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旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc)PartTg












Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)



陸軍関連








満州國軍官(兵・下士官用)の正帽(大礼帽)…面白い品!




革製で表面に痛みが見られますが、非常に珍しい面白い品です。
下に出した満軍の儀杖兵用のもの
と少し違うのが判ります。
知人の同一品を見比べる機会があり…金具の取付具合
その他を見ると戦後の改造品の可能性がありと考えます。
どうも入手時の値段も驚くほど安かったので気にしていま
したが…調べていくと出所の発端は、某TG研のH氏らしく
まだ駆け出しの時に掴まされた精巧改造品や贋作を処分
しているとの噂は、前々から聞いておりましたが、この品も
もそうした品の一つの可能性があります。米国辺りで良く
こうした改造品が出たという話もあります。
満州国軍の儀杖兵







満州国陸軍少将だった方のバックル
          と明治時代の古いベルト




この品を御譲り下さった高齢の前オーナーが気合を
入れてピカールで磨いてしまいました…(T T;
日本で陸軍大佐をされた方で満陸に
移り少将で退役されたかの品です。
こちらの明治の古い桜花のバックルもメスの方は、ピカールで
磨かれてしまっています。オスの方は、かろうじて静止して磨か
れず止まりましたが上下の通り、色が全く違う形になりました。
こういう事も…長い間には、あるという事ですね。驚きました!







南満州鉄道株式会社に勤務
   されていた奥山 市之助 元陸軍
            工兵伍長の縁の品々




昭五式軍衣(冬)です。
九八式への過渡期に使用したらしく良くある
立襟に襟階級章を縫い付けた痕が残ってい
ます。肩章留は、取外されています。
昭和十三年製、広支検定です。


昭和15年1月10日にハルピン鉄道第三連隊
第八中隊に入営されておるようです。入営前
に満鉄で奥山氏が使用していた制帽です。


制帽は、顎紐も無くボロボロです。


満鉄の社服です。
本人記載の中で昭和7年1月の日付で
南満州鉄道(株)の記念の…不明。と書
かれておりました。15年の鉄道連隊へ
入営前は、長く満鉄に勤務されて居った
ようです。


こちらも満鉄の社服です。この奥山氏
は、敗戦後も無事に生き昭和21年4月
5日に鹿児島に上陸し4日後に郷里へ
帰還を果たしたとの記載が梱包の箱に
直筆で記載されておりました。







陸軍 航空兵のセーター(未使用品)




陸軍航空隊で使われた未使用のセーターです。
保存時のシミや汚れが多少あるものの
総じて未使用なので美品です。畳んだ
まま誰も袖を通した事が無いのが判り
ます。







伊藤 陸軍少将の
     中佐時代の正帽と珍品




伊東少将とまでしか判りませんが、中佐時代の
正帽です。型崩れも虫食いも無く美しい正帽で
す。












こちらの閣下は、倹約家と思われ近衛将校時代の正帽
から金線や帽章、内張りを外し上の中佐の正帽を仕立
て直しています。この近衛正帽の帽体を残していたのも
再び近衛連隊、近衛師団に配属される事も考慮にいれて
の事と思われます。こうした物は、初めて見たので驚きま
したが…非常に珍しい気がします。この帽体と上の正帽を
使い職人さんに頼めば近衛中佐正帽が出来上がる事に
なります。
正帽の天頂の星章の金線の取り外し跡が
良く判ります。珍品と言えると思います。
中の内張りも剥がされ内部に鉛筆で
伊藤と記載されています。







珍しい陸軍の防暑略帽(初期型)




あまり資料にも記載の少ない陸軍の防暑帽です。
ツバの広い初期型のもので崩れないようにツバに
ワイヤーが入っています。中々、レアな一品です。
未使用のデットストックと思われます。顎紐を
通す部分の鳩目に錆びもありませんが、顎紐
が惜しい事に欠です。







陸軍(航技)中尉 開襟防暑衣






昭和19年制の三式の開襟防暑軍衣です。
画像の通り”航本 航技中尉 金子幸平”と記名布に
名前があります。昭和19年7月10日勅令第448号で
航技という名称は、兵技と一本化されたので呼称が
無くなりました。この為か記名布のある側と反対側の
内部にただの”金子中尉”と改めて記載があります。


