旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_7














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








為本 博篤 海軍主計中将(海経2期) の軍帽




      高知出身、海経2期を首席で卒業した為本 博篤 海軍
      主計中将の軍帽です。御多分に洩れず業者等により
      全国に四散した品の一つです。
     敗戦で予備役となりますが、最終の役職は
     艦政本部会計部長で海軍省出仕(経理局
     臨時調査班長)予備役になられています。










      ↑       ↑        
為本 博篤 主計中将の
勲記等の資料等が収載
されたページがバナー
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為本 博篤 主計中将の
マントを収載したページ
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ます。
為本 博篤 主計中将の
御子息の為本 博信 氏
の海軍兵学校の生徒軍
衣を収載したページが
開きます。







難波 正 海軍中佐(海兵37期)の二種軍衣




こちらも難波親子の全国に四散した軍装品の一つです。別なページで紹介した
御子息 難波 正忠 海軍少佐(海兵69期)の士官二種などと一緒のシリーズで
す。御子息は有名な海軍乙事件で古賀 峯一 聯合艦隊司令長官と幕僚を搭乗
した二式大艇の一番機を操縦して低気圧に巻き込まれ古賀GF長官と共に墜落
殉職した方です。これで親子の二種軍衣が揃ったことになります。御子息の軍
衣の方には徽章ループがありませんが、父君のの方にはあります。
海軍式の畳み方のままで糊が効いたままで綺麗に保存されていました。
古い時代の二種です。肩章のループ止めの襟側の部分にホールがあり珍しいです。


上は青年将校時代の難波中佐です。下は御家族との写真。




上のバーナーをクリックすると以前に収載した
難波親子の軍装品を紹介したページが開きま
す。







敗戦時の光海軍工廠長 田村 英 海軍中将
       (海兵39期)の中佐時代の一種軍衣




田村 中将の中佐時代の厚手の冬服で襟章はありません。襟まわりの裏地や
腰周りの裏地に張替えありますが外観は綺麗で保存状態の良い軍衣です。


田村閣下の中佐時代は。昭和4年から8年にかけてで艦政本部員や軍需局局員、
航本技術部部員、海大教官などを歴任し艦政本部造兵監督官で英国出張から帰
朝後は、昭和9年の大佐昇進まで一年間、戦艦”霧島”副長を勤めています。


敗戦時、最期の光海軍工廠長を
勤められていた田村 英 中将です。



       ◆ 田村 英 海軍中将 ◆

 明治21年10.月7日生、大阪出身 

 海兵39期

         ( 略 歴 )

明治44年 7月18日  任海軍少尉候補生
              宗谷乗組
明治45年 3月29日  伊吹乗組
大正元年12月 1日  任海軍少尉
              平戸乗組
大正2年12月 1 日  砲術校普通科学生
大正3年 5月 27日  水雷校普通科学生
大正3年12月 1 日  任海軍中尉
              嵯峨乗組
大正4年 6 月24日  薩摩乗組、白雲乗組
             佐世保海兵団附
大正 6年12月 1日  海大乙種学生
大正7年 4 月15日  水雷校高等科学生
大正7年12月 1 日  任海軍大尉
              綾波乗組、柳乗組
大正 9年10月 5日  浜風水雷長
大正 9年12月 1日  水雷校教官
大正12年11月10日  五十鈴水雷長
大正13年12月1 日   任海軍少佐
大正14年10月20日  呉工廠水雷部検査官
              魚雷実験部部員、艦本部員
              軍需局局員、航本技術部部員
昭 4 年11月 30日   任海軍中佐
昭 5 年 8 月 1 日   艦本部員、軍需局局員
              航本技術部部員、海大教官
昭 7 年 1 月25日   艦本造兵監督官(英国出張)
昭 8 年 12月 1日   霧島副長
昭 9 年 11月15日   任海軍大佐
              艦本造兵監督官
              航本造兵監督官
昭12 年12月 1 日   呉工廠魚雷実験部長
昭15 年 11月15日   任海軍少将
              佐工廠造兵部長
昭17 年 1 月10日   艦本造船造兵監督長
              大阪監理長、大阪監査長
昭18 年 10月 1 日  光工廠長
昭19 年 5 月 1 日   任海軍中将
昭20 年 8 月 15日   敗 戦
昭20 年 11月 1 日   予備役

