Imperial Japanese Army
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陸軍関連 |
皇族・賀陽宮家の家僕など使用人
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(華麗なる御皇族の世界) |
現在の皇室は、大正天皇の子孫に限られていますが、昭和22年までは他に も伏見宮家の血統に属する傍系皇族が十一宮家ありました。その十一宮家 とは、山階宮家,賀陽宮家,久邇宮家,梨本宮家,朝香宮家,東久邇宮家, 北白川宮家,竹田宮家,伏見宮家,閑院宮家,東伏見宮家の宮家をさします 。この十一宮家は、その全てが北朝の崇光天皇(十四世紀の天皇)の皇子 栄仁親王を初代とする伏見宮家二十代当主の邦家親王を共通の祖としてい ます。この十一宮家は、戦後の皇室改革に伴い皇室を離れることになります。 華族制度の廃止も同時期に行われた為、身分としては一般市民になりました が華族の家系が旧華族と呼ばれ特別視されるように、十一宮家の人々も旧皇 族と呼ばれ法的な身分こそないものの特別な家系であるとの認識がなされて おります。このアルバムは十一宮家の中の旧皇族・賀陽宮家のありし日の物 であります。 |
この上の方がアルバムの所持者だった方のようです。 ご自身のお写真を賀陽宮殿下が御撮影して下さった旨 の記載がございます。 |
賀陽宮家は、明治中期に久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲王が、父宮がかつて 称していた宮号を受け継いで、新しく創設した宮家でああります。賀陽宮の宮号 は、朝彦親王の宮邸の榧(かや)の老木に由来すると謂われています。 賀陽宮恒憲王 二代目となる恒憲王は、邦憲王の第1王子。明治33年誕生。大正10年、九条道 実公爵の娘敏子と結婚。昭和6年に夫妻でアメリカを訪問。国際親善に努める。 陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。軍人としては皇道派に近かったと言われて います。敗戦時は、陸軍中将。東久邇宮稔彦王と共に敗戦の責任を取って、 皇籍離脱することを主張しました。 昭和22年の皇籍離脱の際には、自ら区役所に赴いて手続きを済ませました。 野球の愛好家で、野球の事業化に着手したが、失敗。昭和45年に長野県に特 別養護老人ホーム「敬老園」を設立しました。昭和53年、78歳で逝去されまし た。 子に邦寿王・美智子女王・治憲王・章憲王・文憲王・宗憲王・健憲王がおられま した。 賀陽宮邦寿王 長男の邦寿王は、恒憲王の第1王子。大正11年誕生。昭和16年に陸軍士官学 校を卒業されましたた。最終階級は陸軍大尉。戦後、皇籍離脱と共に賀陽邦寿 と名乗られます。後に賀陽政治経済研究所を設立し、所長となりました。参院選 に出馬された事もありましたが落選されております。昭和61年4月16日に64歳 で逝去されました。 賀陽宮家の宮邸があった場所は、現在、千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京都千代田 区三番町)となっています。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
賀陽宮恒憲王様(上)と奥様、御子息の賀陽宮邦寿王様(下)です。 |
先代の賀陽宮邦憲王のお妃様の好子様です。 好子様は、醍醐忠順侯爵の長女です。 |
梨本宮家は、伏見宮貞敬親王の第 9王子守脩親王が創設した宮家です。 三代梨本宮守正王は、明治8年の誕生。明治33年に侯爵鍋島直大の二女 伊都子と結婚し、方子女王、規子女王をもうけられました。元帥陸軍大将、 日仏協会総裁、在郷軍人会総裁などを歴任した。昭和18年、伊勢神宮 祭主に就任します。戦後、皇族唯一の戦争犯罪人に指定されて巣鴨 プリズンに拘置されるが、半年後に釈放されて帰邸したところ、集団窃盗 によって家財の多くが盗難にあっていたと謂われています。昭和20年に 皇典講究所第6代総裁就任します。昭和26年、78歳で逝去されています。 因みに長女の方子女王は、李氏朝鮮最後の皇太子・李垠殿下と結婚され、 戦後は大韓民国に渡って福祉事業などに尽くしました。子息・李玖はアメリカ 人女性と結婚後、昭和38年に韓国で実業家として会社を経営します。しかし 業績不振によって廃業したのち、日本に滞在していましたが、平成17年7月 16日、心臓麻痺のため東京で死去。享年73歳でした。子女がなかったため 彼の死去により李王家直系の血統は途絶えました。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
