旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_5










Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








 第七五二海軍航空隊 攻撃第五飛行隊
  神風特攻隊 第七御盾隊で敗戦の二日前に
   出撃戦死された 田中 憲一 海軍少尉の手紙

〜嗚呼、幻の艦上攻撃機”流星”(B7A1)
          …母艦無き悲しき攻撃機の最期〜




敗戦の2日前の8月15日に艦攻”流星”の操縦桿を握り
木更津から米機動部隊に向けて特攻による攻撃を加え
戦死した田中 憲一 海軍上飛曹が4か月前の4月18日
にご家族に宛てた手紙です。








第七御盾隊で最年少で参加し戦死した
田中 憲一 上飛曹です。8月13日に出撃
し戦死されました。(戦死後、二階級特進
し海軍少尉)
昭和20年8月13日、米海軍第38任務部隊は早朝から艦載機を
上げて東京を中心に関東各地の都市の地上に僅かに残る建築
物を虱潰しに攻撃しました。前日の8月12日に海軍総隊司令長
官の小沢 治三郎 海軍中将の名で全軍に通達があった決号作
戦兵力の温存を考慮する事無く敵機動部隊の撃滅に努めるべ
しの命令があり、早朝に木更津から索敵に飛び立った彩雲2機
のうち1機が犬吠崎沖の敵機動部隊を発見。百里基地から昼過
ぎに4機の彗星が出撃、木更津の攻撃第五飛行隊では断続的に
飛来し攻撃を加える敵艦載機の切れ間をぬって正午過ぎからま
ず第三区隊の2機の流星が発進、その後は時刻が不明のまま第
二区隊の2機が(田中 上飛曹も)出撃しました。そして残る第一
区隊も15時までに出撃を終えました。こうした状況下の出撃の為
先の第二次流星隊で行われた記念撮影も無く…出撃離陸の際の
帽振れの見送りも無いあっという間の別れとなった模様です。

〜昭和20年8月13日に出撃し戦死された隊員〜

 神風特別攻撃隊 第七御盾隊 第三次流星隊 

 木更津基地発 犬吠埼沖機動部隊攻撃

 聯合艦隊告示195号


               (流 星) 


一区隊 一番機

 操縦  酒向 公二 一飛曹  (岐阜・丙飛11期)
 偵察  元  八郎  中尉   (石川・海兵73期)


二区隊 一番機

 操縦  弘寺 富士人 上飛曹 (廣島・丙飛7期)
 偵察  砂川 啓英   中尉  (沖縄・予備学13期)


二区隊 二番機

 操縦  田中 憲一  上飛曹 (福岡・甲飛12期)
 偵察  山中  誠   少尉  (茨城・予備生1期)



三区隊 一番機

 操縦  上大迫 克巳  中尉 (鹿児島・予備学13期)
 偵察  西森 良臣  上飛曹 (高知・乙飛16期)


…合計4機8名が特攻で戦死されています。しかし実際
の出撃は更に2機多く、離陸後に不調で引き返した機体
が2機あります。以下、

 一区隊 二番機

 操縦  野内 太利蔵 一飛曹 (丙特11期)
 偵察  川上 長吉  一飛曹 (乙飛18期)


 三区隊 二番機

 操縦  川嶋 康男  上飛曹 (甲飛11期)
 偵察  林 松雄    一飛曹 (乙飛18期)