昭42 年 2 月 25日     歿 (享年78歳)



田村 海軍中将は敗戦時、光海軍工廠の廠長を
務められておりました。この光海軍工廠関係の品
を収載したページは上のバーナーをクリックすると
開きます。







大正3年の遠洋航海に出た練習艦隊
 を記録した当時の写真帳”南影”に見る
  空母”飛龍”と運命を共にした闘将・山口 多門
   海軍中将の若かりし海軍少尉時代の初々しい写真
















夏服の集合写真では最後尾の右端に居られるのが
山口 閣下です。古くい写真なのでシャープにして拡
大して補正をかけたのが下です。
初々しいが毅然たる意思を見せる目が印象的で将来の猛将
の片鱗をすでに伺わせるような風貌に感じるのは私だけであ
りましょうか…。




上の少尉時代から歳月は流れて28年後…昭和17年6月6日、運命の
ミッドウェー沖海戦で第二航空戦隊司令官として…乗艦の空母”飛龍”
を除く主力三空母が無力化した中で残存全軍に対して「我レ今ヨリ航
空戦ノ指揮ヲ執ル」と発光信号を発し全力を挙げアメリカ機動部隊へ
の反撃に移った。二次に亘る航空攻撃の結果、敵主力空母”ヨークタ
ウン”を大破(後、潜水艦により撃沈)させるも第三次攻撃を前に飛龍
も被弾。作戦能力喪失と判断するや速やかに総員退艦を命じ、自らは
艦長 加来 止男 海軍大佐と共に艦と運命を供にしました。この時、幕
僚等は再三にわたって司令官と加来艦長に対して退艦を懇請したが
悉く拒否。また、別な部下が帯同を申し出るとこれも断固として許可し
ませんでした。総員退去の際、退艦する主席参謀伊藤清六中佐が「何
かお別れに戴くものはありませんか」と頼むと黙って自分の被っていた
戦闘帽を渡したという。飛龍は総員退去後も暫く浮いて漂流を続けて
いたが、総員退去命令が届かず火災などにより艦内に取り残されてい
た乗員が多数おり、この一部が沈没前に最上甲板に脱出に成功しまし
た。しかし既に周辺に味方の艦はおらず、残されていたカッターを使用
して退艦しましたが…この際、傾いた飛龍の艦橋から拳銃が一丁落ち
てきたと謂われています。脱出の際、既に艦橋に人影は無く…また艦
橋から声が掛かる事も無かった事より、既にこの時点で提督と艦長の
両名は自決していたものと考えられています。何れにしても内外何れ
からも名将の誉れ高く米側からも山本の次に危険な提督と高く評価さ
れ危険視されていた闘将が大戦の早期に失われた事は日本に取って
致命的で大きな痛手でありました。







石井 豊七郎 長崎控訴院長の自筆 めくり二点




控訴院は明治32年、裁判所構成法の下で、主として民事・刑事の
控訴を管轄した地方裁判所の判決に対する上級(控訴)の裁判所
にあたります。大審院の下級、地方裁判所の上級に置かれた裁判
所であります。裁判所官制(明治19年勅令第40号、実効性喪失)
及び裁判所構成法(明治23年法律第6号、昭和22年廃止)に基づ
き、明治19年から昭和22年まで、日本各地にあった。裁判所法(
昭和22年法律第59号)の高等裁判所に相当します。昭和22年の
改組時には、東京・大阪・仙台・広島・名古屋・札幌・福岡の7ヶ所
に置かれていました。
控訴院は、内地において地方裁判所の判決に対する控訴の裁判を行いました。
東京控訴院では、民間人と皇族との間に起きた民事訴訟の第一審も扱っており
長崎控訴院では、治外法権区域(租界)の領事裁判所の控訴審も扱っています
。現在の高等裁判所の所長に相当し、当然、勅任官となりますから陸海軍で謂
えば将官相当ですので閣下と謂われる身分です。
明治8年に東京・大阪・長崎・福島に上等裁判所が設置されます。3か月足らずで
福島上等裁判所が宮城(仙台)に移転し、宮城上等裁判所となります。明治14年
控訴裁判所に改称。また、函館にも設置されました。明治15年、広島・名古屋に
も設置され、明治19年に控訴院に改称されます。大正10年に函館控訴院が札幌
に移転。昭和20年、高松に設置(半年で廃止)。また、長崎控訴院が福岡に移転
します。昭和22年に裁判所法の施行により、高等裁判所に改組。改組時には、
控訴院は東京・大阪・仙台・広島・名古屋・札幌・福岡の7ヶ所に置かれていまし
た。尚、高等裁判所は、この7ヶ所と高松に置かれました(東京高等裁判所、大阪
高等裁判所、仙台高等裁判所、広島高等裁判所、名古屋高等裁判所、札幌高等
裁判所、福岡高等裁判所、高松高等裁判所)。