右胸に航空胸章を付けています。これは、昭和19年
5月9日勅令第331号によって、航空関係の部隊に属
する者全てが付着することになりました。また逆に昭
和15年に制定された航技特別章(襟部徽章)は廃止
されました。
当時、航技中尉(技術中尉)であった金子幸平という方
の綿製夏衣です。航本(陸軍航空本部)航技中尉の記名
があります。脇下に開閉可能な通気孔があり、5個釦なが
ら開襟として着用できる性質を持った、現存が少ない綿製
夏衣です。
昭和18年10月12日勅令第774号によって陸軍の服制
が改正され、それまで外套に付いていた袖章を軍衣夏
衣にも付けるようになりました。、また画像のように将校
用も両脇下に通気孔を設けることが正式に認めらました。







昭和十一年に台湾(嘉義)で
   設立された飛行第十四聯隊
      の官給品・航空科鍬型襟章




非常に珍しい航空の鍬型です。下士官兵用の官給品
です。浜松から台湾の嘉義へ要員を派遣し飛行第14
連隊が設立されたのは、昭和11年12月1日です。この
隊は、九七式重爆で編成される飛行第14戦隊に改編
されます(昭和13年夏)。重爆部隊としては、当初、こ
の第14連隊より昭和12年7月から独立飛行第15中隊
が編成されます。この隊は、9月より上海王浜へ派兵
され上海・南京戦へ投入され活躍します。この隊は、
再び13年の夏に飛行14連隊に組み入れられ飛行第
14戦隊へと改編されました。後にこの戦隊は、中国を
中心に大戦初期は、フイリッピン、仏印を転戦します。
中期は、ビルマ・インド方面で活躍しニューギニア方面
に進出し豪州北部への爆撃も行い、戦力を消耗しフリ
ッピンに転戦しては、モロタイ島へ進出するなど活躍し
ました。大戦後期、戦力消耗で水戸で補充練成を行い
一部は、義烈空挺隊の第3独立飛行隊要員として転出
させるなどして敗戦を教育部隊として新田・浜松、立川
八日市などで迎えています。
この飛行第14連隊としての鍬型襟章の使用された
期間は、非常に短いものだったと思われます。連隊
の設立が昭和11年暮れであり、昭和13年の5月に
は、九八式軍衣が制定され昭五式の立襟軍装が無
くなります。従って使用されたのは、正味一年半程
度であると思われます。
航空の官給品の鍬型、ここまできれいな状態の
物は、珍しいものと思います。第二次大戦の開戦
前の品ですので歴史を感じます。







陸軍省が昭和12年の
    支那事変を記念して作った
          スイス製の海懐中時計




スイス製のアラーム付記念懐中時計です。
古いものですが秒針も動いています。
陸軍省が作った記念時計ですので
支那事変に功のあった軍人に贈った
ものと想像します。







陸軍曹長殿が使用したサスペンダー二本






使用品が一本と未使用品です。最近では、軍服など上下は
良く出ていますが…こうした小物が少なくなっています。







明治43年、朝鮮総督府設立時の奏任官制服




状態は、虫穴が多く良くありません。袖の階級章や襟徽章、
釦は、オリジナルの状態で残っている奏任官の制服です。
肩章は、ループになった平織り金線、正肩章をこの部分
に固定したようです。よく出る制服用の肩章は、まだこの
時代には、制定
されていません。



朝鮮総督府制帽




非常に珍しい朝鮮総督府の制帽です。
モールドの良い旭日帽章と凝った顎革に内装の作りから
明治後期〜大正時代頃の制帽と思われます。




太い二本線から奏任官の制帽と思われます。









兵から叩き上げで北支戦線で
   戦死された故 那須甲子治郎
            陸軍中尉の資料




甲・乙幹部候補生で急増で兵から将校になったケース
は多いですがこの方の場合は一歩ずつ階級を這い上
がるようにして兵→下士官→准士官→士官となりました。
15〜18年の軍歴で陸軍少尉に登りつめ北支で戦死し
中尉になった北海道出身の方です。今では、振り返ら
れる事も無い無名の下級将校ですが…敗戦が無けれ
ば間違いも無く英雄として今も親族の誉れとして末代
まで讃えられた事でありましょう。一度の敗戦は、その
以前の偉業とも言われる歴史的な大勝利である日本

