旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_6














Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)




海軍の軍服・その他








第四航空戦隊 機関長 宮崎 幸武 海軍大佐
               ( 航空母艦 龍驤 )
         の所持した写真類など…PartU
           (戦前のアルバム写真、等々)




前に掲載した宮崎大佐の部分に追加する筈でしたが紹介ページの
縦ロールが長くなるとの指摘が寄せられていたので新しいページに
別途、PartUとして追加する事としました。こちらは宮崎大佐の機関
少尉候補生から大東亜戦争に至る前の古き良き海軍時代のアルバ
ム数冊分から紹介します。中にはsummer-ochibo様から提供のアル
バム画像もございます。
こちらも手書きの説明が写真を貼り付けた台紙に記載されています。
軍の公式写真でなく航空隊の搭乗員個人が撮影した生写真です。
航空畑をずっと歩まれた宮崎大佐は、機関科将校なので最終的には
整備畑に落ち着きます。この写真の時期は昭和13年です。宮崎大佐
が当時、中佐で第15航空隊(初代)の整備長をされた時期です。爆撃
能力の高い九六式陸上攻撃機と機動性の高い艦上戦闘機に艦上攻
撃機をの3本柱を主体に戦爆連合組んだのが初代の第15航空隊であ
りました。第二聯合航空隊に所属し一連の漢口攻略作戦に従事しまし
た。南昌攻略作戦では有名な飛行隊長 南郷 茂章 大尉が戦死されて
います。…九六陸攻に九六式艦戦、九六式及び九七式艦攻…これ等
をよく整備し戦果を上げる事に貢献をした縁の下の力持ちです。一連の
作戦は漢口陥落で終了し同時に十五空も解隊し一部の戦力は支那に
残るが大半が大村に帰還しました。…宮崎大佐はその後、歴史に残る
日本の空母機動部隊の一角を占める第四航空戦隊の戦隊機関長とし
て日本海軍航空隊の全盛期を支えました。機動部隊が失われ…海軍
航空隊の緒戦の圧倒的な勢いが失われて行くと同時に縁の下の力持
ちの宮崎大佐の居場所も無くなっていった感もアルバム等を見ていると
感じられます。














ここまでが日米戦開戦前の支那事変の頃、第二聯合航空隊
(十五空)時代のものです。後で一番下に聯合航空隊時代の
ものも掲載紹介致します。





以下は南方作戦の緒戦の写真記録で以前、紹介した写真と
同時期の別な写真で新たに入手したものです。
今から70年前の昭和16年12月8日…第一航空艦隊がハワイの真珠湾を奇襲
同時に比島攻撃が南比支援隊の第四航空戦隊(空母”龍驤”)によって同日の
0745(午前7時45分)にミンダナオ島のダバオ飛行場を第一次攻撃隊が攻撃、
ついでマララグ湾を攻撃、飛行艇2機炎上させました。次いで第二次攻撃隊も
マララグ湾を攻撃し駆逐艦を撃沈させました。
第四航空戦隊 空母”龍驤”より、この日発艦した戦力は
第一次攻撃隊が九六艦戦9機、九七式艦攻12機の計21
機です。第二次攻撃隊は九六艦戦3機、九七式艦攻2機
の計5機です。この日の戦闘での損失機は、九六艦戦が
1機、九七式艦攻1機の計2機です。
この九七式艦攻は攻撃を終えた第一次攻撃隊の12機のうちの1機
でしょう。既に魚雷も25番も腹に抱いていません。
燃えているのは第一次攻撃隊の九六艦戦に撃墜させられたPBY
カタリナ飛行艇2機(米軍)です。下の画像の同型機です。
記載には米駆逐艦”プレストン”とあります。この艦は後に
昭和17年11月12〜15日の第三次ソロモン海戦で14日に
日本側の砲撃を受けて撃沈されます。
古写真のスキャナーの拡大では、はっきりしませんが
下がUSS Preston (DD-379)の詳細な写真画像です。



フィリッピンのレガスピーです。マニラより遥か南でルソン島の
最南端の手前でサマール島よりにある古い町です。



ラゴノイ湾からアルベイ湾に至り上陸する日本軍地上部隊の
支援の時の写真のようです。向かうところ敵なしの機動部隊
に見守られた部隊は、さぞ頼もしい思いで上陸占領を果たし
た事でしょう。





