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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc)PartTi















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








陸軍航空隊
  回転式射撃監査写真機(ハイス型)




珍しい陸軍のハイス型写真銃です。
元箱の銘板は、昭和17年8月の
六桜社(現コニカ)製です。
見事に残っているものです。しかし残念なことに航空時計とこれを
取付する部分が失われています。写真銃に良くあるパターンです。


写真銃本体の銘板は、昭和18年5月製造とシリアルNo.1586
が刻まれています。この写真銃がどの機体に搭載されたかは
判りませんが…どんなシーンを写して来たのか気になります。






実にでかくて重いです。…取り扱って撮影した人も大変だった事でしょう。











モロタイ島で戦死された
 歩兵第二百十一連隊長(東京)
  守田 義輝 陸軍少将(戦死後昇進)の品々




九八式軍衣袴です。大佐の襟章がそのまま残っております。


軍袴に虫食・虫舐が見られますが軍衣は、総じて美品です。



九八式軍衣(冬)です。こちらに階級章は、残っておりません。
守田閣下は、特にテーラー物を使用せず吊るしを
気にせず多用されたようです。



守田 義輝 大佐が連隊長を務める第二百十二連隊は、支那派遣軍から
抽出され豪北戦線への増強の為に所属師団である第三十二師団や同じ
東京の第三十五師団と昭和19年5月輸送船団”竹一船団”でニュ-ギニア
方面へ向けて航行中、同年5月6日にセレベス海にて米潜水艦の攻撃を
受け輸送船3隻撃沈され、第三十五師団は、隷下の第二百二十連隊(甲
府)、同第二百二十一連隊(佐倉)、独立山砲兵第四連隊の1670名が戦
死し火砲20門、自動車65台が海没する被害を被りました。第三十二師団
も歩兵第二百十一連隊、同第二百十二連隊(佐倉)、野砲兵第三十二連
隊では、人員の大半は救助されたましが、火砲14門、馬匹130頭を失うと
いう損害を被りました。北支からマニラを経てハルマヘラ島に到着した第
三十二師団(石井 嘉穂 中将)は、新設された第二方面軍・第二軍の隷
下としてハルマヘラ島及びモロタイ島、タラウド諸島及びサンギヘ島という
広大な地域の防衛の任務に就きました。尚、師団隷下の各連隊は、一個
大隊ずつを移動前に抽出されて、関東軍から補充を受けているもの輸送
船の撃沈で兵力を損実していました。同年5月11日に師団がハルマヘラ
島に上陸し、その翌日の12日、守田連隊はモロタイ支隊としてモロタイ島
に上陸しました。
守田連隊長の二百十一連隊は、主力をモロタイ支隊として守田大佐が
支隊長として指揮し一個大隊、二個中隊、一個機関銃小隊、一部欠の
通信中隊に師団から一個野砲兵大隊、一個工兵小隊、師団通信部の一
部、野戦病院の一部を配下にしました。タラウド島へ連隊から一個大隊
と連隊砲、速射砲各一門と通信中隊の一部が抽出されています。こうし
てモロタイ島南部〜東部に展開した支隊が図上のワマやゴタララモを
中心に海岸陣地を構築しましたが、すぐに師団命令で方針が変りハルマ
ヘラ島トベロ地区防備に回されます(7月12日)。その際、入れ替わり
に防備に付いたのが高砂族遊撃戦士を主体とする第二遊撃隊(部隊長
川島威伸少佐)でした。12月15日に守田支隊長は、副官 村木吉夫 大尉
、連隊旗手 太田正明少尉以下の以外の護衛分隊を伴いピロー川中流に
あった第二遊撃隊本部(モロタイ島南部地区)に感状を授与と激励の為に
連隊副官と連隊旗手の旗手護衛兵に僅か一個分隊の護衛兵を連れて訪
問した帰りに米英に襲われて胸部と大腿部を被弾し壮烈な戦死を遂げて
います。




            <略歴>

       守田 義輝 陸軍少将


福岡県出身 歩兵科 従四位(戦後贈)

大正 6年 5月25日   陸士卒業
              (士候29期)

大正 6年12月25日  任陸軍少尉

昭和16年10月15日  任陸軍大佐

昭和18年 8月 2日   歩兵第二百十一聯隊長
                  (第三代)

昭和19年12月15日  戦死(陸軍少将)
               享年50歳

*閣下の父上、守田 泰久 氏は、九州日報
社員(現在の西日本新聞)で親子共に玄洋社
の会員です。

この島では、戦後に横井さん小野田少尉に次いで
高砂遊撃戦士の中村輝夫さんこと李光輝氏(通称
スニヨン)が昭和49年12月にインドネシア・モロタイ
島で発見された事でも有名になりました。一等兵で
戦死扱いに当時なっておりしました。発見後に兵長
に昇進した日本名・中村輝夫さんですが、台湾に
戻り僅か4年で亡くなっております。


