旧軍関連収載品
(軍装...etc)PartTv















Imperial Japanese Army
  (大日本帝國陸軍)




陸軍関連








ノモンハン戦から大東亜戦争を
     生き抜いた陸軍の撃墜王
          長谷川 智在 大尉の品々




中尉時代で九八式軍衣袴に軍刀を手に略帽
を被り写真に写る長谷川大尉です。遺された
生写真より掲載です。
特務曹長(准尉)時代の長谷川大尉です。

命あり少尉=井野智在少尉…と呼ばれた多数のエピソード
持たれる歴戦の撃墜王です。明治40年に岐阜市に生まれ
後に井野家から長谷川家の養子となり改姓しています。
大正14年に現役兵として飛行第一連隊に入営。昭和6年4月
に第36期操縦学生を卒業。昭和9年10月に飛行第十一大隊
に転じたハルピンで錬成にあたり、昭和12年2月航空兵准尉
に昇進。昭和13年12月に少尉昇進とともに予備役編入即日
再召集となっています。初陣となる昭和14年5月のノモンハ
ン事件ではすでに32歳の老雄でありましたが第一中隊で満
蒙国境に出撃し9月15日の停戦まで約4ヶ月でソ連機を19機
を撃墜した撃墜王でした。持ち前の明るさユーモアに富んだ少
尉は”命あり少尉=井野智在少尉”と呼ばれ部隊の和合の
象徴的な存在として常に中隊の中心におられました。

長谷川大尉の有名なエピソードして一つは、昭和14年5月
28日の対ソ連の空戦で同じ部隊の光富中尉機が被弾し落
下傘降下するや敵中の草原に着陸し中尉を救出するという離
れ技を披露しノモンハン空中戦の数多い救出美談の第一号
を飾りました。また別のエピソードでは列機二機を率いて偵察
飛行中に…敵、イ-16の大編隊30機に遭遇し、数を頼み追撃
してくる敵を横目に急遽退避をきめて急旋回操作を行い追随
する敵機2機を一発も射撃せず接触墜落させたり。ある時は、
帰航中のイ-16の編隊20機を見つけて単機で編隊の最後尾
に忍び寄り瞬時に射撃を浴びせて2機を撃墜し逃走したなど
有名なエピソードを持つ方でした。

大東亜戦争では中尉に昇進し飛行第十一戦隊本部の情報主
任としてマレー、ビルマを転戦します。昭和17年12月、ラバウ
ルに進出、同年12月31日のラエ沖空戦では指揮官機(宮林
大尉)の僚機として出撃しP-38の射線で被弾しガスマタに不
時着するも数日後に帰還する抜群の運の強さを見せます。昭
和18年7月、第四航空軍司令部に転属、その後、航空輸送部
に転じて陸軍大尉(39歳)で敗戦を迎えます。大戦中に敵機3
機を撃墜させ総撃墜数は22機を記録されています。

飛行第一連隊の航空軍曹時代の長谷川大尉です。
当時はまだ旧姓の井野が苗字でした。


長谷川大尉が着用された九八式軍衣袴です。
軍服類と略帽は長谷川大尉と同郷の岐阜県に住む
高名な軍装研究家のコレクターの方が仕入れて出
た品です。カメラやアルバム、航空手簿、写真類や
紙物の遺品となる資料はまた別の所より入手して
います。
短袴は尻の壊れやすい部分を修繕しながら使用しています。
比較的に状態の良い九八式軍衣です。


長谷川大尉の略帽です。写真で被られている物と全く同じものです。
内部は使い込まれている感がありますが外部は
非常に状態良く美しい略帽です。






長谷川大尉の冬用マントです。頭巾と毛皮の襟も
非常に保存状態が良い品です。大尉が亡くなられ
るまで非常に大切にしていた事が良く判ります。






 
ありし日の長谷川大尉の飛行服姿です。左上はノモンハン事件の
時の写真です。右上は昭和15年に武昌にての写真(当時34歳)。
加藤部隊 空中射撃競技会優勝カップです。
昭和12年11月20日に加藤中隊で行われた大会で
二位となり加藤部隊長よりいただいた記念カップです。
銀製で大きさは総高16cm 幅13.2cm 台2.7cm