70年前も今と同様に噴煙を上げ続けるマヨン山を横目に必殺の魚雷を腹に
抱いて飛ぶ空母”龍驤”の九七式艦攻二機です。
現在も変わらない活火山のマヨン山です。
拡大した画像偵察席と通信席の人影が見える両機とも風防を開けている。










今は古い教会があり結婚式場として観光客が訪れるらしい
下が現在の衛星写真から見たサン・オーガスチン岬





下が拡大画像です。船首部分から爆炎が確認できます。



インドネシアのアナベス諸島は、ボルネオ島とマレー半島の中間に位置します。



黒煙が天を覆う…日本に手渡すのが嫌だからと謂って性悪なオランダ人は
戦後も卑怯で罪もない日本兵をBC級戦犯で処刑し…再び現地人を大勢虐
殺しました。嫌なダッチ野郎は生涯無視するに限る!



九七式艦攻の右翼に日の丸が見えます。偵察席から写真を撮影したのでしょう。



更に南下してカリマタ海峡をブリトゥン島を挟むとこのガスパル海峡
です。この撮影日が2月17日ですが、この2日前の15日にこのガス
パル海峡では、クアンタン基地から出撃した美幌空の4個中隊27機
の九六式陸攻が北上中の英・米・蘭の連合艦隊の攻撃に向かいまし
た。その時は、軽巡”ホバート”を小破した程度の戦果だったようです
。二五番直撃とあるので九九艦爆による9九九式25番通常爆弾1型
(250kg徹甲爆弾)で仕留めたものと思われます。





下がビリトン島です。



昭南(シンガポール)は英軍の最大の拠点ですから、2月から3月半ばまで
びっちり昭南方面の作戦で貼り付いていいるのが写真の日付けを見ていて
も判ります。2月15日にシンガポールが攻略ですが周辺を全て制圧するの
には暫くは時間を擁したということでしょう。













ここもシンガポールよりすぐ上にある飛行場です。今も
マレーシア空軍から移管されたマレーシア陸軍の航空
隊が使用しています。



ここもジョホール州の飛行場です。



ビルマです。メルグイ飛行場は現在のマイエイク空港です。
プーケット島のはるか北でアンダマン海に面したビーチリゾ
ートで有名なカダン島が目の前にあります。









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以前の宮崎大佐の紹介ページをご覧になりたい方は
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〜第8期航空術学生(飛行学生)から
           霞ヶ浦航空隊勤務 時代〜




以下は、青年将校時代の宮崎大佐が霞ケ浦空の飛行学生を
終えて霞ヶ浦海軍航空隊に配属になり勤務時代から退隊まで
と海軍機関大尉として昭和2年の練習艦隊(司令官 永野 修身
海軍少将)に参加して米国の西・東の両海岸の都市をパナマ
運河を通り見学する航海の記念写真などがアルバムに収めら
れております。この練習艦隊に乗船した少尉候補生達は、海兵
55期・海機36期・海経15期になります。参加艦艇は磐手・浅間
ですが宮崎機関大尉は当時、浅間乗組で昭和2年の大正天皇
の大葬が執り行われた時期であり司令官の永野修身少将以下
幕僚が喪章の腕章をして写る珍しい写真もあります。中には候
補生時代や少・中尉時代の駆逐艦勤務の写真と共に第十五航
空隊(第二聯合航空隊)の整備長として支那事変を戦った時の
貴重で珍しい写真なども掲載してあります。
大正11〜12年、霞ケ浦にて航空術学生の頃の若かりし青年将校の
宮崎大佐の写真です。(恐らく海機28期と思われます。)右は大正
14年、霞ヶ浦海軍航空隊の分隊士時代です。



〜第8期航空術学生(飛行学生)時代〜



第8期航空術学生(飛行学生)の同期生たちです。前列左端の
横柄に足を組みポケットに手を突っ込んでいる士官は、後に開
戦時の台南空司令として有名なラバウル海軍航空隊を指揮した
斉藤 正久 海軍大佐の若かりし頃と推察します(下の写真)。
斉藤大佐は、海兵47期。敗戦時は第二五二海軍
航空隊司令を経て横須賀空付でした。