守田大佐の軍帽です。内部に虫食いが少しあり、庇の裏に
痛みがありますが、表は美品です。


守田閣下の歩兵少佐時代の正衣袴です。
こちらの大礼服も痛み無く
美品です。


立襟時代の大佐の肩章です。守田連隊長の大佐任官が
昭和16年の開戦の二ヶ月前です。九八式で大佐になって
いますので過渡期で支那では、特に昭和13年以降で九八
式軍服に昭和五式の肩章という折衷のような軍装も良く見
受けました。その時代とは、3年も後になりますので守田大
佐が肩章を使用した時期は、陸軍中佐となりますのでこの
肩章は、アルバムにある御家族・親戚の陸軍少将の方の
大佐時代の肩章と思われます。


守田大佐の愛用の眼鏡です。アルバムの中でも
眼鏡を使われている写真が随所に出てきます。こ
の眼鏡が戦死後、内地に後送された物なのか…
内地の実家に予備で置かれた物かは、判りません


守田連隊長愛用のライターと正刀帯の
バックルや金具等です。




大正2年に大日本武徳会四天流組討の星野九門委員
が守田連隊長に授けた肥後流体術と四天流柔術を収
めた事を証す免許皆伝の巻物でしょう。











康徳4年(昭和12年)6月の記載があるものです。
”日満永久携手駆逐万悪赤魔”とあります。つまり
日本と満州は、永久に手を携えて万悪である赤す
なわち共産勢力の赤魔を駆逐しましょう。と言う事
が記載されています。守田連隊長の北支・満州時
代に贈られたものと推察します。



時事通信のソ満国共の物です。上の物と同時期
の品と思われます。



御子息二名が共に仙幼に学んでおります。一名は
陸士に進み航空士官となり、もう一方は、陸軍経理
学校に進み主計士官となったようです。



アルバムより
真ん中の九八式少将の方は、私服で度々アルバム内に出て
こられるので御家族や親戚の方と思われます。恐らく上にあっ
た大佐の肩章もこの方の物と思われます。


