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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc)PartTh















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








親子兄弟含めて四名も将官を輩出した
   長州藩から続く名門一族・国司家の
    国司 清造 陸軍少将の将官鞍嚢覆
        そして同閣下の認識票…等々。




今までに所持者不明の将官鞍嚢覆は、1点所持
しておりましたが今回、所持者の閣下のお名前が
判っておりましたので何となくホッとしています。
大正時代の物です。小さな虫食いは、あります
が総じてきれいな品だと思います。



(略歴)国司 清造 陸軍少将(長男)

 歩兵・山口県出身・功四

 慶応2年12月 生

明治23年7月26日  陸軍士官学校卒業

明治24年3月26日   陸軍少尉

大正2年8月22日   歩兵第59聯隊長

大正7年6月10日   陸軍少将・待命

大正7年10月20日   予備役

昭和38年1月4日      歿


国司清造閣下の認識票です。



山口県の名家・国司一門
    の一人 国司憲太郎 少将の名刺




四名の将官を輩出した国司一門の一人、国司憲太郎 少将閣下
の名刺です。右は、宮第三八〇三部隊長(近衛歩兵第四連隊
長)時代の陸軍大佐の頃の名刺です。


      (略歴) 国司 憲太郎 陸軍少将

明治24年9月13日 生、歩兵科・士候24

明治45年5月28日     陸軍士官学校卒業

大正1年12月24日     陸軍少尉

昭和14年3月9日      陸軍歩兵大佐

昭和17年1月2日      近衛歩兵第4聯隊長

昭和19年3月1日      陸軍少将・第6軍兵器部長

昭和19年11月27日     歩兵第60旅団長

昭和47年1月24日         歿


この華麗なる将官一族を紹介しておきます。

  
      氏名    階級      軍学校      主な補職

(次男)国司 伍七  陸軍中将  士候5・陸大15   第7師団長

(長男)国司 精造  陸軍少将    士候1      歩兵第59聯隊長

(父)  国司 順正  陸軍少将   草創(陸軍)    貴族院議員
             (男爵)              歩兵第6旅団長

(三男)国司 憲太郎 陸軍少将   士候24      歩兵第60旅団長


凄い一族一家だと思います!!長州の名門の家柄で萩藩重臣(萩
藩寄組)の国司家(禄高:五千六百石)だと言われ、この一族は、有
名な蛤ご門の変で長州藩兵を率いて参加した国司信濃(長州藩家
老)を出した事でも有名な一族です。将官を親子兄弟で四名を輩出し
たのも頷ける武門の家柄と言えます。



(父) 国司順正 陸軍少将(男爵)

        〜略歴〜

出身 山口県 天保13年1月 生

御親兵第7番大隊長(少佐)

近衛歩兵第2聯隊長(佐賀の乱)

明治15年2月5日  陸軍少将

明治15年2月6日 熊本鎮台司令官

明治18年5月21日 歩兵第6旅団長

明治19年7月10日  休職

明治23年12月18日  歿










(次男) 国司伍七 陸軍中将・功四級

        〜略歴〜


明治3年5月26日 生

士候5・陸大15期(恩賜)・ドイツ駐在

満州軍総司令部参謀(兵站、日露戦争)

明治27年9月18日 陸軍少尉

大正2年6月9日 陸軍歩兵学校教育部長

大正2年8月22日 陸軍歩兵大佐

大正4年8月13日 歩兵第23聯隊長

大正7年7月24日 陸軍少将
             参謀本部第4部長

大正11年8月15日 陸軍中将
             東京湾要塞司令官

大正12年8月6日 第7師団長

大正15年3月2日 待命

大正15年3月22日 予備役





国司家より出た昭和十三年制定制式軍刀
           (通称 九八式軍刀)