海々戦。そして日清・日露戦争や大東亜戦争で敗戦を
迎えるまでの様々な闘いで栄光の勝利を重ねて、軍神
として讃えられ靖国に合祀された多くの英雄達が…今
は、その全てが打ち消されたように大否定され歴史の
闇に埋没されるかのような扱いを受けています。この戦
死された那須中尉もそうした大勢の中の一人です。
昭和18年4月23日、山西省陵川縣奪火鎮東南方で戦死した
那須甲子治郎 陸軍少尉(戦死後、中尉)の戦死にいたる戦
況を部隊長が記載したものです。
ここに部隊名の記載があり、北支派遣東第二九二一部隊とあります。
該当するのは、西部ニューギニア(ソロン)で敗戦を迎えた千葉県佐倉
編成の歩兵第二百二十一連隊と思われます。この部隊は、南方派
軍に編入されニューギニアへ行く前は、北支方面軍隷下で河南省開封
地区警備にあたっています。以下の地図のように河南省と山西省は繋
がって接しています。


第七師団隷下旭川の歩兵第二十七連隊に入営しています。
北海道の方だったようです。仙台の教導学校の卒業証書で
す。昭和三年、陸軍上等兵 菊池甲子治郎とありますので、
養子縁組等で姓が那須に変ったものと思われます。

教導学校を卒業後に伍長、その翌年の四年の冬に軍曹へと
着実に出世街道を登っていきます。
陸軍曹長を経て昭和十二年、遂に准士官の准尉にまで
昇進しています。戦時でなければ兵から叩き上げでも僅
か十年余りでここまで出世は、しないでしょう。最早、泥
沼の日中戦争で下級士官の補充が士官学校だけでは、
到底間に合わずあらゆる手段をこうじて下級将校の育成
を図っていた時代が見て取れます。




下のは、昭和42年の佐藤栄作総理の時代に戦死後、
勲五等に叙せられた勲記です。


昭和9年の曹長まで菊池姓である事が判ります。15年の准尉、
そして戦死した18年の中尉(戦死後)。この方の15〜18年の
軍歴がここで終わっています。







陸軍 熊本病院の赤十字旗(未使用)




陸軍熊本病院に勤務された衛生部の軍医殿
がアルバムと共に所持していた赤十字旗です。
綿製で赤十字は、白布の切り抜きに赤布縫付。


この旗を所持されていました
陸軍熊本病院軍医殿です。









韓国併合記念章の授与証書




珍しい韓国併合記念章の授与証書です。
大正時代に特務曹長(後の准尉)をされた
方のものです。上の記念章は、別物です。







旧松代大本営予定地の
    天皇陛下御座所の天井板




入手先は、さる高名な軍事研究家の方です。この松代大本営の天皇陛下
御座所の天井板です。この板は、現地入手といっても、現在地震観測所(
気象庁精密地震観測室・松代地震センター)から外してきたものではあり
ません。20年近く前に松代大本営象山公開施設近くで、私設の展示館を
されている館長に複数所蔵がありましたので幾度か通って交渉し、展示で
きる軍装品類と交換して譲り受けたものとの事でした。この板は、御座所
設営の兵士が民宿していて、敗戦直後引き上げる際、お礼として民家の
方に渡した「ものだそうです。秋田杉の砂磨き加工板です。この板には、
表面を削った跡もあり、規格外品だったものと思われます。巾39cm、長さ
97cm、厚さ6mm。板にヒビが入っています。長野県の松代と言えばは、
硫黄島の司令官栗林大将の出身地でもあります。


松代象山地下壕の鳥瞰図と案内図

ある意味で珍品であり今では
中々、手に入れる事が出来無
い品であると思います。
象山地下壕の入口…元々は、裏口に
あたるそうで、地下壕の規模に比べ小
さいのは、その為だそうです。







明治陸軍初期に使われたヤタガン式銃剣




エンフィールド銃の銃剣です。その特徴的な
曲がり方からトルコ式(ヤタガン式)と言われ
ています。
法令に則り切断されています。
菊の御紋が刻印されています。明治4年に当時、造兵廠に
当たる武庫司が、帝国陸軍の兵器を選別し、その確認とし
て菊の御紋を打ちました。銃剣、小銃、火縄式大砲に至る
まで刻印しました。このヤタガンも画像でご確認できる通り
刃へ刻印されています。後に村田十三年式から二十二年
式までは、銃剣の鍔に刻印されるようになりました。歩兵
小銃は、村田十三年式から二十二年式はこれと同様の菊
の御紋を刻印。三十年式からは、五分の御紋となります。
三八式歩兵銃の菊の御紋は、勅令で制定されず、慣習的
に刻印されたものだそうです









〜明治陸軍 村田小銃時代の装備品〜



村田(十三・十八年式)小銃 弾薬盒




蓋の裏に”武○”の刻印があり明治期の武庫司の事を
指しています。即ち国産初の制式小銃となった村田十
三年式小銃の時代に作られた弾薬盒です。この村田
十三・十八年式式の弾薬盒の場合は、前盒・後盒の区
別はありませんでした。
特徴的な内部の毛も完全に残ってます。











村田二十二年式小銃  騎兵用弾薬盒・後盒




二十二年式村田銃の実物騎兵用弾薬盒または、
後盒です。通常、騎兵では、拳銃の斜革の様にこ
の弾薬盒を吊るし右前に一つ付けておりました。
またそれ以上の弾薬は鞍嚢の中に仕舞いました。
これは油缶を装着するループが1箇所切れています。
中のカートリッジは、ある有名なカートリッジコレクタ
ーの方の手作り品との事で入手しました。


すでに百年を経過した明治陸軍の品です。







村田二十二年式小銃 弾薬盒(前盒)




二十二年式小銃の前盒です。


片方の留め皮が切れて欠です。
蓋裏に”立”、 ”19890”、”cc”と読める
見える刻印があります。







陸軍(村田)十三年式剣差




村田十三年式銃剣や十八年式銃剣、
二十二年式にも使用した剣差です。
留皮ベルトに切れがありますが
保存状態が良い方だと思います。







村田小銃用の負革




まあ良く残存している物です。サイズは、バックルの中央
から端までが102cm。幅3.6cm。バックルは、鉄製で49
mmX37mm。鼓釦は、欠です。キズ、ヒビありますが、まだ
まだ皮がしなやかで生きています。









日露戦争の英雄・軍神 橘中佐の
       所持していた電報頼信紙




軍神 橘中佐だからこそ現在まで残された品だと
思います。明治37年8月31日に首山堡の攻撃で
戦死されています。1904年の事です。当時の品
ですから少なくとも106年前の品だという事です。
百年が経過してもまだ”歩兵少佐 橘周太”
の印が読めます。



          ◆ 橘 周太 陸軍中佐 ◆

慶応元年9月15日生
長崎県出身

明治20年陸軍士官学校卒業(旧9期)。歩兵第5連隊附、
近衛歩兵第4連隊附を経て明治24年東宮武官、明治28
年に近衛歩兵第4連隊中隊長、明治29年 台湾守備歩兵
第2連隊中隊長、 歩兵第36連隊中隊長から明治30年に
陸軍戸山学校教官兼教育大隊中隊長、明治35年に名古
屋陸軍地方幼年学校長、日露戦争が勃発し明治37年に
第2軍管理部長を経て同年8月11日、歩兵第34連隊第1
大隊長。同年8月30日 遼陽の戦い・首山堡攻撃に参加し
翌8月31日 戦死(享年39歳)し、同日付で陸軍歩兵中佐
に進級し勲四等旭日小綬章及功四級金鵄勲章を賜った。

海軍の広瀬武夫中佐と並ぶ軍神として著名になる。





         橘中佐 内田栄一

(You tube の軍歌で”軍神・橘中佐です。)



再生の時には一番上にあるMIDIの音源を止めてから
動画を再生しお楽しみください。以下は有名な”橘中佐
”の歌詞です。

         橘中佐

  作詞:鍵谷 徳三郎
  作曲:安田 俊高

(上)

一、
遼陽城頭夜は闌(た)けて
有明月(ありあけづき)の影すごく
霧立ちこむる高梁の
中なる塹壕声絶えて
目醒め勝ちなる敵兵の
胆驚かす秋の風

二、
わが精鋭の三軍を
邀撃せんと健気にも
思い定めて敵将が
集めし兵は二十万
防禦至らぬ隅もなく
決戦すとぞ聞えたる

三、
時は八月末つ方
わが籌略は定まりて
総攻撃の命下り
三軍の意気天を衝く
敗残の将いかでかは
正義に敵する勇あらん

四、
「敵の陣地の中堅ぞ
まず首山堡を乗っ取れ」と
三十日の夜深く
前進命令忽ちに
下る三十四聯隊
橘大隊一線に

五、
漲る水を千仭の
谷に決する勢か
巌を砕く狂瀾の
躍るに似たる大隊は
彩雲たなびく明の空
敵塁近く攻め寄せぬ

六、
斯くと覚りし敵塁の
射注ぐ弾の烈しくて
先鋒数多(あまた)斃るれば
隊長怒髮天を衝き
「予備隊続け」と太刀を振り
獅子奮迅と馳せ登る

七、
剣戟摩して鉄火散り
敵の一線まず敗る
隊長咆吼躍進し
卒先塹壕飛び越えて
閃電敵に切り込めば
続く決死の数百名

八、
敵頑強に防ぎしも
遂に堡塁(とりで)を奪いとり
万歳声裡日の御旗
朝日に高くひるがえし
刃を拭う暇もなく
彼れ逆襲の鬨の声

九、
十字の砲火雨のごと
よるべき地物更になき
この山上に篠つけば
一瞬変転ああ悲惨
伏屍累々山を被い
鮮血漾々(ようよう)壕に満つ

十、
折しも喉を打ちぬかれ
倒れし少尉川村を
隊長躬ら提(ひっさ)げて
壕の小蔭に繃帯し
再び向う修羅の道
ああ神なるか鬼なるか

十一、
名刀関の兼光が
鍔を砕きて弾丸は
腕をけずりさらにまた
つづいて打ちこむ四つの弾
血煙さっと上れども
隊長さらに驚かず

十二、
厳然として立ちどまり
なおわが兵を励まして
「雌雄を決する時なるぞ
この地を敵に奪わるな
とくうち払へこの敵」と
天にも響く下知の声

十三、
衆をたのめる敵兵も
雄たけび狂うわが兵に
つきいりかねて色動き
浮足立てし一刹那
爆然敵の砲弾は
裂けぬ頭上に雷のごと

十四、
辺りの兵にあびせつつ
弾はあられとたばしれば
打ち倒されし隊長は
「無礼ぞ奴(うぬ)」と力こめ
立たんとすれど口惜しや
腰は破片に砕かれぬ

十五、
「隊長傷は浅からず
暫しここに」と軍曹の
壕に運びていたわるを
「否みよ内田浅きぞ」と
戎衣(じゅうい)をぬげば紅の
血潮淋漓迸(ほとばし)る

十六、
中佐はさらに驚かで
「隊長われはここにあり
受けたる傷は深からず
日本男子の名を思い
命の限り防げよ」と
部下を励ます声高し

十七、
寄せては返しまた寄する
敵の新手を幾度か
打ち返ししもいかにせん
味方の残兵少きに
中佐はさらに命ずらく
「軍曹銃をとって立て」

十八、
軍曹やがて立ちもどり
「辛くも敵は払えども
防ぎ守らん兵なくて
この地を占めん事難し
後援きたるそれまで」と
中佐を負いて下りけり

十九、
屍ふみ分け壕をとび
刀を杖に岩をこえ
ようやく下る折も折
虚空を摩して一弾は
またも中佐の背をぬきて
内田の胸を破りけり




今も橘中佐の郷里である長崎県の島原半島の
雲仙市には中佐を祀った橘神社があり立派な
銅像もあります。詳しくは以下をクリックすると
九州北部の遺構のページが開きます。

              ↓








本庄 陸軍大将(男爵・侍従長)の書を元に地元関係者に
配られた木製看板です。











戦時資料:大政翼賛会の名刺各種です。
















ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士