穆楚古棟魯布  Demchigdonrov)

      (1902年2月8日 - 1966年5月23日)

内蒙古察哈爾(Chahar:チャハル)部西スニト旗の王公の出身。
内蒙古(モンゴル)における蒙古(モンゴル)独立運動の指導者。
中国語における字は希賢。1930年代から日本軍と協力して蒙古
(モンゴル)人の独立政権である蒙古聯合自治政府の主席を務
めましたた。汎蒙古(モンゴル)主義を推進した蒙古(モンゴル)
民族自決主義者であります。日本の敗戦後、蒙古自治邦政府は
解散します。一時、北平に寓居するものの昭和24年に人民解放
軍が北平を占領すると脱出して国民政府に再度内蒙古の自治を
要求。同年4月13日には、蒙古自治準備委員会を結成し副委員
長に就任します。そして8月10日には、蒙古自治政府が成立し
主席となります。しかし人民解放軍の攻勢を前に日本軍の後ろ盾
も無ければチベット同様に蟷螂の斧のようなもので同じ結末を見
ました。昭和25年にコ王主席と李守信将軍は、蒙古(モンゴル)
人民共和国に逃亡します。しかし逮捕され中華人民共和国引き
渡され戦犯として同年9月、張家口収容所へ収監され禁固刑を受
けます。昭和38年に釈放された後、博物館で働きながら昭和40
年から回顧録を執筆していましたが、翌41年に中国の内蒙古
自治区フフホト市で逝去、享年64歳でした。



             

            ◆李守信 将軍◆

               〜略歴〜


   蒙古聯合自治政府副主席、蒙古軍総司令官(大将)
   徳王と共にモンゴル独立運動に参加した闘士です。

昭和7年3月1日に満州国の建国され清朝最後の皇帝・宣統帝
溥儀が執政に就任しました。満州政府は蒙人治蒙の政策によ
って内蒙人を多いに刺激し、内蒙古における自治運動を促進し
ました。 昭和8年1月に熱河作戦開始。日本軍の熱河作戦進展
に伴い、林西・赤峰警備の崔興武騎兵旅団長の帰順がありまし
た。承徳特務機関長の松室大佐により新たに李守信(後の内蒙
政府副主席)を旅団長に据え、関東軍謀略部隊として温存し、
中将に任じ、興安遊撃師団に改め、多倫に進出させましたが
馮玉祥軍の反撃を受けて、一時、囲場に後退しました。しかし
承徳特務機関より武器弾薬の補給をうけ多倫を奪回、改めて
察東警備師となり多倫を中心に察東特別自治区とし
て行政面も把握しました。日本の敗戦後、徳王と共に昭和25年
2月27日に中共に逮捕され戦犯とされ禁固刑を受ける。昭和38
年4月9日 特赦令で徳王が釈放された翌年12月12日、特赦令
で李守信が釈放される。その後の詳細は不明です。
 



蒙古聯合自治政府成立記念の写真三点




皮肉なもので戦時中、日本が支援し独立させたモンゴルが
日本の敗戦で独立を取り消され中国に占領され自治区とし
て圧政に喘いでいます。中国の長年の取締りが功を奏して
チベットの占領・圧政と違い民族運動はほぼ完全に鎮圧さ
れ不満分子の種となりそうなモンゴル人は悉く弾圧されて
います亜細亜の自由と独立を支援し結果を導いた敗戦国
日本の真の姿と…戦後戦勝国となり近隣アジア諸国に軍事
侵攻し植民地化した中国…実に皮肉な結果だと思います。


徳王に李守信将軍の姿もあります。

日の丸の横にそしてポールにも高々と蒙古聯盟自治政府
の旗が掲げられています。

多くの日本人市民が彼等の独立を支持し暖かい
目で祝い慶祝の行列に参加しました。




珍しい訪日の時の写真等を一周年記念の
絵葉書ににしてあります。

左上は板垣陸相を訪問する徳王(主席)です。
近衛内閣と記念撮影です。副主席の李守信
将軍の反対側の端に立っているのは米内海
相です。



蒙古連盟自治政府主席 徳王 直筆書幅 額装













昭和20年2月11日、在張家口の日本総領事館が
   作成した日蒙親善建国功労技術官表彰の置物




敗戦の約半年前に作成された黄銅製の立派な文鎮(置物)です。
大きさは、高さ5cmX幅22.7cmX奥行2.8cm
張家口は、昭和14年に蒙古聯合自治政府の首都となり
張家口特別市となりました。ここに日本総領事館があり
ました。日本の敗戦後は、張家口市は中国の河北省に
編入されました。
敗戦のギリギリにあっても我国が満蒙など不安定な要素を
含む微妙な地域に力を注ぎ外交を行っていた事が良く判り
ます。





これは、箱が壊れた蒙古聯合自治政府肇建功労章




下は箱も壊れていない蒙古聯合自治政府肇建功労章です。
まさしく大東亜共栄圏という言葉が頭に浮かび
ます。戦前の日本人の壮大さと実行力を思い
知らされます。
蒙古聯合自治政府肇建功労章