如何にも将官が使われた短寸の使用感の殆ど無い
美品の拵えです。中には細身で無銘の古刀があり
ました。登録証が無い刀でしたので譲り受ける際に
まことに惜しいですが切断していただきました。
国司家に将官が四名も輩出されておられますが
所謂、九八式軍刀を使った時代背景を考えると
歩兵第六十旅団長をつとめられた国司 憲太郎
陸軍少将の佩刀と考えるのが一番妥当だと思わ
れます。






将官刀緒も軍刀に佩用した事が判る程度で
新品同様の美しい品です。







酒井 鎬次 陸軍中将の使用された印章11点




昭和48年に亡くなられた愛知県出身の
酒井鎬次陸軍中将が使用された印章が
11点です。
流石に中将閣下ともなると立派な印章が一杯です。








      ☆ 酒井 鎬次 陸軍中将 ☆


愛知県出身、歩兵科、功三級、陸大24期恩賜
 仏駐在武官

大正15年 8月20日 参謀本部編成班長
昭和 2年 7月26日  参謀本部附(国連代表随員)
昭和 4年 8月 1日  陸軍大佐
             歩兵第二十二連隊長
昭和 6年 8月 1日  陸大教官
昭和 9年 3月 5日  陸軍少将
             陸大研究主事
昭和 4年 8月 1日  陸士幹事
昭和11年 8月 1日  歩兵第二十四旅団長
昭和12年 3月 1日  独立混成第一旅団長
昭和12年 8月 2日  陸軍中将
昭和13年 3月24日  留守第七師団長
昭和14年 9月12日  第百九師団長
昭和14年12月24日  参謀本部附
昭和15年 1月29日  待命
昭和15年 1月31日  予備
昭和18年11月 1日  参謀本部附
昭和19年 7月31日  召集解除

昭和48年3月2日 歿








突五十四部隊長の公印と名刺




突五十四部隊長の公印です。秘匿号の突は、姫路の
第八十四師団です。あの沖縄戦に投入予定でしたが
急遽中止となり、本土(小田原)の防衛に付いた中の
大隊編成の部隊です。その下にある名刺が部隊長(大
隊長)の藤本少佐のものです。


戦後も部隊長印と一緒に大切に保管
されていたのでしょう。







比島(マニラ)から復員した衛生兵の
  従軍召集解除證明書・引揚證明書・軍隊手帳




現在の秋田県本荘市の出身の衛生上等兵です。
軍隊手帳に召集解除証明書に引揚証明書、食券
に捕虜収容所の証明書があります。
外地から復員した将兵が大体、同じような
物を持っています。平均的な復員兵の所持
品です。
一枚だけ残った食券がうら寂しい。
30歳男盛り…良く無事に比島から生還しま
した。命あるだけで当時は、儲け者といって
いた混迷の時代でありました。
昭和21年10月15日に名古屋に上陸し
無事に帰国を果たしています。勝ち戦
であれば英雄達の凱旋ですが、敗戦国
では、惨めな敗残兵の復員となります。


上は、粗末な米軍の発行した戦時捕虜を証明した紙です。
下の軍隊手帳は、殆ど書込みがありません。観閲点呼を
二回受けています。動員されて比島に渡った後も記載しな
かったようです。その後、郷里に戻り幸せに暮らされたので
しょうか?…気になるところです。







ソ連に抑留された日本兵捕虜の
      往復郵便(赤十字)・エンタイア




非常に珍しいエンタイアでもあります。ソ連赤十字と日本赤十字が
介在したのでしょうロシア語と日本語の併記です。日本へ向けの
往信は、使用されていますが返信は、されていません。
裏面が自由に記載する欄のようですが…不自由なカタカナで
記載がされていますが…あまり日本人の書いた内容にしては
片言の印象が強く、通訳が勝手に書いて出した物かもしれな
いと考えてしまいます。


カタカナの日本語やはり変です。『皆、元気でしょ。私も元気で
おります。安心下さい。近親の方に宜しく頼みます。 さよなら』
とあります。







珍しい法務少尉の肩章




法務の肩章は、非常に珍しいです。
銀モールの旧型のタイプです。


セロハン紙も当時のままの未使用品です。
箱が一部破れ等痛みがあります。裏に1 
20の値札のようなシールがあります。多分
一円二十銭で売られていたのだと思います。