この僅かな出撃機数に対して不思議に思われるのはこの区隊
であります。大がかりな攻撃部隊であればまだしも…僅か6機
を三区隊に分ける意味は?…これは既に計り知れないほど敵
機動部隊の航空兵力との戦力差が開き過ぎてしまい…攻撃機
や爆撃機が10機〜20機に護衛の戦闘機を10〜20機程度を
付けた戦爆連合40〜50機が例え、100〜200機であっても最
早、空母17隻を集めて移動しレーダーで待ち受ける米海軍の
航空戦力の前には歯が立たない現状の前で唯一、相手にダメ
ージを与えうる可能性を考えた場合、少数機1〜2機を多方面か
らバラバラにゲリラ攻撃を掛けた方が成功率が高いとの考えが
攻撃隊内で主流を占め、戦闘機の護衛を付けずに区隊単位で
随時発進し攻撃を加える形の戦法の為です。…また特攻に際し
ては爆弾は投下を前提としないので邪魔なヒレを省き腹に抱い
て突入したウルシー白地の銀河隊と同様にこの木更津の流星
隊もヒレ無しの八十番を抱いて出撃した模様です。
上の図は Task Force 38(ハルゼー大将率いる第38任務
部隊)が昭和20年8月13日に行った行動の記録と日本軍
から受けた攻撃を記載した図です。尚、この第38任務部隊
は空母を17隻と多数の護衛艦艇から形成される強力な機動
部隊で敗戦の2日前の13日に攻撃を受けた陸海軍の日本軍
航空部隊からのものが記録されています。この日、米機動部
隊に攻撃を仕掛けた日本機は12波に及びます。以下、

    時間       機種及び撃墜数

 1、 0520    MYRT(彩雲) 1機
 2、 1126    NICK(二式複戦”屠龍”) 1機
 3、 1201    GRACE(流星) 1機
 4、 1309    MYRT(彩雲) 2機
 5、 1343    GRACE(流星) 1機
 6、 1404    JILL(天山)   1機
 7、 1600    JILL(天山)   1機
 8、 1628    JUDY(彗星)  2機
 9、 1629    MYRT(彩雲)  1機
 10、1642    GRACE(流星) 2機
 11、1646    JUDY(彗星)  1機
 12、1657    FRANK(四式戦”疾風”) 1機

…この中で色を変えた3、5、10回目に撃墜された流星…4
機が木更津基地から出撃した第七御盾隊の流星と考えられ
ます。時間軸で考えれば10回目の1642の二機の流星が第
二区隊の田中機たちであると考えます。米軍側の記録から
木更津から発進した第七御盾隊 第三次流星隊は遂に戦果
を挙げることが出来なかった事がわかります。


後日、同期生で生き残った古賀 一朗 元上飛曹の話では出
撃の前の夜…明日の出撃が初めての重い八十番を抱いての
離陸となる事を心配し…『うまく飛びあげれるだろうか?』と心
配していたと謂います。爆装での離陸や爆装した状態で敵機
から回避する訓練の一切を受けていない若い未熟な搭乗員
がぶっつけ本番でベテラン搭乗員が乗る米戦闘機が雲霞の如
く待つ死地に飛び込んでいく事を想像すると絶望的な気持ちに
なります。しかも運よく敵戦闘機の厚い層を潜り抜けても重厚な
敵艦艇のVT信管(近接信管)による対空砲火網が待ち受けて
います。ベテランの搭乗員でもこの二重の関門を潜り抜けて敵
艦に到達するのは至難の技です。流星を飛ばす事がやっとの
未熟な搭乗員が戦果を挙げる確率は一体どの程度と試算して
いたのか…非常に考えさせられます。…離陸に関しては本人の
心配は杞憂に終わり、見事に八十番爆弾を抱いて離陸し南西
の空に飛び立っていったと謂います。
左上は戦後の米軍による航空写真ですが出撃した木更津基地です。右上が現在で
陸自の木更津駐屯地です。滑走路は今も自衛隊が使用しています。
第七五二海軍航空隊 攻撃第五飛行隊は…特攻隊が本土からも出るようになったころに
最新鋭機の流星を配備した部隊として、正攻法の決戦部隊たるべく猛特訓をつづけていし
た。そしてその期待のあらわれとして残存した真珠湾の生き残りの予科練出身の操縦者
等が集結しました。艦爆としても艦攻としても使え戦闘機並みの速度と武装を持つ万能機
である最新鋭機の”流星”は
一部が横須賀海軍航空隊で実験機として使用されたが、敗戦
までに実戦部隊で”流星”を装備したのは、この第三航空艦隊所属の第七五二海軍航空隊
攻撃第五飛行隊のみでありました。量産型の流星一一型は生産が昭和19年4月から行わ
れているが、高性能な機体ゆえに、またB-29による爆撃と昭和19年12月7日に発生した
東南海地震による工場の被災もあり生産は遅々として進まず、生産拠点の分散の為、大村
の第二一海軍航空廠での転換生産も行われていたが、やはり生産速度は上がらず敗戦を
迎えるに至りましたが…その最終的な生産機数は試作機9機を含めても約110機と少ないも
のでありました。しかしその僅かの中で唯一、実戦で使われたのがこの攻撃第五飛行隊でし
たが、既に正攻法で仕掛けうる余裕も失われ…攻撃も僅か稼働しうる5〜6機の少数で戦闘
機の護衛もなく部隊単独で随時出撃し攻撃する状態でありました。結局は特攻するしか戦果
を挙げうる道はなく…正攻法を目指したこの部隊も敗戦までに第一次から第四次の御盾隊(
流星部隊)を出撃させるに至りました。そしてこの流星部隊より32名の戦死者を出しました。
昭和20年4月29日、攻撃第五飛行隊々員は香取基地の指揮所前で記念撮影した画像です。
愛知航空機で製造された流星の性能諸元データ
 制式名称             流星 一一型
 機体略号                B7A1
  全 幅  14.40 m(主翼折り畳み時8.30 m)
  全 長  11.49 m
  全 高  4.07 m
 翼 面 積  35.40 m2
 翼面荷重  161.02 kg/m2
  自 重  3,614 kg
正規全備重量  5,700 kg
 発 動 機 誉12型(離昇1,850馬力)/後期生産型は誉21型(離昇2,000馬力)
 最高速度  542.6 km/h(高度6,200 m)
 上 昇 力  6,000 m まで10分20秒
 航続性能  爆撃正規:1852km 
 航続性能  爆撃過荷:2982 km(海軍資料)/3037km(愛知資料)
 航続性能  雷撃過荷:2980km
  武 装  翼内20mm機銃2挺
  武 装  後上方13mm旋回機銃1挺
  爆 装  胴体500〜800kg爆弾1発、または250kg爆弾2発