二名の御子息も共に陸軍士官になられました。








右は、中佐時代。左は、士官学校生徒の御子息との写真です。


昭五式軍衣の中佐時代の支那での写真です。


北支の野戦場での連隊旗と連隊長の珍しいショットです。






北支転戦中の守田連隊長の写真です。




時々出てくる将官は、旅団長でしょうか。はっきり
階級章が読めません。


上の左の写真は、軍務の傍らで寛ぐ姿でしょうか。


皇軍は、内戦の支那で女子供や老人を救った事も消された事実です。
支那らしい不毛の大地です。
荒涼たる大地を往く守田連隊です。



地元の久留米第四十八連隊の青年将校時代




良い笑顔の中尉時代の守田閣下です。


射撃に銃剣術に文武両道に精進されていた青年将校時代
のようです。右は、週番肩章を付けて写った写真です。



守田大佐が戦死される僅か2日前に出た(昭和19年12月
13日)朝日新聞の守田連隊の勇戦の模様が僅かに記事と
して紹介されていました。
昭和19年9月のモロタイ上陸作戦を撮影した米海軍の写真で、
LSTから装軌水陸両用上陸車が発進するところです。前部に
37mm砲塔をつけたLVTA1のような気もしますが後方からだけの
写真ですので判別付きません。
上下とも米軍側の公式発表写真です。
モロタイ島に上陸した米兵です。裏に米海軍の公式写真である
ことを示すスタンプとMorotaiという手書き文字があるだけなので
、どういう状況なのかはっきりとは分かりませんが、茂みの中で
休息しているらしい米陸軍の兵士です。右手に装軌水陸両用
上陸車の一部が写っています。
ニューギニア方面から反攻作戦を行ってきたマッカーサー元帥隷下の連合軍は、
昭和19年後半についにフィリピンへの侵攻に着手することにしなりました。その
第一歩として、フィリピン方面への航空作戦の拠点の確保が必要となり、モロタイ
島がペリリュー島と並んで攻撃目標に選ばれました。昭和17年に蘭領東印度の
一部であったモロタイ島を占領した日本軍は、以後、あまり有力な守備隊を配置し
てませんでした。昭和19年にモルッカ諸島方面の防備強化が図られ、第32師団
が派遣されましたが、守備の重点は平野が多く飛行場に適した隣のハルマヘラ島
に置かれました。モロタイ島には、一旦は第32師団の守田大佐の指揮する二百十
一連隊の基幹である二個大隊が分遣されて飛行場建設を進めましたが、水はけが
悪いために飛行場建設は途中までで放棄されました。この守田大佐の部隊は一時
、ハルマヘラ島に撤収し、入れ替わりに川島 威伸 少佐を指揮官とする第二遊撃隊
(四個中隊:高砂義勇兵)を配置しただけであありました。連合軍の上陸時、島には
9000人の現地人が住んでいました。島民に対する宣撫工作を行うために、連合軍
の上陸部隊には、オランダ軍の民政班を加えました。連合軍は、米陸軍4万名と米
航空軍1万7000名の圧倒的な兵力を投入して、モロタイ島の攻略に着手しました。
昭和19年8月から9月にかけてモロタイ島及びペリリュー島への上陸支援のため、
フィリピン各地やハルマヘラ島、セレベス島など周辺地域で、機動部隊搭載機など
による航空撃滅戦が行われました。ダバオ誤報事件も重なった結果、日本側の航
空戦力は壊滅しており、日本軍に上陸意図を察知されないようにモロタイ島自体へ
の空襲や航空偵察は限定的なものとされ巧妙にカモフラージュされました。9月15
日早朝、米海軍第77任務部隊は、豪海軍艦船2隻を含む巡洋艦5隻や空母6隻など
から、約2時間の事前砲爆撃と空爆を上陸地点に対して行いました。8時30分、LST
45隻などの輸送船団により米陸軍第31師団の3個連隊戦闘団をもってモロタイ島へ
の上陸戦を開始しました。日本軍地上部隊の抵抗は殆どなかったが泥やサンゴ礁
が揚陸の妨げとなったと記録されています。9月18日頃から日本軍の地上反撃があ
りましたが、いずれも小規模であり撃退され、10月4日までに米軍は島内の制圧を一
通り終えました。米軍の記録によると日本兵104名が戦死し、13名が捕虜となったと
あります。米軍の損害は戦死・行方不明31名、負傷85名。DDT散布が効果をあげ、
マラリアなどによる米軍の戦病者は少数に抑えられたようです。日本軍の逆上陸を
警戒したアメリカ軍は、すぐさま島にPTボート41隻を配備しました。これらはモロタイ
島近海で200隻以上の日本軍舟艇を撃沈したと報じています。日本軍の反撃作戦は
、第7飛行師団などの陸海軍航空部隊と潜水艦による反撃を行いましたが大きな成
果は得られませんでした。連合軍の被害は、護衛駆逐艦「シェルトン」が沈んだ程度
でした。ハルマヘラ島からは船舶工兵第18連隊の舟艇により、第32師団の逆上陸
部隊が斬込隊として送られ、連合軍飛行場への妨害活動を行いました。まず9月26
日夜に歩兵第211連隊と212連隊からなる3個中隊が出発し、うち2個中隊が逆上陸
に成功しました。10月上旬には歩兵第210連隊の主力550名が、大発動艇10隻に分
乗して逆上陸を行いましたが、2隻は空襲されて撃沈されました。11月16日には歩兵
第211連隊主力の守田義輝連隊長以下500名が、軍旗とともに無事に上陸した。
守田大佐は、後続の第10派遣隊の1個大隊(180名)など1500名を11月末までに掌
握して戦闘したが、12月中旬に戦死されました。その為、歩兵第210連隊長の大内
競 陸軍大佐が昭和20年1月10日にモロタイ島へ上陸し、新たな現地指揮官となりま
した。航空機による飛行場への妨害攻撃や小規模な逆上陸は、その後のフィリピン
各地の戦いの間も続けられました。レイテ島での義号作戦の一環として空挺部隊の
降下も検討されましたが、実行はされませんでした。ハルマヘラ島からの最後の補給
舟艇が到着したのは昭和20年5月下旬、最後の日本軍による空襲が行われたのは
昭和20年6月23日でありました。飢餓と病と圧倒的な兵力差を有する連合軍に敗戦
までモロタイ島の日本軍は苦しみながらも戦い続けました。当初の川島少佐以下の
第二遊撃隊450名に逆上陸した守田部隊以来約2500名がモロタイ島に上陸し日本
軍は約3千名が陸海空三軍合わせて6万名以上になる米軍と対峙し敗戦まで戦った
事になります。敗戦時に660名の日本兵が投降しましたが、一部の日本兵は日本の
降伏を知らず、なおもジャングル内でサバイバルをし生き延びました。例えば昭和31
年には9人の元日本兵が発見され、日本に帰国しました。昭和49年末には高砂義勇
隊の中村輝夫(本名、スニオン、李光輝)が発見され、台湾に帰国しています。その
事よりモロタイ島では約3千名の日本兵のうち約2300名が戦死したと類推されます。







モロタイ島で高砂族による遊撃戦で
    名を馳せた輝第二遊撃隊で戦った
        柴田 八郎 陸軍准尉の所縁の品々
         (第二遊撃隊附)




