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Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
興亜一心刀(満鉄刀)を仕込んだ
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拵えも美しい昭和十三年制定陸軍軍刀です。 通称 九八式軍刀と呼ばれているものです。 |
非常に美しい軍刀です。 |
厚みがあり透かし入りの立派な鍔です。 |
昭和庚辰春と刻まれています。これは、 昭和15年春を意味します。もう片面は、 興亜一心 満鉄作之と刻まれています。 |
興亜一心刀(満州刀)に関する詳細は 以下のサイトで知る事が可能です。以下 のバーナーをクリックして見て下さい。 |
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切羽も全て同じ通し番号です。拵えも気になるガタ 付きも無くストッパーも十分に効いています。 |
陸軍 憲兵隊本部 消防隊の半被 |
確か同じものが二年前位の帝軍研年会報誌 に掲載されておりました。珍しいものです。 |
相当に古くかなり着込まれておりますが総じて美品です。 |
滿鐵職員の外套 |
旧満鉄の職員外套です。 |
前釦が5個、満鉄釦以外の物が付いています。また 一度、外套の襟は切られた跡があります。戦後に 改造されたものを修復した物かもしれません。 |
不明の面白い流し…謎です!
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通常、飛行場や空母でも着艦標識となる吹流し は、陸軍でも海軍でも赤白赤が基本だと想われ ます。この真っ白の吹流しは、面白い事に後ろが 切れておらず、軍用スタンプが無く商店名がスタ ンプされています。それ故にこれが軍の基地で使 われたとは考えられません。全長が2m80cmで巾 が約75cmです。これでは、練習射撃用の吹流し としても短すぎます。不明ですが面白い品です。 |
内部に明野陸軍飛行学校御用達 北岡善之助商店 のスタンプがあります。 |
上と下の画像からも確認できるように盲端となり空気抜けの穴が ありません。一体、何に使うものなのか…謎です!! |
上は、空母”翔鶴”です。艦橋後方のマストに少将旗の下に 赤白赤の吹流し見えます。離陸中なのは、九九式艦爆です。 |
上は、帝都防空の華と謂われた飛行第244戦隊の調布基地 のピストから見た戦隊本部の建物です。屋上に吹流しがはた めいているのが判ります。 |
九九式軽機関銃用の照準眼鏡と眼鏡嚢 |
一枚の写真から… |
フィリッピンで撮られた将官を見送る列車の写真です。 |
美女達の見送りを受ける数名の将官、右から二人目のスキンヘッドの 将官は、戦後戦犯として処刑台の露と消えた本間雅晴 陸軍中将と思 われます。開戦劈頭の連戦連勝に湧く頃の写真のようで一番右の戦闘 帽の閣下は、九八式少将襟章を付けています。昭和17年に間違いは、 無いでしょう。 |
一枚の写真原版 |
皇族の陸軍大将の工場視察写真原版 を銅製額入にしたものです。 |
勲一等旭日章副章を付けて、同じく勲一等を付けた将官飾緒 を付けた人物を従えているので、宮家と思われます。昭五式 軍服から、昭和7〜8年から10年前後の写真と推測されます。 |
横顔から元帥陸軍大将 閑院宮載仁親王 殿下と思われます。大勲位功一級で参 謀総長を務められていた昭和6年以降と 思われます。肩章は、陸軍大将です。 |
戦時資料:満州航空の搭乗記念の紙物資料 |
残念な事に搭乗券入れに入っていた搭乗券は、残っておりまません。 その他の記念袋に入っていた品は、保存されています。当時、満空の 空の旅を経験された方が記念に残された品です。既に跡形なく存在し た国家さえ消滅してしまった往時の航空会社のものであり、民間人が 空の旅を一般的に行っていない時代のものですから珍しく貴重な品と いえます。 |
この記念の紙袋に入れられておりました。 |
搭乗券(航空券)入れの紙ケースです。中の注意書きは 搭乗30分前に飛行場へ来て下さい…。と手荷物の扱い と超過に対しての料金や…当局の規制で空中からの写真 撮影は、厳禁となるので機内でカメラを預かるというような 記載があり…今の民間機の案内とさして変わらない内容 に改めて感動します。 |