木更津に移動前に錬成した香取基地の画像です。
逆ガル式の優雅な流星の機体が並んでいます。
三人の飛行服姿の士官の真ん中が攻撃第五飛行隊の隊長を務めた薬師寺 一男
海軍少佐です。
米軍のコードネームはグレースです。…優雅な流星にはよく似合う名です。


戦死そして敗戦から約4か月…福岡の故田中少尉の実家を
訪れ霊前に…この便箋に10枚の文章を捧げた宮崎 隆 海
軍中尉ですが…攻撃第五飛行隊の兵科士官にその名前は
無く…第13期飛行予備学生の生存者名簿にも存在が確認
されませんでした。…部隊の操縦・偵察に関わらず空中勤務
をする士官には一切、名簿上は存在しません。おそらくは整
備科や主計科など…搭乗員でない同じ隊の士官で顔見知り
になった人ではと想像します。








文章の内容からは…同じ搭乗員で明日の身も知れない覚悟を決めていた
士官という感じですが…実際には名簿にも名前の該当しない方なので…
搭乗員でなくとも本土決戦になれば最後の決意と考えれば…やはり同じ隊
の整備科・主計科や医務科等の士官だった可能性の方が高い気がします。











最新鋭機の流星が列線に並ぶ姿は圧倒されます。




搭乗員や整備兵の大きさと対比するとやはり大きな機体である事がわかります。


こちらは予科練(甲飛12期)生であったときに郷里の友人から
もらった便りでしょう。後から書いたのか余白に書き込みや裏
には絵が描かれていますが…やはり世相を反映しています。
そこに書かれたる心情は…今になっても何等、間違いは無く
敗戦になってから戦勝国に媚びるように自虐史観を国内で植
え付け…真実を封印するからこそ、現在のような歪な状況が
生まれていることがよくわかります。


