旧軍関連・戦前資料収載品
(軍装品...etc) Part Uz_3










Imperial Japanese Navy
  (大日本帝國海軍)


海軍の軍服・その他








三菱造船会長・三菱内燃機製造会長
  三菱電機会長を歴任した武田 秀雄
    海軍機関中将の勲記等の紙物資料




これまた珍しいビックネームの遺品です。武田 秀雄 海軍機関中将は
海軍軍人としてよりも退官後の実業家としての方が名声が高い方です。
何よりも三菱グループ御三家の一つ三菱重工(旧三菱造船)の会長を
はじめ三菱財閥企業の会長職を他に二社(三菱内燃機製造と三菱電機
)勤めてました。文久2年生まれで高知県香南市(旧野市町)出身、大阪
英語学校を経て明治11年海軍兵学校機関科に入学。明治16年に海軍
機関学校(旧二期)を卒業。フランス留学後、日清戦争を”厳島”乗組み
出征。以降は海軍軍令部、フランス駐在、艦政本部、海軍教育本部など
中央の役職に就く。明治38年4月、臨時煉炭製造所長に就任、煉炭製造
所長、海軍火薬廠火薬製造部長などを歴任し、明治42年12月に海軍機
関少将、明治43年12月、教育本部第3部長。大正2年12月、海軍機関中
将に昇進し海軍機関学校長に就任。大正3年4月に待命となり、同年6月
予備役編入となり海軍生活のキャリアを終えます。退官後は、三菱合資
会社顧問を皮切りに同管掌、三菱造船会長、同理事、三菱内燃機製造
会長、三菱電機会長を歴任しました。昭和17年2月16日に81歳で逝去さ
れます。
卒業前の試験証書です。1400点満点のうち1176点で同期
生の中で4番の成績です。TOP5ですので恩賜短剣組のエリ
ート学生と謂えるでしょう。
海軍少機関士(海軍機関少尉)時代の水雷術卒業証書です。
第二等成績ですから2番で卒業したと謂う事でしょう。
日露戦争の従軍記章之証です。丁度この時期は
海軍教育本部第二部長時代だと思われます。


こちらの武田氏が軍需産業で急成長した三菱財閥の重鎮の一人に
なったのは単に退役海軍の将官だったからだけではありません。戦
前、武田秀雄氏の伝記によると「家系は香宗我部を宗家とし、武田、
喜田、中山等の数家に分れたり」とあり、地元の小学校の校旗に
武田菱が使用されていたので、大正五年に新しい校旗を製作して
寄付したといいます。
同じ高知出身で岩崎家の家紋「三階菱」です。
甲斐武田氏の流れを汲む武田菱が三階菱を産み深い地元の関係に
あった事は想像にかたくありません。そして会長職を兼ねていた三菱
造船電機製作所から大正10年に三菱電機を発足させ創始者となりま
す。







海軍 操舵優等徽章




この操舵優等徽章も希少な優等徽章で
昭和5年4月22日制定の青メダルです。
箱の上部に痛みがありますが内部に痛みは
ありません。徽章本体に七宝の痛みがあり
ます。




裏面に所持者だった方の氏名・階級と軍籍番号
がナイフか何かでしょう。薄く彫ってあります。









海軍中将 久邇宮 朝融王 殿下
  が海軍大学校(甲種)卒業記念に
    銀座三越で作成された卒業記念章




非常に珍しい久邇宮家の家紋をあしらった昭和7年11月、久邇宮 朝融王
殿下の海軍大学校甲種学生 御卒業記念の記念章です。銀座三越謹製
で錨・鎖共に黄銅製で本体と鎖は、銀鍍金。旧久邇宮家の家紋の部分は
金鍍金になっております。

大きさ:錨部分・全幅72o、厚さ・8.6o、全長(鎖を入れて)130o、重量
:141g


久邇宮家の家紋です。



 徽章の久邇宮家の家紋の裏に当たる部分に”昭和7年11月
 久邇宮朝融王殿下 海軍大学校甲種学生 御卒業記念”と
 彫られています。


海軍大学校(甲種)卒業徽章は大正11年10月23日廃止になっており
当然、昭和5年12月1日入学で昭和7年11月26日卒業(21名)の殿下
の同期の卒業生達は拝授されませんでした。…誰か親しき方が卒業
祝いに殿下にプレゼントされたか、殿下が親しい者に幾つか作り記念
に下賜されたかのいずれかと想像されます。何れにしろ数はそう多くな
い希少な品である事は間違いがありません。
御皇室の品だけに箱の中身も全てが重厚かつ精緻に作られて
おります。箱の内部裏蓋の部分に”月かげのいたらぬ里は 
 なけれども ながむる人にぞ すむ ”と、殿下の辞世と思われ
る詩歌が刺繍されております。