ありし日の皇族の皆々様の雅で華麗な世界の一端を窺える気がします。 |
英国紳士のようなお二人の宮様ですが…共に皇籍離脱 (臣籍降下)されておられます。 |
こちらは非常に珍しい生写真です。村雲尼公は、 伏見宮邦家親王の第八皇女で九条尚忠の猶子 となり八歳で叔母の瑞正文院日尊尼を師として 得度受戒します。村雲門跡保存会,村雲婦人会を 設立して寺院経営のために力を尽くし,尼衆修道 院を大正8年に設立しています。また日本赤十字 京都支部篤志看護婦支会長として活躍し和歌や 書に秀でて堪能な方としても有名でした。大正9年 66才で逝去。墓所は岡崎の善正寺です。 |
今は亡き昭和天皇の皇太子時代です。高松宮様も秩父宮様 も若く海軍兵学校生徒と陸軍士官学校生徒の時代です。 |
上下の4枚は印刷の物のようです。 |
何とも雅です…。 |
中国国民党の党員で華僑と思われる…
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このパスポートは、中国福県安渓県の方で蔡連波氏のものです。 |
福建在住の蔡氏は民国二十八年に船でシンガポールに渡ります。 1914年の半年間の在留が許可されています。期限を過た時に罰 として金銀・・・を徴収されます。大きさ幅21cm・高さ34cm。裏面 に赤黒字のサインが有ります。折目に補修個所有ります。 |
同じく蔡連波氏のパスポート。 |
この方の出身地である安渓は、福建省南部 です。厦門=福建省南部にあり台湾海峡に 面しています。 |
住所・福建安渓。男性六二歳・職業:商人・厦門から 船でベトナムのサイゴンまで。中華民国37年(1947 年)8月8日の人民出国許可證です。 大きさ幅20cm・高さ25cm。穴等の補修有り。1949 年中国内戦に敗れた国民党が台湾に渡る2年前の発行 です。 |
以下は蔡氏の所持した写真や絵葉書等です。まあ 日本の敵だった連中の品物です。現在の臺灣の残 党と同じ蒋介石の申し子達で日本を破滅させた憎き 敵と謂って過言でありません。 |
結果的には米国との戦争で負けた訳ですが…米国を 利用し我国を破滅へと追い込んだ支那人は臺灣の国 民党です。蒋介石とその夫人にしてやられました。 |
未使用の絵葉書が3枚。1枚目は、「將公在廣州車上合影」。 2枚目が「中華民国駐越南共和国大使館外館」。3枚目は、 「大使館大使弁公室」です。 |
これ等の写真は支那大陸時代の国民党 の地方の大会の写真です。 |
「中国国民党 駐・南洋荷属的鹿 直属支部執委兼組織 南榜賑会打安分会委員」の役職で有った名刺があります。 |
歓迎陳副総統訪越南・中国国民党駐西堤直属支部 ”越南華僑歓迎 陳副総統大会」”の時の写真及び 参加者の集合写真です。 |
関係生写真25枚(蔡・陳混合)です。名刺1枚・絵葉書3枚。 写真の内容は、副総統陳さんの「天下為気公・革命尚未成功 ・同志仍?力」の講演会場のスナップ写真が主です。 |
息子さんらしい写真です。 |
以下は別の支那人の品です。 |
これ等以下、パスポートやビザなど四枚は、陳忠平氏の所有した物です。 |
1940年の発行のインドネシアのビザの表面です。 大きさ幅21cm・高さ15cm。用紙・特殊布に顔料 を使用しています。 |
このビサは、一九四〇年にインドネシアで発行された物です。 滞在期間は、不明。皇紀2602年(昭和17年・1942年)と書 かれています。発行者は「A・n・長官閣下」とローマ字で有り。 証明サインは「総務課長」「浅埜」の印が押されています。左上 隅の赤い印部に「ZEGEL VAN NED INDIS」「1 1/2 G 」と 有ります。”LANPONG・大日本郵券”印が捺されています。 大きさ幅42cm(2つ折り)・高さ30cm。穴の補修有ります。 |
陸軍 ニ式擲弾器(対戦車用)の擲弾(タ弾)
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風車羽のプロペラのある完全品です。 |
以下は他に所持しているタ弾です! |
陸軍 ニ式擲弾器(対戦車用)の擲弾(タ弾)
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ニ式擲弾器用の擲弾と同じタ弾です。 |
本体に 航 昭和18.12 ウ と記載されています。 |
残念ながらオリジナルのプロペラがありません。 |
この左と真中のタイプと同じになります。 一番右はニ式擲弾器用のφ40oタ弾。 |
陸軍 二式擲弾器(対戦車用) |
アメリカからの里帰り品らしく、発射機構は、潰されている 無可動の実物品です。ライフリングを1本ずつフライス加工 で入れる最初期型ではなく、ブローチを通したパイプを加工 する後期型との事です。 |