蒙古聯合自治政府の旗です。
上の功労章の綬が旗を示して
いるのが判ります。



蒙古聯合自治政府肇建功労章証書




蒙古の肇建功労章証書です。メダルはたまに見ますが
証書は中々見ません。…珍しい物と思います。



徳王からの援助物資の記事の記載された
昭和20年5月16日の朝日新聞です。硫黄
島の戦いが3月17日に組織的な抵抗が終
焉するが残存兵による奮戦が6月末まで
継続されていました。敗戦まで約三ヶ月前
の新聞です。第一面にはB29邀撃で英雄
となった遠藤大尉の二階級特進(中佐に)
の記事が載っています。乙飛から特務士
官となり敗戦の年の1月14日、B29の編隊
を厚木から月光(第302空)で遠く豊橋上空
で迎え一機撃墜し一機を撃破しながら自ら
も被弾し燃え上がる月光を操りながら渥美
半島の上空で西尾上飛曹を脱出させます
が尾翼で落下傘の紐の一部が切れ戦死。
遠藤大尉も住宅地を避けて山間部で脱出
したが開傘した落下傘に火が回り狼煙とな
り落下し戦死されました。



蒙古連盟自治政府主席 徳王の長男
 和碩杜稜 親王が日本で書いた真筆の掛軸




昭和19年2月3日に大阪で書き贈った事が記載されて
います。非常に珍しいものだと思います。
徳王について来日した親王が書いたものと推察しますが、徳王が
来日したのは2回だけです。昭和13年10月21日 〜と昭和16年
2月14日〜の2回です。恐らく親王は、日本の陸士などに留学し
ていた可能性が高いと考えます。
中華人民共和国は、今も尚…チベットや内モンゴル(蒙古)、新疆ウイグル自治
区など外国を武力占領し傀儡政権を打ち立てて自治区(自治政府)などをこさえ
て独立運動を徹底的に弾圧し植民地化を維持しています。2008年の北京オリン
ピックの年にチベットで再び支那による弾圧が問題となり、世界中が亡命政府で
もあるダライラマ14世を支持し支那を避難するが、支那の中華思想と帝國主義は
社会主義であろうが資本主義であろうが政治体制の違いに関わらず常に昔から
支那人は変わらない事を示しています。近くに弱い他国があれば武力侵攻し手に
いれる。非難は聞き流すのみ、国家レベルの強盗団・テロリスト集団と何等変わ
りません。そしてこの国の人民も実に愚かであります。本来であれば圧政を敷い
ている中共を打倒し真の自由を勝とる運動するべきところを…何故か怖いのか、
何なのかナショナリズムと言う点で一致して諸外国をターゲットにして槍玉に挙げ
て自国の誤った体制や政治機構の改善を行わない。実に不思議な連中です。
世界でも古く3000年以上の数多の王朝の興亡の歴史を持つ国であり、世界最古
の三大文明の一つである黄河文明の発祥の地の民族でありながら、世界人口で
最も多くの国民を持ち、5人に1人が支那人である。しかしそうでありながら発展
途上国のまま大した活躍も国際社会に対する貢献も何も無い国家であります。

当然、チベットや内モンゴル(蒙古)、新疆ウイグル自治区などでは今も厳しい中
共の監視の中、虐殺や虐待などが情報統制で目隠しされた状態でも再分離・再
独立の運動は行われております。この中でも最も消極的で奴隷化が進んでしまっ
た内モンゴル自治区では、最早抵抗運動など皆無に等しくなっています。僅かに
下のURLの記載のような書き込みが散見される位ですが、一応、民族の歴史とし
て徳王が友情厚き日本人の力を借りて蒙古民族の自治・独立を求めて活動した
英雄であり政治家である事は広く知られているようです。昭和16年に来日した際
徳王は近衛文麿総理に「蒙古建国促進案」を直接手交し、蒙古を自治国として承
認してほしいと要望しました。
http://bbsee.info/mongol_1/id/707.html


以下が投稿された内容の一部です。


蒙古人永?的英雄 - コ王
名前:匿名時刻:2008-11-18 14:22:57
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Re:蒙古人永?的英雄 - コ王

名前:匿名時刻:2008-11-18 15:05:26
これは中国国内でのモンゴル青年たちが自分のブログで書いた内容
だった。画像ファイルにしたのは検査から逃げるためだった。国外にい
る人々ができることがもっと多いのに、恐れて、自分の利益だけ考えて
、何もやらないまま時間が経つ。

モンゴル人は何でだめになったと言えば、一人一人が自分から聞いた
ほうがいい。



戦中資料:蒙古聨合自治政府最高顧問で
   元国際連盟事務局保健部の職員も務め
    満洲青年連盟理事長・奉天省総務庁長
     も務めた 金井 章二 間島省長の勲記二点




金井章二氏は、長野県出身で明治19年12月1日生れ。東京帝大卒。
大正・昭和前期の医学者で官僚です。北里研究所に入り、大正11年
国際連盟事務局保健部に勤務。翌年帰国して慶応大学教授に就任。
昭和5年に満州青年連盟理事長代理となり、理事長となります。そして
奉天省総務庁長や間島省長などを歴任。蒙古聨合自治政府最高顧問
となりました。その経緯までに昭和13年10月21日、蒙古聨盟自治政府
の徳王主席・李守信総司令官等を伴い日本へ行き昭和天皇に彼等を
拝謁させしました。この時、徳王は勲一等旭日章、李守信は勲二等瑞宝
章を授与されました。昭和14年9月1日、蒙古軍政府・察南自治政府成
立・晋北自治政府が聨合して、蒙古聨合自治政府が樹立され、徳王が
主席に選出されました。そして金井氏が蒙古聨合自治政府最高顧問に
就任しました。敗戦後は、衣類が欠乏していた郷里の長野県上田で
上田紬を復興させようという動きがあり、消えかかっていた紬の染色技
法や製織技術を再興させる必要があった。金井氏が軍放出(払い下げ)
の真綿を利用して糸を紡ぐことを提唱し、その糸を使用して農家の副業
による機織の再興を画策したりと活躍しました。昭和42年12月3日に逝
去(享年81歳)。