航空手簿 昭和六年から昭和十二年までとそれ以降の二冊です。






非常にまめで几帳面な方です。日記や写真帳を見ても同じです。
















長谷川大尉の愛用したカメラと収容嚢です。
飛行第一連隊第三中隊写真助教
陸軍航空兵曹長 井野智在 所有
の記載が収納嚢の裏にあります。
名機エルネマンERNEMANNジャバラ式カメラ(ドイツ製)です。
ヘーグシリーズです。これは社名のイニシャルから
命名された乾板を使うフォールディングカメラです。
シリーズ0からシリーズ16まで存在したことが知られ
ています。ヘーグII(Heag II ) - 蛇腹が2段伸ばし
になっています(Ser.1)。
エネルマン社は後のコンタックスカメラの祖先の1社です。

戦後も大切にされていたのでしょう。とても
70年以上前のカメラには見えません。





同型のエルネマンERNEMANNです。



長谷川大尉が撮影されたと思われる生写真です。


































上は北海道における耐寒飛行演習の模様です。

以下は、長谷川大尉が撮影したと思われる掲載した生写真をスキャナーで
拡大してみた物です。乙式一型偵察機 259の記載が読めます。













有名な献納機を贈った民間の組合から搭乗員の
長谷川少尉(当時)に手紙とともにアルバムや組
合の記念本とともに贈られています。

九七式戦闘機を献納した東京鋳物組合の組合長と組合幹部です。

立川飛行場で行われた献納機命名式には陸軍大臣も出席しています。

小さくて判別できませんが、この中に長谷川少尉がおられます。







長谷川大尉が兵から下士官時代を過ごした
飛行第一連隊と第36期操縦学生として所沢
でパイロットとしてデビューした頃のアルバム
です。まさに日本陸軍航空隊の黎明期から
揺籃期そして滅亡までの絶頂期を軍歴約20
年、飛行歴14年の大尉が身を持って戦い生
き伸び体験したと言えるでしょう。

飛行第一連隊の軍旗祭で一般客が見学に訪れています。
まだまだのどかで平和な時代です。
大きな格納庫が全て木製で作られているのが判ります。


左上は飛行連隊の連隊長以下の主だった方々です。






所沢を卒業後は満洲へ飛んでいます。










当時、陸軍機が搭載し投下した
各種の爆弾です。下はまだコン
クリで舗装された滑走路で無い
時代ですので離着陸時の脚の
破損による事故は多かったよう
です。







戦闘機搭乗員として長らく飛行訓練が
日課でノモンハン戦まで実戦を踏んで
いない時代の各地の勤務の想い出を
記した日記のような紀行文のようなも
のです。非常に外見から外見からは
想像が付かないほどナイーブで創造性
に溢れた人である事が判ります。
大連にて…。






今も昔も日本人は変わりませんね。






ハイラルにて…。






















黒河省にて…。








東部国境、八面通にて…。




新京にて…。





延吉に至るまで…。










満洲里にて…。
ロシア娘と特務曹長(准尉)時代の長谷川大尉の写真があります。

非常に人間味に溢れております。実戦の無い航空
兵だからだと思いますが…常に戦場にある歩兵な
ど一般兵科のアルバムや手記と一線を画して娑婆
っ気がたっぷりで微笑ましいです。ある意味で特権
階級のような特別なイメージを持ちます。






スタンプ帖の1〜38の最後は戦後の昭和56年7月8日です。






航空写真の助教を勤めておりましたので
その時の資料と思われます。




長谷川大尉の所持品のひとつです。






戦前のノモンハン関連の記載のあるもの。





戦後の戦友会関係の名簿などです。










マレーのケダー・ペリス州知事を務めた
  助川 静二 予備役陸軍少将の縁の品々

    (
郷土・北海道の生んだ将軍)