こちらの榴弾は、下と違う弾頭部がφ40oの物。 |
二式擲弾器と収納袋、専用榴弾(φ30o)と 発射用木製弾丸の空砲。 |
(千葉)陸軍戦車学校(少年戦車兵生徒隊)
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昭和8年8月に(千葉)歩兵学校教導隊戦車隊を母体に編成 された我国初の戦車連隊となる戦車第二連隊の練習部(後 の陸軍戦車学校=陸軍戦車学校)の中の少年戦車兵学校 の戦車兵のアルバムです。通常の戦車学校の生徒は全国 の歩兵連隊から選抜された将校・下士官を教育しましたが、 昭和14年から少年戦車兵生徒隊が創立され、昭和16年に は、勅令で少年戦車兵学校として分離独立し昭和17年8月 には千葉より静岡県富士宮市に移転する。昭和20年の敗戦 までに第一期生150名(昭和14年入学・16年繰上卒業)か ら第七期生550名(昭和20年3月入学、8月17日復員)と特 別幹部候補生525名(昭和20年2月入学、8月17日復員)を 含めて延べ4.150名余りが学びました(内、卒業生は第七期 の繰上卒業者を含めて合計2.480名)。 |
富士の裾野の演習場を所狭しと走り回る九七式中戦車と若獅子達 の写真です。小さなアルバムに全部で16枚の写真が貼られていま す。写真の大きさは横16cm、縦11.5cmで戦車単体で撮影されて いる写真が3枚あります。 |
この下の欄にYouTubeの動画を掲載しましたが、陸軍少年戦車学校も 昭和17・18年になると九七式中戦車改や最新鋭の一式中戦車を配備 しています。この画像は九五式軽戦車や九七式中戦車がメインですの で昭和17年卒業の2期生辺りのアルバムでは無いかと想像します。 |
*以下は、YouTubeの動画です。上のMIDIの音楽を手動で
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陸軍少年戦車兵学校 チハ 九七 |
少年戦車兵の歌 |
富士に誓う |
太刀洗陸軍航空輸送部支部のネガと写真数点 |
大刀洗陸軍航空輸送部隊の看板と士官が写っているネガ3枚と 九八式直協機が入っている格納庫と車のネガ1枚の計4枚です。 |
1/35 陸軍 九二式重装甲車 (前期型)
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いいですね。こういうものまで完成品が出てくれると 嬉しいものです。もっともっと出して欲しい物です。 |
騎兵専用に開発されたが…結局は戦車そのものに代わり 騎兵が姿を消しました。最高時速40km/h、航続距離200 km、車体前面の九二式十三粍機関砲を主武装に砲搭に 九一式車載軽機関銃を副武装とした中途半端なものでし た。活躍の場も余り無く主に中国や満州での一部の戦い に使用されたのみでしたが…北支や満州では以外にも大 活躍をしています。相手が馬賊や中国軍相手では…この 装甲6mmの豆タンクも活躍しますが、旧ソ連軍や米軍相 手となるとそうもいかなかった筈だと想像されます。 |
ありし日の九二式重装甲車です。 |
記念のバックルの表面には、星章と八九式中戦車と第二区隊とあります。 裏面に”2598,1月20日ー5月20日”そして”吉丸部隊・神田隊”で” 早川”と有ります。皇紀2598年(昭和13年)を現しています。昭和14年 5月11日、満蒙国境をめぐる紛争で満州国軍と外蒙古軍の小争いが発 生。日本の関東軍とソ連軍との大規模な戦闘に発展しました。両軍とも 戦車戦を展開しました。吉丸清武大佐は八九式中戦車を主力とする戦車 第三聨隊の聨隊長で隊に四輌ある最新鋭の九七式中戦車に乗り指揮を 取りましたが、同年7月3日に敵弾を受け戦車内で壮烈な戦死を遂げて 陸軍少将に特進しました。神田隊は第二区隊。このバックルは、ノモハン 事変の1年前に造られています。バックルの所有者は”早川”と刻まれて おり昭和13年に除隊され記念にいただいたバックルと思います。 |
昭和16年5月22日 文部省 御親閲拝受章 とあります。 |
文部省からの推薦や表彰や叙勲など 功績があった方が皇居宮殿に招かれ 亡き昭和天皇に拝謁を許された方が 佩用したと思われます。 |
野戦予備病院の軍医見習 士官の認識票です。 |
木製の粗末な門鑑はよく見ますが 現代風で金属の立派な門鑑は珍し いです。 |
興亜馬事大会参加章 |
帝國軍用犬協会 特良賞メダル |
O.S.Kの高砂丸の就航記念の品です。 |
ADVEN製のABS樹脂製の九六式軽機 |
九六式軽機で攻撃する皇軍兵士 |
九六式軽機関銃・部品・工具箱です。 |
中の工具は、ありません! |