満空のステッカーが三点です! |
満航の新京管区のステッカーです。 |
満空の総合案内のパンフレットです。カラー刷りで写真を使い豪華な パンフです。広げた全紙のサイズが約35cm x 32cmとかなり大きな ものです。 |
満州国内、支那・日本の全ての営業所などが記載されています。 |
こちらは、以前ヤフオクで出品されていた満空の搭乗券です。 仕事の関係で入札できず手に入れられませんでしたが、まさ にこうした券が上の航空券入れに入っていたわけですが、現在 と様式が殆ど変わっていない事が良く判ります。 |
満空の旅客機。五族協和を国是としていた満州では、 飛行機の識別マークも五族の色が塗られていました。 飛行機は、満空創設以来、主力輸送機として使われて いた満航式1型スーパー輸送機です。 |
モノクロ画像ですが飛行場の窓から搭乗する人を見送る女性でしょうか 何故か非常にノスタルジックで旅愁をかき立てられる画像です。 |
上下とも満航式”隼”型輸送機 |
隼型輸送機は、佳木管区で撫遠定期で就航し その後は、他の管区でも定期便となっ多様です。 |
中島製の中型旅客機で通称:ATと呼ばれた 満航初の全金属型の旅客機です。 |
満航式”3型プスモス小型輸送”、輸送・連絡用として活躍! |
軽旅客機として活躍したBf 108 タイフーン輸送機 |
ドイツから輸入された双発のユンカースJu86型輸送機。 定期便の主力機として活躍しました。 |
Ju86型輸送機の就航を記念して作られた満航のステッカー |
オランダ製 フォッカーF-7-3M輸送機。満航の設立当初の花形輸送機! |
陸軍の九七式重爆を改造して作られた旅貨客機。三菱MC-20 型輸送機です。昭和19年から満航に採用され東京定期便として 活躍しました。 |
満空の大株主は、満州国(政府)に満鉄、 住友合資会社でした!!その系列会社に は、新京とドイツの首都のベルリンとの間 の長距離定期航空路線開設のために設立 された国際航空株式会社(昭和13年に日本 航空輸送と合併し大日本航空となりました。 )などがありました。 |
昭和6年に関東軍が奉天にあった日本航空輸送の 満州代表部に対し満洲内を結ぶ軍用定期航空路の 開設を依頼し、”関東軍 軍用定期航空事務所”とし て発足したのが満空始まりです。満州国が建国され た際昭和7年に社名を”満州航空株式会社”に変更し ました。単なる営利目的の民間航空会社ではなく、 民間旅客・貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送 、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から 航空機製造まで広範な業務を行っておりました。 |
別に入手した満航のパンフレットです! |
こちらも別に入手したパンフです。 |
cf.満空関連では、当サイトでリンクしている古本屋の常連様の HPで”みに・ミニーの部屋”にある『満州写真館 満州航空』 でも珍しい絵葉書画像が一杯掲載されています。御興味のあ る方は一度、訪問されて下さい。以下のバーナーをクリックする とウィンドーがが開きます。 |
次のページで紹介される特務機関の機関長などを歴任された 河野中将の旧蔵の写真の一部です。珍しい昭和14〜15年の 頃のドイツを中心とした外国記者団が取材に満州を訪れた際に 一行を案内した時の生写真です。満空の中島式AT8人乗りが 堂々と写っています。 |
現在、中島式ATの生写真は数あれど機内の写真は数が少ないと 思います。笑顔で写るのはドイツ人記者のエルンスト・コーデス氏 です。機内座席の頭上に網棚がありシートは、かなり重厚で頭まで あり豪華です。機内の窓は、ロール式で上から遮光するようです。 また頭上に送風口と思われる大型の突起があります。 |
昭和9〜10年の河野悦次郎中将が関東軍参謀の中佐時代の写真 思われます。左端で略帽に立襟で参謀飾緒を吊り陸大卒徽章をつけ ている方が当時の河野関東軍参謀中佐です。また真ん中の閣下は、 後に中将となり関東軍参謀長になった板垣征四郎大将(東京裁判で 法務死)の関東軍副参謀長(少将)時代と思われます。後ろに写る 航空機は、満州国の国旗を翼に標した満航式3型プスモス輸送機で す。将校団の風情といい最も帝國陸軍が良かった最盛期の頃の生写 真のような気がします。 |