上で紹介したモロタイ島に逆上陸した二百十一連隊長の守田大佐
が感状を授与しに激励に訪れたのが高砂族の義勇兵による遊撃
戦士(ゲリラ戦士)部隊である第三十二師団(輝兵団)の第二遊撃
隊(指揮官 川島 威伸 陸軍少佐)4個中隊450名でした。この柴田
八郎 陸軍准尉の所縁の品は、この第二遊撃隊に所属し高砂兵を
指揮して戦った事が判ります。上の守田連隊長の処で記載したよう
に守備の重点は平野が多く飛行場用地に適した隣のハルマヘラ島
に置かれ、高砂義勇兵を主力とした輝第二遊撃隊の4個中隊(川島
威伸少佐指揮)450名がモロタイ島には僅かに展開していただけで
ありました。昭和19年9月15日の米軍上陸に対し、歩兵第211聯隊
(守田 大佐)主力が逆上陸作戦を行いましたが、米軍は圧倒的な
戦力で同年10月4日までに島内をほぼ制圧しました。この守田連隊
主力(約2500名)の逆上陸前に450名の第二遊撃隊は4万名の米
軍に上陸され、空からは米空軍1万7千名の猛攻の前に300名以上
の戦死者を出して組織的抵抗を封じられました。
敗戦まで島内でゲリラ戦を遂行し敗戦の翌日に第三十二師団長 石井 嘉穂
陸軍中将の名前で出されたガリ版摺りの粗末な表彰状です。敗戦の前日で
ある昭和20年8月14日の日付けです。戦後もこの粗末な表彰状を高砂族の
義勇兵達は大事に持ち帰ったそうです。
昭和13年12月の陸軍曹長の任命証から支那事変〜日米戦と
長い軍歴のある叩き上げの准士官である事が判ります。
第二遊撃隊を指揮した日本人幹部の50名は、先に中野学校にて
幹部教育を施されました。昭和18年になり大本営は南東方面の
戦訓に鑑みて特に遊撃戦施策を取り上げて中野学校に内地・満
洲及び支那の各部隊・各機関より適任と思われる将校・下士官を
簡抜し。神田 康雄 少佐以下50名の要員に対し、第一回の集合
教育が開始されたのは、昭和18年9月1日でありました。この中に
は中野学校の正規の課程を卒業したり、卒業後に実務に就きその
中から引き抜かれた者、卒業後そのまま引き続き参加を命ぜられ
た者もおりました。学校長は川俣 少将・実験隊長は小松原 大佐(
後任:手島 大佐)で教育実施担当をさせました。同年11月下旬に
は、集大成の厚木飛行場を目標にした総合演習を行い大きな成果
を収めました。修了式には参謀次長の秦 彦三郎 中将も臨席し卒
業生を激励しました。この後、昭和19年1月〜3月に第二回の集合
教育が行われ、南方遊撃戦の指揮をする人材を提供しました。この
中には後に有名になるルパング島の小野田少尉もおられました。
柴田 准尉は、どのように選抜されたかですが。昭和18年7月に
満洲牡丹江の第一方面軍司令部(山下 奉文 大将)に五項目
の選考条件で大本営附要員の選抜指示が届き、隷下各部隊に
伝達されました。その選考条件は、1.果断決行、2.細心剛胆、
3.頭脳鋭敏、4.身体強健、5.旺盛なる責任観念…であった。
ソ満国境の各部隊から約10名の要員が集められ、8月23日に
司令部に集合し、午後4時に牡丹江駅を出発し内地に向かいま
した。8月30日、市ヶ谷の参謀本部に出頭、指示により小柄な
軍属の案内で中野学校の側門から入校。こうして翌日の9月1日
に入校式となりました。日本全土より選抜された50数名の幹部(
その殆どが曹長と軍曹で将校は8名、准士官二名、伍長が4名)
でした。この准士官二名のうち一名が柴田 八郎 准尉となります
。…その教育の基本はゲリラ戦であり『諸子は敵中深く潜在し、
表面戦を捨て裏面戦に生きよ』と叩き込まれました。




柴田准尉の品々です。





柴田准尉の上官であり指揮官である第二遊撃隊の隊長
川島
威伸 少佐(陸士48期)は、昭和21年に復員し…戦
後は陸上自衛隊に入り-陸将補まで上り詰め陸自を定年
で昭和42年に退官されました。その後は昭和62年11月
3日 に旭日小綬章を受章され平成元年2月9日に逝去さ
れました(享年75歳)。



    川島 威伸 元陸軍少佐・陸自陸将補 ◆

             (略 歴)



昭和11年 6 月  陸軍士官学校卒(48期)
昭和11年10 月  任陸軍少尉・歩兵第57聯隊附
昭和12年12 月  任陸軍中尉
昭和14年12 月  陸軍士官学校生徒隊附
昭和15年 8 月  任陸軍大尉
昭和15年 9 月  陸軍中野学校入校
昭和16年 2 月  大本営附(南機関)
昭和16年12 月  南方軍司令部附(南機関)
昭和17年 7 月  第15軍司令部附
昭和18年 2 月  ビルマ方面軍司令部附
昭和18年 5 月  陸軍士官学校留学生隊附
昭和18年 8 月  任陸軍少佐
昭和18年 9 月  陸軍参謀本部附
昭和18年12 月  台湾軍司令部附
昭和19年 1 月  第2遊撃隊々長
昭和21年 5 月  敗戦・モロタイ島より復員

昭和27年     公職追放令の解除により陸自に入隊
昭和30年 3 月  第4普通科連隊第3大隊長
           兼釧路駐屯地司令
            陸上自衛隊調査学校研究課長
昭和37年 8 月  第2普通科連隊長兼高田駐とん地司令
昭和39年 7 月  第2師団司令部幕僚長
昭和41年 3 月  陸上自衛隊業務学校副校長兼企画室長
昭和42年 3 月  陸上幕僚監部付
昭和42年 8 月  陸上自衛隊退官(陸将補)
昭和43年12 月
  〜53年 2 月  駐ビルマ大使館勤務
昭和62年11 月  旭日小綬章受章