長崎控訴院







湯地 秀生 海軍中将 自筆 一行書







       ◆ 湯地 秀生 海軍中将 ◆


 明治16年 5月 2日生、熊本県出身
 海兵30期、海大14期、功五級

            ≪略 歴≫

明治35年12月14日  任海軍少尉候補生 (海兵卒)
明治36年12月28日  任海軍少尉
大正 3 年12月 1日  海大甲種学生
大正10年12 月 1日  任海軍大佐 ・海大教官
大正15年12 月 1日  任海軍少将
              第一潜水戦隊司令官
昭和 4 年11月30日  第三戦隊司令官
昭和 5 年12 月 1日  馬公要港部司令官
昭和 6 年12 月 1日  任海軍中将
昭和 7 年 1 月11日  軍令部出仕
昭和 7 年 3 月22日   待 命
昭和 7 年 3 月31日   予 備 役
昭和15 年 4月25日   歿 (享年56歳)










一枚の名刺から…




旧海軍水路部の大東 信市 海軍大佐(海兵52期)の少佐時代の名刺です。
大東元大佐がクローズアップされるエピソードは戦時中よりも戦後です。朝鮮
戦争が勃発しGHQのウィロビー米陸軍少将が仁川に逆上陸戦を仕掛ける
為に朝鮮半島を知り尽くした日本人…特に陸軍陸地測量部、海軍水路部の
専門家として丸の内の日本郵船ビルに旧陸海軍の情報将校を中心に招集し
その中にこの大東 大佐がおりました。そして仁川は、10m以上の干満差が
あり、大潮の満潮時に上陸すべきだとアドバイスしていました。干潮時には
幅2qの水路しかなく、泥状の州であるため上陸用舟艇には不向きでした。
余談ですが…しかし日本の協力は情報提供だけではありませんでした。国
連軍は仁川に続いて朝鮮半島東海岸の元山上陸作戦を実施しつつありまし
た。そして上陸決行は、昭和24年10月2日と決められていました。ところが、
半島の東岸海域は大量に散布された敵側のソ連製“感応機雷”を除去しな
ければなりません。しかし米海軍の西太平洋の掃海部隊はわずか10隻のみ
しか存在しませんでした。米極東海軍司令部の参謀副長のアーレイ・バーク
海軍少将(後に大将)は、海上保安庁に所属する旧海軍の掃海部隊に目を
付けました。初代海上保安庁長官の大久保 武雄が日本橋兜町にあった極東
海軍司令部に呼び出されたのは、その数ヶ月前でありました。申し出は『元山
上陸作戦の為に、北朝鮮が敷設した元山港の機雷を除去したい。海保の掃海
隊を出してほしい』と率直なものでした。確かに海保は、旧海軍士官を指揮官
とした「航路啓開部」と称する100隻からの掃海部隊を持っていました。しかし
朝鮮半島海域での掃海作業は事実上の戦闘行為であり、新憲法にも抵触しま
す。当時の首相・吉田 茂も困惑した。しかし日米講和条約の交渉が開始され
たばかりの状況で断りにくく…極秘で超法規的処置で掃海艇20隻、巡視船4
隻、試航船1隻の計25隻をもって”特別掃海隊”を編成しmした。元海軍大佐
の田村 久三 航路啓開本部長が総指揮官となり、戦時中に急増した木造の
老朽船が動員され派遣されました。部隊は、12月初旬までの2カ月間で計27
個の機雷を処理しました。

10月4日の夜、大久保 海保長官は出動する部隊を激励するため山口県下関
にいました。田村 総指揮官(元海軍大佐)以下の200名の旧海軍々人を前に
訓示をしました。 「日本が独立する為には諸君の活躍が必要だ。きょう岸壁
で日の丸の旗を振って諸君を送る人の姿はないが、30年後、国民は歓呼の声
で諸君を讃(たた)えるだろう」…こうして掃海隊は、激しい潮の流れと寒風の
中で、敵の攻撃を受けながら掃海作戦を進めました。そして悲劇が起きます。
元山港沖で掃海中の二番隊の駆潜特務艇が触雷し、もう1隻も座礁してともに
沈没しました。乗組員は米駆逐艦に収容されましたが、1人が死亡、重軽傷者
8人を出す惨事となりました。また元山港沖では米国と韓国の掃海艇も数隻が
沈没しその中には米軍に雇われた日本人2名も含まれていたそうです。こうし
て掃海業務が終了するとバーク海軍少将は、大久保 海保長官を称賛し「本当
によくやってくれた。これで日本の独立は3年早くなった」と述べ、感謝状を手
渡しました。そしてバーク提督は、その後も日本の再軍備に助力を惜しまず、
海上保安庁の内部組織だった海上警備隊を昭和27年8月に分離独立させ、海
上自衛隊を発足させ、その生みの親になり米海軍の中から日本側の理解者と
してサポートを継続してくれました。因みにこの特別掃海隊は以下の編成であ
りました。


 *総指揮官:田村 久三(航路啓開本部長 元海軍大佐・海兵46期)

           母船:MS62艇   10月8日出港 東海岸(元山)

第1次派遣隊

 ・第1掃海隊指揮官:山上 亀三雄 運輸事務官(第7管区航路啓開部長
                             元海軍中佐・海兵55期)

              MS20艇,MS02艇,MS04艇,MS07艇
              PS03艇      
                         10月7日出港 仁川、海州

 ・第2掃海隊指揮官:石野 自彊 運輸事務官 元海軍大尉・海兵69期)

              MS03艇,MS06艇,MS14艇,MS17艇
              PS02艇,PS04艇,PS08艇
                        10月8日出港 東海岸(元山)

 ・第3掃海隊指揮官:石飛 矼 運輸事務官(第9管区航路啓開部長
                   元海軍中佐・海兵58期)
 
              MS24艇,MS01艇,MS05艇,MS16艇,
              MS19艇,
                       10月17日出港 東海岸(元山)

 ・第4掃海隊指揮官:萩原 旻四 運輸事務官(第2管区航路啓開部長
                   元海軍少佐・海兵60期)

              MS25艇,MS10〜12艇,MS22艇,MS30艇,
              MS57艇        
                             10月17日出港 群山


第2次派遣隊(10月25日以降の編成と11月15日編成)

 ・第1掃海隊指揮官(11月15日編成):花田 賢司 運輸事務官
                            (元海軍大尉・海兵71期)

               MS62艇,MS09艇,MS13艇,
               MS15艇,MS23艇
                             11月3日出港 鎮南浦


 ・第2掃海隊指揮官(10月25日編成):能勢 省吾 運輸事務官
                              (第5管区航路啓開部長
                               海軍中佐・海兵55期,
                               後の海自 海将補,
                                横須賀市議会議長)

     MS03艇(艇長:大西 慶治),MS14艇(艇長:石井 寅蔵)
     MS06艇(艇長:有山 幹夫 元海軍中尉・海兵73期)
     MS17艇(艇長:松本 嘉七 元海軍少尉・海兵74期)

 ・第5掃海隊(10月29日編成)指揮官:大賀 良平 運輸事務官
                             (元海軍大尉・海兵71期
                              後の第12代海上幕僚長)

                   PS56艇,MS03艇,MS06艇,
                   MS08艇,MS21艇
                            11月7日出港 鎮南浦、海州

海軍書記の方の名刺です。この方は高等文官の軍属ですが昭和55年7月10日
発行の『水路』第34号(日本水路協会 発行)の訃報欄にお名前が掲載れており
ます。これにより戦後も海事関係、水路関係のお仕事に就かれていいたもの想
像します。







真珠湾攻撃以来の歴戦の勇士で攻撃253飛行隊
 隊長で戦死された軍神 岩崎 五郎 海軍中佐の勲記三枚

    (               (金五・旭六・瑞五の三枚)