助川閣下は、第16師団歩兵第38連隊 連隊長(当時、大佐)として
昭和12年の上海攻略戦に参加し、その後北上して同年12月14日に
南京に入城しました。南京陥落が12月13日でその翌日から6週間、
南京城内外で掃討戦を行っており…この事で南京大虐殺に関与した
のではと中国側に疑われた事で有名になった方です。その後に出て
きた手記や陣中日誌等にも…そのような記載は一切無く、中国側の
でっち上げである事がよくよく判ります。
助川閣下の勲記類です。

       ◆助川 静二 陸軍少将◆

            (略歴)

 功四級、陸軍少将

 北海道旭川出身、士候19、歩兵科
 (明治18年10月10日生まれ)

明治38年 7月    士官候補生

明治40年 5月31日 陸軍士官学校卒業

明治40年12月26日 任陸軍歩兵少尉

昭和10年 1月22日 台湾軍高級副官

昭和10年 3月15日 任陸軍歩兵大佐

昭和12年 3月 1日 歩兵第三十八聯隊長

昭和13年 7月15日 任陸軍少将
              留守第十六師団司令部附

昭和14年 3月 9日 待命

昭和14年 3月22日 予備役

昭和19年 8月22日 召集
               神戸聯隊区司令官

昭和20年 3月31日 釧路地区司令官

州知事(司政長官)を退く時に華僑から贈られた記念の品を
収めた木製の箱です。息子さんでしょうか記載があります。



年月日の表記が英語を使用しているのに皇紀の年月日なので非常に面白いです。
マレー・ケダ州の華僑協会から贈られた品ですが…流石に華僑は生き方が上手ですね。



筒の中には現地語で書かれた感謝の言葉でしょうか。
ペンネントのような上下に広げるものが一点と他に小
さいが漢字表記されたものが一点の計二点が収められ
ておりました。








助川閣下の略綬です。恩賜の煙草の空箱に略綬を作る綬が各種ありました。


故郷、北海道旭川で行われた第14回
騎道大会の参加章(昭和15年)です。
昭和14年3月22日に予備役に編入された助川閣下は、昭和17年日本がマレー半島から
シンガポールを占領すると
マレー軍政部長に馬奈木部隊長任命されました。マレー各連邦
および昭南島は占領後、山下奉文第25軍司令官のもとに軍政が布かれ軍政部長馬奈木
敬信部隊長が占領の機構を整え政治・経済・その他の各部門の復旧に務め戦争で破壊さ
れた必要な復興工事は着々進捗しました。そして陸軍省嘱託となってマレーに来任した以
下の方々の部署が発表されました。

昭南特別市長         大達 茂雄   内務官僚、政治家
ベナン州知事         片山 省太郎 予備役陸軍中将
ジョホール州知事       伊丹 政吉   予備役陸軍少将
ケダー・ペリス州知事    助川 静二   予備役陸軍少将
ケランタン州知事       砂川  泰    予備役陸軍少将
ペラー州知事         久保田 峻
ネグリー・スミラン州知事  八田 三郎


昭和18年10月まで州知事を務められ帰国されたようです。昭和19年8月22日に召集され
神戸聯隊区司令官を昭和20年3月31日まで務められ、続いて釧路地区司令部の地区司
令官を敗戦まで務められました。
iji 敬信 陸軍中将


助川閣下の名誉の負傷の証です。臺灣軍の高級副官から奈良の第三十八
連隊長に赴任したのが昭和12年3月1日です。その後すぐに動員下令あり
昭和12年8月24日の北支での戦闘で右大腿部に貫通銃創と右手の親指
と右の鎖骨下に擦過銃創を受けております。第十六師団及び隷下の連隊
は9月12日に塘沽に上陸。その後、天津を経て南趙扶鎮に進出。11月5日
大連に終結し中支那方面軍上海派遣軍に編入され南京攻略戦に参加して
いきます。
s