皇族 朝香宮鳩彦王 陸軍大将の御写真




皇族 朝香宮家の初代当主で、昭和22年10月14日に臣籍降下して
朝香鳩彦を名のなれましたゴルフの宮様として有名な朝香宮鳩彦王
のお写真です。三式大将の軍衣袴に戦闘帽姿ですので大戦後期の
頃の撮影と思われます。場所も不明ですが、白金の朝香宮邸でしょ
うか。上の右側の画像は、上海派遣軍司令官時代のものです。

大勲位功一級、陸軍大将(明治20年10月20日〜昭和56年4月12日)。
陸士20期・陸大26期近衛師団長、上海派遣軍司令官等を歴任されま
した。敗戦後、昭和22年に皇籍離脱し以降は、東京都港区白金にあった
朝香宮邸を外務省に貸し出し、熱海の別荘に隠棲してゴルフ三昧の日々
を送ったようです。

横に居られる方は、はじめ運転手か夜警さんかと
思いましたが…良く見ると高等官ニ等の閣下でし
たので驚きました!!
見事に典型的な三式陸軍大将の軍衣姿です。


上記のバナーをクリックすると当サイトで収蔵している
朝香宮 鳩彦王 殿下の所持された靖国刀(靖光)の
九八式軍刀を紹介しているぺージが開きます。
大勲位陸軍大将 朝香宮 鳩彦王 殿下の御佩刀です。
流石は宮様将軍の御佩刀です。拵えも極美で純銀のハバキに朝香宮家の御家紋
と柄の目抜きにも純銀の御家紋があります。護国刀 靖光 の銘があrふぃます。


御付の方でしょうか海軍々属で襟章から
高等官二等(将官相当官)である事が判
ります。また帽章は、高等官・判任官一等
のものです。また左手にある軍刀は、海軍
士官の太刀型軍刀です。



朝香宮鳩彦王の第一王子・陸軍中佐
 朝香宮孚彦王殿下が陸軍士官学校生徒
  時代に担任教官であった後の第九独立警備隊
    司令官 石川 忠夫 陸軍少将(26期)に御下賜
                         された馬の鞭




朝香宮孚彦王殿下の御下賜品です。
箱の横に「孚彦王殿下第四十五期生トシテ陸軍士官学校
ニ御在学中教官ヲ御担任セシヲ以テ関東軍ニ轉出ニ成り
下賜セラル」の墨書きが見られます 。






         ◆ 朝香宮孚彦王殿下 ◆

東京出身、大正元年10月8日生
朝香宮鳩彦王殿下の第1皇子。昭和22年に皇籍離脱し
朝香孚彦を名乗る。陸軍軍人、敗戦時 陸軍中佐。
戦後は日本航空に勤務されました。
平成6年5月6日逝去(享年80歳)



このリストループの付いた雰囲気のある英国風の鞭を昭和7年2月22日に
下賜された石川 忠夫氏は、当時、陸軍士官学校で教官を勤めておられて
関東軍に転じる時に殿下より記念に御下賜されたと記載があります。この
方は、陸士26期の石川 忠夫 陸軍少将で開戦時の昭和16年12月8日は
歩兵第29旅団長(昭和15年8月2日-昭和17年3月5日)、留守第57師団
兵務部長
(昭和17年11月9日 - 昭和19年10月14日)、第9独立警備隊
司令官(昭和20年2月1日-昭和20年8月15日)として敗戦を迎えておりま
す。第9独立警備隊は済南で編成。補充地は会津若松。通称号は至剛。
上級部隊は支那派遣軍(総司令官 岡村 寧次 陸軍大将:南京))隷下
北支那方面軍(司令官 下村 定 陸軍大将:北京)下、第43軍(司令官
細川 忠康 陸軍中将:済南) です。