平成元年2月9日    逝去


*川島少佐は、中尉時代に支那の戦線で敵陣地に攻略の
 際、顔面を敵の青竜刀で斬られながらも自分の軍刀でそ
 の敵を刺殺し大勝利を収めた武勇伝の持ち主です。この
 時の傷が上唇より左頬にかけて大きく残り、長身痩躯で
 眼光鋭く容姿に凄みを更に与えたと伝え聞きます。昭和
 15年 中野学校 一甲出身で16年に南機関に属してビル
 マ独立運動を援助し民衆に溶け込み…ビルマ(現ミャン
 マー)独立義勇軍(アウンサンスーチー女史の父アウンサ
 ン将軍が最高司令官)の指導を行い同軍を率いて昭和17
 年3月に首都ラングーンへ進軍しこれを陥落。ビルマから
 英国を駆逐し独立に成功する。この建国の父の娘が悪女
 で有名なアウンサン・スーチー女史であります。今も清貧
 で真面目なミャンマー政府を手玉にとっています。父親の
 アウン・サン将軍が恩義ある日本を裏切り、英国に寝返り
 結果的に英国が裏で糸を操り暗殺されると謂う。策士、策
 に溺れると謂う点では…性悪の娘の長い軟禁生活を併せ
 て考えても親子ともども悪の印象が拭えません…(とんで
 も無い脱線をしました…苦笑)。尚、少佐はビルマ独立支
 援の後は海南島三亜、台湾の玉里で脱出党員の救助に
 あたるなど多才な活躍をしています。戦後、陸自でも情報
 戦部門の構築に当たったと謂われています。



ありし日の高砂族の遊撃戦士達です。


以下のYoutubeの動画は…随分前に感動のFlashとして各方面で
公開されていたものです。いつの間にか削除されたものを再UPし
て誰でも見られるようにしたものです。

   高砂義勇伝 〜異国で眠る皇国戦士達~(Part 1・2)

精強を謳われた台湾の高砂族。日本人と共に英米に立ち向かった
誇り高き志願兵達は、山岳民族ならではの脅威の身体能力で皇軍
をも驚かせました。陸軍の空挺部隊にも参加し比島やニューギニア
等の密林で戦い散った彼等を紹介した感動のFlash です。日本人
が忘れ去り、歴史に埋没せんとする高砂族に感謝し平和を享受する
日本の若い世代だけでなく彼等と日本兵の熱い絆と史実を知らない
全ての日本人達にに語り継ぐべきものです。




高砂義勇伝 ~異国で眠る皇国戦士達~(Part 1)


動画の再生に際してはページトップの音楽(MIDI)を止めてから
再生して下さい。(ミディープレーヤーを止めましょう)

高砂義勇伝 ~異国で眠る皇国戦士達~(Part 2)



敗戦により米軍に投降した石井中将以下の第三十二師団
司令部の幕僚達の一部のようです。石井閣下はモロタイ島
で南方軍隷下第二軍の軍司令官代理として降伏式典に出
て調印しております。
石井閣下です。
上記のとおり第二遊撃隊の隊本部、第一〜第四中隊また各小隊長
にも柴田 准尉の名前はありませんが、第二遊撃隊の育成で中野学
校の訓練から柴田 准尉が第二遊撃隊附として参加しているのは、
モロタイ戦友会の”春島戦記 あゝモロタイ”を読めば戦後に寄稿した
柴田 准尉の手記があります。そして台湾での訓練を終えてから出発
するまでのエピソードや自身のお腹を壊しtれ台北陸軍病院に入院し
たエピソードを紹介しています。また第三中隊第二小隊長の和田 芳
三 少尉が寄稿した手記にはワマ飛行場攻撃に辺り本部からきた柴田
准尉が勇猛果敢に軍刀を背負って高砂兵を連れて活躍する事を描い
ており、川島少佐が本部に於いては本部附きの柴田准尉と長谷川主
計曹長、駒井曹長を長とする挺身攻撃隊を組織しこれを直轄部隊とし
て飛行場攻撃や斬り込み攻撃に多用した事が記載されています。
モロタイ島にありし第二遊撃隊(高砂兵)の一年間の活躍はペリリュー
島や硫黄島同様に守勢に追い込まれ閉塞感の強まった戦局の中で
も広く日本全土に伝えられ七度に渡り嘉賞されました。

 第三十二師団長 石井 嘉穂 陸軍中将より

  @昭和19年10月21日
  A      10月24日
  B      10月27日
  C昭和20年 8月14日

 第二方面軍司令官 阿南 惟幾 陸軍大将より

  @昭和19年12月 1日
  A      12月 6日

 台湾総督 長谷川 清 海軍大将より

  @昭和19年12月20日

特に最後の感状となる冒頭に掲載した石井 嘉穂 師団長による敗戦
の前日となる昭和20年8月14日の表彰状は、翌日の敗戦を意識してか
文中に高砂兵の活躍で四度に渡り天皇陛下に上奏され、その都度丁重
なる労いの御言葉が御下賜された事を特に記してあります。
 