連隊長クラスの方で右大腿部の貫通銃創を受けてその銃弾を記念に
持たれている方は数少ないと思います。この翌年になる昭和13年7月
15日に陸軍少将へ昇進し、留守第十六師団司令部附になります。
この負傷の約3ヶ月後の12月13日に南京が陥落し12月14日
に南京に入城しています。翌15日より1ヵ月半の間、連隊は
南京城内外で敗残兵や便衣隊(ゲリラ)の掃討戦を行います。
その後の連隊は昭和13年2月に華北へ転進。5月になると
徐州会戦に参加します。
余談ですが…助川閣下が去られた第三十八連隊のその後
ですが昭和14年に南昌作戦に参加。昭和16年4月 に 第十
六師団から第二十九師団に所属が変更となります。昭和19
年2月10日 -、マリアナ方面への派遣が決定。2月24日に
釜山港を出港 。2月25日、宇品港に到着。 2月29日、宇品
港を出港。到着までに潜水艦による魚雷攻撃を受け約30名
の死者を出す。3月4日 、 グアム島に到着。7月21日に米軍
上陸を開始される。7月22日、末長常太郎連隊長以下の大半
が戦死。8月11日、第二十九師団長以下が自決。以後、残存
兵はジャングル内で潜伏。敗戦後28年を経て歩兵第三十八
連隊の輜重兵である横井庄一伍長が現地人に発見され昭和
47年2月2日に戦後28年目にして故国・日本の土を踏みました


上下の二枚は全然別の日に別の場所で入手した
助川閣下のものです。御遺族が亡くなられ一切合
切を古売屋に叩き売りに出され全国に散逸するよ
くあるケースです。特に少子化で最近は家を継ぐ
者が無く家系が途絶える事も多いので…あり得無
いような立派な名のある方の品が投げ売りに出さ
れる事も多いので驚かされます。
昭和9年の外国記章佩用免許証と昭和10年の
台湾総督府で嘱託を命ずるもので台湾軍の高
級副官時代のものと思われます。史跡名勝天
然記念物調査委員とありますので造詣が深か
ったか、余程お好きだったかでしょう。閣下の
御趣味の一端を垣間見る想いがします。







戦前資料 徳川宗家十六代当主 徳川家達 公爵
   (従一位勲一等大勲位)の直筆の手紙と生写真等




徳川 家達 公爵は、徳川宗家を継ぐ前は田安徳川家の第七代当主
でした。明治以降は6歳で静岡藩知事(それ以前は駿府藩主70万
石でした。)となり、廃藩置県後は東京で生活し英国へ留学。帰国後
は貴族院議員になり昭和8年には貴族院議長。またワシントン軍縮
会議の首席全権大使を務められました。また昭和4年から日本赤十
字社社長にも就任されておられ、昭和15年に逝去(享年78歳)。そ
の死後に勲一等大勲位菊花大綬章を贈られています。












敗戦時の陸軍大臣として帝國陸軍を
 自らと共に葬むり見事な割腹自決を
  された阿南 惟幾 陸軍大将の陸軍省
   兵務局長(少将)時代の一枚の挨拶状




右上の御祝栄轉は閣下の直筆と思われます。


      ◆ 阿南 惟幾 陸軍大将 ◆

            (略歴)

明治20年2月21日生、東京市出身
陸士18期、陸大30期

敗戦時の陸軍大臣。陸相・陸軍大将に上り詰めた
逸材だが、異才の多い帝国陸軍にあってはごく
平均的な軍務官僚で、陸相就任以前は目立った
エピソードも少ない。しかし誠実な人柄で人望が厚
く、様々に解釈される後述の敗戦時の言動も相まっ
て評伝が数多く著されるなど、今日でも人気の高い
軍人である。