恐らく満州航空乗員訓練所から
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あどけない笑顔と作業着で練習機の前で 記念撮影をする少年と言うより子供です。 恐らく内地の航空機乗員養成所と同様で 12・13歳で入学し5年間の民間飛行士訓 練を受けたものと思われます。 |
同期生達です。内地の制度と違い満州での扱いが良く判りません が帽章を見ると明らかに陸軍の星章です。内地の航空機乗員養 成所であれば逓信省の管轄となり、帽章が違います。恐らく満航な どと同様に関東軍交通監督部のの管轄になるので、軍直轄に近い 扱いだったと想像されます。生徒達は、お揃いの洒落たダブルのス ーツ姿で何故か社章のような徽章は、満鉄の社章と同じです。経営 母体は、満鉄グループのようです。下の写真に野球のユニフォーム 姿の訓練生の姿がありますが、胸のマークも満鉄のもの旗も満鉄の 社章です。 |
内地での航空機乗員養成所は、昭和10年代に逓信省の外局 の航空局が設置した民間航空機乗員を養成する施設でした。 実業学校相当の学校教育機関でもあり、昭和13年から順次 地方航空機乗員養成所が全国に15ヵ所設置され、昭和14年 には中央航空機乗員養成所が設置されました。昭和18年に 地方航空機乗員養成所は、航空機乗員養成所と改称され、 中央航空機乗員養成所は高等航空機乗員養成所に改称され ましたた。全寮制で学費は無料。生活は軍隊式で所長はじめ 教官も予備役軍人で卒業後は、陸海軍の航空隊に入隊して 予備下士官に任官するなど軍学校としての要素が強かったの が最大の特徴と謂えます。元々は民間飛行士の養成機関でし たが戦時下の流れで陸軍の予備生徒として教育を与える学校 となっていたようです。 |
これら航空機乗員養成所の本科生は、尋常小学校6年卒(12〜13歳) を採用して、5年間の在学中に文部省令による甲種工業学校課程の 普通教科と航空機製作、修理、整備等の技術、グライダー及び飛行機 の操縦術を教育されます。適性によって操縦と機関に別れ、操縦科は 卒業後に二等飛行機操縦士、二等航空士、二等滑空士の免状を交付 され、本人の希望により、陸海軍軍人や、旧制高等学校、旧制専門学 校、大学予科への進学が出来ました。またこうした本科生と別に操縦生 も採用。これは、満17歳〜19歳で旧制中学校3年生1学期終了以上の 学力を有するものから選抜して修業期間約8カ月で飛行機の操縦を専 門に教育します。卒業と同時に二等飛行機操縦士と二等航空士の免状 を交付され、予備下士官として任官しました。 |
旗もユニフォームも何故か満鉄社章が使われています。 |
ある主計科高級将校(大佐)の経歴を調べていた 時に関東軍交通監督部部員兼奉天航空廠員に補 されて渡満し満州航空の会計監督官として勤務し 後に関東軍参謀付に補され新京に赴任された陸軍 軍人がおられました。その方は、経済参謀として当 初、農業を担当し後に商工部門を担当しました。こ の時の主な仕事は、満鉄改組に伴う満州重工業 開発会社の設立や日産コンツェルンの満州移駐の 手伝いであったり軍幹部が強く満州の財界に強力 に入り込んでいる事が良く判りますが…こうした事 例からみても、これら学校生徒が満鉄の社章を付け た制服に帝国陸軍の帽章を付けた制帽を被っても 何等、不思議でないのかもしれません。 |
こちらの画像は、比較の為に載せました昭和18年 9月の満州航空乗員訓練所第11期卒業生(後列) で前列は、教官他です。帽章を見ると明らかに満州 航空の物になっています。一連の写真は、昭和11 年頃の卒業生の写真だと思われますので、同じ学校 であれば第4期生と言う事になると思われます。 |
九一式戦闘機です。満航では主に乗員訓練用に使用されました。 上下とも日の丸がついており満州国のマークでは、ありません。89+ |
本当にまだまだ子供の幼い顔です。入学当初の13歳とか 14歳なのではと思います。 |
上の写真の作業衣の少年は、軍属の臂章を付けています。 |
唯一の満州国軍官の将校の写った写真。 |
中央の幹部は、皆日本の陸軍軍人です。下の写真は 入り口のゲート付近のようです。警戒が厳重そうです。 |
一緒にあった上は、ヤマトホテルの写真。 下は、満鉄の機関車です。 |