実物 八九式重擲弾筒の残骸




八九式擲弾筒の足の部分と根元の部分が見事
に切断されている残骸です。何もここまで悲惨な
姿にしなくても!…と思ってしまいます。
足の部分と根元の部分のシリアルNO.86906
は、一致しています。




以下は、以前購入した精巧複製品です。
精巧複製品です。




九八式重擲弾筒を構える奥の日本兵と手前で
擲弾を手にする兵士が写っています。まさにタ
イミングを狙っているところでしょう。
八九式擲弾筒を発射せんとする擲弾兵



可愛いだけじゃない本格派、真鍮製
    ミニチュアの八十九式重擲弾筒 
      (四分の一スケール)完成模型




細部に渡り精巧に再現されたミニチュアです。
実際の四分の一のサイズです。
擲弾嚢まで再現して作っていただき
ました。擲弾もこだわって八発を作
成していただきました。
刻印までされており匠の技に
ただ敬服するばかりです。













騎兵第二十二連隊 営内で使用された手箱




兵が私物品など身の回りの物を仕舞うのに使用した手箱です。
スペースの限られる海軍の手箱に比べると一回り
大きな陸軍の手箱です。これを見ていると内務班
の厳しい生活が想像されます。班長が手箱を開け
て持ち物検査する様子が目に浮かぶようです。
箱の裏には、騎兵第二十二連隊の
焼印があり、外蓋の裏に久留米市
瀬ノ下町 中廣所有とあります。
騎兵第二十二連隊は、久留米編成です。所属師団も
久留米の第十八師団です。除隊後に払い下げて貰い
使用したのでしょう。同じ久留米市在住の方です。







第四十三停車場司令部(駅長)発行の
  軍人軍属免費乗車換票証(切符引換証)
              と中国語の切符が四枚




塘沽協定で有名な河北省の塘沽駅〜天津駅間の記載
があります。天津の陸軍病院でしょうか治療を目的とす
る記載があります。字が難読ですが一等兵以下、四名
で三等席の記載があります。
使用済みの切符です。
塘沽駅は、天津港の最寄の鉄道駅です。


天津東〜塘沽、国際軍人二等乗車券とあります。
下の認識票は、第六十四停車場司令部
の司令官と思われる中佐のものです。
この紙の第四十三停車場司令部とは、無
関係ですが、中々、珍しいものです。







一年志願兵から陸軍 砲兵大尉
      にまで昇進した方の縁の品




兵下士官時代の軍隊手帳に少尉時代の
認識票、大尉の時の防暑略軍衣の胸に
付けた九八式襟章の階級章です。
所属は、少尉になっても一年志願兵で入営
した砲兵第二十二連隊のままです。第八中隊
で小隊長をしていた時の認識票と思われます。
防暑略軍衣の胸にピン留めで付けた
九八式大尉襟章の階級章です。元々
少尉の襟章に加星したようです。
大正十四年十二月一日一年志願兵として野砲兵第二十二連隊
第一中隊に入営、翌十五年(昭和ニ年)十二月一日曹長に進級
し予備役見習士官になっています。一年志願兵では、終末試験に
合格すると予備役将校に、不合格だと予備役下士官になりますが
合格して予備役将校の道に進むと教育期間中の費用と将校として
の軍服から装具一式は、全て自弁しなければなりませんでしたので、
終末試験にわざと落ちる者も多かったのが実情です。この方は、そうし
た事も無く予備将校になり、最後は、大尉まで昇進したようです。
戦争が長引くと下級将校不足は、深刻になります。
この一年志願兵制度は、甲・乙幹部候補制度に一
本化されていきました。


この方の所持品で中尉の通例肩章などと
一緒に出ていた砲兵科士官用山型胸章で
す。







大満州国 大同二年の建国周年紀年
の記念章です。






満鉄創業30周年記念に新京で行われた
陸上大運動大会の記念メダルです!!




陸軍その他で使われた戦前のバケツです。
まだまだ現役で使えます!!


戦時資料:大政翼賛会の名刺各種です。
















ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士