明治33年 9月 - 広島陸軍幼年学校卒業
明治38年11月 - 陸軍士官学校卒業(18期)
明治39年 6月 - 任陸軍少尉、歩兵第1連隊附
明治41年12月 - 任陸軍中尉
明治43年11月 - 陸軍中央幼年学校生徒監
大正 5年11月 - 任陸軍大尉
大正 7年11月 - 陸軍大学校卒業(30期)
大正 8年 4月 - 参謀本部附勤務
 12月 - 参謀本部員
大正11年 2月 - 任陸軍少佐
大正12年 8月 - サガレン州派遣軍参謀
大正14年 8月 - 任陸軍中佐
大正15年 4月 - 軍令部参謀
昭和 2年 8月 - フランス出張
       12月 - 歩兵第45連隊附
昭和 3年 8月 - 歩兵第45連隊留守隊長
昭和 4年 8月 - 侍従武官
昭和 5年 8月 - 任陸軍大佐
昭和 8年 8月 - 近衛歩兵第2連隊。
昭和 9年 8月 - 東京陸軍幼年学校長
昭和10年 3月 - 任陸軍少将
昭和11年 8月 - 陸軍省兵務局長
昭和12年 3月 - 陸軍省人事局長
昭和13年 3月 - 任陸軍中将
      11月 - 第109師団長
昭和14年 9月 - 参謀本部附
      10月 - 陸軍次官
昭和16年 4月 - 第11軍司令官
昭和17年 7月 - 第2方面軍司令官
昭和18年 5月 - 任陸軍大将
昭和19年12月 - 航空総監兼軍事参議官
昭和20年 4月 7日 - 陸軍大臣
昭和20年 8月15日 - 割腹自決(享年58歳)


          <遺書>

   一死以て大罪を謝し奉る

 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾

   神州不滅を確信しつつ

 

          <辞世>

大君の 深き恵に 浴みし身は

           言ひ遺こすべき 片言もなし








昭和14年4月23日〜28日の靖国神社臨時大祭
 で昭和12年暮までに死歿された満州事変・支那事変
  の未合祀(陸軍側 1万264柱)の代表として合祀された
   佐野 憲三 陸軍大佐(山形 歩兵第132連隊)の縁の品々




佐野大佐のお写真です。中佐で戦死され
戦死後に大佐に特進と思われます。


佐野大佐が所持された大尉と中佐の正肩章。
佐野 憲三 大佐は陸士19期で原隊は山形の歩兵第三十二連隊です。
陸士の同期には今村 均 大将や河辺 正三 大将、田中 静壱 大将、
本間 雅晴 中将などが居られます。一連の品は海老名部隊佐野部隊長
として出ていた品なので、同じく歩兵第百三十二連隊(連隊長 海老名
栄一 大佐)の所属である事が判ります。同連隊は昭和12年8月30日に
上部組織の新設の歩兵第百八師団と共に設立されました。後に百八師
団が昭和15年に廃止されると歩兵第五十七師団の隷下に入ります。設
立当時は、第百八師団第二十五旅団(旅団長 中野 直三 少将)に隷属
しました。この百八師団は昭和12年8月24日に特設し団として、留守第
八師団の担当で新設、第一軍(司令官 香月 清司 中将)隷下となり同年
10月に華北に進出し作戦に従事。閻錫山軍の拠点であった臨汾を占領し
ました。その後、山西省での治安作戦を担当し、昭和15年1月、日本に帰還
、同年2月に廃止されました。佐野大佐は、昭和12年10月から11月の間に
支那進出してすぐに戦死され中佐より大佐に特進しているようです。



以下は中尉時代からから大佐までの勲記類の一部です。














陸軍 ニ式擲弾器(対戦車用)の擲弾(タ弾)
  と同じ弾頭を持つ航空用のタ弾(擲弾)です。




風車羽のプロペラのある完全品です。






以下は他に所持しているタ弾です!