8月9日の攻撃から白昼特攻攻撃に切り替えられた。その為か
出撃に対して特別に指揮所前で記念撮影が行われました。上
がその画像です。中央が752空司令の菊岡 徳次郎 大佐、左が
薬師寺 飛行隊長、左端が分隊長の美田 雄次郎 大尉、司令の
右横が同じく門松 安彦 大尉。飛行服の16名は、この日出撃の
神風特別攻撃隊 第七御盾隊 第二次流星隊8機です。尚、こ
の日は百里基地からも601空 攻撃第一飛行隊の彗星12機も
出撃しました。この合計20機が今のこの方面の海軍が強大な米
機動部隊に対して出せる最大戦力でした。

〜昭和20年8月9日に出撃し戦死された隊員〜

 神風特別攻撃隊 第七御盾隊 第二次流星隊
 
 木更津基地発 金華山沖機動部隊攻撃

 聯合艦隊告示195号

             (流 星) 


一区隊一番機

 操縦  茨木 松夫 中 尉   (鹿児島・海兵73期)
 偵察  田中 喜芳 上飛曹  (香川・乙飛15期)


一区隊二番機

 操縦  拵  和夫    一飛曹  (鹿児島・丙飛16期)
 偵察  吉野 賢示    一飛曹  (静岡・甲飛12期)


二区隊一番機

 操縦  林  憲正 中 尉   (愛媛・予備学13期)
 偵察  横塚 新一 上飛曹  (東京・甲飛9期)


二区隊二番機

 操縦  高須 孝四郎 一飛曹  (愛知・丙飛15期)
 偵察  小松 文男   一飛曹  (秋田・甲飛12期)


三区隊一番機

 操縦  島田 栄助 上飛曹  (東京・丙飛10期)
 偵察  笹沼 正雄 中 尉   (宮崎・予備学13期)


三区隊二番機

 操縦  曽我部 譲 上飛曹  (愛媛・丙飛16期)
 偵察  野邊 貞助  一飛曹  (宮崎・乙飛18期)


…結局、出撃8機16名のうち発進後に機体不調で引き
返した2機4名を除く、6機12名が特攻にて戦死されま
した。


敗戦後に木更津基地で撮影された流星
米軍に引き渡される前の流星
そして昭和20年8月15日…敗戦の日、最期の空戦が関東で繰り広げられ
ました。早朝5時に千葉。勝浦の電探が敵艦載機の襲来を探知、茂原基地
より252空 戦闘304飛行隊の零戦が稼働全機(機数不明で20〜40機前
後)が迎撃に向かい…厚木の302空から零戦と雷電が合わせて10数機程
度が迎撃に上がりました。木更津では敵機動部隊を求めて索敵機を飛ばし
たが中々、発見でき無い中、午前10時50分に第七御盾隊 第四次流星隊
の第一区隊二機を発進させました。うち一機が主脚が引き込まず引き返し
午後に予定されていた第二区隊の発進は正午に…玉音放送があり敗戦の
為、午後の出撃が中止となり…午前中に出撃した1機だけがこの部隊の最
期の特攻出撃機となりました。


      〜昭和20年8月15日に出撃し戦死された隊員〜

 神風特別攻撃隊 第七御盾隊 第四次流星隊 

 木更津基地発 勝浦南東機動部隊攻撃

 聯合艦隊告示195号

                  (流 星) 


第一区隊二番機

 操縦  縄田 准二 一飛曹  (福岡・丙飛14期)
 偵察  中内  理  一飛曹  (高知・乙飛18期)




今流行りの144分の一スケールのウォーバードデスクコレクション
に流星の752空バージョンが存在していたので掲載します。
逆ガル式の翼がとても優雅です。



















聨合艦隊司令長官 山本 五十六 海軍大将が
 三枝 恵作 海軍軍醫中佐に聨合艦隊司令部
    (戦艦 大和)より送った肉筆の郵便筒包み
     そして嶋田 繁太郎 海軍大将が三枝 中佐
      の御子息に贈られた”敬神崇祖”の肉筆書