バラバラになって全国に四散させられた遺品がまた
引き合うように一部ですが、揃い始めました。功五の
金鵄勲章の勲記です。
岩崎五郎少佐は、南西方面で戦死されて中佐に昇進。
海兵61期栃木県出身の方です。開戦となった真珠湾攻
撃では、淵田美津雄中佐隷下の第一次攻撃隊の水平
爆撃隊の第二中隊を率いて、共に旗艦”赤城”より出撃
した英雄です。その後、セイロン沖海戦やミッドウェイ海
戦を生残りましたが、南西方面で攻撃253飛行隊の隊
長として戦死されております。


左は、中尉時代の正装の写真。右は、三種軍衣袴に少佐の階級章
が見て取れます。ピストの前と思われる看板があります。この写真が
最も戦死された時期に一番近いと思われます。


旭六の勲記です。


瑞五の勲記です。


詳細は以下のバーナーをクリックして
岩崎中佐の展示コーナーがページ半ば
以下にありますので、御興味のある方は
リンクを開いて観覧下さい。
            ↓







四散シリーズ…小田中 精一郎 海軍機関大佐の紙物




こちらも四散した小田中 大佐の品で巡って近日、入手した紙物です。
小田中 大佐は、海機17期(明治38年卒)出身の長野県の方です。


機関中佐時代の小田中 機関大佐です!


小田中 精一郎 機関大佐の階級章や
勲記類や書類を収載したページです。


小田中 精一郎 機関大佐の軍帽が
収載されているページが開きます。







戦後日本の宇宙技術の結晶と誇り…

 H-II A ロケット 発射台付(1/400)完成品模型
         (スペース ドラゴン ウイングス)




日本が世界に誇る主力大型ロケットとして「あかつき」、「IKAROS」、
「かぐや」など多くの人工衛星を打ち上げてきたH-IIAをプラッツとドラ
ゴンの共同開発により完全新金型で完成品モデル化したものです。
日本の主力大型ロケットであるH-IIAは、日本初の純国産ロケットで
あるH-IIロケットで培われた技術をベースにして、高い信頼性と打ち
上げの低コスト化を目指して、さまざまな打ち上げ能力要求に応える
べく、5年半の歳月をかけて開発されました。
H2A ロケットは、2001年8月に初めての試験1号機の打上げに成功し
以降、月周回衛星「かぐや」、金星探査機「あかつき」、準天頂衛星初
号機「みちびき」など、さまざまな衛星を各ミッションに応じた軌道に投
入してきました。これからも日本の宇宙開発において信頼性、経済性
ともに優れた基幹ロケットとして活躍することが期待されています。
H2A 202 型と呼ばれる、左右にSRB-A 固体ロケットブースタを装備した
現在も運用中のタイプを模型で完全再現。ロケット本体はダイキャスト製
細部パーツはプラスチック製。またロケット本体だけではなく、移動発射台
(ML)付きです。今年度中には観測衛星「しずく」を搭載したH2Aの打ち上
げが予定されています。





2011年1月22日  H2B 2号機打ち上げ  こうのとり




         ↑
JAXAの公式サイトが開きます。







小西製のシリーズ…装甲巡洋艦”日進”と”春日”です。

















             性能緒元             
 排 水 量  基準:740t
 全 長  69.5m
 水 線 長
 全 幅  8.6m
 吃 水  3.05m
 機 関  蒸気タービン1基1軸 2,500馬力
 燃 料  重油 240トン
 最 大 速 力  17.5ノット
 航 続 距 離  14ノットで4,500海里
 乗 員  141名(計画)
 兵 装 (計画時)
45口径12センチ高角砲 単装2基
25mm三連装機銃2基
三式迫撃砲単装1基[1]
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
爆雷120個
 同 型 艦  143隻(計画)            
 67隻(完成)



















小さな1250分の1スケールも数を並べると結構、迫力が出てきます。
戦艦”武蔵”に空母”隼鷹”も護衛の巡洋艦群の中に鎮座しています。




病院船”氷川丸”と”あるぜんちな丸”です。


新たに加わった軽巡と駆逐艦、潜水艦の1250分の1です。