この写真アルバムの持ち主です。上は、入所前の 尋常小学校卒業時に母上様と撮影された写真と思 います。お母さんもさぞ心配だったでしょうが、裕福 な家庭のお子さんの印象があります。 |
裏書に皇紀2594年(昭和9年)5月6日、於 奉天省東陵 とあり、S Fukuda のサインがあります。 |
もうすっかり大人びて酒を飲んでいます。まだ卒業前後と しても17歳位でしょうか。 |
昭和12年に奉天の陸軍病院に入院の時の写真と 裏書があります。軍に入り長髪も丸刈りになってい ます。少年下士官と言う事でしょう。 |
陸軍病院に慰問にきた人達との記念撮影のようです。 |
戦時・戦前資料:満州飛行機製造(株)
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左は、入社辞令です。右は、家族(御実家)宛てに送付された 時の同封の紙です。宛名が父親名義になっています。 |
戦時資料:満洲飛行機製造(株)から贈られた記念盾 |
支那や大陸ではこの手の記念盾を良く贈るようです。 贈られた方は日下部工手長という方です。永続勤務 で表彰されたか勤務態度その他、優秀で表彰された ものと思われます。 |
記念盾の額の大きさは、40.5cm×32.5cm |
満洲飛行機製造は、元々は満航(満洲航空)の工廠として スタートしましたが昭和13年に航空機メーカーとして独立を しました。 |
戦前資料:満洲航空の記念バックル |
未使用で仕舞ってあったバックルと思われます。まるで最近の新品のようです。 |
満洲飛行機製造(株)のパンフレット |
基本的に満洲飛行機のパイロットを 除く整備関係の技師から管理部門の 要員の育成部門を紹介しています。 |
満州飛行機の隼型旅客機の写真 |
満州飛行機が開発した”隼”の写真です。35年ほど前に 撮影した方からネガを借用し引伸しをしたものだそうです 。キャビネ・サイズ(16.0x11.6cm)で、非常にシャープな 写真です。 |
満洲航空が採用した
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戦前に満空で勤務されていた関係者のお宅から 出た珍しいJ-BACCの登録記号の入った記念の メッサーシュミット Bf108 タイフーンの全金属製 模型です。残念ながら台座がありません。代用し て撮影しました。 |
日本では読売新聞社がベルリンオリンピックの写真原稿輸送のために昭和11年 8月に1機を購入、ベルリン〜東京3日間の連絡飛行を企画したが、ソ連上空の 飛行許可が下りず、結局船便で輸入され国内では「よみうり6号機」として使用さ れました。登録記号J-BACCは、満州国でも同様で満州航空で採用されています。 |
メッサーシュミットBf108「タイフン」(Taifun:台風)は1934年にバイエルン航空機製造 (BFW)社(後のメッサーシュミット社)で開発された単発スポーツ機。 もともとはヨーロッパ周回国際レースの参加機として設計されたもので、著名なメッサー シュミットBf109戦闘機に通じる全金属性引込脚の先進的なスタイルを持っている。 その後ドイツ空軍にも採用され、輸送や後方連絡用に広く使用された。本機の「タイフン 」というニックネームは女流飛行士として世界で2番目に単独で世界一周を行ったドイツ のエリ・バインホルンによって与えられたものです。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
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台座以外に欠品も破損もありませんが戦後、長い歳月の経過で 塗装の剥げや小傷などがあり保存状態が良好とは謂えない一 品です。しかし日本国内では1機しか輸人されなかった名機で すので貴重な模型機の記念品と謂えます。 |
満洲航空で採用されたこの機体が他のユンカースJu86,160 やハインケルHe116などと共に満洲〜支那各地の空を翔け 抜けた事を夢想すると当時の日本人のスケールのでかさを 改めて思い知らされます。ドイツ機だけでなく英国機に米国 機も採用し新型機の開発のサンプルとしています。 |
戦時・戦前資料:内外各地で活躍した