連合艦隊司令長官 山本 五十六 大将(元帥)の郵便小包(筒)
に書かれた自筆の書(肉筆・宛名と署名)です。
署名は"連合艦隊司令部 山本 五十六"と書かれてあります。
昭和17年4月に、連合艦隊旗艦 戦艦"大和"の連合艦隊司令
部から静岡市の三枝 恵作 海軍軍医中佐に送ったものです。
(三枝 恵作 軍医中佐は「追悼山本五十六」(新人物往来社編
新人物文庫)に思い出を語る記事が掲載されています。その中
にこの郵便小包のことが記載されています。)。三枝 軍医中佐
は、日本海海戦で左手指を負傷した高野候補生(山本五十六)
の指の治療、切断手術の介助をした外科助手でした。執刀医グ
ループの中の軍医として以後、山本 元帥と親交した人です。
なお、この筒の中には嶋田繁太郎海軍大将の書(肉筆)が入っ
ておったようです。その書には”敬神崇祖”、皇紀二千六百四年
初秋 為三枝弘之君と書かれていますので昭和十九年九月頃の
嶋田大将が海軍軍令部総長を辞めて軍事参議官の頃と想われ
ます。この時点で山本五十六元帥はすでに戦死していますので、
実際にはこの郵便筒には嶋田大将の書は入っていなかったので
すが、三枝家の人が入れて保管したと考えられます。もともとこの
郵便筒の中には山本元帥の書が入っていたと推察されますが、
その行き先は不明です。因みに山本元帥と嶋田大将は兵学校同
期(32期)です。奇しくも同期生の書いた書の包みに別のコレス
の同期生の書が戦後長らく入れられていた事になります。またコ
レスですがご存じのように山本元帥は今も非常に人気が高い提
督ですが…嶋田大将は対照的に非常に人気がありません。
この山本 元帥の郵便筒は結構大きくて、長さが61.7cm
直径が7.5cmあります。












嶋田 大将の書は、長さ133cm、幅33.6cmです。








確かに文中の中に内包みも外包みも直筆で送って下さりとあります(赤線)。
中には其々、三枝 中佐の御家族に宛てた墨書きの書があった記載があり
ます。そして最後に亡くなられた提督に贈ろうと育てた蘭の一鉢ですが、提
督の戦死で贈る事が適わず…同期生であった嶋田海相(既にこの時は辞め
ておりますが)を煩わして贈った事も記載されております(黄色線)。そして
山本長官からの書は後世まで家宝として子孫に伝える旨の記載もあり(青線
)…恐らく今も三枝家で家宝として大切に保管されているものと想われます。
またこの誼で嶋田 大将からの御子息への為書が山本長官の書が入れられ
ていた事も納得がいきました。













四等水兵から叩き上げて特務士官の最高位
   を極めた室野 猛 海軍機関特務大尉の紙物資料
    
 
〜17歳で志願し50歳で軍歴32年
    の現役生活を終えた海軍々人の記録です〜


(嗚呼、特准…栄光の海軍を支えた縁の下の力持ち)




運命のの日米開戦の前年の支那事変従軍記章の証
です。昭和17年の海軍義済会名簿(海軍士官総覧)
に海軍少佐に昇進していれば掲載されている名前が
ありませんので昭和17年の改正で特務士官制度が
廃止される前に海軍機関特務大尉で軍歴を終えたも
のと推察されます。それでも一兵卒から叩き上げて陸
軍と違い貴族趣味で差別が激しい海軍にあって特務
士官の最高位たる特務大尉になるのは中々、大した
ものです。航空科のように消耗が激しく時代の寵児の
ような特殊な兵科は特に昇進も早く多くの特務士官を
輩出しましたが…その他の兵科・機関科ではそうそう
とんとん拍子に見られるものでありません。
惜しくも特選少佐に上れなかったものの
特務大尉は最終階級であり、兵隊大将
のような階級です。そして特選の少佐以
上は兵隊元帥のようなものです。こちら
の室野 機関特務大尉は石川県の士族
出身です。しかし四等機関兵から出発し
水兵から下士官、准士官、そして特務士
官へと叩き上げてキャリアを築いていま
す。当然、士族で学歴があれば兵からは
スタートしないので貧しく学問を修められ
なかった方だと思われます。その分を軍
で必死に頑張り抜きんでて四等機関兵か
ら11階級を昇進し特務大尉になられてい
る事に称賛の念を覚えます。もし家庭が
裕福である程度の学力が優秀であれば
海軍兵学校に進めれば…この11階級の
大尉は卒後、平時で約5年…戦時なら3
年です。学生時代を含めても7〜9年で
兵学校出が辿りつく道を約30年掛けて
飛び越えています。
室野 機関特務大尉は、昭和14年3月調べの水交社員名簿には
当時、(現役)機関特務中尉として名前が収載されております。
この昭和14年3月当時で佐世保市に住所の届け出で存在してお
ります。これ以降で機関特務大尉に昇進したものと思われます。