従軍画家の 深澤 省三 氏が書いた『蒙古軍民協和の図』です。
この絵は、北白川宮永久王殿下が張家口の市場を視察した様子
を描いたものですが、この絵の左端の無帽で軍服で参謀姿の殿
下の後ろに描かれている人物が蒙古聨合自治政府最高顧問の
金井 章二 氏です。







各種・特務機関の秘密レポート


             昭和11年11月16日
太機特第四号

極秘
山東省東北部陣地偵察報告(補遺)
    
      太原特務機関
            河野悦次郎 

太原特務機関長 河野悦次郎中将(当時中佐)自筆原稿のカーボンコピー
 <昭九、四、大阪伊東納用紙>8枚で二つ折りにて糸綴じされた貴重な
レポートです。
巻頭に、「内蒙軍ノ綏遠工作及南京二於ケル日支交渉ノ結末ハ終二
日支開戦ノ已ムヲ得サルニ至ルベキ場合アルヲ察シ、太特第三号ニ
対シ更ニ補遺トシテ本報告ヲ呈出ス。所用地図ハ満鉄発行ノ二百万
分ノ一北支那地図トス」とあります。








昭和13年11月3日

極秘 魯東道治安状況
14頁のレポートです。
青島陸軍特務機関長 河野悦次郎


昭和14年5月8日

秘・山東省産業経済状況

            済南陸軍特務機関


30項のレポートです。


昭和17年8月 極秘 連絡事項(仁集団司令部)

昭和17年8月18日 仁集団司令部制作の10頁で
河野閣下によるメモ書きが随所に見られます。




























cf.昭和7年に陸軍中央でまとめて出したレポートです。

巨大な官僚組織であった帝国陸軍では、大陸に
存在する各特務機関は勿論、在外公館の武官を
通してまたこの画像の冊子のように調査班を設け
て様々な角度から分析が試みられている事が良く
判ります。これ等各部門の情報分析が総合されて
陸軍上層部で如何に上手く活用されたかは別にし
て非常に興味深いものがあります。河野閣下が
関係した各特務機関は、上に掲載したように色々
な角度での分析を行いレポートを出しています。
これら現場から上がる情報を中央で統合し総合
解析し現実の政策や外交決定にどう活かすかは、
現代の日本政府・国家にも最も求められる課題で
あり…情報組織の統合運用に今も昔も我国が疎い
のを改めて認識させられます。情報やスピードと言
った部分で先の大戦での敗戦の敗因を十分に学
ぶ事無く活かされていない事、残念でなりません。


中華民国臨時政府成立二周年紀年章です。
中華民国二十八年、直径約24mmの純銀製
です。


当時の古い晴天白日旗です。


上のとは別の古い晴天白日旗。こちらのは海軍旗の
ような重厚な作りです。

中華民国(支那共和国) 北洋軍閥政府(袁世凱)の
発行した四等文虎勲章です。この文虎勲章は支那人
だけでなく日本人にも授与されたようで種類は、一等
から六等まであったようです。











河野閣下の手紙・葉書や色紙など

山東特務機関長時代に東京牛込(自宅)の愛娘に
送った誕生日を祝う葉書です。消印が無いので昭和
14年の大佐時代の機関長時代か、昭和16年の少将
時代の第12軍参謀長兼任の頃の機関長時代かは、
判別できません。
もう一人、閣下にはお嬢様が居られるようです。
その方に出された葉書ですが子煩悩でまめに
文を出されているのが良く判ります。










この絵葉書と以下の三枚は、閣下より奥様に宛てたものです。
河野閣下の奥様です。お手紙などから非常に河野閣下が
御家族想いで筆まめである事が良く判ります。
御子息(豊さん)と奥様です。
ちょっと真ん中が心霊写真のようで怖いのですが…閣下の
お嬢様の学校の記念写真だと思われます。









三井物産の天津支店の次長さんからです。
青島神社の宮司をされている方からです。

青島神社にて大鷹総領事と写真に写る青島特務機関長
時代(陸軍大佐)の河野閣下です。


裏書には、左端の方は、鈴木満軍少将とあります。



こちらは内地で暮らす御母堂様からの手紙です。頻繁に文の
やり取りを欠かさず行っていたようです。
母上様からのお便りの一部一部です。

母上様、御息女に対しての手紙を拝見すると家庭人としても
立派な父であり息子であった事が良く判ります。












御長男の豊さんの中学校の卒業証書です。
下は、豊さんの成長を記録された河野閣下
の日記です。時期的には、昭和天皇の御成
婚前位から数年です。非常に子煩悩な父親
であった事が良く判ります。当時は、陸大の
学生だった時です。

子供の事を中心に世間の事や様々な事が記載され非常に興味深い日記です。













満洲国軍政部最高顧問 平林 盛人 陸軍中将の肉筆葉書

◆平林 盛人 陸軍中将(略歴)

陸士21期。陸大31期。第16師団参謀長、満洲国軍政部最高顧問、
憲兵司令官、第17師団長、 長野師管区司令官などを歴任。

陸軍省戦備課長 岡田 菊三郎 陸軍少将からの肉筆葉書
です。宛先は、済南特務機関長 河野悦次郎閣下です。

◆岡田 菊三郎 陸軍中将(略歴)