霞ヶ浦にて航空学生の時の宮崎大佐です。下は十式
艦上雷撃機の前で写真に写る宮崎学生です。
以下、宮崎航空学生の青春時代です。この航空操縦学生の時代は
日本(海軍)の航空界の黎明期であり、ここから大いに飛躍を遂げた
時代でもあります。古き良き時代の貴重な画像がたくさんありますの
でお楽しみください。
実に優雅に飛びますね。…陸上の飛行機より水上機に何故か魅せられます。




























戦艦”山城”






















左は航空写真機を持って乗る海軍大尉。右は当時の土浦市街地の低空撮影です。
土浦停車場です。






雲海より頭を出す筑波山



東宮殿下(後の昭和天皇)の行啓のようです。少佐の肩章から大正9年
から10年頃と想像します。


国産のSS3号飛行船です。大正13319日に横須賀での演習より訓練を終えて
帰航途上、稲戸井村戸頭中ノ台上空にさしかかったとき、突如爆発を起こして
5人の乗員とともに炎上墜落しました。
左上は土浦上空を飛ぶSS3号です。上下は有名なツェペリン号の格納庫です。











横廠式ロ号甲型…水辺の広がる水紋が美しく生々しく映えています。






この上下は各務原飛行場での十式艦上偵察機です。



霞ヶ浦海軍航空隊の全景


卒業飛行の戦闘隊型
大正12年11月27日、第8期航空術学生(飛行学生)の卒業式です。
陛下の御名代として伏見宮殿下が敬礼を受けながら専用車
より庁舎内部に入る所を撮影した珍しいショットです。専用車
のナンバーも鮮明で”NO3”に錨のマークです。
来賓の東郷 平八郎 元帥海軍大将です。
こちらも来賓の井上良馨 元帥海軍大将


通礼軍衣の士官が第8期航空術学生の卒業生17名です。






〜霞ヶ浦海軍航空隊 勤務時代
   空母”鳳翔”や鎮海 勤務時代〜













摂政宮(後の昭和天皇)の御行幸の写真です。
階級は海軍大佐なので大正14年頃と思われます。



昭和4年8月…日本(霞ヶ浦)を訪れたツェッペリン号(8月19日23日)です。

















陸軍の所沢飛行場です。
霞ヶ浦海軍航空隊の退隊時の記念撮影



空母”鳳翔”航空科の記念写真
宮崎大佐の故郷・唐津を艦載機で空中訪問です!
◎印が宮崎大佐の御実家の場所です。飛行機乗りの特権の一つですね。










鎮海 勤務時代の優雅にテニスを楽しみ写真です。






〜少尉候補生での遠洋航海 時代から
   海軍大尉で昭和2年の遠洋航海に参加した頃〜




後方の青年士官三名の真ん中が少尉候補
生時代の宮崎大佐です。これより練習艦隊
で遠洋航海に出る所のスナップです。
    海軍機関中尉時代の宮崎大佐の正装の
記念写真です。
駆逐艦”松”乗組み時代の正装姿です。



江田島湾出航の歳、教官達の見送りです。
遠洋航海先でもカッター競争など英気を養っています。
御名代宮様御召艦をお見送りする水兵達
見送りの海兵の在校生達の見送りのカッターに手を振る卒業生達
練習艦の舷側の備砲です。旧式のものですがこうした角度から
見ると迫力があるものです。
大連の港にて。菊の御紋章と艦首の日の丸が美しい…。










開戦時の軍令部総長の永野修身元帥の少将時代です。
一種軍衣でも公式行事では全員が必ず左腕に喪章を付けているのが判ります。


LA入港を歓迎する地元日系人二世のお嬢さん達です。
まさしく古き良き時代でしょう。この14年後に日米が戦
争に突入し彼女達も不毛の砂漠の収容所に閉じ込めら
れたのでしょうか…。


ハリウッドでの永野修身提督です。この18年後に敗戦を迎えA級戦犯
として巣鴨プリズンに捕えられ収容所無いで米兵に冷水などを浴びせら
れる虐待を受け惨めな死に方をするとは夢にも想わない時期であったも
のと想像します。