機関兵(水兵)から下士官になります。明治42年に四等機関兵でスタート
したと仮定して6年が経過しています。




下士官の最高位の一機曹です。ここまでで軍歴10年に達しています。
そして遂に准士官である機関兵曹長です。これで遂に士官と同様に短剣
を吊る身分になります(見かけ上は)。…軍歴約13年です。


昭和4年…海軍の禄を食み20年で特務士官になられています。
この室野 特務大尉が海機選修学生として海機を出たのか不明
ですが多分出ている事でしょう。戦時の航空兵の特務士官が…
四等水兵から大尉まで17年〜20年に比べると…平時が長いと
は謂え特務少尉までが20年です。大空のサムライで有名な坂井
三郎 中尉も特准ですが昭和8年四等水兵で昭和20年の敗戦で
ポツダム中尉になるまで12年です。海軍少尉に昭和19年8月任
官ですから(特務)少尉まで11年と戦場を渡り歩き修羅場を抜け
た期間が長い軍歴の方は昇進が本当に早いのが判ります。それ
だけ消耗率が激しい事を示しているのですが…。
特務中尉です。特務少尉任官から6年です。既に軍歴も26年です。
17歳で海軍に志願したと思われるので43歳です。


特務機関大尉の任命の証がありませんが一番最初の支那事変従軍記章
の証より昭和15年4月には特務大尉に昇進しています。昭和14年12月に
正七位に叙せられておりますので、この14年に特務大尉に昇進したものと
思われます。従って昭和15年4月25日の段階で軍歴31年、49歳を迎えて
います。1年後の昭和16年4月に50歳で定年を迎え予備役に編入されたも
のと想像します。この方はもう5年若く生まれて居れば特選少佐、そして更
に最高位の中佐も夢でなかったかもしれません。平時が長かった故に極め
られる頂はおのずと限定されるのは致し方無い事ですが…それでも機関特
務大尉


海軍で機関兵として水兵からキャリアを築き主に電気を扱う
機関兵だったようです。術科は全てが普通電気術で受講を
重ねています。大正9年では海軍で無く一般の電気事業主
任技術者検定六級を受けて合格しています。この上の大正
9年の合格証書の時で、一等機関兵曹で下士官の最高位に
昇進しています。下の普通電気練習生のの修了証書が一等
機関兵で大正元年です。明治42年頃に四等機関兵で海軍
に入ったものと想像します。明治25年4月25日生とあります
ので17歳で志願したものと思われます。


以下、写真は全て水兵〜下士官時代のものです。
大正元年の一等機関兵時代に海軍工期学校での普通電気術
練習生の卒業写真です。この水兵の中の一人が室野 一機兵
です。




大正5年の三機曹時代の写真です。水兵一名と前二列の士官・特准を除く
19名の下士官の何方かが後の室野 海軍機関特務大尉です。高等科電気
術練習生の卒業写真(海軍機関学校)です。


二機曹時代です。16名の下士官のうちの誰かです。












一機曹時代です。16名の下士官の何方かです。大正8年頃の海軍機関学校
での写真と思われます。


海機専修学生で卒業時の練習艦隊での集合写真と考えます。













松村 菊勇 海軍中将 自筆 めくり




松村 菊勇 閣下自筆による明治天皇の詩が
したためられた作品です。

 「おのが身は かへりみずして
        人のため つくすぞ人の
                 つとめなりける」


           ◆ 松村 菊勇 海軍中将 ◆

                (略 歴)