台湾出発前の第二遊撃隊の写真(上)です。訓練中の遊撃隊の
一部です。、下の写真は同じく角枝山を訪問した遊撃隊幹部等
混じった記念写真です。
この第二遊撃隊の高砂兵は時系列で整理すると昭和18年11月に
台湾で特別志願兵500名が入隊。遊撃戦の訓練の後に昭和19年
5月28日、輸送船28隻で高雄港を出港。6月2日、マニラ上陸。6月
12日、マニラ発ハルマヘラ島ガレラに上陸。7月12日、第二遊撃隊
の編成終了。大発でハルマヘラ島からモロタイ島に向かい上陸。
守田連隊と交代する。同日の第三十二師団長命令が『第二遊撃隊
は、在島の歩工兵各1個小隊を合わせて指揮して、モロタイ島遊撃
隊となり敵の進攻を妨害し、また在島憲兵分隊も区署すべし。』であ
りました。同年8月19日、遊撃隊用弾薬糧食1カ年分をモロタイ島ド
ルバに揚陸。そして米軍の進攻が始まります。以下、

 昭和19年9月15日 AM07:58
             激しい爆撃と艦砲射撃の開始と共に米軍上陸
       
       同日    第一次斬込隊出発

      10月22日  第二次斬込隊ピロー攻撃

      11月 8日  総攻撃

      11月16日  守田連隊逆上陸

      12月15日  守田連隊長戦死

      12月25日  四〇高地を攻撃

 昭和20年1月 6日  四〇高地を離脱(戦死者 295名)

       1月13日  師団長命令にて食料確保の為の持久戦に
              入る。

       1月20日  無線通信途絶

       2月 6日  主力、島の北部に移動

       5月23日  服部大隊長戦死

       8月 2日  支隊本部交戦

       8月23日  二〇高地に突撃

       8月30日  敗戦伝達

この時点でモロタイ島に居た日本軍は、2.482名中、1.727名が戦死
(内、高砂族は188名)でした。


以下の二点の画像は、現在、渡米中の旧軍軍装の研究家
である大阪のS先生の所持している柴田准尉の資料です。
御好意に甘えて掲載させていただきました。
数年前にヤフオクで入手した資料で同准尉の事実証明(昭和20年)と
勤務証明書((昭和21年)の二枚です。ガリ版刷ながら隊長である川島
少佐と洲鎌軍医中尉の押印が判ります。また文面から昭和8年徴用現
役とあります。徴兵から13年…支那から南方のモロタイ島まで軍務に就
き生き延びた古参中の古参准士官と謂えるでしょう。
S先生の記憶では、柴田准尉は遊撃隊の経理全般を任されて
おられたようで…復員時の金銭出納帳簿などが輝第二遊撃隊
の復員時資料と同時に入手したと仰っておりました。そう謂えば
柴田准尉の寄稿した手記の中にも台湾を出発前にヤギだったか
そうした動物を大量に調達し運んだ記載がありましたので得心が
いきました。







陸軍獣医中将 小笠原長淳閣下
     の獣医大佐時代の正衣・正帽・他




陸軍獣医中将小笠原長淳閣下の獣医大佐時代の品です。
御存じの通り昭和13年改正で各部将官も兵科将官と変わら
ない正帽・襟・袖・正肩章・飾帯になりました。小笠原閣下は
昭和13年7月に獣医少将に進級なので、少将以上の正装は
作っていないものと思われます。金銀交差の旧正装は、改造
せずに新型の少将の正装を新調されたものと考えられます。
紫色の正袴が無いのが惜しいですが、元々、こちらの一式は
島根から出て東海地方に売られ…いつの間にか変遷して
埼玉で売りの出された時には、一式で揃っていた正袴がなく
なっておりました。しかし獣医大佐ともなれば滅多にでる品で
ありませんので、また出自も判る閣下の品という点でも珍しい
と思います。

















 

  * 小笠原長淳 陸軍獣医中将 *

          (略 歴)

東京都出身、陸士24期相当


昭和 9年 8月 1日  陸軍一等獣医正
              近衛師団獣医部長

昭和11年 3月 7日  第1師団獣医部長

昭和12年 2月15日  陸軍獣医大佐

昭和13年 1月 8日  第3軍獣医部長

昭和13年 7月15日  陸軍獣医少将

昭和15年 8月 1日  陸軍獣医資材本廠長

昭和16年 8月25日  陸軍獣医中将

昭和18年 6月10日  待命

昭和18年 6月11日  予備役









敗戦時、戦艦ミズーリ上で降伏文書
  の調印に臨んだ日本側代表の一人
     大本営陸軍参謀部 永井 八津次
      陸軍少将の三式軍衣と佩用の参謀飾緒




永井閣下の三式軍衣です。三式少将の襟章
が取られています。襟には、取外し後が残って
います。
軍衣は、元々が九八式参謀軍衣だったもの
を三式に改造した模様です。
右肩内部に参謀飾緒を取り付ける釦ホールが
オリジナルである参謀衣である事が判ります。


略綬取付用や将官隊長徽章等の糸掛があります。
このパターンを示す将官軍装を良く見ますが、将官に昇進し
三線目を加算した時に矢の方向を違えて入れており、袖線
自体の色を違えております。これは、下の別な方が所持して
いた永井閣下の三式軍衣でも同じである事が画像から判る
通りです。


左右ともに襟章の剥がし跡が判ります。右襟は、階級章の赤部分が
残っています。テーラータグは、東京の松屋です。






 
      ◆ 永井八津次 陸軍少将 ◆


               (略 歴)