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中華航空株式会社は、日中戦争期、日本軍占領下の地域で運行してい た航空会社です。昭和11年に関東軍と冀察政務委員会の合弁企業とし て設立された恵通航空を前身とし、昭和12年に中華民国臨時政府・中華 民国維新政府・蒙疆連合自治政府の出資を仰いで設立されました。因み に1959年に設立された現在の”中華航空”(チャイナエアライン)は、台湾 (中華民国)の航空会社であり、この航空会社とは無関係です。 |
上とは別のステッカーです。 |
中華航空の"白鶴号"(三菱MC-20) |
これは非常に珍しいもので中華航空の前身の恵通航空有限公司 の航空券袋です。中華航空は昭和11年11月に関東軍と冀察政務 委員会の合併企業として設立された恵通航空を前身として、中華 民国臨時政府、中華民国維新政府、蒙疆連合委員会の出資を仰 いで、昭和13年12月16日に設立された航空会社です。日中戦争 では広大な中国の領土を占領したが、中国大陸の運輸交通手段 のうち鉄道や道路はしばしば戦争による破壊行為の被害を受けて いた為、同航空による航空輸送は敗戦まで迅速な交通手段として 機能していました。 |
非常に珍しい航空券を入れる航空券袋と中華航空絵葉書です。 絵葉書には昭和14年5月3日の日附けの北京飛行場のスタンプ が捺されています。 |
日本国際航空工業(株)の株券です。この会社は、 昭和12年に設立された日本航空工業と国際航空 工業が昭和16年に合併して出来た企業です。大 戦中は、国内で陸軍の四式戦”疾風”の四翼自動 可変ピッチ・プロペラや大型輸送用グライダーを製 作した会社でした。戦後に日産車体となりました。 |
日本の民間航空会社の第一号として大 正11年に設立されたのが日本航空輸送 研究所(今の日本航空とは、別物です。) でした。大阪の堺と四国の徳島を空路で 結んだのが始まりでした。これは、創業者 の井上長一氏の故郷が徳島だった為で使 用したのは水上機・飛行艇でありました。 その後、高松、松山など四国の代表的な 都市と関西を空路で結び、後に九州の 別府までラインを伸ばしました。昭和4年に 国策会社の日本航空輸送の運航開始にあ たり多くの民間航空会社が航路を譲渡し廃 業する中、会社を守り維持してきた日本航 空輸送研究所も戦時色が強まる中、昭和 13年に遂に幕を下ろしました。その後、戦 後になり民間航空が再開されると井上長 一氏が名乗りを上げて再び関西の地で新し く”極東航空”を設立します(昭和27年)。し かし思ったほど戦後の需要がすぐには伸び ず経営難となり、昭和33年に関東の”日本 ヘリコプター”に吸収合併され”全日本空輸 ”即ち現在の全日空(ANA)となりました。 |
日本航空輸送研究所が採用し運用した4人 乗りの水上機のユンカースF13です。 |
非常に珍しい大正15年の大分別府上空の遊覧飛行 のチケットです。日本航空(株)遊覧飛行会で機種や パイロットの名前まで記載があります。別府飛行場 の遊覧飛行記念のスタンプが押されています。 |
非常に珍しい日本飛行学校の卒業証書です。大正時代に相羽有氏と 玉井清太郎氏によって共同で設立されたパイロット養成学校です。練 習機として玉井式3号機を大正6年に設計製作しました。グレアム・ホ ワイト機を模した設計と云われ、かなり洗練された機体でした、当時は この機は3回目の飛行で空中分解を起こし玉井氏は死亡しました。この 事故は、東京日日新聞社の湯浅礼三写真班員を同乗させ東京市を一 周する予定でしたが離陸間もなく機体が故障して着陸しようとした瞬間 に空中分解して墜落し玉井飛行士と湯浅写真班員が殉職しました。こ れが日本で初の民間飛行学校の飛行機による死亡事故となりました。 そして同時に新聞社の写真班員が取材飛行中に遭遇した最初の事故 でもあるったわけです。相羽氏は後の昭和2年に東京航空輸送を設立 東京〜下田間(後に清水まで延長)の定期輸送を行いました。昭和6年 には日本初の客室乗務員…エアガール(スチュワーデス)を搭乗させて います。同じく相羽氏によって大正6年に設立された東京初の自動車学 校「日本自動車学校」が併設されました。 |
大正時代に日本飛行学校の相羽 有 氏が創立した日本初の自動車学校 ”日本自動車学校”の記章です。裏面に”校外生章”とある事から、軍人等 の外部からの受講生が受講した際の記章だと思われます。中々、珍しい徽 章です。 |