明治7年10月23日生、佐賀県出身

松村 安種 海軍少佐の二男。攻玉社を経て、明治29年12月
海軍兵学校(23期)を卒業し、明治31年1月、海軍少尉任官。
「和泉」航海長、常備艦隊参謀、第1艦隊参謀、大本営付など
を経て、日露戦争には「笠置」砲術長として参戦した。「松島」
砲術長を経て、明治40年12月、海軍大学校(甲種5期)を卒業
した。軍令部副官、フランス駐在、「春日」副長、海大教官、
第一艦隊参謀、第一南遣枝隊参謀、「筑摩」艦長心得、「笠置」
艦長心得、フランス大使館付武官、「常磐」「比叡」の各艦長、
佐世保鎮守府付などを歴任し、大正9年12月、海軍少将。
第二艦隊参謀長、海軍教育本部第一部長、軍令部出仕、第五
戦隊司令官、鎮海要港部司令官などを経て、大正13年12月、
海軍中将となり、軍令部出仕を経て、大正14年11月、待命とな
り翌月に予備役編入。同年12月、石川島造船会社に入社、同
常務、専務を経て、昭和8年4月から16年1月まで社長を勤めま
した。昭和16年年4月4日逝去。








布目 満造 海軍中将 肉筆「仁愛恭倹」額装用めくり




布目 満造 閣下により、
 「仁愛恭倹」の額装用の四字書の作品です。

【仁愛恭倹】
 情け深い心で人を思いやりいつくしむこと心、
 人に対して慎み深く、控え目に振る舞う行動を大切にしよう。



             ◆ 布目 満造 海軍中将 ◆

 慶応4年生、和歌山県出身。

                  (略 歴)



明治22年   海軍兵学校(15期)を卒業
明治23年   任海軍少尉
明治27年   「武蔵」分隊長心得(日清戦争に出征)
明治32年   任海軍少佐
同年12月   「金剛」航海長
         以後、兼「比叡」航海長、「出雲」航海長
         水路部図誌科科員などを歴任
明治37年   仮装巡洋艦「香港丸」航海長(日露戦争に出征)
明治38年   任海軍中佐、同月「三笠」航海長(日本海海戦に参戦)
         9月に佐世保鎮守府付
         以後、「富士」航海長、海軍省出仕、皇族付武官、
         「朝日」副長、「大和」艦長
明治43年   海軍大佐に昇進し横須賀鎮守府付
明治44年   「須磨」艦長
         以後、「秋津洲」「橋立」の各艦長
         佐世保海軍工廠検査官
         「相模」「薩摩」「榛名」の各艦長
大正 5年   任海軍少将、水路部長
大正 9年   大湊要港部司令官
同年12月   任海軍中将
大正10年   将官会議議員
大正11年4月  待 命
大正12年3月  予備役
昭和3年     後備役
昭和8年8月    退 役

昭和20年     逝 去








戦前資料:満洲航空の記念バックル




未使用で仕舞ってあったバックルと思われます。まるで最近の新品のようです。



















             性能緒元             
 排 水 量  基準:740t
 全 長  69.5m
 水 線 長
 全 幅  8.6m
 吃 水  3.05m
 機 関  蒸気タービン1基1軸 2,500馬力
 燃 料  重油 240トン
 最 大 速 力  17.5ノット
 航 続 距 離  14ノットで4,500海里
 乗 員  141名(計画)
 兵 装 (計画時)
45口径12センチ高角砲 単装2基
25mm三連装機銃2基
三式迫撃砲単装1基[1]
三式爆雷投射機12基
爆雷投下軌条1基
爆雷120個
 同 型 艦  143隻(計画)            
 67隻(完成)



















小さな1250分の1スケールも数を並べると結構、迫力が出てきます。
戦艦”武蔵”に空母”隼鷹”も護衛の巡洋艦群の中に鎮座しています。




病院船”氷川丸”と”あるぜんちな丸”です。


新たに加わった軽巡と駆逐艦、潜水艦の1250分の1です。