     歩兵科、茨城県出身
     士候33期、 陸大43期


大正10年 7月27日 陸軍士官学校卒業
大正10年10月16日 陸軍少尉
昭和 3年12月24日 陸軍大学校入校
昭和 6年11月28日 陸軍大学校卒業
昭和14年 2月 3日 陸軍省軍務局軍務課支那班長
昭和1 4年10月   陸軍省軍務局軍務課高級課員
昭和16年 3月 1日 陸軍大佐
昭和16年 6月19日 支那派遣軍第4課長
昭和18年 7月12日 参謀本部謀略課長
兼大本営謀略課長
昭和18年10月15日 大本営第4班長
昭和20年 2月20日 陸軍省軍務局軍務課長
昭和20年 3月 1日 陸軍少将
昭和20年 4月23日 兼大本営第12課長
昭和20年 8月12日 東部軍管区司令部附
昭和45年 8月15日 歿




前列左から重光葵外務大臣に梅津美治郎参謀総長・関東軍総司令官。
2列目左から、永井八津次陸軍少将、岡崎勝男終戦連絡中央事務局
長官(外務省)、富岡定俊海軍少将、加瀬俊一内閣情報部第三部長(外
務省)、そして、宮崎周一陸軍中将。3列目左から横山一郎海軍少将、
太田三郎外務省、柴勝男海軍大佐に杉田一次陸軍大佐です。こうして
見ると海軍は、実にずるいですね。責任ある立場の軍令部総長や次長
など出していません。



以下は、以前に手に入れた永井閣下佩用の参謀飾緒です。

この飾緒は、ミズリー号上の降伏調印で有名な
永井陸軍少将の参謀飾緒です。将官飾緒では、
ありません。


上の画像で有名な昭和20年9月2日、東京湾碇泊の米戦艦
”ミズリー”号艦上に於いて行われた降伏文書の調印式に
参加した永井少将です。この時の参加者は、 

                    全権

     外務大臣                    重光 葵
     参謀総長、陸軍大将             梅津 美治郎
     大本営陸軍部第一部長 陸軍中将     宮崎 周一
    終戦連絡中央事務局長官          岡崎 勝男
    大本営海軍部第一部長 海軍少将     富岡 定俊
    内閣情報部第三部長             加瀬 俊一
    大本営陸軍参謀 陸軍少将         永井 八津次
    軍令部出仕兼海軍省出仕 海軍少将    横山 一郎
    終戦連絡中央事務局第三部長        太田 三郎
    大本営海軍参謀  海軍大佐         柴  勝男
    大本営陸軍参謀  陸軍大佐         杉田 一次

    以上となっています。因みに連合軍側は、以下、

   連合国最高司令官                  ダグラス・マッカーサー
      合衆国代表者                      シー・ダブリュー・ニミッツ
      中華民国代表者                    徐永昌
      連合王国代表者                    ブルース・フレーザー
      ソビエト社会主義共和国連邦代表者   クズマ・エヌ・デレヴイャンコ
      オーストラリア連邦代表者         ティー・エー・プレーミー
      カナダ国代表者                 エル・ムーア・コスグレープ
      フランス国代表者                ル・クレール
      オランダ国代表者                シェルフ・ヘルフリッヒ
      ニュージーランド国代表者          エス・エム・イシット



昭和20年9月2日にミズーリー艦上で調印された
降伏文書のコピーです。

この時の歴史的瞬間の参謀飾緒かどうかは、判り
ませんが…もしそうであれば、この飾緒は日本の
悲劇の幕退きの全てを見てきたのでしょう。
永井少将のこの参謀飾緒は、胸吊の縛り方に
特徴があり、飾緒の胸元の結びは他で見たこ
との無い独特の結びをしています。また通常、
吊るす紐にある金具が無くループを作っていま
すので軍衣の側に直接、ループを掛ける金具
を付けていたものと思われます。



cf.前のオーナーが所蔵する永井少将の三式軍衣です。上で
 私が新たに入手した三式軍衣とは、別のもののような気が
 しますが、定かではありません。


こちらの軍衣と飾緒のうち飾緒だけを御譲りいただきました。







鈴木二郎 陸軍々醫中尉の
    レントゲンフイルム等の所持品




認識票に名刺が多数です。


鈴木軍醫は、支派遣軍臨汾陸軍病院
に勤務されていたようです。






支派遣軍臨汾陸軍病院への赴任を命令書のようです。
第二師団第二架橋材料中隊 日々命令とあります。
戦後の手紙だと思います。大陸で世話した
人の奥さんから(長野県の方)から鈴木軍醫
に宛てた手紙です。


レントゲン袋の中に保管されていたのは、鈴木中尉御自身の
胸部X-P(正面)写真でした。かなり痛みが来ていますが…
シャーカッセンに掛けると立派に読む事が出来ます。昭和15年
10月の少尉時代に撮影された物です。今から約68年前のレン
トゲンです。自分を写したからこそ自分で保管した為、残った珍
しいものだと思います。