真ん中に笑顔で写る小柄な女性は日活の女優の砂田駒子さんです。


流石は銀幕の映画女優です。
今見ても美しさが良く判ります。




在留邦人たちから寄贈された大量の品々です。如何に当時の
海軍さんが愛されていたかがよく判る写真です。

嗚呼、堂々の帝國海軍の行進です。(喪章を巻いています)


地元の白バイ警官の先導でパレードで行進を披露する
練習艦隊の海軍陸戦隊です。全員が左腕に喪章を巻い
ているのが判別できます。







キューバ陸軍航空隊を訪問した時に写真です。さすがに航空マーク持ちの
宮崎大尉は二種制服の左腕に喪章を巻いて見学に来ています。


昭和2年のNYです。自由の女神と摩天楼が象徴的です。


パナマ運河を通航する練習艦隊です。軍艦旗が鮮やかです。








パナマ運河でも現地の在留邦人が熱い歓迎の持て成しで迎えてくれます。




パナマ運河を行く鯨国戦艦
多くの商船もパナマ運河を行きかいます。


運河を抜けてメキシコ湾に抜けるとメキシコ在留邦人
の漁船が日章旗で熱い出迎えをしてくれています。


全員が二種軍衣に喪章を巻いている永野司令官以下の練習艦隊の幕僚達です。
機関科将校たちに少尉候補生達です。




前列の真ん中に座るのが宮崎機関大尉(当時)です。







奥様との写真です。和装に日本髪は珍しいですね。


海軍機関少佐時代です。






〜第十五航空隊(第二聯合航空隊)整備長 時代〜




大村で第二聯合航空隊に編入された第十五航空隊は昭和13年7月に安慶に
進出。これより以後、一連の漢口攻略作戦の枝作戦に従事しました。写真は、
安慶に到着したばかりの陸戦服姿の整備長 宮崎中佐です。
上の写真の左側が安慶飛行場で道路で繋がった右上が本部や宿舎など
になっています。かなり離れていますが、余りに近すぎても空襲や爆撃で
飛行場もろとも全員が戦死しかねませんので滑走路と離れて施設を置く
のは当然の事となります。
本部庁舎や宿舎など滑走路から離れた基地施設の全景です。
滑走路わきのピストなど施設です。
整備科の本部です。
寛いでいます。
侍従武官を囲んで二聯空幹部の記念撮影です。
整備長の宮崎中佐を囲んで整備科士官の記念撮影です。


整備科の本部と裏手が士官宿舎。下の写真は中庭と車庫です。


奥が揚子江でその手前が安慶市内です。写真の下に
続く道を下れば基地(飛行場)に至ります。


大量の軍需物資や食料は揚子江を通して陸揚げされます。
自転車からタイヤまで…ありとあらゆる必要物資が集積され
ています。下は毎日、切れ間なく来る日本の輸送船です。当
然、護衛なしでは航行できません。海賊・匪賊となんでもあれ
の支那です。


安慶城と城壁です。
整備科の幹部の皆さんです。


寛いでおります。今も昔も日本のおじさんは変わりが無いようです。
敵襲で撃墜した基地周辺の中国軍機の残骸です。
空襲で戦死した整備科の下士官の悲しい火葬写真です。
空中から見た敵襲の爆撃痕です。
半地下の土塁の高角砲陣地から対空砲が空を睨み
端で兵が双眼鏡で監視している基地の防空状況の
写真です。
安慶城の城壁近くに作られた防空壕です。
本国で宮崎中佐の帰りを待つ御家族です。中佐は留守部隊と
記載しておりました。
輸送船部隊を見送りに出た宮崎中佐。
左は帽振れで出撃する航空機を見送る整備科員達です。

戦闘が終わり安慶より更に内陸の九江へ進出です。右上は中国軍が
撤退の際に揚子江に船を沈め閉塞した障害物です。
上下は九江で中国軍が撤退の際に堤防を決壊させ飛行場を使えないように
水浸しにした光景です。堤防を再び護岸工事し飛行場の水抜き工事をして整
備し九江飛行場を短期間で使用可能にする設営隊の働きも今となると大した
労力だと感心します。手前の市街で水が引くまでは聯空本部は駅庁舎を12空
本部はプラットフォームを使用したようです。


使用可能になった九江飛行場です。右上はズラッと列線に並ぶ九六式艦戦です。
左上は飛行場を二分する二つの航空隊を上空から見た写真です。左側の航空機
が点在する方が12空で右の航空機の集団が15空です。
九六艦戦もこれだけ居並ぶと迫力があるものですね。


 写真が劣化で傷んでいますが九七式艦攻が翼を休めています。
下の天幕の間から覘くのも九七式艦攻です。

十五空の九七式艦攻


上は束の間に野球を楽しむ航空隊の隊員達。左は飛行場の周囲の壕に
敵兵が打ち捨てて残して行った支那兵の遺骨が散乱している写真です。




十五空の幹部士官の指揮所前での記念撮影です。
左上は、十五空の整備科の准士官以上の集合写真。右上は来訪した弟さんとのツーショット
です。弟さんは民間船の船員をされているようで制服からもオフィサーのようです。
珍しい十五空の正門前です。衛兵所の横で立哨中の水兵がおります。
売れっ子作家の文士先生の慰問の記念撮影です。


高名な藤田画伯が慰問に来られて司令の似顔絵を描いている
のを宮崎整備長等が覗き見している写真です。
この通路の突き当りすぐ左の部屋が宮崎中佐の私室(寝室)です。


九江にて撮影されたセバスキー2PA-B3複座戦闘機
実に整備科らしい写真です。




左上は、九七式艦攻です。右上は九六式艦戦です。






















































































    

             
昭和13年11月15日の東京日日新聞(現在の毎日新聞)の誌面で漢口攻略戦を振り返る
座談会に出席しています。その発言部分を切抜きして拡大してみました。以下、


こうして一部の部隊を支那に残し大半の第十五航空隊は、大村へ帰還し部隊は解隊されます。この隊からは有名な軍神・南郷 茂章少佐など多くの戦死者を出しており画像は、慰霊祭の模様を写した写真です。(尚、陸軍の軍装品の方で南郷少佐の弟で同じく陸軍航空隊のエースパイロットとして活躍した撃墜王 南郷 茂男 陸軍大尉の所縁の品を展示しています。興味のある方は以下のバーナーをクリックして下さい。
                      ↓
                



南郷家から出た南郷 茂章 海軍少佐の生写真
高名な撃墜王である軍神・南郷 茂章 海軍少佐






上下共に戦後間も無くの頃の葉書です。共に宮崎大佐の御自宅に
宛ててのものです。この中に廠長とありますので…工廠の分廠か
燃料廠の分廠…そうした部門の廠長にて敗戦を迎えられた事がわ
かります。トラックから復員して引揚てきた旧部下の方でしょうか…
復員所まで出向いて面会に出かけた事に対してお礼の言葉が記載
されております。








     江口 巳一 海軍兵曹長の御遺影 

(当サイトのBBSの常連でお馴染みの
    聯合艦隊様の戦死された叔父上の
                   御遺影です。)




詳しい事を知らされる前に御身内が他界されて、叔父上様が江口 巳一
という名前で准士官である海軍兵曹長でイ号潜水艦に乗り組みで戦死
されたことしか覚えていないそうです。叔父上様は結婚され幼いお子様
も居られたようですが戦死後すぐに御夫人もお子様と共に後を追うよう
に相次いで他界され…この水兵姿の写真のほかには何も残っていない
そうです。そして聯合艦隊様の母上様(こちらの江口 兵曹長の姉上)も
また早くに他界されている為、叔父上の遺骨やお墓の所在も不明のま
ま現在に至っているそうです。
佐世保海兵団のペンネントに袖章も何も無い若い少年のような様子から
佐世保海兵団に入団した当初の四等水兵の時の記念写真と想像します。
佐世保の金子写真館で撮影されてものです。
先の大戦では…戦争で空襲で引揚中に戦死されたり殺されたりと軍人として
だけでなく同様に民間人も多く犠牲になり…係累を全て失い無縁仏に入って
いる方々も大勢い居られると思います。…兵士も民間人も同じ日本人で犠牲
になられた全ての方に安らかに眠られるようにお祈りするばかりです…。