◆海軍中将大勲位功四級 久邇宮 朝融王 殿下◆

             ≪略 歴≫

明治34年2月2日    生誕
大正10年2月      貴族院議員(皇族議員)
大正10年7月16日  海軍兵学校卒業(49期)
             海軍少尉候補生・「出雲」乗組
大正11年4月8日   「霧島」乗組
大正11年5月25日  任海軍少尉・「山城」乗組
大正11年11月1日  「伊勢」乗組
大正12年12月1日  海軍砲術学校普通科学生
大正13年4月1日   海軍水雷学校普通科学生
大正13年7月4日   山城乗組
大正13年12月1日  任海軍中尉
大正14年1月26日  伏見宮知子女王と成婚
大正14年5月1日   「長門」乗組
大正14年12月1日  「阿蘇」分隊長
大正15年12月1日  任海軍大尉
             海軍砲術学校高等科学生
大正15年12月2日  第1王女正子女王誕生
昭和2年10月23日  第2王女朝子女王誕生
昭和2年12月1日   「陸奥」分隊長
昭和3年12月10日  軍令部出仕
昭和4年3月25日   第1王子邦昭王誕生
昭和5年12月1日   海軍大学校甲種学生
昭和7年5月25日   大勲位菊花大綬章受章
昭和7年12月1日   任海軍少佐
             「榛名」副砲長兼分隊長
昭和8年9月4日    第3王女通子女王誕生
昭和8年9月15日   軍令部出仕
昭和8年11月15日  「木曾」砲術長
昭和9年7月19日   「八雲」砲術長
昭和10年8月1日   軍令部員
昭和11年12月1日  軍令部第一部第一課員
昭和12年7月21日  第4王女英子女王誕生
昭和12年11月20日 兼大本営海軍部参謀
昭和12年12月1日  任海軍中佐・「長門」砲術長
昭和13年12月1日  横浜海軍航空隊副長
昭和14年10月10日 第1連合航空隊参謀
昭和14年10月18日 兼支那方面艦隊司令部附
昭和14年11月15日 任海軍大佐
昭和15年1月10日  横須賀鎮守府附
昭和15年4月29日  功四級金鵄勲章受章
昭和15年5月11日  第2王子朝建王誕生
昭和15年7月9日   「八雲」艦長
昭和15年11月1日  木更津海軍航空隊司令官
昭和16年9月18日  第5王女典子女王誕生
昭和17年3月20日  高雄海軍航空隊司令
昭和17年10月5日  南西方面艦隊司令部附
昭和17年10月21日  軍令部出仕
昭和17年11月1日  任海軍少将
昭和18年4月1日   第19連合航空隊司令官
昭和19年9月29日  練習連合航空隊司令部附
昭和19年10月1日  第20連合航空隊司令官
昭和19年10月7日  第3王子朝宏王誕生
昭和20年5月1日   任海軍中将
昭和20年8月25日  軍令部出仕
昭和20年10月15日 海軍省出仕
昭和20年11月30日 予備役
昭和22年6月28日  妃知子女王薨去
昭和22年10月14日 皇籍離脱
昭和34年12月7日   死去(享年 59歳)









ありし日の久邇宮御一家の写真です。まだ朝融王 殿下
が海軍兵学校生徒時代ですから大正7〜9年頃でしょう
か。手前で椅子に座わられている女性が良子女王であ
り後に昭和天皇の皇后になられます。皇太后となられ平
成12年6月16日に皇居吹上大宮御所で崩御。歴代の
皇后陛下の中でも最も長寿であられ97歳で身罷られま
した。”香淳皇后”と追号されて武蔵陵墓地に眠られてお
られます。







海軍 第四駆逐隊のペンネント













航空母艦 加賀 のペンネント

















航空母艦 鳳翔 のペンネント















軽巡洋艦 長良 のペンネント















昭和20年6月17日 北海道奥尻島沖で
 米潜水艦 Spadefish(SS-411)の雷撃で
  撃沈され戦死された特設敷設艦 永城丸 
    艦長 宰務 礎 海軍中佐(海兵66期)の
                      勲記等資料