士候30期、陸大39期。京都府出身。 支那派遣軍司令部附、
陸軍省整備局戦備課長、第15師団参謀長などを歴任

第55軍司令官 原田 熊吉 陸軍中将の肉筆葉書

◆原田 熊吉 陸軍中将(略歴)

大阪府出身、1888年8月8日〜1947年5月28日。
陸士22期、陸大28期

日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として中国大陸に駐屯
した。その後第16軍司令官としてジャワ占領後の軍政を担当、ジャワ
の住民指導者に政治参加許可を通知し、司令官告示で「軍政協力団
・ジャワ奉公会」を結成する。大戦末期の昭和20年には第55軍司令
官次いで四国軍管区司令官を兼ね本土決戦を指揮した。戦後戦犯に
指名され、シンガポールのチャンギーで絞首刑。享年59。

名古屋師管区司令官 鷲津 チ平 陸軍中将の肉筆葉書

◆鷲津 チ平 陸軍中将(略歴)

陸士18期。陸大27期恩賜。支那駐屯軍参謀、アメリカ大使館附武官、
歩兵第39旅団長、近衛師団司令部附、陸軍戸山学校長、第21師団長
、第4軍司令官などを歴任。終戦時は名古屋師管区司令官。

憲兵司令官 平林 盛人 陸軍中将の肉筆葉書です。
満洲国新京市から京都師団司令部 河野師団長宛
です。


陸軍大臣・軍事参議官 川島 義之 陸軍大将の肉筆書簡
昭和13年2月9日消印封筒入り で便箋にペン書き11行。
名古屋宛ですので大佐に昇進し第三師団司令部附で
名古屋医科大学に配属された時期の手紙です。

昭和13年4月21日の消印があります。名古屋の
第三師団司令部から東京の河野大佐宛てです。
13年3月から太原特務機関長ですが、現地だけ
でなく東京にも頻繁に往復していたようです。


同じく朝鮮軍司令官・陸軍大臣 川島 義之 陸軍大将の肉筆書簡
昭和18年1月27日消印封筒入り で便箋1枚にペン書。あて先は
満洲国新京関東軍司令部 河野悦治郎閣下 親展です。

◆ 川島 義之 陸軍大将(略歴)

1898年、陸軍士官学校(10期)卒業。1908年、陸軍大学校(20期)卒業。
作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19
師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参
議官を経て陸軍大臣に就任。二・二六事件後予備役に編入。敗戦の年の
1945年9月8 日死去。


軍事参議官 尾高 亀蔵 陸軍中将の肉筆書簡です。
陸軍少将 河野 悦治郎 閣下宛てです。
便箋4枚にペン書されております。


軍事参議官 尾高 亀蔵 陸軍中将の肉筆書状
東京杉並の御自宅から京都師団司令部 河野
中将閣下宛です。
和紙巻紙に毛筆20行です。


◆尾高亀蔵 陸軍中将(勲一等)(略歴)

明治17年9月28日 - 昭和28年8月1日、佐賀県出身。
士候16 陸大28 歩兵科 
陸軍歩兵学校教官、関東兵站参謀、教育総監部付、
教育総監部課員などを歴任し、1923年8月、第14師団
参謀となる。第1戦車隊長、陸士本科生徒隊長、e英国
出張、歩兵第61連隊長などを経て、1932年8月、陸軍
少将に進級し陸軍兵器本廠付となる。東京警備参謀長
、第2独立守備隊司令官を勤め、1936年4月、陸軍中将
に昇進した。第19師団長の際、張鼓峰事件が発生しソ
連軍と交戦した。新設の第12軍司令官となり、中国北部
での任務に従事。次いで第3軍司令官となり、満州東部
の警備を担った。軍事参議官を経て、1941年6月、予備
役に編入された。1942年6月から終戦まで、満州国建国
大学副総長を勤めた。1946年9月に帰国した。

明治37年10月24日 陸軍士官学校卒業
明治37年11月 1日 陸軍少尉
大正 2年12月13日 陸軍大学校入校
大正 5年11月25日 陸軍大学校卒業
昭和 6年 8月    歩兵第61聯隊長
昭和 7年 8月 8日 陸軍兵器本廠附
昭和 8年 3月18日 東京警備参謀長
昭和10年 8月 1日 第2独立守備隊司令官
昭和11年 4月     陸軍中将
昭和12年 3月 1日 第19師団長
昭和12年 7月 7日 勲一等旭日大綬章
昭和13年11月 9日 第12軍司令官
昭和14年 9月12日 第3軍司令官
昭和16年 3月 1日 軍事参議官
昭和16年 6月21日 予備役
昭和17年 6月    満州国建国大学副総長
昭和20年 8月15日 敗戦
昭和21年 9月    帰国

昭和28年 8月1日 歿




康徳10年 満洲帝国 宮内府大臣 煕洽から宮中賜宴の招待状
河野閣下は、昭和17年12月10日〜昭和18年 3月11日の間
満洲国軍政部最高顧問に就任しています。陸軍少将の時で
す。