我、心の師…椿様が作成して下さりましたプラモの
   商船”ぶら志``る丸”と”あるぜんちな丸”の二隻




優美な外観と豪華な内装が評判の大阪商船(現在の商船三井)の”ぶら志゛る丸”
と僚船の”あるぜんちな丸”の二隻の豪華客船です。
”ぶら志゛る丸”は、処女航海でインド洋周りの世界一周航海を行った後
移民の輸送などの目的で南米航路に就航しましたが、第二次世界大戦
の激化を受けてわずか3航海をもって大連航路に配転され、後に海軍に
徴用されました。徴用中の昭和17年、航空母艦に改装のため日本へ航
海中に同年8月5日にトラック沖合で米海軍の潜水艦”グリーンリング”の
雷撃に遭い沈没しました。
”あるぜんちな丸”は、西回り世界一周航路(神戸〜基隆〜シンガポール〜
ケープタウン〜サントス〜パナマ運河〜神戸)の豪華客船として昭和14年に
竣工。その際ブラジル官憲から「なぜ、寄航もしないのにアルゼンチンなのか
?」と詰問されたという笑い話が残されている。翌年、第二次世界大戦の勃
発のため大連航路へ転配。昭和17年に海軍に売却されると航空母艦”海鷹”
へと改造され、敗戦後に解体処理されました。























昭和14年当時の”あるぜんちな丸”


”あるぜんちな丸”が改造され空母”海鷹”に生まれ変わる。







正木 義太 海軍中将 自筆書「観世音菩薩」







        ◆ 正木 義太 海軍中将 ◆

                (略 歴)

 明治4年10月25日生 広島県出身

 海軍兵学校(21期)

明治28年12月 任海軍少尉任官(佐世保鎮守府海兵団分隊士)
明治32年 9月 「比叡」分隊長兼航海長(豪州回航)
          「鳥海」分隊長、同航海長
          呉水雷団第2水雷艇隊艇長
          「橋立」分隊長、艦政本部副官
明治36年 5月 「富士」分隊長
          海兵航海術教官兼監事
          「高砂」分隊長
明治37年 1月 「高砂」砲術長
明治37年 2月 旅順港閉塞作戦
明治37年 4月 佐世保鎮守府付
          海兵砲術教官兼監事
明治38年 8月 任海軍少佐

明治39年 1月 海軍大学校(選科学生)
明治39年 4月 砲術練習所教官兼分隊長
明治40年 9月 海軍教育本部員、海軍砲術学校教官
明治42年10月 任海軍中佐
明治42年12月 「薩摩」砲術長、兼横須賀海軍工廠艤装員
          造兵監督官(イギリス出張)
          艦政本部艤装員兼造兵監督官
          造兵監督官兼英国駐在
          「金剛」副長兼艦政本部艤装員
           造兵監督官を歴任。

大正2年11月  海軍省出仕、横須賀鎮守府付、艦政本部員
大正3 年 9月  第2艦隊付兼重砲隊指揮官 青島の戦いに参戦。
大正3年12月  任海軍大佐「橋立」艦長。
大正4 年 2月  海兵教頭兼監事長
大正6 年12月  戦艦「河内」艦長
大正7 年 7 月 「河内」徳山湾にて火薬庫の爆発事故により爆沈
大正7 年 9月  呉鎮守府付、呉海兵団長兼「石見」艦長
大正9 年12月 任海軍少将。呉鎮守府参謀長
大正11年12月 舞鶴海軍工廠長
          舞鶴要港部工作部長
          横須賀海軍工廠長
大正13年12月 任海軍中将
大正14年 4月 軍令部出仕
大正14年 7月  待 命
大正14年12月 予 備 役

昭和9年10月29日 逝 去








佐藤 鉄太郎 海軍中将 自筆二行書














              ◆ 佐藤 鉄太郎 海軍中将 ◆

慶応2年7月13日〜昭和17年3月4日。海軍中将。山形県鶴岡市出身。
旧制鶴岡朝陽学校より海軍兵学校第14期入校。入校時成績順位51名
中第6位、卒業時成績順位45名中第5位。日清戦争に砲艦「赤城」航海
長として参加。その際、艦長が戦死し代わりに艦の指揮を執る。その後海軍
大学校教官などを経て、日露戦争には上村彦之丞率いる第2艦隊参謀と
して参加。仮装巡洋艦香港丸・日本丸の南洋派遣に同行[1]。日本海海
戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り、的確な意見具申を行ったことで勝
利に貢献した。日露戦争後に海軍大学校選科学生在籍のまま同時に
海軍大学校教官に任命されると言う一見すると矛盾の様に見える人事を
拝命するが、当時は海軍大学校が開設されて日も浅い事から学生のまま他
方自己の専門分野を他の学生に教授する事例も存在した様である。軍令
部次長や海軍大学校校長、舞鶴鎮守府司令長官などを務めたが、
加藤友三郎と軍縮を巡る見解の溝が埋まらず大正12年に予備役に編入さ
れる。昭和9年勅選の貴族院議員となる。陸軍の東條英教陸軍中将と並
ぶ戦史研究の大家と称されていた。
 