陸軍 ニ式擲弾器(対戦車用)の擲弾(タ弾)
  と同じ弾頭を持つ航空用のタ弾(擲弾)です。




ニ式擲弾器用の擲弾と同じタ弾です。
本体に 航 昭和18.12 ウ と記載されています。
残念ながらオリジナルのプロペラがありません。
この左と真中のタイプと同じになります。
一番右はニ式擲弾器用のφ40oタ弾。



陸軍 二式擲弾器(対戦車用)







アメリカからの里帰り品らしく、発射機構は、潰されている
無可動の実物品です。ライフリングを1本ずつフライス加工
で入れる最初期型ではなく、ブローチを通したパイプを加工
する後期型との事です。

こちらの榴弾は、下と違う弾頭部がφ40oの物。

二式擲弾器と収納袋、専用榴弾(φ30o)と
発射用木製弾丸の空砲。







ある陸軍軍醫の身に付けた”盡忠報国”、
  ”祈武運長久”の日の丸の旗(従軍記録入り)




杉野軍医の支那事変での従軍履歴が書かれた日の丸です。中央には部隊長の揮毫が
あります。贈ったのは同期か友人なのでしょう。本島少尉とあります。
昭和12年9月7日、金沢・高岡町本部を出発とありますので第二次上海
事変で増援軍として送り込まれた金沢の第九師団である事が判ります。
この師団は、徐州会戦と武漢作戦を戦い昭和14年6月復員します。この
日の丸も最後は昭和14年元旦を汾陽(山西省)で迎える。…とありました
し途中の経路も一致しますので、まず杉野軍醫は、第九師団隷下の軍醫
と見て間違い無いでしょう。
第九師団には、第一、二、四の3つの野戦病院
がありましので、このうちのいずれかの所属だっ
たものと推察します。









金沢の第九師団は武勲高い歴戦の精強師団ですが日米戦が
開戦されてからは、一度も戦うことの無かった師団です。開戦
時は、第三軍の指揮下で衛戍地である満州にあり、昭和19年
に沖縄防衛の要として沖縄に転出するも…すぐに台湾に転出
され戦う事無く台湾で敗戦を迎えております。この軍醫少尉殿
も日中戦争以降も軍醫として同じ郷土部隊であれば台湾で敗
戦を迎えた可能性が高いと思われます。







叩き上げの憲兵中尉殿の紙物二点




叩き上げでここまで昇進すると怖いものなど何もなかったと想像します。







記念のバックルの表面には、星章と八九式中戦車と第二区隊とあります。
裏面に”2598,1月20日ー5月20日”そして”吉丸部隊・神田隊”で”
早川”と有ります。皇紀2598年(昭和13年)を現しています。昭和14年
5月11日、満蒙国境をめぐる紛争で満州国軍と外蒙古軍の小争いが発
生。日本の関東軍とソ連軍との大規模な戦闘に発展しました。両軍とも
戦車戦を展開しました。吉丸清武大佐は八九式中戦車を主力とする戦車
第三聨隊の聨隊長で隊に四輌ある最新鋭の九七式中戦車に乗り指揮を
取りましたが、同年7月3日に敵弾を受け戦車内で壮烈な戦死を遂げて
陸軍少将に特進しました。神田隊は第二区隊。このバックルは、ノモハン
事変の1年前に造られています。バックルの所有者は”早川”と刻まれて
おり昭和13年に除隊され記念にいただいたバックルと思います。























昭和16年5月22日 文部省 
御親閲拝受章 とあります。
文部省からの推薦や表彰や叙勲など
功績があった方が皇居宮殿に招かれ
亡き昭和天皇に拝謁を許された方が
佩用したと思われます。











野戦予備病院の軍医見習
士官の認識票です。



木製の粗末な門鑑はよく見ますが
現代風で金属の立派な門鑑は珍し
いです。












興亜馬事大会参加章



帝國軍用犬協会 特良賞メダル












O.S.Kの高砂丸の就航記念の品です。















ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。
中の工具は、ありません!