敗戦前まで日本領だった樺太と北海道を結ぶ航路が 幾つか存在しました。始まりは大正12年に始まった 稚泊航路(稚内ー大泊)で鉄道省が運用しました。そ の後、稚斗連絡(稚内ー本斗)が大正13年に開始さ れ、小樽ー大泊の航路も次々と誕生しました。樺太の 島内のローカル航路である樺太沿岸線も就航し活況 を呈しました。稚斗連絡船(稚内ー本斗)は、樺太庁 鉄道と鉄道省が連帯して運航し夏季(4月から11月ま で)は毎日1往復。冬季(12月から3月まで)は隔日で 1往復するほど需要がありました。画像のステッカーの 樺太丸は、昭和7年に大阪商船から北日本汽船会社 が売却された壱岐丸を改名して昭和12年から稚内− 本斗間の樺太航路に就航させたものです。昭和14年 12月には、稚内沖で遭難したソ連船の救助にあたる などの大活躍もしました。 その後、敗戦直前から約2 年間、壊滅した青函航路の応援に国鉄に傭船されて 就航しました。昭和22年9月に傭船の任を解かれ、4 年後の昭和26年に政府の低性能船買上法により、 室蘭で解体されて…その47年の生涯に幕閉じました 。現在、東京神田にある交通博物館に”壱岐丸の号 鐘”が鉄道記念物として保存されています。 ≪樺太丸(旧 壱岐丸)≫
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上の画像は、壱岐丸時代の樺太丸と思われます。 下は、小樽市博物館所蔵の写真で北日本汽船の 樺太丸の戦前の写真で満船飾を施したものです。 |
上は稚内港の稚泊航路の亜庭丸です。 |
亜庭丸の絵葉書です。昭和7年3月8日の消印が読めます。 |
おまけ画像です! |
樺太の絵葉書です。 |
日本郵船の北海道〜樺太航路の絵葉書 |
日露講和条約締結により南樺太が日本の領土と なりましたが、鉄道はまだ稚内まで建設されてい ませんでした。この為、日本郵船株式会社によっ て当初は、函館発小樽経由大泊着の航路が開設 されました。そして明治38年8月21日に英国製の ”田子浦丸”が就航しました。その後、稚泊航路 開設までには、いくつかの航路が開設されていま す。 |
OSK 大阪商船 たこま丸のステッカーです! |
たこま丸(大阪商船) 明治42年、川崎造船所(神戸)が建造した 貨客船です。たこま丸型 6隻 の同型船の 一番船です。 総排水量:6.178t、全長:125m、全幅:16 m、最大速力:15.5ノット |
ありし日の”たこま丸”の勇姿です!下は、 大阪商船の社旗と煙突図です。…戦前の 大阪商船と言えば商船界のガリバーと言わ れる日本郵船をはるかにしのぐ船会社でし た。戦後は、三井商船と合併し大阪三井商 船となりました。 |
たこま丸は、明治42年7月〜大正5年12月まで極東〜北米航路 (香港〜日本〜タコマ)に就航。大正6年3月、南米航路へ就航し ますが他の新船が就航するに伴い近海航路へ、更に大正14年、 カルカッタ航路、昭和6年にはジャワ航路へ、昭和8年には船客 設備を増やし大連航路へと転じました。このステッカーは、この頃 の所謂、日満航路と言われた時のものです。その後、昭和12年 に陸軍に徴用され、開戦前の昭和16年9月30日に高雄〜サイゴ ン間を往復して開戦準備輸送に従事しました。同年12月19〜20 日にはマレー半島東岸への物資輸送、翌17年1月には南スマトラ ・バンカ島攻略の陸上兵力を乗船させ2月14日にムントク泊地で 部隊を揚陸させました。昭和18年に入ると門司→マニラ→高雄→ シンガポール→ジャワ→パラオ→ラバウル→門司へと物資輸送に 大活躍をします。昭和19年1月より実施されたハルマヘラ島(インド ネシア)〜サルミ(ニューギニア北部)への輸送作戦に従事していま したが、1月28日にサルミを出航し船団がハルマヘラ近くのガンク ヤガ岬付近を灯火管制で航行中の昭和19年2月1日、午前2時半 頃、米潜ヘイク(SS256)の雷撃を受け魚雷2本が命中し、船首〜 ブリッジ間のハッチ・カバー及びデリックが吹き飛び飛散しました。 この時、機関室も同時に破壊され機関員2名が火傷を負い、救助 されましたが、その後に戦死。しかし幸いな事に空船であったため それ以上の被害はなく被雷から30分後の午前3時には全員が総員 退船。その15分後に”たこま丸”は船首を高く天に向けながら船尾 より海中へ没したと伝えられます。この時、他の1隻の輸送船も犠 牲になっています。米潜水艦は既にレーダーを装備しており、完全 な灯火管制下の航行であっても雷撃から逃れる術がありませんで した。この時の”たこま丸”戦没者の二名を記載しておきます。 小柳 清 機関員と佐々木 健 機関員です。 |