敗戦の2か月前に輸送船改造の敷設艦の艦長と
なった宰務 礎 海軍大尉です。4月に着任して
僅かの間で艦と運命を共にします。二階級特進し
海軍中佐、軍神となりました。
宰務 礎 海軍大尉は堺中の出身でした。










戦時標準型2D輸送船を改装し特別敷設艦に
生まれ変わった永城丸です。艤装後僅か2か
月で米潜水艦 Spadefish(SS-411)の雷撃を
受けて殆ど活躍らしき活動をしないまま(沈没
前に一度、対馬沖で機雷を敷設した)北海道
の奥尻島沖で撃沈されました。
呉鎮守府所管の特設敷設艦です。沈没までのタイムラ
インです。以下、

所属は、当初、海上護衛総隊第十八戦隊
4月10日に戦時編制で聯合艦隊第七艦隊第十八戦隊
4月12日に呉海軍工廠にて艤装工事完了
4月30日に艦長:海軍大尉 宰務 礎 着任
5月31日まで呼子港。特設敷設艦”高榮丸”に横付け
機雷を搭載。出港し対馬海峡で機雷敷設作業を行う。
6月17日、北海道奥尻島沖で米潜水艦Spadefish(SS-
411)の雷撃により撃沈。8月10日、除籍・解傭。
兵装

四十五口径十年式十二糎高角砲1門

九六式二十五粍三聯装機銃2基、同二聯装2基、同単装4基

シ式七十五糎探照燈、九三式二米高角測距儀、機雷390個








上は海兵66期生の入校前(私服)の集合写真です。下は同じ
66期生の第一回古鷹山登山記念の集合写真です。この中に
シドニー湾に特殊潜航艇で突入し戦死され二階級特進の軍神
松尾 敬宇 海軍中佐や零戦乗りの撃墜王で戦後はJALのパイ
ロットに転身し生涯総飛行時間一万八千三十時間を数えた
藤田 怡与蔵 海軍少佐がおられます。


遺骨箱を抱えています。周りは遺族たちでしょうか…。
通礼軍衣姿の海軍大佐に中佐、少佐が二名居られます。







通信長 小山 海軍大尉の士官防暑帽に肩章




海軍士官防暑帽および海軍大尉肩章(旧型)です。
帽子と肩章に小山の記名があります。
残念ながら鉢巻部分が欠落しておりますが他に大きな痛み箇所などは認めら
れません。帽子内部のコルク部分に「貸与品」としてのスタンプおよび持主の
氏名と思しき墨痕が。そして汗取り皮付近に「通信長」と書き込まれたタグが
確認できます。旧型(大型)の海軍大尉肩章(まずまずの状態で特に欠点は
認められません)が付属します。
海軍大尉 小山通信長は何処の所属だったのでしょうか?
南方であれば小さな航空隊の通信長は大尉で務めます。
また軽巡や潜水艦などは通信長が海軍大尉です。
所持者だった小山大尉は戦後も無事に生きられたのでしょうか?















元A級戦犯…特命全権大使 本多 熊太郎 氏の書四点




三行書と二行書です。






           ◆ 本多 熊太郎 ◆
   
              (略 歴)

明治7年12月8日〜 昭和23年12月18日

明治・大正・昭和の外交官。
大東亜戦争中の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。
戦後はA級戦犯として逮捕。東京法学院(中央大学)法科
在学中の明治27年5月 外務省留学生試験合格、翌年の
明治28年8月 外務省書記生試験に合格し、外務省入省。

明治34年 小村寿太郎外相の秘書官となり、日露戦争の
       ポーツマス講和会議に随行。後藤新平の満鉄
       総裁当時,北京公使館の二等書記官となった。
大正7年  スイス公使。
大正13年 ドイツ大使を務めて退任。
昭和15年 松岡洋右外相に起用されて汪兆銘政権下の
       南京に中国大使として赴任。
昭和19年 東條内閣の外交顧問に就任。
昭和20年 連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯とし
       て逮捕され巣鴨刑務所に収監。
       その後,病気により釈放。



額装用のめくり二点です。















寫眞から見る戦時の青春群像…。




















最近発売されたばかりの連合艦隊司令長官”三船敏郎”の
冬服バージョンです。襟の階級章が貧乏臭くもう少しお金を
掛けて欲しい所ですが…凛々しい三船敏郎さんのイメージ
がしっかりできていて連合艦隊司令長官の威厳が感じられ
ます。
海軍士官短剣と軍刀は手抜きせず立派な出来です。



遅れて発売された連合艦隊司令長官”三船敏郎”の夏服バージョンです。