               出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







中里 重次 海軍中将 自筆 一行書





         ◆ 中里 重次 海軍中将 ◆

 明治4年8月28日 - 昭和21年年1月20日

 山形県出身、山形県中学校から攻玉社
 海兵(20期)


               (略 歴)


 明治27年   任少尉候補生「葛城」乗組:日清戦争に従軍
 明治28年3月 任海軍少尉任官

          海軍大学校乙種学生
          「明石」砲術長
          海兵教官
          日露戦争「橋立」砲術長
           「常磐」砲術長、
          軍令部参謀
          海軍省軍務局員
          イギリス駐在
           「阿蘇」副長、
          軍務局員
          軍令部参謀
          「春日」艦長
          「磐手」艦長
          軍令部第2班長
大正7年12月  任海軍少将
          軍需局長
大正10年12月 任海軍中将
          舞鶴要港部司令官
大正13年6月   予 備 役

    オハ油田の北樺太石油会社の初代社長








戦前資料:満洲航空の記念バックル




未使用で仕舞ってあったバックルと思われます。まるで最近の新品のようです。









戦後日本の宇宙技術の結晶と誇り…

 H-II A ロケット 発射台付(1/400)完成品模型
         (スペース ドラゴン ウイングス)




日本が世界に誇る主力大型ロケットとして「あかつき」、「IKAROS」、
「かぐや」など多くの人工衛星を打ち上げてきたH-IIAをプラッツとドラ
ゴンの共同開発により完全新金型で完成品モデル化したものです。
日本の主力大型ロケットであるH-IIAは、日本初の純国産ロケットで
あるH-IIロケットで培われた技術をベースにして、高い信頼性と打ち
上げの低コスト化を目指して、さまざまな打ち上げ能力要求に応える
べく、5年半の歳月をかけて開発されました。
H2A ロケットは、2001年8月に初めての試験1号機の打上げに成功し
以降、月周回衛星「かぐや」、金星探査機「あかつき」、準天頂衛星初
号機「みちびき」など、さまざまな衛星を各ミッションに応じた軌道に投
入してきました。これからも日本の宇宙開発において信頼性、経済性
ともに優れた基幹ロケットとして活躍することが期待されています。
H2A 202 型と呼ばれる、左右にSRB-A 固体ロケットブースタを装備した
現在も運用中のタイプを模型で完全再現。ロケット本体はダイキャスト製
細部パーツはプラスチック製。またロケット本体だけではなく、移動発射台
(ML)付きです。今年度中には観測衛星「しずく」を搭載したH2Aの打ち上
げが予定されています。





2011年1月22日  H2B 2号機打ち上げ  こうのとり




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JAXAの公式サイトが開きます。

















             性能緒元             
 排 水 量  基準:740t
 全 長  69.5m
 水 線 長
 全 幅  8.6m
 吃 水  3.05m
 機 関  蒸気タービン1基1軸 2,500馬力
 燃 料  重油 240トン
 最 大 速 力  17.5ノット
 航 続 距 離  14ノットで4,500海里
 乗 員  141名(計画)
 兵 装 (計画時)
45口径12センチ高角砲 単装2基
25mm三連装機銃2基
三式迫撃砲単装1基[1]
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
爆雷120個
 同 型 艦  143隻(計画)            
 67隻(完成)



















小さな1250分の1スケールも数を並べると結構、迫力が出てきます。
戦艦”武蔵”に空母”隼鷹”も護衛の巡洋艦群の中に鎮座しています。




病院船”氷川丸”と”あるぜんちな丸”です。


新たに加わった軽巡と駆逐艦、潜水艦の1250分の1です。