下は、長安丸の同型船の長寿丸です。長安丸は 、昭和19年5月10日にグアム島沖で米潜SILVER SIDE(SS-236)の雷撃により沈没しています。 |
昭和10年1月の大阪商船の内航案内です。 |
南洋海運の荷物タグです。南洋海運は、政府からの受命航路 として旧蘭領東印度方面(旧南洋委任統治地を含む)定期航路 を経営する為に日本郵船、大阪商船、南洋郵船、及び石原産業 海運の四社の共同出資により設立された会社です。(創立が 昭和10年7月6日) |
近海郵船の絵葉書にステッカーです。 |
大和丸と朝日丸です。大和丸 は、昭和18年9月13日門司から 基隆に向け航行中、揚子江河口の南東で米潜SNOOK(SS- 279)の雷撃を受けて沈没しています。 朝日丸は、昭和19年2月 5日に呉から神戸に向け航行中、瀬戸内海備讃瀬戸牛島の西1 浬の海域で満珠丸と衝突し沖ノ洲に任意擱坐しました。2月24日 に船体放棄を決定。戦後の昭和24年に解体処理されました。 |
日本郵船は第1次世界大戦後の海運不況下に 近海部を設け沿岸及び北清航路の経営に乗り 出しました。大正12年にこれを独立させて近海 郵船株式会社として資本金1,000万円で発足し たのが始まりです。船舶は、信濃丸以下22隻、 54,522総トン。昭和14年には日本郵船に吸収 合併されます。戦後発足した近海郵船は同じ 日本郵船系列ですがが、実際には別会社にな ります。 |
日満連絡船を形成した日本海汽船の敦賀〜北朝鮮線 ・熱田丸のステッカーです。 |
戦時・戦前資料:1933年 シカゴ万国博覧会
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A century of progress International Exposition, Expo 1933 1933年のシカゴ万国博覧会で使われた満鉄のパンフレットです。 |
五族協和の理想に燃えた国…今は亡き満州帝國 に想いを馳せる人が日本人以外にいるのでしょう か?…傀儡と謂われるが夢の理想郷を一度この 目で見たかったと思います。 |
1933年5月27日から11月12日、および1934年5月26日 から10月31日まで開催された国際博覧会です。この博覧 会で始めてテーマ「進歩の一世紀」が設定されました。 21ヶ国が参加し、会期中に約2232万人という膨大な数の 人々が来場しました。 |
戦場採集品: ノモンハンの桜 |
ノモンハンの戦場跡平原で採集された桜に似た小さな花。 当時の日本兵が遠い故郷を想い、一時の安寧にふけたよ うです。 |
一緒にあった説明文を以下に転載します。 |
ノモンハン桜 |
昭和14年5月22日ノモンハン事件が発生いたしました。それから五十余年後、
西尾市の米津様は蒙古側からノモンハン平原に慰霊する機会を得ました。 かっての戦場には、今も鉄条網や対戦車障害物として利用されたピアノ線(直径
1メートル程の巻いたピアノ線を張づて、戦車が踏み越えると転輪に巻きつき勤 けなくなる)の束や、地面に頭部が突き刺さったカチューシャ砲砲弾(ロケット砲弾 )が残っていました。 又、日本軍が布陣してあたりでは、砲弾の破片で傷の付いた、使用していない十
年式手榴弾が転がっていたそうです。 戦場は身を隠すところもない一面の平原で、高台にある当時のソ連軍の砲兵陣地
から見ると、日本軍の布陣した陣地が演習場のように見渡せたと言います。 戦場の中で、日本兵たちは平原に咲く桜に似た小さな花を、遠く離れた故郷を思い
、「ノモンハン桜」と名付けました。今回提供させていただいたものは、米津様が ハルハ川の近くで採集し持ち帰ってくださったものです。米津様の御好意に心より お礼申し上げます。 |
上は、戦闘で破壊された日本軍車輌及び資材です。 下は、停戦協定成立後の日ソ両軍代表の写真です。 日本側代表は、第六軍参謀長の藤本鉄熊少将でした。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |