旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTu















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








昭和の軍神★大東亜戦争の軍神

   加藤 建夫 陸軍少将(中佐)の品々




北海道の生んだスーパースターです。特に撃墜王と言えば
陸軍がこちらの軍神★加藤 建夫 陸軍少将で、海軍では
”零戦虎徹”で知られ恐らく日本一の撃墜王である 岩本
徹三 海軍中尉が我郷土・北海道(樺太生まれ札幌育ち)
が有名です。この色紙は時の総理大臣兼陸軍大臣であっ
た東條 英機 陸軍大将が加藤閣下の英霊に供すべく遺族
に贈ったものと思われます。
極天護皇基は、東條大将が好んで使われた言葉
で”天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し
上げよう。”意味があります。
絶世期にあった時の東條首相の直筆署名に花押
があり”供 加藤少将之英霊”と記載されています。
加藤閣下の御自宅の仏前に供えられてだけでなく
事実上、国葬の趣が強かった昭和17年9月22日に
東京築地本願寺で行われた葬儀でも供えられてい
た可能性も高いと思います。



昭和17年9月22日、東京築地本願寺にて時の首相
東條大将をはじめ閣僚、陸海将星多数が参列し帝
國陸軍の先例にない盛儀を持って昭和の大英雄の
葬儀が行われました。これは初の陸軍葬でありまし
たが北原白秋、吉川英治、武者小路実篤といった著
名な作家達までもが、その死を讃え…まるで国葬の
感があったようです。





北海道のスーパースターといえば旭川出身の
加藤隼戦闘隊で有名な軍神 加藤少将です。
昭和19年には映画化され、有名な隊歌と共に
全国民的な英雄となった方です。近代の大東
亜戦争が大空で雌雄を決した空軍力による戦
争の特徴がありましたが、まさに戦闘機乗りで
あるパイロットの伝説的英雄です。右上は従
軍画家の橋本八百二氏の描いた油彩の加藤
中佐の肖像画です。
               
                (略歴)

        ◆加藤建夫 陸軍少将(功二級)◆

         航空科 北海道・旭川出身。

       明治36年9月26日〜昭和17年5月22日

  大正14年 陸士37期卒
  昭和 2年 所沢飛行学校卒
  昭和 6年 明野飛行学校教官
  昭和10年 飛行第五連隊中隊長
  昭和11年 飛行第二大隊中隊長(日華事変で活躍す)
  昭和13年 陸軍大学専科学生(6月)
         任陸軍少佐(7月)
  昭和14年 陸大専科卒業(3月)
         陸軍航空本部員(3月)
         欧米出張(7〜11月)
  昭和16年 飛行第六四戦隊長(四代目隊長)(4月)
  昭和17年 任陸軍中佐(2月)
         戦死(5月22日)後、二階級特進 陸軍少将

…一式戦”隼”による加藤隼戦闘隊を指揮し、マレー半島、
ジャワ、ビルマ方面で英空軍、中国空軍及び米ホラノートと
戦い著しい戦果を挙げる。緒戦の南方制圧作戦に強く貢献
しました。 昭和17年5月22日、ベンガル湾上空でブリストル
・ブレニム爆撃機を邀撃し撃墜するもブレニムの後部銃座か
らの銃撃により機体損傷を来たし自力での基地並びに味方
圏内への帰投が困難と悟り、捕虜となるよりも自決を選び自
ら海面を目指し自爆する。享年38歳の若さでした。戦死後、
二階級特進し陸軍少将。昭和の軍神として軍歌と映画と共
に非常に有名になりました。


ボロになり端が破れていますが輝感状一億と題して
軍神・加藤 建夫 閣下 敬仰 計六十八機撃墜破と
記載されています。遺族に手紙として贈られたもので
す。軍人援護強化運動の印が押されています。
加藤閣下の個人撃墜記録は18機です。68機は共同撃墜や
不確実や地上撃破などを加えた数字でないかと思われます。







加藤閣下の少佐時代の正帽です。
収納箱はかろうじて原型をとどめ生きています!


正帽と前立て自体は痛み少なく、型崩れ
少しある程度でひさしの裏側に傷みを少し
見る程度で良好なものです。




下は寺内大将等と一行に加わり訪欧した時のドイツ
での写真。上は訪欧時のパスポートの写真です。



中華民国26年12月すなわち昭和12年12月に支那人達
(三荘村民衆)から当時の加藤隊長に贈られたでかいで
かい飾り物です。”仁者之心”とあります。支那事変の勃
発時の昭和12年7月には飛行第二大隊の第二中隊長を
勤めていた加藤閣下はこの頃から支那軍相手に撃墜ス
コアーを伸ばし後に新鋭機・一式戦「隼」を装備した飛行
第六四戦隊で昭和16年12月勇躍、山下奉文中将の第
25軍の指揮下でマレー〜仏印、タイと「エンジンの音轟々
と」の軍歌の通り…翼に日の丸を輝かせ大東亜戦争緒戦
の栄光を飾りました。その出発点となった支那での品で
す。大きさ:232cm×97cmで壁掛けにして飾るのだと思
います。


昭和12年10月26日、飛行第二大隊第二中隊長として
支那事変で空戦デビューを果たし翌年4月には陸軍航
空部隊として初の部隊感状を加藤中隊が受けています
。加藤閣下を人柄を語る初期のエピソードに昭和13年
2月の花環の投下の話が有名です。1月に戦死した部
下の川井 陸軍曹長と敵国民党軍の戦死した数多のパ
イロットの霊を弔う為、自軍パイロットの物と敵パイロッ
ト達の物、二つの花環を用意し戦場空域の空中から投
下し慰霊をされています。こうした閣下の人柄が支那の
民にも伝わった結果、こうした贈り物に繋がったのかも
しれません。




隼に変わる前まで九五式、九七式戦闘機に書かれて
いた飛行第64戦隊の撃墜マークです!


支那事変勃発で閣下は実戦デビューします。以来、支那国民党軍
パイロットを相手に撃墜記録を伸ばしていかれました。この頃はま
だ機体にも撃墜マークを入れています。




こちらも一緒にあった軍帽です。



大東亜戦争に突入し隼を主軸とした飛行第64戦隊長
になってからは”個人戦果は部隊運用の妨げになる”
として自身も部下の撃墜マークを機体に描く事を許さ
なくなりました。
イポーでの閣下。下はチェンマイ基地で閣下の愛機を整備する整備兵


ロイウイン米軍基地を襲撃した歳に被弾した加藤隊長機の主翼。
上左は、右主翼下面。右上は、右主翼上面。
ジャワのカリジャージ基地にて
昭和17年5月22日、戦死された日の出撃前に撮影された閣下の最後の写真
になります(アキブヤ北飛行場)。右に写るは中隊長の大谷大尉。
ミンガラドン飛行場で加藤閣下他の遺品や遺骨を載せて帰国
せんとする輸送機(ミンガラドン飛行場)。下は閣下の遺品。



(動画の再生を行う時は、ページ一番上のMIDI
 のコントロール部分で曲をストップさせてから
 再生しお楽しみ下さい。)



加藤隼戦斗隊歌(飛行第六十四戦隊歌)


一、
  エンジンの音轟々と
  隼は征く雲の果て
  翼に輝く日の丸と
  胸に描きし赤鷲の
  印は我等が戦闘機

二、
  寒風酷暑ものかわと
  艱難辛苦打ち耐えて
  整備に当たる強兵が
  しっかりやって来てくれと
  愛機に祈る親ごころ

三、
  過ぎし幾多の空中戦
  銃弾唸るその中で
  必ず勝つとの信念と
  死なば共にと団結の
  心で握る操縦桿

四、
  干戈交ゆる幾星霜
  七度重なる感状の
  勲の影に涙あり
  ああ今は亡き武士の
  笑って散ったその心

五、
  世界に誇る荒鷲の
  翼伸ばせし幾千里
  輝く伝統受け継ぎて
  新たに興す大亜細亜
  我等は皇軍戦闘隊


作詞:飛行第64戦隊所属 
        田中林平准尉

作曲:南支派遣軍楽隊所属 
        原田喜一軍曹
        岡野正幸軍曹
        (4番の旋律のみ



これ等上下の品は同時期に売りに出された加藤閣下の品です。
上は開戦以来の活躍に加藤中佐に出された感状です。下は名刺
に開襟シャツ、階級章、サングラスです。いずれも非常に高額な値
段で取引されていました。加藤閣下は、生前から「空の軍神」と称
される程の人気の撃墜王で、国民的な英雄として絶大な人気を博
しておりました。その人気は、「加藤の前に加藤なく、加藤の後に
加藤なし」とまで言われる程でした。…上の感状の中でも「…ソノ
武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル
操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タ
リ…」と称えています。飛行第六十四戦隊には、加藤閣下よりも20
歳近く年下の、少年のような若者達が多く配属されており閣下は、
彼等を我が子のように慈しみ、それだけに、部下の中に戦死者が
出ると号泣し、兵舎の外に立って大空を見つめ帰らぬ部下をいつま
でも待ち続けていたと言われています。閣下は、強い責任感とその
温かな人柄により、周囲の多くの人々から慕われていました。その
一方で、閣下は…軍人としても著しい戦果をあげ、マレー、スマトラ
、ジャワ戦線で飛行第六十四戦隊は、獅子奮迅の活躍をし…その
活躍ぶりは連日、新聞やラジオで報じられ、中でも隊長である閣下
は、英雄として人々から絶賛されました。

閣下個人の撃墜数は決して突出した数ではありませんでしたが、そ
れは戦隊長として個人の撃墜数には拘らなかったためで、事実…
閣下は、部下達に個人撃墜数を競う事を禁じていました。華やかな
空中戦に熱中するのではなく、空を抑えて爆撃機や陸上部隊の進
行を容易にするという戦闘機隊本来の役割に徹したと謂われており
ます。それでも、戦隊全体の戦果としては、閣下の戦死までに約150
機の敵機を撃墜しており、名だたる戦闘機隊として、やはり比類なき
能力を示しておりました。

開襟シャツの下はお父上が使われた遺品の屯田兵手帳です。
中身は加藤中佐が普通に走り書きなどされています。唯一、
これが北海道人である事を伺わせる品でした。尚、加藤閣下の
お父上は日露戦争で陸軍軍曹として従軍し奉天会戦で名誉の
戦死を遂げられ金鵄勲章を授与され陸軍曹長に昇進しました。
まあよくもこうした品物が出回るものだと驚きを覚えましたが
加藤閣下の長男であった加藤正昭氏(東大教養学部教授
で東大名誉教授)は平成17年に8月に享年72歳で亡くなら
れております。それから4年、喪主だった奥様もご他界され
た可能性が高いと思われます。御子息の故 正昭 東大名誉
教授は加藤閣下の眠る多磨霊園のお墓に一緒に眠られて
おります。伝え聞く所によりますと戦時中は軍神の家族であ
りましたが、戦後は随分とその事で迫害を受けられたようで
す。軍神である加藤閣下と田鶴夫人の間には3人のお子様
がおいででした。戦後、立派に3人の遺児をお育てになられ
ましたが、戦後の世間様は軍神の遺族に冷たく、生活をする
のに大変な苦労をされ夫人は保険の勧誘員をして何とか育
てあげたと聞き及んでおります。三男の雄三氏はオランダ
日産副社長だった昭和62年にまだ43歳の若さで急逝。次男
の進英氏は日本航空で活躍されていたようですが…こちら
の方も亡くなられたものと想像します。




教官手簿です。閣下が明野飛行学校の教官時代に
使われたものと思います。昭和6年〜10年の間です。
若き青年将校の加藤閣下が28歳〜の頃の
手書きされた内容が手簿に残っております。
当時の日本は多くのアジア系の外国人を受け入れておりました。
多くが朝鮮、支那、タイ、インドネシアなどでした。明野飛行学校
で加藤主任教官が担当した11名の留学生(中国や満洲の軍閥
から派遣された中国人留学生)は部下思いの加藤教官に触れ、
休日も加藤家を訪れ田鶴夫人の手厚いもてなしを受けました。
戦後も夫人は彼等、留学生から贈られた刺繍や写真を大切にし
ていたと謂われています。




陸大の受験に関して書き込みが見えます。閣下が陸大に
専科学生として入学されたのは昭和13年の6月となります。



閣下の最期に関しては有名なので御存知の方が殆どだと思いますが、軽く触れておきます。
運命の昭和17年5月22日、ビルマのアキャブ飛行場のすぐ近くに英軍のブレンハイム中型爆
撃機一機が進入して来た為、同飛行場で出撃準備を整えていた閣下は、部下4名と共に直ち
に離陸、閣下の機も含め5機の”隼”で敵機を追撃しました。しかし、敵機の後方銃座からの
射線により2機が被弾した為、追撃途中で基地に引き返し、残り3機で海面スレスレを飛び逃
げる敵機を追撃しました。閣下は、敵機の後上方から捨て身の肉薄攻撃をかけ、その内の一
連射で敵機の翼とエンジンが火に包まれ撃墜しました。その直後、閣下の機は翼を翻して敵
機から離脱、200mほど上空に上がった所で、閣下の機の右翼から突然、火炎を噴出しました
。閣下の機も敵機に同時に撃たれておりました。すぐに翼全体までが炎に包まれました。その
直後、閣下は、同行の部下2人に挨拶するように機を一回転させた後、海面を目指して突入し
自爆されました。…時は、午後2時30分…実に壮烈な戦死だったと伝えられております。

その閣下の壮烈な戦死の模様は、被弾で引き返した安田 義人 准尉(当時、曹長)は、著書
の「ビルマ隼戦記」の中で次のように記載されております。

”…同行の近藤、伊藤両曹長は息を呑んで見つめていた。部隊長(加藤中佐)がちらりと後ろ
を振り向いたようだった。二人は部隊長の意図がすぐ分かった。二百メートルの高度で、中佐
機はいきなりくるりと反転した。機首が下になった。そのまま真逆様の姿勢で海中に突っ込ん
だ。水柱が立った。あっという間の出来事だった…。低空の反転操作自爆は、部隊長が我々
に日常よく話していた事だった…。”















後日、別に入手した恩賜の煙草の空箱に右手のみ
の手袋が入っていたものと名刺一枚です。共に一連
の加藤閣下の遺品を手に入れた東京・西荻の古物
屋が切り売りして出した品です。










九二式測距機(日本光學工業株式會社)




日本光學工業株式會社の制作した光学兵器…九二式測距儀です。
日本光學工業株式會社とは現在、日本の下町・板橋が生んだ世界
的カメラメーカーのニコンです。戦前までは陸海軍の光學兵器を生産
した軍需産業でもありました。
革製の収容嚢のタイプもありますが、大戦後期の昭和19年製造のこの品は
戦場の経験がフィードバックされたように厳しい戦場の気候に合わせてより
防水性や強靭性を補強されたた収容嚢になっています。






昭和19年9月製造のシリアルNo.3558です。
ダイヤルを回して視界中央部の二重映像が合致する所が距離を示す仕組み
になっています。対応距離は30〜1500mです。一般に日本陸軍の歩兵支援
火器である歩兵砲などはステレオタイプの小型測距儀を使う事は旧軍の写真
でよく見られます。これはその使用範囲よりかなり狭い近接戦用の測距儀だ
と思われます。市街戦や近接戦の擲弾筒や迫撃砲などに使用したのかも知れ
ないと想像します。


レンズ内部に埃などありますが、しっかりと生きています。製作されて
66年…どのような経緯で生き残ったのか想像も出来ませんが…さす
がは世界のニコン製品であると感服します。














九二式野戦用有線電話機(昭和8年)
  以前に使用された野戦用有線電話機
   (大正十年沖電気製・東京砲兵工廠製)




コンパクトで軽い九二式電話機に比べ一回り大きく重い印象が
強い電話機です。また九二式が電話機本体に受話・送話器を
収納できたのに対してこれは収納できないタイプで嵩張ります。








受話器と送話器部分は東京砲兵工廠製(大正四年、No.21124)


電話機本体は沖電気株式会社の大正十年
製でシリアルNo.5136です。










陸軍 九四式五号無線機(送信機)




陸軍で最も小型で多用された九四式五号無線機(送信機)
です。残念ながら収納ケースが無い為、前のオーナーが自
作しています。中身はオリジナルのままのようです。













あの横井 庄一 元陸軍軍曹(伍長)
            の作られた花入れ




昭和47年1月24日にグアム島で発見され2月2日に
帰国した横井 庄一 元軍曹の焼かれた花入れの壷
です。『恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りま
した』の言葉が衝撃だった横井さんは平成9年9月
22日に心臓発作で永眠されました。(享年82歳)


焼き物の良し悪しの判らない素人の私が見てですが
中々味わいのある作品のように感じます。非常に器
用な方だったようです。




有名な横井ケープです。


         ↑
上のリンク画像をクリックすると
”横井庄一記念館公式HP”に
ジャンプします。
奥様が名古屋の御自宅を改造され記念館とされています。








珍しい元憲兵軍曹で皇宮警察官に転じ
 皇宮警部に昇進しリタイアされた方の勲記・位記等。







大正11年まで憲兵軍曹であった方です。
昭和3年には皇宮警察官に転じています。




余り軍歴は階級に反映されていないようです。警部は軍曹と相当待遇です。
皇宮警官の巡査から昭和18年に退職するまで15年あります。階級は憲兵時
代と同様に警部(軍曹)です。海軍のコーナーでも紹介しましたが陸軍曹長で
辞職され予備役になった方が海軍警査になり平からスタートし敗戦時にやっ
と准士官の兵曹長になっています。前職の階級相当には中々、平行移動は
難しいようです。おなじ公務員なのに不思議なものです。








レイテ島で敗戦間際の昭和20年7月に
 戦死したある陸軍軍曹の所持していた日の丸。




満州国海軍司令官を勤められた津田 海軍中将が
武運長久と今本 久一郎 氏に為書きし贈った日の
丸です。左の方に島田 剛太郎 という方が為書き
をされています。津田閣下と今本氏の関係は不明
です。

      ◆ 深田 静枝 海軍中将(略歴) ◆

明治16年4月1日-に福井県福井市生
海兵31期

明治37年1月、戦艦”初瀬”乗組みを皮切りに艦隊勤務
を主に海軍少将まで行う。昭和5年5月21日に第二遣外
艦隊司令官、昭和8年4月20日に旅順要港部司令官、
同年9月1日、海軍省軍令部第三班長、10月1日に 海軍
軍令部第三部長、昭和9年11月15日-に任 海軍中将、
駐満州国海軍部司令官、昭和10年11月15日に海軍軍
令部出仕、昭和11年3月28日 待命 、同年3月30日に
予備役編入、昭和13年2月10日 海軍省事務嘱託、昭和
14年3月10日 興亜院華中連絡部長官、昭和16年5月7
日-に辞任、昭和39年9月13日 死去 (享年81歳)

日の丸の所持者だった今本 久一郎 氏は昭和20年
7月にレイテ島で戦死されています。部隊はこの野戦
高射砲第76大隊で階級は軍曹でした。香合と戦友会
の名簿と遺品となる日章旗が遺族も亡くなり業者に引
き取られ売りに出されたようです。








兵・下士官用の週番腕章




将校用の週番士官懸章はよく見掛けますが兵下士官用の
週番腕章は余りで無いので珍しいと思います。
腕章だけでなく安全ピンも当時のオリジナルです。
上の伍長さんは誇らしげに下の一種作業衣に週番腕章の曹長さんは優しそうに微笑んでます。








未使用デットストックの営内靴




未使用で昭和十七年の検定印がある営内靴です。
サイズは26cm。底に鋲があるのでこれで制裁を
加えられるとかなりきつかったでしょうね。


ちぐはぐに見えるのは主に牛革が使用されていますが
革の裁断屑を集めて作ったらしく牛と豚の革が混ざっ
ている為でしょう。








昭和16年5月22日 文部省 
御親閲拝受章 とあります。
文部省からの推薦や表彰や叙勲など
功績があった方が皇居宮殿に招かれ
亡き昭和天皇に拝謁を許された方が
佩用したと思われます。












野戦予備病院の軍医見習
士官の認識票です。




木製の粗末な門鑑はよく見ますが
現代風で金属の立派な門鑑は珍し
いです。













興亜馬事大会参加章




帝國軍用犬協会 特良賞メダル













O.S.Kの高砂丸の就航記念の品です。
















ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!