臨汾陸軍病院となっています。
中国山西省の(支派遣軍)臨汾陸軍病院は、
敗戦時、支那派遣軍隷下北支那方面軍管下
第1軍直轄(第1軍軍医部長 近藤治三郎
軍医大佐)で正式名称は、第163兵站病院
(岡本八十一軍医大佐)でした。
昭和20年6月の日付けで下書きされた医療用
麻薬購入を警察へ許可申請関係のものです。
戦後も無事に復員されたようです。復員先は、
福島県の四倉町のようです。
山西省は、北は万里の長城を挟んで内モンゴル自治区と、東は太行山脈を挟んで
河北省と南は黄河を挟んで河南省と、西は北上した黄河を挟んで陝西省とそれぞれ
接しています。







大正十三年制 傭人(調教手を除く)の帽章
  と
明治六年・七年制 共通の下士官用略帽章




左の銀色の方は、大正13年制傭人(調教手を除く)の帽章です。
勿論、陸軍省・参謀本部・教育総監部の玄関番の前章でもありま
す。右の真鍮の物は、明治6年・7年制共通の下士官用略帽前章
と思われます。明治の物は、実際の所良く判りません。従いまして
軍装研究で実績のある大先輩より資料をいただき勉強中です。
真鍮の明治6年・7年制共通の下士官用略帽前章です。
下に掲載した資料にあります。大先輩のお見立て通りと
思います。


銀色の方の玄関番など調教手以外の傭人の帽章です。


小さくてはっきりしませんが、明治7年制
陸軍一等卒略衣袴・略帽の画像です。







陸軍航空隊 各種航空計器類




九八式速度計




九五式ニ型昇降計







一四式二型回転計







九八式人工水平儀







九七式高度計





九六式速度計です。







気筒温度計です。1,2の切替がありますので
双発機用という事だと思われます。





各種電源の切替スイッチです。





二式排気温度計です。こちらも左右の切替
がありますので双発機用と思われます。





陸軍の前後傾斜計です。赤とんぼや剣などに搭載されました。
入手前にガラスが割れていたのでアクリルで代用されてます。



陸軍の人工指向器です。
このタイプは、百式輸送機などで使用されました。銘板が欠です。







嗚呼、郷土の誉れ精強を誇る
     旭川★第七師団の兵舎
         集合煙突の煤出し口




旭川第七師団の兵舎解体時に出たものだそうです。
重さ:6.5kg 鋳物製でサイズは、22.0x30.0cm 
厚さが10.0cm…ずっしりと重いです。 
伝統ある北鎮の守護を敗戦まで務めた栄光の
第七師団の煙突の煤出し口の扉です。保存状
態が良好で70年以上昔のものとは、思えませ
ん。
御存知の明治に屯田兵より生まれた北国の兵団が
この第七師団です。明治29年、日清戦争の後に
第七師団となりました。通称号は、熊兵団で編成地
は、我が故郷の札幌です。


旧陸軍第七師団跡地(錬兵場)は、現在、
陸自の旭川駐屯地になっています。この
中に北鎮記念館があります。以下、クリッ
クで詳細ページへ飛びます。

        
             







珍しい陸軍法務官の物です。帝国陸海軍で軍事司法権の行使
に当った法務官は、法曹資格を有する文官である陸軍法務官、
若しくは、海軍法務官または、陸軍の法務部将校もしくは、海軍
の法務科士官であって法曹資格を有する武官をいいます。この
方のように司法官試補に任用されるには、大学法学部を卒業す
るか司法科高等試験に合格している必要があります。その事が
司法官資格であります。この方は、司法科高等試験(現在の司
法試験)に合格されて陸軍法務官司補から陸軍法務官に任じら
れています。
尚、御存知のように相当官であった法務官(軍属。高等文官)は
昭和17年4月に法務部が新設され武官となり法務部将校となり
ました。他の相当官より武官となった諸々部と同じで最高位は、
中将(法務中将)となりました。後の海軍のコーナーの最終ペー
ジの
海軍の軍装]で呉の海軍刑務所の監獄看守を務めた元陸
軍曹長で退役後に海軍軍属として監獄看守になり敗戦直前で
彼等も法務部の武官に統合した為、この看守の方は、海軍兵曹
長(准士官)になりました。このように陸軍も軍属の監獄長、録事
、看守長、看守を法務准士官、下士官、兵に振り分けました。先
に記載したように法務部少尉は、法務官であり司法科高等試験
の合格または、大学法学部卒業の学歴が必要になる為、これら
の資格や経歴の無い法務准尉の昇進先は、法務少尉ではなくて
法事務少尉となりました。



陸軍喇叭長・喇叭手臂章
同一の方が使用した品で、当時のオリジナルです。
緋絨は、ちゃんとした徽章絨で出来ています。



陸軍傷病衣の赤十字臂章(未使用品)



金沢第九師団の軍司令部隊標”目處長の小旗”
明治三十七年。陸達第六十号に定められた軍隊符號による
支隊兵棋隊標に定められた旗です。軍司令部隊標小旗に
「金沢目處(メド)長」と書き込まれています。実戦・演習に
標的を指示する担当長が持っている小旗です。明治・大正期
に使用された物です。大きさ30X30cm。竿を入れる部分は
袋縫いになってます。
上の画像の右から二番目の軍司令部の記載の絵が
あります。これが上の紅白の小旗です。



陸・海軍 将校婦人会の正会員章







ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士