        ◆煕洽(はこう・シー・チャー)◆

              〜略歴〜

1883年〜1950年。愛新覚羅氏、遼寧省瀋陽の人。満州国の
創建に携わった。 煕洽は、愛新覚羅氏で、太祖ヌルハチの実
の兄弟、莫爾哈齊の後裔である。辛亥革命の時に、煕洽は
宗社党の清朝復活運動に参与して、清の統治を回復すること
に尽力する。若い頃、日本の東京振武学校(士官学校の予備
校)、陸軍士官学校に留学した経験がある。中華民国成立後、
東北陸軍講武堂の教育長になった。煕洽は、留学経験もある
日本と比較的親しくしていたため、日本の力を借りて復権を達成
することとなる。1931年満州事変が勃発した時、熙洽は東北辺
防軍の駐吉林副司令官兼吉林省主席の張作相の吉林における
一切の政務を代行した。日本軍が吉林に進撃する時、煕洽は
日本と協力して、吉林省の長官公署の長官となった。その後、
煕洽は溥儀を首班とする満州国(清朝)の復活を計画する。
1932年満州国建国の後、熙洽は満州国財政総長兼吉林省省長
となり、1934年には財政部大臣、1936年には宮内府大臣となっ
た。1945年第2次世界大戦終結時、満州国はソ連の攻撃の下で
瓦解し、ソ連軍に逮捕されシベリアに送られた。1950年に他の
満州国官吏たちとともに中華人民共和国に引き渡されて、ほどな
く哈爾濱の戦犯管理所で病死した。


影佐 禎昭 陸軍中将と渡 左近 陸軍中将の連名直筆色紙
墨書。昭和14年2月25日、於赤坂錦水亭。市販の色紙では
なく、色紙様の料紙を切り取って書かれています。


◆影佐 禎昭 陸軍中将(略歴)

明治26年生まれ。砲兵科、士候26期、陸大35期恩賜。
広島県出身。陸大の後、東京帝国大学政治科に学んだ異色の
陸軍軍人。陸軍きっての中国通として一際目立つ存在で大佐
昇進と共に陸軍参謀本部支那課長、、第8課(謀略課)初代課長
、軍務課長を歴任し日中戦争初期の戦争指導に当たった。民間
人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇
(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買を行う里見機関を設立
。中国で阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。
また板垣征四郎陸軍大臣の有力なブレーントラストとしても知られ
、興亜院創設に至るまでの紛糾に際しての巧妙な処理等で名を挙
げた。昭和14年、日中戦争の戦局打開のため、蒋介石と対立した
国民党親日派の汪兆銘に協力し汪政権樹立を計画。影佐を長とす
る通称「梅機関」(影佐機関)工作を進め成功。同年、少将に昇進。
支那派遣軍総司令部付となり、翌15年4月、汪政府樹立後は
汪政府の軍事最高顧問に就任。しかし東条英機首相から「影佐は
中国に対して寛大すぎる」と判断され、昭和17年北満国境の第7
砲兵司令官へ転任。同年中将、翌18年にラバウルの第38師団長へ
転任。米軍がラバウルを越えて日本本土へ向かったことから、孤立
状態の当地で敗戦を迎えた。昭和20年12月に中国政府から戦犯
指名を受け身柄を要求されたが肺結核のため裁判に至らず、
昭和21年5月復員し入院。病状の悪化により、昭和23年9月10日
 55歳で獄死。娘は陸軍少佐時乗武雄、谷垣専一元文相に嫁ぐ。
谷垣禎一前財務相は孫。名前の一字は、影佐の名からと
ったもの。
   (↓下は、少将時代の影左閣下です。)
伝記に浅田百合子『日中の架け橋―影佐禎昭の
生涯』(新風社、平成15年)、世話人会『人間影佐
禎昭』(非売品、昭和55年)があります。

★私の収蔵品でありませんが、貴重な歴史資料
 なので少しだけ掲載します。影佐閣下は陸軍内
 部にあっても所謂、不拡大派といわれる日中戦
 争の早期終了を目指す軍人の一人でした。昭和
 13年頃から不拡大派による和平工作は様々な
 チャンネルで色々と行われておりました。その一
 つには、西 義顕 満鉄南京事務所々長が工作し
 た国民政府外交部の高 宗武 亜州司長と菫 道
 寧 日本科科長との和平工作がありました。昭和
 13年2月に密かに来日した高 宗武と菫 道寧は
 当時、参謀本部支那課長だった影佐大佐に会い
 和平交渉を行ったりしたが不発に終わっています
 。昭和14年に梅機関(影佐機関)による工作で
 国民党内部で蒋介石と対立する親日派の汪兆銘
 と協力し汪政権の樹立に奔走しました。その後、
 桐工作など色々とありましたが昭和15年4月に汪
 政権が出来て影佐少将は軍事最高顧問に就任し
 ました。以下の画像の品は、汪兆銘政権誕生直後
 の中華民国29年(昭和15年)6月30日に汪兆銘の
 中華民国国民政府が最高軍事顧問であった影佐
 禎昭少将宛に出した招聘書と直筆の書状12通で
 す(以下、参考品です)。

こうした陸軍内部でも中枢にあった影佐閣下でしたが
昭和17年には時の首相・東條英機大将に『影佐は、
支那に甘すぎる』と切られ、閉職の第七砲兵司令官(
ソ満国境)へ飛ばされ、中将に昇進後はラバウルの第
三十八師団長として南方に飛ばされました。




       ◆渡 左近 陸軍中将(略歴)◆

東京出身、歩兵科、士候27期、陸大38期。
元老院議員渡正元の子。参謀本部支那課長兼大本営
支那課長、第13軍高級参謀、第1歩兵団長、独立混成
第23旅団長、ビルマ方面軍司令部附、独立混成第29
旅団長などを歴任。敗戦時は第15師団長。
昭和26年4月1日 歿。


国民政府最高軍事顧問 影佐 禎昭 陸軍中将の直筆色紙
墨書。色紙の大きさは270mm x 240mm。


周 佛海が影左閣下に贈った色紙です。

◆周 佛海(周 仏海) 本名:周 福海

中華民国の政治家・財政家。汪兆銘政権の有力者。
(1897年5月29日-1948年2月28日)
湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館・
京都大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるよう
になり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催さ
れた中共一大会議には日本への留学生を代表する
形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国
国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。
その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に
参画するが、その後は蒋介石に従い、国民党中央
執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。1938年
に汪が対日和平を志向して重慶を脱出すると、これに
従い汪兆銘政権成立に参加する。汪政権成立後は
行政院副院長・財政部長・中央政治委員会秘書長・
中央儲備銀行総裁・上海市長・上海保安司令・
物資統制委員会委員長を歴任した。
汪兆銘亡き後は、陳公博が主席代理となったが、
周は陰の実力者の地位を固め、「実質的な後継者」と
も評される。戦後漢奸として逮捕され、1946年11月7日
に死刑の判決を受けるが、特赦により、1947年3月26
日、無期徒刑に減刑される。
特赦を発表した「国民政府令」によれば、減刑の理由は
、「敵寇降伏前後、よく京滬杭一帯の秩序を維持し人民
に塗炭の苦を受けしめず、社会の安全に貢献するところ
少なくない」とのことであった。しかし1948年4月、結局は
南京で収監中に獄死することになる。






外務省情報部編纂の”現代中華民国・満州国人名鑑”
です。陸軍の第十四師団参謀部電報班の記載があり
ます。外務省がまとめた現地の中国人の情報を陸軍で 
も活用していた事が良く判ります。また現代よりも外務
省も全ての日本の公的機関は情報に敏感だった事も
ありますので、どのように中国人を分析し見ていたかを
知る事が出来て非常に興味深いものがあります。

このページでも紹介している周 佛海、王克敏、呉佩孚から満州皇帝
溥儀に至るまで網羅されていて読んでいるだけも面白いです。







真崎 甚三郎 陸軍大将に宛に送られた北洋軍閥直隷派の首領 呉佩孚
の訃報の「訃」及び個人の威徳を記した「哀啓」で非常に珍しい物です。
1939年(民国28年)のものです。


・「訃」:全紙寸法:約1m38cmx 51.0cm

・「哀啓」:冊子寸法:32.5cm x 19.5cm
      頁数:本文10頁+表紙「封筒」
      寸法:52.0cm x 34.0cm

◆真崎 甚三郎 陸軍大将

皇道派の中心人物。
明治9年11月27日生佐賀県出身。陸士(9期)。陸大(19期)。日露戦争
に従軍。陸軍士官学校校長時代(大正15年3月2日〜昭和2年8月26日
、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。
台湾軍司令官(昭和6年8月1日就任)、参謀次長を経て(昭和7年1月9日
就任)、教育総監(昭和9年1月23日〜昭和10年7月16日)。参謀次長の
時は、参謀総長に閑院宮載仁親王いただくが事実上、参謀本部を動かした
と言われる。この時に起こった満州事変では拡大を主張。教育総監の時は
国体明徴運動を積極的に推進し、率先して天皇機関説を攻撃。岡田啓介
内閣の林銑十郎 陸軍大臣による反皇道派人事により、教育総監を罷免さ
れ、栄転という形で大将に昇進して軍事参議官の閑職に追われる。これが
後に相沢事件や二・二六事件の誘因となる。二・二六事件時には軍事参議
官で、反乱首謀者の安藤、磯部らに共感を示し、組閣命令を期待して行動す
る。この一連の行動で、東京憲兵隊本部の取調べを受けた後、昭和12年1
月25日、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、事件関与の追及をかわして
否認した。論告求刑は反乱者を利す罪で禁錮13年であったが、9月25日の
判決で無罪となった。昭和11年3月10日予備役編入。戦後、A級戦犯として
逮捕されるが、極東国際軍事裁判で不起訴。昭和31年8月31日没。


◆呉佩孚

1874年4月22日〜1939年12月4日。清末から中華民国期にかけての軍人・政治家。
北洋軍閥直隷派の首領。字は子玉。山東省に商人の家庭に生まれる。科挙に合格し
官吏登用の道が開かれるも、事件に巻き込まれて失脚し一時北京で易者として生計
を立てた。1898年に聶士成率いる淮軍に入隊し、開平武備学堂を経て保定陸軍軍官
学校を卒業。その後1906年には管帯に昇進、曹鞘ラの部下となり、以後曹と行動を共
にすることが多くなる。その後、護国戦争や護法軍の鎮圧にも参加。1920年の安直戦
争で段祺瑞率いる安徽派を北京政府から追い、直隷省・山東省・河南省3省の巡閲副
使となる。ところが政府の主導権をめぐって同盟を結んでいた張作霖らの奉天派と対立
。1922年に第一次奉直戦争に勝利して、陸軍参謀総長を経て直隷省・山東省・河南省
3省の巡閲使・航空監督となる。1924年には第二次奉直戦争で再び奉天派と戦うもの
の、部下の馮玉祥の裏切りにあい敗北。湖北省へと逃れて孫伝芳らと、奉天派および
奉天派と組んだ安徽派・馮らの国民軍に対し再度攻撃を仕掛ける。しかし1926年に
北伐に来ていた国民政府軍に敗れて、四川省へと逃れる。晩年は北平に寓居し、
盧溝橋事件以降は日本軍から協力を求められるが態度を鮮明とせず、1939年に死去。
歯科医の抜歯直後に急死したため日本軍による暗殺説が囁かれ、国民政府からは
陸軍一級上将を追贈された。








こちらも後年になり入手した品です。
崔廷獻が当時の河野閣下に贈った
自分の肖像写真です。









秩父宮 雍仁親王殿下の姿が中央にあります。立襟の参謀姿
で階級が大佐ですので、昭和14〜15年の大本営参謀時代の
病気療養に入る前に支那派遣軍を訪れた時と思われる生写真
です。左の海軍軍人は、中将時代の豊田副武第二艦隊司令
長官と思われます。前列右端が大佐時代の河野閣下です。当
時は、斉南特務機関長時代と考えられます。








河野閣下の住所録

昭和陸軍を語る時、必ず名前が挙がる将星や軍人、元軍人
政治家、官僚の名前が住所録に掲載されています。
阿部信行大将から最後の陸相として見事な割腹自決をして果てた阿南惟幾大将。あの甘粕大尉も!
キラ星の将星の名が連なります。板垣征四郎大将に岡村寧次大将、梅津大将…。
バターン死の行進の責任を問われマニラ戦犯法廷で銃殺刑となった
悲劇の将軍として名高い本間雅晴中将の少将時代があります。また
このほかにも小磯大将に永井八津次少将の名前もあります。
戦犯に問われた中将時代の東條首相と土肥原賢二大将
その下にあの富永恭次中将の名前もあります。







★その他、河野陸軍中将の旧蔵資料資料★

















馬賊として名を馳せた張宗援(伊達 順之助)の部隊、
 山東省諸城県討伐記録(昭和13年)写真のアルバム




張歩雲(左)と張宗援こと伊達順之助(右)。大河小説『夕日と拳銃』
のモデルになった事でも余りにも有名な方です。このアルバムもまた
河野中将の旧蔵品です。
山東自治聯軍の大陸浪人・馬賊の伊達順之助(張宗援)部隊による山東省諸城
への上陸、討伐の全記録写真です。昭和13年(民国27年)8月13日の上陸から
討伐完了の9月4日までが58枚の写真で順を追って記録されています。

本アルバムの旧蔵者で、青島陸軍特務機関長 河野悦次郎(陸軍中将)によって
昭和13年12月19日付けで作成された陸軍内部資料「極秘 状況報告」には、
<魯東道治安関係事項 張宗援部隊>として、次の記述が見られます。

 張宗援部隊
 剿共軍第三路ハ張宗援ヲ以テ総司令トシ基本部隊約二千名
 ノ他ニ張歩雲、劉桂堂、高玉璞等ノ現地帰順匪約一萬四千
 ヲ加ヘ現在総数一萬六千ニ余レリ
 去ル八月中旬海軍機ノ援護ノ下ニ高密西南方諸城県ヲ攻略
 シ十月ニハ膠県北方蘭底、平度、新河方面各地ニ転戦シ大
 ナル成果ヲ収メ目下其ノ主力ハ平度県城ニ在り而シテ其ノ
 一部ヲ以テ景之鎮、諸城、膠県ノ各地ニ分駐シ地方治安ノ
 粛清ニ任シツツアリ
 尚近ク掖県黄県方面ニ進攻スヘク待機中ナリ(附、各部隊
 編成装備一覧表)

◆伊達順之助(張宗援)

1892年(明治25年)〜1948年(昭和23年)6月1日)。満蒙独立運動や
山東自治聯軍に参加した大陸浪人・馬賊。
戦国武将・伊達政宗の直系子孫。父は仙台藩知事・伊達宗敦(順之助
は宗敦の六男)。中国名は張宗援。



































































































河野中将旧蔵の写真より、青島特務機関前で河野特務機関長
を中心に右に張宗援(伊達順之助)、左が張歩雲の記念撮影さ
れたものです。後に張宗援は、満州国軍上将(大将)に任じられ
た人です。右手に持つ軍刀の刀緒を見るとお判りのように将官
刀緒を使用しています。恐らく昭和14年と思われる生写真です
が、非常に珍しく貴重なワンショットです。河野大佐(当時)第十
二軍司令部附で青島特務機関長だった僅かな時期と思います。


中央の写真は、大正5年(24歳)の乗馬服姿。まさに
貴族(華族)そのものです。左は、大正10年平安北道
義州の国境警備隊長時代の写真。右は、昭和3年頃の
東北軍(張作霖軍)少将時代(於:奉天)。
下は、昭和4年に亡命中の張宗昌と別府に
て写ったもの。上の右は、昭和5年頃に奉天
で撮影。左は、昭和2年頃(35歳)に東北軍
(張作霖軍)少将の軍装で撮影(於:東京)。

下は昭和7年頃、上は昭和8年、安東駅前の大和ホテル
前にて同志達と撮影した写真になります。

昭和7年、奉天にて撮影の写真。
左右共に作戦中・移動中の張宗援部隊(昭和14年)
右は、昭和12年満州国軍中将の正衣姿。左は、昭和13年9月青島にて
昭和14年、満州国軍上将(大将)の軍装にて(於:青島)。
上は、愛娘と寛ぐ姿。下は昭和18年、青島の自宅
庭にての写真(52歳)です。

左は、昭和20年11月に戦犯として逮捕される直前の写真で青島の
自宅の庭にて御子息が撮影されたものです。右は、上海江湾戦犯
収容所で昭和23年に撮影されたものです。表情が非常に柔らかい
感じが印象的です。
遺書です。左は、同志に遺したものです。



当時は、テレビドラマとしてもかなり話題を集めて人気があったようです。
戦後、非常に人気を博し漫画やドラマ化などされたようです。
馬賊と言えば定番がモーゼルです!







以上、河野中将旧蔵の資料からの紹介しました。

昭和17年8月26日に第十二軍参謀長の河野閣下の視察の写真です。
この約2年後となる19年9月8日にビルマで戦病死されます。




京都の第53師団は、南方軍隷下に入り昭和19年1月にサイゴン、
シンガポールを経てビルマに進出し…後にインパール作戦に投入
されます。河野閣下は、昭和18年9月25日に師団長に親補され着
任されています。昭和19年4月27日に参謀本部附で転じるまで師
団(安兵団)と共にあってビルマにありました。ビルマ方面軍隷下
に第33軍が新設されると19年4月29日に53師団は、33軍に配属
されインパール作戦に参加します。まさにこの直前で師団長交代
となった訳です。野戦軍の指揮に不慣れな閣下と作戦の今後を考
えての人事なのか、特務機関畑の才能を惜しんだ中央の思惑に
よるものかは、判りませんが、交代してすぐに安兵団は、苛烈な

拉孟・騰越の戦い突入しています。

画像は、ビルマ方面軍での師団長時代の写真と思われます。この
時期の写真は殆どありません。少将時代までは非常にたくさんの
写真が存在しています。恐らく亡くなる数ヶ月前〜1年以内の写真
と思われます。
昭和19年4月のビルマ方面の布陣図です。安兵団は拉孟・騰越の
戦いで同年5月13日 第53師団、モール占領します。インパール占領
を目指した第15軍と別動し第33軍は、敵の雲南遠征軍の強力な反
抗に遭い、5月27日に
ミイトキーナ飛行場を奪取され、ここに本格的
にミイトキーナ戦が開始されます。6月2日に雲南遠征軍が拉孟に
侵攻します。…こうして後に有名となる兵力差50倍以上と言われた
雲南遠征軍(連合軍)と僅かな拉孟守備隊(日本軍)の100日間に
及ぶ粘り強い死闘が繰り広げられ全滅しました。この僅か1280名
の拉孟守備隊を指揮したのは、兵から叩き上げの金光恵二郎少佐
(野砲兵第56連隊第三大隊長)…対する敵は、米軍貸与の最新式
フル装備で米軍の軍事顧問団に訓練を受けた蒋介石総統の直轄
5個師団約5万名でした。敵将・蒋介石の逆感状に輝く事幾度か、
金光少佐の戦死後は、真鍋直人大尉が残兵を指揮するも、僅か4
名が真鍋大尉の命令で脱出し第33軍に顛末の報告をさせた以外
は、20名いた従軍慰安婦のうち15名の日本人慰安婦は、自決。金
を稼ぎに出てきた朝鮮人慰安婦のみ雲南遠征軍に投降しました。
写真の状況が悪いので加工して読み取ると開襟の三式
中将軍衣袴に将官隊長章を佩用して洋館の庭で写って
います。恐らくは接収した洋館を師団長公舎に使ってい
たものと推察します。







満州国軍事最高顧問 が建国拾周年記念
         に贈った 遺芳の 七宝焼花瓶




七宝焼の雲龍文花瓶です。満州国建国拾周年記念を祝って
遺芳とありますので満州国建国に尽力した民間人や軍人など
亡くなられた関係者に満州国軍事最高顧問より贈られたもの
と思います。ヘコミや錆・表面割れ等の傷みがあります。
満州国建国は大同元年(1932年・昭和7年)です。建国拾周年は
康徳9年(1942年・昭和17年)になります。
初代の最高軍事顧問は、多田駿少将(後に大将)です。
この拾周年の最高軍事顧問は、河野悦次郎中将(当時
少将)でした。
67年の月日を経た満州の花瓶は何を見てきたのでしょうか
?…凹みや傷を見ていると複雑な想いが錯綜します。








河野 悦次郎 中将が作成したスクラップ帖




河野閣下が第12軍参謀長兼山東省特務機関長時代(位階は陸軍少将
時代)に自ら作成した新聞スクラップ帖です。昭和14年から昭和16年に
かけてのもので、河野閣下自身が登場する記事を中心に「山東新報」、
「山東毎日新聞」、「満州日日新聞」、「大阪朝日北支版」など各紙から
の切抜きが約70点。要所要所には河野閣下自身による赤鉛筆での書き
込みや傍線が見られます。
                   スクラップブックの寸法は30cm x 21cm。




































河野 悦二郎 陸軍中将の将校行李




この河野 悦二郎 陸軍中将も海軍の小田中 機関大佐のように
四散シリーズで全国あちらこちらに一括りだった品がバラバラに
なっています。こちらも不思議な縁で…他の品と同様に少しずつ
少しずつ引き寄せあうように集まってきますから不思議なもので
す。
随分前になりますが 河野 中将の資料を関西の方より色々と
何度かに手に入れましたが…面倒なので一括で購入させてく
れるように希望して…これで一切、ありませんと謂われて購入
後でしたが…半年もしないうちに同中将の品をオークションに
出品しており…面白いので落札しましたが…全く悪びれる様子
もありません(苦笑)。…流石は関西人・関西商人と思った事を
想い出しました。…因みにこの方は高名な仏文学者の御子息
で高名なコレクターでもあるのですが…(^^;
概ね外側のカバーもきれいな将校行李ですが、蝶番部
に一部破損があります。







ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!